生まれ変わった世界は   作:月影うみ

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10話

──暗い。

 

意識の底に沈んでいた感覚が、

ゆっくりと浮かび上がってくる。

 

(……ここ、どこだ)

 

まぶたを開けると、

白い天井が視界に入った。

 

(医務室か....)

 

少し遅れて、

自分がベッドに寝かされていることに気づく。

 

「……起きましたか」

 

低く落ち着いた声が、

視界の右側から聞こえた。

 

顔を向けると、

健人さんが椅子に座っていた

 

眼鏡越しの視線はいつも通り冷静で、

特に驚いた様子もない。

 

「倒れたのは訓練場です。

私がすぐに五条さんへ連絡しました」

 

その言葉に合わせるように、

カーテンの向こうから軽い声が飛んできた。

 

「いやー、七海から"倒れた"って聞いてさ。

走ってきたらもう七海が抱えてんの。

あれはあれでレアだったよ」

 

悟さんが、

いつもの調子でひょいと顔を出した。

 

健人さんは軽くため息をつく。

 

「……抱えたのではなく、支えただけです。

あのままでは頭を打つ可能性がありましたから」

 

(……倒れたんだっけ、俺)

 

記憶がゆっくりと戻ってくる。

 

反射線と十劃呪法の同時使用。

頭の奥が焼けるように痛んで──

そこで途切れた。

 

「意識が戻ったなら、診ますよ」

 

落ち着いた女性の声がして、

カーテンが静かに揺れた。

 

入ってきたのは、白衣を着た女性。

 

落ち着いた雰囲気で、

どこか"術師らしい空気"をまとっている。

 

女性は軽く顎を引いて名乗った。

 

「家入硝子。

この学校の医師よ。初めまして」

 

「初めまして。月影うみです。」

 

丁寧に頭を下げると、

硝子さんは一瞬だけ目を瞬かせた。

 

「……礼儀正しいのね。

とても五条の教え子とは思えないわ」

 

「ちょっと硝子、それ偏見だよ。

俺だって礼儀くらい──」

 

「五条は黙ってて」

 

硝子さんの淡々とした一言で、

悟さんは口を閉じた。

 

健人さんは小さくため息をつく。

 

「.....否定できないのが問題ですね」

 

「七海、君まで!?」

 

悟さんの抗議は軽く流され、

硝子さんは何事もなかったように俺の脈を取り始めた。

 

(……この空気感、すごいな)

 

「問題なし。

ただし──術式の同時使用は、当分やめておきなさい」

 

「……そんなに、まずかったんですか」

 

俺がそう言うと、硝子さんは肩をすくめた。

 

「まずいというより、あなたの脳が処理しきれてないのよ。

同時使用は、反転術式が使えるようになるまでは無理ね」

 

(……反転術式?)

 

聞き慣れない単語に、思わず声が漏れる。

 

「反転術式って……何ですか」

 

その瞬間、悟さんが「待ってました」と言わんばかりに前へ出た。

 

「はい出ました、初心者あるある質問。

じゃあ先生が説明してあげよう」

 

健人さんは無言で眼鏡を押し上げた。

硝子さんは「また始まった」と言いたげにため息をつく。

 

悟さんは指を一本立て、

黒板でもあるかのように空中を指し示した。

 

「まず、知ってると思うけど呪力は"負の感情から生まれる力"。

つまりは"(マイナス)(エネルギー)"なわけ

だから身体強化はできても、再生はできない」

 

((マイナス)(エネルギー))

 

悟さんは続ける。

 

「で、その“負”同士を掛け合わせると“正”になる。

つまり──“治す力”が生まれる。

それが反転術式」

 

悟さんは空中に指で記号を書くように動かした。

 

「マイナス × マイナス = プラス。

これが反転術式の基本原理ね」

 

理屈はわかる。

分かるけど──

 

(……できる気がしない)

 

硝子さんが横から補足する。

 

「反転術式は、才能依存が強い術式よ。

呪術師なら誰でも扱えるわけじゃない。

できる人間は本当に少ないの」

 

