時間を少し遡る。
うみが京都校の学生寮の窓から飛び出し、山間部へと向かっていた時のことだ。
夜の冷たい空気を切り裂きながら、うみは宙を駆けていた。
空中に『反射線』を次々と展開し、それを足場にして一直線に跳躍を繰り返す。
地形も障害物も無視した、直線距離での最短移動。
それでも、少年の胸を焦燥感が焼き焦がしていた。
先ほど放った式神・響蝠からのパスが弾かれたことで、目的地である一帯に『帳』が下ろされていることはすでに知覚している。
(間違いなく、メカ丸先輩はあそこにいる)
通信を絶ち、人気のない山間部へ身を潜める。内通者が追手を逃れるためならば、その行動自体は理解できる。
だが、うみの思考には一つの確かな疑問が引っかかっていた。
(ただ隠れるだけなら、あんな巨大な帳なんて下ろさない方がいいに決まってる)
帳は非術師の目を誤魔化すには有効だが、呪術師からすればそこに「異常事態がある」と宣伝しているようなものだ。
完全な隠密行動を意図するならば悪手でしかない。
にもかかわらず、外部との接触を遮断する強固な結界が張られている。
それが意味することは――
取引の最中か。
それとも、交渉が決裂し、用済みとして消されようとしているのか。
あるいは、初めから向こうは約束を守る気などなく──
最悪の想像が次々と脳裏をよぎり、足元の反射線を踏み抜く力にさらに拍車がかかる。
視界の先に、周囲一帯をすっぽりと覆い尽くす漆黒の半球。
「……あそこか」
(ちょっと複雑ではあるけど、この程度なら解ける)
だが、帳を解除すれば、その瞬間に中にいる術者に介入を気づかれる。
解除と同時に一気に踏み込んで制圧するつもりだが、相手の戦力も状況も未知数だ。万が一のための保険は必要だろう。
うみは空中でわずかに減速すると、ポケットからスマートフォンを取り出した。
画面を開き、連絡先の『五条悟』のトークルームを呼び出す。
事の経緯や現状を文字で打っている暇はない。画面を数回タップし、現在位置のGPS情報だけをポンと投下して送信した。
(これでよし)
スマホをポケットに放り込み、帳の外周に着地する
帳を構成する呪力の流れ、術式の結び目を完全に把握する。
自身の呪力を極限まで細く鋭く研ぎ澄まし、結界の綻びへと流し込む。
知恵の輪を解くように、結界の要を『解錠』する。
バシュッ
辺り一帯を覆っていた漆黒のドームが弾け、霧散していく。
だが、解除の達成感に浸る暇など一秒もない。
うみは帳が消えたと同時に、自身の呪力を極限まで隠蔽し、気配を完全に断ち切った。
そして、闇に溶け込むように、音もなく、しかし爆発的な速度で山間部を一気に疾走する。
木々を抜け、視界が開けた先に広がっていたのは、想像を絶する光景だった。
無残に崩壊していく規格外の巨大な傀儡。
そして、剥き出しになった操縦席で、今まさにツギハギの特級呪霊の巨大な掌が、
与幸吉の肉体に触れようとしている絶体絶命の瞬間だった。
(ギリ、射程内...!)
