三月の第一週。
長かった冬の底冷えも徐々に和らぎ、高専を囲む山々にも微かに春の気配が漂い始めていた頃。
「……で、こっちの報告書がこれで最後ですね。篤也さん、確認お願いします」
「あー……了解。わりぃな、うみ。助かった」
高専の執務室。
デスクにうずたかく積まれた書類の山を前に、月影うみは淡々とペンを走らせていた。
その向かいでは、日下部篤也がげっそりとした顔で決裁印を押し続けている。
「いえ。溜め込むと後が面倒ですから。……それにしても、最近また増えてきましたね。呪霊」
「あぁ。ただの季節性のブレか……それとも他の何かしらか。なんにしろ、俺たちの仕事が減る気配はねぇな」
日下部が深くため息をつき、うみが残りの書類を束ねようとした、その時だった。
「やっほー! 二人ともお疲れ様!」
バンッ! と勢いよく執務室の扉が開かれ、この平和な空間に最も似つかわしくない乱入者が現れた。
長身、白髪、黒い目隠し。現代最強の呪術師——五条悟である。
「……悟さん。ドアは静かに開けてくださいって、いつも言ってるじゃないですか」
「ごめんごめん! でも今日は、そんな些末なことを気にしてる場合じゃないんだよ!」
うみの冷ややかなジト目もどこ吹く風。五条はずんずんとデスクに近づくと、
持っていたクリアファイルを、バァン! とこれまた勢いよく叩きつけた。
「はいこれ! うみには三日後にこの学校の編入試験を受けてもらうからね!」
「……はい?」
「……はぁ?」
うみと日下部の声が見事にハモった。
二人は示し合わせたかのように、デスクの上のクリアファイルへと視線を落とす。
そこにはご丁寧に、都内にあるごく一般的な高校――東京都立西崎高等学校の願書と、試験要項が挟まれていた。
「……悟さん。これは一体、どういう冗談ですか? 今日はエイプリルフールにはまだ早いですよ」
「冗談じゃないよ? 大真面目な任務の一環さ。実はねぇ、最近この高校の周辺で、妙に呪霊の発生件数が増加傾向にあってさ。
内部から継続的に監視と祓除を行える優秀な術師が必要なんだよねー」
「……」
五条がもっともらしい声色で語り始めるが、うみの瞳には一切の光が宿っていなかった。
少しの沈黙の後、うみは極めて冷静に、そして淡々と口を開く。
「それで?本音はなんですか?」
「えっ?」
「それだけの理由なら、定期的に術師の巡回コースに入れればいいだけですよね? 俺をわざわざ生徒にする理由は?」
ぐうの音も出ない正論。呪術師としての、あまりにも冷徹で合理的な判断。
日下部もウンウンと深く頷いている。
「俺もそう思う。わざわざうみを学生として縛り付ける理由にならん。……お前絶対別の目的があるだろ」
日下部のジト目に射抜かれ、五条は「あーあ」とわざとらしく天を仰いだ。
「もうっ、二人とも本当に可愛げがないなぁ! わかった!わかりましたよ!!」
五条はビシッと指を突きつけ、大袈裟な身振り手振りで演説を始めた。
「いいかい、うみ! 今の君の現状には大きな問題がある!! それが何か分かる!?」
「? 特に何も問題ないと思いますけど」
「大ありだよ!悠仁や恵たちには同級生がいるけど、高専の新二年生は君一人だ!これじゃあ健全な青春が送れないじゃん!」
「……先輩たちがいるなら問題ないのでは?」
「だーめ! 同級生と先輩は別物なの! いい、うみ。君には、普通の高校で、普通の友達を作って、
放課後に買い食いしたり、くだらないことで笑い合ったりする……そんな『青い春』を謳歌してほしいんだよ!」
それは、五条悟という男の、不器用すぎる親心100%の叫びだった。
かつて自らが経験し、そして失ってしまった「青い春」。それを、自分の大切な教え子、それも幼い頃から呪術の世界に身を置き、特級クラスの重責を背負わせてしまった月影うみという少年に、どうしても経験させたかったのだ。
「……青い春、ですか」
うみは小さく息を吐いた。
普段はそれなりにこの男を辛辣に扱い、雑さ極まる言動に呆れ果てているうみだが、それでも生徒の中では一番長くこの男と付き合ってきた。
故に分かるのだ。五条の言葉の裏にある、重くて、鬱陶しくて、それでも限りなく温かい感情が。
「……分かりました。行きますよ」
「おお! 本当!? やったね!」
「おいおい、いいのかうみ。こいつの思いつきに付き合わなくていいんだぞ?」
日下部が心配そうに声をかけるが、うみは手元のクリアファイルをパラパラとめくりながら、深い深い溜息をついた。
「まあ一応善意であることは分かってますから。
それに……こういう時の悟さんは手続きの八割は既に終えているので、拒否すると外部に迷惑が掛かります」
「あっはっは! さすがうみ、話が早くて助かるよ!」
悪びれるどころか、ピースサインを作って笑う最強の呪術師。
うみはこめかみを押さえながら、もう一度クリアファイルの書類に目を通した。そして、ある一つの「物理的な問題」に気づき、眉をひそめる。
「……毎日通うには遠いですね。はぁ……引っ越し先探さないと」
「お前なぁ……」
日下部が呆れたように頭を抱えた。
「引っ越し先って簡単に言うが、未成年の賃貸契約には保護者の同意やら連帯保証人やら審査やらで時間がかかるんだぞ」
「そこは大丈夫ですよ。適当なところを買うので」
「…………は?」
十六歳の少年から放たれた、あまりにも極端な解決策に日下部の思考が停止する。
「いや、買うってお前……まぁ、お前がアホみたいに稼いでるのは知ってるが、不動産売買なんて未成年の個人名義でそう簡単にポンポンできるわけねぇだろ」
日下部の真っ当なツッコミに対し、うみは少しだけ首を傾げてから、事も無げに口を開いた。
「ローンを組むわけじゃないので、審査とかはないですよ。現金一括ですから」
「いっ、かつ……」
「それに、契約に必要になる住民票とか実印みたいな公的書類は、事務所に所属した時に全部預けてあるんです。
だから、冥さんが『法定代理人』として書類にサインしてくれれば、俺自身が動く手間はほぼ全部スキップできます」
「……あの守銭奴が、タダでそんな面倒な手続きを引き受けるわけないだろ」
「受けてくれますよ。
冥冥という人間の本質を完全に理解した上での、完璧な論理展開。
加えて、それを実現させるだけの圧倒的な財力。
十六歳の少年から放たれた、生々しすぎる不動産テクニックに、
日下部はもはやツッコミを入れることすら放棄し、無言で冷めたコーヒーをすすった。
「よーし! そうと決まれば、僕は編入試験の最終調整をしてくるよ! うみは引っ越しの準備、頑張ってね!」
五条は嵐のように現れ、そして再び嵐のように執務室から去っていった。
残されたうみは、手元の願書と、残された大量の報告書を交互に見比べ、今日一番の深いため息を吐き出した。
「……はぁ。術師にモデル、加えて一般学生のトリプルフェイスかぁ。どこの公安警察だって話ですよ。全く……」
***
三日後。都立西崎高等学校、編入試験当日。
「……ふむ」
カリカリと鉛筆の音が響く静かな空き教室で、うみは最後の解答欄を埋め終え、小さく息を吐いた。
(まあ高一の範囲じゃこんなもんだよね)
国語、数学、英語、理科、社会。全科目の試験問題が束になって渡されたが、うみにとっては赤子の手をひねるより容易い作業だった。
なにせ、彼は『強化睡眠記憶』によってもたらされる常人の範疇を超えた学習能力がある。