悟さんが肩をすくめる。

 

「俺とか硝子みたいな“例外組”ね。

まあ、硝子は専門家だけど」

 

「五条は黙ってて」

 

硝子さんは軽く睨んでから、

再び俺に視線を戻した。

 

「あなたが扱えるかどうかは……正直、やってみないと分からないわ。

ただ、同時使用を目指すなら避けて通れない」

 

才能が必要──

つまり、努力だけではどうにもならない部分があるということだ。

 

(……厳しいな)

 

「……どうやるんですか」

 

俺がそう聞くと、硝子さんは少しだけ考え──

そして、さらりと言った。

 

「ひゅーっとやって、ひょいよ」

 

手で軽く空をすくうような動きをしながら。

 

「ひゅー……ひょい……?」

 

「そう。ひゅーっとやって、ひょい。以上」

 

(……わかるかぁ!!)

 

心の中で全力でツッコむ。

だが、もちろん口には出さない。

 

健人さんは淡々と続ける。

 

「反転術式は、言語化が極めて難しい術式です。

家入さんの説明は……これでも分かりやすい方ですよ」

 

(……マジか)

 

悟さんは笑っていた。

 

「まあまあ、焦らなくていいって。

まずは休みなよ。

同時使用は、反転術式ができるようになってからね」

 

硝子さんがカルテを閉じる。

 

「今日は安静。

明日、もう一度診ます」

 

そう言って、静かに部屋を出ていった。

 

---

 

──あの日から、季節がひとつ進んだ。

 

倒れた翌日は安静。

その次の日からは、いつも通り訓練に戻った。

 

同時使用は禁止。

硝子さんにも健人さんにも、しっかり釘を刺された。

 

その後の2〜3か月は、

訓練と任務と、そして──悟さんの悪ノリに振り回される日々だった。

 

「うみ、ちょっと京都行こっか!」

 

……え?」

 

返事をする前に肩を掴まれ、

気づけば新幹線のホームに立っていた。

 

(.......まただ)

 

実は、こういうことがたまにある。

 

悟さんに捕まると、

気づいたら別の場所に立っている──

そんな現象が何度かあった。

 

最初は本気で混乱した。

 

「え、なんでここに……?」

 

そう聞いたら、悟さんは楽しそうに笑って言った。

 

「術式の応用だよー。便利でしょ?」

 

「術式の……応用?」

 

「そうそう。俺の術式ってね──」

 

そこから悟さんは、

自分の術式について嬉々として説明してくれた。

 

空間だの、無限だの、収束だの、

聞いたことのない単語が次々に飛んでくる。

 

(……全然わからん)

 

理解しようとしたけど、

途中から脳が処理を放棄した。

 

(しばらくはコピーとか無理だな、これ)

 

悟さんは満足そうに話し終え、

俺の手を取って歩き出す

 

(それよりも今は.....)

「あの、悟さん

京都に行くって、どこに行くつもりなんですか?」

そう。京都に行くといわれ連れ出されたものの、どこに行くのか知らない。

 

「ん~?言ってなかったっけ?

高専の京都校だよ。期待の新星を紹介するのさ!!」

 

悟さんは胸を張って、

まるで自分が褒められるかのように満面の笑みを浮かべていた。

 

(また、勢いで決めたな?)

 

そう思ったけど、

言ったところで流される未来しか見えなかったので黙っておく。

 

悟さんはそのまま俺の手を軽く引き、

ホームの端へ向かって歩き出した。

 

「いや~驚くだろうねぇ

"五条悟の秘蔵っ子"って言ったら、みんな食いつくからね!」

 

「何ですかその肩書。

聞いてないうえに面倒なことになる気しかしないんですけど...」

 

「いいのいいの。ウケがいいから!」

 

(ウケとかじゃないんだけど)

 

新幹線のアナウンスが流れ、

風が少し強く吹き抜ける。

 

悟さんは振り返りもせず、

軽い調子で続けた。

 

「ま、細かいことは現地で説明するよ。

うみはついてくるだけでいいから!」

 

