「――機は、熟したと言えるだろう」
東京都立呪術高等専門学校、某所の薄暗い空き教室。
ブラインドが下ろされた密室で、五条悟と東堂葵は深刻な面持ちで向かい合っていた。
二人の視線の先、机の中央に置かれているのは一枚の写真とその隣に一枚の紙。
写真は、現在東京高専一年の月影うみ収めたものだった。
だが、その姿はあまりにも……異質。去年の姉妹校交流会・野球戦で、
五条と東堂の謀略により無理やり着せられた『チアの衣装』。
可憐に舞うその姿は、本人の眉目秀麗さと相まって、見る者の常識を根底から揺さぶる一級品の芸術品となっていた。
そして計画書の表紙には『極秘』と紙面いっぱいに印字されている
どうやら何かの計画書のようだ。
「ああ。我がブラザーの美しさは、呪術界という狭い鳥籠に留めておくにはあまりにも惜しい。
この輝きを、世界に知らしめる時が来た」
「だよねー! 僕もずっとそう思ってたんだよ。あの圧倒的ビジュアル!
世に出したらどうなるか見てみたくない?」
「当然だ。だが、ブラザーの門出を祝うからには、それに相応しい『一流のステージ』が必要不可欠」
「もちろん、抜かりはないよ。こういう時のために、最高に頼りになるスポンサー兼プロデューサーを呼んであるからね」
五条が指を鳴らすと、教室の扉が開き、優雅な足取りで一人の女性が入室してきた。
金を愛し、金に愛された女。1級呪術師の冥冥である。
「……ふむ。君たち二人からの呼び出し。……一体どんな厄介事かと思ったが」
冥冥は机上の計画書を拾い上げ目を通すと、その口角を三日月のように吊り上げた。
「なるほど、面白いことを考えるね。彼のポテンシャルなら、確実に『金』になる。いいだろう、私も協力するよ」
ここに、五条悟・東堂葵・冥冥のトリオによるある計画が秘密裏に始動した。
数日後。都内某所の商店街。
平和な休日の昼下がり、うみは乙骨憂太、狗巻棘、虎杖悠仁、伏黒恵とともに買い物を楽しんでいた。
「あ、そういえばあそこのお店。新作のアイス出したらしいですよ。行ってみませんか?」
「おっ、マジ!? 行く行く!」
「しゃけ!」
「……まあ、たまにはいいか」
「ふふ、うみくんがそういうの珍しいね。行こうか」
虎杖や狗巻が目を輝かせ、伏黒と乙骨も微笑ましく頷く。
うみが嬉しそうに足を踏み出そうとした、その刹那のことだった。
キーィィィィィィィッ!!
けたたましいタイヤの摩擦音を響かせ、一台の黒塗りのバンが商店街のど真ん中に強引に停車した。
歩行者が驚いて散り散りになる中、開かれたスライドドアから飛び出してきたのは、サングラス姿の五条悟と、異様なテンションの東堂葵である。
「はい確保ー!!」
「ブラザー、行くぞ!!」
「はぁ!?」
次の瞬間、うみの身体が宙に浮いた。五条に横抱きにされ、そのままバンの中に放り込まれる。
「ちょっ、五条先生!? 東堂先輩まで!?」
「「うみ!!?」」
乙骨たちが何事かと駆け寄るが、東堂が彼らを押し留めている間に、スライドドアが閉まりバンは急発進した。
残された四人は、排気ガスを残して遠ざかる黒塗りの車体を、ただ呆然と見送ることしかできなかった。
「えっ、何!? 今の何だったの!? うみ拉致られたんだけど!」
「なんだかすごく急いでいたみたいだったけど……何か緊急任務かな?」
パニック気味に叫ぶ虎杖と、目を白黒させている乙骨。
そんな平和な二人の横で、伏黒は心底呆れたように深く長いため息を吐き捨てた。
「……いや、どうせまた五条先生が、ろくでもねぇこと思いついて巻き込んだだけだろ」
「しゃけ……」
伏黒のあまりにも辛辣な、しかし真理を突いた推測に、狗巻も同情するようにこくりと頷く。
一方、その頃。
急発進したバンの後部座席では、拉致された張本人が極めて不機嫌なオーラを放っていた。
「…………」
うみは脚を組み、氷点下の視線を、助手席から振り返る五条と隣に座る東堂に向けている。
運転席では冥冥が上機嫌にアクセルを踏み込んでいた。
「……それで?」
やがて、うみの口から冷ややかな声が紡がれる。
「休日の昼下がりに、買い物を楽しんでいた生徒を白昼堂々拉致するなんて……さぞ素晴らしい
その凄まじいプレッシャーにも一切怯むことなく、五条は満面の笑みでビシッと親指を立てた。
「もちろん! うみ、今日から君はモデルデビューするんだよ!」
「……はい?」
「ファッション誌の撮影! いやー、僕と東堂で君のプロデュースをしようってことになってね!
