生まれ変わった世界は   作:月影うみ

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44話

――東京・呪術高専-医務室

 

「硝子さん。真依先輩はどうですか?」

 

ストレッチャーに寝かされた真依を見下ろし、反転術式による治療を終えた家入硝子が深く息を吐いた。

 

「命に別状はないよ。……ただ、輸血が無かったら確実に手遅れだったね」

 

硝子の言葉に、隣で見守っていた真希の肩がビクッと跳ねる。

だが、当のうみはホッと胸を撫で下ろした。

 

「よかったー……。とりあえず、これで一安心ですね」

 

うみはニコッと笑い、軽く首を回して準備運動のような仕草をした。

 

「じゃあ、真依先輩も大丈夫そうですし、俺も結界(コロニー)の方に出ますね。

憂太先輩たちももう向かってるはずだし、少しでも早く回游を――」

 

「待ちなさい」

 

歩き出そうとしたうみの首根っこを、硝子がガシッと掴んで引き留めた。

 

「え?」

 

「あんたは一度休みなさい。ドクターストップだよ」

 

「いやいや、俺は全然元気ですよ? ほら」

うみがピンピンしているとアピールするが、硝子は呆れ果てたように深いため息をついた。

 

「あんたね。ここ半月くらい休んでないでしょ

もうハードスケジュールどころじゃないの。肉体の限界はとっくに超えてる。倒れるわよ」

 

「……うっ」

図星を突かれ、うみは口ごもる。

 

「わかったら休みなさいな」

 

硝子はそう言い残し、うみの肩を軽く叩いて医務室を後にした。

 

静まり返った医務室。

規則正しい心電図の音だけが響く中、真希はベッドの傍らに立ち尽くしていた。

 

「……クソッ」

 

ギリッ、と拳を握りしめる音が響く。

そして。

 

ガンッ!!!!

 

真希は、己の無力さを呪うように、壁を力任せに殴りつけた。

 

「クソッ!! なんで……なんで私は、こんなに弱いんだ……!!」

 

実の父親に、手も足も出なかった。

真依を守るどころか、うみがいなければ自分もあの場で死んでいた。

 

『今の私じゃ誰も納得しねぇし、ついてこねぇよ』

『まだ、私じゃダメなんだよ』

 

恵に吐露した自分の言葉が、呪いのように頭の中をリフレインする。

 

呪力がない。術式もない。

中途半端な天与呪縛。

自分が不完全だから、真依をこんな目に遭わせた。自分が弱いから、

因縁の決着すら後輩に肩代わりさせてしまった。何も、護れなかった。

 

「……真希先輩」

 

背後で壁にもたれかかっていたうみが、ぽつりと声をかけた。

硝子の言う通り、今のうみは立っているのがやっとの状態だった。

 

真希は振り返らない。ただ、血のにじむ拳を壁に押し当てたまま、震える声で呟いた。

 

「……悪いな、うみ。助けられた。

お前がいなかったら、私も真依もあの場で死んでた……。私は、結局何もできなかった……」

 

悔しさと、絶望。

 

「……私じゃダメなんだ。いくらあがいたって、呪力がないだけの半端者じゃ……

あの暴君みたいな、本当のバケモノにはなれないんだ」

 

その痛々しい背中を見つめながら、うみは静かに歩み寄る。

 

「……手段がないわけじゃ、ありませんよ」

 

うみのその言葉に、真希がハッとして肩を震わせた。

 

「……え?」

 

「天元様の言葉、覚えてますか」

 

『あれが斬るのは、物理的な形あるものだけではない。例えば……目に見えぬ理や、

血の繋がりがもたらす重い因果の糸すらも、その刃であればどうにかなるやもしれん』

 

うみは、自分の影から一把の刀を取り出した。

 

「『釈魂刀』」

 

「この刀なら、真希先輩と真依先輩を繋ぐ『双子の因果』を……断ち切れるかもしれない

でも、多分それをしたら、真依先輩は……呪力と術式を失い、完全に『非術師』として生きていくことになります」

 

真希は、刀とベッドで眠る真依を交互に見つめた。

その瞳が、激しく揺れ動いている。

双子の因果を斬る。呪術において双子は『同一人物』と見なされる。

だからこそ、真依が呪力を持つ限り、真希は「完全な呪力ゼロ」にはなれず、中途半端な天与呪縛に留まっている。

 