その異常なまでの定着率と、彼自身の持ち前の探求心や生真面目な気質が相まった結果、
現在のうみの知識量は、もはや単なる高校生のそれを遥かに凌駕し、各分野の専門家にすら迫るレベルにまで達していた。
「よし、終わりました」
「えっ? まだ三十分くらいなんだけど……」
試験監督の教師が目を丸くする中、うみは「見直しも済んだので」と答案を提出し、頭を下げて教室を後にした。
――数日後。
当然のように全科目満点での合格通知が届き、うみの「一般高校生」としての編入が正式に決定した。
そして、それに伴う「引っ越し」の準備が、高専の学生寮で慌ただしく始まっていた。
「よいしょっと……。なぁうみ、マジで一人暮らしすんの!?」
段ボール箱を抱えながら、虎杖悠仁が目を輝かせて尋ねる。
うみの自室には、虎杖、伏黒、そして乙骨の三人が助っ人として集まっていた。
「ええ。ここから通うにはちょっと距離がありますし」
「というかお前、家を買ったってどういうことだ。賃貸じゃないのか?」
「賃貸だといろいろと手続きが面倒だったので。
それに、税金対策にどこかしら買おうとは思ってましたしね。なんだかんだちょうどよかったというか」
十六歳の口から飛び出した「税金対策」という生々しすぎる単語に、伏黒が深い深いため息をつき、乙骨も苦笑いを浮かべた。
「でもうみくん。流石に一人暮らしで3LDKは広すぎないかな……?」
「そうですか? 寝室と書斎で二つ使いますし、予備に一つって考えれば妥当じゃないですか?」
「あー、まあ……すげえ量だもんな。本」
段ボールにガムテープを貼りながら、虎杖が納得したように頷く。
うみの自室は現在、引っ越しの荷造り中ということもあるが、それにしても異常な光景だった。
彼の底なしの探求心と学習意欲を満たすため、壁際から床に至るまで、医学、物理学、工学から海外の難解な論文の束まで、
ジャンルを問わない専門書が山のように積まれているのだ。
「それに、ゲストルームとしても使えますからね。泊まりに来てもいいですよ?」
「おっ! マジか! じゃあ今度遊びに行くわ!」
男四人で和気藹々と荷造りを進めていた、その時だった。
「ちょっとアンタたち、こんな大量の段ボール広げて何やってんのよ」
開け放たれたドアの前に、ジュースを買いに行く途中だった釘崎野薔薇が立ち止まっていた。
「お、釘崎。うみが一人暮らしするらしくてさ。その引っ越し準備」
虎杖が何の気なしに答えた、次の瞬間。
「……は? 引っ越し!? しかも一人暮らし!?なんで!?」
彼女の鋭いアンテナが、この一大事を逃すはずもなかった。
そこからの展開は早かった。釘崎のスマホから高専女子ネットワークへと情報が光の速さで拡散され、十数分後には。
「う、うみくんの一人暮らし……! 私、私がお手伝いしなきゃ……!」
エプロンを持参し、謎の使命感に燃え盛る三輪霞が息を切らして飛び込んできた。
その後ろからは、やれやれと首を振る真依と西宮が続く。
「それにしても、相変わらず随分と急な話ね。引っ越しなんて全く聞いてなかったわよ」
新居祝いの観葉植物をテーブルに置きながら、真依が呆れたようにため息をつく。
「ほんとほんと! いくらなんでも準備期間なさすぎじゃない?」
西宮も便利そうな生活雑貨を差し出しながら同意するように頷く。
――その言葉を聞いた瞬間。うみの瞳から、スッと
「ふふふ……急じゃなかったことなんて、今まで一つもなかったですけどね」
「……え?」
「小学校も、中学校も、モデルの件も……全部、全部。
俺のところに話が回ってくる頃には、大体外堀が完全に埋まってて、逃げ道なんて用意されてないんですから……」
ブツブツと、怨嗟のように呪詛を吐き出すうみ。
そのあまりにも深すぎる闇に、その場にいた全員が、いたたまれないような、ひどく深い同情の視線を向けた。
「あ、あはは……! げ、元気出してください、うみくんっ! 一人暮らしで大変なことがあっても、私たちが全力でサポートしますからっ!」
重すぎる空気を払拭しようと、三輪が精一杯の笑顔でフォローを入れる。
すると、うみはゆっくりと顔を上げ、三輪を見つめた。
「……霞先輩」
「ふぇっ?」
次の瞬間、少しナーバスになっていたうみは、スッと身を乗り出すと、三輪の首元に両腕を回して軽ーく抱き着いた。
「っ!?!?!?」
「……ありがとうございます。霞先輩の優しさが心に沁みます」
「ひゃぅっ!? あ、あわわわわ……っ!」
突然の至近距離でのハグと無自覚な甘えに、三輪の頭頂部からプスプスと湯気が吹き上がり、顔面が沸騰したように真っ赤に染まる。
「……まぁ、今のは霞が悪いわね。こうなることは予想できたもの」
「うん。こういう時は安全牌の乙骨くんが慰めるのを待つべきだったね。自ら火に飛び込むなんて……」
「えっ、僕!?」
呆れ顔で冷静に分析する真依と西宮に、思わぬ飛び火を受けた乙骨が目を丸くする。
二人はやれやれと首を振りながら、ショートして使い物にならなくなった三輪からうみをペリッと引き剥がした。
わちゃわちゃと騒がしくなったその様子に、うみは少しだけ目を丸くしてから、フッと瞳に光を取り戻して笑った。
静かに終わるはずだった引っ越し作業は、いつの間にか高専総出のドタバタパーティー状態へと変貌していた。
うみは、世話を焼いてくれる先輩たちの温かさと騒がしさに、胸の奥が少しだけじんわりと温まるのを感じていた。
***
三月下旬。春休み真っ只中の、都立西崎高等学校。
制服の受け取りと事前の説明のため、うみは新天地となる学校を訪れていた。
「あ、月影うみくんですか!? 初めまして!
新年度からあなたのクラスの担任になる、畑山愛子です! よろしくお願いしますね!」
職員室でうみを迎えたのは、小柄で童顔、まるで生徒のように若々しい女性教師だった。
身振り手振りを交えながら、一生懸命に学校生活について説明してくれる姿は、熱意と生徒への愛情に溢れている。
(……ああ。呪術界の狂った大人たちとは違う。本当に一生懸命で、真っ当な――)
そこまで思考した瞬間。うみの脳内を、長年かけて培った『長男』としての本能が、理性を置き去りにして駆け抜けた。
小柄で童顔。どう見ても中学生――いや、なんなら成長の早い弟妹たちよりも幼く見える目の前の存在。
それが、自分のために一生懸命に言葉を紡いでいる。
「――うんうん。頑張ってくれて、偉いですね」
ポン、ポン。
「……ふぇ?」
気がつけば、うみは極めて自然で滑らかな動作で、目の前の頭を優しく撫でていた。
「えっ!? あ、あの、月影くん!? わ、私、先生ですよ!? に、25歳の立派な大人ですからね!?」
「……ハッ!! 俺は何を……?」
顔を真っ赤にして涙目で抗議する愛子に、うみはサッと手を引っ込めた。
「あ、すみません。うちの妹たちとサイズ感……じゃなくて雰囲気が重なってしまって。つい無意識に」
「サ、サイズ感って言いました!? もうっ!」
ぷりぷりと怒る愛子だが、その姿すらも小動物めいていて愛らしい。
気を取り直して、愛子がコホンとわざとらしく咳払いをする。
「え、えっと! 学校生活についてですが……」
「あ、先生。この目隠しなんですけど……」
「はい! 事前に保護者の方から伺っています!」
うみが言い終わる前に、愛子が食い気味に元気よく答える。
「視覚過敏でしたね。診断書もいただいているので全く問題ないですよ!
