廻る世界、渡る魂   作:月影うみ

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造られた世界
平穏の終わり。そして異世界へ


九月。二学期が始まってまだ二週目の月曜日。

夏の名残を感じさせる蝉の鳴き声と、少しずつ涼しさを帯びてきた秋風が混ざり合う通学路を、うみは一人で駆けていた。

 

(朝から元気すぎでしょ……遅刻しそうなんだけど)

 

時刻はすでにホームルーム開始の十分前。いつもならすでに学校に着いているはずなのだが、今日はイレギュラーが発生していた。

登校中、立て続けに呪霊を発見してしまったのである。各々は三級~二級程度なのだが、今日は数が多い。

さすがに放置するわけにもいかないので、周囲に気づかれないように祓除してから登校を再開したのである。

 

何とかぎりぎりで学校へ到着し、昇降口を抜け、見慣れた校舎の廊下を歩いていると、教室の方から騒がしい声が聞こえてきた。

 

「よぉ、キモオタ! また、徹夜でゲームか? どうせエロゲでもしてたんだろ?」

「うわっ、キモ~。エロゲで徹夜とかマジキモイじゃん~」

 

聞こえる声は檜山大介をはじめとする、斎藤、近藤、中野の四人組のものだ。

通称『小悪党四人組』と呼ばれているグループである。

彼らの標的になっているのは、もちろん南雲ハジメである。

 

(あー……またやってる。少し目を離したらすーぐこれなんだから。……飽きないのかな?)

 

うみは内心で深くため息をついた。呪術界の狂気に比べれば平和なものだが、悪意の質としてはどこにでも転がっている低俗なものである。

さらに歩く速度を上げて教室に近づいていくと、今度は別の声が混ざってきた。

 

「南雲くん、おはよう! 今日もギリギリだね。もっと早く来ようよ」

 

白崎香織の甘ったるい声。それはそれはいい笑顔をしているだろうことが視えなくとも伝わってくる。

そしてハジメはまともに直視できずに顔を引き攣らせながら目を泳がせていることだろう。

 

その様子が容易に想像できて、うみの口元からふっと笑みがこぼれた。

そんな二人のやり取りのすぐ後から、呆れたような、それでいてどこか的外れな声たちが続く。

 

「南雲君。おはよう。毎日大変ね」

「香織、また彼の世話を焼いているのか? 全く、本当に香織は優しいな」

「全くだぜ、そんなやる気ないヤツにゃあ何を言っても無駄と思うけどなぁ」

 

香織の親友である八重樫雫と、クラスの中心人物である天之河光輝、そしてその親友の坂上龍太郎の声だ。

香織の純粋な好意、檜山たちからの悪意ある絡み、そして光輝からの的外れな正義感の押し売り。

ハジメの胃がキリキリと音を立てて痛んでいる光景が、扉の向こうにありありと浮かんだ。

 

(……さて、まあそんなことはどうでもいい。今日もやりますか)

 

教室の入り口に到達したうみは、そこで絡まれているハジメの姿を捉えた。

その正面には、ハジメを囲むようにして立つ光輝と龍太郎がいる。

そこまで確認してから、うみは一切の躊躇なく床を蹴った。

足音一つ立てずに、無防備な背中への突撃。

 

「どーん!!」

「……っ!? ぶふぇっ!?」

 

突然の衝撃にハジメがカエルが潰れたような奇声を上げた。

そして、背後からのダイナミックな突撃に耐えきれず、ハジメの体は前方へと大きくつんのめる。

その結果、真正面に立っていた光輝と龍太郎に、ハジメがもろにぶつかっていく形となった。

 

「うおっ!?」

「おわっ!?」

 

突然ハジメが突っ込んできたことで、巻き込まれた光輝と龍太郎がドンッと押されて体勢を崩し、たまらずよろめく。

転倒こそしなかったものの、先程までの空気をうやむやにしてかき消すには十分すぎたようだ。

 

「おはよ、ハジメ。今日はちょっと遅くなっちゃった」

「……お、おはよう、うみくん。だから、それ毎日言ってるけど……重いって……。あと、人にぶつかる……」

「仕方ないことだよ。諦めて」

 

もはや抵抗することすら諦めたようにため息をつくハジメの背中の上で、うみはマイペースに足をぶらぶらと揺らす。

すると、よろめきから体勢を立て直した光輝が、眉を吊り上げて抗議の声を上げた。

 

「月影! 急に何をするんだ!! 危ないだろう!」

 

光輝の言葉は、一般論として極めて正しい。

しかし、今のうみは学校用の『ゴーイングマイウェイモード』である。

即ち、我が道を行く自由人。そんな人間に正論などなんの意味もなさない。

 

「えー? だって、ハジメの前に立ってる天之河くんたちが悪いんだよ?」

「……は?」

 

あまりにも理不尽な反論に、光輝の表情がピシリと固まる。

当然だ。自分たちはただ入り口でハジメと話していただけなのだから。

 