この刀でその因果を断ち切るということは――

真依から、呪術師としての力や繋がりを完全に『切り離す』ことを意味する。

 

うみの静かな宣告に、真希は息を呑んだ。

非術師になる。禪院家において、それは人としての価値をすべて失うことを意味してきた。

だが、今の自分たちはもう禪院家とは関係がない。

とはいえ、これまで術師として必死に生きてきた真依から、その力を強制的に奪い去る権利が自分にあるのか。

 

沈黙が落ちる。

真希が答えを出せずに歯を食いしばった、その時だった。

 

「……やりなさいよ、バカ真希」

 

弱々しい、だが確かな意志を持った声が、医務室に響いた。

 

「真依……!」

 

ベッドの上で、真依がゆっくりと目を開けていた。

顔色はまだ悪いが、その瞳にはかつてのような鋭い光が宿っている。

 

「……聞いてたわよ。非術師になる、上等じゃない」

 

「でも、お前は……」

 

「あんたと中途半端に繋がったままで、共倒れになるくらいなら……」

 

真依は、震える手をゆっくりと伸ばし、立ち尽くす真希の服の袖を掴んだ。

 

「私から、呪力も術式も……全部持っていきなさいよ」

 

その声は、もう強がりの響きを持っていなかった。

ただ純粋に、たった一人の姉の背中を押すための、祈りのような言葉だった。

 

「それに……」

 

真依は、壁際で静かに見守るうみへと視線を向け、ふっと柔らかく微笑んだ。

 

「呪力も術式もなくても……私は私らしいからね」

 

『術式が強かろうが弱かろうが、呪力が有ろうが無かろうが。

真依先輩は真依先輩だし、真希先輩は真希先輩です』

 

うみが直哉に言い放った言葉。

そして、彼が自分の血を限界まで抜いてまで、何の見返りも求めず自分を救ってくれたという事実。

 

それが、禪院家という環境で「術師としての才能」に縛られ、

自己を肯定しきれずにいた真依の心を、確かに解き放っていた。

 

「その代わり……」

 

真依の瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちる。

 

「全部、壊してね。……お姉ちゃん」

 

禪院家という呪い。自分たちを縛り付けてきた理不尽。そして、これから立ち向かう死滅回游という地獄。

そのすべてを打ち砕く力を、真希に託す。

 

真希は、真依のその言葉を正面から受け止め、やがて――静かに、だが力強く頷いた。

 

「……あぁ。全部、壊してやる」

 

姉妹の覚悟が決まった。

それを見届けたうみは、小さく息を吐き、釈魂刀を構えて二人の傍らへと進み出た。

 

「……二人の手を、繋いでください」

 

うみの指示に従い、真希がそっと真依の右手を握る。

 

(視える……。二人の魂の底から伸びて、互いを強く縛り付けている鎖のような『糸』)

 

一卵性双生児という呪術的同一性を象徴する、呪力と因果の繋がり。

 

「いきますよ」

 

うみは刀を上段に構え、その不可視の『糸』の最も脆い結び目へと照準を定めた。

肉体や魂そのものを傷つけることなく、ただ繋がりだけを断ち切る極限の刃筋。

 

「シッ!」

 

一閃。

 

釈魂刀の漆黒の刃が、二人の繋いだ手の間を音もなく通り抜けた。

 

物理的な衝撃は一切ない。

だが、その瞬間――真希の身体を、劇的な変化が襲った。

 

「……ッ!!」

 

真希が、思わず胸を押さえて膝をつく。

彼女の体内から、ごくわずかに残っていた『呪力』が、文字通り完全に消失したのだ。

 

ゼロ。

呪力の完全な喪失。

 

それと同時に、真希の世界が反転した。

 

(……なんだ、これ)

 

真希は、目を見開いた。

眼鏡をかけていないのに、空間に漂う微細な呪力の残滓が"視える"。

いや、視覚だけではない。

 

空気の温度、風の抵抗、床の微細な振動、建物の密度。

世界を構成するあらゆる情報が、まるで五感の枠を超えて、直接脳に叩き込まれてくるような圧倒的な解像度での知覚。

 

かつて、この圧倒的な認識能力で世界を捉え、呪術という理をフィジカルのみでねじ伏せた男がいた。

 

伏黒甚爾。

 

