――ズンッ、と。
待機室に、重い空気が歪む音が響いた。
憂憂の術式による空間転移。
待機室の床に転がり出るようにして現れたのは、痛々しいほどに全身を焼き焦がし、血にまみれた月影うみの姿だった。
「うみくんっ!?」
「うみ!!」
離れた場所でモニターに釘付けになっていた三輪やパンダたちが、血相を変えて悲鳴のような声を上げる。だが、彼らが駆け寄ろうとするよりも早く。
「お疲れさん……」
咥えていたタバコを灰皿に押し付け、即座に駆け寄ってきたのは家入硝子だ。
「硝子さん……お疲れ様です……」
「喋るな、バカが。……よく生きて帰ってきた」
硝子は短く吐き捨てると、うみの身体に両手を翳し、すぐさま反転術式を流し込み始めた。――ズンッ、と。
待機室に、重い空気が歪む音が響いた。
憂憂の術式による空間転移。
待機室の床に転がり出るようにして現れたのは、痛々しいほどに全身を焼き焦がし、血にまみれた月影うみの姿だった。
「うみくんっ!?」
「うみ!!」
離れた場所でモニターに釘付けになっていた三輪やパンダたちが、血相を変えて悲鳴のような声を上げる。だが、彼らが駆け寄ろうとするよりも早く。
「お疲れさん……」
咥えていたタバコを灰皿に押し付け、即座に駆け寄ってきたのは家入硝子だ。
「硝子さん……お疲れ様です……」
「喋るな、バカが。……よく生きて帰ってきた」
硝子は短く吐き捨てると、うみの身体に両手を翳し、すぐさま反転術式を流し込み始めた。
そして、ワッと押し寄せようとした面々を、鋭い一瞥で射抜く。
「アンタら、治療の邪魔だ。そこで見てな」
その静かで凄みのある声に、三輪たちはピタリと足を止め、祈るように両手を組んで固唾を呑んで見守るしかなかった。
そのため、戦えない者たちが息を殺して見守る中、五条が横たわる簡易ベッドと救護スペースがあるこの一角だけは、ひどく静かだった。
全身の広範囲に及ぶ火傷。
……十分に重症ではあるものの、あの爆発を食らって、よくぞこの程度の損傷で済ませたものだというべきだろう。並みの術師ならば、原形すら留めていなくともおかしくない。
「……本当に術式を引っぺがしてくるとは、大したものだよ。君も人間をやめたんじゃないか?」
「ひどいなぁ。俺はいつでも、か弱い人間ですよぉ……」
硝子の反転術式の光に包まれながら、うみは痛みに顔をしかめつつも、いつものように飄々と軽口を叩いた。
肉体が修復されていく心地よい感覚の中、うみは視線を少しだけ動かす。
視線の先。
簡易ベッドの上に上半身を起こし、壁に背を預けている男――五条悟と、バッチリ目が合った。
「やあ。お疲れ、うみ」
「……悟さん。起きてて大丈夫なんですか」
真っ二つに両断された身体を繋ぎ合わせ、ようやく意識を取り戻したばかりの現代最強の術師。当然ながら、すぐに前線に立てるような状態ではない。
だが、その蒼い瞳には、頼もしい教え子の帰還を喜ぶ確かな光が宿っていた。
「まあ、動けないけどね。硝子と憂太のおかげで、なんとか生きてるって感じ」
「そうですか。……よかった」
うみは、心底安堵したように小さく息を吐いた。
「それで……どうだった? 宿儺は」
ふと、五条が少しだけ声を落として尋ねる。
それは、全力の呪いの王と真っ向から死闘を繰り広げた、彼ら二人にしか分からない領域の問いだった。
「めちゃつよです。初見じゃなきゃ死んでました」
うみは自嘲気味に笑い、天井を見上げた。
「あれだけ初見殺しの手札を切って、
必死に盤面コントロールして……それでようやく痛み分けとかやってらんないですよ。
悟さんのおかげで幾分楽になってたところもありますし……」
「ははっ、そりゃどうも」
五条は短く笑い、それから少しだけ真剣な眼差しを向けた。
「でも、見事だったよ。発想も技術も。……特に神経をいじるやつとあのフィジカルはやばいね」
「必死だっただけですよ」
うみは少しだけ照れくさそうに視線を逸らす。
「ただ、ようやく、ほんの少しだけ悟さんが普段見ている世界が分かった気がします」
その言葉に、五条はどこか嬉しそうに目を細めた。
