機動戦士ガンダム0092 サウス・ナポリの「キッカの家」 ホワイトベースの少女とシャングリラの孤児たちが、放課後のキッチンで幸せを盛り付ける話 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
宇宙世紀の経済指標は、往々にして庶民の空腹感と乖離している。
連邦政府が発表する生活安定化指数の裏側で、奨学生としてこの街に身を寄せる私の懐事情は、常にミノフスキー粒子が散布されたかのように視界不良だ。カイ・シデンさんからの匿名支援は、学費と最低限の家賃に消える。残されたわずかなクレジットを握りしめ、私は今日も夕暮れのサウス・ナポリを、獲物を探す偵察機のような鋭さで歩いていた。
「……あった」
場末のディスカウント・ショップの隅。照明の落ちかけた棚に、その白銀の宝物は積まれていた。
「もやし」。
宇宙世紀において、この植物ほどコストパフォーマンスに優れた生命体は存在しない。コロニーの限られた容積でも、水と温度管理さえあれば爆発的に増殖する。地球産とは名ばかりの、おそらくは近郊の植物工場から出荷されたであろうそれは、見切り品のシールを貼られ、数クレジットという端金で私に救いを求めていた。
カゴに入れたのは、もやし三袋、賞味期限当日の充填豆腐、そして端切れのちくわが詰まった袋。合計しても、学食のコーヒー一杯分にも満たない。
「今夜は、これで戦える」
私は誰にも聞こえない声で呟き、重力に逆らうように背筋を伸ばして、私たちの拠点である「ククルス・アパート」へと向かった。
アパートのキッチンには、すでに先客がいた。
キッカに連れられて以来、この場所を「部室」と呼んで憚らないリィナとエルだ。
「あ、ミリー。おかえり……って、何その大量の白い物体は」
エルが私の抱えたレジ袋を覗き込み、顔をしかめる。
「もやし、です。特売だったので」
「もやしって、あんた……。昨日の今日で、またそんな質素なものを。リィナ、あたしたちの会計担当、少し予算をミリーに回すべきじゃない?」
エルの言葉に、リィナは手元の情報端末から顔を上げた。彼女の瞳には、かつてシャングリラでジャンク屋を営んでいた頃の、逞しくて切ない記憶が宿っている。
「エル、ミリーは惨めでこれを買っているんじゃないわ。……これは『抵抗』なのよ。限られた条件の中で、いかに自分たちの生活を守り抜くかという、彼女なりの戦術なの。……そうでしょう、ミリー?」
リィナの静かな問いかけに、私は小さく頷いた。
そうなのだ。お金がないことを理由に、フード・コンポジターから出力される味気ないペーストに魂を売ることは、私にとって、あのベルファストでミハル姉さんが繋いでくれた命を軽んじることと同義だった。
「見ていてください。……これだけで、五人分のお腹を満たしてみせますから」
私はアナログな包丁を握り、戦闘を開始した。
まず、もやしの「ひげ根」を取る。
これは極めて地味で、時間のかかる作業だ。けれど、このひと手間が、未来のジャンク食と「本物の料理」を分ける境界線になる。もやし特有の青臭さが抜け、食感が格段に向上する。
「私、手伝うよ」
リィナが椅子から立ち上がり、私の隣に並んだ。
「リィナさん。お嬢様には、少し退屈な作業かもしれません」
「笑わせないで。これでも私は、シャングリラの路地裏で汚れたボルトを一つずつ磨いて売っていた身よ。根気のいる作業は嫌いじゃないわ」
二人で黙々ともやしと向き合う。
シュ、シュ、という、ひげ根を摘む微かな音が、キッチンの静寂を埋めていく。
エリート校に通い、地球連邦政府の恩恵を受けているはずの私たちが、今、全宇宙で最も安価な食材を磨き上げている。その矛盾が、どこか誇らしく、おかしくもあった。
下ごしらえを終えたもやしは、透き通るような白さを取り戻し、ボウルの中で宝石のように輝いていた。
私は、旧式の電磁調理器に火を入れた。
フライパンが熱を帯びるのを待つ間に、ちくわを極薄の輪切りにする。