うみは疾走しながら、自身の足元にあった適当な小石を拾い上げ、瞬時に己の呪力を込める。
そして、その小石を軽く宙へ放り投げ――両手を胸の前で構えた。
パンッ――
乾いた拍手と共に、『不義遊戯』を発動する。
術式が発動した直後、うみの手元にあった小石は真人の巨大な掌の真正面へと転移し、そのまま粉砕される。
同時に、操縦席にいた与幸吉の身体は、うみのすぐ隣――安全な森の中へと引き寄せられた。
(……結構ぎりぎりだったなぁ)
――そして、現在。
俺は、へたり込むメカ丸先輩――改め幸吉先輩を背中で庇うように立ち、前を見据えていた。
視線の先。
手の中に残った石の粉を見て不思議そうに首を傾げていたツギハギの呪霊が、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。
「えーっと……君、誰?」
無邪気な声。
だが、目隠し越しの『六眼』が捉えるその呪力は、
おぞましいほどにどす黒く、そして重い。
「...ツギハギのほうはちょっと前に報告に出てましたけど、
頭に縫い目のある方は知らないですね。呪霊ではないみたいですが」
俺がわざとらしく呟くと、背後で幸吉先輩が荒い息を吐きながら声を絞り出した。
「……気をつけろ、月影……そいつは、夏油……夏油傑だ……!」
「……夏油?」
俺は目を細めた。
(たしか、去年の百鬼夜行の首謀者……なんだけど)
「殺したって聞いてるんですけど。
呪術って蘇生もいけるんですか? でなきゃ偽物ってことですけど」
俺の問いに、袈裟姿の男──夏油が、薄く笑みを浮かべながら一歩前に出た。
「そう警戒しないでほしいな。それに、私はちゃんと生きているだろう?
直接会うのは初めてだね。今、紹介に預かった夏油傑だ」
「ご丁寧にどうも。どうせ知ってるだろうけど、月影うみです
もう会いたくないのでよろしくしなくてもいいですよ」
俺は肩をすくめ、はっきりと告げた。
「それに、あなたは確かに生きてるんだろうけど、夏油傑は死んでますよ」
夏油の笑顔が、ほんのわずかに止まる。
「悟さんが殺したって言ってたので。
あの人は、相手が誰であろうとちゃんと殺せる人です」
俺の言葉に、夏油は一瞬だけ目を細めたが、すぐに面白そうに喉を鳴らした。
「……ふふっ。なるほど、君が『五条悟の秘蔵っ子』だね?
噂には聞いていたが、なかなか口が減らない」
「あー! 君が花御を祓ったっていう子? 五条悟と同じ目を持ってるっていう」
今の会話を聞いてかツギハギの呪霊が声を上げた
「……一人で祓ったみたいに言うのはやめてください。先輩たちと一緒でしたから」
俺は淡々と訂正しつつ、首を傾げた。
「それと、俺は名乗りましたよね? そっちも名乗ってくれませんか。マナーでしょ」
俺の軽口に、ツギハギの呪霊はきょとんとした後、嬉しそうに口角を吊り上げた。
「あははっ! 面白いね君! 俺は真人。
君たち人間から生まれた呪霊だよ!」
真人の瞳に、明確な『興味』と『殺意』が宿る。
子供が新しい玩具を見つけたような、純粋で残酷な目。
「メカ丸はもう飽きちゃったし、ちょうどいいや! 君、遊ぼうよ!!」
その言葉と同時に、真人が姿勢を深くする
俺は前を見据えたまま、背後の幸吉先輩に告げた。
「この人たちは俺が足止めするので、その間に離脱してください」
「……何だと?」
与が荒い息のまま、信じられないというように声を絞り出す。
「お前一人で、特級呪霊と……夏油傑を相手にするつもりか! 無茶だ、俺も残って――」
「残られても困ります」
俺は言葉を遮って、冷たく事実だけを告げた。
「ぶっちゃけ、幸吉先輩がいる状態で領域出されたら負けなんです。
幸吉先輩が死んじゃうのがこっちの敗北条件なので」
もし真人が領域を展開した場合、
生身で領域への対策を持たない幸吉先輩は死んでしまう
「…………っ」
幸吉先輩は悔しそうに歯を食いしばる。
「……だが、これでお前に何かあれば……三輪に合わせる顔がない」
「……はい?」