「硝子さん、これ治るまでどのくらいかかりそうですか?」
うみは視線を上に向け、黙々と反転術式を掛け続ける硝子に尋ねる。
「……アンタのこの怪我なら、どんなに急いでも15分ってとこだろうね。
他者への反転術式は出力が落ちるし、あたし一人じゃこれが限界だ」
硝子は額に滲んだ汗を拭いもせず、淡々と事実を告げる。
「15分……」
(それだけあれば十分か……)
「わかりました。じゃあ、俺ちょっと寝るので治ったら起こしてください」
「……は?」
「あ、完全に治ってなくても、向こうがヤバそうなら途中で叩き起こしてくれていいんで」
あまりにも唐突な宣言に、硝子が目を丸くした。
だが、うみ本人は至って真剣だった。
呪いの王との死闘。交わした拳、読み取った呪力の流れ、術式の起こり、そして――あの男の『癖』。
自らの得た膨大な情報を、ただの記憶から『経験』へと完全に定着させる。
「……まあ、そういうことなら好きにしろ。起きたらすぐに戦えるように、外側だけでもきっちり塞いでおいてやる」
「ありがとうございます」
硝子の言葉に安心したように、うみはゆっくりと目を閉じた。
限界を超えた呪力操作の過負荷と、肉体の損傷による疲労。
それらが一気に押し寄せ、彼の意識は急速に深い、深い眠りの底へと沈んでいく。
(まあ、出番がないのが一番いいんだけどね……)
その静かな祈りを最後に、一人の術師の意識は静かに止まった。
◆◆◆
――そして、同じ頃。
新宿の中心、焦土と化した更地の上空を覆い尽くすように。
「領域展開――『誅伏賜死』」
日車寛見の必殺の法廷が、呪いの王を裁くべくその重い扉を開いていた。
薄暗い法廷を模した結界の内部。
ギロチン台を背にした中央の証言台で、両面宿儺は自らの肉体を見下ろし、腹部の口で低く嗤った。
「なるほど。一切の暴力行為が禁じられる……か。面白い趣向だ」
その姿は、凄惨の一言に尽きる。
全身の皮膚は赤黒く焼け焦げ、四本の腕のうち二本は炭化し、今にも崩れ落ちそうなほどに損傷している。並の術師であれば立っていることすら不可能な重傷。
だが、その呪いの王の四つの瞳に焦りはない。
(このルール……自傷行為も当然、禁じられるというわけだ)
宿儺は、ジャッジマンが検察として己の罪状を読み上げ、向かいの証言台から虎杖悠仁が叫ぶ様をどこか上の空で聞いていた。
彼の意識の大部分は、己の肉体の内側――猛烈な勢いで駆動している『反転術式』へと向けられていた。
月影うみとの死闘。互いに放った黒閃による『ゾーン』の恩恵。
跳ね上がった呪力出力と反転術式の効率が、炭化した腕の細胞を急速に繋ぎ合わせ、焼け焦げた皮膚を真新しいものへと再生させていく。
そう、この『暴力禁止』の空間は、満身創痍の呪いの王にとって、何者にも邪魔されずに肉体を回復させるための『絶対安全圏』として機能していたのだ。
だが、万能に見えるその超回復にも、一つだけ致命的な制限がかかっていた。
五条悟との死闘から行ってきた、自らの脳を呪力で破壊し、反転術式で治癒することで焼き切れた術式を無理やりリセットする強硬手段。
己の脳を破壊するというその行為は、この領域内においては明確な『自傷行為』と判定され、実行に移すことができない。
故に、宿儺の生得術式『御厨子』は、未だ焼き切れたまま、機能不全に陥っていた。
『――被告人、両面宿儺。2018年10月31日、渋谷における大量殺人。これを認めるか』
ジャッジマンの抑揚のない声が、法廷に響き渡る。
反論や弁明の機会。だが、宿儺は興味なさげに鼻で笑った。
「ああ。俺が殺した」
現代最強の術師・五条悟。そして、己をここまで追い詰めた理外の術師・月影うみ。
極上の狂宴をもたらした二人が盤面から消えた今、有象無象の集まりの中で彼の興味を惹くものは少ない。
だからこそ、この法廷の主が手にするという一撃必殺――『処刑人の剣』の煌めきを、早くこの目で見てみたかったのだ。
裁判の争点は、秒で終わりを迎えた。
上空に浮かぶ巨大な式神、ジャッジマンの天秤が大きく傾く。
そして、判決は下される。
『
パリンッ……!!