(……いや、細かいことこそ先に説明してほしい)

 

でも、悟さんの歩く速度は落ちない。

俺は半歩遅れながら、その背中を追った。

 

こうして、

"五条悟の秘蔵っ子"という絶対面倒くさくなる肩書きを背負わされながら、

京都校へ向かうことになった。

 

新幹線を降りて、

京都の空気がふっと肌に触れた。

 

(……来ちゃったな)

 

悟さんは相変わらず軽い足取りで、

俺と健人さんを引っ張るように歩いていく。

 

「ほらほら、時間ないよー。

京都校の先生たち、びっくりするだろうなぁ!」

 

(そりゃ驚くでしょうよ....絶対ノーアポだし)

 

そんな心の声を押し殺しながら、

俺は悟さんの背中を追って歩く。

 

京都駅からタクシーで少し走ると、

山の麓にある古い寺院のような建物が見えてきた。

 

(……ここが京都校?)

 

門構えは立派で、

どこか“呪術師の学校”というより

"歴史ある寺院"という雰囲気が強い。

 

悟さんは迷いなく門をくぐり、

そのまま敷地内をずんずん進んでいく。

 

「いや~懐かしいなぁ。

ほらうみ、ついてきてついてきて!」

 

(懐かしいって……完全に庭みたいに歩くなぁ)

 

「あの、ちなみに事前連絡とかって....」

してないだろうと思いながら一応確認する

 

「えー?要る?それ

僕だよ?五条悟だよ?」

 

(うん。あきらめよう)

悟さんの返答を聞いた瞬間、

俺は思考をそっと横に置いた。

 

こういう時は、

抵抗しても無駄だということを、

俺はこの5年で学んだのだ。

 

悟さんは相変わらず軽い足取りで、

校内を進んでいく

 

(それにしても.....ほんとにお寺みたいだなぁ)

 

東京校とはまるで違う、

静かで重い空気が漂っている。

 

悟さんは慣れた様子で廊下を進み、

まるで自分の家のように扉を開けた。

 

「おーい、誰かいるー?」

 

(……いや、呼び方が雑すぎる)

 

その声が部屋に響いた瞬間、

奥の方からヒールの音が近づいてきた。

 

コツ、コツ、と規則正しい足音。

 

やがて姿を現したのは──

黒髪の女性だった。

 

落ち着いた雰囲気できれいな人だが、

目つきは鋭く、こちらを見た瞬間に眉がぴくりと動く。

 

「……なんでアンタがここにいるのよ」

 

悟さんは満面の笑みで手を振る。

 

「やっほー。久しぶり、歌姫」

 

(知り合い?)

 

歌姫とよばれた女性は露骨に嫌そうな顔をした

 

「また勝手に来たのね。

しかも子ども連れて」

 

「期待の新星だよー!

すごいんだよ、この子!僕の教え子!!」

 

「アンタの"すごい"は信用してないの

それにアンタの教え子の時点でろくでもないでしょ」

 

(……ひどい言われようだけど、この人の気持ちはすごい分かる

そして、とりあえず名乗られたわけじゃないからおねーさんと呼ぼう)

 

おねーさんはため息をつき、

俺をちらりと見てから、再び悟さんへ鋭い視線を向けた。

 

「で? その"期待の新星"とやらを、

何しに連れてきたわけ?」

 

悟さんは悪びれもせず、にこにこと笑っている。

 

「紹介だよ、紹介!

京都校の先生たちに見せておこうと思ってさ!」

 

「……はぁ。

アンタ、東京校の教師でしょ。

なんで京都校に勝手に"見せびらかし"に来るのよ」

 

「えー? だって可愛いでしょ、この子。

才能もあるし、将来有望だし!」

 

悟さんが満面の笑みでそう言った瞬間、

おねーさんの眉がぴくりと跳ねた。

 

俺はと言えば──

 

(可愛いって……まあ、言われ慣れてるけど)

 

自分でも"子どもらしい顔立ち"なのは分かっている。

だから特に驚きはしない。

 

だが、おねーさんの反応は違った。

 

「……は?」

 

一拍置いて、

じとっとした視線が悟さんに向けられる。

 

「ちょっとアンタ……

何? ついにロリコンにでもなったの?」

 

「はあああ!? 失礼な!!」

 

悟さんが全力で否定した。

 

「僕がそんなわけないでしょ!?