俺は一瞬、本気で耳を疑って振り返りそうになった。
「……? なんでそこで霞先輩が出てくるんですか?」
「は?」
幸吉先輩がぽかんとする。
「いや、悟さんならわかりますよ? 一応俺の保護者なので
……なんで霞先輩なんですか? そこそこに仲いい自覚はありますけど...」
絶体絶命の戦場。
特級の呪霊と呪詛師を前に俺は心底不思議そうに首を傾げた。
交流会の時もそうだったが、どうして京都校の人たちは、時々こういう謎の思考回路になるのだろう。
「……お前、マジで言ってんのか」
幸吉先輩は呆れたように、そして少しだけ同情するような目で俺を見る。
「はい。マジですけど」
「……いや、もういい。忘れてくれ」
幸吉先輩は深く息を吐き、重い体を何とか起こそうと膝に手をついた。
「……それに、幸吉先輩。みんなに会いたいんでしょ?」
俺の言葉に、与の動きがピタリと止まる。
「そのためにわざわざ、内通者なんてリスクまでとったんでしょ」
幸吉先輩は唇を強く噛みしめ、やがてぽつりと呟いた。
「……ああ」
「なら、行ってください。この人らはどうにかします
それに、一応悟さんには連絡とってありますし」
「……五条悟が」
幸吉先輩の目に、確かな希望の光が宿る。
「……分かった。死ぬなよ、月影」
幸吉先輩は踵を返し、森の奥へと向かって走り出した。
「さて」
俺は正面へ向き直る。
そこには、獲物が逃げるのを気にも留めず、楽しそうに笑う真人の姿があった。
「あーあ、逃げちゃった。いいの、夏油?」
「いいさ。まずはあの子を仕留めて、それから追えばいいだけだからね」
夏油が静かに一歩前に出る。
だが、真人がその前にすっと手を差し出した。
「ねぇ、夏油。俺が遊ぶんだから、邪魔しないでね」
「……なら、急いでくれよ。メカ丸に完全に逃げられてしまう」
夏油が少しだけ呆れたように返すと、真人は首を傾げた。
「えー? じゃあ、夏油一人で追えばいいじゃん。俺はここでこの子と遊んでるからさ」
「そうしたいのは山々だがね」
夏油は薄く笑みを浮かべたまま、その鋭い視線を俺へと向けた。
結界を破られてから、一切の気配を感じさせずに懐まで入り込まれた先ほどの異常な隠密性。
それが、夏油の警戒心を引き上げていた。
「あの子は未知数だ。油断すれば、万が一にも君が祓われる可能性がある。
もしそうなれば、今後の計画が大きく狂ってしまうからね」
「へぇ……俺が負けると思ってるの?」
真人が不満げに唇を尖らせるが、夏油はそれ以上何も言わず、ただ静かに呪力を練り上げ始めた。
俺は両手に呪力を込め、二人の特級を前にして小さく息を吐いた。
そして、静かに手印を結ぶ。
「『闇より出でて闇より黒く――その穢れを禊ぎ祓え』」
俺を中心に、空を覆うような漆黒の『帳』がドーム状に展開され、周囲一帯を完全に封鎖した。
夏油が、面白そうに目を細める。
「……帳? こんな山奥で。そんなに周囲への被害が気になるのかい?」
「いいえ」
俺は印を解き、淡々と答える。
「この帳は、そういう『周囲への影響を消す』効果は抜いてあるんです。
内側に閉じ込める効果だけを付与して、
残りのリソースは結界の頑丈さと構造の複雑さに振り切ってる」
夏油の笑みが、ほんの少しだけ深くなる。
「……早い話、ここから出たければ俺を殺しな、ってことです」
「先に言っとくけど、結構しつこいよ、俺」
──その言葉を合図に、静寂が弾けた。
---
「あははっ! 面白い!」
真人の肉体が瞬時に膨張し、両腕が鋭利な刃へと変貌する。
地を蹴る音もなく、その巨体がうみの眼前へと一瞬で肉薄した。
物理的な質量を伴った必殺の斬撃が、うみの首を刈り取ろうと迫る。
だが、うみはその場から一歩も動かない。
キンッ!
真人の刃が、うみの顔面数センチの空間で弾かれた。
あらかじめ展開されていた不可視の『反射線』。
「おっと?」
真人がわずかに体勢を崩したその瞬間、うみは足元の反射線を踏み抜いた。
弾き飛ばされるような速度で真人の死角──上空へと跳ね上がる。
(まずは一撃!)
