――東京第1結界。
突如として空から降り注いだ無差別の雷撃により、ビル群は無惨に崩壊し、街の区画一つが瓦礫の山と化していた。
もうもうと立ち込める粉塵と、焦げたコンクリートの匂い。
その惨状から少し離れた、とある地下鉄の駅構内。
誰もいない薄暗いホームの空間に、唐突に一人の少年が『出現』した。
(地下……? 今までは空中だったのに)
「急いでる時に限って…!」
青森、御所湖、仙台、東京第2。これまで入った結界ではすべて空高くに放り出されてきたのに、
こんな視界の通らない場所に転送された理不尽さに、うみは内心で深々とため息をつく。
だが、ボヤいている暇はない。
「急がないと……!」
うみは停止したエスカレーターを人間離れした跳躍で一気に駆け上がり、崩れかけた地下鉄の出口から地上へと飛び出した。
「――――」
地上に出たうみは、言葉を失って足を止めた。
視界の遥か彼方、ビル群の奥で――突如として、凄まじい呪力の爆発が起きた。
直後、地鳴りのような轟音と共に、天を衝くほどの『巨大な氷の山』が、ビル群を飲み込むように一気に隆起したのだ。
都市の景観を完全に無視した、大津波がそのまま凍りついたかのような異常な氷の隆起。
その圧倒的なスケールと、大気を一瞬で凍てつかせる底冷えする呪力。
うみの脳裏に、かつて渋谷事変で遭遇した、性別不詳の人物の顔がフラッシュバックした。
「あそこか……!」
うみはアスファルトを砕くほどの勢いで地を蹴り、巨大な氷山を目印にして超高速で駆け出した。
――同時刻。
うみとは全く別の場所、東京第1結界の外れにある廃ビルの屋上。
「……はぐれちゃったか」
ランダム転送によって屋上に音もなく出現した乙骨憂太は、空間移動の余波で少しだけ眉間を押さえながらも、刀の柄に手を当てて静かに立ち上がっていた。
彼もまた、周囲を見渡し、東京の変わり果てた惨状に顔をしかめる。
「急いで伏黒くんたちを見つけないと……」
そう呟いた乙骨の視界にも、遥か遠くのビル群を飲み込んで隆起する『異常な氷の山』が飛び込んできた。
「氷……? いや、あの禍々しい呪力……!」
氷山のふもとから立ち昇る、圧倒的な悪意と暴力の気配。
乙骨は確信する。あそこに、虎杖たちと、最悪の呪いがいることを。
「行こう、リカちゃん」
乙骨は背後の気配に短く告げると、屋上の縁を蹴り飛ばし、氷山へと向けて一直線に跳躍した。
◆◆◆
――数分前。
伏黒恵の肉体を受肉によって完全に掌握した宿儺は、上機嫌に笑い声を上げていた。
彼の足元では、怒りをたぎらせる虎杖悠仁と、駆けつけた禪院真希が、宿儺を止めるべく決死の猛攻を仕掛けていた。
だが、その死闘に突如として冷水を浴びせるように介入した者がいた。
上空から飛来した、宿儺の腹心・裏梅だ。
裏梅は最大出力の『氷凝呪法・霜凪』を放ち、広範囲のビル群ごと、虎杖と真希の身体を分厚い氷の塊に閉じ込めたのだ。
「宿儺様、お迎えに上がりました」
氷の山を作り出した裏梅が、宿儺の傍らに降り立ち、恭しく頭を下げる。
「差し出がましい真似を致しました。どうかお許し下さい」
「良い。肉体を仕上げる。"浴"の用意をしろ」
裏梅が用意した装束を羽織り、宿儺は自身を呪いの王としての姿へと近づけていく。
「一応虎杖悠仁の凍結を弱めましたが……」
「小僧はもう用済みだ。どうでもいい」
「だが、あの女に呪力を偏らせたのは正解だ」
宿儺が氷漬けになった真希を一瞥してそう口にした、直後。
ピキッ、と鋭い音が鳴り響いた。
「宿儺ァ!!!」
内側から氷を強引に砕き、血まみれの虎杖が絶叫と共に飛び出してくる。
だが、彼の手が届くよりも早く、宿儺と裏梅はすでに呪力で形成された巨大な鵺の背に乗り、空高くへと飛び立っていた。
眼下で怒りに吠える虎杖を見下ろし、裏梅が冷たく問いかける。
「殺しますか?」
「待て待て、よく見ろ、笑えるぞ」
