恵理さんの件から、だいたい半年が経った。
今も、たまに孤児院に顔を出している。
用がある、というよりは、
様子を見に行く、という言い方の方が近い。
助けて、それで終わり、なんて……
さすがに無責任だと思うから。
最初の頃は、まだ目の奥に影が残っていたけど、
最近は少しずつ、表情も柔らいできた。
全部が解決したわけじゃない。
でも、少なくとも――
"生きる側"に踏みとどまれてはいる。
それなら、今はそれでいい。
話は変わるけど。
俺は中学二年生になった。
正直なところ、
特別な感慨はなかった。
入学した時ほどの新鮮さもないし、
環境が大きく変わったわけでもない。
学校は学校で、任務は任務。
それぞれが、ただ淡々と回っている。
……変わったとすれば、
準一級としての扱いに、ようやく慣れてきたことくらいだ。
春休みの終わりごろ、
少し長めの任務を任された。
期間は十日ほど。
場所は都外で、移動も多く、
毎日高専に戻れるような内容じゃない。
「一応、中学生だからな」と言われて、
同行者はついていたけど、
現場の判断はほぼ全部こちら任せ。
便利だけど、責任が重い。
任務の内容自体は、派手じゃない。
いくつかの呪霊を処理して、
資料を押さえて、
あとはひたすら移動して、報告して。
気づけば時間が過ぎていた。
帰ってきたのは、
ちょうど平日の夕方だった。
高専で簡単な任務報告を済ませて、
「お疲れ」と言われて解散。
それだけで今回は終わりだ。
(……やっと、日常に戻った感じだな)
その日はそのまま寮に戻って、
シャワーを浴びて、簡単に食事を済ませて、
いつもより少し早めに眠った。
初めての長期任務だったせいか、
意識が落ちるのも早かった。
---
翌朝。
目を覚ますと、
窓の外はすっかり明るくなっていた。
(....あ、学校行かないとか)
体の重さは多少残っているけど、
動けないほどじゃない。
制服に着替えて、
いつも通りの時間に寮を出る。
春休みの終わりから任務に出てたため、
学校を初日から休んでるので、少し気が重い
下駄箱の前で靴を履き替えていると、
何人かに「久しぶり」と声をかけられた。
適当に会釈して、そのまま流す。
理由まで説明する必要はないし、
聞かせられる話でもない。
廊下に出て、教室へ向かう途中。
ふと、視界の端に引っかかるものがあった。
(……恵先輩?)
人の流れから少し外れた場所。
階段の踊り場付近に、恵先輩を見つけた。
伏黒恵先輩――
最初は、結構壁があった。
廊下で会って挨拶したり、
任務の話題を振ってみたり、
世間話をしてみたり。
半年前とか入学直後とかは、
それらが暖簾に腕押し状態だった。
それでもと、少しでも近づこうとした努力が実を結んだのか、
最近はようやく、壁の内側に入れてくれたような気がする。
恵先輩に声をかけようと近づいていくと、少し違和感を感じる
(.....恵先輩ってあんな感じだったっけ?)
何か違う気がするけど、何が違うのかわからない
恵先輩の少し手前で立ち止まり、
声をかけた。
「おはようございます。恵先輩」
いつも通りの挨拶をする
恵先輩は、
一拍を置いてから顔を上げた。
「.....ああ、おはよ」
短い返事。
声は、低い。
いつも通りと言えば、いつも通り。でも....
(ん~。反応も鈍いし、なんかあったのかな)
最近なら、もう一言くらい帰ってきた気がする。
(先輩からは話してくれそうにないし、聞いちゃうしかないよね?)
「あの、恵先輩。何かありました?