最高の環境を用意しておいたからさ。感謝してくれていいよ!」
「感謝の前に殺意が湧いてるんですけど。……嫌です。今すぐ引き返してください」
即答で拒絶するうみに、隣の東堂が暑苦しく身を乗り出してくる。
「そう照れるなブラザー! お前のその圧倒的な美しさを、いつまでも身内だけで独占しているのは人類の損失だ。
さあ、共に新たな扉を開こうではないか!」
「照れてないし扉も開かない。開けるならこの車のドアを開けます。
大体、なんでいきなりモデルだなんて話になるんですか?」
走行中のバンから本気で飛び降りかねないうみの態度に、五条はやれやれと大袈裟に肩をすくめた。
そして、胸元から一枚の写真を取り出し、ビシッと突きつける。
「理由はこれだよ、うみ!」
「……は?」
うみの視界に飛び込んできたのは、見覚えのある忌まわしい記憶。
「あの時、僕と東堂は確信したんだ。君のその圧倒的なポテンシャルは、呪術界という狭い世界に留めておくべきではない、とね!」
「……その写真、データごと処分したはずなんですけど」
「甘いぞブラザー! あの傑作をバックアップも取らずに置いておくわけがないだろう!!」
「本当に終わってますね。……とにかく嫌です。そんなふざけた理由で、俺が付き合う義理はありません」
きっぱりと切り捨て、腕を組み直すうみ。
しかし、五条は全く動じることなく、むしろニヤリと口角を吊り上げた。
「つれないなぁ。せっかくちょー多忙なクリエイターたちのスケジュールを丸一日押さえて、
スタジオも完全貸切でバッチリセッティング済みなのに〜」
「っ……」
その言葉に、うみはピタリと動きを止めた。
これがこの二人のおふざけならば、うみが付き合ってやる義理はない。
だが、外部の人間が関わっているというのなら話は別だ。
彼らはただ真っ当に仕事をしているだけである。
そして何より、
この身勝手な大人は、うみの真面目で責任感の強い性格を完全に理解した上で、
あえてうみ自身に『察せさせて』退路を断っているのだ。
「……お得意の事後報告ですか。このダメ人間」
「最高のプロデューサーでしょ?」
「……はぁ。分かりました。降参です」
深い、深いため息を吐き出しながら、うみは後部座席に深くもたれかかった。
どうせ一度きりのことだ。サクッと終わらせて、早く帰って寝よう。そう割り切ることにする。
「そう拗ねるものではないよ、うみくん」
バックミラー越しに、運転席の冥冥が面白そうに目を細めた。
「君のその類稀なる容姿は、間違いなく莫大な富を生む。今まで以上に稼げるよ?