判決を下し終えた法廷の結界が、役目を終えたようにガラスのように砕け散る。
再び、新宿の焦土が彼らの眼前に広がった。
「……ッ!!」
日車の手の中に一撃必殺の光り輝く剣――『処刑人の剣』が顕現する。
同時に、宿儺の肉体から『何か』がごっそりと剥がれ落ちるような感覚が、訪れる。
(……ほう)
自身の内側を確かめた宿儺は、腹部の口で微かに、だが酷く邪悪に嗤った。
先の月影うみとの死闘の中で、彼が所持していた呪具『神武解』はとうの昔に新宿の瓦礫の底へと消え去っている。
ならばこの『没収』が適応されるのは間違いなく術式であり、日車を始めとする高専の術師たちは皆、呪いの王の代名詞たる生得術式が没収されたと確信しているはずだ。
だが、宿儺にとってそれは、機械的なルールの『穴』がもたらした、ひどく都合の良い誤算だった。
(なるほど。貴様の式神は、そう判断を下すか……)
自身に起きた都合の良い事象を悟り、呪いの王が内心で口角を吊り上げたのと、ほぼ同時だった。
領域内で稼いだわずかな時間の中で、回し続けた反転術式によって、炭化していた腕の細胞は完全に繋がり、
焼け焦げた皮膚は真新しいものへと再生を終えた。
――絶対安全圏の終了と、殺し合いの再開。
術師たちの前にに立つ呪いの王の肉体は、先ほどまでの満身創痍の惨状が嘘のように、四本の腕と屈強な肉体を取り戻している。
だが、未だ彼から不可視の斬撃が放たれる気配はない。
「行くぞ!!」
虎杖悠仁の咆哮が、戦場の静寂を破る。
虎杖、日車、そして背後に控える日下部たち高専メンバーに残された、呪いの王を討ち取るための、
そして、伏黒恵を救い出すための絶好の機会となる。
先陣を切ったのは、虎杖。
爆発的な脚力で更地を蹴り飛び、瞬きする間もなく宿儺の懐へと潜り込む。
「シッ!!」
呪力を乗せた渾身の右ストレート。だが、宿儺は上側の右腕一本でそれを『壁』のように受け止めた。
岩盤を殴りつけたような尋常ではない硬度。術式がなくとも、その肉体そのものが武器であり盾。
宿儺は微動だにせず、すぐさま下側の右腕で空気を破るほどの裏拳を放つ。
虎杖が間一髪でそれを躱したのと同時に、宿儺の背後から迫る影があった。
「邪魔すんぞ!!」
七海建人の遺剣――呪具となった鉈を振り被り、猪野琢真が跳躍からの一撃を振り下ろす。
『来訪瑞獣』による身体能力の底上げ。建物を容易く叩き割る重い一撃。
だが、宿儺は振り返ることすらしない。
背後からの一撃を、腕一本で受け止めて見せる。
(……ほう?)
その瞬間、宿儺の瞳が微かに動いた。
受け止めた腕から伝わる、想定以上の重圧。
ただの打撃ではない。この鉈には、七海健人の術式『十劃呪法』が刻まれている。
(あの三七分けの術師の術式か。死後、呪具化したというわけだ)
「バケモノがッ!」
「シン・陰流――『抜刀』!!」
宿儺の意識がわずかに猪野の鉈へと向いた、その一瞬の隙。
死角から滑り込んできた日下部篤也の刀が、宿儺の脚を狙って閃く。
うみが削り、日車が術式を奪った。ならば、あとはこの圧倒的な体術の暴力さえ凌げば、必ず勝機はある。
ガンッ!!