何か困ったことがあれば、いつでも先生に相談してくださいね!」
愛子の元気な返答を聞きながら、うみは内心で小さく息を吐いた。
(……本当に、真っ当ですごくいい人だ。だからこそ、嘘ついてるのが心苦しいな
それに、こんないい人に、これから一度も顔を見せないというのは流石に失礼にあたるのでは……)
そう思考を巡らせたうみは、スッと目隠しに手をかけ、それを外そうとした。
「えっ!? ちょっと月影くん!? 外して大丈夫なの!?」
慌てて止めに入ろうとする愛子に、うみは「少しの間なら平気ですよ」と優しく微笑み、そのままゆっくりと黒い目隠しを外した。
「いくら事情があるとはいえ、これからお世話になる担任の先生に、一度も顔を見せないのは失礼にあたると思ったので」
目隠しの下から現れたのは、透き通るような白い肌と、宝石のように神秘的な蒼の双眸。
そのあまりにも人間離れした、中性的で整いすぎた美貌に、愛子は息を呑んで完全に固まってしまった。
そんな彼女の硬直など気にも留めず、うみは真っ直ぐにその蒼い瞳で愛子を見つめ、ふわりと微笑んだ。
「改めて。月影うみです。よろしくお願いします。……頼りにしてますね、愛子先生」
「〜〜〜〜〜ッッ!!!」
圧倒的な顔面偏差値の暴力。
加えて、教員になってからというもの、ずっと周囲から「小動物」や「子供」のように扱われがちだった自分が、
はっきりと『頼れる先生』として認められ、甘えられた事実。
キャパシティを完全に超えた愛子は、顔を真っ赤にしてポンッ! と頭から湯気を吹き出し、
その場にへたりと座り込んでしまった。
「あ、あれ? 先生? 大丈夫ですか? あ、もしかして今日体調悪かったんですか?」
「ち、ちがいましゅ!!」
完全にノックアウトされた愛子を前に、うみは首を傾げる。
(いい人なのは間違いないけど……別のベクトルで心配かも)
そんなことを思いつつも、うみはこれから始まる「普通の高校生活」へ向けて少しだけ胸を躍らせていた。
***
その日の夜。
学生寮から新居への引っ越し作業をあらかた終え、寝室のデスクに腰を下ろしたうみは、PCを立ち上げた。
通知が来ているのは、ボイスチャットアプリ『ナイトコード』。
およそ一ヶ月前のバレンタイン配信を機に、日野森雫と共に立ち上げた『弟妹至上主義サーバー』である。
【日野森雫】:こんばんは、うみ君。今日は新しい方を招待したのだけれど、もうすぐ来るかしら。
【うみ】:こんばんは、日野森さん。新しい方って、この前言っていた人のことですか?
【日野森雫】:ええ! 私としぃちゃんの昔からの幼馴染なのだけれどね。
とっても妹想いで、この集まりにピッタリだと思って声をかけたのよ!
あ、今ログインしたみたい。通話に切り替えるわね。
【うみ】:了解です。
ピロン、とボイスチャンネルへの入室音がヘッドホン越しに鳴った。
『フハハハハハ!! 待たせたな!!』
「わっ!?」
突然ヘッドホンから爆音で響き渡った声に、うみは思わず肩を揺らしてボリュームボタンを連打した。
『天馬と書いてペガサス! 世界を司ると書いて司!! この俺こそが天馬司だ!!!
日野森から「妹の素晴らしさについて大いに語り合う場がある」と聞いて飛んできたぞ!!』
画面の向こうのテンションと、何より物理的な声の大きさに、うみは内心で圧倒されつつもマイクをオンにする。
「初めまして。Luna……じゃなくていいのか。プライベートだし……。
月影うみです。あの、すごく声が通りますね。舞台か何かやられているんですか?」
『おお!! 声だけでそれが分かるとは、うみ、お前なかなか見どころのある男のようだな!! その通り、俺は未来のスターだからな!』
『ふふっ、司君はね、妹の咲希ちゃんを本当に大切にしていて、いつも咲希ちゃんのために頑張っている素敵なお兄さんなのよ』
『ふっ、当然だ!! 我が妹・咲希の笑顔は世界を明るく照らす太陽!!
咲希の笑顔のためならば、この俺はどんな困難も乗り越えてみせる!! そもそも俺がスターを目指したのも――』
そこから、天馬司による『いかに自分の妹が可愛く、そして尊いか』という、熱量MAXのマシンガントークが始まった。
病弱だった妹を励ますためにショーを始めたこと、今元気になってバンド活動を楽しんでいる姿を見るのがどれだけ嬉しいか。
その声のトーンからは、一点の曇りもない純粋な家族愛がひしひしと伝わってくる。
それを聞いたうみと雫の反応は、言うまでもなく。
「……わかります。弟妹が笑顔でいてくれるだけで、こっちまで救われる気持ちになりますよね」
『ええ、本当に……っ! しぃちゃんが楽しそうにギターを弾いている姿を見るだけで、私、胸がいっぱいで……!』
『おお!! わかってくれるか、二人とも!!』
「天馬さんの妹さんへの愛も、痛いほど伝わってきました。……天馬さん、あなたいい人ですね」
『フハハハハ!! 当然だ!! だが「天馬さん」などと水臭い呼び方は不要! 気軽に司と呼ぶがいい!!』
『ふふっ。なら、私のことも雫って呼んで。私たち、同盟の仲間なんだから』
「……分かりました。じゃあ、司さん、雫さんで」
もはや顔を合わせずとも、魂のレベルで深く共鳴し合う三人。
画面の向こうでうみがウンウンと深く頷いていると、ふと司からこんな問いかけが飛んできた。
『ところでうみよ! 雫から、お前は俺たちより少し年下だと聞いている! そこでだ!この未来のスターにして、
頼れる兄たる天馬司が、年長者としてお前の悩み相談に乗ってやろう!! どんな些細なことでも構わんぞ!』
「悩み、ですか。……何かあったかなぁ」
うみは少し考え、引っ越しの準備でドタバタしていたここ数日を思い返した。
「あ、そうだ。実は今年度から新しく普通の高校に編入することになりまして。それに伴って一人暮らしも始めたんです」
『おお! 新生活か! それは色々と不安もあるだろう!』
「ええ、まあ。でも一番の悩みは、学校で『どういうキャラで行くか』なんですよね」
『キャラ……?』
首を傾げる雫に、うみは苦笑しながら説明を続ける。
「俺……というより『Luna』ですね。この前のバレンタイン配信以降、写真だけじゃなくて動画とか喋る仕事の方向性も少し取り入れ始めて。
学校では目隠しをつける予定なので顔の判別はごまかせると思うんですけど、
仕事の時に素を出してしまっているので、普段のままで学校に通うと『Luna』だってバレるんじゃないかって」
うみが話し終えると、司と雫から即座に力強い言葉が返ってきた。
『なるほど! 正体がバレる懸念! だが、うみよ! 小細工は不要だ!』
『そういう時こそ堂々としているのが一番だ!! 周りの目など気にせず、お前はお前らしく、胸を張って学校生活を送るがいい!!