真希は今、ついにその男と全く同じ『完全な天与呪縛』へと至ったのだ。

全身に刻まれた痛々しい火傷の痕が、歴戦の猛者の証のように、彼女の新たな凄みを引き立てている。

 

「……ふぅ。成功ですね」

 

うみが刀を鞘に納め、額の汗を拭った。

 

真希はゆっくりと立ち上がり、自らの両手を握り、開いた。

全く違う身体になったかのような、底知れない万能感。

どれだけ暴れても決して底を突かない強靭な肉体が、そこに完成していた。

 

「……真希、あんた……」

 

ベッドの上の真依が、目を見開いて真希を見上げている。

呪力を完全に失い、非術師となった真依の目にも、

今の真希がどれほど別次元の存在へと変貌したか、本能で理解できた。

 

「……あぁ」

 

真希は、うみから『釈魂刀』を受け取り、その重みを確かめるように握りしめた。

魂の輪郭すら知覚できるようになった今の彼女には、この刀がどれほど恐ろしい業物か、はっきりと理解できた。

 

「これなら、誰にも負ける気はしねぇな」

 

真希の眼差しには、もうかつてのような焦りや無力感はない。

あるのは、すべてを破壊し尽くす『暴君』としての静かな怒りと覚悟だけだった。

 

「……よかった」

 

その覚悟を見届けたうみは、フッと安心したように笑みを浮かべた。

 

「じゃあ俺は適当に歩いてきますね~

あ、真希先輩。今日くらいは一緒にいたほうがいいと思いますよ?

お仕事は明日から、です」

 

うみはひらひらと手を振り、血まみれの服のまま、ふらつく足取りで医務室を後にした。

 

---

 

――呪術高専・地下の某所。

 

本来は使われていないはずの旧倉庫。

そこは今、無数のモニターとケーブル、そして大量の通信機材がひしめき合う、異様な『オペレートルーム』と化していた。

 

「……東京第1、第2結界へのミニメカ丸の散布完了。通信テスト……オールグリーン」

 

青白いモニターの光に照らされながら、与幸吉はキーボードを叩き、静かに呟いた。

 

彼の治癒された肉体は、自作の武装とヘッドセットに覆われている。

渋谷事変での敗北と、仲間たちを守れなかった無力感。それを二度と繰り返さないため、彼は死滅回游の全結界を監視・統括する『総司令』として、この部屋に籠りきりで情報網を構築していた。

 

「……次は京都方面の結界か。桃からの定期連絡のルートも確保しておかないと……」

 

「相変わらず、器用なことやってますね」

 

「あぁ。結界の内側にいる奴らに、少しでも有利な状況を作らないと……」

 

与はモニターから目を離さずに相槌を打ち――ピタリと、手を止めた。

 

今の声は。

 

「お久しぶりです。メカ丸先輩……いや、幸吉先輩」

 

与が弾かれたように振り返る。

そこには、ボロボロの黒いパーカーを着て、血と泥に塗れた少年が、壁によりかかってひらひらと手を振っていた。

 

「……つき、かげ……?」

 

与の目が見開かれる。頭では分かっていた。

渋谷事変の終盤に彼が乱入したという報告は受けていた

 

だが、こうして実際に直接顔を合わせるのは――特級呪霊の前に彼が一人で立ち塞がり、自分を逃がしてくれたあの日以来だ。

 

「……お前、本当に……」

 

与は椅子から立ち上がり、震える足で一歩、うみの方へ歩み寄った。

あの時、自分を庇って死んだと思っていた後輩が、今、確かに自分の目の前で息をしている。

 

「そんなお化けでも見たような顔しないでくれません?

傷ついちゃいますよ?」

 

与は、震える声で言葉を絞り出した。

 

「……ふざけやがって。生きてるなら、さっさと連絡くらい入れろ」

 

「いやぁ、あの爆発でスマホが粉々になっちゃって。それに、死んだことになってる方がいろいろと動きやすかったんで」

 

うみは壁から背中を離し、ふらつく足取りで部屋の中を見渡した。

 

「それにしても、すごい設備ですね。たった数日でこれ、幸吉先輩が一人で?」

 

「あぁ。結界(コロニー)には電波が通らないからな。俺の呪力で繋いだ『ミニメカ丸』を使って、独自の通信網を構築している」

 

与は、青白く光るモニターの一つを指差した。

 

「悠仁や伏黒、乙骨たちにはすでに端末としてミニメカ丸を持たせている。これで、結界内で分断されても、俺を経由して情報のやり取りができるはずだ」

 

