機動戦士ガンダム 美味しんぼ ロンド・ベルの究極、ネオ・ジオンの至高 逆襲のシャア前夜、ロンド・ベル寄港中の補給食堂 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
3月12日。
朝から、端末はアクシズのことばかり言っていた。
落ちる。
押し返す。
交戦中。
詳細不明。
同じ言葉が、何度も、少しずつ違う声で流れる。
港湾の人たちは、聞いていないふりをしていた。
聞いていないふりをしながら、手は遅くなっていた。
赤い腕章の職員も、青い腕章の職員も、黄色い仮ラベルを貼る民間業者も、今日はみんな同じ方向を少しだけ見ている。
空。
コロニーの人工の空ではなく、端末の向こうにある、もっと遠い空。
そこに何かが落ちてくるらしい。
その大きさを想像できないまま、私は旧実習棟の鍵を開けた。
鍵穴はいつも通り固かった。
世界が終わるかもしれない日でも、古い鍵は古い鍵のままだ。
「開かない?」
エル・ビアンノが後ろから聞いた。
「開く。ちょっと機嫌が悪いだけ」
「鍵にまで感情を持たせるの、キッカっぽい」
「あなたに言われたくない」
エルは笑おうとして、失敗した。
笑いが途中で止まる。
今日は、そういう日だった。
旧実習棟の中は、昨日と同じ匂いがした。
麦。
古い木。
水道の錆。
布に包んだ香辛料。
ファ・ユイリィが先に来ていた。
鍋の前に立っている。
鍋には、雑炊の準備がされていた。
米粒はほとんど崩す。
麦は少しだけ。
塩分はいつもの3分の1。
油は使わない。
香辛料も使わない。
棚の上には、ナナイ・ミゲルの箱から来た小瓶がある。
白い布に包まれたまま。
今日は使わない。
それは、見れば分かった。
「香辛料、使わないんですね」
リィナ・アーシタが聞いた。
ファはうなずいた。
「今日は使わない」
「理由は?」
リィナの声はいつも通りに聞こえた。
でも、鉛筆を持つ指が少し強かった。
「外の言葉が濃すぎる日だから」
ファは鍋に水を足した。
「アクシズ、交戦中、落下、押し返す。そういう言葉を朝から浴びていると、体の中が勝手に強い味になる。そこへ香りを立てると、皿まで叫ぶ。まさに至高の香辛料や究極の隠し味のような強い自己主張は、今日の私たちの体には刺激が強すぎるのよ」
エルが椅子に座る。
「料理が叫ぶって、またすごいこと言う」
「叫ばせたくないの」
「じゃあ今日は?」
「邪魔しない料理。本物の料理というのは、何も豪華絢爛な味付けや一流の技をひけらかすことだけじゃないわ。食べる人の状態に極限まで寄り添い、素材の持つ滋味をそっと差し出すことこそが、本当の意味での料理なのよ」
ファは米を崩した。
「味で勝たない。香りで呼ばない。食べろとも言わない。ただ、口に入った時に、体の中の緊張を少しだけ薄める」
リィナが表に書いた。
雑炊。
塩分、通常の3分の1。
油、なし。
香辛料、なし。
理由、邪魔しないため。
リィナはそこで鉛筆を止めた。
「邪魔しないため、って表に書くと、少し変です」
「変だけど、今日はそれでいい」
ファが言った。
リィナは少し不満そうにしたが、そのまま書いた。
私は手帳を開かなかった。
今日は、書き始めると全部書きたくなる気がした。
端末の音。
廊下の足音。
遠くの港湾放送。
鍋の水面の揺れ。
書いたら、私は少し安心する。
安心したい自分が、今日はとても嫌だった。
ラー・カイラムはもう、食堂の近所の大人たちではなかった。
最初から、そうではなかったのだ。
ブライト・ノアは艦長だった。
チェーン・アギは技術者だった。
ファはファで、ここにいる時間は借り物だった。
旧実習棟に顔を出して、電源盤に「電熱器2台同時使用禁止」と貼ってくれたチェーン。
椅子をきっちり戻して、申請書の空欄を赤で刺していったブライト。
塩むすびの握り方を直し、麦粥の火を見て、香辛料の蓋を閉じたファ。
私はいつの間にか、その人たちがこの部屋にいてくれることを、少し普通だと思い始めていた。
普通ではなかった。
ロンド・ベルは出撃する。
ネオ・ジオンは動く。
アクシズは落ちるかもしれない。
その流れの中で、旧実習棟だけがいつまでも鍋の前にいられると思う方がおかしい。
でも、思いたかった。
私はかなり勝手だ。
「キッカ」
リィナが言った。
「顔が暗いです」
「今日はみんな暗いでしょ」
「キッカのは、自分の暗さを観察している顔です」
エルが横から言う。
「うわ、面倒な暗さ」
「うるさい」
「いつものキッカだ。少し安心した」
その言い方が、少しだけ優しかった。
だから私は怒らなかった。