それに、君が稼いでくれれば私の口座も潤うからね。win-winじゃないか」
「……もう、なんで冥さんまでそっち側に回ってるんですか……」
あまりにもブレない冥冥に、うみは呆れ果てて頭を痛そうに押さえた。
「それに、そんなに期待されても大したことできませんよ。俺、ただの素人ですし」
「構わないさ。君はただそこに立っているだけでいい。君にはそれだけの価値があるんだ」
冥冥の自信に満ちた言葉に、うみが小さく首を傾げたその時だった。
「あ、そうだ。現場には『
「……はい? なんの話ですか?」
「名前だよ名前!! モデルと言えばモデル名でしょ!!」
五条が再び、とびきり爽やかな笑顔を向けてくる。
「昨日の夜、僕と東堂で徹夜で話し合って決めたんだ! 最高のネーミングセンスだろ?」
「……もう好きにしてください」
そう呟いて、うみは考えることすら放棄し、静かに目を閉じた。
――バンが到着したのは、都内にある広々とした撮影スタジオだった。
中へ入るなり、冥冥が手配したというファッション誌のクリエイターたちが、うみを囲み歓声を上げる。
「うわぁ、素材が良すぎる……!」
「肌の色素薄っ! 髪色も自前ですか!? 最高です!」
怒涛の勢いでメイクルームに押し込まれ、うみはプロたちの手によってされるがままに準備を進められた。
数十分後。
着替えとメイクを終えたうみがスタジオに姿を現すと、さざめいていた現場が水を打ったように静まり返った。
「……完璧だ。天才だよ君!!」
カメラマンが震える声で叫び、凄まじい勢いでシャッターを切り始める。
1着目のテーマは『病みかわ・地雷系』のグランジスタイル。
黒を基調とし、ベルトやチェーンが幾重にも装飾されたダメージ加工のオーバーサイズパーカー。
腕や華奢な脚には退廃的な雰囲気を醸し出す包帯が巻かれ、足元は重厚感のある黒の厚底ブーツ。
首元には黒いチョーカーが光っている。
うみの透き通るような肌と銀青の髪は、その黒い衣装とコントラストを描き、
元々の美貌と相まって常人離れした『圧倒的な退廃美』を完成させていた。
フラッシュが瞬く中、うみは内心で深い溜息をついていた。
(……はやく終わらないかなぁ。帰って寝たい……)
内心では完全に無気力極まりない感想を抱きつつも、一度引き受けた以上は真面目に取り組むのがうみの性分である。
真っ当に仕事をしているプロたちの足を引っ張るわけにはいかないと、彼は要求されたポーズを淡々と、しかし完璧にこなしていた。
「Lunaくん、いいね! もっとこう、世の中の全てを諦めたような、冷たい視線ちょうだい!」
カメラマンの熱の入った要求に、うみは少し考え、自らの中にある引き出しを開けた。
――それは、一切の感情が抜け落ちた『絶対的な無』。
わずかに伏せられた長い睫毛の下。光の宿らない氷青の瞳が、ふい、とレンズを見据える。
まるでこの世の全てに絶望し、関心を失ってしまったかのような、底冷えする虚無。
凄絶な殺意というよりも、他者の踏み込みを一切許さない純度の高い『透明な拒絶』だった。
その姿はまるで、どこかの”セカイ”で、過剰な期待に応え続けた果てに、
本当の自分を見失ってしまった優等生の少女のようでもあった。
それがカメラのレンズに向けられた瞬間、スタジオの空気がビリッと凍りついた。
「っ……! そ、それ! 最高!! ゾクゾクするよ!!」
完全に狂わされたカメラマンの絶叫が響き渡る。
周囲のスタッフたちも、あまりの美しさと背徳感に息を呑み、顔を紅潮させていた。
当のうみ本人は(これでOKが出たなら良かった)としか思っていないのだが、
その無自覚な演技力の高さがさらに大人たちを狂わせていく。
「見ろよ葵!俺たちのプロデュースの賜物だ!」*1
「流石は我がブラザー!!」
五条と東堂はドヤ顔でハイタッチを交わし、冥冥は「これはいい金脈を見つけた」と満足げに笑っている。