「な、何言ってるんだ! 俺たちはただ入り口で南雲と話をしてただけで……!」

「だからね」

 

うみは、光輝の抗議をまるで聞こえていないかのように、ふんわりとした声で言葉を被せた。

 

「ハジメへの突撃は、俺の毎朝の大事な日課なの。るーてぃーん。

だから、その邪魔になる場所に立っていた、天之河くんたちが悪いんだよ。うん、間違いない」

 

 

「いや、間違ってるだろ!? なんだよその自己中心的な理屈は!?」

 

堂々たる謎理論の展開に、光輝が信じられないものを見るような顔で叫ぶ。

隣にいた龍太郎も「お、おう……なんかよく分かんねぇけど、月影が悪いんじゃねぇか?」と困惑し、香織はポカンと口を開け、雫は「相変わらずのマイペースね……」と呆れたように額を押さえた。

当の被害者であるハジメに至っては、胃の痛みこそ消えたものの、(なんて理不尽! あまりにも自由すぎる……!!)と内心で盛大なツッコミを入れている。

 

しかし、うみ本人は周囲の困惑など一切気に留めることなく、満足げにウンウンと頷きながらハジメの背で揺れているのだった。

 

そして朝の騒動から数時間が経過し、四時限目の終了を告げるチャイムが学校中に鳴り響いた。

途端に、静かだった教室が昼休みの活気に包まれる。

 

「ふぁぁ……終わったぁ……」

 

チャイムと同時に、それまで机に突っ伏して爆睡していたハジメがのそりと顔を上げた。

完全に授業を放棄していたハジメの前に、うみは自分の席からひょっこりと顔を出し、一冊のノートを差し出す。

 

「おはよー、ハジメ。はいこれ、授業ノート」

「んー。ありがと……って、うみくんまた僕の分までノート取ってくれてたの? 悪いよ、毎度毎度」

「ノンノン。ハジメの分しかとってないよ。高校の授業で新しく学ぶことなんて何もないし。

それに、こういうことしてないと暇で暇で死んじゃうから」

 

うみの脳の有する知識量は、すでに高校生のレベルを超えている。

そのため、授業中は専ら「寝ているハジメのために、要点を完璧にまとめた参考書レベルのノートを作成する」という暇つぶしを行っているのである。

 

普段であれば、ここで二人揃って教室を出て、人気のない屋上へ続く階段の踊り場などへ移動して昼食をとるのが日課だった。

しかし、今日は二人とも少しだけ油断していた。

 

「まあ、今日はここでいっか」

「そうだね。僕も今日はこれで済ませるし」

 

ハジメが鞄の中から取り出したのは、ゼリー飲料――通称『10秒チャージ』だった。

それを見たうみは、自分の鞄から取り出した彩り豊かで栄養バランスも完璧な自作のお弁当箱を開けながら、ジト目を向ける。

 

「あー! またそんなので済ませてー。ちゃんとお金は渡されてるでしょ? 菫さんに言っちゃうぞー」

「うっ……やめてよ、この間も母さんから『あんたちゃんと食べてるの!?』って怒られたばっかりなんだから。

ゲーム買うお金も浮くし、時間も確保したいし、これで十分なんだって」

「ほんっとダメダメだなぁ」

 

そんな他愛のない、気の置けないオタク友達としてのやり取りを交わしていた、その時だった。

 

「南雲くん。珍しいね、教室にいるの。お弁当? よかったら一緒にどうかな?」

 

教室の空気が、ピシッと固まった。

声の主は、学年のアイドルこと白崎香織。彼女がお弁当箱を手に、満面の笑みでハジメの席へと小走りでやってきたのだ。

途端に、教室中の男子たちからのどす黒い殺気が、ハジメの背中に突き刺さる。

 

「……ッ!」

 

そして何より、ハジメ本人の動揺が凄まじかった。

無理もない。一学期の終わりに、目の前でニコニコと弁当を広げている銀青髪の友人の所為で、

ハジメは香織の言動がいちいち気になってしまい、まともに直視できなくなってしまっているのだ。

 

「あ〜、さ、誘ってくれてありがとう、白崎さん。でも、僕もうこれ食べ終わっちゃったから……天之河くんたちと食べたらどうかな?」

 

ハジメは必死の抵抗として、ミイラのように中身を吸い尽くされた『10秒チャージ』のパッケージをヒラヒラと振ってみせる。断るのも周囲から反感を買いそうだが、このまま昼休み中ずっと針のむしろに座らされるよりはマシだという切実な判断だった。

 

しかし、女神にはその程度の抵抗など一切通じない。

 

「えっ!? お昼それだけなの!? ダメだよ、ちゃんと食べないと! 私のお弁当、分けてあげるね!」

「えぇっ!?」

 

