機動戦士ガンダム0092 サウス・ナポリの「キッカの家」 ホワイトベースの少女とシャングリラの孤児たちが、放課後のキッチンで幸せを盛り付ける話 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
空の色が、あの日と似ている。
サウス・ナポリの空を覆う鈍色の雲は、湿った重力を含んで地上にのしかかっている。六月。地球には「梅雨」という季節があるのだと、リィナやキッカに教わった。宇宙(そら)にいた彼女たちにとって、降り続く雨は珍しい現象のようだけれど、私にとっては違う。
この湿気、肌に張り付くような冷気。それは、私の故郷――北アイルランド、ベルファストの記憶そのものだ。
「……寒い」
大学の講義を終えて「ククルス・アパート」に辿り着いた私は、自分の肩を抱いて小さく震えた。アパートの古い壁は外気を防ぎきれず、湿った冷えが足元から這い上がってくる。
私はキッチンに立ち、凍えた指先を温めるためにコンロに火を入れた。
ベルファストの雨は、いつも死の匂いがした。
連邦とジオン、二つの巨大な意志が衝突する最前線。泥濘の中で足止めされたモビルスーツの駆動音と、絶え間ない砲声。そして、何よりも私たちを追い詰めたのは、お腹の底を蝕むような、終わりのない飢えだった。
「ミリー? 先に来てたんだ」
扉が開いて、キッカが入ってきた。彼女のレインコートからは、雨粒が床にこぼれ落ちている。その後ろには、少し不機嫌そうに髪を拭うエルと、落ち着いた足取りのリィナが続いていた。
「すごい雨ね。サウス・ナポリは排水設備が古いままだから、道が川みたいになってるわ」
リィナが呟き、エルの横で椅子に腰を下ろす。
「ねえミリー、今日のメニューは何? こう冷えると、ガツンと元気が出るものがいいんだけど」
エルのリクエストに、私は静かに頷いた。
「……シチューに、しようと思います。ホワイトシチューです」
「いいわね。でも、生クリームや牛乳はこの時期、輸送ルートのトラブルで価格が跳ね上がっているでしょう? ルオ商会の特別便を待つ?」
リィナの心配はもっともだった。ステファニーが今日持ってくるはずの食材は、悪天候で配送が遅れているらしい。けれど、私は首を振った。
「いいえ。……備蓄(ストック)だけで、作ります」
私は棚から、一つのプラスチック容器を取り出した。中に入っているのは、以前市場の見切り品で大量に購入し、独自の方法で乾燥させておいた根菜のチップと、脱脂粉乳のパウダー。そして、少しの小麦粉。
宇宙生活で培われた「乾燥保存」の技術は、地球の貧しい暮らしにおいて最強の武器になる。
私はアナログな包丁を握り、戻した野菜を切る。
トントン、とリズムを刻む音を聞きながら、私の意識は十四年前の、あの暗い地下室へと飛んでいた。
ミハル姉さんは、いつも不器用だった。
手に入れた僅かな配給品を前に、どうすれば弟のジルと私に、少しでも温かい思いをさせられるか。姉さんはいつも必死だった。
「ミリー、見てて。魔法をかけるわよ」
そう言って姉さんが作ったのが、このシチューだった。
牛乳なんてない。あるのは、連邦軍のキャンプからくすねてきた粉ミルクと、しなびたジャガイモ。それでも、姉さんがじっくりと時間をかけて煮込んだスープは、この世のどんな贅沢品よりも白く、温かく輝いて見えた。
「ミリー、顔が怖いよ。大丈夫?」
キッカの声で、私は現実に戻った。
いつの間にか、私は奥歯を噛み締めていたらしい。
「……すみません。少し、昔のことを思い出して」
私はフライパンで小麦粉と油を練り、少しずつ溶かした粉乳を加えていく。ダマにならないよう、慎重に。
そこに、野菜の旨味が凝縮された戻し汁を注ぐ。
鍋の中で、白い液体がとろりとした質感に変わっていく。
香りが立ち始める。
それは、高級な生クリームの香りではない。もっと素朴で、生きようとする意志が詰まった、穀物とミルクの混ざり合う匂いだ。
「……この匂い」
キッカが、ふらりとキッチンに近づいてきた。
彼女の瞳が、鍋の中の白い海を映して揺れている。
「これ……ベルファストの匂いだ」
「キッカ?」
「知ってる。私、この匂いを知ってる。あの時……ホワイトベースを降りて、身を隠していた空き家で……誰かが作ってくれた、食べられなかったパンと……あの、冷たい雨の日の……」
キッカの言葉は、途切れ途切れだった。
彼女の脳裏にも、かつて戦場の片隅で交差した、名もなき少女たちの記憶が蘇っているのだろう。
キッカ・コバヤシが、戦災孤児として白い船に乗っていたこと。そして、私の姉、ミハル・ラトキエが、その船を救うために空に散ったこと。
私たちは血こそ繋がっていないけれど、このシチューの匂いを通して、同じ一つの記憶を分かち合っている。
「……できました。食べてください」
私は、四人分の深皿にシチューを注いだ。
「いただきます……」
リィナとエル、そしてキッカがスプーンを動かす。
「あ……」
エルが、短い声を漏らした。
「優しい味……。体が、芯から解けていくみたい。ミリー、これ、粉ミルクを使ったの? なのに、どうしてこんなにコクがあるのよ」
「じっくり、炒めたからです。……時間は、タダですから」
私が答えると、リィナが静かに微笑んだ。
「そうね。手間をかけることは、相手を想うことと同義だわ。ミリー、あなたの料理には、いつも誰かへの『祈り』が込められている気がする」
キッカは、一口ずつ、大切そうにシチューを口に運んでいた。
その頬を、一筋の涙が伝い落ちる。
「……キッカ様! 遅れましたわ!」
そこへ、息を切らしたステファニーが飛び込んできた。
「申し訳ありません。輸送機が乱気流に捕まって……。でも、最高級のホワイトアスパラガスを持ってきましたのよ!」
彼女が差し出した豪華な箱を、キッカは涙を拭いながら見つめた。
「ステファニー……ありがとう。でも、今はいいんだ。……この、世界で一番温かいシチューがあれば、他には何もいらないよ」
ステファニーは、きょとんとしてテーブルを見た。
そこにあるのは、代用品だけで作られた、貧相なはずの白いスープ。
けれど、彼女はすぐに、部屋に満ちる特別な空気を感じ取ったようだった。
「……そうですのね。では、私もそれを頂けますかしら? アスパラガスは、明日の朝食にでも」
五人で囲む、雨の日の食卓。
窓の外では、依然として雨が降り続いている。
一年後には、アクシズという名の巨大な氷塊が、この星を凍てつかせるために降ってくると、誰かが予言していた。連邦政府の無策を批判するニュースは、今も消音(ミュート)された画面の中で踊っている。
けれど、この小さなキッチンに満ちているのは、絶望ではない。
「今日、生き延びられた。……明日も、生きよう」
そう思わせてくれる、たった一杯のスープの力。
ミハル姉さん。
あなたの魔法は、十四年後の今も、こうして誰かの心を救っているよ。
私は自分の皿に口をつけ、鼻の奥がツンとするのを堪えた。
「ミリー、おかわり! 今度はパンを浸して食べたいわ!」
エルの明るい声が、雨音をかき消すように響いた。
宇宙世紀0092年。
世界がどれほど冷たく変わっても、この食卓の温度だけは、誰にも奪わせない。
私は立ち上がり、新しいパンを切るために包丁を握り直した。