「かさ増し」という、戦後を生き抜くための伝統的な戦術だ。
まずは、ちくわを空煎りする。油を使わず、表面を香ばしく焼き上げることで、練り物特有の旨味を凝縮させる。そこに少量の酒と醤油、そして宇宙食の粉末出汁をほんの少し加える。
「……いい匂い」
ソファで退屈そうにしていたエルが、磁力に引き寄せられるモビルスーツのように寄ってきた。
そこに、主役のもやしを投入する。
強火で一気に。
シャキシャキとした食感を残すため、加熱時間は三十秒以内。
最後に、水切りしておいた豆腐を大きく手で崩しながら加え、全体をさっと合わせる。
「もやしと豆腐の、ちくわ旨味炒めです」
さらにもう一品。
もやしの一部をさっと茹で、乾燥わかめと和えて、少量の酢と砂糖で味を整える。
「もやしのシャキシャキナムル」。
テーブルに並んだのは、白と緑が主役の、お世辞にも豪華とは言えない食卓。
けれど、そこに漂う香りは、化学的に合成されたものではない、確かな「命の匂い」がした。
「遅れましたわ! ……あら、今日はまた一段と、……ミニマルな光景ですのね」
ステファニーが、ルオ商会の息がかかった高級車から降り立ち、部室に入ってきた。彼女はテーブルを見つめ、少しだけ戸惑ったような表情を見せる。
「ステファニーさん。今日は『地球の豊かさ』はお休みです。……これが、私たちの日常ですから」
私が促すと、彼女はドレスの裾を整え、おずおずと椅子に座った。
「……いただきます」
五人で同時に、もやしを口に運ぶ。
「……ッ、何これ」
エルが声を上げた。
「信じられない。ただのもやしなのに、噛むたびに味が溢れてくる。このちくわ、魔法でもかけたの?」
「火の通し方が絶妙なのね」
リィナが、噛みしめるように言う。
「食感が失われていない。それでいて、豆腐が全体の水分を吸って、優しい味がするわ。……シャングリラでこれを知っていたら、兄さんたちともっと楽しく暮らせたかもしれない」
ステファニーは、ナムルを一口食べ、目を丸くしていた。
「……お酢の使い方が、とても合理的ですわ。もやしの淡白さを、この酸味が補っている。……私、コンポジターで出力される最高級の設定値よりも、こちらの方がずっと『情報量』が多い気がしますの」
情報量。
彼女らしい言葉に、私は少しだけ胸が熱くなった。
そうなのだ。
たとえ安物の食材であっても、誰かが手を動かし、時間をかけ、工夫を凝らしたその工程には、データでは再現できない厚みがある。
「ねえ、ミリー」
キッカが、口いっぱいに頬張りながら、私を見た。
「このもやし、なんだかベルファストの空に似てるね」
「え……?」
「透き通ってて、強くて。……でも、ちゃんと温かい。……ミリーがここにいてくれて、本当によかった」
キッカの言葉は、私の胸の奥に、かつてミハル姉さんが遺していった「後悔」という名の空洞に、温かいスープを流し込んでくれるようだった。
宇宙世紀0092年。
世界は、巨大な力を持つ者たちの意志によって、再び戦火という名の「最適化」を行おうとしている。
高性能な機体、大規模な作戦、壮大な理想。
けれど、そんな大きな物語の影で、数クレジットのもやしを磨き、笑顔で分け合う私たちのこの時間が、何よりも尊い「勝利」であると、私は信じたかった。
「ミリー、まだある? あたし、これならバケツ一杯いけるわ」
エルが皿を差し出す。
「私も、少しおかわりを。……明日の講義、頑張れそうな気がしますの」
ステファニーまでもが、ぎこちない手付きで箸を動かす。
私は、空になったボウルを手に、台所へと戻った。
蛇口から流れる水が、私の指を冷やす。
けれど、心臓の奥にある火種は、もやしを炒めたフライパンの余熱のように、いつまでも消えずに残っていた。
不穏な影が宇宙から迫っている。
宣戦布告まで、あと、三〇〇日。
それでも、私たちは明日もまた、この安っぽいテーブルを囲んで、生きていることを確認し合うのだろう。
「美味しい」という、ささやかな、けれど絶対的な真理と共に。