日下部の刃は宿儺の呪力による硬い防御に弾かれるが、体勢を崩させることには成功した。
そこに、遥か後方から音を置き去りにした一撃が放たれる。
「『穿血』!!」
脹相の放った極小・極大の血液の矢が、宿儺の眉間を正確に撃ち抜く軌道を描く。
(見事だ。だが)
宿儺は四本の腕を巧みに操り、虎杖、猪野、日下部を同時に弾き飛ばしながら、首を僅かに逸らして『穿血』を躱す。
常人であれば即死、あるいは致命傷を免れない猛攻。
だが、呪いの王は涼しい顔でそれらを捌き切ってみせた。……いや、そう見えただけだ。
(微かに遅い……!!)
宿儺は内心で舌打ちをした。
四本の腕と完璧な呪力操作をもってしても、彼の動きには平時ではありえない微かな「淀み」が生じていた。
無理もない。今の宿儺は、彼らの猛攻を捌きながら、ある超精密作業を水面下で行っているのだ。
「日車ァ!!」
虎杖の叫び。
弾き飛ばされた体勢から即座に復帰した虎杖が、宿儺の背後へと回り込み、その屈強な身体を渾身の力で拘束する
「オオオオオッ!!」
そして、虎杖によって動きを封じられた宿儺の正面から、日車が踏み込んだ。
その手には、死刑判決を受けた魂を消滅させる一撃必殺の剣――『処刑人の剣』が煌めいている。
(いける!!)
日下部が、猪野が、脹相が、そして日車自身が勝利を確信した。
呪いの王に術式はない。回避の手段もない。
この剣さえ届けば、全てが終わる。
剣の切先が、宿儺の胸へと吸い込まれていく。
あと数センチ。コンマ一秒にも満たない、決着の瞬間。
――その時。
「よく足掻いた。……だが」
宿儺の脳内で極秘裏に進行していた『破壊と修復』のプロセスが、カチリ、と音を立てて完了した。
「ここまでだ」
ピキッ、と。
空間にヒビが入るような、嫌な音が響いた。
「ッ!!」
誰よりも早く、事態を察知した日下部が自らの身を挺するように、日車の眼の前へと滑り込む。
「シン・陰流――『簡易領域』!!」
直後、防ぐことなど到底不可能な、絶対的な斬撃の暴風が吹き荒れた。
――没収されたと思われていた宿儺の生得術式、『御厨子』
日下部の展開した領域が、迫り来る不可視の斬撃を必死に中和し、威力を削ぐ。
だが、呪いの王の出力は、それすらも容易く凌駕した。
日下部と、その後ろにいた日車の身体から鮮血が噴き出す。
虎杖の視界の端で、日下部が決死のカバーリングで即死こそ免れたものの、仲間たちの身体が次々と血飛沫を上げて吹き飛んでいく。
そして、宿儺に密着していた虎杖自身の身体にも、無慈悲な刃が深く刻み込まれた。
希望を信じて疑わなかった術師たちを、不可視の斬撃が切り刻んでいく。
勝利の確信は一瞬にして絶望へと反転し、新宿の空に血の雨が降り注いだ。
「ガハッ……! なぜ、だ……ッ!」
全身を斬り裂かれ、瓦礫の上に崩れ落ちた日車が、血を吐きながら呻く。
ジャッジマンの『没収』の判決は間違いなく下った。宿儺の術式は確実に奪われているはずだ。
ならばなぜ、宿儺は今、斬撃を放ったのか。
そんな日車を見下ろし、宿儺はひどく愉快そうに口を歪めた。
「貴様の式神の判断は、ひどく機械的で面白いな」
呪いの王の言葉と同時に、日車の優れた頭脳に、一つの最悪の可能性が閃く。
月影うみとの死闘の直後。
領域展開が崩壊したことで、宿儺の生得術式『御厨子』は焼き切れ、一時的に機能停止に陥っていた。
対して、受肉体・伏黒恵の術式『十種影法術』はほとんどの式神を失ってはいるものの、現在もその機能は生きている。
――二つの術式を持つ者に対し、天秤はどちらを優先して奪うのか。
『機能停止・制限中』の御厨子か、それとも『現在も機能している』十種影法術か。
答えは、火を見るよりも明らかだった。
「没収されたのは……『十種影法術』……ッ!!」
日車の絶望の呟きを肯定するように、宿儺はあざ笑う。
絶対の勝利を確信していた一撃必殺の法廷は、偶然の盤面が生み出した、法の死角の前にあっけなく崩れ去っていたのだ。
(術式は、没収されてなかったのか……!!)
