生まれ変わった世界は   作:月影うみ

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57話

「……黒閃」

 

誰かの口から、無意識のうちにその単語がこぼれ落ちた。

モニター越しに弾けた黒い火花。それがもたらした凄まじい衝撃波は、

更地となった新宿の瓦礫を吹き飛ばし、呪いの王の巨体を再び彼方へと消し飛ばしていた。

 

水を打ったように静まり返っていた待機室で、最初に沈黙を破ったのは虎杖だった。

 

「決まった……!!」

 

椅子を蹴り倒す勢いで身を乗り出し、両拳を強く握りしめる。

自身も黒閃の経験者であるからこそ、あの極限の状況下でそれを引き起こした事実の重さが誰よりも分かっていた。

 

「……アイツ、マジでやりやがった」

真希が、信じられないものを見たように額に手を当て、深い息を吐き出した。

 

だが、歓喜に沸きかける待機室の中で、日車が眉をひそめ、腕を組んだままポツリと疑問を口にした。

 

「しかし……不可解だな。なぜ、あの目眩ましが『二度目』も通用したんだ?」

「たしかに……」

日車の言葉に、真希も怪訝な顔でモニターを睨む。

「あの宿儺だぞ? 一度目のアレで完全に虚を突かれて一発もらってんだ。

あんなチャチな手、二度目への警戒がないわけがねぇ。視界に入った瞬間に防ぐなり避けるなりできたはずだ」

「しかも、一度目でかなり割り食った一手だ。

いくら呪力がないとはいえ、宿儺レベルなら対応は容易だったはずだが……」

 

歴戦の術師たちが抱いたその純粋な疑問。

その答えは、モニターの向こう側――新宿の更地に立つ、小柄な術師自身の口から語られた。

 

『――認知過負荷』

 

モニター越しに待機室へ響いたうみの声は、激戦の最中とは思えないほど淡々としていた。

土煙の向こう側、吹き飛ばされた宿儺がゆっくりと立ち上がるのを待つように、うみは静かに語りかける。

 

『人間の脳って言うのはね、短時間に処理できる情報に限りがある』

 

うみは、自らのこめかみを指でトントンと叩いてみせた。

 

『個人差はあれど、短時間に一定以上の情報を与えられると、直前の記憶の定着が阻害される。

記憶が定着しきれないと、それを想起することが阻害されるんだ』

 

『だから、俺が散々開示してきた情報は頭にあっても、フラグレの方はさっきまで忘れてたでしょ?』

 

その言葉に、待機室の面々がハッと息を呑む。

 

「じゃあ、あの術式の開示も……全部、宿儺の脳に余計な情報を詰め込んでパンクさせるための布石だったってのか……?」

パンダが呆然と声を漏らした。

 

「今更な話だが……あいつの知識量は一体どうなってんだ」

日下部が、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。

「呪術のセオリーどころか、脳科学や心理学の領域まで実戦レベルの戦術に組み込んでやがる」

 

「相手の思考の死角を徹底的に突いて、完全に手玉に取った上で自分の安全圏からタコ殴りにする」

真希が、呆れたように、しかし口元には明確な笑みを浮かべて腕を組んだ。

「……相変わらず、底意地の悪い戦い方しやがるぜ」

 

「うみくん……っ!」

極度の緊張で顔を真っ青にしていた三輪は、両手を胸の前でギュッと組み、祈るように、そして安堵の涙を滲ませて画面を見つめていた。

 

モニターの向こう側で、うみは飄々とした態度のまま言葉を続ける。

 

『俺の話をぜーんぶ聞いてくれるから助かったよ』

『まあ、そんなことはどうでもいいか』

 

うみは、土煙の中からゆっくりと立ち上がった宿儺を真っ直ぐに見据えた。

黒い火花を経たことで、彼の中で呪力という不可視のエネルギーが、まるで呼吸をするかのように自然に、そして爆発的に脈打っている。

アスリートでいう『ゾーン』。呪術師が黒閃を経て至る、120%の潜在能力が引き出された状態。

 

『お待たせ、宿儺。ようやくだ。ここからは全部楽しめると思うよ?』

 

その言葉を受けた宿儺の反応は、先ほどまでの苛立ちを見せていたものとは全く異なっていた。

腹部の口が三日月のように歪み、四つの真紅の瞳が、面白そうに、そして愉快そうに細められる。

 

『……なんとも不思議な感覚だな』

 

呪いの王は、自身の目前に立つ小柄な術師を見下ろしながら、心底楽しげに嗤った。

 

『この目には確かに映っているというのに……その存在を、全く捉えられんというのは』

 

宿儺の言葉通り、うみの周囲からは呪力の揺らぎが一切消え失せていた。

黒閃によって跳ね上がった呪力の質。それにもかかわらず、うみの卓越した呪力操作は、

その高密度の呪力を一滴たりとも外へ漏らさず、完全に肢体の内部へと密閉しているのだ。

 

呪力の揺らぎも、圧も、気配すらない。

高密度な呪力をその身に宿しながら、外部から観測できる呪力は完全に『ゼロ』。

それは皮肉にも、呪力を完全に捨て去った『天与の暴君』たちと同じ――呪力の理から完全に外れた者の姿だった。

 

それは呪術師や呪霊といった次元をとうに超越した、絶対的な虚無。

今この瞬間――世界は、月影うみという存在を完全に見失っていた。

 

◆◆◆

 

――新宿。

 

吹き荒れる風が、更地に舞い上がった土煙を遠くへと運び去っていく。

張り詰めた空気の中、ふと、呪いの王の口からそんな言葉がこぼれ落ちた。

 

「……小童、名は?」

 

予想外の問いかけ。先ほどまで見下していた相手に対し、明確に一個の術師として興味を抱いた証左だった。

 

その問いに、うみは少しだけ目を丸くして虚を突かれたような顔をした後、小さく肩をすくめた。

 

「月影うみ」

 

淡々と名乗り、小首を傾げる。

 

「……何? 覚えてくれるの?」

 

「それは、この後のお前次第だ」

 

宿儺は四つの腕をだらりと下げたまま、獰猛な笑みを深め、静かに告げる。

 

「――征くぞ?」

 

ドンッ!!

 

直後、宿儺の巨体が爆発的な踏み込みで空間を圧縮したかのように肉薄する。

常人ならば反応はおろか、視認すら不可能な超音速の突進。

 

だが、うみは一歩も退かず、むしろ自らも地を蹴って真っ向から激突した。

 

ガキィィィンッ!!

 

鈍器がぶつかり合うような異音が、新宿の更地に響き渡る。

宿儺が振り下ろした豪腕を、真っ向から受け止めていた。

 

「ほう」

宿儺の四つの瞳が、僅かに見開かれる。

小柄な体格から繰り出されたとは到底思えない、理不尽なまでのフィジカル。

 

莫大な呪力を外部へ一滴も漏らさず、100%体内に密閉しているが故の、超絶な身体強化。

黒閃の余波により跳ね上がったその倍率は、平時の数十倍という枠をとうに超え、天与の域へ足を掛けている。

 

「まだまだ!」

 

うみは受け止めた宿儺の腕を弾き返し、そのまま懐へ潜り込んで鋭い連撃を放つ。

対する宿儺は、余った三本の腕を駆使してそれを捌き、反撃の打撃を雨霰と降らせる。

 

四本腕による暴風のような連撃。

本来なら、純粋な格闘戦において圧倒的に不利なのは手数の少ないうみの方だ。

だが、うみは黒閃によって限界を突破した『六眼』の処理能力をフル稼働させ、筋肉の微細な収縮から宿儺の攻撃の起こりを完全に先読みし、紙一重で躱し続けていく。

 

そして、攻防の最中。

うみが、宿儺の放った大ぶりの蹴りをしゃがんで躱した、その瞬間。

 

(……消えた?)

