機動戦士ガンダム 美味しんぼ ロンド・ベルの究極、ネオ・ジオンの至高 逆襲のシャア前夜、ロンド・ベル寄港中の補給食堂 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
「あんなものは料理じゃない! ただの塩の塊だっ!」
容赦のない一閃が、狭い室内を叩き割った。
事の始まりは、エル・ビアンノが塩を入れすぎたことだった。
本人は最初、まったく認めようとしなかった。
「入れすぎてないって! ちょっと情熱的だっただけじゃない!」
「塩分濃度に無駄な情熱を注がないでください」
リィナ・アーシタが間髪を入れずに即答する。
その日の献立は、雑穀と古米の雑炊。卵もなければ、まともな油脂すらない。乾燥野菜にいたっては、未だ補給伝票の書類上で停滞している有様だった。棚の上にはナナイ・ミゲルの箱から届いた香辛料の小瓶があったけれど、ファ・ユイリィはそれを使わなかった。朝、「今日は香りで誤魔化すような安易な勝負はしない」と言っていたからだ。
だから、鍋に残された唯一の調味料は塩だけだった。探しても見つかるはずのない他の調味料に頼るわけにはいかない。そしてエルは、その塩を過剰に投入したのだ。
「いや、ほら……外で待ってるあの子、美味しそうな匂いにつられて来ないかなって思ってさ」
言い訳を口にした直後、エルの表情が強張った。自分が犯した失敗の痛烈さに、ようやく自分の言葉が追いついた顔だった。
私は胸ポケットから手帳を取り出し掛け、思い直して手を止めた。今の彼女の表情を書き留めたりしたら、エルは激怒するだろう。怒るだけならまだいい。きっと、ほんの少し傷つく。その傷口を覗き込みたいのか、記録として残したいのか、自分でも分からなかった。分からない時は書かない。最近になって、ようやく覚えた処世術だ。
ファがゆっくりと匙を運び、鍋の雑炊を味見した。
舌の上に載せ、じっくりと味わう。
沈黙。
その静寂は、過剰な塩分よりも重く、鋭く場を支配した。
エルは胸の前で両手をギュッと握りしめる。
「ど、どうかな……?」
「話にならないわ。これは料理と呼ばれる以前の問題よ」
ファは吐き捨てるように言った。エルの肩がガクリと落ちる。
「そこまで言わなくても……!」
「いいえ、本物の料理とは食材の持つ本来の旨味を引き出すものよ。こんな塩分で強烈に舌を刺激して客を引こうだなんて、下劣な呼び込みの味でしかないわっ!」
部屋の中が一瞬で凍りついた。リィナがじっと鍋を見つめ、壁際にいたチェーン・アギも端末から顔を上げた。
外の廊下には、昨日から姿を見せたり隠したりしている一人の少女がいた。配給所のリストでは身元が照合できない孤児だ。名前はまだ聞いていない。聞こうとするたびに怯えたように肩を竦めるので、尋ねることができなかったのだ。彼女は旧実習棟の内部までは入ってこず、廊下の角に身を潜めている。強い匂いが漂うと少しだけ近づき、人の声が大きくなるとサッと影に隠れる。
エルは、ずっとそれを見ていたのだ。見ていたからこそ、塩を強く利かせた。
「でもさっ!」
エルが勢いよく顔を上げた。
「呼び込まなきゃ、あの子は永遠に姿を現さないじゃない! 来なきゃ食べられないし、食べなきゃずっとあの寒い廊下の角に放置されたままなんだよっ!?」
彼女の叫びには強い感情がこもっていた。決して論理的に正しいわけではない。けれど、完全な嘘でもなかった。
ファは無言で鍋を見つめていた。普段のファなら、ここで完璧な正論を突きつけるはずだ。『過剰な塩分は喉の渇きを誘発する。自由に水を手に入れられない環境下にいる子にとって、それは致命的な負担になるのよ』『匂いという暴力で誘導するのは、相手の選択肢と逃げ道を奪う悪手だわ』。そんな正論を、彼女なら言えたはずだった。
けれど、今日のファは違った。
「……ごめんなさい」
静かに告げられたファの言葉に、エルは目を丸くした。
「えっ……ファが謝るの? なんで? いま私の一方的な失敗回じゃないの!?」