全く引く気配のない純度100%の好意をストレートにぶつけてくる香織。

ハジメが顔を真っ赤にしてあたふたと目を泳がせる中、

うみは彩り豊かな自作弁当の卵焼きを頬張りながら、ニヤニヤと意地悪く口を挟む。

 

「これが世に聞く『愛妻弁当』ってやつ? 初めて見たな―」

「うみくん!? 急に何言うの!? 白崎さんも何でそこで頬染めてもじもじするの!?」

 

完全に出来上がっている二人の空間。

周囲からの嫉妬と殺意がさらに跳ね上がり、ハジメの胃が悲鳴を上げ始めた――その時である。

現状のハジメにとっての救世主が現れた。

 

「香織。こっちで一緒に食べよう」

 

そう。完璧超人・天之河光輝である。

凛とした声と共に、やってきた彼は、あたふたしているハジメを少しだけ冷ややかな、

それでいて「仕方ない奴だ」と見下すような目で一瞥し、香織に向かって爽やかに言い放つ。

 

「南雲はまだ寝足りないみたいだしさ。せっかくの香織の美味しい手料理を、寝ぼけたまま食べるなんて俺が許さないよ?」

 

光輝の中では、これは純粋な『正義』であり、香織を思いやる『優しさ』のつもりなのだろう。

しかし、少々の天然さを持ち、恋する乙女である彼女にはそんなセリフ程度では止まらない。

そして次の瞬間、天然少女の容赦ないカウンターが光輝を襲う。

 

「え? なんで光輝くんの許しがいるの?」

「……えっ?」

 

キョトンとした顔で、心の底から不思議そうに首を傾げる香織。

そのあまりにも素直で、一切の悪意がないゆえに鋭すぎる一撃に、光輝の爽やかな笑顔がピシリと凍りついた。

 

「お、おい香織……それはいくらなんでも……」

 

光輝の親友である龍太郎が、ポカンと口を開けて唖然とする。

その後ろで、一部始終を見ていた雫は、たまらず「ぷっ」と吹き出し、必死に笑いを堪えて肩を震わせていた。

 

「あはは。やっぱ面白いね、あの二人のやり取り」

 

うみはクスクスと笑いながら、雫と龍太郎に向かって楽しそうに話しかける。

 

「な、何が面白いんだよ月影……光輝が不憫じゃねぇか……」

「そう? でも、あの天然さん相手に自信満々で突っ込んで自爆だよ? ねぇ、八重樫さん?」

「ふふっ……ええ、そうね。光輝のあの顔、最高だったわ……っ」

 

笑いを堪えきれない雫と、呆気にとられる龍太郎、そして撃沈して白化している光輝。

カオス極まる状況の中、ハジメは(もう早く昼休み終わってくれ……!)と内心で深く、深く辟易していた。

 

――しかし、ハジメのその願いは、最悪の形で叶えられることとなる。

 

「……ん?」

 

突如、光輝の足元に純白に光り輝く円環と幾何学きかがく模様――俗に言う『魔法陣』が現れた。

その魔法陣は徐々に輝きを増していく。

 

(……呪詛師の強襲? それとも呪霊か?)

 

うみの意識が、呪術師としての思考へと切り替わる。

目隠しを少しずらして、『六眼』を使い空間の全情報をコンマ数秒で解析する。

 

(……呪術じゃない。全く未知の技術体系……!)

 

光は既に教室全体を覆いつくすほどに増している。

 

(かろうじて結界術の類であることは分かるけど……脱出は無理そう。……物理的に行くか?

いや、どうなるかさっぱりわからないから無しだな)

 

数秒にも満たない時間の中で、うみは現状を完全に把握し、そして『抗うことは不可能』という冷徹な結論を導き出した。

 

回避も破壊も不可能。ならば、次に取るべき最善の行動は何か。

うみは慌てることなく、即座にポケットからスマホを取り出した。

 

(せめて連絡は入れとこう)

 

連絡ツールを起動。連絡帳の上から二番目を選択し、『面倒ごと。しばらく連絡つかなくなるかも』とだけ入力し、送信。

 

送信完了の表示が出た直後、スマホの電波が完全に圏外へと切り替わった。

 

「皆! 教室から出て!」

 

未だ教室に残っていた愛子が声を上げると同時に、魔法陣の輝きが爆発したようにカッと光った。

 

(ああ……短い平穏だったなぁ)

 

真っ白な光に呑まれる中で、うみは静かに息を吐いた。

 

それから数秒か、数分か、光によって真っ白に塗りつぶされた教室が再び色を取り戻す頃、

そこには既に誰もいなかった。蹴倒された椅子に、食べかけのまま開かれた弁当、

散乱する箸やペットボトル、教室の備品はそのままにそこにいた人間だけが姿を消していた。

 

***

 