宿儺は虎杖を指差し、悪辣な笑みを浮かべた。
「ほらいただろ!! あの播磨の!!」
「フッ……確かに……口元が特に」
嘲笑うかのように空へ昇っていく呪いの王。
虎杖の絶望と怒りが、虚しく東京の空に吸い込まれようとした、その瞬間だった。
「……何をしてるんだ」
静かな、だが絶対的な殺意を孕んだ声が、空中の鵺の背に立つ宿儺の背後から響いた。
直後、空気を切り裂くような白刃が一閃する。
「ほう」
宿儺は振り返ることもなく、手刀に呪力を込めて背後からの斬撃を的確に受け止めた。
激しい火花が散り、強烈な呪力の衝突による衝撃波が空気を震わせる。
そこには、底知れない呪力を立ち昇らせながら、凍りつくような瞳で宿儺を睨みつける乙骨憂太の姿があった。
「憑霊の餓鬼か。……なんだ? わざわざ死にに来たか」
「……お前こそ。伏黒くんの体で、何をしてるんだ」
宿儺と裏梅の意識が、背後から急襲してきた規格外の呪力を持つ『現代の異能』へと完全に向けられた、その刹那。
彼らの足元――鵺の翼の死角から、もう一つの影が『音もなく』滑り出た。
「よそ見厳禁!」
「ッ!!」
完全に虚を突かれた裏梅が、咄嗟に氷の防壁を展開しようとする。
だが、遅い。
「宇守羅彈」
少年の左拳から放たれた、空間の面を叩き割る防御無視の衝撃。
それが、裏梅の展開しようとした薄い氷の防壁を根こそぎ粉砕し、そのまま裏梅の身体へと強烈に襲いかかった。
「ガハッ……!?」
防御を透過した凄まじい衝撃に、裏梅が血を吐きながら吹き飛ばされ、鵺の背から真っ逆さまに地上へと叩き落とされる。
「裏梅……!」
宿儺が明確に舌打ちをし、乙骨の刀を弾き飛ばして距離を取る。
足場である鵺が衝撃でバランスを崩し、宿儺と、彼を強襲したうみと乙骨は、粉砕された氷山の頂上付近へとそれぞれ着地した。
「今度は貴様か…鬱陶しいな」
宿儺は氷山の上にふわりと着地したうみを一瞥し、見下すように嗤う。
一方、うみは宿儺の挑発を軽やかに無視し、足元の影から二股の尾を持つアンバー色の猫を呼び出した。
「焔、お願い」
『猫又・焔』がニャオと鳴き、その口から灼熱の『猫火』を吐き出す。
炎は的確に、氷に閉じ込められている真希の周囲だけを包み込み、極低温の氷を急速に融解させていく。
「ふうっ……助かった」
氷が溶け落ち、自由を取り戻した真希が息を白く染めながら刀を構え直す。
うみは真希にふわりと微笑み返すが、その直後、氷山の頂上から周囲を素早く見渡し、スッと目を細めた。
そこにいるのは、宿儺と、下に叩き落とされた裏梅。そして味方は乙骨、虎杖、真希。
うみは、怒りに震える虎杖の横にスッと並び立ち、宿儺に聞かれないよう小声で尋ねた。
「悠二先輩、天使は?」
その問いに、虎杖の顔がさらに苦痛と絶望に歪む。
彼はギリッと歯を食いしばり、視線だけを遠くの瓦礫の山へと向けた。
「あいつに……宿儺にやられて、あそこのビルの下だ……!」
虎杖の言葉と視線の先を追い、うみはその方向に軽く視線を向ける
崩れたビルの残骸の陰に、微弱な、今にも消え入りそうな呪力の灯火が見えた。
遠目からでも、大量の血を流して倒れているのが分かる。右肩から上が無残に抉り取られた、瀕死の重傷。
(……結構ぎりぎりだな)
来栖華が死ねば、彼女に受肉している『天使』の術式が失われる。
それはすなわち、獄門疆に封印されている五条悟の解放を果たせなくなることを意味する。
絶対に、殺させるわけにはいかない。
「……憂太先輩」
うみは、隣で刀を構え、宿儺と対峙している乙骨に視線を向けずに声をかけた。
「あっちのビルの下、見えますか。天使が瀕死です」
「……っ」
乙骨が僅かに目を見張り、その方向に視線を向ける。
「あの人が死ぬと、悟さんが一生箱の中です。今すぐ行って、応急処置だけでもお願いします」
「でも、うみくん。今僕がここを離れたら……!」