この子は男の子だよ!!」

 

おねーさんは一瞬だけ固まり、

ゆっくりと俺の方へ視線を向けた。

 

「……男の子?」

 

おねーさんの視線が、

まるで「信じられない」と言わんばかりにこちらへ向けられる。

 

その目は鋭いというより、

"予想外すぎて理解が追いついていない"

そんな色をしていた。

 

(……驚かれてるな。

うん。慣れ親しんだ反応だ)

 

五条さんとおねーさんの会話はテンポが早く、

気を抜くと置いていかれそうになる。

 

(名乗るなら……今しかない)

 

そう判断して、俺は一歩前に出た。

 

「初めまして、月影うみです。

よろしくお願いしますね。おねーさん」

 

一瞬、空気が止まった。

 

おねーさんの目が、

ぱちぱち、と瞬きを繰り返す。

 

そして──

 

「……っ、か、かわ……っ」

 

肩が震え始めた。

 

「かわいい~~~~!!」

 

突然、おねーさんが俺の肩を掴んで揺らしてきた。

 

「なにその丁寧な挨拶!

なんでそんな礼儀正しいの!?

五条の教え子なのに!? どういうことなの!?」

 

「ちょっと歌姫!? 揺らしすぎ揺らしすぎ!!」

 

悟さんが慌てて止めようとするが、

おねーさんは完全にスルーしている。

ちょっと目が回ってきた...

 

「うそでしょ……こんなまともな子が……

なんで五条のところに……?」

 

「なんでって、僕が拾って──」

 

「黙りなさい五条!!」

 

「ひどい!!」

 

おねーさんは俺の肩をぽんぽん叩きながら、

まるで"守るべき存在"でも見るような目で言った。

 

「いい? あなた、絶対あんなのになっちゃダメよ。

分かった? あんなクズみたいな大人にだけは……!」

 

「ちょっと!? 僕のこと言ってる!?

クズって言った!? 今クズって言ったよね!?」

 

「言ったわよ!!」

 

(……この人、感情の振れ幅すごいな)

 

おねーさんは俺の肩を掴んだまま、

真剣な顔で続けた。

 

「あなたはね、礼儀正しくて、素直で、かわいくて……

こんな子が五条の影響受けたら絶対ダメなの。

だから、もし何かあったらすぐ私に言いなさい。いいわね?」

 

「いやいやいやいや!?

僕そんな悪影響与えてないよ!?

むしろ良い影響しか──」

 

「五条は黙ってて!!」

 

悟さんは二度目の黙殺を受けた。

 

「ほんとに可愛い……

こんな子が五条のところにいたなんて……

ああもう、絶対守ってあげなきゃ……!」

 

(……いや、そんなに持ち上げられると逆に困る)

 

おねーさんの距離が近すぎて、

どう返せばいいのか分からず、

俺は少しだけ視線をそらした。

 

そして──

思わず口からこぼれた。

 

「……あの。

おねーさんのお名前、聞いてもいいですか?」

 

その瞬間──

おねーさんの動きがピタッと止まった。

 

まるで時間が止まったみたいに固まって、

俺の顔をじぃっと見つめてくる。

 

(……え、なんかまずいこと言った?)

 

次の瞬間。

 

「…………っっっ」

 

おねーさんの肩が震え始めた。

 

「か、かわ……っ……!」

 

悟さんが慌てて距離を取る。

 

「やばいよ、うみ。歌姫のスイッチ入ったよ。逃げ──」

 

「逃がさないわよ五条!!」

 

おねーさんは悟さんを一喝し、

俺の両肩をがしっと掴んだ。

 

「名前聞いてくるの!?

そんな丁寧に!?