俺も咲希が高校に入る時は、全力で背中を押してやったからな!!』
『司君の言う通りだわ。うみ君、ありのままのうみ君で大丈夫よ』
「お気持ちは凄く嬉しくて助かるんですけど……今回通う高校って、芸能科とかがあるわけじゃない、本当に普通の一般校なんですよね」
『ふむ?』
「だから、もし正体がバレて騒ぎになって、授業にならないとか周りに迷惑をかけることになったら、
最悪また転校……なんてことになりかねなくて」
その言葉を聞いた司は、画面の向こうで大きく手を叩いた。
『なるほど! つまり、一般の高校生活という新たな舞台での『役作り』が必要ということだな! ならばこのスターたる天馬司に任せるがいい!!』
『ふふっ。アイドルとしてのキャラクター作りなら、私もお姉さんとしてアドバイスできるかもしれないわね』
「本当ですか! 頼もしいです」
そこから、三人の深夜の『キャラ決め会議』が幕を開けた。
『うむ! まずは王道! 誰とでも肩を組む熱血スポーツマンはどうだ!!』
「いや、俺そもそも目隠ししてるんでスポーツ以前の問題かと……」
『じゃあ、クールでミステリアスな一匹狼キャラはどうかしら? きっと女の子から人気が出るわよ!』
「……人気云々は置いといて、それなら参考にできる人もいるしやりやすいかも」
『なるほど!』と司の声が一段と大きくなる。
『さらに言えば、うみにはその特異な目隠しと、人を惹きつける容姿がある!
それを活かすなら、ただの一匹狼ではなく、独自の哲学を持つ『浮世離れした天才肌』というのはどうだ!?』
『ええ、素敵ね! 常に自分の世界に没頭していて、周りの空気を気にしないマイペースな不思議ちゃん、みたいな感じかしら。
それなら、たまに変わった言動や遠慮のない発言をしても「そういう子なんだ」って納得してもらえそうだし』
「なるほど……。自分の趣味とか考え事に集中してて、空気を読まずに思ったことをズバッと言う、ですか……あれ?」
ふと、うみの脳裏に、身近にいる「空気を読まない大人」や「遠慮のない問題児(先輩)たち」の顔が次々とよぎった。
(これ、うちの身内にいる問題児どものハイブリッドじゃない……? 大丈夫かこれ?)
一瞬、強烈な不安が脳裏を過ったが、うみはすぐに首を横に振ってその思考を完全に放棄した。
(いや、でも雫さんや司さんが言ってくれているんだから、間違いないはずだ……!)
恐るべき『シスコン同盟補正』による、完全なる盲信である。
一抹の不安要素から全力で目を逸らしつつも、逆に言えば「日常的に見慣れている」ため、演技のハードルは極めて低い。
うみはコホンと咳払いをして、二人に力強く答えた。
「……それなら、うちの身内に参考にできるのが山ほどいるんで、かなり自然に振る舞えそうです」
『ハハハハ!! まさに我が道を行く強者だな!! よし、その方向で行こう!!』
『ええ。本やゲームを好む、インドアでマイペースな不思議ちゃん。うみ君らしくていいと思うわ。
でも無理して仮面を被りすぎて疲れちゃダメよ?』
「そこは大丈夫ですよ。学校にいる間だけですし。それに何かあっても、雫さんと司さんがいますから!!」
さらっと放たれた、無自覚な甘えと圧倒的な信頼。
これこそが、彼が老若男女問わず周囲の人間から異常なまでに愛され、世話を焼かれる最大の理由であった。
『うむ!! 当然だ!! 何かあればいつでもこの俺を呼ぶがいい!! フハハハハ!!』
『ふふっ、ええ。いつでも頼ってね。うみ君の新生活が、素敵なものになるように祈っているわ』
画面の向こうの優しく、そして頼もしい同盟仲間たちに感謝しつつ、うみはPCの画面を閉じた。
「……さて。明日からはついに新生活、か」
うみは引っ越しの段ボールが片付いた真新しい部屋の窓から、春の夜空を見上げた。
少しだけ胸を躍らせながら、うみは数日後からの日々に思いを馳せるのだった。
***
四月。新学期。
桜の花びらが舞う中、都立西崎高等学校――二年三組の教室は、朝から新たなクラスメイトの話題で持ちきりだった。
「ねぇねぇ、クラスの名簿見た!? 一人だけ知らない名前あったんだけど!」
「ああ、『月影』ってやつだろ? 編入生かなんかか?」
「マジか! 可愛い女子だといいなー!」
新学期特有の浮き足立った空気に包まれる教室。
ガラッ、と扉が開き、担任の愛子が入ってくると、生徒たちは慌てて自分の席へと戻った。
「みんな、おはようございます! 進級おめでとうございます!
……さて、ホームルームを始める前に、今日からこの学校の仲間になる子を紹介しますね。入ってきてくださーい!」
愛子の呼びかけに応じ、教室の扉が再び開かれる。
そして、その人物が教壇の前に立った瞬間――教室の空気が、ピタリと凍りついた。
プラチナブルーのサラサラとした髪。透き通るような白い肌。
そして何より目を引くのは、その端正すぎる顔の半分を覆う、異質な『黒い目隠し』。
「……えっ、外人?」
「美少女!? いや、でもスラックスだし……」
「な、なんだあの目隠し……中二病か……?」
男女問わず、誰もがその浮世離れした姿に目を奪われ、声にならないざわめきが波のように広がっていく。
「それじゃあ、自己紹介をお願いしますね」
愛子先生に促され、うみはチョークを手に取ると、黒板にサラサラと達筆で『月影うみ』と書き記した。
そして、クラスメイトたちへ向き直る。
「月影うみです。よろしくお願いします?」
((((……なんで疑問形?))))
教室中が心の中で一斉にツッコミを入れた。
しかし、うみの言葉はそこで途切れ、口を閉ざしてしまう。
(……あ、あそこにいるの恵里だ。そういえばここの高校通ってるって言ってたっけ。……言い訳を考えておこう。絶対詰められる)
そのまま数秒、十数秒と時間が経過しても、うみは微動だにせず、ただ無言で真っ直ぐに前を向いている。
妙に気まずい、謎の沈黙が教室を支配した。
「え、えっと……その、終わり、ですか?」
たまらず愛子先生が助け舟を出すと、うみは先生の方を向き、
「……だめですか?」
こてん、と。
目隠し越しでも分かるほど無垢な表情で、小首を傾げた。
「っっっ〜〜〜〜!!!」
そのあまりにもあざと……いや、無自覚な破壊力に、
数日前の一件がフラッシュバックした愛子は、顔を真っ赤にしてノックアウト寸前まで追い込まれる。
「だ、ダメじゃないですけど……! もう少しこう、前の学校のこととか、趣味とか……!」
「ああ。何を言えばいいかよく分からなかったので」
愛子先生の言葉に、うみは納得したように一つ頷くと、再びクラスメイトたちへと向き直った。
「……というわけなので。気になることがあるなら、適当に聞いてください」
丸投げである。
初日から「自己紹介を放棄して質疑応答に切り替える」という、あまりにも我が道を行きすぎる謎の転校生。
((((すげーマイペースな子が来た……!))))
クラス全員の認識が完全に一致した瞬間だった。
しかし、その圧倒的な美貌と「適当に聞いて」という言葉に背中を押されたのか、一人の男子生徒がおずおずと手を挙げた。
「あ、あのさ……その、目隠しってどうしたの? どこか悪いの?」
「ん……これ? 視覚過敏症ってやつ。超簡単に言うと普通の人より光に弱いの。
まあ珍しいものじゃないから気にしなくていいよ」
声も、仕草も、どこまでも柔らかく中性的だ。
たまらず、別の男子生徒が前のめりになって大声を上げた。
「じゃ、じゃあ! 月影さんって彼氏いますかー!!」
「ちょっと男子! バカなこと聞かないの!」
女子がたしなめる中、うみは全く動じることなく、呆れたように小さく息を吐いた。
「いるわけないじゃん。……男なんだから」
「「「「「えええええええええええええええええ!?」」」」」
教室中から、本日最大級の絶叫が轟いた。
「嘘だろ!?」
「そんな色白で華奢なのに男なわけあるかよ!」
「俺の初恋が十秒で散った……」と阿鼻叫喚に陥る男子たち。
対照的に「えっ、男の子!? てかスタイル良すぎじゃない!?」
「ヤバい、雰囲気めっちゃかっこいい……モデルみたい……!」と黄色い声を上げ始める女子たち。
そんな騒ぎの中、教室の片隅で、ただ一人、心臓が止まるほどの驚愕に顔をこわばらせている少女がいた。
(に、兄さん!? なんで!? なんで兄さんがここにいるの!?)