 

宿儺の視界から、うみの姿が完全にフッと掻き消えた。

 

死角への移動。

一流の術師同士の戦闘において、相手が視界から外れた際、頼りになるのは目ではない。相手が放つ『呪力の気配』による空間把握だ。

千年の戦闘経験を持つ宿儺であれば、わざわざ目で追わずとも、相手がどこから仕掛けてくるかなど手に取るように分かるはずだった。

 

だが。

今のうみからは、一切の呪力が漏れ出ていない。

 

宿儺が苛立たしげに四つの瞳を動かし、視線でうみを探そうとした、そのコンマ数秒のタイムロス。

それが、勝負を分ける。

 

「こっち」

 

頭上。

全くの死角から落ちてきた声。

 

「……ッ!」

宿儺が咄嗟に腕を交差させて頭上を防御しようとしたが、遅い。

 

跳躍し、宿儺の真上に位置取っていたうみの重い踵落としが、宿儺の脳天へと容赦なく叩き込まれた。

 

ドゴォォォンッ!!

 

更地がクレーターのようにすり鉢状に陥没し、宿儺の巨体が大地にめり込む。

 

「今回のは結構効いたんじゃない?」

 

土煙が舞う中、着地したうみはどこか楽しげに口角を上げた。

 

◆◆◆

 

「すげぇ……!!」

モニターに映るその光景に、虎杖が目を輝かせて身を乗り出した。

「スピードもパワーも、さっきまでと全然違うぞ! 」

 

「黒閃によるゾーン状態……だけじゃあ説明つかねぇよな」

日下部が、信じられないものを見るように画面を睨みつける。

「あの宿儺と純粋な殴り合いで渡り合ってやがる」

 

「……いや。それ以上に異常なのは、宿儺の反応だ」

真希が、鋭い視線でモニターを見据えながら低く呟いた。

「見ろ。宿儺の奴、うみが死角に回った瞬間、わざわざ『目』で追ってやがる」

 

「目で?」

虎杖が首を傾げる。

「でも、呪術師同士の戦いなら普通は呪力の気配で追うだろ?」

 

「ああ。だから異常なんだよ」

真希は、かつての自分や暴君と呼ばれた男の戦い方を重ね合わせるように、ギリッと奥歯を噛んだ。

「気配を読まずに目で探すなんて、相手が『呪力を全く持たない』時にしかありえねぇ」

 

「んな馬鹿な。さっき黒閃をキメたばかりだぞ!? むしろ呪力は最高潮に跳ね上がってるはずだろ!」

日下部が、モニター越しに伝わる異常な光景と戦術的な整合性の間で混乱し、声を荒らげた。

 

「……だから、わけがわかんねぇんだよ」

 

真希が忌々しげに舌打ちをした、その時だった。

 

「――おー。相変わらず、僕の生徒は優秀だねぇ」

 

待機室の奥。

医療用のストレッチャーの上から、今まで昏々としていたはずの軽薄な声が、唐突に響き渡った。

 

「「「!!」」」

 

全員が弾かれたように振り返る。

そこには、家入と乙骨の反転術式によって縫合された身体をゆっくりと起こし、薄く目を開く五条悟の姿があった。

 

「五条先生……!!」

「悟……!!」

 

虎杖やパンダたちが、信じられないものを見るように目を丸くして歓喜の声を上げる。

 

「馬鹿、まだ起き上がるな」

硝子が慌ててタバコを取り上げながら制止するが、五条は「大丈夫大丈夫」とひらひら手を振った。

 

「いやー、向こうで傑たちと会ってきたよ。

……それにしてもあの子が黒閃打つとあんなふうになるんだね」

 

「五条先生……! うみのあれ、どうなってるか分かるの!?」

虎杖が、かつて一度だけ目にした『気配ゼロ』のうみの姿を思い出しながら尋ねる。

 

「僕もよく視えてないから、推測だけどね」

そう前置きをして、五条は続ける。

 

「今のうみは、外から見れば『完全に呪力が無い』状態だ」

 

五条は、ふっと誇らしげに口角を上げた。

 

「黒閃で120%に跳ね上がった莫大な呪力エネルギー。

うみは今、それを一滴残らず体内に『完全密閉』してるんだ。だから外への漏出はゼロ、気配もない」

 

「密閉……? だが、そんなことしてどうなるんだ?」

日下部の疑問に、五条はニヤリと笑った。

 

「外に漏らさない分の莫大なエネルギーが、100%自分自身の『肉体強化』に還元されてるってことだよ。

今のうみのフィジカルは、平時とは比べ物にならない」

 

「黒閃による呪力出力と呪力操作精度の上昇、それにともなう術式の出力アップ。

それに加えて、身体強化倍率の跳ね上げ。

まあつまりは、うみは誰よりも黒閃の恩恵を受ける術師ってこと」

 

五条は自身の目元をトントンと指差した。

 

「それと、僕は『六眼』を無下限呪術を最高効率で回すためのインフラとして使ってるけど、

うみの場合は『観察』と『解析』をメインにしてるからね。黒閃の影響で情報処理能力も限界突破してる今、

うみの反応速度が間に合う範囲での話にはなるけど、疑似的な未来予知レベルの先読みができてるんだ」

 

つまり、と。現代最強の術師は、嬉しそうに言い放つ。

 

「今のうみは『ちょー強い』ってこと!」

 

「……小学生かよ」

日下部が呆れたように頭を掻いたが、その顔には微かな安堵が浮かんでいた。

 

◆◆◆

 

すり鉢状になった更地の中心。

うみの一撃によってもうもうと立ち込めていた土煙を、内側からの凄まじい呪力の風圧が吹き飛ばした。

 

「クハッ、ハハハハハ!」

 

クレーターの底から、宿儺が愉快そうに笑い声を上げる。

額から一筋の血を流しながらも、その四つの瞳は明確な歓喜に燃えていた。

 

「素晴らしいぞ! だが、まだ足りん。もっと俺を楽しませてみせろ!」

 

「……光栄だね」

うみが再び大地を蹴る。

限界突破した先読みと、跳ね上がった身体強化。

 

右拳、左の回し蹴り、そして死角からの肘打ち。

宿儺の四本の腕による防御を掻い潜り、うみは完全に攻勢へと転じていた。

 

そして、宿儺の右側面に一瞬の隙が生まれた。

 

(これを防がせて右でとる!)

うみは踏み込み、渾身の回し蹴りを放つ。

 

しかし、うみの思惑は外れることとなる。

 

 

視界に映る宿儺の肉体は、防御の姿勢をとっていない。

筋肉の収縮も、回避のための重心移動すら、全くない。

 

あえて、無防備。

肉を切らせて骨を断つ――カウンターのための、意図的な被弾。

 

(やばっ……読み違えた!)

 

うみの背筋に強烈な悪寒が走る。

だが、放った蹴りを途中で引き返すことは不可能だ。

うみの蹴りが宿儺の脇腹に深くめり込むと同時。宿儺の巨大な左拳が、

振りかぶるモーションすら省いた最短距離で、うみへと叩き込まれた。

 

空間が、歪む。

 

『黒閃』

 

直撃すれば、いくら肉体を強化していようと致命傷は免れない。

 

うみは咄嗟に、体内を循環する莫大な呪力を、攻撃が到達する『一点』――交差させた両腕の盾――へと超圧縮して集束させる。

周囲に視覚化されるほど高密度に練り上げられた青白い呪力が、物理的な障壁となってバチッと激しい火花を散らす。

 

ドゴォォォンッ!!