ゴッ!
十劃呪法による強制的な弱点付与。
特級呪霊の頑強な肉体であろうと、その効果は免れない。
真人の左腕が、肩口からボキリと不自然な音を立ててへし折れる。
だが。
「……ほんとに効かないんだね」
うみは空中で舌打ちをし、すぐさま反射線に切り替えて距離を取った。
着地したうみの視界の先で、真人は折れた腕をブラブラとさせながら、ゲラゲラと笑っていた。
「すごいね! 今の、七三術師の術式でしょ!? 君、ほんとに何でもできるんだね!」
グチャリ、と嫌な音を立てて、真人の腕が瞬く間に元の形へと戻っていく。
無為転変による、魂の形を維持したままの肉体再生。
(相手の呪力切れまで粘るか? いや無理だな)
うみの六眼が、特級二体の呪力を冷静に分析する。
と、その時。
「……彼と遊ぶのは構わないが、あまり時間をかけすぎないでくれよ」
夏油の冷酷な声と共に、背後から無数の羽音が響いた。
巨大なムカデのような呪霊と、無数の刃を持った飛行呪霊が、うみを挟み撃ちにするように襲い掛かってくる。
夏油傑の『呪霊操術』。
さらに前方からは、真人が両腕を鈍器に変えて突進してくる。
「よそ見してると死ぬよ!」
(二体同時……普通にやれば詰みだけど)
うみは足元の反射線を蹴り、あえて夏油の放った飛行呪霊の真正面へと跳んだ。
真人が追従し、うみの背中へ必殺の掌を伸ばす。
触れられれば終わり。だが――
「おっと」
うみは空中で身を捻り、向かってきた飛行呪霊の巨体を掴んで『盾』にした。
「!?」
真人の掌が、うみではなく飛行呪霊にべちゃりと触れる。
『無為転変』の対象が逸れ、飛行呪霊の魂が歪められて破裂した。
(真人の術式は強力、触れられたら即負け。でも――)
夏油の出す呪霊を壁として使い、真人の術式を防ぐ。
そして、呪霊の肉片が飛び散る死角を利用し、うみは空中に展開しておいた反射線を連続で踏み抜いた。
「なっ――」
狙うのは、物理ダメージが通用しない真人ではなく、夏油傑。
不規則かつ超高速の軌道で夏油の懐へ入り込む。
「甘いよ」
夏油が即座に防御の呪霊を展開しようとするが、うみの踏み込みの方がコンマ数秒早い。
(まずは、ダメージの通る方から!)
うみの呪力を込めた一撃が、夏油へと振り下ろされる。
ガシィッ!
夏油の腕を硬質な呪力──小型の呪霊の甲殻が覆い、うみの一撃を間一髪で受け止める。
十劃呪法の効果で甲殻はひび割れたが、夏油の肉体までは届かない。
「……素晴らしいね」
防御越しに伝わる重い衝撃に、夏油は目を細めて賞賛を口にした。
「真人の無為転変を、私の呪霊を盾にすることで対処する。
そしてこの不規則な機動での高速戦闘……五条悟が手元に置きたがるわけだ」
うみは夏油の防御を蹴って空中で距離を取りながら、手印を結んだ。
「ごめんね。俺、こういう乱戦の方が得意なんだ」
足元の影が、ドロリと沈む。
そこから飛び出したのは、二股の尾を持つ二匹の猫の式神――『猫又』。
「にゃあ!」
猫又(影)が、影から影へと溶け込み、死角から鋭い爪を立てる。
同時に、猫又(焔)が、背後から迫る真人へ向かって、灼熱の火球を吐き出した。
「熱っ!」
真人が大げさに声を上げながら、火球を腕で払いのける。
その隙を突き、夏油の足元の影から飛び出した猫又(影)の爪が袈裟を裂くが、浅い。
「これは十種影法術か。
……まさか君、術式をコピーできるのかい? 乙骨優太と同じように」
夏油が鋭く推測を口にしながら、新たな呪霊を呼び出す。
硬い甲殻を持つ呪霊が壁となり、猫又の追撃を防いだ。
(やっぱり、この二人相手じゃ猫又だけじゃ押し切れないか)
うみは空中に反射線を展開し、夏油の放った無数の小型呪霊の群れを飛び石のように躱していく。
「逃げんなよ!」
真人が腕を鞭のように伸ばし、うみの足を絡め取ろうと迫る。
だが、うみは空中で体を捻り、十劃呪法を込めた手刀で真人の腕を7:3の比率で切断する。
「痛いなぁもう!」
真人は瞬時に腕を再生させ、再びうみへと肉薄する。
夏油もまた、死角から呪霊を放ってくる
(息を合わせられたら面倒だ。一瞬でいい、思考を分断する……!)