なんなのこの子、天使なの!?!?」

 

「いやいやいや!?

反応が大きすぎるってば歌姫!!」

 

悟さんのツッコミは完全に無視される。

 

おねーさんは胸に手を当て、

深呼吸してから──

 

「……庵歌姫よ」

 

と、少し照れたように名乗った。

 

その声はさっきまでの勢いとは違い、

どこか柔らかくて、

"ちゃんと名乗り返さなきゃ"という誠実さがあった。

 

「歌姫さん、ですね。

よろしくお願いします」

 

俺がそう言うと──

 

「…………っっっ」

 

歌姫さんの肩が、また震え始めた。

 

(……あ、これまた来るやつだ)

 

次の瞬間。

 

「う、うみくん……っ……!」

 

歌姫さんは両手で自分の口元を押さえ、

目を潤ませながら俺を見つめてくる。

 

「名前で呼んだ……

しかも“さん”付けで……

なんて礼儀正しいの……!」

 

悟さんが慌てて手を振る。

 

「いやいやいや!?

さっきからオーバーすぎるって!

歌姫、落ち着いて!?」

 

「落ち着けるわけないでしょ五条!!」

 

歌姫さんは悟さんを一喝し、

俺の両肩をそっと掴み直した。

 

さっきまでの勢いとは違い、

今度はまるで壊れ物を扱うみたいに優しい手つきだ。

 

「うみくん……

あなた、本当にいい子ね……

こんな丁寧で、こんな可愛くて、こんな礼儀正しくて……

どうして五条のところに……?」

 

「いやいや!?

なんで僕のところにいるのがそんなに不思議なの!?」

 

悟さんが抗議するが、

歌姫さんは完全に無視して続ける。

 

「いい? うみくん。

歌姫さんはね、あなたの味方だから。

五条に変なことされたらすぐ言いなさい。

すぐよ? すぐ!」

 

「変なことなんてしてないよ!?

ていうか僕、今日ずっと悪者扱いされてない!?」

 

歌姫さんは悟さんを手で追い払うようにしながら、

俺の頭をそっと撫でた。

 

「大丈夫よ、うみくん。

あなたはね、絶対あんなのになっちゃダメだからね。

歌姫さんが守ってあげるから」

 

「"あんなの"って言ったよね!?

今また言ったよね!?!?」

 

悟さんの叫びは、

今日何度目か分からないほど綺麗にスルーされた。

 

(……なんか、すごい勢いで庇われてるな)

 

でも、歌姫さんの手は優しくて、

その目は本気で心配しているように見えた。

 

だから俺は、少しだけ笑って言った。

 

「ありがとうございます、歌姫さん」

 

その瞬間──

 

「…………っっっっっ」

 

歌姫さんは再び固まり、

そして。

 

「かわいい~~~~!!!」

 

悟さんが頭を抱えた。

 

「ほら見て!

うみ、歌姫壊れちゃったよ!?

どうしてそんなに礼儀正しいの!?

僕の弟子なのに!!」

 

(あっ、礼儀がない自覚はあったんだ...)

 

「五条は黙ってて!!」

 

今日、悟さんが黙らされた回数は

確実に記録を更新していた。

 

---

 

そんな感じにわちゃわちゃしている時だった。

 

──コン、コン。

 

廊下の奥から、杖で床を叩くような、重い音が近づいてきた。

 

歌姫さんの肩が、ぴたりと止まる。

 

悟さんが「あ、やば」と小声でつぶやいた。

 

扉がゆっくりと開き、

落ち着いた気配をまとった老人が姿を現した。

 

白髪をきっちりと撫でつけ、

深い皺の刻まれた顔は厳格そのもの。

 

その場の空気が一瞬で引き締まった。

 

「……騒がしいと思えば、やはりお前か、五条」

 

悟さんは片手をひらひら振った。

 

「やっほー、学長」

 

(……この人が、京都校の学長)

 

歌姫さんは、さっきまでのテンションが嘘みたいに背筋を伸ばし、

俺の肩からそっと手を離した。

 