 

黒閃の凄まじい衝撃波が直撃する。

一点集中ガードによって威力を大幅に減衰させたものの、黒閃という現象がもたらす圧倒的な運動エネルギーまでは完全に殺しきれない。

 

「ぐっ……!」

 

うみの小柄な身体が弾き飛ばされ、ズザザザッと更地に深い轍を刻みながら、10メートルほど後退してようやく止まった。

 

もうもうと上がる砂塵。

静まり返る戦場に、やがて、うみの声が響いた。

 

「うへへ〜……びりびりする」

痺れた腕をぶらぶらと振り、苦笑いを浮かべながら、うみがゆっくりと顔を上げる。

 

(まったく……あそこでノーガードとかイカレてるでしょ)

 

だが、息をつく暇などない。

黒閃を経て、宿儺の中で眠っていた絶対的な呪力の波が、今や完全に覚醒していた。

 

ドンッ!と、更地が爆発したかのような踏み込み。

ゾーンに入った宿儺の動きは、先ほどまでの比ではない。うみの六眼による"先読み"にすら肉薄する、超絶的なスピードと精度。

瞬く間に間合いを潰され、再び始まる四本腕との壮絶なインファイト。

 

激しい打撃音が連なり、火花が散る。

その乱打戦の最中。うみが隙を突き、宿儺の顔面を狙って放った鋭い右ストレート。

 

ガシッ!!

 

「……!」

うみの拳が、宿儺の巨大な掌によって完全に受け止められ、手首を強引に掴み取られた。

宿儺の顔に、獰猛な笑みが浮かぶ。四本腕の残りの腕が、うみをすり潰さんとばかりに振り上げられる。

 

だが。

手首を掴まれた絶体絶命の状況で、うみは全く焦っていなかった。

むしろ、口元にニヤリと小さな笑みを浮かべ、宿儺に掴まれた拳を、パッと勢いよく開いたのだ。

 

ゼロ距離。宿儺の顔面の眼前に、うみの開かれた掌が向けられる。

 

「――『轟雷』」

 

その唇が、静かに言霊を紡いだ。

直後。掌の前に、高密度な呪力が荒々しく渦巻き始める。

 

「『絶影』」

 

言葉を重ねるごとに、青白い呪力は限界まで圧縮され、周囲の空間をビリビリと震わせる。

 

至近距離で膨れ上がる致死の気配に、宿儺の四つの瞳が驚愕に見開かれた。

 

(……チッ!!)

 

宿儺は舌打ちをし、振り上げていた攻撃を即座にキャンセル。

うみの手首を弾くように手放し、凄まじい脚力で後方へと大きく跳躍した。

 

その回避行動と同時。

 

「『崩天の奔流』!!」

 

うみの掌から、呪詞によって「破壊力」と「速度」を極限まで引き上げられた極太の光条が、更地を抉る轟音と共に放たれた。

 

ズガガガガァァッ!!

 

新宿の更地がさらに深く抉り取られ、真っ直ぐな大渓谷のような惨状が眼前に広がる。

土煙が晴れた後、自らの砲撃がもたらした凄まじい破壊の痕跡を見下ろしたうみは、ひきつった笑いを浮かべて頬を掻いた。

 

(あちゃ〜……これは封印かなぁ。少なくとも周りに何かあるときに使う物じゃない)

 

だが、のんきに反省している暇はない。

極太の光条を間一髪で躱した宿儺は、後方に着地した瞬間、すぐさま次なる反撃への殺気を膨らませていた。

 

(なら、次は……)

 

うみは両手を前にかざし、息をつく間もなく新たな言霊を紡ぐ。

 

「『流星』」

「『幻影』」

 

ただの呪力放出である『呪力砲』に、自ら構築した呪詞を乗せることで強化パラメータを選択する。

先ほどの極大火力とは違い、今度うみが選択したのは「速度」と「規模(範囲)」。

うみの前に展開された呪力は、無数の小さな光弾へと分裂し、空を埋め尽くすように広がる。

 

「『螺旋の牙城』!」

 

放たれた無数の光弾が、螺旋を描きながら広範囲の空間を制圧するように宿儺へと降り注ぐ。

だが、対象が呪いの王となれば、この程度の散漫な攻撃が決定打になるはずもない。

 

「くだらん!」

 

宿儺が腕を振るうだけで、目に見えぬ斬撃が光弾の群れを次々と粉砕していく。

しかし――うみの狙いも、初めからダメージを与えることではなかった。

 

炸裂した無数の呪力が、新宿の更地に猛烈な砂塵と光の乱反射を巻き起こし、

巨大な目眩ましとなって宿儺の視界を完全に奪い去ったのだ。

 

猛烈な砂塵と光の乱反射の中、気配を完全に絶ったうみの存在は、宿儺の感覚から完全に消失していた。

 

「チッ……!」

 

視界と感知、両方を封じられた宿儺の死角から、強烈な蹴りが飛来する。

防ぐ間もなく顔面を弾かれ、体勢を崩した宿儺に対し、うみは止まらない。

 

莫大な身体強化と、ゼロの気配。

うみは更地の抉れたクレーターや巨大な瓦礫を蹴り出しの足場とし、縦横無尽に跳弾を開始する。

それはまさに、超高速の『乱反射』。

 

右から、左から、頭上から、そして背後から。

視認不可能な速度で360度全方位から降り注ぐ、手数を補って余りある怒涛の乱打。

 

「小賢しいわ!!」

 

宿儺は苛立ちと共に四本の腕を振り回すが、気配のないうみを捉えることはできない。空を切るのみだ。

 

(御厨子の立ち上がりさえ見落とさなければこのまま行ける……)

 

うみの六眼が、砂塵の向こう側で宿儺の筋肉の動きと呪力の流れが変化したのを正確に捉える。

見えない敵からの全方位ラッシュに対し、呪いの王が選択した行動。それは――

 

ドスッ!!

 

宿儺は足を大地に深く根を下ろすように踏み締め、四本の太く強靭な腕を前面と側面に交差させた。

無闇な反撃を放棄し、嵐が過ぎるのを待つ『完全防御』の態勢。

持ち得る莫大な呪力を腕に集中させ、どんな打撃も弾き返す鉄壁の肉の盾を構築したのだ。

 

(視界が開くまで凌ぐ気? てことは忘れてるね……)

 

無理もない。それをうみが見せてからここまで、あまりにも戦闘の密度と情報が濃すぎたのだ。

『投射呪法』のルール開示とブラフ、思考を誘導してからの『十劃呪法』。二度目の閃光兵器からの一回目の黒閃。

そして先ほどの極限のインファイト、自作の呪詞による未知の砲撃、さらに全方位からの超高速ラッシュ。

次々と押し寄せる致死の情報と目まぐるしい術式の切り替えによって、

呪いの王の脳からすら、たった一つの重要な事実が一時的に押し出されていた。

 

『天衣無縫』による打撃――『宇守羅彈』が、ガードごと空間を粉砕する「絶対防御不可」の攻撃であるという事実を。

 

全方位から超高速で跳弾していたうみが、その無秩序な軌道を一瞬にして鋭角に折る。

勢いを殺すどころか、跳弾によって蓄積された運動エネルギーのすべてを推進力へと変換し、流れるように一直線に突っ込んだ。

 

位置取ったのは、真正面。

 

うみは意地悪く笑いながら、右拳を限界まで後ろに引いた。

 

(二発目。いただきます)

 

うみの拳が、宿儺の強固な腕に触れる数センチ手前。その空間の「面」を叩く。

同時に、練り上げられた尋常ならざる呪力が、拳の先端で黒く収束し――空間が、ひしゃげるように歪む。

 

バキィィィィンッ!!!!

 

ガラスが砕け散るような空間の破壊音と、黒い火花の爆発音が同時に新宿に轟いた。

 

ブチブチブチィッ!!

 

だが、呪いの王の闘争本能は、うみの完璧なセットアップすら凌駕した。

宿儺は自身の攻撃モーションを強制的にキャンセルすると、絡みつく無数の影の手を強引に引きちぎりながら、上体を大きく逸らした。

 

ブンッ!!

うみの拳が、宿儺の顎の数ミリ手前を虚しく通過する。

 

(やっぱり、数出すと脆くなるなぁ)

引きちぎられ、霧散していく影を見ながら、うみは内心で舌を巻く。

(にしても、これでも満足してくれないのかぁ。欲張りだなぁ全く)

 

回避と同時。後方へ逸らした上体の反動を利用し、宿儺がさらに重く、速い死の連撃を返してくる。

『六眼』は、そのすべての軌道を完璧に捉え、脳へ警告を発している。だが――

 

(さっきまでより鋭い……反応速度ギリギリだ)

 

脳の処理速度に対して、肉体の神経伝達速度が完全に悲鳴を上げていた。

このままではそのうち一発もらってもおかしくない

 

(怪我を直す手段がないから、今の宿儺からは一発でも結構困る……

今までは失敗した時が怖すぎてやらなかったけど……『今』ならいけるか?)