全身を襲う激痛の中、日下部は必死に思考を回す。
先ほどの月影うみとの死闘の果てに、宿儺の生得術式『御厨子』は間違いなく焼き切れた。
そして、日車の領域によってそれは『没収』されたと確信していた。
だが、現実は最も残酷な形で彼らの希望を打ち砕いた。
(御厨子が使えるということは、触れれば即死の『捌』と、ゼロ距離での『解』、そして――あの五条悟を真っ二つにした『世界を断つ斬撃』が飛んでくるということだ。防御など不可能。まともに食らえば即死する)
日下部の脳裏に、さらなる最悪の光景がフラッシュバックする。
うみとの死闘の最終盤、新宿の空を焦がし、全てを灰塵に帰したあの爆発。
(それに、あの『炎』……! あれを使われたら、俺たちは一瞬で全滅だ。どう対応する? ……いや、考えるだけ無駄か)
日下部は血を吐きながらも立ち上がり、最も重要な要へと視線を向ける。
「日車!! 動けるか!?」
日下部の叫びに、瓦礫に手をついて立ち上がった日車寛見が、血塗れの顔を上げる。
「……問題ない」
そんな彼らの決死のやり取りを、呪いの王は少し離れた場所からひどく冷めた瞳で見下ろしていた。
(小僧もそうだが……全員の基礎的な呪力強化術が著しく向上しているな)
宿儺は四本の腕を軽く動かしながら、内心で評価を下す。
(その上、展延ほどではないが、簡易領域で俺の術式を薄めることでダメージを軽減したのか。……なるほど)
月影うみという『捌き難い極上の珍味』を味わった直後であっても、目の前の羽虫たちが多少なりとも自分を楽しませようと足掻いている事実を、宿儺は正確に認識していた。
「……すまない」
日車が、手に持つ『処刑人の剣』を強く握り締めながら、絞り出すように言う。
「『死刑』はとれたが、『没収』は御厨子ではなく……十種影法術の方に適用されてしまった」
自らの術式の穴が招いた最悪の事態。だが、日下部はそれを一切責めなかった。
「充分だ!!」
日下部は刀の柄を握り直し、宿儺を睨みつける。
「その剣での決着が、一番簡単に全てを丸く収められる!! 死んでもお前を守るぞ!!」
その悲壮なまでの決意を耳にして。宿儺は、
(最低限の守りは固めてきているようだ)と思案する。
「次は足だな」
宿儺がそう呟いた瞬間。一筋の"赤"が死角から呪の王へと飛来する。
『穿血』。
受胎九相図の長男・脹相の生み出した『赤血操術』の奥義。
音速を超える初速を誇る血液の矢。
だが、その赤い軌跡が呪いの王を貫く寸前――脹相の視界から、
宿儺の姿が「ブレる」ことすらなく、完全に消失した。
(消え、た……!?)
驚愕に目を見開いた直後。
「ガ、ハッ……!」
脹相の口から、大量の血が吐き出された。
視界の外、いつの間にか死角に回り込んでいた宿儺の右腕が、脹相の腹部を背中まで深々と貫いていたのだ。
宿儺は腹を貫いた腕を無造作に引き抜くと、崩れ落ちる脹相の身体を蹴り飛ばすように後方へと吹き飛ばす。
「脹相!!」
虎杖の叫びが響く。だが、その隙を突いて上空から影が落ちた。
「オオオオオッ!!」
猪野だ。七海の遺志が宿る鉈を上段に構え、落下と『来訪瑞獣(らいほうずいじゅう)』の身体能力底上げを乗せた、建物を両断するほどの重い一撃を振り下ろす。
だが。
「……ッ!?」
猪野の動きが、空中で完全に停止した。
いや、停止させられたのだ。
宿儺が、振り下ろされた猪野の鉈の刀身を、振り返りもせず、
たった一本の腕でまるでおもちゃでも掴むかのように軽々と受け止めていた。
そしてそのまま振り向きざまに蹴りを叩き込む。
猪野は咄嗟に鉈の腹を盾にしてその一撃に耐えようとするが……
(おおおお、重てぇ〜〜〜〜!!)