「京都校の先輩たちはどうしてるんですか?」

 

「三輪には高専での待機と、俺の護衛兼オペレート補助を任せている。

西宮には箒の機動力を活かして、各結界の外周からルールの追加や状況の伝達をしてもらう」

 

「なるほど、完璧ですね」

 

うみは感心したようにポンと手を打った。

 

「お前が、命懸けで繋いでくれたこの命だ」

 

与は、治癒された自分の両手を強く握りしめる。

 

「俺にできることは、すべてやる。今度こそ、誰も死なせはしない」

 

その決意に満ちた声に、うみはふわりと笑った。

 

「心強いですね。結界の中は俺たちで暴れますから、外のサポートと情報共有は、全部任せますよ。総司令」

 

「……ああ。任せろ」

 

与は力強く頷いた。

かつては内通者として、仲間を裏切ってまで手に入れた肉体。

だが今は、その肉体と呪力を総動員して、彼らを全力で守り抜くための最強の盾となっている。

 

その頼もしい姿に満足し、うみは少しだけ壁に寄りかかり直した。

 

「ところで、幸吉先輩」

 

「なんだ」

 

「俺、なんかやることありませんかね?」

 

うみの突拍子もない問いに、与はキーボードを叩く手を止めた。

 

「……は?」

 

「いや、さっき硝子さんにドクターストップかけられちゃって。休めって言われてるんですけど、暇なんですよね」

 

「……お前、自分のそのボロボロの格好わかってて言ってんのか。さっさと自分の部屋に戻って寝ろ」

 

与は呆れたように深いため息を吐いた。

血と泥に塗れ、顔色も最悪な後輩が「暇だ」と宣っているのだから、家入硝子が止めるのも当然である。

 

「さっき仮眠取りましたよ。30分くらい」

 

与は額を押さえ、やれやれと首を横に振った。

 

「暇なら、三輪や西宮に顔でも見せてこい。あと、真依にもな」

 

「え?」

 

「あいつら、お前が死んだと思ってからずっと心配してたんだぞ。

渋谷で生きてることが分かってからも、高専に帰ってきてないから、

ろくに顔も合わせてないだろう」

 

与の言う通りだった。

渋谷事変終結以降、うみは単独で動き続けており、京都校の面々とはまともに会話すらしていない。

 

「生きて帰ってきたなら、まずは心配かけた身内に顔を見せて安心させるのが筋だろうが」

 

与の正論に、うみは「あー」と納得したようにポンと手を打った。

 

「確かにそうですね。霞先輩とか桃先輩には、後で会いに行ってみます」

 

「ああ、そうしろ」

 

「でも、真依先輩ならさっき会いましたよ」

 

「……は?」

 

与が怪訝な顔をする。

 

「真依が高専にいるのか? 禪院家に呪具の回収に行ったんじゃなかったのか」

 

「ええ、行きましたよ。でも今、上の医務室で寝てます

結構な重傷でしたけど、命に別状はないし、もう大丈夫です」

 

「…………」

 

与の思考が、ピタリと停止した。

 

重傷? 命に別状はない? 短いセンテンスの中に、聞き捨てならない情報が多すぎる。

 

「真依先輩、絶対安静なんで。

幸吉先輩も、オペレートの合間に時間あったらお見舞いに行ってあげてくださいね」

 

うみはニコッと笑って、ひらひらと手を振りながら部屋を出て行こうとする。

 

「待て」

 

与の低い声が、うみの足を止めた。

 

「……なんで真依が重傷で医務室にいる。お前、さっき禪院家に行ったって言ったよな。あそこで何があった」

 

「あー……」

 

うみは振り返り、少しだけ気まずそうに頭を掻いた。

 

「実はですね……」

 

うみは、禪院家において真希と真依が実の父親に殺されかけていたこと。

それに介入し、結果的に『躯倶留隊』や精鋭部隊である『炳』、そして元当主候補をまとめてねじ伏せたこと。

最終的に『釈魂刀』で二人の因果を断ち切って真希を完全覚醒させたこと。

 

それら数時間のうちに起きた、呪術界の歴史がひっくり返るようなとんでもない出来事の顛末を、

淡々と、世間話でもするかのように説明した。

 

「……というわけでして。それでその、禪院家と戦争を……」

 

「…………」

 

与の思考が、完全に停止した。

 

「あ、怒らないでくださいね? あっちが先に殺そうとしてきたから、正当防衛です。正当防衛」

 

「正当防衛で御三家の一角が潰れてたまるか!!」

 

与が思わず声を荒らげる。

だが、目の前の後輩は「てへっ」と悪びれもせずに舌を出している。

 

(こいつ……俺がオペレートの準備で籠りきりになっているたった数日の間に、

どんだけ歴史的な大事を引き起こしてんだ……!?)

