生まれ変わった世界は   作:月影うみ

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59話

「オオオオオオオッ!!」

 

虎杖の魂の咆哮が、新宿の焦土に響き渡る。

日車から託された一撃必殺の光――『処刑人の剣』が、満身創痍の呪いの王の背中へと深々と突き立てられる。

 

(とった……!!)

 

虎杖の手に確かな手応えが伝わった。

この剣さえ届けば、すべてが終わる。宿儺の魂は消滅し、伏黒恵が解放される。

希望の光が、新宿の闇を照らし出したかのように見えた。

 

――しかし。

 

「……?」

 

虎杖の手に伝わっていた『重み』が、唐突に消失した。

宿儺の肉体に突き刺さる寸前、処刑人の剣がボロリと音を立てて崩れ落ち、光の粒子となって虚空に消え去ったのだ。

 

「なっ……!?」

 

虎杖の時間が、一瞬だけ停止した。

術式によって生み出された武具が消滅する理由。

それは、術者が自ら解除したか、あるいは――術者が、術式を維持できない状態に陥ったか。

 

(日車……!!)

 

絶望と動揺が、虎杖の意識にコンマ一秒の致命的な『隙』を生み出した。

 

「もらったぞ、小僧」

 

その隙を、千年の戦闘経験を持つ呪いの王が見逃すはずがない。

剣が消失した瞬間、宿儺は振り向きざまに、下部の右腕で虎杖の顔面を強烈に殴り飛ばした。

 

「ガッ……!」

 

虎杖の身体が大きく体勢を崩した、その無防備な胴体へ向け、宿儺の残る腕が容赦なく振り下ろされる。

至近距離から放たれる、不可視の斬撃――『解』。

 

ザシュゥゥゥッ!!

 

虎杖の胸から腹にかけて、深い裂傷が斜めに走る。

 

「……ハッ」

 

崩れ落ちた虎杖を見下ろしながら、宿儺は鼻で笑う。

 

「死んでもなお、十種は持っていかれたか」

 

日車寛見の『没収』の判決は、間違いなく宿儺の十種影法術を奪い去っていた。

しかし、自らに残された『御厨子』さえあれば、この程度の羽虫を散らすことなど造作もない。

 

そう確信した宿儺の視線が、瓦礫の中で倒れ伏す虎杖へと向く。

そして、日車との死闘の最中、鬱陶しい羽虫を散らすように薙ぎ払った時に抉ったはずの虎杖の腹部に、

全く傷跡が残っていないことに気がついた。

 

(小僧の腹が全快しているな……)

 

宿儺は、面白そうに目を細めた。

その直後だった。

 

「……?」

 

宿儺の視界の端で、倒れ伏していた日車の身体が『フッ』と空間から掻き消えた。

 

(……あの童か)

 

宿儺は、瓦礫の陰に一瞬だけ姿を見せた憂憂と綺羅羅の姿を、四つの瞳で確かに捉えていた。

 

(おそらく、あの童が瞬間移動の術式を持っている。

五条悟の死体が消えたのも、月影うみが姿を消したのも、奴らの仕業だな)

宿儺の脳内で、これまでの不可解な事象が一つに繋がる。

 

(負傷した術師を、あの女のところへ反転で輸送している……?)

宿儺は一瞬そう推測したが、すぐに自らの内でそれを否定した。

 

(いや、違うな。大抵、反転術式で他者を治療するときの治癒効率は、

自己治癒の半分以下だ。そもそもあの女の反転術式は、俺や五条のそれと違い、そこまで強力なものではない)

 

だとすれば、虎杖悠二の腹部がこの短時間で全快している理由は一つしかない。

 

瓦礫の中から、虎杖が再び立ち上がる。

先ほど至近距離から『解』を浴びせ、致命傷を与えたはずのその胸からの裂傷すらも、

すでに湯気を立てて完全に塞がろうとしていた。

 

(この一月で『反転術式』を習得してきたか……

どうやら向上したのは、呪力による身体強化だけではないらしいな)

 

宿儺は腕を組んだまま、静かに息を吐き出す。

千年の時を生きた呪いの王は、目の前で立ち上がる「弱者」――己の身の丈に合わぬ『理想』を掲げ、

折れずに立ち向かってくる有象無象に対して、深い嫌悪と苛立ちを覚えていた。

 

「ククッ……決めたぞ」

 

やがて、その苛立ちは黒い哄笑となって宿儺の喉の奥から漏れ出した。

 

「俺は、お前たちの理想を……明確に、今一度、切り刻むことにした」

宿儺が残忍な笑みを深め、虎杖へ向けた無慈悲な宣言を口にした、その時だった。

 

