――12月24日。渋谷。
その街は今、かつての姿の見る影もないほどに荒廃していた。
ひしゃげた鉄骨が剥き出しになったビル群。崩落した道路。
夥しい数の瓦礫が地平の彼方まで連なる光景は、ここが日本の首都であることを忘れさせるほどに凄惨だった。
「なーんか、すげぇ久しぶりな気がするわ。渋谷」
瓦礫を見下ろす高層ビルの上層階。
真っ白な羽織を翻し、五条悟は眼下に広がる廃墟を静かに見下ろしていた。
隣には、黒いスーツに身を包んだ伊地知潔高が控えている。
「……獄門疆の中の時間感覚は、どうだったんですか?」
伊地知が、恐る恐る尋ねる。
「……仕事がクソ忙しいときに、一週間とかあっという間に過ぎるんだけどさ。
絶対にやり直したくはないくらい長い、っていう矛盾。あの感じ」
五条の的確すぎる例えに、伊地知はスッと顔をしかめて眼鏡を押し上げた。
「……最悪ってことは分かりました」
五条の脳裏に「あの日の光景」がフラッシュバックする。
狭い地下鉄のホーム。押し合いへし合いする非術師の群れ。そして、特級呪霊たちが引き起こした惨劇。
「……地下5階の人たちは、どうなった?」
五条は、いつも通りの飄々としたトーンを装いながらも、その声の底に僅かな緊張を滲ませて問うた。
あの日、自らの領域に巻き込んでしまった非術師たち。彼らがその後どうなったのか、ずっと気がかりだった。
伊地知は眼下の廃墟へ視線を移し、淡々と現状を報告する。
「ここは、渋谷事変で湧いた呪霊の爆心です。東京の非術師は、渋谷に近いほど生存率が低い」
伊地知はそこまで言って少しだけ表情を和らげて続ける。
「ですが、地下5階は五条さんの残穢で、呪いが全く寄りつきませんでした」
「『無量空処』の後遺症は?」
「ありません。既に全員、社会復帰を果たしています」
「そりゃ結構」
五条は短く返し、ほんの少しだけ口角を上げた。
最強の呪術師としての重圧から、ほんの僅かだが肩の荷が下りた瞬間だった。
(……やれやれ。これで思い残すことは何もないね)
ふと、五条の脳裏に出陣前の光景がよぎる。
教え子たちが次々と自分の背中を叩き、気合いを入れてくれたこと。
そして、あの小柄で生意気な教え子が、最後に背中をポンと叩いて残した言葉。
『――勝って。先生』
(ちゃんと『先生』って呼んでくれたのは初めてだよね。これは負けるわけにはいかないでしょ)
五条は自身の内で静かに燃え上がる闘志を感じながら、踵を返した。
「じゃあ、ぼちぼち始めようか」
階段を上がり、吹き抜けになった屋上空間へと歩みを進める。
そこには、吹き荒れる風の中で待機している二つの影があった。
「歌姫、お爺ちゃん」
五条が声をかけると、紅白の巫女装束を纏った庵歌姫が、厳しい面持ちで振り返る。
その隣では、楽巌寺学長が静かに座り、抱えた琵琶の弦に指を添えていた。
いよいよ、最強と最強による決戦が幕を開ける
五条の背後で伊地知が深く息を吸い込み、結界術の印を結んだ。
極度の緊張に指先が震える。その脳裏に、決戦前に五条と交わした短い会話がよぎった。
『なんで、私なんですか。結界を張るだけなら、私より適任がいるはずです』
自分の問いに対し、現代最強の呪術師は、心底呆れたような顔でこう答えた。
『……マジで分かってねぇの? オマエが1番信用できる。そんだけだよ』
(私は、逃げた人間だ)
伊地知は、自らの不甲斐なさを誰よりも理解している。
逃げる勇気すらなかった。逃してもらった人間。
(そんな人間を、『信用できる』と最強が言ったんだ。
応えないわけにはいかない…… 応えられないなら――ここで死ね!!)
伊地知が展開した強固な結界が、高層ビルの屋上から立ち上る五条悟の圧倒的な呪力の起こりを外界から完全に隠蔽する。
その結界の内で、庵歌姫が優雅に、そして力強く舞い始めた。
歌姫の生得術式、『
術式範囲内の歌姫本人を含む任意の術師の呪力総量・出力を一時的に増幅させる術式である。
呪術を極めるということは、引き算を極めることだ。
呪詞、掌印など、術式を構成あるいは発動させるまでの手順をいかに省略できるかで、術師の腕は決まる。
しかし、今の歌姫は一切を省略しない。
呪詞を詠み、掌印を結び、舞を捧げ、そして楽巌寺の奏でる琵琶の『楽』がそこに重なる。
術式というプロセスを『儀式』として限界まで昇華させることで、120%の効力を得るのだ。
「"九綱"」「"偏光"」
吹き荒れる呪力の嵐の中、五条悟の冷徹な声が響き渡った。彼もまた、歌姫と同様に一切の手順を省略しない。
「"烏と声明"」「"表裏の間"」
掌印を合わせ、呪詞を紡ぎ、自らの術式を極限まで高め上げる。
歌姫のバフで底上げされた120%の出力。それに加えて、自身の儀式による増幅。
現代最強と史上最強。どちらが
「虚式――」
現代最強の術師の指先から、破壊の奔流が放たれた。
「『茈』」
200%の出力を持った絶対的な破壊が、伊地知の結界を突き破り、新宿に立つ呪いの王へと向かって真っ直ぐに射出された。
凄まじい轟音と共に、新宿のビル群が一直線に消し飛ぶ。
絶対的な破壊の余波が街を更地に変え、もうもうと土煙が舞い上がった。
土煙が晴れた先。
深く削り取られた大地の中心で、宿儺はその直撃を両腕で受け止めていた。
いや、防ぎきれてなどいない。宿儺の右腕は肘から先が完全に消し飛び、焼け焦げている。
だが、その顔には余裕の笑みが張り付いたままだ。
「……」
ジュウッ、と不気味な音を立てて、失われたはずの腕が瞬く間に再生していく。
反転術式による欠損部位の即時治癒。
その目の前に、ひらりと降り立つ白い影があった。
史上最強の術師と、現代最強の術師。
五条悟と宿儺が、ついに真正面から対峙する。
五条は、自身の背後に広がる真っ直ぐな焼け野原を親指で指し示し、口角を吊り上げて不敵に笑った。
「勘違いしてるみたいだから言っとくけど」
「そっちが
五条の挑発に、宿儺は目を細め、底冷えするような殺気を孕んで嗤う。
「クソガキが」