 

「まぁでも、真希先輩も強くなったんで、戦力としては大幅アップですよ。結果オーライです」

 

「……結果オーライで済むか。御三家壊滅なんて後処理がどうなるか……」

 

与は頭を抱え、深々と、今日一番の重いため息を吐き出した。

死滅回游の平定だけでも地獄のような難易度だというのに、味方のイレギュラーが勝手に盤面をひっくり返してくるのだ。

 

「まぁ、細かいことは気にしないでください。それより、霞先輩たちって今どこにいます?」

 

うみののんきな問いに、与はジロリと彼を睨みつけた後、諦めたようにモニターの一つを操作した。

 

「……三輪と西宮なら、第一修練場のあたりで待機しているはずだ。結界突入前の最終調整をしているんだろう」

 

「了解です! じゃあ、ちょっと顔出してきますね!」

 

うみは今度こそ、足取りも軽くオペレートルームを後にした。

 

バタン、と重い扉が閉まる。

 

残された与は、静まり返った部屋の中で、天井を仰ぎ見た。

 

---

 

――呪術高専・第一修練場。

 

澄んだ秋空の下、西宮桃は箒のメンテナンスを行い、三輪霞は木刀で素振りを続けていた。

渋谷事変で「二度と刀を振るわない」という縛りを自らに課した三輪だが、身体を鈍らせないための木刀での型稽古までは禁じられていない。

 

「……九十九、百」

 

三輪が木刀を下ろし、ふうっと息を吐く。

その表情には、以前のような明るさはなく、どこか思い詰めたような影が落ちていた。

 

「霞、少し休憩したら? 根詰めすぎだよ」

西宮が心配そうに声をかける。

 

「大丈夫です、桃先輩。……私、渋谷で何もできなかったから。これからの死滅回游では、せめて皆の足手まといにならないようにしないと」

「そんなことないって。霞は十分頑張ってるよ」

 

西宮が慰めようとした、その時だった。

 

「相変わらず真面目ですね、霞先輩」

 

修練場の入り口から、のんびりとした聞き慣れた声が響いた。

 

「え?」

 

三輪と西宮が同時に振り返る。

そこに立っていたのは、黒いパーカーを血と泥で汚し、あちこちが破れてボロボロになった状態だが、いつものようにふわりと微笑んでいる少年の姿だった。

(怪我自体は家入硝子の反転術式で治っているが、服を着替える暇もなかったのだ)

 

「お久しぶりです。桃先輩、霞先輩」

 

「……うみ、くん……?」

 

三輪が、手から木刀をぽろりと落とした。

コロン、と木刀が地面に転がる音だけが、静かな修練場に響く。

 

「ちょっと、あんた……っ!」

西宮が弾かれたように立ち上がり、目を吊り上げた。

「渋谷で生きてるって分かって安心したと思ったら、

そのまままた一人でどっか行って! 音信不通のまま何日経ったと思ってるの!?」

 

「いや~結構忙しかったのと、よく考えたら携帯壊れたままで」

 

うみが苦笑しながら頭を掻いた瞬間。

 

「うみくぅぅぅぅぅぅん!!!」

 

三輪が、弾丸のような速度でうみの胸に飛び込んできた。

 

「わっ!?」

予想以上の衝撃に、体力の限界ギリギリだったうみの身体が大きくよろける。

「ちょ、霞先輩! ストップ! 俺今めちゃくちゃ血と泥まみれだから! 霞先輩の服まで汚れちゃうから!」

 

だが、三輪はうみの胸に顔を押し当てたまま、制服をぎゅっと握りしめて大号泣し始めた。

 

「ばかぁ……っ! うみくんのバカァッ!! ずっと、ずっと心配してたのにぃっ!!」

 

「渋谷で守ってくれて……無事だって分かったのに……っ! またすぐ一人でいなくなっちゃって!