いつもと違うというか、なんか変わった感じがします。」
恵先輩は、
すぐには答えなかった。
一瞬、目を伏せて。
それから、ほんの少しだけ視線を横にずらす。
数秒。
でも、その間がやけに長く感じた。
廊下を行き交う生徒の足音が、
逆に浮き上がる。
「……」
何か言う前の沈黙、というより、
言うかどうかを判断している沈黙。
この半年で何度か見た、あの間だ。
やがて、短く息を吐いてから、
恵先輩は口を開いた。
「……姉が」
それだけ。
それだけなのに、
一気に空気が落ちる。
「津美紀が、呪われた」
「……津美紀さん、が……?」
思わず、言葉が零れた。
伏黒津美紀、恵先輩の姉――
直接会った回数は多くないけど、
名前と顔は知っている。
恵先輩と一緒にいる時、
何度か話題に出たことがあったし、
たまに姿を見かけたこともある。
優しい人だ、という印象が強い。
静かで、落ち着いていて、
恵先輩とは少し違うタイプだけど、
どこか雰囲気が似ている人。
「……俺は、呪術師になる」
一拍置いてから、低い声で続けた。
「もう、津美紀みたいなやつが__
.....呪われなくて済むように」
「……そう、ですか」
出てきたのは、
それくらいの言葉だった。
重たい沈黙のあとに、
無理に何かを足す気にはなれなかった。
理解しようとすればするほど、
簡単な言葉じゃ足りないと思ったから。
恵先輩は、
それ以上何も言わず、
小さく頷いただけだった。
「……またな」
短くそう言って、
そのまま校舎の奥へ歩いていく。
背中を見送りながら、
胸のどこかに引っかかりを残したまま、
俺は教室へ向かった。
---
数日後、
恵先輩は高専に来た。
正式な入学でもなく、
編入でもなく、
「訓練のため」だと聞いた。
案内されたのは、あまり使われていない訓練場だった。
そこにいたのは、
恵先輩と、悟さん。
それと――俺。
(....なんで俺まで呼ばれたんだ?)
そう思ったのは、正直なところだ。
恵先輩がここにいるのは分かる。
訓練のため、という名目も納得できる。
悟さんがいるのも、まあいつも通りだ。
でも、
俺が同席する理由が思いつかない。
「ま、とりあえず座って」
五条さんは、深く考えてなさそうな調子で言った。
訓練場の隅に置かれた簡易ベンチを指差す。
恵先輩は無言で頷いて、言われた通り腰を下ろした。
姿勢は少し硬いけど、
昨日の朝に見たときの感じはなかった。
それを確認してから、
悟さんは軽く手を叩いた。
「じゃ、本題ね」
空気が、少しだけ変わる。
「昨日も言ったけど、
これは『訓練』ってより『説明』かな」
(あぁ、恵先輩は共有されてたんだ....
....なんでいつも俺には共有してくれないの?)
「はい、先生」
とりあえず、
疑問が溜まったままになる前に、手を挙げた。
悟さんが、軽くこちらを見る。
「ん?」
「.....なんで俺、
いつも何一つ共有されてないんですか?」
我ながらストレートだと思った。
「訓練の件も、
恵先輩が高専に来るって話も、
今、初めて聞いたんですけど」
「何なら、今日呼ばれた理由も知りません」
一瞬、
空気が止まる
....いや。
止まったように感じたのは、多分俺だけだ。
俺の隣で、
恵先輩が小さくため息をついた。
「安心しろ」
低い声
感情の抜けた、いつもの調子。
「俺も、
お前が来るのは聞いてねぇ」
「.....は?」
思わず、間の抜けた声が出た。
恵先輩は、こちらを見もせずに続ける。
「呼ばれたのは昨日だ。
内容も、ここに来るまで知らなかった」
唖然とした。
最低でも今日のメインの恵先輩くらいには共有してるだろうと思ってた。
「.....悟さん」
少しあきれを含んだ声で悟さんに話しかける
「そんなだから、硝子さんとかに
『ダメ人間』って言われるんですよ?」
半分冗談、
半分本気でそう言うと。