「よし、じゃあ次は2着目! 今度はガラッと雰囲気変えていくよー!」
スタッフの声で再びメイクルームへ押し込まれるうみ。
(2着目……だと……?)と絶望しかけた彼の前に用意されていたのは、先ほどとは正反対の衣装だった。
数十分後、再びスタジオに現れたうみの姿に、今度は黄色い歓声が上がった。
青地にハート柄が散りばめられたダボッとしたトップスに、ボーダーのアームカバー。
ボトムスは短いショートパンツで、白いルーズソックスにスニーカーを合わせている。
そして極めつけは、頭に装着された『猫耳型のヘッドホン』である。
「うわああああっ! 可愛い!! 天使!? いや猫か!?」
「さっきのバチバチに尖ってた子と同一人物ですか!?」
スタイリストたちが身悶えする中、うみの理性がゴリッと削れる音がした。
いくら真面目な彼とはいえ、流石にこのあざとい衣装には羞恥心と虚無感が押し寄せてくる。
「はーいLunaくん! 次は『あざと可愛い』感じで行こう! もっと甘えた感じで、にゃーってしてみて!」
(……俺は、一体何を…しているんだ?)
うみは完全に虚無の境地に至りながらも、持ち前の生真面目さから言われた通りに両手で猫のポーズを作った。
その瞬間、五条が腹を抱えて爆笑し、東堂が「おおお……っ!!」と天を仰いで涙を流す。
当のうみ本人は相変わらず「早く終わって帰りたい」としか思っていないのだが、
その絶妙な無関心さと羞恥心が入り混じったアンニュイさすらも、
彼らの目には『Luna』という唯一無二の被写体の魅力として映るのだった。
――それから数週間後。
呪術高専の談話室は、平和な昼下がりの空気に包まれていた。
虎杖、伏黒、狗巻、そして真希が、各々くつろいだ時間を過ごしている。
バンッ!!!
突如として、談話室の扉がけたたましい音を立てて蹴り開けられた。
「おい! もっと静かに開けろよ」
顔をしかめた真希の苦言もどこ吹く風。肩で息をする釘崎野薔薇が、血走った目で真っ直ぐにテーブルへと歩み寄ってくる。
「……これを見なさい!!」
ドサッ、と乱暴にテーブルへ叩きつけられたのは、二冊のファッション誌。
「……ん? 雑誌?」
怪訝な顔で虎杖が覗き込む。一冊目の表紙。
暗闇の中、退廃的な黒のグランジスタイルに身を包んだ銀青の髪の少年。
キャッチコピーには『透明な毒、纏う少年。――痛みすら、僕のスタイル』とある。
そして二冊目の表紙。
青地のハート柄の服に猫耳ヘッドホンを装着し、あざとく猫のポーズをとる少年。
そこには大きく『今いちばん輝いている男の子・Luna。――天使か。猫か。どっちも、ボク。』と文字が踊っていた。
「……え? 誰これ、すっげぇ綺麗な子だけど。どっかの新人モデル? 絶対すぐ有名になるだろこれ」
「しゃけ……」
「……いや、待て。なんか……どっかで見たことあるような気がするんだが……?」
「……言われてみれば。この無駄に整った顔立ち……」
虎杖、狗巻、真希、伏黒の四人が、雑誌を囲んだままウンウンと首をひねる。
「うーん……」「誰だっけ……」と平和な推理ゲームが始まりかけた、その時だった。
「あんたたち節穴なの!? よく見なさいよ!!」
しびれを切らした釘崎の怒号が、談話室に響き渡る。
「この生意気そうな面と、銀青の髪!! どう見てもうちの一年だろうがぁっ!!」
「「「「……えっ?」」」」
釘崎の言葉に、四人は再び雑誌へと視線を落とし――そして、点と点が繋がった。
「「「…………うみぃぃぃぃぃぃ!?」」」
全員の盛大な絶叫が、高専の空気を震わせる。
「す、すじこ!?」と珍しい具材を叫んで椅子から飛び上がる狗巻の横で、真希が雑誌をひったくるように手に取った。
「間違いない、うみだ。……なんだこれ、どういうことだ!?」
「ああもう!! なんで私を差し置いてあいつがモデルやってんのよ!!