連絡も取れないし、今度こそ死んじゃったかと思った……っ! ぐすっ、帰ってきてよかったぁ……!」

 

子供のように泣きじゃくる三輪の頭を、うみは少しだけ困ったように、けれど優しくぽんぽんと撫でた。

 

「ご心配おかけしました。でも、ちゃんと帰ってきましたよ」

 

「……ほんと、あんたって子は」

西宮も歩み寄り、涙ぐみながらうみの背中をバシッと叩いた。

「次勝手なことしたら、本気で箒で空から落とすからね!

……っていうか、怪我はないの!? その服、信じられないくらいボロボロで血まみれなんだけど!?」

 

「あ、怪我はさっき硝子さんに治してもらったんで大丈夫です。ただ、着替える暇がなくて」

 

うみは苦笑しながら、二人へと向き直る。

 

「そうだ、真依先輩も高専に戻ってきてますよ。

今、上の医務室で寝てます。絶対安静なんですけど、目を覚ましたら会いに行ってあげてください」

 

「え?」

西宮が目を丸くした。

「真依ちゃんが医務室? なんで?禪院家に呪具を取りに行っただけなのに」

 

「ええ、まぁ……ちょっと実家の方で色々ありまして。あ、でも命に別状はないんで安心してくださいね!」

 

「……色々って、何があったんですか?」

三輪が涙を拭いながら、不安そうに尋ねる。

 

「っていうか、真依ちゃんが医務室で寝てるって……もしかして怪我したの!?」

西宮の追及に、うみは少しだけ気まずそうに目を逸らした。

 

「あー……実の親に殺されかけて、瀕死になってたところを俺と真希先輩で助けたって感じです」

 

(あ、恵先輩に謝らないと。禪院家潰しちゃったし)

 

「「はぁ!?」」

 

西宮と三輪の素っ頓狂な声が重なる。

 

「ちょっと待って、親に殺されかけた!? 真依ちゃんが!? 瀕死って……!」

 

「今は峠を越えてますから! ただ……」

 

「……ただ?」

 

西宮が息を呑む。

 

「その、色々あって……真依先輩、呪力も術式も完全に失って、『非術師』になっちゃいました」

 

「…………え?」

 

西宮の顔から、さっと血の気が引いた。

西宮は、真依がどれほどの重圧と理不尽に耐えながら術師として生きてきたか、誰よりも間近で見て知っていた。

 

「真依ちゃんが、呪力を……? 嘘でしょ……あの子がどれだけ……っ」

 

西宮の声が微かに震える。

 

「他ならぬ真依先輩が自分で選んだ道です

真依先輩、笑ってましたよ。真希先輩とも仲直りできたみたいですし……

 

その言葉を聞いて、西宮は両手で顔を覆い、安堵とも悲しみともつかない嗚咽を漏らした。

三輪もまた、真依の無事と、彼女が背負っていた重い呪縛からの解放を知り、静かに涙をこぼす。

 

「二人とも、後で真依先輩がいじけないように、いっぱいいじってあげてくださいね」

 

うみがふわりと笑って場を和ませようと続ける。

 

「それに、もう禪院家は潰れちゃったんで、真依先輩が禪院家に縛られる理由は、もう一つもありません」

 

「……うんっ、そうね……。真依ちゃんが笑ってるなら……」

西宮が涙を拭いながら頷きかけ――ピタリと動きを止めた。

 

三輪も、ぐしぐしと目を擦っていた手をピタリと止める。

 

「…………」

「…………」

 

静寂。

秋空の下、修練場に冷たい風が吹き抜ける。

 

「……あの、うみくん」

三輪が、不意にジト目でうみを見上げた。

 

「なんですか?」

 

「さっき、サラッと『もう禪院家は潰れちゃったんで』って言いませんでした?」

 

うみの動きがピタリと止まる。

 

西宮も顔を上げ、ハッとしてうみを指差した。

「……待って。禪院家が潰れたって何!? どういうこと!?」

 

「あ、いや、その。向こうは真依先輩たちを殺したくてしょうがないから、

逃げるためには戦わないとじゃないですか? だから、その、ちょっと戦争を……」

 

「ちょっと戦争ってレベルじゃないでしょ! 御三家が一つ消えてるんだけど!?」

西宮の素っ頓狂なツッコミが響き渡る。

 

「たった三人で御三家である禪院家を相手取るなんて、一体何を考えてるんですか!」

 