――次に視界が晴れた時、うみの目に飛び込んできたのは、見たこともない壮麗な壁画だった。

縦横十メートルはありそうなその壁画には、後光を背負い長い金髪を靡かせうっすらと微笑む中性的な顔立ちの人物が描かれていた。

そのあまりにも宗教的で、押し付けがましい「神々しさ」に、うみは内心で(趣味が悪いなぁ)と微かな気味の悪さを覚えた。

 

しかし、今はそれどころではない。

 

(……情報量が、多い)

 

うみは目隠し越しに、周囲の空間から流れ込んでくる『情報』の激流に眉をひそめた。

今までの人生の中で視えていた情報に加えて、呪力とは似て非なる、しかし確実に存在する未知のエネルギーが見て取れた。

大気中に満ちるそのエネルギーの濃度から、呪力よりは一般的なものであることが伺える。

 

(ひとまず地球ではないことだけは分かる。こんなのなかったし。

……それにしてもこれ、目隠し外したら、慣れるまでしんどいんじゃない?)

 

かつて六眼が開眼した際、情報過多で倒れた幼少期の苦い記憶。

そして、脳が慣れるまでの目隠し生活が蘇り、うみはそっと目隠しの位置を調整した。

 

「うみくん……これは、いったい……?」

 

隣から、困惑しきったハジメの声が聞こえ、うみは思考の海から現実へと意識を戻す。

見下ろせば、自分たちが立っている石造りの巨大な台座――祭壇のような場所の周囲に、

ファンタジーのRPGでしか見ないような、神官や僧侶といった出で立ちの集団が控えていた。

彼らは一様に、うみたちを見て歓喜に打ち震え、中には涙を流して祈りを捧げている者すらいる。

 

「……まあ、テンプレってやつじゃない?」

 

うみが呆れたようにそう答えた直後、集団の中から豪奢な祭服を纏った一人の老人が進み出た。

 

「ようこそ、トータスへ。勇者様、そしてご同胞の皆様。歓迎致しますぞ。

私は、聖教教会にて教皇の地位に就いておりますイシュタル・ランゴバルドと申す者。以後、宜しくお願い致しますぞ」

 

そう言って、イシュタルと名乗った老人は、好々爺然とした柔和な微笑を見せた。

しかし、その笑顔を見た瞬間。

うみの脳裏に『旧呪術総監部のジジイ共』――五条悟曰く『腐ったミカン』――の顔がフラッシュバックした。

 

(……どう見ても同類(あっち側)だな。いや宗教関係な分こっちのが厄介か?)

 

うみは表面上はポーカーフェイスを崩さず、内心でそっと警戒レベルを一段階引き上げた。

 

***

 

その後、混乱する生徒たちや愛子をイシュタルが宥め、一行は教会の奥にある巨大な一室――晩餐会などを行うであろう豪奢な広間へと案内された。

全員が長いテーブルに着席し、落ち着かない様子で周囲を見回していると、扉が開き、カートを押した数名のメイドたちが入ってきた。

銀製のポットやグラスを手際よくテーブルに並べていくメイドたち。

 

当然のように、クラスの男子たちの大半(オタクであるハジメを含む)が、本物のメイド姿に釘付けになった。

そして、それに気づいた女子たちから、氷点下の冷ややかな視線が一斉に突き刺さる。

ハジメも、少し離れたところに座っている香織からの「ニコニコしているのに全く笑っていない」凄絶な視線に気づき、ヒッと喉を鳴らして目を逸らした。

 

(ハジメ……骨は拾ってあげるから)

 

うみはそんな光景を眺めながらも、メイドたちの動きをつぶさに観察していた。

 

(姿勢・手際、その他もろもろ……本職じゃないどころか素人でしょこの人たち。ハニトラかぁ……露骨だなぁ)

 

そんなうみの冷徹な分析をよそに、上座に座ったイシュタルが、重々しく口を開いた。

 

「さて、あなた方においてはさぞ混乱していることでしょう。一から説明させて頂きますのでな、まずは私の話を最後までお聞き下され」

 

そこから始まったイシュタルの説明を、うみは極めて冷静に脳内で要約していく。

『ここはトータスという異世界』。

『人間族と魔人族という種族が戦争中であり、人間族は劣勢』。

『人間族が信仰するエヒト神という存在が、自分たちを「救世主」としてこの世界に召喚した』。

 

(要するに……人類、やばい、助けてってことか。どこまでもテンプレだなぁ……台本でもあるのか?

……にしてもこの妄信的な空気、高専の記録にあった『盤星教』とかいうカルト集団にそっくりだ)

 

うみは紅茶を一口啜り、呆れたように結論を出す。

うみが(さてどうしたもんか)と思考を回していると、突然立ち上がり猛然と抗議する人が現れた。

 

「ふざけないで下さい! 結局、この子達に戦争させようってことでしょ!

そんなの許しません! ええ、先生は絶対に許しませんよ! 私達を早く帰して下さい!