◆◆◆
複数の巨大なモニターに映し出された新宿の惨状に、室内は水を打ったような静けさに包まれていた。
冥冥の操る烏が上空から捉え、共有している映像。
そこに映る規格外の光景に、固唾を呑む音が響く。
「開幕から、とんでもねぇな……」
日下部が、額に汗を滲ませながら呟いた。
「あれが、五条先生の……」
虎杖も、画面に食い入るように身を乗り出している。
「それにしても、あれ貰ってあの程度の損壊に抑えてる宿儺も大概ですね」
うみも足をパタパタとさせながらあきれたように言う
「同感だ……。だが、確実にダメージにはなってる。
完璧な奇襲。伊地知がいい仕事したな」
日下部の言葉に、うみも小さく頷く。
画面の中では、超高速の肉弾戦が始まっていた。
宿儺が放つ不可視の斬撃――『解』が建物を豆腐のように斜めに切断し、崩落していく。
その重力に従って崩れ落ちる瓦礫の只中で、五条と宿儺は空中で激突し、あるいは崩壊する壁面を蹴って縦横無尽に殺し合う。
『全部オマエが壊したことにするからな』
崩落するビルの中で、五条がニヤリと笑う。
『……どの口で?』
宿儺もまた、余裕の笑みで応じた。
「怪物対決……街がもたないね」
その冗談のようなやり取りとは裏腹に、二人が通り過ぎた跡が次々と更地へと変わっていく光景に、冥冥が呆れたように呟く。
「……やはり、宿儺は領域展延で無下限を中和する手を打ってきたな」
日下部が、画面の中で五条に届く宿儺の打撃を見てポツリと呟いた。
絶対不可侵であるはずの無下限呪術。それを持つ五条に対し、宿儺は『領域展延』で術式を中和して攻略しに来ていた。
「領域展延……」
乙骨が眉をひそめる。
「メカ丸君が撮ってあった映像にもあった、渋谷で特級呪霊が五条先生に使った無下限呪術対策ですね」
「確かに五条さんの領域を中和できてる」
秤が腕を組みながら言った。「どういう理屈だ?」
「ウチの簡易領域をさらに練り上げた感じだな」
日下部がタバコを咥えながら答える。
「術式を付与しない領域を纏うことで、空いた容量に相手の術式を流し込み中和しているんだ。」
「日下部さん、できますか? 展延……」
隣から乙骨が尋ねると、日下部は即座に顔をしかめた。
「なめんな。できるわけねーだろ」
吐き捨てるように答えてから、日下部はふと視線を横へ向けた。
「お前はどうなんだ、うみ。簡易領域ならお前も上手いだろ」
その問いに、全員の視線がうみへと集まる。
「う~ん。どうだろう」
うみはパイプ椅子に座って足をパタパタと揺らしたまま、自身の両手へと視線を落とした。
何度か、確かめるように指を握っては開く動作を繰り返す。
(こんな感じ?)
シュゥゥ……ッ。
唐突に、うみの両手を水面のように薄く呪力の膜が覆った。
「……ちょっと安定しないかも……?」
うみは自身の手を覆う呪力の膜をジッと見つめながら、小首を傾げた。
パチン、とシャボン玉が弾けるように、うみの手から呪力の膜が消え去る。
「……」
しんと静まり返る待機室。
「オマエ……何サラっとやっちゃってくれてんの?」
日下部が、タバコを落としそうになりながらドン引きした声で突っ込む。
「えっ? だって篤也さんがやれって言ったんじゃないですか!」
うみが心外だというように目を見開く。
「言ってねーよ! できるかどうか聞いただけだろ!」
「う〜。綺羅ちゃん先輩!篤也さんがいじめる~」
うみは椅子からぴょんと飛び降りると、すぐ後ろで観戦していた綺羅羅の背中に回り込み、その腰にギュッと縋り付いた。
「うんうん、ひどいね~。アタシが慰めてあげるからね」
綺羅羅は嫌がるそぶりも見せず、むしろ嬉しそうにうみの頭を撫でてよしよしと甘やかす。
その様子を見ていた秤が、やれやれと呆れたようにため息をついた。
「ほら、その辺にしとけ。ほんと緊張感ねぇなお前は」
そう言って秤は、うみの襟首を無造作に、だが乱暴ではない手つきでヒョイと持ち上げて綺羅羅から引き剥がした。
「あーっ、金ちゃん先輩のケチー」
呆れたようにうみを宙吊りにする秤と、手足をパタパタさせて抗議するうみ。そして苦笑する綺羅羅。
緊迫した決戦の最中だというのに、完全に彼ら三人の『いつもの日常』の空間が出来上がっていた。
張り詰めていた待機室の空気が、そのやり取りを見ていた他のメンバーたちの間でも少しだけ緩和する。
だが。
その様子を少し離れた場所から見つめる三輪の背後から、言葉には出さないものの、明らかな『ドス黒いオーラ』が立ち上っていた。
視線は、やり取りをする三人。特に宙吊りにされながら抗議するうみとニコニコしている綺羅羅に真っ直ぐ向けられている。
その顔には、目の笑っていない笑みが張り付いていた。
「……ひっ!」
そのただならぬ気配と、背筋の凍るような冷気に、隣にいたパンダが唐突に悲鳴を漏らして身を震わせた。
その異様な空気にいち早く気付いたのは、後方で観戦していた西宮と、その隣に座る真依だった。
「あー……霞。ストップストップ。呪いみたいな気配出さないの」
真依が呆れたように小声で声を掛けながら三輪の肩をポンと叩く。
「そうそう。それにあの子は男の子よ。心配することは何もないわ」
西宮もやれやれと肩をすくめて補足した。
「えっ……?あっ……」
その一言で、三輪の背後で渦巻いていたドス黒いオーラが嘘のように霧散する。
途端に三輪の顔がカァァッと茹でダコのように真っ赤に染まり、彼女は両手で顔を覆ってその場にしゃがみ込んでしまった。
「うぅぅ……恥ずかしい……穴があったら入りたいです……」
『……遊んでいる暇があるなら、本題に戻るぞ』
そんな混沌としたやり取りを、来栖の頬に浮かんだ口――天使が、微塵も容赦のない冷徹な声で一刀両断した。
強引な軌道修正に、秤に首根っこを掴まれていたうみも「はーい」とおとなしく元居た場所へ戻り座り込む。
ふと隣を見ると、そこには両手で顔を覆い、耳まで真っ赤にしてしゃがみ込んでいる三輪の姿があった。
(……? 何やってるんだろ?)