悟さんは一瞬きょとんとしてから、
「あー……」
と、間の抜けた声を出した。
「まあね。
否定はしないかな」
即座に認めた。
(否定してよ....否定できるような人間であってよ)
「だってさ、
全部前もって説明したら、
緊張感なくなるでしょ」
悪びれた様子もなく、
肩をすくめる。
「それに、
結果的に来てるんだから
問題ないじゃん」
……そういう問題じゃない。
俺が言い返すより先に、
悟さんは手を叩いた。
「はいはい。
苦情受付はここまで」
「ちゃんと理由はあるから。
今から話す」
場の空気を、
強引に切り替える。
「恵」
名前を呼ばれた恵先輩は、
小さく顔を上げた。
「……はい」
短い返事。
でも、迷いはない。
悟さんは、
こちらを一瞬だけ見てから、
続けた。
「さっきも言ったけど、
今日は訓練というより説明」
「恵が、
これから何を扱うことになるのか」
「それを、
本人にちゃんと知ってもらうための場」
そう前置きしてから、
淡々と言う。
「恵の術式は、
禪院家の相伝」
一拍。
「
その名前を口にした瞬間、
影が、
わずかに動いた。
床に落ちた影が、
揺れたというより――
“応えた”ような感覚。
……気のせいかもしれない。
(.....というよりも)
「あの、悟さん?」
一番の問題点に気づいて、
悟さんが続けるより早く声をかける
「なにさ。今日はガンガン止めてくるね」
悟さんは、面白がっているような調子で言った。
俺は一度、言葉を選んでから口を開く。
「……いや、その」
視線が、
さっき揺れた影に引っ張られるのを感じながら。
「今の話なんですけど」
「俺、
ほんとにここにいて大丈夫なんですか?」
声は、
思っていたより落ち着いていた。
「禪院の相伝って....
コピーなんかできちゃったら、
まずいですよね?」
悟さんは、
すぐには答えなかった。
代わりに。
「……コピー?」
低い声が隣から落ちる
恵先輩がほんのわずかに眉を寄せて、
こちらを見る。
「はい」
俺はうなずいてから説明する
「俺の術式が"術式のコピー"なんです。
仕組みを理解した術式をコピーできるって感じの」
「だから――」
俺は、少し言葉を探してから続けた。
「心配というか。
気になっただけなんです」
視線を逸らしながら、
「....あの家、
術式にうるさいですし」
遠回しな言い方だったけど、
意味は伝わるはずだった。
禪院家。
相伝術式。
管理。
血筋。
はっきり言わなくても、
そのあたりの空気は、
この場にいる全員が共有している。
恵先輩は、
一拍だけ間を置いた。
それから、
「ふう」と短く息を吐く。
「……なるほど」
そう言ってから視線を上げた。
「コピーって聞いて、
少し引っかかった」
事実を並べるみたいな口調だった。
「そんな家の人間が聞いたら、
確かに、面倒くさいだろうな」
他人事だ。
完全に。
「……ですよね」
俺がそう返すと、
恵先輩は小さく肩をすくめた。
「でも、
俺は気にしない」
きっぱり。
「術式がどうこうより、
使うのは俺だ」
一拍。
「禪院がどう思うかは、
俺の問題じゃない」
「だから俺は、お前が居ようが居まいがどっちでもいい」
悟さんは、
少しだけ間を置いてから口を開いた。
「あー……うん」
軽く頷く。
「それは、
まあ、気になるよね」
拍子抜けするほど、
あっさり肯定された。
「禪院の相伝だし、
コピーされたってなったら、
禪院家もうるさいだろうね」
俺は、
思わず少しだけ息を吐いた。
分かってくれている、
という感覚。
悟さんは続ける。
「でもさ」
肩をすくめて、
「でも、別にいいでしょ」
「君、
聞かなかったら聞かなかったで、
別のところで理解しちゃうでしょ」
図星だった。
恵先輩が使ってるのを見続けたら、
いつか理解する可能性はないこともない。
「だったら、
最初からここで聞いてた方が、
まだ安全」