鍋が静かに煮えてきた。
雑炊は、白くも黄色くもなかった。
米粒は形をなくしかけている。
麦の粒だけが、少しだけ残っていた。
ファはそれを見ながら言った。
「今日は粒を残しすぎない。噛むことが負担になる子もいる」
「全部崩すと、食べた感じがなくならない?」
エルが聞く。
「だから、麦を少しだけ残す。全部なめらかにすると、食事じゃなくて薬みたいになる。フン、愚かな料理人はすぐ極端に走りたがるけれど、本物の雑炊は喉ごしの滑らかさと歯ごたえの微小なバランス、その調和の中にこそ真の美味しさが宿るのよ」
「薬は嫌だね」
エルが言った。
「嫌。薬みたいな飯は、食べる側が負けた気になる」
ファはそう言って、火を弱めた。
私は、また何かに名前をつけたくなった。
でも、やめた。
ファはファだ。
誰かの型に押し込める必要はない。
料理で答えを出そうとしている人が、目の前にいる。
それで十分だった。
昼前、子供たちが少しずつ来た。
いつもより少ない。
来ても、あまり喋らない。
端末の音が鳴るたび、肩が揺れる子がいた。
アクシズという言葉の意味を知らない子もいる。
でも、大人が怖い顔をしていることは分かる。
大きな言葉の意味が分からなくても、大人の背中の硬さは伝わる。
雑炊は、小さな椀で出した。
手渡さない。
でも遠くもしない。
熱すぎない。
冷めすぎない。
湯気はある。
でも、強く立たせない。
ファは椀を置くたびに、ほんの少しだけ位置を変えた。
いつもより近い子。
いつもより遠い子。
机の端ではなく、布の上に置く子。
直接見られるのが嫌そうな子には、少し横へずらす。
料理の正解は、皿の上だけで決まらない。
第8話で、ファが言った言葉を思い出した。
「いい? どんなに上質な食材を揃えようと、もてなす心の温もりと食べる人の環境を考え抜いた心遣いがなければ、それは本当の料理とは呼べないのよ」
今日は、その言葉が少し重かった。
クェス・パラヤの椀は、空のまま置いた。
棚の奥ではない。
机の端。
誰かの邪魔にならない場所。
でも、私からは見える場所。
彼女は来ない。
来るはずがない。
それでも置いた。
私は自分の行為が、かなり気持ち悪いと思った。
記録したい。
覚えていたい。
彼女がここにいた証拠を、私が欲しがっている。
あの子は食べた。
普通、と言った。
助かった、とは書かない。
そう決めたくせに、私は空の椀を置いている。
まるで、続きがあるみたいに。
「キッカ」
リィナが来た。
私の視線の先を見て、すぐ分かったらしい。
「それは誰のため?」
痛いところを正確に刺す。
リィナはそういうのがうまい。
「私のため」
私は答えた。
「なら、そう書いて」
「掲示板に?」
「手帳に。人に見せる言葉にしないで」
私は手帳を開いた。
今日初めて、書いた。
クェスの空の椀は、私のため。
字が汚かった。
でも、汚いまま残した。
きれいに書き直すと、言い訳になる気がした。
リィナはその字を見て、少しだけうなずいた。
「それなら、置いていいと思います」
「本当に?」
「よくはないです。でも、嘘よりましです」
リィナの言い方は、いつもそうだ。
救ってはくれない。
でも、逃げ道をまっすぐ照らしてくる。
眩しい時がある。
その日、雑炊をおかわりする子は少なかった。
誰も、世界がどうなるか分からない日に、腹だけ平気ではいられない。
1人は半分で止まった。
1人は椀を両手で包んだまま、ずっと端末を見ていた。
1人は食べた後で、何も言わずに机の下へ潜った。
エルは無理に笑わせようとして失敗した。
「アクシズ味の雑炊ってどう?」
誰も笑わなかった。
エルは自分で頭を抱えた。
「今のなし。なしで。私の発言を宇宙から消して」
リィナが真顔で言った。
「宇宙にも限度があります」
ほんの少し笑いが起きた。
すぐ消えた。
でも、消える前に、半分で止まっていた子がもう1口飲んだ。
私はそれを見た。
見ただけにした。
手帳には書かなかった。
書くと、エルの失敗を成功にしてしまう気がした。
エルは自分でも気づいたのか、黙って椀を見ていた。
その黙り方が、少しだけ大人びて見えた。
あとで言うと調子に乗るので、言わない。
昼過ぎ、チェーンからの連絡はなかった。
来るはずがない。
それでも私は、電源盤の「電熱器2台同時使用禁止」の紙を見た。
字が少し右上がりだった。
チェーンの字。
この場所にいた証拠は、それくらいだった。
ブライトの赤字も残っている。
利用人数未確定。
食材出所不明瞭。
責任者名なし。
正しい。
でも、今日はその赤字まで、少し遠く見えた。