っていうか『Luna』ってなによその気取った名前! 許せない!!」
釘崎が理不尽な怒りを爆発させ、地団駄を踏む。
そんなカオスと化した談話室に、ガチャリと静かに扉が開く音がした。
「……どうしたんですか? 外まで聞こえてますよ?」
現れたのは、騒動の中心人物である月影うみ、その人だった。
いつも通りの無表情に近い、フラットな佇まい。片手には缶コーヒーを持っている。
「「「「「…………」」」」」
「…………?」
一瞬にして談話室が静まり返り、全員の視線がうみに突き刺さる。
あまりの圧に、うみが僅かに首を傾げた、その直後だった。
スッ……。無言のまま、伏黒が懐から自作のパドルを掲げた。
そこには、赤々とした『120』の数字。
「だから! その札なんなんだよ! どんだけ持ってんだよ!!」
「……いや、これは俺のじゃない。親父のらしい」
「親子そろっていかれてんのか!?」
「ちょっとあんた!! これ、どういうことか説明しなさいよ!!」
虎杖のツッコミに被せるように、釘崎がずいっとうみの顔面に二冊の雑誌を突きつけた。
「……え」
その表紙に映る見覚えのある自分の姿と、恥ずかしすぎるキャッチコピーの数々。
それらをまじまじと見つめたうみは、あからさまに顔をしかめた。
「……うわぁ。ほんとに出したんだ……」
一切の照れや喜びはなく、そこにあるのは純度100パーセントのドン引きと呆れである。
「いやでも、マジでいつの間にこんなの撮ったんだよ? 今までそんな素振り全くなかったじゃん」
「あんな派手な格好、普段のお前からは想像つかねぇぞ」
訝しげに尋ねる虎杖と伏黒に、うみは酷く疲れたような、遠い目をして深く溜息をついた。
「……この前、商店街で俺が黒いバンに拉致されたの、覚えてますか?」
「「「あー(明太子)……」」」
その一言で、当時現場にいた三人は点と点が完全に繋がり、深い納得と同時に同情の眼差しをうみに向けている。
「ちょっと! なにその身内ネタ! 現場にいなかった私と真希さんだけ置いてけぼりなんだけど!?」
納得いかない様子で声を荒げる釘崎。
しかし、隣で雑誌をパラパラとめくっていた真希が、全てを察したように深く長いため息を吐き出した。
「……状況的に考えるまでもないだろ」
「えっ?」
「そもそも、こいつを拉致れる奴なんて限られてんだ。
どうせ、あのバカ目隠しが、ろくでもないこと企んでこいつを巻き込んだんだろ」
真希のあまりにも鋭く、的確すぎる推測。
うみは何も言わず、ただひたすらに虚無を湛えた瞳で、コクンと静かに頷いた。
「「…………」」
その瞬間、釘崎のの怒り狂っていた表情がスッと真顔に戻る。
そして、先ほどの虎杖たちよりもさらに重く、深く、純度の高い『哀れみ』の視線へと変わった。
「……そ、そう。なんか……ごめんなさいね。八つ当たりみたいに叫んで」
「……いいえ」
理不尽な拉致被害者だと知り、態度が急変して急に優しくなる野薔薇。
同情という名のいたたまれない空気が談話室を包み込んだ、その時だった。
プルルルルルルッ!!