乙骨の懸念はもっともだった。
眼の前にいるのは、呪いの王・両面宿儺。そして下には、態勢を立て直して凄まじい冷気を立ち昇らせている裏梅がいる。
うみの瞳に呪力が揺れ安定していないのが見えてはいるが、宿儺は宿儺だ。
「そうですね。逃がす可能性が大きくなりますけど、ぶっちゃけ憂太先輩が居てもトントンくらいです
天使が死んで、宿儺も逃がす、それが最悪の展開です。
ここで宿儺を逃がしても、天使が生きてればまだ立て直せます」
「……」
乙骨はギリッと奥歯を噛みしめ、小さく息を吐いた。
うみの合理的で、最も被害を少なくするための冷徹な判断。それが正しいことは、彼にも痛いほど分かっていた。
「……分かった。絶対に、死なないでよ」
言うが早いか、乙骨は屋上の縁を力強く蹴り、凄まじい速度で来栖の倒れているビル群へと向けて跳躍した。
「ほう」
宿儺は去っていく乙骨の背中を、心底愉快そうに、だが嘲るような目で見送った。
「唯一まともな手駒を自ら手放すとは。……良いのか? 小童。
これで貴様らは俺に撫で斬りにされるだけだぞ」
(……ぶっちゃけきつい。あっちの白い子は悠二先輩や真希先輩と相性最悪だし)
うみは内心で強烈な警鐘を鳴らしていた。
真希と虎杖は近接戦闘のスペシャリストだが、氷結の術式を持つ裏梅との相性は悪い
だが、焦りを微塵も表に出さず、うみはまっすぐに視線を向ける
「……そうでもないでしょ。視た感じ恵先輩の肉体……全然馴染んでないし」
うみは軽口を叩くように、ふっと不敵な笑みを浮かべる。
「まともに術式も使えないんでしょ。なら、どうとでもなる」
「……ほう」
宿儺の口元が、さらに深く、悪辣に歪んだ。
その背後から、氷の階段を形成して舞い戻ってきた裏梅が、口元の血を拭いながら殺意に満ちた目でうみを睨みつけた。
「宿儺様。あの白髪の童は、私が殺します」
「好きにしろ」
宿儺は圧倒的な強者の余裕を崩すことなく、眼下の三人を一瞥する。
「さて、小童と、小僧と、天与呪縛の女。楽しませてくれよ?」
宿儺の言葉を皮切りに、場の空気が一気に張り詰める。
その重圧の中で、うみは視線を宿儺から外さずに、小声で隣の二人に話しかけた。
「俺が宿儺の相手を、って言いたいとこですけど……
真希先輩、悠二先輩。あっちの白い子、抑えれそうですか?」
その問いに対し、真希は忌々しげに舌打ちをした。
虎杖も悔しそうに顔を歪める。
「……無理だな。相性が悪すぎる。近づく前に凍らされて終わりだ」
先ほど、手も足も出ずに氷漬けにされた事実が、真希に冷酷な現実を突きつけている。虎杖も同じように頷くしかなかった。
打撃しか持たない彼らにとって、広範囲の氷結攻撃で距離を制圧してくる裏梅は、文字通り『天敵』だった。
「ですよね。宿儺の方は? あの白い子を引き離せばどうにかなりそうです?」
うみの問いに、虎杖と真希は視線を交わした。
先ほどまで宿儺と打ち合っていた感覚を呼び起こす。
「……五分。いや、少し劣勢ってとこだ」
虎杖が拳を握り締めながら答える。
「あぁ。とはいえ、少しでも気を抜けばヤバいのに変わりはないが」
真希が釈魂刀を構え、鋭い視線を宿儺へと向けたまま言葉を継いだ。
「なるほど。じゃあ憂太先輩が戻ってくるまで耐えれば十分勝ち目ありますね」
うみは内心の危うさを胸の奥底に完全に押し込み、微塵の不安も表に出さずに微笑んだ。
「白い子は俺が引き離します。二人は宿儺を」
「あぁ、任せろ!」
「死ぬなよ、うみ」
「先輩たちも」
(まずは確実に引き離す)
言うが早いか、うみは両手を顔の前で軽く構え、虎杖へと鋭いアイコンタクトを送った。
誰よりも"それ"をその身に受けてきた虎杖は、視線の意味を瞬時に理解する。
虎杖は宿儺ではなく、あえてうみの真正面へと向かって全力で地を蹴り、飛び出した。
宿儺と裏梅がその不可解な動きに僅かに気を取られた、その瞬間。
パァン!!