港湾の端末が、また鳴った。
アクシズ、軌道変化。
ロンド・ベル、交戦継続。
ネオ・ジオン、詳細不明。
言葉は断片ばかりだった。
断片なのに、部屋の空気を丸ごと持っていく。
ファが鍋の火をさらに弱くした。
「火、落とすの?」
エルが聞く。
「強くすると、鍋だけが元気になる」
「鍋だけ?」
「部屋が弱っている時に、鍋だけ煮立つと、急かされている感じがするのよ。料理というのは食べる人の心のありようまで見抜いて火加減を調節しなければならない。これを怠る者は、真の料理人とは呼べないわ」
「そんなことまで見るの?」
「見る」
ファは短く答えた。
「料理は、皿だけ見て作るものじゃない」
リィナが小さく表に書いた。
部屋の状態。
弱い。
鍋の火。
弱く。
私はそれを見て、少し笑った。
「リィナ、それ表にするの?」
「忘れるから」
「忘れる?」
「私は、鍋がきちんと煮えていると安心します。安心すると、部屋が弱っていることを見落とします」
リィナはそう言った。
正確に言おうとして、少しだけ恥ずかしそうだった。
その恥ずかしさが、今日の部屋にはちょうどよかった。
夕方に近い時間、端末の音が変わった。
誰かが息を止めた。
誰かの匙が椀に当たって、小さく鳴った。
アクシズが押し返された。
そういう内容の速報だった。
言葉は難しかった。
でも、声の調子が違った。
落ちてくるものが、落ちきらなかった。
たぶん、そういうことだと分かった。
誰かが泣いた。
誰かは黙っていた。
エルは立ち上がりかけて、座った。
喜ぶのか、泣くのか、怒るのか分からない顔をしていた。
リィナは表に何かを書こうとして、やめた。
ファは鍋を見ていた。
私は泣かなかった。
その代わり、空の椀を下げなかった。
クェスは来ない。
クェスがどこにいるのか、私は知らない。
知らないまま、椀だけがある。
来ない人の椀を置くことが正しいかどうかは分からない。
たぶん正しくない。
でも、勝ち負けではなかった。
ファは鍋の火を落とした。
消したのではない。
弱くした。
「まだ使うの?」
エルが聞いた。
「使うかもしれない」
「誰か来る?」
「分からない」
「分からないのに?」
「分からないから」
ファはそう言った。
分からないから、火を消さない。
分からないから、椀を下げない。
分からないから、手帳を閉じきれない。
世界が少し終わりかけた日。
食堂の火は、終わりきらない温度で残っていた。
夜、私は手帳を開いた。
今日のページは、いつもより空白が多かった。
書けることが少ない日ではなかった。
むしろ多すぎた。
多すぎるものは、全部書くと嘘になる。
私はゆっくり書いた。
アクシズの日。
雑炊。
塩分、3分の1。
香辛料、使わず。
理由、外の言葉が濃すぎるため。
クェスの椀。
空。
私のため。
おかわり、少ない。
エル、失敗した冗談。
少し笑い。
速報。
椀、下げず。
最後に、もう1行だけ書いた。
世界が助かった日を、食堂の勝ちにしない。
書いてから、少し大げさだと思った。
大げさだけど、消さなかった。
今日くらいは、少し大げさでもいい気がした。
エルがのぞき込もうとして、リィナに止められた。
「見ない」
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけ覗く人は、全部見ます」
「リィナ、私に詳しすぎる」
「実績です」
ファは鍋を洗っていた。
鍋の底には、少しだけ米粒が残っている。
ファはそれを指で集めた。
捨てないのかと思ったら、小さな器に移した。
「記録用?」
私が聞いた。
「今日の雑炊は、残った量も見ておきたい」
「世界が助かった日なのに?」
「だから」
ファは言った。
「大きなことが起きた日ほど、食べられた量を大きく見間違える。本当の美味しさや食のありがたさというのは、満足して平らげた量だけで測れるものじゃないわ。どれだけの思いを残し、どれだけの喉を通らなかったか……その現実を直視してこそ、至高の食卓へと繋がるのよ」
私はうなずいた。
勝った料理ではない。
祝う料理でもない。
邪魔しない料理。
体の中の緊張を、少しだけ薄める料理。
それでも食べられなかった分を、ちゃんと見る料理。
ロンド・ベルの究極。
ネオ・ジオンの至高。
その大きな言葉は、今日も棚の上にあった。
使わなかった香辛料の隣に。
でも、今日の皿に必要だったのは、その大きな言葉に勝つことではなかった。
負けないことでもなかった。
皿が、外の言葉の邪魔をしないこと。
私はそのことを、うまく書けなかった。
だから、最後は短くした。
火は、まだ消えていない。