うみのポケットの中で、スマートフォンがけたたましく鳴り響いた。
液晶画面に表示された発信者の名前は――『五条悟』。
「……出たくない」
一切の躊躇なく、うみは通話拒否のボタンをタップした。
しかし――ピピピッ。通話が切れたその0.1秒後、再び同じ名前で着信音が鳴り響く。
「…………」
「……出た方がいいんじゃないの、それ」
着信画面を死んだ目で見つめ続けるうみに、釘崎が呆れたように声をかける。
逃げ切れないことを悟ったうみは、今日一番の深いため息を吐き出し、諦めて通話ボタンを押した。
途端、鼓膜を突き破らんばかりのハイテンションな声が響き渡る。
『うみ!! 大・大・大反響だよ!! 住所送るから今すぐこっちに来て! 冥さんも待ってるからさ!!」
「……行ってきます」
同情と哀れみに満ちた視線を送る先輩たちを背にうみは足取り重く談話室を後にした。
――指定された住所は、都内の一等地にある高級貸しオフィスだった。
重厚な扉を開けると、そこにはクラッカーを鳴らして出迎える五条と東堂、
そして何故かスーツ姿の見知らぬ大人たちが数名、異様な熱気を帯びて待ち構えていた。
「おお!
「ブラザー! 素晴らしい反響だぞ! 世界がようやくお前の美しさに気づいたのだ!」
はしゃぐ二人を完全にスルーし、うみは胡散臭いスーツの集団へと視線を向ける。
「君がLunaくんだね!? 初めまして! 私はこういうものです」
「ぜひ、ぜひ我が社と専属契約を結んでいただきたい! あなたなら絶対にトップモデルになれる!!」
名刺を突きつけながら詰め寄ってくる大人たちに、うみは冷静に、しかしキッパリと頭を下げた。
「ありがたいお話だとは思いますけど、さすがに無理ですよ。学校とかもありますから頻繁に活動なんてできませんし……」
あくまで自分は呪術師の学生であり、芸能活動などする暇はない。
真っ当な「大人の対応」で角が立たないように断りを入れるうみ。
しかし、相手もプロである。最大の獲物をそう簡単に逃がすはずがなかった。
「そ、そこをなんとか! じゃあ専属所属とかじゃなくていいですから!
たまに! ほんっとーに時間がある時だけでいいから仕事を受けてほしいんです!」
「フリー契約の特別待遇で構いません! どうか、どうかお願いします!!」
なりふり構わず必死に懇願してくる大人たち。
先ほどの「専属契約」という大きな要求から一転、「時間がある時だけでいい」という極端にハードルの下がった要求。
いわゆる『ドア・イン・ザ・フェイス』と呼ばれる古典的な交渉術。
うみは当然それに気づいていたが、このままヒートアップする大人たちを相手にし続けるのもひどく骨が折れる。
(……まあ、妥協点としてはこんなものか)
そう冷静に状況を判断し、うみは少しだけ毒気を抜かれたように小さく息を吐いた。
「……はぁ。まあ、それくらいなら……。本当に時間ある時だけですからね?」
「!! ありがとうございます!!」
仕方なく了承の言葉を口にしてしまった、その時だった。
「ふむ。ならば私が事務所を設立しようじゃないか」
部屋の奥から、事の成り行きを静かに見守っていた冥冥が、艶やかな笑みを浮かべて歩み出てきた。
「えっ……冥さん?」
「Lunaはそこに所属するタレントになるといい。
そうすれば、外部からの細々とした仕事の選別やスケジュール調整などのマネジメントは全て私がする。
これなら君も、毎度毎度面倒な手間をかけなくていいだろう?」
一見すると親切な提案。しかし、その瞳の奥には確かな『計算』が輝いている。
「もちろん、マネジメント料として報酬から相応の手数料はいただくがね。君にとっても悪くない話のはずだよ」