全く状況が分かっていないうみは、コテッと小首を傾げて頭の上に疑問符を浮かべる。
コホン、と一つ咳払いをして、天使が口を開いた。
『展延のデメリットとして、生得術式との併用ができないことがある』
来栖はモニターに映る宿儺の動きを見据えながら、静かに解説を続ける。
「それは、宿儺も例外ではないようですね」
『仮に無下限呪術を展延以外の手で攻略されることがあれば、五条悟は負けるよ』
天使の冷徹な補足に、パンダが頭を掻きながら唸った。
「……つーかそれって、ほぼ術式なしで悟とやり合えてるってことだろ」
「そういう話であれば……」
顔の赤みを引かせた三輪が、パタパタと両手で頬を叩いて立ち上がり、真剣な表情に戻って問いかける。
「なんで宿儺は領域を展開しないんですか?」
彼女の素朴な、しかし的を射た疑問に、待機室の空気が再びピンと張り詰める。
「領域展開直後は術式が使用困難になるんですよね? なら、宿儺はまず五条さんに領域の押し合いを挑むべきではないですか?」
「簡単いうけど、そんなん結果次第で勝負ついちゃうじゃん」
三輪の言葉に、綺羅羅が腕を組んで反論する。
「……ついていいじゃないですか」
綺羅羅の言葉に、三輪が即座に返す。
「確かに! なんでだろ!」
綺羅羅も腕を解いて同意するように声を上げた。
直後、ふと何かに気付いたように小首を傾げる。
「あれ? でも、そもそも悟ちゃんの領域の必中効果は術式を貫通するの?」
その綺羅羅の疑問に、虎杖がかつて漏瑚の領域に巻き込まれた際の五条の言葉を思い出しながら口を挟んだ。
「前に呪霊の領域に飲まれたとき、一緒にいるとするって本人は言ってたけど……」
「もしかして宿儺は、領域の押し合いでは五条悟に勝てないと思っている?」
憂憂が思案顔で推測を口にするが、硝子がタバコを咥えたまま即座にそれを否定した。
「五条の性格の悪さと六眼で、それが見抜けないとは思えない。仮にもしそうなら、五条から領域を展開しているはずだ」
「……」
高度な領域展開のメカニズムに関する推論が飛び交う中、うみはパイプ椅子に座ったままモニターを静かに見つめていた。
(視てる限り、宿儺の呪力操作の精度は抜群だし、展延一つとっても結界術の練度も相当なもの。
もし領域の押し合いになったら、どっちが勝ってもおかしくないと思うけど……)
そのうみの思考を遮るように、部屋の隅で腕を組んでいた脹相が、重々しい声で口を開いた。
「領域の押し合いにならないんじゃないか?」
「?」
突然の指摘に、待機室にいた全員の視線が脹相へと集まる。
「狗巻と悠仁の話だと、宿儺は領域を展開するときに、結界を閉じないんだと思う」
「……結界を、閉じない?」
その言葉の異常性にいち早く反応したのは、うみだった。
パタパタと揺らしていた足をピタリと止め、信じられないとばかりに目を丸くする。
「はあ!?」
「ありえない」
「ありえねぇ」
「ありえない……かな」
うみの言葉に続くように、日下部、鹿紫雲、秤、そして乙骨が口々に驚愕の声を上げた。
「そんなにですか?」
百戦錬磨の術師たちが揃って絶句する中、三輪だけが不思議そうに首を傾げた。
「……俺の知ってる理屈の上では、あり得ないですね」
うみは顎に手を当て、真面目な顔で答えた。
「まあ、宿儺を常識的な理屈で語っていいかは置いといて、ですけど」
そこで日下部が額に手を当てて深々とため息をついた。
「三輪、そこの水投げてくれ」
「はい、どーぞ」
三輪が床に置かれていたペットボトルの水を日下部へ向けて放る。
「……何してんだ」
バシッ、と。
日下部は飛んできたペットボトルを無造作に片手でキャッチする。
「ええ!? 日下部さんが投げろって言ったんでしょ!?」
慌ててボトルを受け取った三輪が、驚いたように声を上げる。
「俺は『水』を取れって言ったんだ、ボトルはいらねぇ」
そう言いながら一切の躊躇なくボトルを三輪の方へ投げ返し、渋面でモニターを見つめた。
「結界を閉じずに領域を展開するっていうのはそういうことなんだよ。
器もなしに水を貯めたり、キャンバスを使わずに空に絵を描けるか?
ハードなしでソフトを再生するような……とにかくありえねぇっちゅー話だ」
「恵の不完全な領域は、結界を閉じなかったぞ」
真希が、伏黒から聞いた話を例に指摘する。
「昇級査定前に聞いたよ」
日下部は即座に答える。
「だがアレは建物や既存の結界を外殻に利用したって話だ。今してる話と比べると超〜〜〜次元が低い」
「だが、加茂憲倫……羂索はやってのけたぞ」
「!!」
脹相の言葉に、驚きが広がる
「その時は九十九が簡易領域で対抗して、その間天元が領域を外部から結界術で解体した」
脹相は、薨星宮での死闘を思い出しながら重々しく語る。
「簡易領域はみるみる剥がされていったが、もし九十九が領域を展開していたら……」
「領域の押し合いにはならないだろうね」
モニターを見つめたまま、冥冥が静かに言葉を引き継いだ。
「あれは最終的に結界の外殻の押し合いになるから。
でも結局は由基さんの領域内で、付与した術式の必中効果を巡って押し合うことになったんじゃないかな?」
「押し合うって何をだよ」
日下部が眉をひそめて問うと、冥冥は薄く微笑んで肩をすくめた。
「さあね」
「必中効果を、じゃないんですか?」
三輪が不思議そうに問いかける。
「だから、その必中効果は結界に付与されてるから、結界を押し合うしかねえだろ」
日下部が苛立たしげに返す。
「……さっきの話を聞く限りなら、領域の範囲次第じゃないですか?」
彼らの議論を聞いていたうみが、パイプ椅子に座ったままポツリと口を開いた。
「というと?」
乙骨が身を乗り出して尋ねる。
「脹相さんの話通りなら、簡易領域がある間は、九十九さんは領域の効果を受けなかったんですよね?」
うみは、確認するように視線を脹相へ向ける。
「ああ。少なくとも、簡易領域が耐えきれずに剥がされるまでの間はな」
脹相が重々しく頷いて肯定した。
「つまり、簡易領域内では必中効果が中和されてるわけです」
うみは淡々と言葉を続ける。
「じゃあ、簡易領域の『外側』はどうなってると思います?」
「当然、中和されていない。領域の必中効果に晒された状態だ」
日下部が即座に答える。
「多分、それと一緒になるかと」
うみは自身の考えをまとめるように、静かに顎を撫でた。
「お互いの領域の範囲が全く同じなら、おそらく普通に領域の押し合いが起きるだけです。
でも、もし領域の範囲が違うなら……」
うみはモニターの中で激闘を繰り広げる二つの影を見据える。
「狭い方の領域内では必中効果の押し合いが起きるでしょうけど、その外側では、広い方の領域の効果が一方的に通るはずです。
そして、その外側からの必中効果で、狭い方の領域の結界の外殻を直接潰しにかかるんじゃないですか? 簡易領域を剥がすみたいに」
「……なるほどな。あり得る話だ」
日下部が顎を撫でながら、重々しく同意した。
「なんか当たり前のように領域の話してるけどさ」
猪野が、会話に割って入る。
「あれってめちゃくちゃ呪力食うんだろ。だからホイホイ使わねぇだけじゃん?」
「おかか」
「狗巻くんの言う通り、五条先生に呪力切れはありません」
乙骨が猪野の疑問に答えた狗巻の言葉を補足した。
「そりゃ呪力効率がベラボウにいいから、消費量が恒常的な自己補完の範疇で収まるってことだろ?」
猪野が納得いかないように続ける。
「でもそれって常識的な運用が前提だろ?