 

回避不能の死地において。

万能の術師は、起死回生、ぶっつけ本番の策に出る。

 

(神経伝達の遅延の大部分は、シナプス間隙での化学伝達によるもの……)

 

ここで、人間の反応速度についての話をしよう。

人間の反応というのは、目から脳へ、脳から筋肉へ電気信号(インパルス)が伝わることで起こる。

そしてその速度は『反射』という例外を除き、0.10秒以下は科学的に不可能とされている

 

(そこに呪力を流し込み、強制的にバイパスを繋ぐ!)

 

陸上のトップアスリートでさえ、約0.12〜0.15秒が限界とされており、

ここが努力でどうにかすることのできる限界値と言われている。

呪力でどれほど肉体を強化しようとも、神経伝達という「生物的な構造」を介する限り、

月影うみとてその例外ではない。

 

そして、ゾーンに入った宿儺の超音速の反撃は、その「0.10秒」の隙間に命を刈り取るに十分な速度だった。

 

(髄鞘も呪力でコーティングして、漏れなく一直線に!)

 

本来なら絶対に干渉してはならない人体の最深部。

月影うみは今、生物としての絶対のルールを、呪力という『理外の力』によって強引にへし折ろうとしていた。

黒閃による極限の呪力操作精度が、狂気じみたそれを可能にする。

 

バチィッ!!

 

うみの体内で、目に見えない青白い火花が弾けた。

 

直後。

宿儺の拳が、空気を爆砕しながらうみの顔面へと迫る。

いや――「迫る」よりも、早く。

 

宿儺の右腕の筋肉が収縮し、打撃のための重心が移動した、その『初動』。

 

パァンッ!!

 

弾けるような打撃音。

うみの掌が、振りかぶろうとした宿儺の右腕の関節を正確に跳ね上げ、その軌道を完全に殺していた。

 

「……!?」

 

宿儺の四つの瞳に、明確な驚愕が走る。

己の放った攻撃が防がれたからではない。

己が「攻撃のモーションに入る前」に、すでにそこに迎撃が置かれていたからだ。

 

次いで放たれた、死角からの左の蹴り。

それすらも、宿儺の足が地面を離れるコンマ数秒前。

うみの足が、浮き上がろうとした宿儺の膝を上から踏みつけ、文字通り『出鼻を挫いた』。

 

フィジカルが上がったわけではない。肉体の移動速度は先ほどから一切変わっていない。

ただ、先読みに対し、うみの肉体が「遅延ゼロ」で完璧に連動し、対応しているのだ。

 

からの薙ぎ払いは、肩の筋肉が盛り上がった瞬間に肘を抑え込まれて封殺される。

左からの裏拳は、重心が乗る直前に手首を弾かれて軌道を外される。

上段からの振り下ろしすらも、膝のバネが解放されるコンマ数秒前に、顎下への鋭い掌底で姿勢を崩される。

 

「始まる前に潰される」という、圧倒的な理不尽。

本来であれば、己の行動をすべて先回りされ、手足を封じられるかのようなその状況は、どれほどの強者であれ苛立ちと焦燥を生むはずだった。

 

だが、彼は呪いの王である。

 

(肉体の速度は先程と変わらぬ。だが……速い、遅いという次元ではない)

(こちらの『意』が肉体へ伝播するよりも早く、奴の迎撃がすでにそこに在る)

 

(己の肉体を動かすための不可侵の道程。その生物としての『理』に呪力をねじ込み、枷ごと強引に取り払って動いておるのか)

 

自らの肉体を内側から破壊しかねない、狂気にも等しい理外の力技。

千年もの間、幾多の術師を葬ってきた彼にとってすら、全く未知の領域。

 

「――クハッ、アハハハハハハハ!!」

 

苛烈なインファイトの最中。

己の放つ死の連撃が次々とへし折られていく中、宿儺の四つの瞳は、底知れぬ狂喜に燃え上がっていた。

 

「素晴らしい……! 素晴らしいぞ!!」

 

「魅せてみろ!! 月影うみ!!」

 

先ほど名乗られたその名を、呪いの王は初めて、明確な「強敵」として新宿の空へと歓喜と共に叫んだ。

 

その歓喜の咆哮に応えるように、うみもまた速度を上げる。

宿儺が放つ左の下段蹴り。その起こりを完全に捉え、うみの肉体は遅延ゼロで迎撃の動作に入る。

 

(ここッ!)

 

うみは、蹴り上げられる宿儺の足首を上から踏み砕くべく、鋭く足を振り下ろした。

完璧なタイミング、完璧な軌道。

これでまた一つ、宿儺の攻撃の出鼻を挫き、さらなる追撃へと繋げられる――はずだった。

 

スカッ……!

 

「……あれ?」

 

うみの足は、宿儺の足首に触れることなく、何もない虚空を蹴り抜いた。

空振り。

いや、違う。うみの足がそこを通過したコンマ数秒後、遅れて宿儺の蹴りがその空間を通り過ぎていった。

 

(……ズレた!?)

 

うみの目に、驚愕が見開かれる。

先読みも、相手の動きも間違っていない。

狂ったのは――自分自身の肉体だ。

 

長年「脳から筋肉への伝達には0.1秒の遅延がある」という前提でチューニングされてきたうみの感覚。

その長年の『常識』と、『遅延ゼロ』の現実が、ここにきて最悪のバグを引き起こしたのだ。

脳が「ちょうどいいタイミング」だと判断して指令を出しても、肉体がそれよりも「0.1秒早く」動いてしまう。

 

格闘ゲームで突然モニターの遅延設定が変わったかのような、強烈な違和感とタイミングのズレ。

空を蹴った反動で、うみの体勢が大きく崩れた。

 

コンマ01秒の致死の「綻び」。

千年の戦闘経験を持つ呪いの王が、その明確な隙を見逃すはずがなかった。

 

「貰ったぞ!!」

 

体勢を崩したうみに対し、宿儺の空いた二本の巨大な腕が、死角から万力のように迫る。

避けることも、防ぐことも間に合わない。

 

(……仕方ない)

 

だが、うみは体勢を立て直すことすら放棄した。

 

 

違和感に戸惑う暇などない。狂った感覚など、黒閃で研ぎ澄まされた極限の集中力で強引にねじ伏せる。

 

選択したのは、これまで徹底して避けてきた「真っ向勝負」。

 

迫り来る宿儺の巨大な両腕。

うみは残った腕に限界まで呪力を練り上げ、自らを圧殺せんとするその凶壁のど真ん中へ、真っ向から拳を振り抜いた。

 

防御ではなく、小細工なし、真向からのカウンター。

 

ただでさえ発生条件がシビアな黒閃。

相手が静止している、あるいは一方的に打ち込む状況とは訳が違う。

互いの肉体が超音速で衝突し合うこの状況下において、黒閃を意図的に引き起こすための『変数』は絶望的なまでに多い。

 

宿儺の巨大な腕の質量。そのスイングの初速と加速度。

衝突の瞬間に発生する反発力と、そこに纏われた呪力の密度。

そして何より、先ほど狂ったばかりの"自身の肉体のタイミングのズレ"

 

それらすべての情報を、『六眼』が神がかり的な精度で拾い上げ、脳へと叩き込む。

ゾーン状態によって限界を突破したうみの脳髄が、スーパーコンピュータすら凌駕する速度でその複雑怪奇な方程式を解き明かしていく。

 

(宿儺の到達までコンマ02秒。俺の体感とのズレを逆算して、呪力の流出速度を上方修正。

衝突の座標、力積のベクトル、呪力の位相……全部、一点に束ねる!)