『泳者による死滅回游のルール追加が行われました!!』

 

突如、空中に現れたコガネの無機質な声が、新宿の焦土に響き渡った。

 

『総則15! 天元による人類との超重複同化の――発動権は伏黒恵が持つこととする』

 

「なんだと!?」

瓦礫の陰に隠れ、息を潜めていた日下部が、驚愕に目を見開く。

(伏黒……!? つまりは宿儺!! まさかこれは――)

 

それは、羂索が自身が敗北したときのために残した保険。

乙骨憂太の奇襲によって自らの死を悟った羂索が、死滅回游の総則に組み込んだ最後の呪いだった。

 

宿儺に敗れても、羂索さえ倒せば最悪の事態――天元と人類の同化による日本の壊滅だけは防げる。

宿儺は何が何でも人類を皆殺しにするような気質は持ち合わせていない。

そのために、術師たちは『羂索が好奇心で起こす狂気の呪術テロによる全滅よりはずっとマシ』という前提の元動いていた

 

しかし今、その前提が音を立てて崩れ去った。

 

「まずは、お前らを全員殺す」

 

絶望に染まる戦場を見渡し、宿儺はひどく楽しげに、残酷な未来の展望を語り始めた。

 

「そのあとは死滅回游の泳者を全員殺し、天元と有象無象の同化を済ませる。

出来次第では、その天元と遊ぶとしよう」

 

最悪の宣言。

その直後だった。

 

ズガァァァァンッ!!!!

 

宿儺と虎杖の間の空間、そこにあった建造物の残骸が、内側から激しく爆砕された。

 

「……ッ!」

 

もうもうと舞い上がる土煙の中、巨大な瓦礫を吹き飛ばしながら、一人の術師がその姿を現した。

血に濡れた刀を手に、鋭い視線を呪いの王へと向ける。

 

「ごめん、遅れた」

 

「乙骨先輩!!」

 

羂索への奇襲任務を終えた現代の異能がついに決戦の地へと降り立った。

 

そして宿儺は、新たに現れた強敵を前に、四本の腕を軽く広げてみせる。

 

「しっかり跪き抗えよ

俺を殺さねば、お前らが助けたい人間は全員死ぬぞ?」

 

『誰に言ってンだ!!』

宿儺の挑発を遮るように、乙骨の背後からおぞましい呪力の塊が実体化する。

激怒した「呪いの女王」―リカが、巨大な拳を振り下ろそうとしていた。

 

「出たな、女王」

 

呪いの王と、呪いの女王。

新宿の空が、二人の王の激突によって震え上がる。

 

宿儺の下部の二本の腕が、振り下ろされるリカの巨大な拳を正面から受け止める。

凄まじい衝撃波が更地を薙ぎ払う中、宿儺は全く怯むことなく、上部の腕でリカの巨体を弾き飛ばした。

 

「……五条悟」

 

後退するリカの前に立ち塞がるように刀を構えた乙骨へ向け、宿儺は愉快そうに、そして底知れぬ威圧を込めて語りかける。

 

「そして、月影うみ。……あの二人は、久方ぶりに俺を存分に楽しませてくれた」

 

四つの真紅の瞳が、"現代の異能"を真っ直ぐに射抜く。

 

「さあ、最後は貴様だ。乙骨憂太。退屈させてくれるなよ」

 

呪いの王からの、『品定め』。

その圧倒的な重圧を受けながら、乙骨は黙って刀を握り直した。

 

その横顔には、数多の感情が渦巻いていた。

宿儺の回復の早さに対する焦燥。日車寛見の犠牲への暗い悔恨と自責の念。

 

もし自分が残っていれば。羂索への奇襲はほかの人でも良かったのでは。

そんな無数の『たられば』が、彼の心を苛む。

 

だが、乙骨はゆっくりと息を吐き出し、その瞳から一切の迷いを切り捨てた。

 

自分が欲張った。羂索への執着がこの状況を招いた。

ならば――この手で全てに決着をつけるしかない。

 

「――領域展開」

 

乙骨憂太の静かな声が響いた直後、新宿の更地がドロリと塗り替えられた。

空には巨大な結び目のような奇妙な物体が浮かび、荒涼とした大地には無数の刀が墓標のように突き刺さる。

 

「『真贋相愛』」

 

乙骨憂太の領域。

その完成と同時、宿儺は四本の腕のうち、下部の二本で素早く掌印を結んでいた。

編み目のようなドーム状の結界が展開される。

 

『彌虚葛籠』

領域の必中効果を中和する、古の技術。

両の手を封じられることになる対価として、領域への絶対的な対抗力を得る。

 

「……シッ!」

 

乙骨が、足元に突き刺さっていた刀を無造作に引き抜き、宿儺へと肉薄する。

そして、その刀を無防備な宿儺の胸へと叩き込むように振るった。

 

宿儺は上部の腕を軽く持ち上げ、その斬撃を容易く受け止める。

だが。

 

――バギィィィッ!!

