2018年10月31日。渋谷駅、地下五階。
一般人が押し込められたその空間は、すでに呪いの坩堝と化していた。
「……なるほど。やりたいことはわかった」
五条悟は、周囲を取り囲む呪霊たちを前に、薄く笑みを浮かべていた。
大地への畏怖から生まれた特級呪霊・漏瑚。
特級呪物『呪胎九相図』の長男・脹相。
そして、海への恐れを起源とする呪霊――陀艮。
五条は、事前に与幸吉から『五条悟封印計画』について聞かされていた。
当然、罠だと分かった上でここにいる。
ならば、なぜ五条悟を単独で地下へ向かわせたのか。理由は残酷なほど単純だった。
敵が『一般人を盾に取る』という手段に出たからだ。
非術師が密集する空間で、五条悟が味方を巻き込まずに戦うことは難しい。
逆に、味方がいれば五条は術式の出力を制限せざるを得ず、十全な力を発揮できない。
だからこそ、
「五条悟単独で地下の敵を制圧し、残りの術師で外へ逃げてくる一般人を保護・あるいは漏れた呪霊を討伐する」
という作戦が、上層部により決定づけられた
それに、あの五条悟だ。
いくら特級呪霊が束になろうと、遅れをとるはずがない。
誰もがそう信じていた。
(ほんっと、タチの悪い連中だ)
五条の『六眼』が、眼前の特級呪霊たちを冷たく見据える。
事前の情報にあった首謀者――『夏油傑を騙る呪詛師』の姿は、この地下五階にはない。
(……首謀者が直接出向かずに、呪霊たちに時間稼ぎをさせる腹か。
まぁいい。どのみち、全部祓えば済む話だ)
「領域展延」
漏瑚と陀艮が、五条の無下限を中和する薄い膜を纏って肉薄してくる。
同時に、遠距離からは脹相の『穿血』が、一般人の頭上を掠めながら五条の死角を狙う。
花御がいれば、そのタフネスを活かした壁役となっただろう。
(チィッ……花御がいれば、もう少し立ち回りに幅が出たものを……!)
漏瑚は内心で舌打ちをした。
本来の計画では、花御の耐久力で五条の攻撃を受け止め、その隙に漏瑚が攻撃を叩き込む算段だった。
だが、その花御はすでに祓われている
代わりに前衛に出たのは陀艮だが、呪胎から変態を遂げたばかりの陀艮では、五条悟の苛烈な呪力操作を前にどこまで壁役を果たせるか未知数だ。
(夏油の奴は陀艮の水量による面制圧で五条の機動力を削ぐと言っていたが……)
漏瑚は歯噛みしながら、領域展延を維持して五条へ突っ込む。
「死ね!! 五条悟!!」
五条は、迫る漏瑚と陀艮の連撃を、
一般人を避けながらも驚異的な体術で軽々と捌いていく。
陀艮が膨大な水を放ち、五条の足元をさらうが、
五条はそれすらも利用して宙を舞い、脹相の穿血を紙一重で躱す。
「あれ? そういえば随分と頭数が足りないんじゃない?」
五条は軽口を叩きながら、漏瑚の顔面に重い一撃を叩き込んだ。
「グハッ……!」
「あ、そっか。あの木のお化けなら、うちの優秀な生徒たちがもう片付けちゃってたね」
五条の目が、冷たく細められる。
「……とはいえ」
「君ら程度じゃ、時間稼ぎにもならないよ」
五条は、呪力操作を極限まで高めた。
一般人を巻き込まないため、術式は使えない。
だが、五条悟は術式抜きでも最強だ。
その圧倒的な暴力が、特級呪霊たちを削りにかかる。
(……速い……! しかも重い……!)
漏瑚は、展延越しに伝わる衝撃に戦慄した。
花御という"壁"がないことで、五条の攻撃が直接自分たちに降り注ぐ。
そのプレッシャーは、想像を絶するものだった。
(だが、耐えろ……! あの時間が来るまで……!)
漏瑚は必死に展延を維持し、陀艮と脹相と共に五条に食らいつく。
五条悟をこの地下五階に釘付けにする。
それだけが、彼らの使命だった。
五条が決定的な一撃を放とうと構えた、その時だった。
ゴォォォォォォ……ッ!