 

今までの何倍もの速度で思考を回す。極限の思考の果て。

呪力、肉体、そして狂った感覚のズレすらも、無理やり一つの"正解"へと強制的に収束させる。

 

激突。

 

両者の死力が新宿の中心で正面から交錯した、その瞬間――

 

バキィィィィンッ!!!!

 

空間が拉げ、巨大な二つの『黒い火花』が、新宿の空で正面から激突した。

 

クロスカウンターによる、両者同時の黒閃。

乗算された莫大なエネルギー同士の衝突は、局地的な竜巻にも似た爆発的な衝撃波を生み出す。

 

「チッ!」

「ぐっ……!」

 

すり鉢状になっていた更地がさらに深く抉り取られ、両者はその凄まじい反発力によって互いに大きく吹き飛ばされた。

ズザザザザッ! と数十メートルにわたって瓦礫を削り、砂塵を巻き上げながら、両者の間に明確な距離が生まれる。

 

舞い上がる濃密な土煙の中、ゆっくりと体勢を立て直す両者。

この両者同時の黒閃。

千年を生き、幾多の強者と死闘を繰り広げてきた呪いの王・宿儺にとって、それは闘争の果てに起こる事象の一つに過ぎない。

強烈な一撃の応酬。特筆するほどのことではない、日常の延長。

 

だが――月影うみにとって、この三度目の黒閃は、全く別の意味を持っていた。

 

これまで彼が対峙してきた呪霊や呪詛師たちは、彼が黒閃を二発撃つ頃には皆、例外なく塵と化していた。

「一回の戦闘で三発目の黒閃を放つ」。

それは、彼が生まれて初めて足を踏み入れた、未知の領域。

 

黒閃を経るごとに跳ね上がり続ける呪力の出力と、それに伴う身体強化の倍率。

つまり、今の月影うみは、彼自身の術師人生において間違いなく――

未曾有の『最高潮(ピーク)』に達していた。

 

「……ハハッ! さいっこう!!」

 

(……条件もようやく整った)

 

最高潮に達した肉体の躍動とは裏腹に、うみの脳内は極めて冷徹に、

盤面の「タスク」を処理し終えた事実を確認していた。

 

今回の彼の最大の役割――

それは、次に控える日車寛見の『誅伏賜死』を確実に通すための、盤面のセットアップ。

宿儺の術式を使用不可にし、領域を展開できないようにすること。

 

そのために彼が自身に課した条件は、三つ。

 

第一条件。最低でも一発の黒閃を放ち、自身のボルテージを上げること。

これは、早々にクリア。

 

第二条件。領域勝負における最大のノイズとなる、宿儺の『十種影法術』を封じること

これは五条の奮闘により、戦闘開始前にクリア。

 

そして、第三条件。これが最難関だった。

 

(名前を呼んでくれたってことは、少なからず俺のことを認めてくれたってことだよね? なら――)

 

呪いの王・両面宿儺に、月影うみという存在を敵として明確に認めさせること。

ただの足止めではなく、敬意を以て全力を引き出すに足る存在だと認識させること。

 

そしてたった今――新宿の空に響いた呪いの王の咆哮が、その最後の条件(ラストピース)がまったことを証明した。

 

最高潮のボルテージの裏側で、うみの脳裏を過るのは、過去に観測してきた強者たちの記憶。

 

大地を焦がした、漏瑚の灼熱。

魂を弄んだ、真人の歪な手。

空を割った、烏鷺と石流の極限のぶつかり合い。

すべてを模倣する、乙骨の無限の剣製。

そして――現代最強と史上最強が繰り広げた、頂上の領域戦。

 

『六眼』を通してそのすべてを緻密に観測し、脳裏に焼き付けてきたうみは知っている。

領域展開という呪術の極致が立ち上がる、その瞬間の「呪力の起こり」と「気配」を。

 

うみはゆっくりと息を吐き出し、これまで自身の内側に厳重に密閉していた呪力の「栓」を、意図的に引き抜いた。

 

ドプンッ、と。

 

気配ゼロの虚無から一転。うみの身体から、膨れ上がった超高密度の呪力が、堰を切ったように外部へと溢れ出す。

だが、それは単なる力の放出ではない。

『六眼』の極限の演算と、黒閃を経た神がかり的な操作精度。

それらを総動員し、溢れ出る莫大なエネルギーを、ただ一つの「現象」へと強制的にチューニングしていく。

 

それは、現実というキャンバスを内側から塗り替えるような、重く、淀み、そしてひどく研ぎ澄まされた異質な圧。

過去に観測してきた強者たちの、術式の極致が組み上がる瞬間の『気配』の完全な再現。

 

(――これは、無視できないでしょ!!)

 

うみはおもむろに両手を胸の前に持ち上げ、指を絡め、ゆっくりと掌印を結ぶ。

放たれるのは、呪術の頂点を示す「必殺」の気配。

 

 

相対する呪いの王は、たった今一個の強敵として認めた相手が、

己の最大奥義をぶつけてこようとしているその事実に対し、真っ向から応じないはずがなかった。

 

「……ッ!!」

宿儺は四つの瞳を鋭く見開き、顔の半分を覆うほどの歓喜の笑みを浮かべたまま、反射的に両の腕を交差させ、掌印を結んだ。

 

新宿の更地に、二人の声が同時に響き渡る。

 

「「――領域展開」」

 

直後、新宿の空間が呪いの王の意のままに塗り替えられていく。

結界を閉じない、神業とも呼べるその領域。うみの視界が、肌が、否応なくその完成へと向かう致死の気配を捉える。

 

(……あれ? これ、思ってたよりちょっと……時間かかるかも)

 

うみは、周囲を満たし始めた領域に触れ、その心の内にはかすかな焦燥を孕んでいた。

 

◆◆◆

 

時間を少し戻す。うみと宿儺が、互いに領域の掌印を結ぶ、その少し前。

 

新宿の中心で、空間が弾け飛ぶような轟音と共に、二つの『黒い火花』が正面から激突した。

 

「なっ……!?」

 

待機室のモニター越しにその凄絶なクロスカウンターを目撃した虎杖が、思わず声を上げて立ち上がった。

「嘘だろ!? あのタイミングで、お互いに黒閃!?」

 

「アホか……どんだけイカれた反射神経してやがる……」

日下部が、信じられないものを見るように頭を抱えた。

「宿儺が超音速でカウンター合わせたのもバケモンだが、それに真っ向から打ち合って黒閃を合わせたうみも頭おかしいぞ!」

 

「ああ、本当に。賭けのオッズが狂ってしまいそうだね」

片隅で、モニター群を操作する冥冥が艶やかな笑みを浮かべて頬杖をつく。

「私の手元の記録が正しければ……彼が一度の戦闘で『三度目』の黒閃を放つのは、これが初めてではないかい?」

 

「初めてって……つまり、どういうことだ?」

パンダが首を傾げる。

 

「つまり、過去のデータはもう一切通用しないってことだよ」

医務室のベッドから、五条悟が楽しげに、だがその奥に微かな緊張を孕んだ声で告げる。

「ここから先の呪力出力も、身体強化の倍率も……うみ自身にすら分からない、完全な『未知の領域』ってこと」

 

五条は、その姿を視界に捉えながらニヤリと笑った。

 

「今のうみは、彼自身の術師人生において間違いなく、未曾有の最高潮(ピーク)に達している」

 

その言葉を裏付けるように、モニターから激戦の音が途切れ、代わってうみの声が響き渡った。

 

『……ハハッ! さいっこう!!』

 

それは、今まで誰も聞いたことのない、純粋な闘争の喜びに満ちた歓喜の叫びだった。

 

「うみくんが……あんな顔して笑うの……初めて見た」

三輪が、息を呑んでモニターを見つめる。

常に冷静で、あるいは飄々と戦場をコントロールしていたかつての彼の姿からは想像もつかない、剥き出しの熱。

 

