機動戦士ガンダム0092 サウス・ナポリの「キッカの家」 ホワイトベースの少女とシャングリラの孤児たちが、放課後のキッチンで幸せを盛り付ける話 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
サウス・ナポリを覆っていた梅雨の停滞前線が、まるでミノフスキー粒子の濃度が薄れるように、一夜にして消え去った。
宇宙世紀0092年、七月。
地球の夏は、宇宙育ちの私にとって、時に凶暴なまでの生命力を持って襲いかかってくる。けれど、今日のようにカラリと晴れ上がった日は、かつてベルファストの戦火の中で見上げた、あの高すぎる空を思い出させてくれた。
「今日は外で食べよう! 食文化研究部、初の課外活動だよ!」
部長であるキッカの号令が、ククルス・アパートの湿った空気を一気に吹き飛ばした。
彼女の提案はいつも唐突だけれど、その瞳にはホワイトベースの子供たちをまとめ上げてきたような、不思議な強制力がある。
私たちは、大学のキャンパス外縁にある緩やかな丘へと向かうことになった。
そこは連邦軍のサナリィ関連施設を遠くに望む場所で、時折、最新鋭機ジェガンの評価試験でも行っているのか、大気を切り裂くような高周波の駆動音が微かに響いてくる。
「ミリー、お弁当の準備は万端? エルが張り切って、何か巨大なものを作ってたみたいだけど」
キッカが、私の隣でスキップでもしそうな足取りで尋ねる。
私は、重たいバスケットを抱え直し、少しだけ苦笑いした。
「はい。おかずの方は、私が。……ただ、主食の方はエルさんが担当すると言って聞かなくて」
「エルの主食かあ……。嫌な予感と、それ以上の期待がするね」
丘の上にレジャーシートを広げると、そこは別世界だった。
最新の気象コントロール・コロニーでは決して再現できない、不規則で、それでいて心地よい本物の風。
リィナは、セイラ・マスさんから贈られたという上品な日傘を差し、ステファニーは、ルオ商会の令嬢とは思えないほど、地面に直接座るという行為に興奮している様子だった。
「さあ、開けるわよ! シャングリラ流、戦場のお供だ!」
エルの豪快な声と共に、巨大なコンテナが開放された。
そこに鎮座していたのは、おにぎり……と呼ぶにはあまりに巨大で、四角い物体の群れだった。
「……エルさん、これは?」
私が驚いて尋ねると、エルは得意げに鼻を鳴らした。
「『おにぎらず』よ、ミリー。握る手間を省いて、具材をこれでもかって詰め込める。あたしたちジャンク屋は、いつ仕事が舞い込むか分からないからね。片手で持てて、一食で全ての栄養が取れるこれが、最高の贅沢だったのさ」
それは、宇宙世紀の合理的精神と、シャングリラのハングリー精神が融合した、ハイブリッドな糧食だった。
海苔の代わりに、真空パックで保存されていた代用乾燥海苔を水で戻し、その上に山盛りの合成米。さらにその中心には、どこから調達したのか、厚切りのスパムに似た合成ポークと、リィナが厳格に管理していた貴重な卵で作った厚焼き玉子が挟まれている。
「すごいボリューム……。リィナ、これ、一日の摂取カロリーを超えていませんこと?」
ステファニーが呆れたように言うと、リィナは静かに笑った。
「いいのよ、ステファニー。今日はピクニックだもの。……それに、エルのこれがなかったら、私たちはあのゴミ溜めのようなコロニーで、とうの昔に干からびていたわ」
私は、エルの豪快な「主食」に合わせるべく、おかずの重箱を広げた。
「こちらは、ミリー特製、ベルファスト風・保存食のアレンジです」
重箱の中には、彩り豊かなおかずが並んでいる。
一見、新鮮な野菜に見えるのは、実は私が数日前から「宇宙食ノウハウ」を応用して戻しておいた乾燥野菜のナムルだ。
地球産の生鮮食品は高価すぎて手が出ない。けれど、真空保存された乾燥食材に、最低限の水分と、ほんの少しのスパイス、そして「時間」という手間を加えれば、それは魔法のように息を吹き返す。
メインは、鶏の胸肉を模した大豆タンパクのクリスピー揚げ。
ベルファストでミハル姉さんが、軍の配給からこぼれた端切れの肉を、工夫ひとつで豪華なディナーに変えてくれた、あの時の衣の配合を再現した。
「……いただきます」
五人の声が、晴天の空に溶けていく。
私は、エルの作った「おにぎらず」を大きく一口齧った。