中村恵里である。
頼れる「お兄ちゃん」であり、絶望から自分を救い出してくれた絶対的な存在。
異常なまでの深く重い敬愛――『兄妹愛』を抱く相手、愛しきお兄様である月影うみが、なぜか自分のクラスに編入生として現れた。
パニックで頭が真っ白になりかける恵理だったが、彼女は学校では「誰にでも優しい完璧な優等生」という仮面を被っている。
「えりりん? どうかした?」
隣の席の友人、谷口鈴が不思議そうに覗き込んでくる。
恵里は一瞬で表情をコントロールし、完璧な笑みを浮かべた。
「ううん、なんでもないよ。すごく綺麗な人だなって、ちょっと見惚れちゃっただけ」
「だよねー! 顔は見えないけど、絶対にすっごい美人……じゃなくてイケメンだよね!」
内心の動揺を微塵も悟らせず、恵里は仮面を死守した。
「えーっと! み、みんな静かに! 月影くんの席は空いてるところ……南雲君の隣です!」
愛子が必死に場を収め、うみは指定された席へと向かう。
そこは、どこか無気力そうな雰囲気の男子生徒——南雲ハジメの隣だった。
「よろしく、南雲君」
「あ、うん……よろしく、月影くん」
うみがフラットに挨拶すると、ハジメは少し驚いたように、けれど温厚そうな笑みを浮かべて返した。
「……眠そうだね。よふかし?」
うみの少し間延びしたような、突然の問いかけに、ハジメは少しだけ肩をビクッと揺らした。
「えっ? あ、ああ、うん……。ちょっと昨日の夜、ゲーム……じゃなくて、本を読んでて」
「へぇ。どんな本?」
「えっと、その……」
オタク趣味を隠してはいないものの、クラスで公言して回るほどでもないハジメは、
初対面の美少年に探られるように聞かれ、少しだけ言い淀んだ。
「……言いたくないなら、いいよ」
「えっ?」
しかし、うみはあっさりと引き下がった。
コテンと首を傾げ、ハジメの顔をじっと見つめた後、ふいっと前を向いてしまう。
他人に踏み込みすぎない、極めてマイペースでフラットな態度。
(な、なんて自由な……)
ハジメは内心でツッコミを入れつつも、無理に踏み込んでこないうみの態度に、少しだけ安堵の息を吐いた。
――そして、昼休み。
クラスメイトたちがそれぞれ机をくっつけ、グループを作って昼食を取り始める中。
うみは一人、自分の席で静かに文庫本を開きながら、教室全体の空気を持ち前の観察眼で分析していた。
(うん、いい感じだ。遠巻きに見られてはいるけど、変に踏み込んでくる気配はない。
さすがは現役アイドルと役者が作り出したキャラ!! 今度報告しとこう)
朝の「質疑応答の丸投げ」と「男ですよ宣言」のインパクトにより、クラスメイトたちはこの浮世離れした美少年にどう接していいか測りかねている状態だ。
うみにとって、自分のペースを守れるこの距離感は理想的だった。
その時である。
「やあ、月影くん! 一人で食べてるのかい?」
爽やかで、どこか眩しいほどの笑顔と共に、一人の男子生徒がうみの机の前にやってきた。
天之河光輝。このクラスの中心であり、圧倒的なカリスマ性と正義感を持つ絶対的な主人公的ポジションの男だ。
「この学校に来たばかりで、まだ誰とも話せてないんだろう?
もしよかったら、俺たちと一緒に食べないか? 一人より、みんなで食べた方が絶対に美味しいし、楽しいからさ!」
光輝の瞳には、一切の悪意も下心もない。あるのは『転校生が一人で寂しそうにしているから助けてあげよう』という、純度100%の疑いなき善意だけだ。
しかし、呪術界という死と隣り合わせの影の世界で育ってきたうみは、その眩しすぎる真っ直ぐさを見て、内心でそっと息をついた。
(あぁ……苦手なタイプだ。……こういう、自分の信じる正しさを微塵も疑わない『王道を往く人間』って、
俺たちみたいな邪道側とは根本的に相性が悪いんだよね。ちょっと眩しすぎるというか)
普段であれば、可もなく不可もなくで相手をするか、ばっさり切り捨てているだろう。
だが、うみは現在、キャラの定着という任務の遂行中だ。
このタイミングでのこの干渉はキャラクターをクラス全体に完全に定着させるための、これ以上ない絶好の機会だった。
「……ありがとう。でも、今は本を読みながら食べたい気分だから、一人でいいよ」
「えっ……? で、でも、一人よりみんなで食べたほうが絶対楽しいよ?」
「んー。そうだね。みんなと食べるのが楽しいって思うのは、とっても良いことだと思うよ」
「だろ? だから――」
光輝がパッと顔を輝かせた、その瞬間。
「でも、今はこっちの気分なの。ごめんね。また今度でいい?」
うみはふんわりと微笑むと、光輝の言葉をそれ以上受け取る気はないとばかりに、パタンと本を開いて視線を落としてしまった。
「えっ……あ、うん。そ、そっか……。ごめんね、お邪魔して」
まさか自分の善意を全肯定された上で、ここまでフワリとけむに巻かれると思っていなかった光輝は、
狐につままれたような顔で引き下がっていった。
((((……あの天之河の誘いを、完全に自分のペースでシャットアウトした……!))))
その一部始終を見ていたクラスメイトたちは、戦慄と共に一つの確信を抱いた。
月影うみは、誰のペースにも巻き込まれない、正真正銘の『ゴーイングマイウェイ』である、と。
これにて、うみの学校生活における立ち位置の構築は、完全に完了したのだった。
――そして、放課後。
うみは帰り支度をして教室を出た後、人気のない廊下の角を曲がったところで、そっと腕を引かれた。
「ちょっと、兄さん!!」
「わっとと……恵里じゃん。どうしたの?」
壁際に引きずり込まれたうみの目の前には、学校用の「完璧な優等生の仮面」を完全に脱ぎ捨て、
いつもの妹モードに戻った恵里が、目を吊り上げて立っていた。
「どうしたのじゃないよ! なんで兄さんがここにいるの!? 私、一言も聞いてないんだけど!!」
「ああ、普通に忘れてたんだよねー。教室で恵里を見て、そういえばここだったなぁって」
あっけらかんと答えるうみに、恵里は信じられないものを見るような顔になった。
「忘れてた!?