 

刃が届いた瞬間、空間そのものを歪めて叩きつける防御不可の衝撃が、宿儺の防御ごと巨体を強引に弾き飛ばした。

 

(……またこれか、鬱陶しい。それに……なるほど――)

 

宿儺は、先ほどの戦闘を思い出し、忌々しげに舌打ちをする。

弾き飛ばされながらも、呪いの王は乙骨達の狙いを看破していた。

 

(伏黒恵の記憶から乙骨憂太の術式は月影うみと同じく模倣(コピー)だと割れている

そして、領域に付与されているのは天使の術式……)

 

天使の術式を必中で浴びれば、宿儺の術式は消滅し、伏黒恵との融合も引き剥がされる。

だからこそ、宿儺は『彌虚葛籠』を維持し続けなければならない。

それは必然的に、下部の二本の腕と、腹の口を完全に封じられることを意味する。

 

(俺に印を結ばせ続け、腕と口の半分を封じる。

その隙に、領域内でのみ発動するとみられる無制限の術式模倣で攻め立てる……そして――)

 

ザッ、と。

宿儺の視線の先で、領域の結界をすり抜け、一人の術師が乙骨の隣へと並び立った。

両拳に呪力を滾らせ、決意に満ちた瞳で宿儺を真っ直ぐに見据える虎杖悠仁。

 

彼がここに合流した意味。それこそが、この策の『本命』。

 

(小僧の――『魂を捉える打撃』で、俺と伏黒恵の肉体を引き剥がす……!!)

 

「なるほど、成程な」

 

すべてを理解した宿儺は、しかし、微塵の焦りも見せることなく、凶悪な笑みを浮かべ、

相対するかつての器をひどく楽しげに見下ろした。

 

「良かったなぁ」

 

絶対的な死の重圧が、領域内に満ちていく。

 

「役割が与えられて」

 

「シッ!」

 

宿儺の挑発など意に介さない様子で、乙骨が足元に突き刺さっていた新たな刀を引き抜く。

一太刀振るうと同時、式神が現れ、宿儺の周りを飛び回る

 

(目くらましか……?)

 

宿儺は『彌虚葛籠』の掌印を維持したまま、飛来する結界を紙一重のステップで躱す。

休む間もなく、乙骨と虎杖、そして完全顕現したリカの三方向からの絶え間ない猛攻が呪いの王を襲う。

 

(今の俺は、五条悟と月影うみとの戦闘の影響で、領域は依然使えず、反転術式の効きも鈍い。

呪力総量も、もはやこの憑霊のガキと同程度だろう)

 

飛んでくる刀や瓦礫を上部の腕でいなしながら、宿儺は極めて冷静に自身の現状を分析していた。

 

(加えて、術式対象を拡張する『世界を断つ解』は、『彌虚葛籠』を維持しながらでは撃てない)

 

宿儺の思考の隙間を縫うように、リカの巨大な拳が上部の腕のガードを弾き飛ばす。

ガラ空きになった胴体へ向け、虎杖悠仁の重い拳が深々と突き刺さった。

 

「グ、ォ……ッ」

(それに加えてこの打撃……ツギハギ呪霊に、小僧の攻撃が効いたのと同じ道理だな)

 

打撃を受けた瞬間、宿儺の内で、深い底に沈めていたはずの『伏黒恵の魂』が微かに揺さぶられるのを感じた。

 

(俺と伏黒恵の魂の境界を知覚し、打ち込んでくる。

『浴』で沈めた伏黒恵の魂を叩き起こし、俺と肉体の同調を阻害している……

小僧の攻撃を受ける度、俺の呪力出力は下がり、肉体の支配も鈍る)

 

乙骨たちの狙いは極めてシンプルかつ、合理的。

虎杖の打撃で肉体の支配を弱め、『彌虚葛籠』を維持できなくなるまで宿儺を削る。

そして、防御が剥がれた瞬間に、リスクは承知の上で必中の天使の術式『邪去侮の梯子』を浴びせ、伏黒恵の中の呪物を消し去る

 

ザッ、と。

乙骨が消費した刀を捨て、無造作に新しい刀を拾い上げる。

 

「『動くな』」

 

狗巻棘の『呪言』。

強力な言霊が宿儺の身体を縛り、コンマ数秒、その動きを強制的に停止させる。

その絶好の隙に、虎杖が瓦礫を蹴って肉薄し、乙骨がさらに別の刀を引き抜いて『宇守羅彈』を叩き込んだ。

 