「ああ。いつも余裕ぶってるアイツが、あそこまでアガッてるのは初めて見たぜ」

真希が、呆れと、ほんの少しの戦慄を込めて呟いた。

 

――だが、待機室の面々が驚愕したのは、彼のその『感情の昂り』だけではなかった。

 

直後。モニター越しでも肌が粟立つような、異常な呪力の膨張が更地に巻き起こる。

気配ゼロの虚無から一転。うみの身体から溢れ出した呪力が、空間を塗り替えるような『特異な圧』へと変質したのだ。

 

「おいおいおい、嘘だろ……!」

日下部の声が上ずる。

 

モニターの中で、うみがおもむろに両手を胸の前に持ち上げ、指を絡め――掌印を結んだ。

 

「マジかよ……!」「領域展開!?」

 

虎杖とパンダが同時に叫ぶ。

「うみのヤツ、領域なんて使えたのか!?」

 

待機室に走る、今日一番の戦慄とパニック。

彼が領域を使えない(教えられていない)と思っていた彼らにとって、それは文字通り規格外の隠し玉だった。

 

そして、その驚きにトドメを刺すように、新宿の更地に二人の声が同時に響き渡った。

 

『『――領域展開』』

 

直後、新宿の空間が呪いの王の意のままに塗り替えられていく。

 

血の海と、不気味にそびえ立つ髑髏の山。

絶望を具現化したかのような『伏魔御厨子』が、凄まじい圧を伴って新宿の更地へと顕現した。

だが――

 

「……あれ?」

パンダが、信じられないものを見るようにモニターへ顔を近づける。

「うみの領域は……?」

 

空間を塗り替えたのは、宿儺の領域のみ。

待機室の面々が困惑の表情を浮かべる中、モニターのカメラが、宿儺と対峙するうみの足元を映し出した。

そこにあったのは、領域展開によって構築される必中必殺の生得領域ではない。

 

円状に展開された、小さな防御の結界――『簡易領域』だった。

 

「ッ……!?」

それを見た瞬間。待機室で固唾を飲んで見守っていた乙骨が、ハッとして血相を変えた。

「うみくん!? なんで!? それじゃあ……!」

 

(僕と検証した『アレ』じゃない!)

乙骨の顔が、かつてないほどの焦燥に染まる。

 

一方、戦場。

己の領域を展開し終えた宿儺は、眼前に立つうみの姿――そして、その足元にあるチャチな結界を見て、四つの瞳に明確な憤りを宿していた。

 

『……どういうつもりだ?』

 

低く、地を這うような呪いの王の声。

自分に最大奥義を出させておきながら、己は領域を展開すらしなかった相手に対する、強烈な苛立ちと怒り。

 

その刺すような視線を受けながら、うみは悪びれもせず、飄々と言ってのけた。

 

『どういうつもりも何も、俺は元々"そこ"に立ってないんだよ。……俺、領域なんて使えないもん』

 

「はぁ!?」

待機室で、日下部が素っ頓狂な声を上げた。

「領域が使えない!? じゃあ、あの凄まじい気配は……全部ただのハッタリだって言うのかよ!」

 

そこまではいい。問題はその先だ。

 

「アホか! ハッタリで領域出させたのはいいが、どうすんだよ!? 簡易領域なんて伏魔御厨子の前じゃほとんど意味ねぇぞ」

 

日下部が、絶望的な事実を口にして頭を抱える。

「あの五条でさえ、簡易領域が剥がされた後は反転術式でのゴリ押しで凌いだんだ! 反転術式を持たないあいつが、どうやってあの領域を崩すってんだよ!!」

 

その日下部の悲痛な叫びを証明するかのように。

モニターの中では、絶え間なく降り注ぐ宿儺の不可視の斬撃によって、

うみの足元に展開された簡易領域の結界が、ゴリゴリと凄まじい音を立てて削り取られていた。

 

「……ヤバいぞ。あいつ、このままじゃ……!」

真希が血の気を引いた顔で、祈るようにモニターを睨みつける。

 

モニターの中のうみは、そんな外野の絶望など知る由もなく、ニヤリと口角を吊り上げた。

 

『どーしてもあんたには領域を使ってもらわなきゃいけなくてさ。

……どうだった? さっきの呪力の立ち上がり……完璧だったでしょ?』

 

パキッ、ピキキキッ……!

小さな円状の防御陣に無数の亀裂が走り、今にも弾け飛びそうな限界の軋みを上げている。

 

宿儺は、足元でひび割れていく結界の中で軽口を叩くうみを見下ろした。

その四つの瞳に先ほどまで燃え上がっていた歓喜の熱は、すでに急速に冷め始めている。

 

『ああ。呪力操作の極致……見事な手腕だった。この俺の目すら完璧に欺くほどにな』

 

呪いの王は、うみの技術そのものに対しては明確な賛辞を贈った。

だが、紡がれるその声色はひどく平坦で、酷薄な響きを帯びている。

 

『だが――実に下らぬ』

 

パキィィッ……!

無慈悲な斬撃の嵐に晒され、うみの簡易領域の一部が削り落ちる。

 

『己の死を早めるためだけに、小細工を弄したか。……興が冷めた』

 

そして、宿儺の三日月のように歪んだ口から、死の宣告が紡がれる。

 

『去ね』

 

冷酷な一言。

それと同時。モニター越しでも、うみの足元の簡易領域が限界を迎えたことがはっきりと分かった。

 

「……ッ! これは!」

その瞬間。医務室のベッドでモニターを凝視していた五条の『六眼』が、大きく見開かれた。

 

パキィィィィンッ!!!!

 

ガラスが砕け散るような無慈悲な破壊音。

うみを守っていた最後の薄氷が完全に吹き飛び、宿儺の『伏魔御厨子』の必中必殺の斬撃が、一切の障害なくうみの全身へと殺到する。

 

「うみくんッ!!」

「ああっ……!!」

待機室で、三輪と虎杖が絶望に顔を歪めて叫び声を上げた。

日下部は直視できずに目を逸らし、真希はギリッと唇から血が出るほど歯を食いしばる。

 

誰もが、次の瞬間にはあの小柄な体躯が、原形を留めぬ肉塊に変わる凄惨な光景を想像した。

 

だが。

一秒、二秒と時が過ぎても。モニターの中の光景は、一向に赤く染まらない。

 

「……は?」

 

逸らしていた顔を恐る恐る上げた日下部が、間抜けな声を漏らした。

画面の中央。絶え間なく不可視の斬撃が降り注いでいるはずの、死の領域の中心。

 

そこに、うみは『無傷』で立っていた。

 

服の裾一つ、髪の一本すら切られていない。

 

ただ猛烈な風だけが吹き荒れる中、そこに立つ彼だけが、領域の脅威から完全に切り離されているかのように。

 

『はぁ〜……焦った焦った』

 

静まり返る戦場に、うみの間の抜けた声が響く。

彼は額に浮かんだ冷や汗を拭いながら、大きく安堵の息を吐き出した。

 

『閉じてる領域と閉じない領域とじゃ、勝手が全然違うね。……ぎりっぎりだった〜』

 

「な……んだと……?」

待機室の面々が、何が起きているのか全く理解できず、唖然としてモニターを凝視する。

 

それは、彼を切り刻んでいるはずの呪いの王も同じだった。

 

宿儺の四つの瞳が、信じられないものを見るように見開かれる。

領域から、斬撃そのものが消えたような感覚。

 

 

理解不能の事象。未知の呪術行使。

一度は完全に冷めきったはずの呪いの王の闘争心に、再び、爆発的な熱が灯る。

 

『……月影うみ!!』

 

歓喜と驚愕が入り混じった、すさまじい咆哮。

 

『貴様、今……何をした!!』

 

己の領域は確かに展開されている。結界内の対象の座標も、完璧に捉えている。

本来ならば、領域内に存在するすべてのモノを塵にするまで、絶え間なく降り注ぐはずの不可視の斬撃。

だが――その「必中の斬撃が降り注ぐ」という現象が、領域内からぽっかりと抜け落ちているのだ。

 