「ごめんて」
「もう……。それに、何なのあの自己紹介! 疑問形で終わるし、質問は丸投げするし……あんなの、普段の兄さんじゃないじゃん!」
プンプンと怒る恵理に、うみは苦笑いしながら口を開いた。
「いやー……ほら、最近『Luna』ってしゃべるようになったじゃん? 素のままだとバレるかもしれないなぁって思って」
「だからってあのキャラは思い切りが良すぎない?」
「大丈夫だよ。雫さんと司さんが一緒に真剣に考えてくれたから、設定としては完璧なはず」
「司さん……はさておき、雫さんって八重樫さんのこと?」
「……? ああそっか。クラスにも雫さんがいるんだったっけ。日野森雫だよ。MORE MORE JUMPの」
うみがさも当然のように超有名アイドルの名前を出すと、恵里は目を丸くした。
「ええっ!? 有名人じゃん! な、なんでそんな人と知り合いなの!?」
驚愕する恵里に、うみは不思議そうに首を傾げた。
「なんでって……お兄ちゃんも有名人だよ?」
「えっ……あ、そっか」
バレンタインの生配信コラボ以降、Lunaの知名度は『そこそこ有名』から『世間一般に広く知られるレベル』へと明確なランクアップを果たしている。
しかし、恵里からすれば、彼がどんなに世間で騒がれようとも、結局のところ大好きな『お兄ちゃん』なのだ。
「Lunaがすごい有名になってるのは知ってるけど……
私からしたら『お兄ちゃん』って感覚の方が強すぎて、全然ピンときてなかった……」
「あはは、まあそれは俺も同じだからいいよ。
それでね、その二人と俺の三人で『シスコン・ブラコン同盟』っていうのを作ってて……」
「しすこん……?」
そこから先、うみが誇らしげに語り始めた『自分の設定を考えてくれた同盟の素晴らしさ』についての言葉は、恵里の耳には一切入っていなかった。
(に、兄さんがしすこん……? それってつまり、私達のことそれくらい深く愛してくれてるってことで……!)
恵里の脳内は瞬時に沸騰し、ドロドロに甘く幸せな色に染まりきっていた。
愛しき兄の爆弾発言により、彼女の思考回路は完全にショートしてしまったのである。
「――というわけ。完璧な設定でしょ?」
「っ!? う、うん! 兄さんが楽しそうなら、それでいっか!」
内容など一ミリも理解していないが、最高の気分に浸っていた恵里は、満面の笑みで全肯定した。
(まあ、理由はともかく兄さんが同じ学校にいるのは嬉しいし……)
「あ、でも、学校では他人のフリ、だよ。私、誰にでも優しい優等生ってことで通してるんだから。兄さんと変に噂になったら面倒だし」
「分かってるよ。適当な時期にお友達で通そうね」
口では「他人のフリをして」と念押ししつつも、
大好きな「お兄ちゃん」が同じ学校にいるという事実に、恵里の顔には隠しきれない喜びが滲んでいた。
***
――それから約一ヶ月後。五月。
新学期の慌たたしさも落ち着き、クラス内の人間関係が明確な形を成し始めた頃。
ハジメの学校生活は、とある理由から徐々に窮屈なものになりつつあった。
クラスの、いや学年のアイドル的存在である白崎香織。
彼女がなぜか、最近になってハジメに対して積極的に、そして親しげに話しかけてくるようになったのだ。
当然、彼女を慕うクラスメイトたちからの視線は、日に日に冷たく、そして刺々しいものへと変わっていた。
その日の昼休み。
香織からのアプローチと周囲からの冷ややかな視線から逃れるように、
ハジメは早々に教室を抜け出し、人気のない屋上へ続く階段の踊り場で、一人静かにライトノベルを広げていた。
(はぁ……また胃が痛くなってきた。俺はただ、平穏に趣味を満喫したいだけなのに……)
周囲から孤立しつつある状況に、ハジメが心の中で深いため息をついた、その時だった。
「あれ? 南雲君だ」
「……えっ?」
不意に上から声をかけられ、ハジメはビクッと肩を揺らした。
顔を上げると、階段の上の段にうみが座り、こちらを見ている。
(えっ? 俺がここに来た時には誰もいなかったはずなのに……いつの間に!?)
ハジメが驚いて目を丸くしていると、うみは少しだけ言い訳するように頬を掻いた。
「ちょっと屋上でお昼寝。教室、うるさいから」
うみは近場に呪霊を捕捉し、屋上から外へ出てサクッと祓った後、誰にも見つからないように上から戻ってきたところだった。
しかし、そんな事情を知る由もないハジメは、「そうなんだ」と納得しつつも、まだ少しだけ警戒心を解けずにいた。
男子からの嫉妬と殺意に近いものを向けられている今の自分に、わざわざ話しかけてくる人間など、この学校にはいないと思っていたのだ。
そんなハジメの内心など意に介さず、うみはハジメの読んでいる本を覗き込んだ。
「それ、最近出たやつ? ここ1、2年忙しくて全然追えてないんだよね。よかったら、どこまで話進んだか教えてくれない?」
「……え、月影くんも……こういうの、読むの?」
「うん。大好きだけど。ジャンル問わずゲームもアニメも大体いけるよ」
「ほ、本当!? ちょっと意外かも……」
「そう? で、あの伏線ってどうなったの?」
他人の目など全く気にすることなく、うみは階段に座ったまま身を乗り出してきた。
そこからのハジメの食いつきは早かった。
「実はね、前巻で主人公がようやく覚醒して……!」
「へえ、あの伏線やっと回収されたんだ。じゃああのヒロインの立場はどうなるの?」
嬉々として布教を始めるハジメと、それに的確な相槌を打つうみ。
クラスで孤立しつつあったハジメにとって、自分の趣味に真っ向から興味を持ってくれ、
周囲の空気を全く気にせず接してくれるうみの存在は、まさに砂漠のオアシスだった。
これが、この学校においてハジメにとって唯一の、そして最高の「オタク友達」が誕生した瞬間だった。
――それから数週間後の、週末。
「お邪魔します」
『うちにあるシリーズ全部貸すよ!』というハジメからの提案に乗り、うみは南雲家を訪れていた。
通されたハジメの自室は、漫画やゲーム、ライトノベルが所狭しと並ぶ、まさに『オタクの城』といった様相だ。
「うわすっご。うちの参考書とかと同じくらいある」
「えっ、参考書!? 月影くんってそんな勉強するタイプだったの!?」
普段の学校での「マイペースな不思議ちゃん」という姿からは想像もつかない発言に、ハジメは目を丸くしてツッコミを入れた。
「俺、結構頭いいんだよ? 高校の内容なら何の苦もないくらいには」
「そ、そっか……。とりあえず適当に座ってて。今お茶持ってくるから」
ハジメが部屋を出ていくと、うみはスッと黒い目隠しに手をかけた。
(もう外しちゃおう、これ。ここ数週間を視た感じ、南雲君には明かしても大丈夫そうだし)
「お待たせ、月影く……ッ!?」
お盆に麦茶を乗せて戻ってきたハジメは、目隠しを外したうみの素顔を見て、完全にフリーズした。
透き通るような白い肌、神秘的な蒼い瞳、完璧すぎる造形。
「ん。ありがとー」
「えっあ、うん……じゃなくてなにその顔!もはやアニメじゃん!! てかそれ外して大丈夫なの!?視覚過敏って……」
「ん? ああ、あれ? 嘘だよ、嘘」
あっけらかんと言い放つうみに、ハジメは二重の衝撃を受けた。
「う、嘘ォ!? てか、なんか性格も全然違くない!?」
「実はかくかくしかじかで学校じゃ『不思議君』演じてるんだよねー」
「それじゃ何にも伝わらないからね!?」
見事なノリツッコミを見せるハジメに、うみは楽しそうにクスクスと笑った。
「あはは。実はモデルやっててさー。Lunaって知ってる?」
「るな? いや、知らないけど……。それがどうかしたの?」
「だよねー。だから話してるんだけどさ。まあ結構な有名人だから、それ隠すためのキャラづくりってわけ