きっと、ご家族も心配しているはずです! あなた達のしていることはただの誘拐ですよ!」

 

我らがマスコット、畑山愛子である。

百五十センチ程の低身長に童顔、ボブカットの髪を跳ねさせながら、

理不尽な召喚理由に怒りを滲ませながら立ち上がるその姿に、生徒一同ほんわかした気持ちになっていく。

 

しかし、そんな空気も次のイシュタルの言葉に凍りついた。

 

「お気持ちはお察しします。しかし……あなた方の帰還は現状では不可能です」

 

場に静寂が落ちる。その場の誰もがイシュタルの口から紡がれた事実を咀嚼しきれていない様子だ。

誰もが何を言ってるんだという表情でイシュタルを見やる。

 

「ふ、不可能って……どういうことですか!? 喚べたのなら帰せるはずでしょう!?」

 

愛子が叫ぶも、イシュタルはやれやれといった様子で頭を振りながら答える。

 

「先程申しました通り、あなた方を召喚したのはエヒト様です。

我々人間に異世界に干渉するような魔法は使えませんのでな、

あなた方が帰還できるかどうかもエヒト様の御意思次第ということです」

「そ、そんな……」

 

愛子が脱力したようにストンと椅子に腰を落とす。

それを皮切りに生徒たちの間にパニックが広がった。

泣き叫ぶ女子、怒鳴り散らす男子。広間は一瞬にして絶望と喧騒に包まれる。

 

そんな阿鼻叫喚の中、うみは隣で青ざめているハジメの肩をちょんちょんと突き、極めて小声で囁いた。

 

「ねぇねぇ。エリートオタクのハジメくん的にはさ、この展開って上から何番目くらいの未来?

俺は3、4番目くらいだと思うんだけど」

「……えっ? あー……そうだね、僕もそれくらいだと思う。

最悪の場合、到着した瞬間に首輪つけられて奴隷落ち……なんてパターンもあったわけだし」

 

異世界召喚という異常事態の中、メタ的な視点で状況を分析する二人。

オタク知識という強靭なメンタルガードのおかげで、彼ら二人の精神状態は驚くほど冷静だった。

 

未だパニックが収まらない中、光輝が立ち上がりテーブルをバンッと叩いた。

その音にビクッとなり注目する生徒達。光輝は全員の注目が集まったのを確認すると、おもむろに話し始めた。

 

「皆、ここでイシュタルさんに文句を言っても意味がない。彼にだってどうしようもないんだ。……俺は、俺は戦おうと思う」

 

光輝の真っ直ぐな声が、広間に響き渡る。

 

「この世界の人達が滅亡の危機にあるのは事実なんだ。それを知って、放っておくなんて俺にはできない。

それに、人間を救うために召喚されたのなら、救済さえ終われば帰してくれるかもしれない。……イシュタルさん? どうですか?」

「そうですな。エヒト様も救世主の願いを無下にはしますまい」

「俺達には大きな力があるんですよね? ここに来てから妙に力が漲っている感じがします」

「ええ、そうです。ざっと、この世界の者と比べると数倍から数十倍の力を持っていると考えていいでしょうな」

 

イシュタルの言葉に、光輝はギュッと握り拳を作った。

無駄に歯がキラリと光るような、主人公特有のオーラを放ちながら、彼は力強く宣言する。

 

「うん、なら大丈夫。俺は戦う。人々を救い、皆が家に帰れるように。俺が世界も皆も救ってみせる!!」

 

同時に、彼のカリスマは遺憾なく効果を発揮した。

絶望の表情だった生徒達が活気と冷静さを取り戻し始めたのだ。

光輝を見る目はキラキラと輝いており、女子生徒の半数以上は熱っぽい視線を送っている。

 

「へっ、お前ならそう言うと思ったぜ。お前一人じゃ心配だからな。……俺もやるぜ?」

「龍太郎……」

「今のところ、それしかないわよね。……気に食わないけど……私もやるわ」

「雫……」

「え、えっと、雫ちゃんがやるなら私も頑張るよ!」

「香織……」

 

いつものメンバーが光輝に賛同し、後は当然の流れというようにクラスメイト達が次々と賛同していく。

愛子先生はオロオロと「ダメですよ〜」と涙目で訴えているが、光輝の作った熱狂的な流れの前では完全に無力だった。

 

(全くこの子らは……自分たちが何言ってるか本当に分かってんのかな?)

 

うみは紅茶のカップを置きながら、冷めた目でその狂騒を眺めていた。

 

(まあいいや。可哀想な愛子先生は、後でこっそり慰めてあげよう)

 

「よし、みんな! 一緒にこの世界を救おう!」

「おおーっ!」

 

光輝の掛け声で、クラスの意思が『戦争参加』へと完全に統一されようとした――その時だった。

 

「はいはーい! しつもーん!!」

 

空気を全く読まない、間延びした明るい声が広間に響き渡り、クラスの熱狂に冷水をぶっかけた。

全員の視線が、挙手をしたままコテンと首を傾げているうみへと集中する。

 

「……なんだい、月影くん? 今は大事な話の最中なんだが」

「うん、だからだよ。ちょっとイシュタルさんにいくつか確認したいことがあって」

 

光輝の咎めるような視線をさらりと受け流し、うみは上座のイシュタルへと向き直った。

 

「一つ目。俺たちの衣食住の保証はどうなってるの?