「チッ……!」

 

ダメージを受けながらも、宿儺は顔面の血を鬱陶しそうに振り払い、乙骨と虎杖に向かって『解』を乱れ撃った。

 

無数の斬撃がチェンソーのように乙骨と虎杖の身体を容赦なく切り刻む。

 

「ぐっ……!!」

 

だが、二人はその嵐のような『解』を全身に浴びながらも、決して歩みを止めず、反転術式で傷を塞ぎながら宿儺へと肉薄する。

同時に、リカが咆哮と共に、その巨体で宿儺へと殴りかかった。

 

『オオオオオオオッ!!』

 

「チッ……」

 

宿儺はステップを踏んでリカの拳を躱しながら、舌打ちを漏らす。

 

(どいつもアレより堅とは言わんが、触れて斬らねば致命傷には至らんか……)

 

これまでの連戦を通し、宿儺自身の呪力出力が下がっているせいだけではない。

戦線に出た術師全員が、この決戦のために異常なほどの防御力を備えてきたのだ。

さらに、虎杖悠仁が短期間で習得した反転術式。

そして、必中術式の対象を宿儺のみに絞っている乙骨の高度な結界術の運用。

 

「この一月……何をした?」

 

宿儺の問いかけに対し、息を整えながら二人の少年が答える。

 

「努力と根性」

「ズルしました」

 

パッションで答える虎杖と、真面目に答える乙骨。全く噛み合っていない二人の返答だったが、

その言葉には確かな実感がこもっていた。

 

(認めなくねぇけど、事実上今一番強い術師と戦ってるんだ。領域で決着つけねぇと後が怖い)

虎杖が拳を握り直す。

 

(五条先生と、うみくんが削ってくれていなかったら……

反転術式をする間もなく、即死、即全滅していただろうな)

 

「シッ!」

 

虎杖とリカが、左右から同時に宿儺へと殺到する。

『彌虚葛籠』の維持で下部の二本の腕を封じられている宿儺は、残る上部の二本の腕をそれぞれ虎杖の拳とリカの巨大な腕の迎撃に回さざるを得ない。

 

宿儺の四本の腕がすべて塞がった、その一瞬の死角。

乙骨が足元の新たな刀を引き抜き、宿儺へと斬りかかった。

宿儺は即座に体勢を捻って躱そうとするが、乙骨の刃はまるで宿儺の回避行動が最初から完全に分かっていたかのような軌道を描き、その肉体に浅からぬ一撃を滑り込ませた。

 

(今の軌道は……予知?)

宿儺は飛来する攻撃をいなしながら、極めて冷静に乙骨の手札を分析していた。

 

(天使の邪去侮、空間を面で捉える術式、式神の軌道に不可侵の結界を張る術式、呪言、未来予知……一通り出揃ったか?

無下限呪術は無いとみていい……あれは六眼なしでは支配できまい)

 

一方で、宿儺に絶え間ない連撃を叩き込む乙骨の脳内にも、冷静な勝機への計算が走っていた。

 

(宿儺相手でも、初見の術式なら一瞬の隙はできる。

それはうみくんが証明してくれた。だからアレなら、もっと確実に……)

 

「……来た!!」

 

乙骨が足元から新たな刀を引き抜いた瞬間、その瞳に確かな光が宿った。

狙い澄ましたかのように宿儺の死角へと踏み込み、その刃を呪いの王の顔面へと真っ直ぐに突き出した。

 

宿儺は即座に反応し、迫る切先を素手でガシッと掴み止める。

だが、それこそが乙骨の狙い――本命を叩き込むための絶対条件である『接触』。

 

乙骨の刀を介して、対象の呪力量・強度に応じて自動で最適化される斬撃――『捌』が放たれ、呪いの王の顔面を無残に切り裂いた。

 

自身の手札であるはずの術式で切り裂かれたというあり得ない現実に、宿儺は驚愕に目を見開く。

 

鮮血が舞う中、乙骨は静かに、後輩からお願いされていたブラフを入れる。

 

「最後の一本……回収できなかったでしょう」

 

『最後の一本』。

その言葉を聞いた瞬間、宿儺の脳内で、これまでのすべてのパズルがピタリと組み合わさった。

 

(そうか……"それ"が条件か)

 

宿儺は、自らの内に芽生えていた推論が『確信』へと変わるのを感じた。

 

(奴らの『模倣』の条件は、術者の肉体の一部を使って何某かすること)

 

呪いの王の明晰すぎる頭脳は、導き出したその強固な推論を、

もう一人の『模倣』の使い手にも当然のように当てはめる。

 