両腕の骨が軋むほどの圧倒的な重圧が彼を後方へと押し込む。理不尽なまでのフィジカル差。
「シッ!!」
「こんの――!」
猪野の危機に、虎杖と日下部が同時に左右から強襲を仕掛ける。
だが、宿儺にとってそれは想定内の手札に過ぎない。
呪いの王は猪野を弾き飛ばすと同時に、両腕を大きく薙ぐようなモーションをとった。
直後、迫り来る虎杖と日下部の身体を、見えない刃が強烈な衝撃と共に薙ぎ払う。
「ガハッ……!」
二人揃って鮮血を散らしながら、瓦礫の海へと派手に吹き飛ばされる。
高専側の波状攻撃が、たった数秒の間に完全に瓦解させられた。
だが、その絶望的な蹂躙の直後。
虎杖と日下部を吹き飛ばし、宿儺の背後にわずかな『死角』が生まれたその一瞬。
必殺の『処刑人の剣』を構えた日車が、無音で宿儺の背後へと肉薄していた。
背後からの完全な奇襲。
日車の放った光り輝く剣閃が、宿儺の首魁を捉えたかに見えた。
だが、振り抜かれた剣が空を切る音が、無情にも響き渡る。
日車が視認した時にはすでに、宿儺はわずかに身を沈めるだけでその致死の一撃を躱していた。
「ッ!」
日車が体勢を立て直すよりも早く。
宿儺の右側の二本の腕が、振り抜かれた日車の腕を万力のように締め上げる。
完全に身動きを封じられた日車の腹部へと、空いた左側の二本の腕が、岩盤をも砕く重い連撃を叩き込んだ。
「グッ……!」
肺から空気が強制的に絞り出され、日車の身体が大きく仰け反る。
「ついてこれるか?」
宿儺は日車の腕を掴んだまま、背後の瓦礫の海――這いつくばる虎杖たちへ向けて、酷く楽しげに、そして残酷に問いかけた。
そのまま宿儺は、掴んでいた日車の身体を、ボロ布でも捨てるかのように遙か前方へと放り投げた。
そして、宙を舞う日車の後を追うように、宿儺自身も爆発的な脚力で更地を蹴り飛ぶ。
「先に行け、虎杖!!」
宿儺の『解』で薙ぎ払われ、地に伏していた日下部が血を吐きながら声を絞り出す。
このままでは日車が殺される。その確信があった。
「日車を、一人にするな!!」
虎杖は弾かれた身体を無理やり起こすと、爆発的な脚力で地面を蹴り、砂煙の向こうへと駆けた。
だが、宿儺の機動力はその遥か上をいく。
(速ぇ……!!)
虎杖が戦慄する間もなく、宿儺は虎杖を置き去りにし、一直線に日車のもとへと迫っていた。
日車が瓦礫の中で体勢を立て直したその眼前に、四つ腕のバケモノが降ってくる。
日車は必死に光り輝く『処刑人の剣』を構えようとするが。
それよりも早く、宿儺が腕を振るった。
ドガァァンッ!!!