連続で領域を展開しなおすことがあれば話は変わってくると思うぜ」
「確かに。俺も一回だけ呪力切れまでいったことありますし」
うみが、パイプ椅子の上で足をパタパタさせるのを止め、思い出すようにぽつりとこぼした。
「は? オマエ、何したんだよ」
日下部が呆れたようにツッコミを入れる。
五条と同じく六眼を持ち、圧倒的な呪力効率を誇るうみが「呪力切れ」を起こすなど、到底常識の範疇ではないからだ。
「諸事情あって、手持ちの呪力を一気に全放出したんですよ。……まあ、幸吉先輩は知ってると思いますけど」
うみが視線を向けると、少し離れた場所で腕を組んでいた与が、苦い顔をしながら眉間を押さえた。
「ああ……あの時の……。なるほど、だからあの惨状になっていたわけか」
「呪力の回復には数日を要しましたね」
うみがどこか懐かしむように、しみじみと宙を見つめていると――。
「ねぇ……うみくん?」
その隣から氷点下を下回るような冷気を伴った声が響いた。
「私、そんな危ないことしたなんて……聞いてないよ?」
「……! あ、いや、これはその……」
三輪の静かなる怒りに、冷や汗を流してしどろもどろになるうみ。
「うみくん?」
「ま、まあ!? 悟さんの領域は一回だけ見たことありますけど、
連発して呪力切れを起こすかって言われると多分ないと思いますよ?」
詰められながらも、逡巡の末にスルーを敢行した。
「話、逸らさないで? ちゃんと教えて?」と静かに詰め寄る三輪を横目に、日下部がそのうみの推測だけを拾い上げた。
「……じゃあ、宿儺はどうなんだ?」
「神懸かってる」
腕を組んだ鹿紫雲が、確信をもって告げる。
「術式発動までのキレ、展延と生得術式の切り替えのキレ……
五条悟に六眼がなければ、確実に呪力効率も宿儺が勝っていたはずだ」
鹿紫雲の言葉に、待機室の空気が一段と重くなる。
そして、その重圧をさらに加速させるように、乙骨が静かに口を開いた。
「そして呪力量は、僕より多いですね。直感で倍以上あります」
「倍以上……!?」
誰かが息を呑む音が響いた。
あの乙骨憂太のさらに倍以上という、底知れない呪力の総量。
「つまり2人とも、呪力量の問題で領域を展開しないわけじゃないってことか……」
猪野が、額に汗を滲ませながら唸る。
そこで、これまで黙って画面を見つめていた西宮が、ふと核心を突くような疑問を口にした。
「もしかしてだけど、当事者の2人含めて、誰にも分からないんじゃない?」
西宮の言葉が、しんと静まり返った部屋に響く。
「五条悟と両面宿儺の領域がぶつかったらどうなるか」
「おい……」
日車が、息を呑んでモニターを凝視する。
「来るぞ」
画面の中。
瓦礫の山を挟んで対峙する最強と最強が、同時に掌印を結んだ。
「「領域展開」」
二つの呪力の膨張。呪力は瞬く間に周囲の空間を塗り潰していく。
視界を覆い尽くすほどの真っ黒な球体が急激に広がり、
対峙する二人の姿は完全にその結界の外殻へと飲み込まれ、外界から隔絶された。
「さて、どうなるか」
画面越しに視える、無言でそこに存在し続ける巨大な黒い球体を見据え、誰かが静かにこぼす。
そして。
「……マジか!?」
日下部が、モニターの前で驚愕の声を上げた。
「まさか!」
冥冥もまた、信じられないというように目を見開く。
モニターの映像が、信じがたい光景を映し出していた。
真っ黒な五条の結界。その外殻が、突如として不可視の斬撃によってガリガリと削られ、無惨に切り刻まれ始めたのだ。
「うみの予測通りになったか……!」
虎杖が、震える声で呻く。
宿儺の領域の必中効果の範囲は、五条の結界の『外側』にまで達していた。
結界は、内側への耐性に特化している分、外側からの攻撃には極端に脆い。
「……聞いてた範囲より、だいぶ狭いですね」
いつの間にやら死の淵(?)を抜け出していたうみも、真剣な目でモニターを見据えながらポツリとこぼした。
「狭い?」
乙骨が問い返す。
「ええ。渋谷で宿儺が出した領域での被害報告を聞いた限りだと、
宿儺の領域は最低でも140メートルほどの範囲があると思ってたんですけど……」
うみはモニターの中で斬り刻まれていく黒い球体の規模を、自身の頭の中で計算し直す。
「今のあの範囲は、半径で15~20メートル程度ってところです」
「……宿儺レベルになると、領域のサイズも自在なのか?」
日下部が、信じられないものを見るように画面を睨みつける。
「たぶん。でも、何かしら思惑がありそうですね」
うみが顎に手を当てて推測を続ける。
「結界を閉じないんなら、相手に逃げられないようにするために範囲は広ければ広いだけいいはずです。
それをわざわざ絞ってるってことは……」
うみが思考を最後まで言語化するより早く。
限界を告げるその音は、無慈悲に響き渡った。
ピキッ……!
「あっ」
誰かの漏らした小さな声は、絶望の響きを孕んでいた。
モニターの中で、外側から削られ続けていた五条の強固な結界に決定的な亀裂が走る。
そして次の瞬間、巨大な黒い球体は、まるで薄氷の如く無惨に砕け散った。
結界が崩壊し、互角の押し合いが崩れたということは――。
「先生!!」
虎杖が、椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がり、絶叫した。
モニターに映し出された、土煙が舞う新宿の街。
その中心に立つ現代最強の術師の首筋を。
不可視の凶刃が深く、深く切り裂き――真っ赤な鮮血が宙を舞った。
だが、致命傷に見えたその一撃を受けてなお、五条は倒れなかった。
「反転術式……!!」
誰かが叫ぶ。噴き出した血が瞬時に止まり、切り裂かれた首筋の肉がジュウッと音を立てて結合していく。
「だが、宿儺の領域の中にいる限り、斬撃は続くぞ」
モニター越しにも伝わってくる、息をする暇もないほどの不可視の凶刃の連撃。
五条の身体のあちこちが切り刻まれては、反転術式によって即座に治癒されていく。
「……宿儺の領域は結界を閉じないから、逃げ切るのは簡単だろう」
モニターを睨みつけながら、脹相が冷静に状況を分析する。
「おう! 五条さんのスピードならすぐに抜け出せる!!」
秤も力強く同意し、拳を握りしめた。
「いや」
だが、その淡い希望を、日下部が冷酷な事実で切り捨てた。
「アイツの瞬間移動は、無下限呪術を使った空間と座標の圧縮だ」
「……そーですね。そして領域崩壊直後の今、悟さんは術式を扱えない」
自身も劣化版ながらその移動術を扱ううみが、沈痛な面持ちで日下部の言葉を肯定する。
「歩くか走るかして抜け出すしかないですけど、その間もあの斬撃の雨を浴び続けることになります」
「それって……」
三輪が、顔面を蒼白にして口元を手で覆う。
「超ピンチっちゅーこった」
日下部のその言葉通り、モニターの中では凄惨な光景が繰り広げられていた。
領域から脱出しようとする五条に対し、宿儺が『見逃すとでも?』と言わんばかりに獰猛な笑みを浮かべて肉薄する。
絶え間ない斬撃の雨が降り注ぐ中、さらに宿儺自身の手による容赦ない肉弾戦が仕掛けられたのだ。
ガキィッ!!