(ならば、あやつの方にこの手札はない……それが分かったのは僥倖だな)

 

宿儺は血を流しながらも、脳内の端で冷静に思考を巡らせる。

 

(先ほどの爆発による月影への傷は相当なものであったはずだが、致命には至り得ない。

奴は必ずもう一度、俺の前に現れるだろう。あやつは少しでも隙を見せると止まらんからな。

だが、俺の肉体を使えん以上、そこを気にする必要もない)

 

思考に一瞬のノイズが走ったとはいえ、宿儺の戦闘勘が鈍ることはない。

顔面から血を流しながらも、瞬時に反撃へと転じ、目前に迫った虎杖へ向け、捌を叩き込む。

 

「ガ、アァァァッ!!」

 

虎杖の胸に深い裂傷が走り、大量の血が噴き出す。

宿儺の出力が下がっていなければ、間違いなく即死クラスであっただろう一撃。

 

虎杖の身体が大きく体勢を崩し、ダウンする――かと思われた、その刹那。

 

「……ッ!!」

 

虎杖は倒れゆく身体を強引に捻り、自身の胸から噴き出す血を、宿儺の四つの瞳に向けて思い切り吹き付けた。

 

「チッ……!!」

 

不意に視界を赤く染められ、宿儺の動きがほんのわずかに停止する。

その虎杖が命懸けで作ったコンマ一秒の死角から、乙骨が強烈なアッパーカットを宿儺の顎へと叩き込んだ。

 

ドゴォォォォンッ!!

 

宿儺の巨体が宙に浮く。

地面に倒れ伏し、激痛に顔を歪める虎杖だったが、その瞳の闘志は全く衰えていなかった。

 

(今!! ここが!! 宿儺を倒して伏黒を取り戻す、最後のチャンスだ!!)

自身の肉体を治癒する反転術式を全開に回しながら、虎杖の魂が吼える。

(休むな!! 治せ!! 治せ!! 治せ!!!)

 

(呪力出力も、肉体の支配も……かなり鈍ってきたな)

 

吹き飛ばされながら、宿儺は自身の肉体に生じている明らかな『限界』を悟る。

このまま虎杖の打撃を受け続ければ、いずれ完全に肉体の主導権を奪われ、致命的な隙を晒すことになる。

 

――ゆえに宿儺は強硬策に出る。

 

(ならば、肉を切らせてでも――)

 

宿儺は空中で体勢を立て直すと同時、これまで己の身を守り続けてきた『彌虚葛籠』の掌印を、自らの意志で解いた。

 

「……ッ!!」

 

掌印が解かれた瞬間、領域を満たしていた術式――『邪去侮の梯子』の浄化の光が、

いかなる減衰も経ずに宿儺の全身を灼き焼き尽くし始める。

 

宿儺はその絶大な苦痛を受けながらも、自由になった下部の二本の腕と、上部の腕を用いて、強引に『掌印』を結ぼうとした。

そして、腹部の口が呪詞を紡ごうと開かれる。

 

天使の術式を受けながらの、捨て身の『解』――『世界を断つ斬撃』。

 

だが。

「そう来ることは想定済み!!」

 

乙骨憂太と虎杖悠仁、そしてリカは、その宿儺の決死の反撃すらも完全に読み切っていた。

 

「シッ!!」

虎杖が左腕を、リカが右の二本の腕を同時に抑え込み、掌印の完成を物理的に阻止する。

乙骨もまた、宿儺の腹部の口に刃を突き立て、呪詞の詠唱を封殺した。

 

(術式対象を拡張した『解』は彌虚葛籠と併用できなかった!

少なくとも掌印か呪詞の詠唱のどちらか。またはその両方が必須のはず……どちらもさせない!!)

 

完全に手足を封じられ、さらに『邪去侮の梯子』の浄化の光を浴び続ける宿儺。

その肉体から放たれる呪力の圧も、不可視の斬撃の威力も、先ほどとは比べ物にならないほどに減衰していた。

 

(斬撃も弱まっている!! 近づいてももう怖くない!!)

 

乙骨は確信と共に、宿儺の懐へとさらに深く踏み込み、刀を振るう。

防御を封じられた呪いの王の肉体に、容赦のない凶刃が次々と刻み込まれていく。

圧倒的な猛攻。だが、その絶え間ない連撃の最中、

宿儺の顔面に付着していた――先ほど吹き付けられた虎杖の血が、突如として不気味に脈打った。

 

パァァァンッ!!

 

(なんだ!? 小僧の血が――炸裂した?)