……というわけで、ここからは素でいくからよろしく」
「あ、うん……まさか友達がいろいろとすごい人だとは……」
頭を抱えかけるハジメに、うみはコテンと首を傾げて微笑んだ。
「あ、そうだ。これからは『ハジメ』って呼んでいい? 秘密も共有した仲だし。
俺のことも『うみ』でいいからさ」
「えっ……あ、うん。わかった、うみくん。……よろしく」
(……まあ、何が変わるわけでもないし、いっか)
その飾らない笑顔を見て、ハジメは深くため息をつきつつも、なぜか少しだけホッとしている自分に気がついたのだった。
バタン! と、その時勢いよく部屋の扉が開いた。
「ハジメー! お友達が来たって聞いたからお菓子持ってき、た…わ……!?」
入ってきたのは、ハジメの母親・南雲菫。
彼女は、部屋の中心で涼しげに笑っているうみの姿を見た瞬間、ピシッと石像のように硬直した。
そして、三秒後。
「愁さぁぁぁぁぁぁぁぁん!! ハジメが、うちのハジメが部屋に信じられないくらい可愛い女の子連れ込んでるぅぅぅぅぅぅ!!」
「ちょっ、母さん!? 違うって!! まって! こいつ男!!」
持っていたお菓子の皿をハジメに押し付け、菫は猛烈な勢いで廊下を駆け出し、父親の愁を呼びに行ってしまった。
「あああもう、絶対面倒くさいことになる……!」
「あはは。ハジメの家族、面白くていいね」
頭を抱えるハジメと、それを楽しそうに笑みを浮かべるうみ。
この日を境に、二人は互いを名前で呼び合う正真正銘の友人となり、うみは南雲家全体とも親交を深めていくこととなるのだった。
***
――さらに季節は進み、六月。
うみとハジメの「オタク同盟」は、クラスの中で奇妙な形で定着しつつあった。
「ハジメ。昨日貸してくれたゲームだけど、あの裏ボスのドロップ率おかしくない? 三時間周回して一個も出なかったんだけど」
「えっ、うみくんもうあそこまで進んだの!? 早くない!? ていうかあそこは装備の属性を固定して……」
昼休み、いつものように机をくっつけてマニアックなゲーム談義に花を咲かせる二人。
その空間だけが、周囲の殺伐とした空気から完全に切り離されている。
「南雲くん!おはよう!!」
そこへ、お弁当箱を持った香織が嬉しそうに小走りでやってきた。
途端に、教室内の一部の男子たちからの視線が、刃のように鋭く突き刺さる。
ハジメの胃がキリキリと音を立てる。
しかし、香織の視界には、ハジメの横で堂々とゲーム機を開いている絶世の美少年など一切入っていなかった。
「あ、おはよー白崎さん」
空気を全く読まないうみが、横からフラットに挨拶を投げかける。
「えっ? あ、月影くん……? おはよう」
不意に名前を呼ばれ、香織はようやくそこにうみが同席していることを認識した。
そんな香織の様子に、うみは少しだけ意地悪く目を細める。
「あー、やっぱり気づいてなかったんだー。ハジメー。白崎さんが俺のこと影薄いってー」
「えっ!? い、言ってないよ!? 月影くんごめんなさい! ちょっと南雲くんに話しかけるのに夢中で……!」
うみがわざとらしくハジメの肩に顔を埋めて泣きつくフリをすると、香織は慌てて両手を振って全力で否定した。
「白崎さんはハジメに夢中だってー」
「うみくん!? そこだけ切り取るのやめて!? 白崎さんも何でそこで赤くなって俯くの!?」
ヒロインの作り出す「二人だけのキラキラ空間」を強引に上書きし、謎のコントに持ち込む不思議ちゃん。
結果として、香織の暴走は一時的に方向転換し、それに巻き込まれたハジメの胃への負担は形を変え、
周囲からの殺気も呆れ混じりの困惑へと変わっていく。
(……うみくんのマイペースっぷり、マジで……ある意味一番タチが悪い……っ!
てかこれ演技なんだよね!? もしかして楽しんでる!?)
ハジメは内心で泣きそうになりながら、何とかこのカオスな空間をやり過ごすのだった。
――その日の放課後。
下校中、香織の件でいまだに胃の痛みを引きずっていたハジメは、隣を歩くうみに向かって深く深いため息を吐き出した。
「はぁ……マジでなんで白崎さんは、俺なんかにあんなに絡んでくるんだろうな……。おかげで生きた心地がしないよ」
「え? そりゃハジメのことが好きだからでしょ。見ればわかるじゃん」
何を当たり前のことを、とでも言いたげにコテンと首を傾げるうみに、ハジメはビクッと肩を揺らした。
「ぶっ!? な、何言って……! あるわけないだろ! 学年のアイドルが、
僕みたいな地味なオタクを好きになる要素なんてどこにもない!」
「えー。行動の端々から好意なんてダダ漏れなのに。まったく、ハジメはポンコツだなー。
もうちょっと周りの感情に敏感になった方がいいよ?」
もしこの場に、彼をよく知る高専の先輩たちや、先日の「シスコン発言」で限界突破した妹がいたならば、
間違いなく全員でドロップキックを叩き込んでいただろう。
『どの口が言ってんだ、はっ倒すぞ』の言葉とともに
自らに向けられるバカでかい感情や狂気じみた執着に一切気づかず、
ある意味で周りを振り回し続けている超絶天然鈍感男にだけは、絶対に言われたくないセリフである。
しかし、この場にうみの本領を知る者はいない
ゆえに……
「う、うみくんがそういう恋愛沙汰とか詳しい方が驚きだよ……」
「そう? 普通だと思うけどねー」
ハジメが疲れたようにツッコミを返すだけで、この理不尽な会話は流されていくのだった。
***
ある日の夜。
一人暮らしのマンションで、ハジメから借りた漫画を読みながら遅めの夕食をとっていたうみのスマホが震えた。
表示された名前は『瑞希』。ちらと時計に目をやると25時。
「……こんな時間に珍しい」
通話ボタンを押して応答する。
「もしもし、瑞希? どしたの?」
『あ……うみくん? 夜分ごめんね。今、ちょっとだけ話せる……?』
少しだけ沈んだ、けれど無理に明るく取り繕ったような声に、うみは漫画を閉じた。
「うん、いいよ。何かあった?」
『……ちょっとだけ、ね。怖くなっちゃって。今、ボクの周りにはすごく大切で、壊したくない場所があるんだけど……。
最近進級して、周りの環境とかも変わったじゃん? だからもしかしたら、その場所も変わっちゃうんじゃないかって思って。
ボクの『本当のこと』が知られて、みんな離れていっちゃうんじゃないかって。
もういっそ、全部知られる前に逃げちゃった方がいいのかな、なんて思ってさ』
瑞希の抱える、深くナーバスな『秘密』。
最近進級し、周囲の環境や関係性が変わっていく中で、瑞希の抱える不安はいよいよ限界に近づいているようだった。
それを聞いたうみは、ふむと頷いた後に、視線を窓の外に外した。
「……なるほどね。まあ、分からんでもない」
『うみくんもそういうのあるの?』
「大あり。学校じゃLunaってバレないために変なキャラ作ってるし、絶対人には言えないような秘密もあるし。……ちなみにそっちは妹も知らない」
呪術師としての日常。これは家族ですら知らない。
さらに言えば、彼には『妹どころか、この世の誰も知らない秘密』すらあるのだ。
「でもさ」
うみは、ひどく静かな、けれどあっけらかんとした声で言葉を紡いだ。
「逃げることまで考えてるなら、いっそ話しちゃえばいいんじゃない?
壊したくない場所って、絵名さんたちのことでしょ?
あの人たちなら何の問題もないと思うけど。……特に絵名さんは」
『……っ、うみくんに何が分かるのさ!』
少しだけ痛いところを突かれ、瑞希の声がわずかに刺々しくなる。しかし、うみは全く動じずにカウンターを放った。
「だって、俺のファンだよ?」
『へ?』
「しょっちゅう女の子みたいな恰好を世間に晒してる、俺のファンなんだよ?