まさか『世界を救ってね、でも自分たちの生活費は自腹で稼いでね』なーんてことはないよね?」

「ええ、もちろんですとも。勇者様方の当面の生活、ならびに今後の活動における物資の支援は、

当教会と王国が全面的に保証いたしますぞ。最初からそのように手配しております」

「そ。ならいいや。無一文で放り出されたらたまんないからね」

 

うみは一つ頷くと、立てていた指を二本に増やした。

 

「で、二つ目。俺たちが実戦に投入されるまでの『準備期間』はどれくらい用意されてるの?」

「準備、ですか?」

「うん。あのね、さっき天之河くんたちは威勢よく宣言してたけど、

ここにいるのは戦争どころかまともな喧嘩すらしたことないくらいに平和ボケした子供なの。

そんな素人集団、たとえ力があろうと何の訓練もなしに役に立つとは思えないんだよねぇ」

 

うみの遠慮のない指摘に、クラスメイトたちの何人かがハッとして顔を見合わせる。

熱狂に隠されていた『実戦』というリアルな現実を突きつけられ、空気が少しだけ冷えた。

 

「……なるほど。確かにその通りですな」

 

イシュタルは何度か頷き、宥めるように微笑んだ。

 

「ですがご安心を。もちろん、皆様には実戦に出る前に、王国騎士団による基礎的な戦闘訓練を受けていただくよう、

既に計画をご用意しております。期間については、個々の成長度合いを見て判断する形になりましょう」

「ふーん。期間が明言されてないとこは、うみくん的にポイント低いけど……まあ、いいや。

じゃあ、次で最後。これは質問っていうか、お願いなんだけど」

 

うみは一度言葉を切り、広間全体を見回すように顔を向けた。

 

「この戦争への参加は、あくまで『当人の自由意志』を尊重してほしい」

 

その言葉に、イシュタルはあからさまに難色を示した。

「……それは。皆様はエヒト様に選ばれた救世主であり、使命が――」

「いや、待ってくれ月影!」

 

イシュタルの言葉を遮るように、光輝が立ち上がった。

「みんなでこの世界に呼ばれたんだ。みんなで協力して戦って、みんなで一緒に帰るべきだろ! 誰か一人でも欠けちゃダメだ!」

「んー。天之河くんの言いたいことも分かるんだけどさ」

 

うみは全く悪びれることなく、淡々と反論する。

 

「根本的に、争い事に向いてない人間っていうのはいるものだよ?

そういう子を無理やり戦場に引きずり出しても、足手まといになるだけだよ。

だったら、戦いたくない子は無理させず、安全な後方で物資の管理とかの支援に回ってもらった方が、

全体として圧倒的に『合理的』だと思うんだけど?」

 

「それは……」

ぐうの音も出ない正論。戦力としての適材適所を説くうみの言葉に、光輝は反論の言葉を詰まらせた。

イシュタルも、これ以上強要すれば反発を招くと判断したのか、

「……分かりました。前線に出るか否かは、皆様の意思を尊重しましょう」と渋々頷いた。

 

「イシュタルさんへの質問とお願いはこれでおしまい」

 

うみは満足げに頷くと、今度はクラスメイト全員――特に、先ほど威勢よく立ち上がっていた光輝たちへと顔を向けた。

 

「じゃあ、次は『みんな』への質問ね。――君たち、『人を殺す覚悟』はあるの?」

 

ピタリ、と。

広間の空気が、文字通り凍りついた。

誰もが絶句し、うみの発した言葉の意味を脳内で処理できずに固まっている。

いや、言葉の意味だけではない。彼らが息を呑んだのは、その言葉を発したうみ自身の『空気』が劇的に変貌していたからだ。

 

いつも教室で見せていた、ふわふわとした掴みどころのない雰囲気。人を食ったような、ふざけたマイペースさ。

それらが一切削ぎ落とされている。

 

数秒の重い沈黙の後、真っ先に意識を取り戻した光輝が、弾かれたように声を荒らげた。

 

「い、いきなり何を言ってるんだ月影! 人を殺す覚悟なんて、あるわけないだろ!!」

「ふーん」

 

うみはつまらなそうに相槌を打ち、さらに畳み掛ける。

 

「じゃあ、『死ぬ覚悟』は?」

「いい加減にしろ!! どっちもあるわけないだろ!!」

 

激昂する光輝。周囲のクラスメイトたちからも、「なんでそんな恐ろしいこと言うの……」と怯えたような声が上がる。

しかし、うみはそんな彼らの反応を見て、心底不思議そうに首を傾げた。

 