 

赤血操術の応用。虎杖の意思に呼応し、宿儺の顔面に付着していた血が至近距離で『炸裂』した。

視界を完全に奪い、思考を揺らすゼロ距離での爆発。

完全に無防備となった呪いの王へ向け、現代の異能が術式の出力を引き上げる。

 

「出力最大!!」

 

乙骨の絶叫と共に、上空の結界からこれ以上ないほどに眩く、

神々しい『邪去侮の梯子』の光柱が、無防備な宿儺へと叩き落とされる。

 

「アアアアアアアッ!!」

絶大な光の中で宿儺の抵抗が完全に沈黙した、その一瞬。

 

「起きろ、伏黒」

 

虎杖悠仁の魂を捉える拳が、宿儺の胸を確かに打ち据え、深い深い魂の底へと呼びかけた。

 

虎杖と乙骨の算段に、間違いはなかった。

幾度もの打撃によって魂の境界は削られ、天使の術式によって宿儺の支配は極限まで弱まっている。

今なら、あの暗い底に沈んだ親友の魂に、絶対に手が届く。

 

(起きろ、伏黒!!戻ってこい!)

 

だが――。

虎杖が触れた、伏黒恵の魂の深淵。

そこで虎杖が聞いたのは、希望に満ちた返答ではなかった。

 

『いいんだ』

 

暗闇の中で、膝を抱えるようにしてうずくまる伏黒恵。

その声は、どこまでも平坦で、虚無に包まれていた。

 

『もう、いいんだ』

 

最愛の姉である津美紀を、自らの手で殺めた事実。

伏黒恵の"生きる意志"は、とうの昔に完全にへし折られていたのだ。

 

「伏、黒……?」

 

想定外の拒絶に、虎杖の動きが、ほんの一瞬だけ――致命的に硬直した。

そして、虎杖の「打撃」が止まったことで、宿儺の魂の支配が、再び息を吹き返す。

 

「……ククッ」

 

浄化の光の中で、宿儺の腹部の口が、三日月のように歪んだ。

拘束が緩んだその刹那。

 

『龍鱗』『反発』『番の流星』

 

絶対の死を告げる呪詞が、新宿の空に響き渡る。

 

「……ッ!!」

 

ズガァァァァァァンッ!!!

 

乙骨憂太の胴体を、不可避の凶刃が完全に両断した。

大量の鮮血が舞い上がり、領域の中心で崩れ落ちる現代の異能。

 

同時に、主の致命傷によって、世界を構築していた『真贋相愛』の結界に巨大な亀裂が走り、音を立てて崩壊していく。

 

領域が砕け散り、外の光が差し込む中。

五条悟に続き、最大戦力であった乙骨憂太をも屠った宿儺は、勝利の余韻に浸るように四つの瞳を細めた。

 

ドシュッ!!

 

それは術師の常套手段であり、宿儺であれば本来防げたであろう凡策。

勝利を確信した者への――絶対的な奇襲。

 

「……!!」

領域の破片が舞い散る中、完全に気配を絶って背後から忍び寄っていた黒い影。

禪院真希の振るった『釈魂刀』が、呪いの王の心臓を背後から深々と貫いていた。

 

◆◆◆

 

「……んん」

怒号と悲鳴。ひどく騒がしい喧騒。

予定していた時間にはまだ早い。だが、その張り詰めた空気に思考を揺さぶられ、

泥のように眠っていた小柄な少年が、ゆっくりと身を起こした。

 

月影うみ。

彼の全身を覆っていた凄惨な火傷は、硝子の反転術式によって表面上は塞がっているものの、

まだ、完治とは言えない状態だった。

 

「……あ、うみ」

 

彼が目を覚ましたことに気づき、真依が痛ましそうな顔で声をかける。

 

「悪いわね、うるさくして。日車さんに続いて、乙骨くんまで運ばれてきて……アンタの治療、まだ途中で……」

「……?」

 

寝起きの頭で真依の言葉を咀嚼しようとしたうみの視線が、騒然とする部屋の中心へと向く。

そして、床に広がる血の海と、硝子に縋り付かれるようにして横たわる――真っ二つに両断された乙骨憂太の姿を視認した。

 

その瞬間、うみの脳内から一切の眠気が吹き飛んだ。

 

「――!!」

 

うみは反射的に跳ね起き、自身の腕を容赦なく切り裂きながら乙骨の元へ駆け寄り、輸血を始めた。

 

ザシュッ!