うみは空中で手印を結び直す。
「おいで」
影の中から現れたのは、九つの尾を揺らす狐の式神。
新たに調伏した十種の一つ――『幻狐(げんこ)』。
「コンッ」
幻狐が甲高く鳴いた瞬間、周囲の空間がぐにゃりと歪んだ。
視覚、聴覚、呪力感知。そのすべてを一時的に狂わせる幻覚の術式。
「……おや?」「ん?」
特級である二人の圧倒的な呪力抵抗の前では、この程度の幻覚は"一瞬のブレ"にしかならない。
コンマ数秒にも満たない、ごくわずかな空白。
だが、うみにとってはその一瞬があれば十分だった。
「シッ!」
反射線を爆発的に踏み抜き、夏油の懐へと一気に潜り込む。
幻覚による遅れと、不規則な軌道。
夏油の防御呪霊が展開されるよりも早く、十劃呪法を乗せた重い一撃が夏油の腹部へと叩き込まれた。
「……ッ!!」
夏油の身体が、くの字に折れ曲がりながら後方へ吹き飛ぶ。
(ようやく、通った...)
うみが追撃をかけようとした、その時だった。
「……素晴らしいね。だが」
吹き飛ばされながらも、夏油は空中で体勢を立て直し、冷酷な目でうみを見据えた。
「そろそろ、遊んでいる時間もなくなってきたね」
その言葉に、うみの背後へ迫っていた真人が足を止める
「えー? まだ遊び足りないんだけど……。ま、しょーがないかぁ」
真人は不満げに口を尖らせながらも、両手を顔の前で合わせた。
その構えを見た瞬間、うみの背筋に強烈な悪寒が走る。
(さて、どこまでやれるか)
真人の無邪気な声が、空間そのものを塗り潰すように響き渡った。
「領域展開」
『
無数の巨大な手が連なる、真人の生得領域。
その必中効果は『魂への干渉』、すなわち『無為転変』。
逃げ場はない。
領域内に引きずり込まれた瞬間、必中の効果がうみを襲う。
「もーちょっと遊びたかったんだけどなぁ」
真人が勝ち誇ったように笑う。
「シン・陰流――『簡易領域』」
半径数メートルの空間に、うみを中心とした薄い結界が展開される。
あらゆる術式を中和する、唯一の領域対策。
これにより、真人の必中効果は一時的に無効化された。
だが、うみはその場に留まらない。
簡易領域を纏ったまま、地面を蹴って領域の外周――漆黒の結界の壁を目指して一気に疾走し始める。
「えっ!?」
真人が目を丸くして、慌てて後を追ってくる。
「ちょっと待って!? それって動けんの!?」
「器用が取り柄なんで!」
うみは振り返らずに答えながら、足を止めずに駆け抜ける。
(この領域の結界の端まで走って、外に脱出できれば俺の勝ち。
逆に、それまでに簡易領域が剥がれたら負けかぁ……)
走りながら、うみの頭脳がフル回転で状況を整理していく。
だが、その思考の途中で、ふと一つの疑問が浮かんだ。
(……あれ?)
