機動戦士ガンダム 美味しんぼ ロンド・ベルの究極、ネオ・ジオンの至高 逆襲のシャア前夜、ロンド・ベル寄港中の補給食堂 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
「ちょっとリィナ、その分量計算、本当に合ってるの? 麦の量がどう見ても少なすぎるんだけど……というか、これじゃただの薄い白湯じゃない!」
再開初日の朝。
旧実習棟の静まり返った調理場に、エルの容赦ないツッコミが響き渡っていた。
出せるものは、麦しかなかった。
米はない。卵もない。
乾燥野菜はラー・カイラム向けの補給便と避難者支援便の間で伝票が止まっている。
缶詰は港湾の別倉庫で再検査、油は前日の監査で出所確認中。
つまり、私たちの鍋に残っていたのは、正真正銘、ただの麦だけだった。
「麦粥……。はぁ、名前からしてすでに完全敗北って感じよね」
エルが大きな作業台に突っ伏しながら、心底嫌そうに呟く。
「負けていませんわ。麦は『水を吸わせる順番』と『加熱の段階』こそが命なのです」
リィナ・アーシタは、自信満々に1枚の工程表を掲げてみせた。
「1回目の浸水、15分。ザル上げ、5分。2回目の加水、通常の3倍。弱火で18分、火を止めて蒸らし7分。……完璧な計算です」
「長っ! 麦ってなんでそんなに面倒くさい性格してるわけ!?」
「食材に性格を押しつけないでください。あと、一番面倒な性格をしているのはエル、あなたです」
「今の、地味に傷ついたんだけど! 精神的ダメージ3割!」
「残り7割は?」
「……ぐぬぬ、当たってるから反論できない……」
リィナが眼鏡の奥で、ふふん、とばかりに小さく勝ち誇った顔をする。
その表情がほんの少し年相応に子供っぽくて、私は思わず吹き出しそうになった。
……けれど、笑うより先に、流し台の奥から「ごぼっ」と嫌な金属音が鳴り響いた。
現実は、いつだって雰囲気を読んでくれない。
使用停止の3日間で、旧実習棟のあちこちには新しい警戒標識が増えていた。
流し台の下には『漏水注意』の貼り紙。
電源盤には、チェーン・アギさんの几帳面な字で『電熱器2台同時使用禁止』の警告。
そして黒板の隅には、ブライト・ノア艦長が残したあの赤いチョークの文字が、まだくっきりと残っている。
1、利用人数未確定。
2、食材出所不明瞭。
3、責任者名なし。
全部、ぐうの音も出ないほど正しい。
そして、正論という名の正しさは、間違った暴言よりもずっと深く胸に刺さる。
私はポケットの手帳を開きかけて、そっとやめた。
朝から痛々しい現実をメモして増やす必要なんて、どこにもないのだから。たぶん。
「……ダメね。この麦、古いわ」
ボウルに張った水に麦を投入していたファ・ユイリィさんが、静かに呟いた。
水面を見ると、麦の粒の沈み方が極端にまばらだった。軽い粒はぷかぷかと浮き、重い粒だけが底に沈んでいく。
「同じ袋に入っていた麦なのに、どうしてそんなに差が出るの?」
エルが不思議そうに覗き込む。
ファさんはボウルから麦を数粒掬い上げ、指先で確かめるように押し潰した。
「古い麦は乾燥が進みすぎていて、吸水性にムラがあるの。いきなり高温で炊くと、表面のデンプン質だけが急速にα化して崩れ、中心部には熱も水も通らず硬い芯が残ってしまうわ」
「じゃあ、一晩中水に浸けておけばいいんじゃない?」
「甘いわね。長時間の浸水は粒の外皮をふやけさせ、溶け出したデンプンがドロドロの粘りになって鍋底にへばりつくわ。そうなれば、炊き上がる前に焦げ付いて全滅よ」
「うわぁ……やっぱりめちゃくちゃ面倒くさいじゃん!」
「面倒よ。でも……今日、私たちにあるのはこれだけなの」
ファさんの声には、悲壮感も諦めもなかった。けれど、甘い気休めも一切混ざっていない。
ファさんは麦をザルに上げた。
ポタポタと、規則正しい音を立てて水滴が落ちていく。
急がせれば粒が潰れ、放置すれば表面が乾く。その絶妙な間を、麦は求めているのだ。
(人も、同じなのかな……)
ファさんがそう言いかけて、すっと口を閉じたのを、私は見逃さなかった。
料理の理屈と、人の傷ついた心は、似ているようで全く違う。
下手に重ね合わせて綺麗事を言えば、それはただの押し付けになり、誰かを傷つける刃になる。ファさんはそれを知っているのだ。
「弱火で18分。絶対に、途中で蓋を開けてはダメですわよ」
リィナがタイマーをセットしながら、厳格な声で告げる。
「えー、ちょっとくらいチラッと見たくない? 煮えてるかな〜って」
「見たくても開けません! 蒸気が逃げて鍋の中の自重加熱システムが崩壊します!」
「リィナってさ、恋愛でもそうやってルールガチガチで監視して、最終的にフラれるタイプでしょ?」