なら、瑞希のことも普通に受け入れてくれるんじゃない?」
あまりにも斜め上からの論理展開に、瑞希は毒気を抜かれたようにポカンとする。しかし、すぐに弱々しく反論した。
『で、でもさぁ……それはうみくんが最初から公言してるからだよ。
ボクは、今までずっと隠してきたんだもん……きっと騙されたとか、気持ち悪いとか……』
「隠してきた理由までちゃんと話せば大丈夫だと思うけどなぁ。
あの人たち、その辺りを受け入れられないほど狭量じゃないでしょ」
『それは……そう、だけど』
「それに」
うみは、以前「Luna」として彼女たちと少し関わった時のことを思い出しながら、視た印象を口にした。
「あの人たち、揃いも揃って何かしら抱えてるでしょ? その辺は瑞希の方が詳しいと思うけどさ。
そういう人たちが他人の抱えてるものにどうこう言うとは思えないけどなぁ」
『……あははっ、何それ。身も蓋もないなぁ』
うみのあまりにもフラットで、しかし的確すぎる分析に、電話の向こうからようやく瑞希の柔らかな笑い声が聞こえた。
『でもそっか。……うん。もう少しだけ、考えてみる。……ありがとう、うみくん。ちょっと元気出た』
「どういたしまして。またいつでも愚痴くらい聞くよ。
……だからさ、そろそろモデルやらない? 切実に一緒に仕事する仲間が欲しいんだけど!!」
『あははっ! それとこれとは話が別だよーだ!』
通話を切った後、うみは少しだけ目を細めた。
(目に見えない呪いってのは呪霊よりよっぽど厄介だな……)
平和な世界で秘密を抱えて生きる友人の悩みに寄り添いつつ、うみは再び日常へと戻っていくのだった。
***
――そして、さらに数ヶ月が経過した七月。
一学期の終業式を目前に控えた、ある日の朝。
「どーん!」
「……っ! ぶふぇっ!?」
登校中のハジメの背中に、ドンッ!という衝撃と共に、軽い何かが乗っかった。
「おはよ、ハジメ」
「……おはよう、うみくん。あのさ、これ毎日やってるけど、流石に重いって言ってるよね?」
「うん、言われたね。でも仕方ないの。これは俺の日課だから……諦めて?」
「……理不尽すぎない? はぁ……ほら、ちゃんと捕まってないと落ちるよ」
文句を言いつつも、ハジメの手は自然とうみの足を支え、背負い直す。
周囲の生徒たちからの奇異の目など一切気にすることなく、もはやこれが彼らにとっての『日課』として完全に定着している証拠だった。
そして、昼休みの教室。
いつものようにハジメの席に椅子を持っていき、マニアックなゲーム談義に花を咲かせるうみ。
そこへ、恒例行事のように香織が嬉しそうに駆け寄ってくる。
さらにその後ろから、彼女の保護者役である八重樫雫と、このクラスの中心人物・天之河光輝が歩み寄ってきた。
「ごめんなさいね、南雲くん、月影くん。また香織が突っ走って」
「おはよー、八重樫さん。気にしないで。もう慣れたし、それにこういう時のハジメは面白い」
「面白がらないでよ……」
がっくりと項垂れるハジメを見て、雫はふと不思議そうな顔をした。
「……そういえば南雲くん。最近というか、先月くらいから香織に対する態度、少し変わったわよね? 前よりずっと……変に意識しているというか」
「ぶっ!?」
図星を突かれ、ハジメは盛大にむせた。
それもそのはず。一ヶ月前、隣で涼しい顔をしている『すべての元凶』から、
「行動の端々から好意なんてダダ漏れ」と身も蓋もない直球を叩き込まれて以来、
ハジメは香織の言動がいちいち気になってしまい、まともに直視できなくなっていたのだ。
「ふふふ。どうだろーね。でも……Xデーは近いかもね」
うみがしれっと茶化し、ハジメが顔を赤くして必死に取り繕おうとした、その時。
「相変わらず月影は南雲の世話をしているのかい? あんまりやりすぎると南雲のためにならないよ」
光輝が、一点の曇りもない眩しすぎる笑顔で割り込んできた。
どうやらここ数か月で光輝の中では、初日からずっと一緒にいるうみとハジメの関係は、
『優秀な転校生が、不真面目な生徒の世話を焼いてあげている』という、完全に間違った構図として解釈されているらしい。
香織がハジメに構うのも「優しいから」だと思い込んでいる彼らしい、正義感と重度の思い込みに溢れた言葉だった。
「でも、たまには俺たちと一緒に食べないか?」
光輝は、これまた純度100%の善意で、うみにそう提案してきた。
しかし、うみはその眩しさを前にしても全くペースを崩すことなく、コテンと首を傾げた。
「んー、ありがとう天之河くん」
まずは否定せず、フラットに言葉を受け止める。
そして、その直後にアクセルを全開に踏み込んだ。
「でもごめんね。ハジメは最近奇病にかかっちゃってね。俺と一緒にお昼食べないと、腕が腐り落ちちゃうんだ」
「…………は?」
光輝の眩しい笑顔が、ピシリと凍りついた。
「だ、だから、お昼は俺が一緒に食べて治癒してあげなきゃいけないから。また今度ね」
「うみくん!? 僕いつの間にそんな恐ろしい呪いにかかってたの!?」
あまりにも堂々としていて、あまりにも意味不明なセリフに対し、
光輝は驚いたように目を見開き、言葉を失って素直に引き下がった。
さしもの完璧超人・天之河光輝といえども、マイワールド全開のうみにはついていけなかったらしい。
「……相変わらず、すごい発想力ね。私には到底思いつかないわ」
呆れたようにため息をつく雫。
周囲からの殺気に胃を痛めるハジメ、それに全く気づかずに話しかける香織、
眩しい善意を振り撒く光輝、そしてそれを完全に自分のペースで躱すうみ。
そんな賑やかでカオスな日常の最中、うみのスマホがブルッと震えた。
画面を開くと、『シスコン・ブラコン同盟』のチャットグループに、
司から「今日の咲希の『おはよう、お兄ちゃん』も太陽のように眩しかったぞ!!」という熱量MAXの長文メッセージ(本日三回目)が届いている。
(ふふっ、相変わらず司さんはブレないな。……でも、うちの恵里だって負けてない)
うみは一切の迷いなく『尊い……』と即レスすると、
続けて、司に負けず劣らずの熱量と文字数を誇る『妹の尊さ』を普段持て余している語彙力を全開にして打ち込み、送信ボタンを押した。
その間、実に2秒。常人の目には、うみの親指が分身したようにしか見えなかった。
「……えっ?」
「な、なんて速さなの……!?」
真横で見ていたハジメと雫が、揃って驚愕の声を上げた。
「う、うみくん、いま指が……残像見えてなかった!? ていうかスマホから摩擦熱みたいな煙出てない!?」
「あんなに速く指を動かせるなんて……! まさか、どこかでピアノの修業を……?」
ゲーマーであるハジメですらドン引きするほどの『爆速フリック入力』。
雫に至ってはもはや魔法か何かを見たような顔をしている。
「? どうしたの?」
二人のツッコミと的外れな感心をよそに、うみは不思議そうに小首を傾げた。
ふと、うみは窓際で頬杖をつきながら、再び賑やかな教室全体を眺めた。
香織がハジメに嬉しそうに話しかけ、それを睨みつける男子たちの凄まじい殺気。
それに挟まれて胃を痛め、助けを求めるようにこちらを見るハジメ。
そして、友人たちと楽しそうに談笑している恵理。
(ほんと平和だねぇ……悟さんの無茶振りには呆れたけど、悪くないかな)
うみは内心で深く安堵し、ふわりと微笑んだ。
うみが「普通の青春」を満喫しているこの平穏があっさりと崩れ去るとは、知る由もなかった――
ようやく満足した。次から本編に戻ります