日車の背後にある建造物すらも両断し、粉砕するほどの激しい斬撃の嵐。
避ける余地など微塵もない、無数の見えない刃が日車の身体を飲み込んだ。
土煙が舞う。
だが、粉塵が晴れたその向こうで、宿儺の瞳は予想外の光景を捉えていた。
シュアァァァ……
日車は、血塗れになりながらも、決して倒れることなく立っていた。
「領域展延……俺の術を中和したか」
宿儺は微かに目を細め、目の前の男を見下ろした。
(術師として覚醒して、二ヶ月弱……異常な成長速度だな)
術式を中和する『領域展延』。生得術式を発動できないという縛りを負う代わりに、触れた相手の術式を中和する高度な結界術。
それを、この土壇場の死地において、日車は感覚だけでやってのけたのだ。
だが、それ以上に宿儺の目を惹いたのは、日車の手の中にある必殺の剣。
その光は弱くなっているものの、機能を失っているわけではない。
それはつまり、日車が展延を生得術式の術式効果が無効にならないように運用できているという事実。
宿儺自身でさえ、五条との戦闘時は、
展延の使用中にそれまでの魔虚羅の適応が無効ではなく中断になるように細心の注意を払っていた。
つまり――
(……コイツは限りなく俺に近いレベルで術式の運用ができている)
宿儺は、魅せられていた。
真っ直ぐで底知れない、呪術への適性。
日車の手の中で、再び煌々と光を放つ必死剣に。
そして。
――現代最強の術師・五条悟。
――己を極限まで追い詰めた異端の才・月影うみ。
その二人に並ぶほどの、才能の原石に。
「日車寛見……だったか?」
宿儺の口から、明確な興味と「強者」として認識した証である名が紡がれる。
直後、宿儺の呪力が爆発的に膨れ上がった。放たれるのは、防御不可能な不可視の凶刃の気配。
「ッ!!」
日車が直感的に危機を察知し、身を引いたその瞬間。
宿儺の『解』が、彼らが足場にしていた建造物そのものを無残に両断し、巨大な瓦礫の雨へと変えた。
ガラガラと崩れ落ちる建造物。宙を舞う無数のコンクリート片。
足場が崩壊する中、日車の視界を巨大な瓦礫が塞ぎ、ほんの一瞬、その動きが怯む。
その死角を突くように、瓦礫を蹴り砕いて飛び込んできた影があった。
「オオオオオオッ!!」
渾身の力を込めて追いついた、虎杖悠仁だ。
怒りと殺意を込めた拳を、宿儺の顔面へと叩き込もうとする。
だが。
「いい加減理解しろ」
宿儺の瞳に、先ほどまで日車に向けていた熱は微塵もなかった。
あるのは、路傍の石を見下ろすような圧倒的な冷徹さ。
「オマエはつまらん。興が湧かんのだ」
虎杖の渾身の拳を容易く受け流すと、宿儺は鬱陶しそうに裏拳を叩き込み、
虎杖の身体を再び遙か彼方の瓦礫の海へと叩き落とした。
視線を戻す。
瓦礫の崩落の中、体勢を立て直した日車が、再び『処刑人の剣』を構えて宿儺へと迫っていた。
日車の剣閃が、宿儺の急所を的確に狙って空を切る。
対する宿儺は、四つの腕で瓦礫を弾き、日車の刃を躱しながら、重く鋭い打撃と細かな『解』で日車を削っていく。
(速い……! だが、見える!!)
日車の脳内で、呪術の深淵が急速に紐解かれていく。
ステップ、見切り、呪力操作。
数分前まで圧倒されていた呪いの王の動きに、日車の規格外の才能が、文字通り"喰らいついて"いた。
だが、その天才の煌めきすらも。
呪いの王にとっては、自らを楽しませる余興に過ぎない。
ガンッ!! と激しく打ち合った後、宿儺はあえて大きく後方へと跳躍し、距離を取った。
空中で、二本の腕の掌を合わせる。
「『龍鱗(りゅうりん)』」
その響きに、日車の全身の毛穴が粟立った。
「『反発(はんぱつ)』」
致命的な死の予感。だが、回避は間に合わない。
「『番いの流星(つがいのりゅうせい)』」
――詠唱による強化。
放たれたのは、空間そのものを分断する不可視の凶刃、『世界を断つ斬撃』。
ズガァァァァァァンッ!!!