「す、すみません学長……その……五条が勝手に……」

 

「歌姫。言い訳はよい」

 

学長と呼ばれた老人は、ゆっくりと俺の方へ視線を向けた。

 

その目は鋭いが、敵意はない。

ただ、値踏みするような、静かな観察。

 

「……その子が、“期待の新星”とやらか」

 

悟さんが満面の笑みで胸を張る。

 

「そうそう! 僕の秘蔵っ子!」

 

「秘蔵っ子と言われてもな……

お前の言う"すごい"は信用ならん」

 

「ちょっと!? なんでみんな僕の評価そんな低いの!?」

 

歌姫さんは咳払いして、落ち着いた声で言った。

 

「学長。この子は本当に礼儀正しくて……

五条の教え子とは思えないくらい、まともな子です」

 

「歌姫さん、それ褒めてます?」

 

「褒めてるわよ。五条と比べれば誰だってまともよ」

 

「ひどい!!」

 

学長はそんなやり取りを軽く流し、俺に向き直った。

 

「月影うみ、だったな」

 

「はい、よろしくお願いします。学長さん」

 

「……ふむ。確かに、礼儀はあるようだ。

五条の弟子にしては珍しい」

 

「学長まで!? 僕そんな扱いなの!?」

 

歌姫さんが小声で俺に囁く。

 

「いい? うみくん。これが世間の五条悟の評価よ」

 

(……なんか、悟さんがちょっと気の毒になってきた)

 

学長は軽く頷き、悟さんへ視線を戻した。

 

「五条。勝手に来るのは構わんが……

せめて事前に連絡くらいは入れろ」

 

「えー? 僕だよ? 五条悟だよ?」

 

「だから問題なのだ」

 

「ひどい!!」

 

歌姫さんがため息をつく。

 

「……学長が来たから、そろそろ落ち着きましょう。

本来の用件、聞いておかないと」

 

悟さんは「そうだった」と手を叩いた。

 

「うみを京都校の先生たちに紹介したかっただけだよ。

ほら、将来有望だからさ!」

 

学長は少しだけ目を細めた。

 

「……まあ、顔を見せたのなら十分だろう。

長居する必要はない」

 

悟さんは満面の笑みで頷いた。

 

「じゃ、帰ろっか、うみ!」

 

(……来た意味、あったのかな)

 

歌姫さんは名残惜しそうに俺の手を握った。

 

「うみくん。また来なさいね。

五条に変なことされたら、すぐ連絡して」

 

「だから変なことなんてしてないってば!!」

 

学長は悟さんを軽く睨んだ。

 

「五条。お前は黙っていろ」

 

「今日僕、黙らされすぎじゃない!?」

 

歌姫さんは俺の頭をそっと撫でて、微笑んだ。

 

「気をつけて帰るのよ、うみくん」

 

「はい。歌姫さん、ありがとうございました」

 

その瞬間──

 

「…………っっっ」

 

歌姫さんはまた震えたが、

学長の視線に気づいて、ぐっと堪えた。

 

(……よく耐えたな)

 

悟さんは俺の肩を軽く叩いた。

 

「じゃ、帰ろっか!」

 

京都からの帰り道、

悟さんはずっとご機嫌だった。

 

「いやー、歌姫の反応面白かったねぇ。

 うみ、めっちゃ気に入られてたじゃん」

 

「……なんか、すごい勢いでしたね」

 

「うんうん。あれはね、歌姫の“素”だよ。

普段はツンツンしてるけど、好きなものには一直線なの

硝子にもそうだったから」

 

(硝子さんにもあんな感じなんだ.....)

 

東京校に戻ると、夕方の空気がひんやりしていた。

 

訓練場の灯りがつき始め、

いつもの日常が戻ってきた感じがする。

 

悟さんはポケットに手を突っ込みながら、

ふと思い出したように言った。

 

「そういえばさ、うみ」

 

「......何ですか?」

急に京都へ連れ出されたばかりなので、

少し警戒して返事をする。

 

「実はね――」

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