 

溢れ出た血液を『赤血操術・血因書換』によって瞬時に乙骨の血液型と同化させ、真っ赤な管を形成していく。

 

「硝子さん、やることは悟さんの時と一緒です。お願いします」

 

自身の血をポンプ代わりにして失血死寸前の命を現世に縛り付けながら、うみは即座に指示を飛ばした。

その常軌を逸した行動に、治療の手を休めることなく硝子が目を見開く。

 

「お前、さっき治したばっか……!」

「これくらい、あとで硝子さんがすぐ治してくれるでしょ。今は憂太先輩が先です!」

 

呆れと心配の混じった硝子の怒声を、うみは事もなげに言い切って流す。

五条の時に一度経験している連携だ。うみが血流を維持し続ける中、

硝子も「……ったく。人使いが荒いねぇ」と毒づきながら、乙骨の切断された肉体と神経を強引に繋ぎ合わせにかかる。

 

これだけの致命傷。当然、意識などあるはずもない――そう思っていた。

 

「……う、み、くん……」

「……え?」

 

血まみれの乙骨の瞳が、虚ろながらも微かに開かれ、うみを捉えていた。

 

「えっ? 憂太先輩、意識あるんですか!?」

 

完全に胴体が両断されているというのに、なぜか意識を保っている。

驚愕するうみに、乙骨は弱々しい声で答えた。

 

「……リカちゃんが、繋ぎ止めてくれてる、から……なんとか……」

「…………」

 

(いや……気は失っとくべきじゃない? 人として……)

 

うみは内心で冷静にツッコミを入れつつも、すぐさま思考を切り替えた。

(まあ、意識がある分にはいいか)

 

意識があるのなら、反転術式を使える可能性がある。

自分でも使えるのならば、生存はほぼ確定しているようなもの。

 

「憂太先輩。反転術式は回せますか?」

 

「ごめん……ちょっと、難しいかな……」

 

無理もない。いかに乙骨憂太と言えども、この状態で意識を保っているだけでも異常なのだ。

 

(……まあそりゃそうだ。この状態で集中するなんてふつう無理)

 

うみは乙骨の返答を受け、瞬時に思考を切り替えた。

反転術式を回せないのなら、別の手段をとるしかない。

そのとき、うみの頭に"熱き勝負師(ギャンブラー)"の姿が過る

 

(これならいける……!!)

 

「じゃあ……リカちゃんの『完全顕現』はできますか?」

 

うみは乙骨の瞳を真っ直ぐに見据えて問いかけた。

 

「もう時間……使い切っちゃってます?」

 

乙骨がリカを完全に顕現させて戦えるのは、わずか5分間のみ。

これまでの宿儺との激戦の中で、すでにその制限時間を消費し切ってしまっている可能性は高かった。

だが、もし残っていれば――。

 

「……ううん。まだ、使ってない……よ」

 

乙骨のその言葉を聞いた瞬間、うみの顔に明確な安堵が浮かんだ。

 

「硝子さん。ある程度つなげば大丈夫です。

全体的に大体でいいのでつないでください」

 

「なんだと? どういうことだ!」

汗だくで処置を続ける硝子が、不審そうに眉をひそめる。

 

「詳しいのは後でいいですか? 憂太先輩、大体つながったらリカちゃんを完全顕現させてください」

 

うみのその突拍子もない指示に、硝子は舌打ちをしながらも反転術式の出力を上げた。

「……チッ、意味は分からんが信じてやるよ! うみ、血流だけは絶対に絶やすな!」

 

うみ自身の腕から流れる血をポンプ代わりにした『血因書換』の管と、硝子の反転術式。

神経と血管、そして千切れた肉体を強引にパズルのように組み合わせる、文字通りの大手術が始まった。

 

どれだけ「大体でいい」と妥協したところで、相手は胴体が真っ二つに両断されているのだ。

最低でも、数分の時間はかかる。

 

その数分間。

待機室のモニターに映し出される戦場は、悪夢のような様相を呈していた。

 

「真希ちゃんが……!」

西宮の悲痛な声が響く。

モニターの中では、宿儺の『黒閃』をまともに食らい、真希の身体が遥か彼方へと吹き飛ばされていた。

 

「嘘でしょ……真希まで……」

真依のが絶望に顔を覆う。

虎杖はすでに戦線を離脱させられ、真希もダウン。

瓦礫の海に残されたのは、刀を構えて一人立つ日下部だけだった。

 

(……やばいな。あれだけ削られてもまだ……

早いとこ復帰しないと全滅だけど……硝子さんを急かしてもいいことないし)

 

「……繋がったぞ! 主要なラインだけだ!」

数分の沈黙を破り、顔から汗を滴らせた硝子が叫んだ。

 

「憂太先輩。リカちゃんを」

 

意識が朦朧としていた乙骨はその声に呼応し、彼女を呼ぶ。

 

「リカちゃん、お願い」

直後、空間を揺るがすほどの、爆発的な呪力の奔流が巻き起こった。

 