地下五階のホームに、不気味な走行音を立てて一台の電車が滑り込んできた。
プシュゥゥゥ、とドアが開き、中から溢れ出してきたのは――
「やあやあ、お待たせ!」
異形の姿をした無数の『改造人間』。
そして、それを従えるように降り立ったツギハギの特級呪霊――真人の姿だった。
「ほらほら、どんどん行け!」
真人の号令と共に、改造人間たちが一斉に一般人へ襲いかかる。
阿鼻叫喚の地獄。
悲鳴、鮮血、そして呪霊たちの嘲笑。
(なるほど……)
五条の顔から、一切の表情が消え失せた。
一般人を盾にすれば、五条悟は術式を使えない。
ならば、その一般人を限界まで殺戮し続ければどうなるか。
五条悟が「救える命」と「切り捨てる命」の選択を迫られ、疲弊し、必ず隙を見せる。
それが呪霊たちの、五条悟に対する解答だった。
(……一般人を巻き込まないために領域は展開しない。そうタカを括ってるわけだ)
五条の脳内で、瞬時に計算が走る。
非術師が廃人にならず、後遺症も残らない、領域の滞在時間。
(――0.2秒)
「領域展開」
五条の手印が結ばれた瞬間、
漏瑚たちの顔が驚愕に染まった。
『無量空処』
たった0.2秒の領域展開。
だが、その一瞬で地下五階にいたすべての人間、改造人間、
そして特級呪霊の脳に膨大な情報が流し込まれ、完全にフリーズした。
領域が解ける。
五条悟は、そこから神速で動き出した。
標的は、改造人間のみ。
特級呪霊ではなく、約1000体の改造人間を、一般人を巻き込まずにすべて手作業で屠り去る。
299秒。
それが、五条悟が1000体の改造人間を皆殺しにするのに要した時間だった。
「……はぁっ、……ふぅっ」
すべてを終え、五条はわずかに息を切らしながら立ち尽くした。
いくら最強とはいえ、0.2秒の領域展開直後に神速の殺戮をノンストップで行ったのだ。
体力は、一時的に底をつきかけている。
「……そろそろ、片付けさせてもらおうか」
五条が、まだフリーズから立ち直りきっていない漏瑚たちへ向き直った、その時だった。
カツッ。
背後で、不気味な音が鳴る。
『獄門彊 開門』
「……?」
五条が振り返ると、そこには見慣れぬ肉塊の立方体が、四方に目玉を開いて鎮座していた。
(……特級呪物。おそらく、これが与の言っていた『獄門疆』)
見ただけで分かる。あれは、捕まれば終わる代物だ。
五条は即座にその場から離脱しようと、足に呪力を込めた。
その、瞬間だった。
「……やあ、悟」
背後から、低く、聞き慣れた声が響いた。
五条の動きが、ぴたりと止まる。
ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは――
額に縫い目のある袈裟姿の男。
その足元には、不気味な立方体――特級呪物『獄門疆』が置かれていた。
あり得ない。
それは、絶対にあり得ない光景だった。
昨年の12月24日。
自分がこの手で確実に殺した親友。
夏油傑。
その姿が、そこに在った。
(……『夏油傑を騙る呪詛師』……)
情報は得ていた。偽物だと、うみが断言していたことも知っている。
だが――
六眼が捉える情報は、呪力も肉体も、すべてが『夏油傑』だと告げている。
矛盾。
あり得ない事実と、否定できない感覚。
五条悟の脳内に、夏油傑と共に過ごした三年間の『青い春』が溢れ出した。
次の瞬間、五条の足元に置かれた立方体が展開し、五条の動きを完全に封じ込めた。
「……しまっ……」
五条悟は、獄門疆の中に囚われた。
(……やられた)
五条は、暗闇の中で自嘲するように呟いた。
事前に情報を得ていながら、自分の『青い春』に足元をすくわれた。
しかも、特級呪霊を削り、無量空処を切り、限界まで疲弊したその一瞬の隙を、完璧に突かれたのだ。
(……あとは、頼んだよ。みんな)
最強の術師は、その場から姿を消した。
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「……五条悟が、封印された」
渋谷の雑踏を見下ろすビルの屋上。
冷たい夜風に吹かれながら、与幸吉は手元の端末を操作し、低く呟いた。
彼の治癒された肉体は、自作の武装と通信機器に覆われている。
あらかじめ虎杖や七海たちに仕込んでおいた『ミニメカ丸』のネットワークを通じ、地下の異常事態をいち早く察知していた。
(五条悟は、計画を知っていた。それでも……封印された。特級呪物『獄門疆』……あの男でさえ突破できない罠だったのか)
事態は、彼ら呪術師側が持っていた「情報」のさらに上を行っていた。