五条が咄嗟に腕を交差して宿儺の打撃を防ぐが、その間にも身体の各所が不可視の刃によって切り刻まれ、鮮血が舞う。
術式が焼き切れ、必中攻撃を全身で受け続け、さらにそれを治し続けながらの、防戦一方の近接格闘。
「あの御廚子、ぶっ壊したらどうなるかな」
見かねた虎杖が、宿儺の背後にそびえ立つ禍々しい神殿を指差して提案する。
「通常、生得領域で具現化されるものは、それ自身に特別な意味や役割を持たないことが多い」
日下部が即座に否定した。
「言ってしまえば、存在していないのと同じなんだ」
「御廚子が所謂ただの領域のシンボルである場合、そもそも破壊できないし、意味がない」
冥冥も冷静に分析する。
「六眼を持つ五条君が、破壊という手段を取らないならそういうことなんだろう」
「やばいじゃーん! 打つ手なし!?」
綺羅羅が頭を抱えて絶叫する。
モニターの中で、防戦一方だった五条が印を結び、自身を中心とした薄い結界を展開したのが見えた。
宿儺の領域の必中効果が、その空間だけ一時的に中和される。
「簡易領域!」
日下部が叫ぶ。
「五条先生、『できない』って言ってたじゃん!」
虎杖が驚いたように声を上げる。
「いや、五条は『教えられない』っつったんだ」
日下部が訂正する。
「ああいう初めからなんでもできる天才タイプは、マジで教えるの向かないからな」
「そんな奴を一年の担当にするなよ……」
真希が思わずといった様子で呆れたツッコミを入れる。
「簡易領域で必中効果を消しつつその間に反転術式で肉体を修復か。
なんで反転術式と通常の呪力操作が同時にできんだよ……」
五条が簡易領域で必中効果を消しつつ、その間に反転術式で肉体を修復しているのを視て、日下部がさらに絶句する。
「だが、」
脹相が、冷酷な現実を口にする。
「『簡易領域』程度の出力では、本物の領域に対して時間稼ぎにしかならないぞ」
ピキッ……。
脹相の言葉を裏付けるように、モニターの中で、五条の展開していた簡易領域がひび割れた。
そして、わずかな時間の末、五条の簡易領域は無惨に削り取られていく。
「言わんこっちゃない」
脹相が、深々とため息をついた。
大人たちが五条の神業とそれを上回る絶望に翻弄される中、乙骨が隣に立つうみの耳元へスッと顔を寄せた。
「うみくん」
短い問いかけ。だが、うみには乙骨が何を聞きたいのか痛いほどに分かっていた。
「……一分でも甘すぎる見積りでしたね。俺でも30秒持てばいいほうです」
うみは、画面から目を離さずに淡々と答えた。
「じゃあ、やっぱり……」
乙骨の呟きに、うみは静かに首を縦に振る。
「はい。簡易領域での対策はなしです。……『アレ』で行くしかないですね」
うみが言葉をこぼした直後。
簡易領域が限界を迎え、無惨にも剥がれ落ちる。
中和されていた必中効果が再び牙を剥き、無数の斬撃が容赦なく五条の肉体を襲い始めた。
だが、モニターの中の五条は止まらない。
無数の斬撃を浴び、鮮血を散らしながらも、再び簡易領域を展開しなおした。
だが、その直後。
モニターを凝視していた全員の息が止まった。
「……なんで」
日下部が、信じられないものを見るように叫ぶ。
「五条は、反転術式での治癒をやめた!」
画面の中の五条は、二度目の簡易領域で必中効果を中和しながらも、
先ほどまで行っていた反転術式による肉体の修復を完全にストップさせていた。
「まさか……」
猪野が青ざめた顔で呟く。
「いや、五条先生に呪力切れはないですって!」
乙骨がその言葉を遮るように否定する
「だからそりゃ常識的な運用が前提だろ! 月影も言ってたろ!」
猪野が苛立ちと焦りを隠せずに声を荒らげる。
「領域展開直後に、通常の倍呪力を消費する反転術式を全開にし続けてんだ!
しかも攻撃を浴びせ続けてるのはあの宿儺だ!!」
(……)
悲観的な大人たちの推測が飛び交う中、うみは黙ってモニターの五条を凝視していた。
『六眼』が捉える、五条悟の呪力の流れ。
肉体の修復を止めた莫大な呪力は、枯渇したわけではない。それは明らかに、意図的に別の場所へと集められていた。
(……頭?)
うみは眉をひそめる。
五条の呪力が、頭へと異常な密度で集中していくのが視えたのだ。
「うみ! お前から視てどうだ!」
焦燥に駆られた日下部から、厳しい声が飛んでくる。
「呪力が枯渇したわけじゃありません。それよりも――」
うみが自分に視えたものを説明しようとした、その瞬間だった。
モニターの中の五条の動きが、劇的に変わった。
血だるまになりながらも、宿儺の重い打撃を紙一重で躱し、流し、防いでいた五条が、
防御の姿勢を解き、逆に深く踏み込んで宿儺の身体にガッチリと組み付いたのだ。
「いまの速度……!」
画面越しでも伝わる、先ほどとは比べ物にならない五条の不自然な加速。
組み付かれた宿儺の顔に、初めて明確な驚きの色が浮かんだ。
「できるの!?」
乙骨が、モニターの前で信じられないといった様子で身を乗り出す。
この超加速。その正体に気づいたのだ。
「肉体を治癒できなかった理由は……」
乙骨は、五条の行った神業の真実に気づき、戦慄と共に言葉を続ける。
「焼き切れた術式を、反転術式で治癒していたから……!?」
(さっきの呪力の集中はそういう……)
うみもまた、乙骨の言葉で事の顛末を完全に理解し、目を見開いた。
五条は宿儺に組み付いたまま、至近距離でその指先を宿儺の顔面へと突きつけた。
その指先に、赤い呪力の球体が瞬時に圧縮されていく。
五条の指先から、爆発的な反発の力が放たれた。
「ッッ!!」
至近距離で『赫』の直撃を受けた宿儺の身体が、砲弾のような速度で後方へと吹き飛ばされる。
ズドォォォォンッ!!