三輪が、至極真っ当な怒りを含んだ声で詰め寄る。

 

「いやぁ、まぁ……」

 

うみは、ポリポリと頬を掻きながら。

 

「…………」

 

スッ……。

 

音もなく、明後日の方向へと見事に目を逸らした。

 

そのあまりにもあからさまな態度に、西宮の動きがピタリと止まる。

 

「……何その反応」

 

西宮が、引き攣った顔でじりじりと後ずさるうみを指差した。

 

「……まさか、一人でやったとか言わないわよね?」

 

三輪も青ざめた顔でうみを凝視している。

二人の鋭い視線に射抜かれ、うみは視線を泳がせながら言い訳を口にした。

 

「い、いや、仕方なかったんですよ?

あの時、真依先輩は重傷で動けなかったから、真希先輩が両手で抱えて運ばなきゃいけなくて」

 

「……だから?」

西宮の声が、地を這うように低くなる。

 

「だから……真希先輩たちが戦えない以上、俺が戦うしかなくないですか? 必要経費ですよ必要経費」

 

西宮と三輪の顔が、さっと青ざめていく。

 

「必要経費って……ちょっとアンタ。まさかその服についてる尋常じゃない血の量と、死にかけみたいなボロボロの格好って」

 

三輪が、信じられないものを見るようにカッと目を見開く。

 

「たった一人で、禪院家の人たち全員を相手にしたからそんなにボロボロなんですか!?」

 

「あ、いや、けがはもう治ってますよ? とっても元気です」

 

うみは冷や汗を流しながら苦笑いを取り繕うが、二人の怒りはすでに頂点に達していた。

 

「そういう問題じゃないでしょ!! なんでまた一人でそんな無茶するの!!」

 

「結果オーライなら何してもいいと思ってんの!? ほんとこの子はもう!!」

 

怒れる二人の先輩が鬼のような形相で距離を詰めてくる。

 

「うみくんは最低でも丸二日は絶対安静ですからね!! 私がずーーっと見張ってますから!!」

 

「え、いや、明日には結界(コロニー)に出たいんですけど…」

 

「「ダメです / よ!!」」

 

見事なユニゾンで一蹴され、有無を言わさぬ二人の圧にうみは諦めた。

どうやら逃げられそうもない。大人しく休むしかなさそうだ

 

---

 

――それから二日後。11月12日。東京・呪術高専。

 

医務室のベッドから起き上がり、うみは軽くその場で跳ね、腕を回して身体の調子を確かめた。

 

「うん、異常なし。すっかり軽いな」

 

本来なら一日ぐっすり眠れば十分に動けたはずなのだが、

三輪の「丸二日は絶対安静」という脅しのような徹底監視のせいで、

結局二日間も丸々寝かされる羽目になってしまったのだ。

 

「疲労は抜けたかい、うみくん」

 

壁に寄りかかり、ベッド脇で無防備に眠りこけている三輪を視線で示しながら、

タバコを咥えていない家入硝子が呆れたように声をかけた。

 

「お陰様で。 完全復活、異常なしです」

 

うみは苦笑しながら、なるべく声を落として答えた。

そして、ベッドから静かに降りると、自分の制服の上着をそっと広げて三輪の肩へと掛けてあげる。

 

「あんたの疲労は丸一日で綺麗さっぱり抜けてたけどね」

硝子はふっと口角を上げ、眠る三輪を見つめた。

「その見張り役の子の方が、よっぽど疲れ果ててるよ。

……まぁ、あの子のおかげで、あんたが大人しく二日間も静養できたんだから、結果オーライかい?」

 

「さすがにちょっと大げさな気がしますけどね」

 

この二日間、うみは文字通り「蟻の這い出る隙もない」軟禁生活を強いられていた。

初日の午後、あまりにも暇で「ちょっと体がなまらないように、修練場で素振りでも……」とベッドから足を踏み出した瞬間、

どこからともなく「どこに行くの? うみくん?」と、般若のような笑顔の三輪がスッと背後に現れて首根っこを掴まれた。

 

それならばと、影からこっそり抜け出すために十種を発動しようとした瞬間には、

「あ! 今、術式を使おうとしましたね!?」と鋭く指摘され、強制的に布団へと押し戻された

 

挙句の果てには、

「うみくんが病室から一歩でも出たら、私のスマホにアラートが来るようにシステムを組んでもらいました」

と、完璧な監視網が構成された

 