うみの両手が打ち鳴らされ、乾いた破裂音が響き渡った。
直後、空中に飛び出していた虎杖の姿がフッと掻き消え――
その位置に、宿儺の傍らに立っていたはずの裏梅が『入れ替わり』で出現した。
「なっ……!?」
完全に虚を突かれ、空中で無防備な態勢を晒した裏梅。
その腹部へ向けて、うみは呪力を極限まで高めた右脚を容赦なく振り抜いた。
ドゴォォォンッ!!
爆発的な衝撃音が轟き、裏梅の身体がくの字に折れ曲がる。
そのまま砲弾のような速度で吹き飛ばされた裏梅は、眼下の瓦礫の山をいくつか貫通し、
遥か遠くの廃ビル群へと深々と叩き込まれた。
そして、それと同時。
裏梅と入れ替わる形で、宿儺のまさに目の前、文字通り『目と鼻の先』に虎杖悠仁が出現した。
「オラァッ!!」
虎杖の怒りに満ちた右の拳が、防ぐ間もなかった宿儺の顔面へとクリーンヒットする。
伏黒の抵抗による出力低下に守られていたとはいえ、完全に虚を突かれた重い一撃。
メキッという音と共に、宿儺の身体が横へと大きく弾かれた。
「じゃ、行ってきます!」
うみは宿儺に一撃を入れた虎杖と真希に短く言い残すと、吹き飛んだ裏梅を追撃するため、氷山を蹴って空へと飛び出した。
あっという間に、二人の姿が遠くの土煙の中へと消えていく。
「……フッ、小賢しい真似を」
殴り飛ばされた顔をゆっくりと戻し、宿儺が忌々しそうに、だがどこか楽しげに嗤う。
その眼前には、裏梅がいた位置に不義遊戯で入れ替わり、一撃を見舞った虎杖と、釈魂刀を構えた真希が立っていた。
最強の呪いの王に対し、残された二人の術師が命を賭して牙を剥いた。
◆◆◆
一方、うみは吹き飛んだ裏梅を追い、立ち並ぶ廃ビルの合間を縫うように宙を駆け抜けていた。
「チッ……!」
瓦礫の山に深くめり込んでいた裏梅が、血を吐きながらも立ち上がり、凶悪な殺気を放つ。
宿儺から引き離された屈辱と怒り。その感情に呼応するように、裏梅の周囲の気温が急激に下がり、
大気中の水分がパキパキと音を立てて凍りついていく。
「五条悟の……紛い物が!」
裏梅が両手を振るうと、無数の鋭利な氷柱が空中に生成され、まるで散弾銃のようにうみへ向けて一斉に射出された。
(まがい物って……)
「一緒なのは眼だけでしょうが!」
ヒュンッ! ヒュンヒュンッ!
雨霰と降り注ぐ氷の散弾を、うみは空中を反射し変幻自在の軌道で次々と回避していく。
氷の軌跡の隙間を縫うように、一切の無駄なく裏梅へと肉薄する。
「ちょこまかと……!」
裏梅は苛立ちと共に両手を合わせ、今度は桁違いの呪力を練り上げた。
「氷凝呪法『直星』」
先ほどの細かい氷刃とは打って変わって、巨大な氷の隕石とも呼べる超質量の氷塊が、
うみの頭上から街の区画ごと押し潰すように落下してくる。
回避不可能な広範囲攻撃。
だが、うみは焦るそぶりすら見せない。
(空を掴んで……こう!!)
うみは頭上の空間そのものを両手で『掴む』ように構え、力任せに引き剥がすように引っ張った。
烏鷺亨子の術式『天衣無縫』。
空間の面が大きく歪み、落下してきた巨大な氷の隕石が、滑り台から落ちるように斜め方向へと強引に軌道を逸らされた。
――術者である裏梅自身へ向けて。
「なっ……!?」
自身の放った超質量の氷塊が、牙を剥いて自らへと迫る。
回避不可能な自らの攻撃を、裏梅は咄嗟に展開した分厚い氷の防壁で真正面から受け止める羽目になった。
ズドォォォォンッ!!