「……」
うみは悟った。
外部の人間からのオファーすらも利用し、自身が元締めとなって中抜きシステムを完成させたこの守銭奴。
(この人はほんとにぶれないなぁ)
半ば呆れたように肩をすくめたうみを見て、交渉成立とばかりに冥冥が満足げに笑う。
やがて、狂喜乱舞する業界の大人たちがオフィスから去っていった後。
「ふふ。凄まじい人気だね。どうだい? このままアイドルでも――」
「やりません!!」
冥冥のさらなる金儲けの打診を、うみは食い気味に、そして今日一番の大きな声で遮った。
その横で、「Lunaちゃん親衛隊を作るぞ!」と息巻く東堂と、「ライブ会場押さえなきゃ!」と悪ノリを加速させる五条。
かくして、一人の少年の平穏な日常は、無慈悲な大人たちの手によって完全に終了したのだった。
――数日後。都内某所のマンション。
真依と西宮がリビングでくつろいでいるところへ、バタバタと慌ただしい足音が近づいてきた。
「真依ちゃん! 桃先輩! やばい、これ見て!!」
リビングへ駆け込んできた三輪は、胸に三冊の雑誌を大事そうに抱え込んでいた。
ドサッ、とテーブルに置かれたそれを見た真依と西宮は、同時に目を丸くする。
「……ちょっと、なによこれ。どこの新人モデル? すっごい美人だけど」
「わっ、猫耳! 天使か猫かって……えっ、ていうかこの子……!」
表紙の『Luna』を食い入るように見つめていた西宮が、ガタッと椅子から立ち上がった。
「うみくんじゃん!? なんでモデルなんかやってるの!?」
「えっ!? ……嘘、ホントだ」
驚愕する二人の前で、三輪は雑誌を胸に抱きしめながら、完全に限界を突破した恋する乙女の顔で熱っぽい溜息を吐き出していた。
「うみくん……かっこいい……いや可愛すぎる……どうしよう、心臓もたない……っ」
「ちょっと待って、この猫耳は致死量の尊さだよ!?
私、いつの間にか推しに直接課金できる世界線に来ちゃったの!? 最高過ぎない!?」
「……あんたたちねぇ。……まぁ、騒ぎたくなる気持ちは分からんでもないけどさ。ちょっと落ち着きなさい」
しかし、彼女の視線もまた、無意識に雑誌の表紙へ吸い寄せられていた。
そんな中、ふと西宮が我に返ったように冷静なトーンで指摘する。
「それはそうとさ、霞。なんで全く同じ雑誌を三冊も買ってきてるわけ?」
「え? 読む用と保管用に決まってるじゃないですか!」
胸を張って即答する三輪。しかし、西宮と真依のジト目は変わらない。
「……いや、それなら二冊で十分でしょ。残りの一冊はなんなのよ」
真依に鋭く追及され、三輪の動きがピタリと止まった。
「そ、それは……その……」
みるみるうちに顔を真っ赤に染め上げ、視線を激しく泳がせる三輪。
「えっと……あの……その……色々と、ね? 使う、というか……」
もごもごと口ごもり、絶対に二人と目を合わせようとしないその後ろ姿が、
かえって雄弁に『決して口には出せない三冊目の用途』を物語っていた。
「「…………」」
深く、長いため息が二つ重なる。
「……まぁ、深くは突っ込まないけどさ。ほどほどにしなさいよ?」
「そうそう。うみくんにドン引きされたり、嫌われたりしたら元も子もないからね?」
真依と西宮の至極真っ当な忠告に、三輪は両手で真っ赤な顔を覆った。
「うぅ……わかってますぅ……! 絶っっっ対にバレないようにしますからぁっ!」
(辞めはしないのね……)と、真依と西宮は内心で同時にツッコミを入れたが、あえて口には出さなかった。
夜のシェアハウスには、限界突破した純情乙女の叫びと、同居人たちの呆れたような笑い声がいつまでも響き渡るのだった。