与は、自分が内通者だったという事実、そして何より──
『分かった。死ぬなよ、月影』
あの爆発の中心に立ち塞がり、自分を逃がして消えた後輩の姿が、脳裏に焼き付いている。
(……俺が、あいつらを遠ざけるような任務を振った。三輪、東堂、真依
……みんな、今頃はまだ京都か、あるいは向かっている最中だろう)
理由は単純だ。
もう、誰も死なせはしない。……俺が、この手で終わらせる。
与は、自らが用意した武装と、ミニメカ丸の通信網を駆使して、
渋谷の各所で待機する術師たちへ一斉に通信を飛ばした。
「……は!?」
明治神宮前駅付近で待機していた虎杖悠仁の耳元で、ミニメカ丸が叫ぶ。
その場にいた七海建人、伏黒恵、猪野琢真の動きが、一斉に止まった。
「おいメカ丸! マジかよ!? あの五条先生だぞ!?」
虎杖がミニメカ丸を掴んで叫ぶ。
『俺が嘘を吐く理由があるか! 獄門疆の呪力封絶を確認した。奴らは五条悟を地下に封じ込めたんだ!』
七海が静かに、だが重い声で口を開いた。
「……五条さんが封印されたのなら、この国は終わります」
七海はネクタイを外し、手に巻きつける。
「まずは五条さんの奪還を最優先とします。メカ丸、敵の配置とルートは?」
『地下五階に偽夏油と特級呪霊複数がいる。だが、駅の構造はすでに呪霊たちに掌握されてる。まともには降りられない』
「だろうな」
伏黒が玉犬を呼び出しながら言う。
「なら、強行突破するしかない」
虎杖も拳を鳴らす。
「うみもいねぇ今、俺たちがやるしかねぇんだ。五条先生を助け出すぞ!!」
だが、渋谷事変は彼らの想像を絶する地獄だった。
五条悟の封印を皮切りに、呪詛師と呪霊たちが一斉に牙を剥く。
一般人の虐殺。
特級呪霊・陀艮による領域展開と、七海や禪院真希たちの死闘。
そして――伏黒甚爾の乱入。
さらに、虎杖に受肉した「両面宿儺」の覚醒と、漏瑚との規格外の戦い。
渋谷の街は、宿儺の『伏魔御廚子』によって跡形もなく更地に変えられてしまった。
『俺は……俺はただの人殺しだ……!!』
通信越しに聞こえた虎杖悠仁の絶望の叫びが、与の耳にこびりついて離れない。
(……クソがっ)
与はビルの屋上で通信端末を強く叩き、歯を食いしばった。
特級呪霊たち、そして夏油傑を名乗る呪詛師の力は圧倒的だった。
与がいくら遠隔で情報支援を行っても、根本的な戦力差はどうにもならない。七海や釘崎も、すでに真人たちによって深刻なダメージを受けているという情報が入ってきていた。
(俺の肉体じゃ……特級には届かない。あの時、月影がやってのけたような真似は……)
その時、ミニメカ丸の通信が、新たな戦闘の開始を告げた。
『……虎杖、東堂が、真人と交戦中……!』
「東堂が到着したか……!」
与は立ち上がり、ビルの屋上から渋谷駅の方向を睨みつけた。
(真人の術式は危険すぎる。東堂の『不義遊戯』があれば立ち回れるだろうが……確実に仕留めるには手数が要る)
与は、自らの身体に備え付けた簡易的な武装──以前の巨大傀儡の技術を応用した、呪力放出用のガントレットの出力設定を上げる。
(……俺も行く。少しでも隙を作れれば……!)
与は、夜の渋谷へと身を投じた。
地下鉄の駅構内。
そこはすでに、原形を留めないほどに破壊されていた。
「ブラザァァァ!!」
東堂葵の叫びが響き、彼と虎杖が真人を追い詰めていく。
だが、真人もまた、死の淵でさらにその呪力の精度を上げ、変幻自在の攻撃で二人を翻弄していた。
(……このままじゃ、ジリ貧だ)
物陰からその戦闘に駆けつけた与は、息を潜めてタイミングを計る。
真人が虎杖に決定的な一撃を放とうとした、その瞬間。
「そこだ!!」
与はガントレットから、渾身の呪力砲を真人の死角から放った。
「!?」
真人が驚愕に目を見張り、体勢を崩す。
「与か!!」
東堂がその隙を見逃すはずがなかった。
手を叩き、位置を入れ替える。
そして、虎杖の黒閃が、真人の肉体に深々と突き刺さった。
「やったか……!」
与が息を呑む。
だが、戦局はさらに混迷を極めていく。
真人は倒れず、偽夏油がその姿を現し、事態は最終局面──特級呪霊の取り込みと、
絶望的な戦力差を前にした呪術師たちの総力戦へと向かおうとしていた。
誰もが限界だった。
虎杖も、東堂も、与も。
そして、この場に駆けつけようとしている他の術師たちも。
(……ここまで、か)
与の心に、一瞬の諦めがよぎった。
五条悟は封印され、主力は壊滅状態。
この絶望の盤面をひっくり返せる"イレギュラー"など、もうどこにも存在しない。
そう、誰もが思っていた。