簡易領域は、あらゆる術式を『中和』する。
必中効果を打ち消すだけではない。
(じゃあ、このままぶん殴ったらどうなんの?)
「あははっ! 逃がさないよ!」
背後から、真人が両腕を刃に変えて迫ってくる。
うみは、領域の壁を目指していた足を――急激に止めた。
そして、地面を削るようにして強引に方向転換し、
背後から迫る真人の真正面へと、逆に鋭く踏み込んだ。
「え?」
逃げていたはずの獲物が、突然自ら懐に飛び込んできた。
その予想外の行動に、真人の反応が一瞬だけ遅れる。
すべての呪力を右拳に凝縮し、真人の顔面へ――純粋な打撃を叩き込む。
ゴッ!!!
「ぐぁっ……!?」
鈍い音が響き、真人の身体が後方へ大きく吹き飛ぶ。
吹き飛んだ真人が、顔を押さえながら驚愕に目を見開く。
物理ダメージが通用しなかったはずの真人の顔面が、明確にひび割れていた。
「ははっ……嘘だろ……!?」
「ははっ! やっぱり効くじゃん!!」
うみは口角を吊り上げた。
(なら、こっちのが早い!)
うみは簡易領域を維持したまま、再び地を蹴る。
「ハッ!!」「ぐっ……!?」
無為転変が中和されている領域内。
純粋な呪力操作と体術のみの、一方的な乱打戦。
「いっ、たぁ……!」
真人が必死に防御するが、うみの動きは止まらない。
普段のうみであれば、戦況の確認、相手の分析、そして数ある手札からの術式の選択と、
常に頭の中で複数の思考を同時並行させている。
だが、今は違う。術式が使えない今、
『簡易領域の維持』と『目の前の相手を純粋な呪力と体術で殴り倒す』。
ただそれだけに思考を絞りきっていた。
余計な思考を必要としない分、その打撃はいつにも増して重く、そして鋭く速い。
五条悟にも劣らない異常な呪力操作による身体強化が洗練された体術とともに、
真人の肉体を次々と打ち砕いていく。
「そろそろきついでしょ!」
ゴァッ!!
最後の一撃が真人の腹部に深々とめり込み、その巨体が領域の壁へと叩きつけられた。
メキッ……パリィィィン!!
真人がダメージに耐えきれず、領域を維持する呪力が霧散する。
漆黒に包まれていた世界がガラスのように砕け散り、元の山間部の景色が戻ってきた。
領域の外で待機していた夏油は、ダメージを受けてふらつく真人の姿を見て、目を細めた。
(領域を力技で崩壊させた……それに、真人に対して明確な有効打を持っているのか)
夏油の目から、それまでの"観察"の色が消え失せる。
(あの子は、ここで確実に殺しておかなくてはならない)
明確な殺意。夏油の背後に、先ほどとは比べ物にならない数の呪霊が蠢き始める。
真人もまた、顔のひび割れを再生させながら、ゲラゲラと狂ったように笑い始めた。
「あはははっ! 痛い! 痛いね! 最高だよ君!」
再び二人の特級が、うみを挟み込むようにじりじりと包囲を狭めていく。
うみは額の汗を拭いながら、その圧倒的なプレッシャーを前に冷静に思考を回していた。
(……マズいな。このままじゃジリ貧だ)
うみの呪力総量は乙骨憂太ほどではないが多い部類に入る。
それに加えて六眼の効果で呪力切れはない。
だが、肉体的な『体力』と『集中力』は別。確実に削られている。
特級二人相手の絶え間ない乱戦、そして領域内での極限の攻防。
(悟さんが来るまでは持たないかなぁ....)
このまま防戦を続ければ、確実にどちらかの決定打をもらう。
うみは深く息を吸い込み、ふっと全身の力を抜いた。
(なら――少しでも生き残る確率が高い方に賭けるか)
うみは姿勢を解き、両手をだらりと下げた。
無防備なその姿に、夏油と真人が一瞬だけ警戒して動きを止める。
(憂太先輩が一回だけ見せてくれたあのビーム...)