「私は、ただ『静観して待つ』という形式にとらわれすぎていたのかもしれないわ」
ファは鍋から視線を外さずに続けた。
「相手の自主性を待つことは大切よ。でも、ただ無為に待つだけでは、絶対に届かない局面だって存在する……」
エルが一瞬、泣き出しそうな顔を見せた。だが次の瞬間には、いつものように唇を尖らせて強がってみせる。
「じゃ、じゃあさ! 私の責任は何割くらいなわけ!?」
リィナが間髪を入れずに告げる。
「8割です」
「増えてるじゃない! まだ私、自己申告すらしてないのに!」
「では、自己申告なら?」
エルは鍋の前に立ち、深々と頭を下げた。
「塩を入れすぎました! 7割くらいは私の不徳の致すところです! 残りの3割は、この廊下が不当に寒いのが悪いです!」
「やっぱり8割ですね」
「リィナ、厳しすぎない!?」
「その塩加減よりは甘いと思います」
チェーンがくすりと小さく吹き出し、慌てて端末で口元を隠した。私はその一瞬を見逃さなかった。チェーンは論理や数字の構築には絶対の強さを見せるけれど、人間が失敗をユーモアで昇華しようとする繊細な場面では、いつも少しだけ不器用になる。
ファが静かに鍋へ水を注ぎ足した。エルが露骨にほっとした表情を浮かべる。しかし、手際よく料理に向き合うファの工程は、そこでは終わらなかった。彼女は蓄えの中から、貴重な麦をわずかに手取り、鍋へと投入したのだ。
目ざとく気づいたリィナが帳簿を確認する。
「ファさん、麦の残量が限界に近いです」
「分かっているわ」
「水で薄めるだけでは不十分なのですか?」
「駄目よ」
ファは木杓子で鍋をゆっくりと、慈しむようにかき混ぜた。
「単に水で薄めるだけでは、塩の『尖り』を殺しきれないわ。それでは舌の表面に、ただ失敗した塩辛さの残滓が不快に残るだけになってしまう」
「失敗した塩辛さって直球で言われると、精神的にくるんだけど……」
エルが情けない声を漏らす。
「実際に苦痛を伴う味になっているから指摘しているのよ」
「……はい」
エルが素直に首をうなだれた。珍しい光景だった。ファは静かな情熱を込めて言葉を紡ぐ。
「麦を足すことで、過剰な塩分を受け止める『基盤』を作るのよ。塩分を水の中へ無責任に逃がして誤魔化すのではないわ。塩の旨味を麦の穀物由来の甘みと風味の中に閉じ込め、抱え込ませる。失敗を薄めて隠すのではなく、まったく別の次元の料理へと再構築するのよ」
私は思わず息をのんだ。
まただ。ファは料理という行為を通して、人間の犯した過ちの扱い方そのものを変革してしまう。失敗をなかったことに抹消するのではなく、その存在意義の場所を付け替えるのだ。過剰な塩を否定せず、麦という包容力の中に受け止めさせる。
それは、言葉にすれば恐ろしいほどに魅惑的で、危うい論理だった。紙に書き記せば強烈な言葉になるだろう。強烈すぎるからこそ、書いてはいけない。
私は手帳の隅にだけ、極小の文字でメモした。
『塩の居場所』
書き終えた直後、斜線で勢いよく塗り潰した。これもまた、少し気取りすぎている。エルに見られたら絶対に怒られる。
「キッカ、今なんか手帳にコソコソ書いたでしょ!」
エルはこういう無駄な勘だけは鋭い。
「書いてないよ」
「嘘! 絶対に書いてた!」
「線を引いて消したから、実質的には書いてない判定だよ」
「そういう屁理屈な抜け道を作るのは感心しませんね」
リィナが冷ややかに介入してくる。
「今のは本当にリィナに言われたくないんだけど!?」
「私が行っているのは抜け道ではなく、正当な手続きの履行です」
「それを世間では抜け道って言うんだよっ!」
完成した雑炊は、もはや最初の失敗作とは完全に別物へと変貌を遂げていた。塩気は確かに残っている。けれど、舌を刺すような刺々しさは綺麗に消えていた。追加された麦が過剰な塩分をどっしりと受け止めたことで、角が取れ、驚くほどまろやかで奥深い味わいへと進化していたのだ。
ファは完成した雑炊を小さな椀に丁寧に盛り分けた。
しかし、彼女はその椀を持って廊下へ出ようとはしなかった。ただ、部屋の中央にある机の上にそっと置いた。