逸らされた氷塊が裏梅の防壁に激突し、隣の廃ビル群をも巻き込んで粉砕。凄まじい地響きと共に大量の氷の破片が舞い散る。
「空間を……!? 貴様、どれだけの術式を――っ!!」
自身の氷結をなんとか凌ぎきった裏梅が、舞い散る氷の粉塵越しに再びうみへと視線を向ける。
だが、驚愕で目を見開いた裏梅の視界に飛び込んできたのは――遥か頭上の空中から、
自らを見下ろすように掌を向けているうみの姿だった。
その掌の前には、限界まで圧縮され、チリチリと危険な火花を散らす巨大な『純粋な呪力の球体』が生成を完了している。
「いくよ?」
「チィッ!!」
ドゴァァァァッ!!
うみの掌から放たれた極太の呪力砲が、天地を繋ぐ光の柱のように撃ち下ろされる。
裏梅が咄嗟に展開した分厚い何層もの氷の盾を次々と粉砕し、周囲の瓦礫ごと円形に消し飛ばしていく。
威力を殺そうと必死に防御姿勢を取った裏梅だったが、
相殺しきれなかった衝撃をまともに受け、再び後方へと大きく弾き飛ばされた。
(……憂太先輩がみたいにはいかないか)
うみは空中で残心を取りながら、土煙の先を睨む。
「……鬱陶しい童だ」
氷の破片を散らしながら、裏梅がゆっくりと立ち上がる
「そっちだって見た目童じゃん」
うみの軽口に、裏梅はピキッと青筋を立てるが、その表情には明らかな焦燥があった。
目の前の少年は、全く別の複数の術式を息をするように使いこなす。
なにより、まだ無下限呪術を使っていない。
底が見えない。ここでこいつの相手に時間をかければ、宿儺の『浴』の準備に致命的な遅れが生じる。
その時だった。
裏梅の背後、遥か遠くの空に、凄まじい呪力の気配が急速に接近してくるのを感じ取った。
(乙骨憂太……! 戻ってきたか)
裏梅は舌打ちをする。
同時に、宿儺側の戦場からも、宿儺の意図を伝えるかのような呪力の波長が届いた。
肉体の主である伏黒恵の抵抗が予想以上に激しく、宿儺自身も十全な出力を出せていない。
これ以上の戦闘は無意味だと、呪いの王は判断したのだ。
「……今日はここまでにしておいてやる」
裏梅は大量の呪力を放出し、自身の足元から空へ向けて巨大な氷の階段を一瞬で生成した。
そして、そのまま猛スピードで空へと駆け上がり、宿儺が待つ戦場の上空へと向かう。
「待てッ!」
うみが追撃の構えを見せたが、裏梅は振り返りざまに広範囲の吹雪を放ち、うみの視界と足を一瞬だけ封じた。
「次会う時は、貴様ら全員、宿儺様の御前で塵に変えてやる」
氷の階段の頂上で、裏梅は上空で待機していた巨大な鵺の背に飛び乗った。
そこには、虎杖と真希の猛攻をいなし、軽傷を負いながらも余裕の笑みを崩さない宿儺の姿があった。
「興が削がれた。行くぞ、裏梅」
「はっ」
バサァッ!!
鵺が巨大な翼を羽ばたかせ、圧倒的な速度で東京の空の彼方へと消えていく。
「……逃がしたか」
吹雪を切り裂いて上空を見上げたうみが、小さく息を吐いた。
(追いつけないことはないけど……
さすがに空中であの二人を相手取るのは無理だなぁ)
直後、背後からドスン、と重い音を立てて乙骨が着地する。
その腕には、応急処置を施された来栖華が抱えられていた。息はある。間に合ったのだ。
「うみくん! 二人は!?」
「無事です。宿儺たちは……引いていきました」
遠くから、息を切らした虎杖と真希が瓦礫を乗り越えて駆け寄ってくる。
二人とも満身創痍だが、確かな闘志の炎は消えていない。
乙骨が到着するまで耐え抜く。
その目標は、見事に達成された。
だが、その場に残された虎杖、真希、乙骨、そしてうみの表情は明るくない。
しかし、うみはパンッと軽く両手を叩き、沈みがちな空気を払拭するように口を開いた。
「ま、最悪の事態は回避できましたし。天使が生きてれば、悟さんの封印も解けますから。とりあえずは及第点ってことで」
その言葉に、虎杖が顔を上げ、真希が短く息を吐き出す。乙骨も来栖の無事を確かめるように優しく抱え直した。
崩壊した東京の街並みに、静寂が戻る。
彼らの視線の先には、次なる決戦――五条悟の解放と、史上最強の呪いの王との総力戦が待ち受けていた。