「それに」
一瞬だけ、
恵先輩を見る。
「本人が気にしてない」
それだけ言って、
話を切る。
「だから結論は、
"別にいい"」
軽い。
でも雑じゃない。
「心配するのは正しいけど、
問題になるほどじゃない」
その言い方は、
無責任でも楽観でもなかった。
「まあ、
ちゃんと危ないところは
俺が止めるしね」
最後だけ、
いつもの五条悟だった。
「……ま」
悟さんは、
軽い調子で再び手を叩いた。
「この件はこの辺でいいでしょ」
「問題は分かった。結論も出た」
「じゃあ――」
ちらりと時計を見る。
「本題、行こっか」
あっさり。
本当に、それだけだった。
恵先輩は特に何も言わない。
納得した、という顔でもないけど、
異論もなさそうだった。
俺は、
……何も言えなかった。
確かに、
筋は通っていた。
五条さんの言い分も、
恵先輩のスタンスも、
理屈としては理解できる。
でも。
(……何も、解決してない)
禪院家の話が消えたわけじゃない。
俺がコピーできる事実も、
消えたわけじゃない。
ただ――
(先送りにしただけじゃないか、これ)
今は問題じゃない。
今は騒ぐほどじゃない。
今は大丈夫。
そう言われて、
話題を畳まれただけだ
悟さんは、
そんな俺の内心をよそに
説明を再開した
「じゃあ続きね」
「まずは、『十種影法術』の基本から」
その声を聞きながら、
俺は少しだけ視線を落とした。
床に伸びる、
自分の影を見る。
(……これ)
理解すれば、
コピーできる可能性がある。
使えるかどうかは別として、
「持ってしまう」こと自体は、
もう避けられないかもしれない。
(.....まぁ)
小さく、息を吐く
(そうなってから考えよう)
「まず前提として、この術式は"影"が本体」
「影を媒介として十種の式神を呼び出す術式だよ」
(十種類だから
「ポイントは二つ」
指を立てる。
「一つ目。
式神は"最初から全部使える"わけじゃない」
「最初から使えるのは一種類だけ....
それ以外を使いたいなら、"調伏"する必要がある」
「調伏...ですか?」
恵先輩が聞く
「そう。簡単に言えば、式神と戦って勝つってこと」
(結構シンプル.....)
「で、二つ目」
指がもう一本立つ。
「一度破壊された式神は、
もう呼び出せない」
一拍。
「代わりに、"力だけ"がほかの式神に引き継がれる」
(つまり....)
「全部壊されたらおしまいってことですか?」
思っていたより、
素直な疑問が口から出た。
悟さんは、
「まあ」と軽く相槌を打つ。
「そうなるね。めったに起こらないだろうけど
式神を失うごとに残った式神が強くなってくわけだからね」
と言ってから一拍おいて、
「はい。
十種影法術の基礎は以上。
今日はここまで」
「……以上?」
恵先輩が、低い声で言った。
語尾は疑問形だけど、
明らかに不満ですって感じだ。
「説明は分かりました」
視線は悟さんに向いたまま。
「でも、これで終わりってのは、
少し悠長じゃないですか」
沈黙。
「言いたいことはわかるよ、恵」
拍子抜けするほど、穏やかな声。
「でもさ」
指で顎を軽く叩きながら、続ける。
「一気に詰め込んでも、
身体がついてこないでしょ」
恵先輩は何も言わない。
「だから、今日はおしまい
どうやって出すか、どうやってしまうか、どうやって調伏するか、
そういうのはまた明日」
恵先輩は、しばらく黙っていた。
「......わかりました」
短い返事。
でもさっきより、
少しだけ力が抜けている。
悟さんは、満足そうに頷いた。
「よし」
「じゃあ今日はここまで」
軽い。
本当に、切り替えが早い。
「恵は明日も来て」
「もちろん、うみもね」
ちらりと、俺を見る。
「.....わかりました」
「.....りょーかいです」
俺たちの返事に満足げにうなずくと、
悟さんは「じゃあね~」と言って出ていった