開け放たれた扉から、ちょうど視線が入る位置。
けれど、自らの足で歩み寄って手を伸ばさなければ、決して届かない絶妙な距離。
「……呼ばないの?」
エルが尋ねる。ファは静かに首を横に振った。
「湯気と一緒に、雑炊の芳醇な香りはすでに外へ漂っているわ。これ以上の過剰な誘致は、ただの押し付けにしかならない」
「じゃあ、このまま放置するの?」
「このまま、待つのよ」
エルが扉の方へ視線を投げた。
廊下の角影に、あの少女が佇んでいた。こちらをじっと見つめている。体半分は壁の陰に隠したまま、いつでも逃げ出せる姿勢を保ったまま、じっと室内を窺っている。
私には、その切実な姿をどう記録すべきか分からなかった。『少女がやってきた』と書くべきか。『まだ来ていない』と書くべきか。『半分だけ来た』なんて書くのは、こちらの身勝手な観察者の都合でしかない。
リィナなら、あの厳密な管理表にどう記載するのだろう。そう思ってリィナを見ると、彼女はすでに淡々とペンを走らせていた。
その記録欄には、整然とした文字でこう記されていた。
【扉の外。視線確認。接触なし】
思わず吹き出しそうになった。どこまでも硬質で、けれど完璧に正確な記録だった。
エルは机の上の椀を見つめ、それから再び廊下の少女へと視線を移した。
「……ごめんね」
ぽつりと、小さく呟いた。その声が廊下の少女に届いたかどうかは分からない。たぶん、届いていない。
けれどエルは、二度と同じ言葉を繰り返さなかった。謝罪の言葉を無理やり相手に押し付けることもまた、エゴイスティックな「呼び込み」になってしまうのだと、彼女自身が気づいたからだろう。
夕方になっても、椀は机の上に置かれたままだった。
少女がそれを口にすることはなかった。手を伸ばすことすら無かった。けれど、廊下の角から彼女の気配が消えることもなかった。
リィナは管理表の項目に、【滞在】と追加した。
エルが横からそれを覗き込む。
「滞在って……なんか高級ホテルみたいじゃない」
「では、あなたならどのように表現するのですか?」
「『いる』、でいいじゃない」
「それには観察者の主観的な感情が混入します」
「『いる』のどこに感情があるっていうのさ!」
「明確に存在します」
「うぐぐ……リィナって本当、難屈で厳しいよね」
「あなたが単純すぎるのです」
「今の言動は傷ついた! 精神的ダメージ4割!」
「残りの6割は?」
「……ちょっと嬉しかったりする」
「なぜですか」
エルは問いには答えず、ただ静かに椀を見つめ続けた。その横顔は、自分の過ちを深く反省しているようにも、まだ何処か割り切れていないようにも見えた。
夜になり、ファは冷えてしまった雑炊の鍋に再び火をつけようとはしなかった。
エルがその意図に気づく。
「……温め直さないの?」
「今ここで温め直してしまっては――」
ファが言いかけるより早く、エルが言葉を奪った。
「――今日の失敗を、今日のうちに無かったことにしたいだけの甘えになっちゃうから……でしょ?」
ファは一瞬驚いたように目を見開き、やがて優しく微笑んだ。
「そうよ。なら、自分で言ってみなさい」
エルは再加熱用のコンロの前に立ち、少しの間、沈黙した。
「今ここで火を点けたら……今日の私の失敗を、今日のうちにチャラにしてスッキリしたいだけの、自分勝手な自己満足になっちゃうから」
「ふふ、見事な心構えじゃない」
私が思わず口を挟むと、エルが弾かれたように振り返った。
「キッカ! 今の台詞、手帳に書くなよっ!?」
「書かないよ」
「絶対!?」
「手帳には、ね」
「壁のメモ書きに書くのも禁止!!」
「はいはい」
「『はい』は一回! っていうか、キッカの『はい』ほど信用できない言葉はないんだから!」
リィナが深くうなずいた。
「それについては全面的な同意を表します」
「リィナまで味方してくれないの!?」
「記録係特有の悪癖ですね」
「勝手に分類しないでよ!」
私は苦笑しながら手帳を閉じた。けれど、私の頭の中ではすでに鮮烈な文章が組み上がっていた。