「なんで?」

「……は?」

「だからぁ、『なんで?』って聞いてるの。君ら、今さっき宣言したばっかじゃん」

 

「せ、宣言……?」

光輝が呆然と聞き返す。

 

「うん、そう。『頑張って殺し合いしまーす!』ってさ」

うみは、さも当然の事実を確認するように、あっけらかんと言い放った。

 

「ち、違う! 俺たちは世界を救うために戦うって……!」

「だから、戦争するんでしょ?」

うみの冷たく、感情の欠落した声が、光輝の反論を鋭く切り裂いた。

 

「相手が人間であれ魔人であれ、言葉が通じる意思を持った生物と殺し合う。

それが戦争だよ。子供の喧嘩やヒーローごっことはワケが違う」

 

うみから放たれるのは、呪術師としての圧倒的な死生観と、死線を潜り抜けてきた者の凄み。

それは、平和な日本で育った高校生たちにとって、あまりにも冷酷で、重い刃だった。

 

「……戦争に行くってことは、敵を殺すか、自分が死ぬかの二択を強要されるってことだよ。

そのどっちの覚悟もないのに戦場に出るなんて、ただの自殺志願者だよ。……ねえ、本当に分かってて言ってる?」

 

反論できる者は、誰一人としていなかった。

その圧倒的な雰囲気を前に、光輝ですらワナワナと唇を震わせながら、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

 

***

 

うみから冷酷な正論を突きつけられたものの、現状を打破する別の手段を持っているわけでもない。

結局のところ、彼らは光輝の言葉に縋るように、あるいは流されるようにして、その大半が戦争への参加を受け入れることとなった。

 

戦争参加の決意をした以上、生徒たちは戦いの術を学ばなければならない。

いくら潜在的に規格外のステータスを持っていると言っても、

昨日まで平和な日本で生きていた高校生がいきなり実戦で魔物や魔人と戦うなど不可能だ。

 

しかし、その辺りの事情は当然教皇側も予想していたらしく、イシュタル曰く、

この聖教教会本山がある『神山』の麓の『ハイリヒ王国』にて受け入れ態勢が整っているという。

ハイリヒ王国は聖教教会と密接な関係にあり、創世神エヒトの眷属が建国した最も伝統ある国とのことだ。

 

一行は神山の頂上にある聖教教会の正面門を抜け、下山のために巨大な白い台座へと案内された。

門を潜ると、そこには見渡す限りの雲海が広がっていた。

 

「うわぁ……すごい絶景……」

「ここ、こんな高い山の上だったのね……」

 

生徒たちが太陽の光を反射して煌めく雲海に目を奪われる中、

 

イシュタルが「彼の者へと至る道、信仰と共に開かれん――〝天道〟」と詠唱した。

すると、足元の巨大な魔法陣が燦然と輝き出し、台座はロープウェイのように滑らかに斜め下へと降下を始めた。

 

初めて見る明確な『魔法』に生徒たちが歓声を上げる中、うみの隣に立つハジメが、周囲に聞こえないような小声で話しかけてきた。

 

「……うみくん」

「んー?」

「さっきは驚いたよ。……なんか学校とも学校外とも違う雰囲気でさ

でも、うみくんが言ってくれなかったら、僕も何も考えずにあの雰囲気に流されてたかもしれない。……ありがとう」

 

ハジメは、先ほどの広間でのうみの問いかけを反芻し、自身の甘さを痛感したようだった。

しかし同時に、うみの言葉のおかげで最悪の事態を想定できたことで、この理不尽な状況でどう動くべきか、

彼なりに思考をまとめ、腹を括ったような少し引き締まった表情を浮かべていた。

 

「別に。ああいうところははっきりさせときたかっただけ。

覚悟も無しに戦場に出られて、こっちが巻き添え食って死ぬのは御免だから」

「あはは……うみくんって、時々すごく達観してるというか、大人びてるよね」

 

そんな他愛のない、しかしこの状況下では極めて冷静なやり取りを交わしていると、やがて台座は雲海を抜け、眼下には山肌からせり出すように建築された巨大な王都が見えてきた。

ハジメは、その雄大な景色を見下ろしながらポツリとこぼした。

 

「……雲海を抜け、天より降りたる『神の使徒』、か。すごい演出だね。これじゃあ、教会の人間が神聖視されるわけだ」

「そうだね。完全に宗教が国家の根幹に食い込んでる。政治と宗教が密接に結びついた狂信国家。

……まあ、一神教な時点でろくなことにならないだろうけど」

 

ハジメが戦前の日本の歴史などを思い出し不安を覚える中、うみはよりシビアな、それこそ呪術界の『旧呪術総監部』や『盤星教』といった腐敗した組織を連想しながら、この世界への警戒心をさらに強めていた。

 