乙骨憂太がその膨大な呪力を一方向へ制御して放つ一撃
だが、この二人を相手に「一方向」への攻撃など、簡単に躱されるか、呪霊の壁で防がれるのがオチ。
故にうみは――その制御を捨てる
「……何を企んでいる?」
夏油が鋭く問うが、うみは何も答えない
ただ、体内に循環させていた呪力の『出口』を、すべて塞いだ。
ドクンッ、と。
心臓が異常な音を立てる。
行き場を失った莫大な呪力が、月影うみという『器』の中で行き場を失い、悲鳴を上げ始めた。
「……っ……」
皮膚の表面に、血管が青黒く浮き上がる。
体内の圧力が急激に高まり、足元の地面が呪力の重さだけでメキメキとひび割れ始めた。
(痛い、熱い、身体が……破裂しそうだ)
「真人、退がれ!!」
夏油が顔色を変え、叫んだ。
うみは、浮き上がる血管と激痛の中で、少しだけ笑みを作った。
そして、目の前で驚愕する真人へ視線を向ける。
「ねえ、真人。君は、チリも残らず吹き飛んだらどうなるの?」
「えっ――」
「吹き飛べっ!!」
──全方位無差別・高出力の呪力放出。
その瞬間。
、目も開けていられないほどの青白い閃光が爆発的に膨張した。
「ッッッ!!」
夏油が即座に呼び出した最上級の防御呪霊も、真人の腕の盾も、一切の例外なくその光に飲み込まれていく。
音すらも置き去りにする、純粋な破壊の光のドームが、周囲の山間部一帯をすっぽりと削り取っていく。
すべてが白く塗り潰され、そして──
──ゴォォォォォォォォォォンッ!!!
遅れてやってきた凄まじい轟音が響いた
---
時間を少し遡る。真人が二度目の領域を展開したのとほぼ同刻
「……はぁ、はぁ……」
与幸吉は、薄暗い山道を必死に走っていた。
長年動かしていなかった生身の肉体は重く、少し走るだけで肺が焼けつくように痛む。
(あのまま逃げて、よかったのか……?)
脳裏に、黒いパーカー姿の少年の顔が浮かぶ。
一人で、あの特級呪霊と夏油傑を足止めすると言って笑った、五条悟の秘蔵っ子。
(もしあいつが死ねば……三輪たちは……)
与の足が、ふと止まりかける。
だが、その時だった。
「あー、いたいた。やっぱりこっちか」
「!?」
与が驚いて顔を上げると、そこには見慣れた黒い目隠しをした長身の男──五条悟が立っていた。
スマホの画面を見ながら、与の方へと歩いてくる。
「五条、悟……!」
「やっほー。うみからGPS飛んできてさ、急いで来てみたら君が走ってるんだもん。びっくりしたよ」
五条は軽い口調で言いながら、与の周囲を見回した。
「で? うちの可愛い教え子はどこ?
詳細なしの連絡なんて、結構ぎりぎりっぽいけど」
「あいつなら、あの山の中だ……!
俺を逃がすために、呪霊どもの足止めを――」
与がそこまで叫んだ、その瞬間だった。
ピカァァァァァァァッ……!!!