すさまじい咆哮を浴びながら、当の月影うみは、相変わらず飄々とした態度で首の後ろを掻いた。

 

『何をしたって言われてもなぁ……』

 

彼は、つい先ほどまで自身の足元に展開していた『簡易領域』の残滓を軽く踏みつけながら、ニッと笑う。

 

『俺さ、領域は使えないんだけど――結界術自体は、けっこー得意なんだよね』

 

「結界術……?」

待機室で、日下部が眉をひそめた。

 

『あんたの領域展開。確かに規模も出力もバケモンだし、必中必殺の斬撃なんてまともに食らったら一溜まりもない。

……でもさ、それって結局のところ、結界術っていう"プログラム"の上で動いてるルールに過ぎないでしょ?』

 

うみは、宙に指先を這わせるように、見えない何かを弾く仕草をした。

 

『だから、書き換えさせてもらったんだよ。あんたの領域の要件(ルール)をさ』

 

「ルールの、書き換え……?」

虎杖が目を丸くする。

 

『領域に接続して、構成を解析。そこから必中効果を丸ごと削除(キャンセル)した。そんだけ。

ここはシンプルに領域干渉(アクセス)とでも呼ぼうかな?』

 

『……!』

宿儺の四つの瞳が、驚愕に見開かれた。

 

「他者の領域の結界に干渉して、中身のルールを直接書き換えたっていうのか……!?」

日下部が、戦慄に顔を引き攣らせて叫んだ。

「そんなこと、理屈じゃ分かってもできるわけがない!

領域の構築なんて、一瞬の間に複雑怪奇な条件が絡み合って成立してるんだぞ!

それをリアルタイムで解析して、自分に都合のいいようにイジるなんて……!」

 

そんな絶叫をよそに、モニターの向こうのうみは、舌を出して苦笑した。

 

『憂太先輩に何回も付き合ってもらってさ、実戦レベルまで持ち上げたと思ったんだけどね

いざやろうとしてびっくり! 閉じない領域の機構が複雑すぎてちょっと時間かかちゃった。簡易領域が使えなきゃ死んでたね』

 

そのうみの軽い言葉を聞いた瞬間。

待機室の空気がピタリと止まり、真希をはじめとする面々のジトッとした視線が、一斉に乙骨へと集中した。

 

「テメェ……知ってたのか」

 

「あ、いや……! その、ね? 僕も驚いたんだよ!? 簡易領域何て使いだして。聞いてた話と違うなぁって!」

真希の恨みがましい視線と低い声に、乙骨は全く言い訳になっていないしどろもどろな弁明を口にして、

滝のような冷や汗を流した。

 

「……ハハッ、本当に規格外だね」

医務室のベッドで、五条悟が呆れと感心が入り交じったような、どこか誇らしげな声で笑った。

 

『それで……どう? 宿儺。俺が最強(あんたたち)に報いるためのとっておき。

俺も、この書き換えを維持してる間は術式が使えないのが難点なんだけど……』

 

うみは、両手を広げてみせた。

 

『確か、()()()()()()()()()()()()()()()()()使()()()()だったっけ?』

 

「ッ……!! そうか!!」

待機室で、日下部が弾かれたように顔を上げた。

「領域の結界に術式を付与している以上、必中効果がキャンセルされていようが、

宿儺は領域を展開している限り『解』も『捌』も手動じゃ撃てねぇ! ……つまり!」

 

『ククッ……ハハハハハハハッ!!!!』

 

日下部の言葉を遮るように。

術式を封じられた呪いの王は、腹の底から、歓喜の哄笑を爆発させた。

 

その狂気に満ちた笑い声を真正面から浴びながら。

月影うみは、ゆっくりと顔を上げ、唇の端を吊り上げた。

 

それは、普段の飄々とした少年らしさなど微塵も感じさせない、ゾクッとするような笑みだった。

彼の中性的な顔立ちに浮かんだその表情は、見る者の背筋を撫で上げるような、これ以上ないほどの『妖艶さ』を孕んでいた。

 

『ここからはお互い――泥臭くいこうよ』

 

甘く、それでいて底知れない好戦性を滲ませた声が、空っぽになった領域に響く。

 

「ひゃっ……!」

待機室で、モニター越しにその顔を直視してしまった三輪が、顔を真っ赤にして両手で口を覆った。

 

「だ、だめです。今のはだめ、です、あわわわ……」

 

シュゥゥ……と頭から湯気を出し、今にも卒倒しそうになる三輪。

 

「おいおいしっかりしろ、三輪……」

パンダが呆れたようにツッコミを入れる。

「……アイツ。あれで男なんだよなぁ」

 

「……顔だけなら、悟よりタチが悪いかもな」

真希が、半分呆れ、半分本気のトーンで吐き捨てた。

 

◆◆◆

 

戦場。

哄笑をピタリと止めた宿儺の四つの瞳が、スッと細められ、獲物を狩る捕食者のそれへと変わる。

うみもまた、その妖艶な笑みをスッと消し去り、無機質な『戦闘者』の顔つきへと戻った。

 

その瞬間。

先ほどまで空間を塗り替えるほどに膨張し、

溢れ出していたうみの呪力が――ふっと、完全に消失した。

 

それが、開戦の合図だった。

 

もはや、言葉は不要。

術式を封じられた空っぽの『伏魔御厨子』の中で、二つの影が同時に弾けた。

 

ドゴォォォォンッ!!!!!

 

新宿の分厚いコンクリートの地盤が、水面のように大きく跳ね上がり、粉砕される。

中央で激突したのは、純粋な暴力と暴力。

 

――三度の『黒閃』。

それは、術師が自身の呪力の核心に触れ、潜在能力を120%引き出す極限のゾーン状態。

 

うみは今、その黒閃によって限界突破した莫大な呪力出力を、ただの一滴も外部へ漏らすことなく体内に完全に封じ込めている。

 

その結果もたらされるのは、呪力による究極の『肉体強化』。

現在の彼のフィジカルは、伏黒甚爾や禪院真希といった『天与の暴君』の領域に、完全に足を踏み入れていた。

 

「シッ……!」

短い呼気と共に、うみの拳が空気を切り裂き、宿儺の顔面へと迫る。

 

対する宿儺は、四本の腕から重戦車のような猛撃を繰り出し、それを迎撃する。

 

だが。

「……チッ!」

交錯した瞬間、宿儺の舌打ちが漏れた。

 

呪力という名の『気配』を完全に絶ったうみの動きは、宿儺の超感覚には一切引っかからない。

視覚と音のみで対応を強いられるその神速の打撃は、千年の戦闘経験を持つ宿儺の予測を、ほんの僅かに、だが致命的に上回ってくる。

 

ドゴォッ!!

宿儺の上段の左腕が空を切り、死角から放たれた下段の右腕の迎撃軌道すらも、

うみは『六眼』が捉える筋肉の微細な収縮の先読みで、完全に把握していた。

 

天与の暴君に等しい究極のバネが、宿儺の四本腕が形作る『絶対の防陣』の、

コンマ数ミリの隙間へと彼を滑り込ませる。

 

(今のフィジカルなら反応加速が無くても十分間に合う……三回目が出たのはラッキーだったな)

 

「ガッ……!」

うみの重い一撃が宿儺の下段の腕をガードごと強引に弾き飛ばし、

ガラ空きになった脇腹に、異常なまでの膂力が乗った掌底が深々と突き刺さった。

 

ドズンッ!!!という、内臓を揺らすような鈍い衝撃音。

呪いの王の巨体が、くの字に折れ曲がり、数メートル後方へと吹き飛ばされた。

 

(一気に詰めて領域を崩壊させる……!)

 

だが、うみは追撃の手を一切緩めない。

吹き飛んだ宿儺が体勢を立て直すよりも早く、気配という名の足跡すら残さず、その姿がふっと掻き消えた。

 

(速い――!)