「れ、恋愛はまったく関係ありませんわ!!」
リィナの耳が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「あ、いま完全に思い当たる節があるリアクションした!」
「していません!」
「したした! ジュドーの話を振られた時と全く同じ顔〜!」
「兄さんも! 全く! 関係ありません!!」
裏返った声で叫ぶリィナを見て、エルがしめしめとばかりに意地悪く笑う。
2人のやり取りを見ながら、ファさんは静かに鍋の蓋に手を添えていた。
「……蓋を開けるとね、蒸気圧が下がって鍋の中の温度が急激に落ちるの。温度が落ちると、麦の芯まで熱が届く前に表面だけがぶよぶよにやわらかくなってしまう。……麦粥はね、『見たい時に、ぐっと耐えて見ない』ことでしか、美しく炊き上がらない料理なのよ」
エルが口を尖らせる。
「……なんかさぁ、ファさんの言うことって、全部人生の格言みたいに聞こえてくるんだけど」
「ただの調理科学の話よ」
ファさんの即答ぶりにクスッとなりながら、やがて炊き上がった麦粥を見つめる。
お世辞にも豪華とは言えないものだった。
白くもない。黄色くもない。ただの薄い灰白色の液体。
けれど、立ち上る湯気だけは、やけに誇らしげで、どこか温かかった。
「……これ、お腹を空かせた子どもたちに出したら、がっかりされない?」
エルがお椀を覗き込み、極めて素直な感想を漏らす。
「ええ。きっと、がっかりされるわね」
ファさんはあっさりと頷いた。
「思うんだ!?」
「でもね、エルちゃん。『見た目は豪華だけれど体に負担がかかる料理』と、『がっかりされるけれど、傷ついた胃腸にどこまでも優しく染み渡る料理』なら、今日の私たちが作るべきは絶対に後者よ」
「ファってば、たまに夢がないよねぇ……」
「夢じゃ、冷え切ったお腹は温まらないわ」
「……名言風だけど、黒板に書くのは禁止だからね」
エルが私を指さして警戒する。
私は慌てて両手を上げた。
「私、まだ何も書いてないよ!」
「目が『手帳にメモりたい!』って言ってた!」
エルはこういう余計な鋭さだけは天下一品なのだ。普段からその洞察力を使えばいいのにと思うけれど、それじゃエルじゃなくなってしまう気もする。
ファさんは、出来上がった麦粥を小さな器に丁寧に盛り分けた。
塩はごくわずか。余計な香辛料は一切使わない。
「本物の素材の味というものを、あなたたちは分かっていないわ」
ファさんは静かに、けれど強い口調で言った。
「市場に出回る安易な濃い味付けに慣らされた舌には、この薄味が物足りなく感じられるかもしれない。しかし、本当に弱り切っている胃腸にとって、刺激物たる過剰な塩分や人工的な旨味は毒以外の何物でもないのよ。一口目の派手なインパクトで誤魔化すような料理は真の料理とは呼べない。二口目、三口目と進むうちに食材本来の滋味が体に染み渡る……それこそが真実の料理というものよ!」
「じゃあ、この麦粥は……?」
リィナが尋ねる。
「女将……じゃなかった、私たちが今出すべき、至高の答えよ」
――息が止まった。
格好良すぎる。理にかないすぎている。
黒板にドカンと金文字で書き殴りたくなるような食の哲学。
けれど、強い言葉はすぐに標語になり、標語になった言葉は一人歩きして現場の温度を失っていく。だから、私は書かなかった。
代わりに、私はテーブルの端にお椀が並べられるのを見つめた。
子どもたちの手が、自然と届く距離。
「食え」と強制するような押し付けがましさもなく、かといって「遠慮しろ」と遠ざけるでもない、絶妙な指1本分の距離。
昼前。
旧実習棟の隙間開いたドアから、そっと入ってきた1人の子どもが、お椀に口をつけた。
ひとくち。
……そこで、ぴたりと動きが止まった。
誰も何も言わない。声をかけたら、その緊張の糸が切れて、ふたくち目が逃げてしまいそうだったから。
その子はしばらく、湯気の立つ灰色の液体をじっと見つめ――そして、もうひとくち、静かに飲み込んだ。
エルの肩が、ピクッと上がりかけた。
喜んで声を上げそうになったのだと思う。けれど、エルは必死で自分の肩を押し下げ、口を噤んだ。
……エルは学んでいるのだ。
自分たちの作った料理を「食べさせてやった」という手柄にしないことを。
けれど、手柄にしたい嬉しい気持ちを隠しきれずに肩が上がってしまうのが、いかにもエルらしくて、私は少しだけ泣きそうになりながら笑いそうになった。
一方で、別の子は、出されたお椀をそっと押し返した。
ファさんは怒りもせず、悲しみもせず、ただ静かにそれを受け止めた。下げようとはしなかった。
リィナが何か問いかけようとして、思いとどまる。
問いただすことが、いつだって正しいわけじゃない。