日車が立っていた場所を中心に、周囲の建造物が根こそぎ切り刻まれ、凄まじい爆発音と共に崩壊した。
もうもうと立ち込める土煙。
その中で、ビチャッ、ビチャッ、と、重い液体が地面を叩く音が響く。
「……治せ」
瓦礫の上に降り立った宿儺が、酷く冷酷に、だが強い期待を込めて言い放つ。
「治してみろ」
煙が晴れた先。
日車寛見は、膝をついていた。
彼の手には未だ『処刑人の剣』が握られている。
だが、その剣を握る『右腕』は、肘から先が完全に消失し、大量の鮮血を撒き散らしていた。
(笑えるな……)
激痛で視界が明滅する中、日車は薄れゆく意識で自嘲する。
どれほど強固に心を凍てつかせようとも。
どれほど死の覚悟を決めてこの場に立とうとも。
(痛いものは、痛い)
だが、それでも。
日車は残された両足に力を込め、不格好に、しかし確かな意志を持って立ち上がった。
「そんなものか?」
酷く退屈そうな声と共に、宿儺が再び指を弾く。
不可視の『解』が走り、日車の残されていた左の手首と、右の太ももを容赦なく斬り裂いた。
「ガ、アァッ……!!」
体勢を崩し、再び日車が膝をつく。
そんな彼を見下ろしながら、宿儺は楽しげに、残酷に煽り立てる。
「反転術式だ、分かるだろ?」
それは、ただの嬲り殺しではない。
己を楽しませる才能を見せた玩具に対する、強者ゆえの強要。
宿儺はニィッと口角を吊り上げた。
「ほら頑張れ頑張れ。……治せなければ死ぬぞ」
そして、トドメとばかりに残酷な宣告を突きつける。
「次は首を飛ばす」
(俺は……)
薄れゆく意識の中、日車は自らの内側に問いかける。
自分が、この絶望的な死地に立っている理由を。
その時、宿儺の死角から一筋の"赤"が飛来した。
脹相の放った『穿血』だ。
(これは九相図兄の……)
宿儺は飛来した血液の矢を容易く弾き落としながら、鬱陶しそうに視線を向ける。
「しぶといな」
だが、宿儺の意識がわずかに脹相へと向いた、その一瞬の隙。
「ッ!!」
宿儺の瞳が微かに見開かれた。
死に絶えるはずだった男が、その死の淵で『呪力の核心』を掴み取り――不完全ながらも反転術式によって右腕を再生させ、肉薄してきていたのだ。
失われたはずの右腕で、光り輝く『処刑人の剣』を握りしめ。
日車の決死の特攻が、宿儺の腕の隙間を縫って、その胸元へと迫る。
(届く……!!)
剣の切先が、宿儺の肉体を捉えた。
――ズバァンッ!!
鮮血が舞い散り、切断された『腕』が宙を舞う。
だが。
日車の視界に映ったのは、崩れ落ちる呪いの王の姿ではなかった。
「……まぁまぁだ」
余裕の笑みを浮かべたまま、宿儺が言い放つ。
日車の突き立てた剣は、宿儺の肉体には届いていなかった。
処刑人の剣の『即死』の効力を嫌った宿儺が、剣が己の肉体に届く直前に――自らの右手を『自ら切断』して、死の因果を切り離したのだ。
(貫かれる前に……自ら切断……!!)
日車がその絶望的な事実に気づいたのと、同時。
ドドドドッ!!
至近距離から放たれた無数の斬撃が、日車の身体を深く、無残に切り刻んだ。
大量の鮮血を撒き散らし、日車の身体が力なく倒れていく。
『死後、呪いが強まることはないわけじゃない』
『……むしろ一般的な呪いのイメージとしては、そちらの方がしっくりくる』
薄れゆく視界。崩れ落ちる身体。それでも思考は止まらず、いつかの日下部との会話が頭を過った。
(俺の役割――)
ふと、日車の視界に一人の少年の姿が映った。
虎杖悠仁。
そして自覚する自らの――日車寛見という呪術師の役割を。
日車は、最後の力を振り絞り、その手から『処刑人の剣』を放つ。
投げ出された光の剣を受け取った虎杖の脳裏に。
かつて渋谷で、自らの前で散っていった恩人の姿がフラッシュバックする。
『――後は頼みます』
七海建人の最期と、今目の前で倒れゆく日車寛見の姿が重なる。
受け取ってしまった。またしても、呪いを。
虎杖の瞳に覚悟が宿る。
覚悟と悲痛が入り交じる虎杖の表情を見て。
日車寛見は、心の中で静かに微笑んだ。
(……それでいい)
――ズンッ!!
「俺は」
虎杖悠仁が、託された光の剣を固く握り締め、一歩踏み込む。
「呪術師だ!!」
魂の咆哮と共に。
託されし呪いを、今、目の前の呪いの王へと叩き込む。