 

千年の戦闘経験を持つ宿儺の脳髄が、最大級の警鐘を鳴らす。

背後。空中に投げ出され、完全に体勢の崩れた宿儺の死角に、悪魔的な速度で回り込んだうみがいた。

 

「シッ!」

 

再びの鋭い呼気。

そこから始まったのは、一方的とすら言える蹂躙だった。

 

ドゴッ! バキィッ! ドガガガガガンッ!!!

 

新宿の空中で、おぞましい打撃音が連続して弾け飛ぶ。

気配ゼロの神速、六眼による完全な最適解の導出。

そして、強化睡眠記憶によって常人の数十倍の効率で脳に焼き付けてきた『技術』。

 

それらが『天与の暴君』に迫る圧倒的な出力で放たれるのだ。

 

宿儺は四本の腕をフル稼働させ、どうにか急所への直撃だけは防いでいる。

だが、それだけだ。

完全に後手に回った呪いの王は、ガードの上からでさえ骨を軋ませる規格外の重撃を浴び続け、防戦一方に追い込まれていた。

 

(――クハッ。純粋な『格闘』のみでここまで俺を圧すか)

 

だが。

どれほど一方的に殴られようと、宿儺の四つの瞳に『焦燥』は微塵も無かった。

 

呪力による極限の身体強化と、四本腕という生物学的な絶対優位。

それをもってしても純粋な殴り合いで押し負けているという事実に対し、呪いの王の胸中を満たしていたのは、死の恐怖などではない。

千年味わうことのなかった、底知れぬ歓喜と高揚だった。

 

パァンッ!!

うみの回し蹴りが宿儺の右上の腕のガードを強引に弾き飛ばし、決定的な隙が生まれた。

 

うみの右拳が、深く引かれる。

 

(あれをもらえば領域の維持は困難になるな……)

 

ならば、と。

極めて冷静な思考で、千年の王はそのコンマ数秒の間に一つの『解』を導き出した。

 

領域のルールは書き換えられ、生得術式はエラーを起こしている。

それを強制的にすり抜け、手動で術式を引きずり出すための、理外の理。

 

宿儺は自らの魂に、即興の『縛り』を刻み込んだ。

――『今後一切、領域外においてこの術式の使用を完全に禁ずる』。

一対多であろうと、一対一であろうと。未来における最強の手札の一つを、永遠に捨てるという破格の代償。

 

対価は。

『今この瞬間、この領域内においてのみ、一度だけ手動での発動を許可する』。

 

「……ッ!!?」

引いた右拳を振り抜こうとしたうみの六眼が、"それ"を捉え大きく見開かれた。

 

(術式の起こり? 縛りですり抜けたのか……いや、それよりも……)

 

「『(カミノ)――』」

 

うみの限界突破した脳が、宿儺の奥底で膨れ上がった呪力、その出力を観測する。

 

(領域ごと吹っ飛ばすつもり……!?)

あまりの理不尽な火力の予兆に、うみの口から乾いた笑いが漏れる。

「ハハッ……マジ?」

 

そのうみの呟きに応えるように。

宿儺の本来の口――上の口が、愉快そうに三日月の弧を描いた。

 

「ああ。死ぬなよ?」

 

それは、純粋に戦闘を楽しんだ相手への、彼なりの皮肉めいた手向け。

そして同時に紡がれる、竈の蓋を開く言葉。

 

「『――(フーガ)』」

 

(……!!)

 

うみは打撃に込めていた超高密度の呪力を、己の肉体を守るための極限の『防御』へと全振りする。

 

直後。

新宿の中心で、すべてを灰燼に帰す絶対回避不能の爆炎が弾け飛んだ。

 

◆◆◆

 

ドゴォォォォォォォォォォンッ!!!!!!

 

それは、もはや爆発という言葉では生ぬるい、天災の顕現だった。

うみの領域をハッキングが完了するまでの数十秒間。

伏魔御厨子は確かに機能し、新宿の瓦礫を微細に切り刻み、十分すぎるほどの『死の粉塵』をこの空間に充満させていたのだ。

 

それらすべてを起爆剤とした超巨大な炎が、

更地となっていた新宿の地盤そのものを蒸発させ、天を衝くほどの巨大な火柱となって夜空を焦がす。

 

轟音と熱波が暴風となって吹き荒れ、

待機室のモニター群を一瞬にして真っ白な閃光と、それに続く濃密な黒煙で埋め尽くした。

 

「う、うみくんッ!!!」

 

三輪の悲痛な絶叫が響くが、その声すらも、モニター越しに伝わる爆音の余波にかき消される。

「なんだ今の火力は……! 冗談だろ!?」

「くそっ、煙で全く見えねぇ! どうなった!?」

 

日下部やパンダがパニックに陥り、待機室は阿鼻叫喚の騒ぎとなる。

誰もが最悪の想像を振り払えず、青ざめた顔で黒煙の立ち込めるモニターを睨みつける中。

 

ガタッ、と。

部屋の片隅で、静かに椅子から立ち上がる男がいた。

 

日車寛見。

騒然とする室内において、彼の瞳だけは一切の動揺を見せず、ただひたすらに冷徹な『決意』だけを宿していた。

彼は、手にしたガベルを強く握り締め、背中越しに声をかける。

 

「虎杖。行くぞ」

 

その短く、重い言葉に。

モニターに張り付いていた虎杖悠仁が、ハッと振り返る。

 

「日車……!」

 

虎杖の瞳にもまた、迷いはなかった。

彼が立ち上がるのを見て、日車は薄く息を吐き出し、静かに告げる。

 

「十五分だ」

 

◆◆◆

 

やがて。

戦場の地獄の業火がゆっくりと収束し、もうもうと立ち込める黒煙が風に流されていくと、そこには異様な光景が広がっていた。

 

巨大なクレーター。

その中心で、不気味にそびえ立っていた『伏魔御厨子』の髑髏の山は、術者自身の放った爆発の負荷によって半壊し、音を立てて崩れ落ちていく。

領域の崩壊。

 

そして、その焦土の中央。

 

「……ハァ、ハァ……」

 

全身の皮膚が焼け焦げ、四本の腕のうち二本が炭化してボロボロと崩れ落ちようとしている宿儺が、荒い息を吐きながら立っていた。

千年無敗の王が、明確に「死の淵」を覗き込んだ満身創痍の姿。

 

そして、その数十メートル先。

 

「ゲホッ……かはっ……」

 

うみは、地面に力なく膝をついていた。

咄嗟に全呪力を防御に回したとはいえ、広範囲粉塵爆発の直撃。

着ていた服は半分以上が焼け飛び、その身体には痛ましい傷が刻まれている。

先ほどまで彼を覆っていた呪力もすでに霧散していた。

 

(まったく、自爆とかイカレてんのか?

あー……痛い。最悪。これは続行は無理かなぁ。早く治してもらわないと……)

 

霞む意識の中で、うみは自身の限界を正確に悟る。

だが、その顔に敗北感は無い。

 

(まあでも――)

 

うみは、ボロボロになった宿儺を見上げ、血まみれの顔でニッと笑った。

 

「……お仕事、完了♪」

 

その言葉が、新宿の静寂に溶けた直後。

 

上空から、二つの影が焦土へと降り立った。

一人は、怒りと決意に満ちた瞳を燃やす、虎杖悠仁。

もう一人は、静かな殺意と共にガベルを握りしめた、日車寛見。

 

「続行は無理そうです。一旦引くので、お任せしちゃっていいですか?」

 

血を吐きながらも飄々とうそぶくうみに、虎杖が力強く頷く。

 

「ああ。十分すぎるくらいだ。……あとは俺たちが、絶対やる!」

 

「見事な手腕だった。ゆっくり休むといい」

日車もまた、自らの命のタイムリミットを創り出してくれた少年に、短く、だが最大限の敬意を込めて告げた。

 

月影うみが文字通り命を削って創り上げた、最高の『盤面』。

反転術式の回復も間に合わず、領域も崩壊し、術式も封じられた、満身創痍の呪いの王へ向け。

 

次なる死刑執行人たちが、決戦の地へと降臨した。

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