迷った末に、リィナは声を限界まで低くして、優しく尋ねた。
「……熱かったかしら?」
首を横に振る。
「味が、薄すぎた?」
首を横に振る。
「……麦が、ダメだった?」
ほんのわずかな間の後、その子は小さく、コクリと頷いた。
リィナは手元のチェックリストの『未摂取理由』の欄に、ただ一言、
『麦』
とだけ、鉛筆で書き留めた。
『麦が嫌い』とも『麦の匂いが拒絶感を与えた』とも書かない。本人が口にした事実だけを、そっと残したのだ。
「……それだけでいいの? リィナ」
エルが覗き込む。
「それだけで十分ですわ。これ以上に推測で言葉を足したら……それはもう、あの子の気持ちではなく『私の身勝手な言葉』になってしまいますから」
リィナの声は、少しだけ震えていた。
正論を完璧に使いこなしながら、自分の未熟さに必死で追いつこうとしている、等身大の少女の声だった。
昼過ぎ、リィナは1枚の皿を、異様なほど丁寧に布巾で拭き続けていた。
もうとっくに乾いている皿なのに。
「リィナ、そのお皿、もう乾いてるよ」
「分かっていますわ」
「じゃあ、なんでそんなにゴシゴシ拭いてるの?」
「……表が、埋まらないからです」
リィナはぽつりと漏らした。
「完璧な表がないと、不安でたまらないのです。空欄があると、自分の存在まで否定されている気になって……。でも、だからと言って自分の都合のいい言葉で空欄を埋めるのは……もっと惨めで、ダメなことだから」
その言葉が急に幼くて、愛おしくて、私は手帳を開いた。
けれどすぐには書かず、ページをリィナの方へそっと向けた。
「……ここ、書いてもいい?」
「……大きく書かないなら、許しますわ」
リィナは乾いた皿を見つめたまま、小さく言った。
「大きさの問題なの?」
「大きさの問題です。人の不器用な弱みを、デカデカと記録しないでください」
私は頷き、手帳のいちばん端っこに、小さな小さな文字で刻んだ。
『表がないと怖い。空欄があると、もっと怖い。
けれど、勝手に埋めるのは、もっとダメ。』
「……まだ文字が大きいですわ」
リィナはそれを見て、少しだけ眉をひそめた。
「これ以上小さくしたら、私でも読めなくなっちゃうよ」
「読めないくらいで丁度いいのです」
「それ、記録として意味あるの?」
「……人の弱みを守る記録としては、これくらいが一番ちょうどいいのです」
私はほんの少しだけ字を小さく修正した。
たったそれだけで、手のひらの中の手帳が、ずっしりと心地よい重みを増した気がした。
夕方、鍋の底に、少しだけ麦粥が残った。
焦げ付いてはいない。けれど、もう誰かに提供できる温度ではなかった。
「……これ、捨てちゃうの?」
エルが寂しそうに尋ねると、ファさんは首を横に振った。
「明日の料理には使えないけれど、今日の『大切な記録』として残すわ」
「食べないのに?」
「『食べられなかったもの』から目を背けて捨ててしまったら、私たちは明日も全く同じ失敗を繰りかえすことになるわ。失敗を保存することこそが、次の美味しさへの第一歩なのよ」
ファさんは残った麦粥を小さな保存容器に移し、日付を貼った。
リィナは表に『残余分:保管』と書き込み、私は手帳に『食べられなかった麦があった』と書き留めた。
食べてもらえた成功体験だけを記録したら、ここはただの自己満足の食堂になってしまう。
拒絶された苦味も、残された冷たい麦粥も、全部ここに置いておく。
そうしなければ、明日作る料理が、また同じすれ違いの顔をして出てきてしまうから。
黒板の隅の『責任者名なし』の文字は、まだ消えていない。
けれど、私の手帳の端っこには、誰にも見せない小さな金言が溜まっていく。
――ひとくち目で勝とうとしない。
――ふたくち目の邪魔をしない。
――空欄を焦って埋めない。
どれもこれも、教科書には載っていないけれど、私たちの胸を焦がす最高のルールだ。
「……また何かコソコソ書いてるでしょ、キッカ」
リィナが眼鏡を直しながら覗き込んでくる。
「隠してないよ、ほら、見せてるじゃん」
「……なら、いいですわ」
「いいの?」
「ほんの少しだけ……ですけれど」
リィナはそう言って、すでにピカピカに乾いている皿を、もう一度だけ優しく拭いた。
今度は、私もエルも、誰もそれを止めなかった。
鍋の下の火を落とす。
消し去るのではなく、明日またすぐに熱を呼び戻せるように、最小限の種火にしておく。
麦粥だけの再開初日は、何一つ劇的な解決なんてしなかった。
けれど、確かにふたくち目を飲み込んでくれた喉の動きがあった。
押し返されたお椀があった。
『麦』とだけ書かれた、愛おしい空欄の残る記録があった。
私はそのすべてを、勝ちでも負けでもない、大切な宝物として――そっと手帳の奥深くに閉じたのだ。