宿儺の身体が激突したのは、自身の領域の中心にそびえ立つ、あの禍々しい神殿――『伏魔御廚子』だった。
凄まじい衝撃と共に、神殿が大きく崩壊し、瓦礫の山となって宿儺を押し潰す。
土煙が晴れたモニターの中。
顔の半分を自身の血で染め、全身傷だらけの五条悟が、ニヤリと不敵な笑みを浮かべていた。
「反転術式で、焼き切れた術式を治癒…………?」
日下部が、信じられないものを見るような目でモニターを凝視し、呆然と呟いた。
領域展開直後は、術式が焼き切れて一時的に使用困難になる。それは呪術戦における絶対の摂理だ。
それを、反転術式で強制的に回復させたというのか。
「乙骨!!」
日下部が、たまらず背後に立つ乙骨へ声を荒らげる。
「無理……とは言えないですよ」
水を向けられた乙骨は、額に冷や汗を滲ませながら引き攣った顔で答えた。
「実際、今五条先生がやっちゃってるし。
でも、領域で術式が焼き切れる感覚って、肉体の損傷とはまったく話が変わってきてですね……」
乙骨は必死に言葉を探し、誰もが理解しやすい例えをひねり出した。
「なんと言うか、故障してなくてもエンジンがオーバーヒートしてしまったら、冷却を待つしかないじゃないですか」
「反転術式では故障は治せても冷却はできないってことか?」
真希が真剣な顔で問い返す。
「そう思ってたんだけど……僕の認識が甘かったってことになるよね」
乙骨は自嘲するように笑い、そして、酷く険しい顔でモニターの五条を見つめた。
「でも…… 何か、とんでもない無茶を五条先生はしているんじゃないか……」
乙骨のその危惧に、パイプ椅子に座っていたうみが静かに同意した。
乙骨のその危惧に、うみが静かに口を開いた。
「……頭です」
「頭?」
日下部が怪訝そうに眉を寄せる。うみはモニターの五条から視線を外さないまま、淡々と続けた。
「さっき、悟さんの肉体の治癒が止まっている間。頭の方に呪力が集まってました。多分、脳に何かしらのアプローチをしたんだと思いますけど……」
「何かしらってなんだよ」
日下部が、嫌な予感をヒシヒシと感じながら焦燥混じりに突っ込む。
「さすがにそこまでは……」
うみは僅かに眉をひそめ、首を横に振った。
だが、そんな外野の懸念など知る由もなく、画面の中の現代最強はさらなる行動に出る。
「馬鹿か!? 何考えてんだ!?」
それを見た日下部が絶叫する。
画面の中の五条が、再び掌印を結んだのだ。
『無量空処』――二度目の領域展開
「また同じことを繰り返す気か!?」
猪野が信じられないというように叫ぶ。
一度目の領域展開では、結界を閉じない宿儺の領域の前に、外側から結界を削り取られて敗北した。
同じ手段をとれば、また同じように結界を破壊されるだけだ。
「そんな甘ちゃんじゃないさ、アイツは」
だが、硝子だけはタバコの煙を吐き出しながら、五条を信じきった目でモニターを見つめていた。
展開された五条の結界。
だが、先ほどとは明らかに様子が違う。結界の外殻が、宿儺の斬撃を受けても容易には砕けないのだ。
それを見た日下部が、ハッとして目を見開く。
「成程……結界の対内条件と対外条件を逆転させたのか」
「つまり、この結界は外側からの攻撃に強い!!」
結界とは本来、内側に閉じ込めることに特化し、外側からの侵入には脆いもの。
それを、条件を逆転させることで、宿儺の領域による外側からの斬撃に耐えうる強固な鎧へと変貌させたのだ。
「さすが最強、出鱈目すぎる……」
呆れつつも、うみの声には隠しきれない感嘆と、僅かな安堵が混じっていた。
だが、その安堵もつかの間だった。
パイプ椅子の上でパタパタと揺れていたうみの足が、ピタリと止まる。
その瞳が僅かに見開かれた。
「……」
六眼越しに視える呪力の奔流。
五条の結界を外側から削り続けている宿儺の『解』――その出力量が、唐突に跳ね上がったのだ。
「……外殻を削ってる斬撃の出力が、上がってる?」
うみのつぶやきに空気が一気に凍りつく。
「なんだと!?」
日下部が、食い入るようにモニターへ身を乗り出した。
「宿儺も領域に何かしら変更を加えたのかもしれません!」
うみが険しい表情で推測を口にした、ほぼ同時のことだった。
ピキッ……!
無慈悲な破砕音が響き、外側からの攻撃に耐えうるはずだった五条の二度目の結界に、決定的な亀裂が走る。
そして、再び、五条悟の領域が崩壊した
崩壊した結界の中で、宿儺は余裕の笑みを浮かべていた。
再び術式が焼き切れた五条に対し、再度無数の不可視の斬撃が殺到していた。
だが――。
「!! 傷が浅い……!」
虎杖が目を見張る。
宿儺の強烈な斬撃を浴びているはずの五条の身体。
しかし、その体表ギリギリで目に見えない呪力の層が斬撃を弾き飛ばし、致命傷を防いでいた。
「『落花の情』か!」
日下部が驚きと共に声を張り上げた。
「なにそれ!」「知らない」「知らない」「さっきから篤ちゃん詳しすぎて引くんですけど」
日下部の言葉に、虎杖や、真希、秤、綺羅羅たちが次々と困惑の声を上げる。
「御三家秘伝の領域対策ですね。俺も一回だけ直接見たことあります」
パイプ椅子に座ったまま、うみがさらりと補足した。
「あと、使用感は結構いいですよ」
「ああ。触れたものを自動で呪力で弾く呪力操作のプログラムだ」
日下部が当然のように解説を引き継ぐ。
「それこそ『無量空処』みてぇな複雑な術式効果には意味ねぇけど、
宿儺の斬撃みたいなシンプルな術式相手ならかなり役に立つ。『簡易領域』みたいに剥がされるもんでもないしな」
脹相が冷静に言葉を継ぐ。
「だが、無傷とはいかない。領域の出力に対抗できるほどの術ではない」
「十分だ」
硝子がタバコの煙を吐き出しながら断言する。
「五条は反転術式で焼き切れた術式も治せる。最小限の治癒の時間を稼げればいい」
「……本当に?」
乙骨だけが、未だに拭いきれない不安を抱えたまま、両手を組んで冷や汗を流していた。
そして、モニターの中の五条が、三度目の掌印を結ぶ。
「今度は……」
日下部が唖然と呟く。
展開された五条の結界は、これまでのものとは比べ物にならないほど巨大だった。
「宿儺の効果範囲を丸ごと結界内に納めるつもりか!」
鹿紫雲が冷静に意図を読む。
「だがこれは悪手じゃないか?」
冥冥が冷静に分析する。
「結界の範囲を広げることで少なからず領域の精度は下がるはずだ」
「外側から破壊されることがなくなっても、内側で負けたら意味がない」
ピキッ……。
日車の忌々しげな言葉を裏付けるように、モニターに映る巨大な結界の表面に細かい亀裂が走り始めた。
「ダメか!?」
虎杖が焦燥に駆られて叫ぶ。