『エルが火を点けなかった夜。塩を入れすぎた日。届けたかった思いが、ただの押し付けになってしまった日。勝利のためではなく、人間の失敗に居場所を与えるために投じられた麦――』
あまりにも言葉が多すぎる。けれど、綺麗な言葉というものは、往々にして本質を覆い隠してしまう不誠実なものだ。
だから私は、手帳の端に事実だけを簡潔に刻んだ。
『塩、過剰』
『麦、投入』
『廊下の角、滞在』
『火、点けず』
ただ、それだけ。
夜が更けても、冷めた椀はそのまま置かれていた。ファはそれを下げようとしなかった。かといって、温かい新しいものに差し替えることもしなかった。
「なぜ新調なさらないのですか?」
リィナが静かに尋ねる。
「新しい温かい椀に差し替えてしまっては、『ほら、食べなさい』と相手に無言の圧力をかけることになってしまうわ」
「冷え切ったものを放置したままでよろしいのですか?」
リィナの声には、微かな固さが混じっていた。
「ええ。今の段階では、冷めたままでいいのよ」
「……冷えた料理を提示し続けることは、作り手としての敗北を意味するのではないのですか?」
リィナの問いかけに対し、ファは凛とした瞳で彼女を見つめ返した。
「それが敗北かどうかを決めるのは、作り手である私たちではないわ」
リィナは言葉を失い、沈黙した。エルもまた、静かにうつむいた。
私は手帳を開きそうになり、思い直して固く閉ざした。今のファの言葉は、安易に誰かの所有物にしてはいけない、重みを持った言葉だったからだ。
――翌朝。
机の上の椀の位置が、ほんの数センチだけ移動していた。
食べた形跡はない。中の雑炊もほとんど減っていない。
けれど、椀は昨日置いた場所よりも、ほんのわずかに扉側――手前へと引き寄せられていた。
エルはそれを見つめ、何も言わなかった。ここで何かを口にしてしまえば、それを自分の「成果」として回収してしまうことになるからだと理解していたのだろう。
リィナは静かに帳簿を開き、【椀、移動確認】とだけ淡々と記した。
ファは黙って鍋を洗い始めた。
私は手帳を開いた。
『強力な塩分で人を惹きつけるのは易易たる道だ。けれど、惹きつけた後の相手の人生を引き受けることは、果てしなく難しい――』
そう書きかけて、すぐに斜線で消した。やはり、格好をつけすぎている。
私は少し思案してから、事実だけを書き直した。
『エルは塩を入れすぎた』
『ファは麦を足した』
『椀は、ほんの少しだけ動いた』
今の私達には、それだけの事実があれば十分だった。
その日、新しい記録が付け足されることはなかった。
けれどエルは、塩の入った壷を棚の最奥へと静かに仕舞い込んだ。
それを見ていたリィナが指摘する。
「調味料の配置を変更した場合は、ただちに物品管理表へ記載してください」
「そこ!? 今、いい場面じゃないの!?」
「次に調理を行う際、探索の手間が生じますので」
「まったく、リィナは塩の居場所に関しては徹底的に厳しいんだから」
「人の居場所に対しても、同様に厳格でありたいと考えています」
言い終わった瞬間、リィナは自身の言葉の熱量に気づいたのか、耳まで真っ赤になった。
エルがニヤニヤしながらそれを見逃さない。
「あーっ! 今の台詞、ノートにメモするべきじゃない!?」
「絶対に書かないでくださいっ!」
「私じゃなくてキッカに言いなよ!」
二人の視線が同時に私へと突き刺さる。
私は静かに手帳を閉じた。
「書かないよ」
「本当ですか……?」
リィナが疑わしげな目を向けてくる。
「本当だって」
エルも追及の手を緩めない。
「小さくだってもダメだからね!?」
「小さくだっても書かないよ」
私は微笑みながら答えた。言葉に頼らず、記憶の中に刻み込む練習は、まだ始まったばかりだ。
ただ後になって、塩の壺が棚の奥へと移動した事実だけが、リィナの管理表に細字で正確に記録された。
それは大層な言葉などではなく、ただの無機質な記録だ。
だからこそ、許される。
そんな自分に都合の良い境界線を引く術を、私は少しずつ学んでいた。