海苔の磯の香りと、合成ポークのジャンクな旨味、そして卵の優しい甘さが、口の中で衝突し、調和する。
それは、ミリーが作る繊細な味とは真逆の、生きるための「力」を直接胃袋に叩き込まれるような味だった。
「美味しい……」
思わず独り言が漏れた。
エルの料理には、迷いがない。
ジャンクの山から使えるパーツを拾い上げるように、あるもので最大限の価値を生み出す。その逞しさが、このおにぎりには詰まっていた。
「でしょ? 腹が減っては戦はできない、ってね。……まあ、今のあたしたちの敵は、午後の退屈な講義くらいだけどさ」
エルが笑いながら、私のおかずをつまむ。
「あ、この揚げ物、サクサク! ミリー、これ本当に豆なの? 信じられない、本物の肉より力が湧いてくる気がするよ」
ステファニーは、小さく切り分けられたおにぎらずを、まるで儀式のように慎重に口に運んでいた。
「……不思議ですわ。ルオ商会のパーティーで出される、一粒一万クレジットもするオードブルよりも、ずっと心が満たされていくのが分かります。これが、皆さんがおっしゃる『同じ釜の飯』という魔法なんですのね」
キッカは、そんな私たちを少し離れたところから、眩しそうに見つめていた。
彼女の手元には、まだ一口もつけられていないおにぎりがある。
「キッカ? どうしたの、食べないの?」
リィナが心配そうに声をかけると、キッカはハッとしたように顔を上げた。
「……ううん、食べるよ。ただ、ちょっとだけ思い出してたんだ。……一年戦争の時、ホワイトベースの食堂で、みんなでこうして並んで食べたこと。あの時も、食材なんていつもギリギリで、味も素っ気もない宇宙食ばかりだったけど……。でも、あの場所だけは、外で流れるミノフスキー粒子の霧や、レーザーの光とは無縁の、ただの『家』だったんだなって」
キッカの言葉に、一瞬だけ沈黙が流れた。
軍人の娘として育ち、誰よりも早く戦場の不条理を知った彼女。
ハヤト・コバヤシさんを失い、フラウさんと共に地球へ降りた彼女にとって、この「食文化研究部」は、かつてのホワイトベースの食堂の再構築なのかもしれない。
「キッカ、今はもう、ミサイルが飛んでくる心配をしながらご飯を食べる必要はないわ。……少なくとも、今日は」
リィナが優しく、キッカの肩に手を置いた。
キッカは力強く頷き、エルの作った巨大なおにぎらずを、大きく頬張った。
「……ん! 幸せ! 幸せすぎて、明日も戦える気がする!」
「だから、戦う相手は講義だってば」
エルの突っ込みに、全員がどっと笑った。
丘の下では、サナリィの施設から一機の連絡員用シャトルが、青い炎を引いて宇宙(そら)へと昇っていくのが見えた。
宇宙世紀0092年。
地球連邦政府が喧伝する「永遠の平和」の裏側で、シャア・アズナブル率いる新生ネオ・ジオンの胎動は、確実にこの星を飲み込もうとしている。
学園都市の大型モニターには、今日も宇宙移民(スペースノイド)の権利を叫ぶデモの映像が、ノイズ混じりに流れていることだろう。
けれど、今、この丘の上だけは、重力に縛られた乙女たちの聖域だった。
エルの豪快な食べっぷり。
リィナの凛とした所作。
ステファニーの、少し浮世離れした、けれど真摯な笑顔。
そして、キッカの、全てを包み込むような明るさ。
私は、バスケットの底に残った最後のおにぎりを手に取った。
それは、かつてベルファストでミハル姉さんが「生きなさい」と言って持たせてくれたパンとは、形も味も違う。
けれど、そこに込められた「今日を生き抜くための祈り」は、十四年の時を超えて、確かに繋がっている。
空はどこまでも青く、太陽は容赦なく照りつけている。
「フード・コンポジター」の合成食では決して満たせない、魂の空腹。
それを埋めるのは、金銀財宝でも、最新鋭のモビルスーツでもない。
ただ、隣にいる仲間と、少しだけ手間をかけた、手作りのご飯。
「ミリー、次のおかず、リクエストしてもいいかな?」
キッカが、口の周りに米粒をつけたまま、最高の笑顔で言った。
「はい、部長。何でも仰ってください。……食材がなくても、知恵と愛で何とかしてみせますから」
私の答えに、また笑い声が弾ける。
その笑い声こそが、来るべき嵐の夜を生き抜くための、私たちにとっての最強の装甲になるのだ。
宇宙世紀0092年、七月。
晴天のピクニック。
おにぎらずの具材のように、重なり合った五人の心が、地球の確かな土の匂いと共に、私の記憶に深く刻み込まれた。