だが、その時。画面を食い入るように見つめていた西宮が、信じられないものを見たように声を漏らした。
「……待って。結界が……」
亀裂が入った巨大な黒い球体が、崩壊するのではなく、内側へ向かってひしゃげるように変形を始めたのだ。
「どんどん……」
乙骨が息を呑む。
『ちっっっつさ!!』
待機室の何人かが、思わずといった様子で叫んだ。
さきほどまで新宿のビル群を飲み込むほど巨大だった結界は、
みるみるうちに収縮し、ついにはバスケットボールほどの極小サイズの真っ黒な球体へと変貌を遂げた。
「いや……それは無理でしょ」
自身も領域展開の習得が難航しているからこそ、その異常性が痛いほどに分かった。
思わずといった様子で呆れ声が漏れる。
「ああ、ありえねーな」
日下部もまた、口にくわえていたタバコを落としそうになりながら深く同意した。
「本日何回目の『ありえねー』だろうね」
冥冥が茶化すように苦笑する。
「なんでだ? 結界の外見と中身の大きさが違うのはいつものことだろ」
真希が不思議そうに首を傾げた。
「だから領域に閉じ込められた時、縁が特定できずに脱出って選択肢はほぼなくなる」
「だとしても限度ってもんがあんだよ、筋肉バカ」
日下部が疲れたように息を吐き出す。
「担任がボンクラなもんでな」
真希が即座に切り返した。
だが、日下部はそんな教え子の嫌味を完全に無視し、モニターを指差して言葉を続けた。
「……結界術で重要なのは、なにより『具体的なイメージ』だ」
日下部の指の先には、崩落したビル群の中で異様な存在感を放つ、黒い極小の球体が映っている。
「人一人収まらない外見の体積の結界に、自分も相手も閉じ込めるイメージなんて、普通は破綻する」
「……獄門疆」
その時、脹相が何かに気づいたようにポツリと呟いた。
「!」
その言葉に、待機室の面々がハッとする。
あの禍々しい立方体。外見は手のひらサイズでありながら、内部には物理的時間が流れない広大な空間が広がっていた特級呪物。
五条悟は、あの箱の中に19日間閉じ込められていたのだ。
「なるほど。獄門疆に封印されていた経験が、ここで生きているってわけね」
「最悪の学習機会だな……」
真希が冷や汗を流しながら呟く。
「だとしても、毎回毎回領域の要件を変えてる意味わからんがな」
日下部が頭を抱えるようにしてボヤいた。
「結界……特に領域の結界は、対外条件や対内条件、体積、構築速度
……そういう諸々を各々の術師が『これだ!』ってブレンドでようやく成立させることができる
現場の匙加減で、毎度変えられるもんじゃねーんだよ」
「「そうなのか?」」
日車が不思議そうに尋ねる。
「オマエらは術式にデフォルトで領域が組み込まれてるからな」
日下部が、後ろに立つ日車と秤を指差して呆れたように補足する。
(……いいなぁ)
結界術の技術自体はトップクラスであるうみだが、
唯一にして最大の壁となっているのが『自身の心象風景の投影』だった。その前提を軽々とクリアした上で、
さらに結界の要件を戦闘中の思いつきのような匙加減でいとも容易く組み替えてみせる五条の異常性が、改めて浮き彫りになる。
「……難易度が高いから、大きい結界から調整して小さく絞っていったのか?
「ついでに大きい結界で『伏魔御厨子』の効果範囲をまるっと納める案を試してみたかっただけかもな」
日下部と冥冥が、なんとか理屈をつけようと推測を口にする。
画面の中では、極小サイズに圧縮された五条の結界が、宿儺の領域から降り注ぐ無数の斬撃に晒され続けていた。
だが、先ほどのようにすぐにひび割れる気配はない。
外見の体積を限界まで絞ったことで、結界の強度が飛躍的に底上げされているのだ。
「……耐えてるね」
冥冥が感心したように呟く。
だが。
「なんだ!?」
突如、モニターの中の極小結界の外側で、凄まじい呪力の乱気流が巻き起こった。
「……宿儺も領域の効果範囲をより絞って、術式の出力を上げたんだ!!」
その挙動の意味を理解した乙骨が切羽詰まった声で叫ぶ。
「この結界が破られればジリ貧で五条の負けだ」
日下部が冷や汗を流しながら呟く。
全員が祈るようにモニターを見つめる中。
ピキッ……ガシャンッ!!
極小の黒い球体が、限界を迎えて弾け飛んだ。
「ああっ!?」
絶望の叫びが上がるよりも早く、土煙の中から現れた光景に全員が息を呑む。
そこには、胸から血を流し、ダメージを負った宿儺の姿と――ガラガラと音を立てて崩壊していく『伏魔御厨子』の姿があった。
「おおおおおっ同時だ!!」
「五条さん!!」
虎杖や秤たちが、一斉に歓声を上げて立ち上がる。
「同時だったんだ!!」
「宿儺が外側から五条の領域を破壊したのと、
五条が宿儺に領域を保てなくなる程のダメージを与えたのが!!」
待機室が熱狂に包まれる中、日下部が鬼気迫る表情で振り返り、声を張り上げた。
「時間!! 五条の結界はどれくらい持った!? 誰も計ってねぇのか!?」
「はい!?」と三輪が慌てふためく中、二つの声が全く同時に響いた。
「3分です」
「結界を小さくしてからジャスト3分だね」
ストップウォッチを片手に持ったうみと、静かに微笑む冥冥の声が見事に重なる。
「……流石、姉様♡」憂憂がうっとりと呟いた。
「ていうか、うみお前計ってたのかよ」
「まあ一応。今までのも全部測ってます」
「……領域が崩壊した今、両者術式が使えない状態にある」
日下部が事実を確認するように戦況を整理する。
「なら、反転術式で焼き切れた術式を修復できる悟の方が、先手を取れる」
真希が希望を見出すように口にした。
「宿儺だって反転術式は使えるぞ」
猪野が指摘するが乙骨が首を振る
「それを言ったら僕だってできますよ。
でもさっきも言った通り、焼き切れた術式の修復なんてできません」
「……」
誰もが乙骨の言葉に同意し、五条の優位を信じようとしたその時。
『だが、五条悟は宿儺の前で"見せて"しまった』
来栖の頬に浮かんだ天使の口が、重く、不吉な言葉を落とした。
「どういうことだ?」
猪野が訝しげに尋ねる。
『宿儺は羂索の手を借りて自身の魂を呪物として20本の指に切り分けた。
そのたった一度の機会で、自ら呪物に成り方を学習したんだ』
「……悟さんは宿儺の目の前ですでに2度、術式の修復を見せています
宿儺の規格外のセンスと2度の至近距離での学習機会があれば……」
「反転術式による焼き切れた術式の修復が……宿儺にもできるだろうってわけね」
硝子がタバコの煙を吐き出しながら、最悪の事実を肯定する。
天使・うみ・硝子の重い言葉がもたらした不吉な予感を祓う間もないまま、
モニターの中では息つく間もなく、再び規格外の肉弾戦が幕を開けていた。
ズガァァァンッ!!