おかげで、隙を見てすぐさま結界(コロニー)へ向かうはずだったうみの計画は完全に頓挫し、

大人しく天井の木目を数え続けるしかなかった。

 

「もう無茶しちゃだめだよ。次無茶したら、今度は2日じゃ許してもらえないかもしれないよ」

 

「ぜ、善処します」

 

うみはこの二日間を思い返しながら思わず苦笑いを浮かべる

 

「それじゃ、硝子さん、お世話になりました」

 

うみはひらひらと手を振り、三輪が目を覚ます前にそっと音を立てずに医務室を抜け出した。

 

――それから、小一時間ほどが経過した頃。

 

パチ、と微かな音を立てて、三輪の意識が覚醒した。

 

「……ん、ぅ……」

 

ゆっくりと頭を上げ、自分がパイプ椅子に座ったまま、ベッドの端に突っ伏して眠ってしまっていたことに気づく。

慌てて辺りを見回すが、先ほどまでスヤスヤと眠っていたはずの少年の姿は、ベッドの上にはもうなかった。

 

代わりに、自分の肩にふわりと掛けられていた、見覚えのある高専の制服上着がすべり落ちそうになる。

それを両手で受け止め、三輪は目を丸くした。

 

「あれ……? うみくんは……?」

 

ぽつりと呟いた三輪に、壁に寄りかかってカルテを眺めていた家入硝子が、ふっと口角を上げて答えた。

 

「もう行ったよ。あの子の疲労は丸一日で綺麗に抜けてたからね」

 

「えぇっ!? で、でも、まだ安静に――」

 

慌てて立ち上がろうとする三輪に、硝子はクスリと笑って首を振った。

 

「心配いらないよ。身体は完全回復、異常なしさ。……ただ、『次無茶したら、今度は2日じゃ許してもらえないかもしれないよ』って釘は刺しといた」

 

「そしたら、なんて……?」

 

三輪が、手元の上着をぎゅっと抱きしめながら尋ねる。

 

「『善処します』だってさ。この二日間のあんたの徹底的な監視を思い出して、

本気で冷や汗を流しながら苦笑いしてたよ。

……まったく、良い薬になったんじゃないかい?」

 

「もう、うみくんは本当に……!」

 

呆れたように、けれどどこか嬉しそうに、三輪はうみの上着に顔を埋めた。

そこには、ほのかに少年の温もりと、彼自身の匂いが残っていた。

 

「……次は、絶対に逃がしませんからね」

 

そう小さく呟いた彼女の決意を、秋の柔らかな光が優しく照らしていた。

 

---

 

同日。正午すぎ。

青森県・むつ市周辺『青森結界(あおもりコロニー)』外周

 

目の前には、空を突くようにそびえ立つ、半透明で巨大な水の膜のようなバリア――『結界』が広がっている。

一歩足を踏み入れれば、1000年の時を遡った戦場。術師や呪霊による血で血を洗う殺し合いの舞台

 

(まずは100点。殺し合いを強要するルールを潰す)

 

日本の最北端に位置する『青森結界』。

とりあえずは様子見を兼ねてポイントを稼ぐことに決めた。

うみが、その境界線のわずか手前まで歩み寄った、その時だった。

 

『コンニチハー!』

 

ふと、うみのすぐ目の前の空中に、虫のような羽の生えた不気味な式神――『コガネ』がポツンと現れた。

死滅回游の管理者と泳者(プレイヤー)を繋ぐ窓口だ。

 

(思ってたよりかわいいな……)

 

『この結界の中では、死滅回游という殺し合いゲームの真っ最中だよ!

一度足を踏み入れたら最後!! キミも泳者(プレイヤー)になっちゃうんだ!

それでもキミは、この結界(なか)に入るの!?』

 

妙にポップで可愛らしい、マスコットキャラクターのような口調。

だが、その言葉の内容はどこまでも血生臭い。

 

うみは、目の前の半透明の水の膜を見つめ、不敵に、そして楽しげに口角を上げた。

 

「うん、入るよ。よろしくね」

 

返事をすると、コガネは『宣誓を確認したよー!』と元気いっぱいに告げ、そのままふっと姿を消した。

 

(よし。じゃあ、行きますか)

 

うみは深く息を吸い、結界の内側へと一歩踏み込んだ。

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