与が指差した山間部の奥深くから、夜の闇を完全に吹き飛ばすほどの、強烈な青白い閃光が弾け飛んだ。
「なっ……!?」
直後、遅れてやってきた凄まじい轟音と爆風が、二人のいる場所まで押し寄せてくる。
木々がなぎ倒され、与は思わず腕で顔を覆った。
「……今のは」
五条が、目隠しの奥の『六眼』でその光の発生源を真っ直ぐに見据える。
「うみの呪力……? とにかく、行ってみないと分からないね」
爆風が収まるや否や、五条は与の首根っこを掴んだ。
「とりあえず、君は確保。一緒に確認しに行くよ」
五条はそう言い残し、与を連れて閃光の発生源──爆心地へと一瞬で
……数秒後。
土煙が晴れたあとに残っていたのは、木々も地面もすべてが消し飛び、底が見えないほど深くえぐれた巨大な大穴だけだった。
周囲は焼け焦げて真っ黒になっており、破壊のすさまじさを物語っている。
「こりゃあ……ひどいな」
五条が周囲を見渡す。
だが、六眼をもってしても、そこにうみの気配はおろか、
呪霊や呪詛師の残滓すらまともに追えないほど空間が乱れていた。
「これじゃ、どっちの生死確認もできないね」
「……俺の、せいだ」
与が、血の気の引いた顔で大穴を見つめ、ギリッと歯を食いしばる。
「俺があのまま逃げずに……っ」
「はいはい、自分を責めるのは後。まずは君を連れ帰るのが先決」
五条は自責に駆られる与の肩をぽんと叩き、夜空を見上げた。
「ま、うちの子だし。ちゃんと生きてるでしょ。……だよね、うみ?」
五条はそう呟くと、与を連れてその場から完全に離脱した。
---
五条たちが去ってから、数分後。
「……ゲホッ、ハァ……」
大穴の縁、土砂の中から、袈裟の半分を吹き飛ばされた夏油が這い出してきた。
彼を守っていた無数の呪霊たちは、跡形もなく消し飛んでいる。
「……まさか、あそこまでの出力とはね」
少し離れた場所では、真人が全身の半分以上を吹き飛ばされながらも、
ゲラゲラと狂ったように笑いながら肉体を再生させていた。
「あはははっ! やばいねあの子! マジで死ぬかと思ったよ!」
夏油は立ち上がり、大穴の中心──何もない焦土へと視線を向ける。
「姿は見当たらないが……あの爆発の中心にいたんだ。さすがに、チリも残らず消し飛んだだろうね」
「えー? もうお別れ? つまんないの」
真人は不満げに唇を尖らせたが、すぐにケラケラと笑い、誰もいない大穴へ向かってひらひらと手を振った。
「バイバイ! 面白かったよ!」
「……与幸吉は五条悟に確保されたか。面倒なことになったね」
「いいの? 連れてかれちゃったけど」
「仕方ないさ。計画を少し前倒しにして、五条悟が出ざるを得ないような状況を作ってやればいいだけだからね」
二人の特級の気配が、夜の闇の中へ完全に消えていく
【記録報告】
2018年10月19日。
京都府○○山中にて、特級呪霊及び呪詛師・夏油傑と交戦。
周辺一帯を巻き込む大規模な爆発痕が確認されるも、該当者の姿は発見できず。
同日をもって、東京都立呪術高等専門学校一級術師・月影うみは、
任務中における『生死不明』として処理された。
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Side:???
「……いてて」
静かな空間に、声だけがやけに響いた。
ゆっくりと目を開ける。
視界に映るのは、ゴツゴツとした岩肌の天井。どこかの洞窟か、地下空洞か。
「うわ、呪力空っぽじゃん」
身体を起こそうとして、激痛に顔をしかめる。
「……まあ、賭けには勝ったみたいだ」
ふと自分の身体を見下ろす。
「……あーあ。ボロボロじゃん」
焦げてあちこちが破れた服を見て、ため息をつく。
「これ、結構気に入ってたんだけどなぁ」
ポケットを探ると、スマートフォンの残骸が出てきた。
画面はバキバキに割れ、電源を入れてもウンともスンとも言わない。
「スマホもダメになっちゃってるじゃん」
これじゃあ、迎えを呼ぶこともできない
というか、呪力が空っぽの今の状態じゃ、動くことすらままならない。
「……まあ、いっか」
俺は、冷たい地面に寝転がった
「とりあえず、呪力が戻るまで寝よ……」
目を閉じると、すぐに意識が泥のように沈んでいく。
(……おやすみなさい)