瓦礫の山を蹴り飛ばし、超音速で激突する二つの影。
宿儺が残骸のコンクリート片を蹴り飛ばして目眩ましにし、その死角から鋭い踏み込みで五条の死角を突く。
だが五条はそれを、卓越した呪力操作と洗練された体術で紙一重で躱し、
カウンターの蹴りを宿儺の腹部へと叩き込んだ。
一撃一撃が必殺の威力を秘めた、瞬きの間に数十合が交わされる超高速の死闘。
「速い……!」
虎杖がモニターに張り付くようにして呻く。
もはやまばたきも許されぬ神速の応酬。しかし、その圧倒的な速度と暴力の渦中にあっても、
両者はその時を虎視眈々と狙っていた。
そして、画面の中の二人が、激しい格闘戦の中で再び距離を取り、同時に掌印を結んだ。
本日4度目の『領域展開』。
「本当に術式を修復しやがった……!!」
天使の懸念が最悪の形で証明され、日下部が頭を抱える。
再び新宿の街に、五条の極小結界が現出する。その外側から、宿儺の領域が絶え間ない斬撃の雨を降らせて結界の表面を削り始めた。
「宿儺が五条の領域を破壊するまでの3分間。
その間に五条は宿儺に領域を保てなくなるほどのダメージを与えなくてはならないわけだ」
「不利な言い方ばかりしないで下さいよ」
日下部の悲観的な言葉を、硝子がタバコの煙と共に静かに、だが力強く遮った。
「『無量空処』を数秒浴びれば、行動不能になる。もし3分以内に『伏魔御厨子』を崩せば――」
モニターに映る五条の背中を見据え、彼女は確信に満ちた声で断言する。
「五条が勝つ」
そして、極小結界の中で再び3分間のタイムアタックが始まった。
五条が宿儺に耐えきれないダメージを与えるのが先か、宿儺が外側から五条の結界を破壊するのが先か。
(悟さんの勝ち……)
うみは座ったまま、静かにモニターを凝視していた。
硝子の言っている理屈はよく分かる。
領域の必中効果の性能差ゆえに、一度でも押し合いに勝てば『無量空処』が直撃して勝負が決まる。
五条の方が圧倒的に有利なのは明白だ。
だが、うみの胸の奥には、どうしようもない違和感が燻っていた。
(なんで宿儺は、十種を――『魔虚羅』を一度も使ってないんだ?)
これだけギリギリの攻防を繰り広げているにもかかわらず、
宿儺は頑なに生得術式である『御厨子』と『領域展延』しか使用していない。
伏黒の身体を乗っ取っている以上、使えるはずの最強の手札を隠している。それが不気味でならなかった。
ピキッ……ガシャァンッ!!
うみの思考を断ち切るように、モニターの中で極小結界が弾け飛ぶ。
それと同時に、宿儺の『伏魔御厨子』もまたガラガラと崩れ落ちた。
「また同時だ!!」
「ハラハラさせるね」
日下部が声を荒らげ、冥冥が面白そうに目を細める。
その光景を見て、三輪がハッとしたように声を上げた。
「ってことは、結界内の戦闘なら五条先生の方が強いってことですよね……!」
「確かに……!」
虎杖もパッと顔を輝かせて同意する。
領域崩壊による隙を狙うべく、両者は再び反転術式で焼き切れた術式を強制的に修復し、次の領域展開へと備える。
「「領域展開」」
本日5度目となる領域展開。だが、その掌印が結ばれた瞬間。
「今!!」
乙骨が弾かれたように身を乗り出し、大声を上げた。
「どうした?」
日下部が驚いて振り返る。
「多分……多分ですが、五条先生の領域の方がワンテンポ早かった……?」
乙骨は自分の感覚を信じきれないように、冷や汗を流しながら呟いた。
「憂太先輩の言う通りです」
その直後、モニターを凝視していたうみが、乙骨の感覚を肯定するように鋭い声で補足した。
「さっきの領域内戦闘で傷を負った肉体の治癒に反転術式を回した分、
宿儺の領域の立ち上がりがほんの僅かに遅れてます」
「ってことは……」
虎杖が目を見張る。
「ええ。領域が展開された直後の極僅かな時間、0.01秒にも満たないでしょうが、
宿儺は悟さんの『無量空処』をモロに被弾したはずです」
うみのその言葉に、待機室がドッと沸き立った。
0.01秒以下。
普通であれば、ほんの瞬きにも満たないあまりにも短い時間。
しかし、その極僅かな時間に被弾したものが、あらゆる情報を強制し、
対象の脳に負荷を与える『無量空処』であるならば話は別だ。
そしてその事実を裏付けるかのように。
二分四十秒。
さきほどまでの三分よりさらに短い時間で、モニターに映る映像に変化が起きた。
五条の領域を無慈悲に削り続けていた宿儺の斬撃の嵐が、嘘のようにピタリと止んだのだ。
「……斬撃が、止んだ」
虎杖が、息を呑んで呟く。
「宿儺の領域が崩壊したんだ!!」
日下部が叫ぶ。
結界が維持されている以上、内部では五条の必中効果――『無量空処』が宿儺を完全に捉えているはずだ。
だが。
ピキッ……ガシャァァァンッ!!
歓喜の声が上がるよりも早く。
『無量空処』の結界がまるであめ細工のように粉々に砕け散った。
「なっ……!?」
もうもうと舞い上がる土煙。
それが晴れた先に現れた光景に、待機室の全員が言葉を失い、凍りついた。
無量空処を被弾し、虚ろな目で立ち尽くす宿儺。
少し離れたところで、その宿儺と相対するように立つ五条。
だが、待機室の面々の視線は、そのどちらでもない『何か』に釘付けになっていた。
二人の間。
崩壊した結界の残骸と瓦礫が散乱する中心で、異様な存在感を放つ影が蠢いていた。
宿儺の影の中から這い出るようにして顕現した、背に刃を持つ巨大で異形の神将。
その規格外の式神こそが、内側から五条の結界を叩き割った張本人だった。
「――『魔虚羅』!!」
うみの口から、震える声が漏れた。
八握剣異戒神将魔虚羅。あらゆる事象への適応能力を持つ、十種影法術の切り札が、ついにその姿を現した。