「オオオオオオオッ!!」

乙骨の背後から、完全顕現した『呪いの女王』リカが雄叫びを上げる。

その瞬間。リカという外部の巨大な呪力タンクから、乙骨の肉体へ向け、限界を突破した莫大な呪力が流れ込んだ。

 

「……ッ!!」

乙骨の身体が、青白い光に包まれる。

 

硝子が「大体」繋ぎ合わせた肉体の隙間を、青白い光が瞬く間に縫合し、完全に修復していく。

 

「嘘だろ……治った」

「いったいどういう……」

パンダと三輪が、信じられないものを見たように呆然と呟く。

光が収まった後には、大きく息を吐きながら上体を起こす乙骨の姿があった。

 

だが、そんな奇跡の復活に湧きかけた待機室の空気を引き裂くように、ズンッ、と空間が歪んだ。

 

憂憂の術式によって床に転がり出たのは、

致命ではないものの胸に深々と斬撃を浴び、血濡れになり、肩で息をする日下部の姿。

 

「篤也さんまで……なんだかんだ最後まで立ってるんだろうと思ってたのに」

 

うみがつぶやくと、床に転がった日下部が、息も絶え絶えに顔を歪めた。

 

「……ゲホッ、ゼェ……お前は、俺のことをなんだと思ってんだ……」

「化け物?」

「ハァ……鏡、見せてやろうか……?」

 

極限の死闘から帰還した直後だというのに、相変わらずシリアスになりきれない軽口の応酬。

だが、日下部が回収されてきたということは、彼もまた宿儺に敗れたということ。

 

現在、戦場で呪いの王の相手をしているのは、

反転術式で復帰した悠仁や脹相、他よりも頑強な肉体を持つ真希、そして新たに加勢に入ったミゲルやラルゥ。

 

だが、彼らとて長くは保たないだろう。戦況は一刻の猶予も許さない。

 

「よし……行くか」

乙骨の命はつないだ。ここでの仕事を終え、後は戦場のみ。

うみはすぐさま立ち上がり、再び戦場へと意識を向けた。

 

「待ちな、バカ」

 

だが、飛び出そうとしたうみの襟首を、硝子がガシッと掴んで引き留めた。

 

「せめてそれくらい治してからにしろ」

硝子は、うみが自ら切り裂いた腕の傷口を睨みつけ、強引に反転術式を流し込み始めた。

 

「あ……ありがとうございます」

急いでいるとはいえ、これ以上血を流したまま戦地に赴くのも得策ではない。

大人しく治療を受けながら、うみはふと、現代最強の術師へと視線を向けた。

 

「そうだ悟さん。一個だけ頼んでいいですか?」

 

「いいけど。今、僕は戦えないよ?」

五条は肩をすくめ、今の状態を示すように苦笑した。

 

「分かってますよ。とっても簡単なおしごとなので大丈夫です」

「ふーん。それで? 何すればいいの?」

 

五条が面白そうに目を細めると、うみは少しだけ声を落とし、真っ直ぐに五条の目を見て言った。

 

「――――してほしいんです」

 

その内容を聞いた瞬間、五条はわずかに目を丸くし、そして、心底楽しげにニヤリと笑った。

「……いいけど、それじゃ足りないんじゃない?」

 

「ええ、なので俺の方でももう一手打ちます」

 

「終わったぞ」

五条との密談が終わると同時に、硝子がうみの腕から手を離す。

自傷した腕の傷は完全に塞がっていた。先の戦闘での傷はまだ完治していないが、

うみの感覚では「これくらいなら戦闘に支障はない」というレベルだ。

 

「助かりました。……それじゃ憂くん、よろしく」

うみは軽く首や肩を回し、痛みの残る身体の動きを確かめるようにその場で軽く跳ねてから、憂憂の方を振り返る。

憂憂が静かに頷いたその時、うみの背中へ向け、三輪がギュッと両手を胸の前で握りしめながら、震える声を絞り出した。

 

「う、うみくん……っ、気をつけてね……!」

次々と仲間が倒れていく絶望的な惨状を見せつけられてきたからこその、必死に不安を押し殺した声。

そんな声にうみは足を止め、振り返って安心させるようにふわりと微笑んだ。

 

「大丈夫ですよ。……今度は、タイマンじゃないですから」

 

その言葉には、確かな勝算と、共に戦う仲間たちへの絶対の信頼が込められていた。

その迷いのない眼差しに、三輪は息を呑み、パンダや真依もふっと口元を緩める。

重い空気を、彼自身の揺るぎない自信でほんの少しだけ払拭して。

 

「行ってきます」

 

理外の模倣者は、再び、戦場へと舞い降りる。

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