やがて王宮に到着した一行は、教会に負けないほど煌びやかな廊下を進み、玉座の間へと案内された。

レッドカーペットの奥、玉座の前で待っていたのは、覇気と威厳を纏った初老の男――国王エリヒドと、王妃ルルアリア、

そして金髪碧眼のランデル王子とリリアーナ王女だった。

 

うみは集団の最後尾近くでハジメと共に歩きながら、最前列のやり取りを観察する。

教皇イシュタルが歩み出ると、国王は恭しくその手を取り、軽く触れない程度のキスをした。

 

(へぇ……王様より教皇の方が立場が上なのか。完全に『神』の威を借る宗教が国を支配してるんだな)

(うわぁ、王様より神仕えが上って……ほんっとうに禄なことにならないでしょ)

 

ハジメとうみが、それぞれ全く異なる背景を持ちながらも、全く同じ呆れと不安を内心で抱いていた。

その後は、王族や騎士団長、宰相といった重役たちの自己紹介が続いた。

途中、ランデル王子が香織の美貌に吸い寄せられるようにチラチラと視線を送っており、

うみがニヤニヤとハジメをからかい、ハジメが胃を痛めるという一幕もあったが、謁見自体は滞りなく終了した。

 

***

 

謁見の後、場所は豪華な大広間へと移され、生徒たちと王国の重役、

そして明日から訓練をつけてくれる騎士団の面々との親睦を深めるための晩餐会が開かれた。

 

広間の中央では、光輝を中心に生徒たちが騎士たちと談笑し、今後の希望に胸を膨らませている。

しかし、うみはそんな輪には加わらず、広間の隅で一人、グラスに注がれた果実水を揺らしながら思考の海に沈んでいた。

 

(さて、これからどう動くか。……ハジメや恵理には話しておいた方がいいのかな。呪術のこと……)

 

自分が『普通』ではない、血と呪いに塗れた異常な世界側の人間であることは、うみ自身が誰よりも理解している。

せっかく築けた彼らとの心地よい関係性を、自分の口から全てを明かすことで壊してしまうのではないか。怯えられ、距離を置かれてしまうのではないか――そんな、彼らしからぬ人間臭い迷いが胸の内に渦巻いていた。

 

そんな思考の海に沈んでいたうみの耳に、ふと、控えめな足音が近づいてくるのが聞こえた。

 

「あの……。どうして、お一人でいらっしゃるのですか?」

 

かけられた鈴を転がすような可憐な声。

思考に沈んでいたうみが反応に一瞬遅れると、声の主は少し慌てたように言葉を継いだ。

 

「あ、えっと……皆さんが楽しそうにしている中、お一人だったので、少し気になってしまって……」

 

うみが顔を上げると、そこには十四、五歳ほどの金髪碧眼の美少女――先ほどの謁見で紹介された、リリアーナ王女の姿があった。

広間の隅で、他の『救世主』たちとは明らかに異質な空気を纏い、

黒い目隠しと銀青の髪という一際目を引く容姿で静かに佇むうみの存在が、彼女の好奇心と生来の人の良さを刺激したのだろう。

 

「お気遣いありがとうございます、リリアーナ王女殿下。

少し疲れてしまっただけですよ。人混みはそんなに得意ではないので」

 

「あ、どうか、リリィとお呼びください。

それに、言葉遣いも普通で構いませんわ。皆様は世界を救ってくださる救世主様なのですから」

「それじゃあ、お言葉に甘えて。……なら、俺のことも『うみ』でいいよ。敬語も様付けもなしで」

「えっ、でも……」

「俺も堅苦しいのは苦手だからさ。ね?」

 

うみは、周囲のクラスメイトたちの視線がこちらに向いていないことを確認すると、

そっと目隠しをずらし、宝石のような蒼い瞳を片目だけ覗かせてふわりと微笑んだ。

 

(……ッ!……片方だけでも結構きついな)

 

一瞬だけ脳を殴りつけた異世界の過剰な情報量に、内心で僅かに顔を顰める。

しかし表面上はそんな素振りを一切見せず、完璧な笑みを保ち続けた。

 

対するリリアーナは、うみの内心に気づく様子もなく、突如として顕になった宝石のような蒼い瞳と、

神々しいまでの美貌に完全に目を奪われ、ぽかんと口を開けたまま言葉を失っていた。

どうやら、直に見るそのあまりにも人間離れした整った容貌と、優しげな微笑みの破壊力は異世界においても抜群の効果を発揮するらしい。

やがてリリアーナは、ボフッと音がしそうなほど一瞬で顔を赤く染め、ふるふると首を横に振った。

 

「む、無理ですっ……! 敬語を外すのは、その、もう少し慣れるまでお待ちください……っ。

そ、その、よろしくお願いします、うみ……さん」

「さん、も要らないんだけどなぁ。まあ、これが精一杯か。いいよ、ゆっくり慣れていけば。

それと、好都合なことに、実はリリィと話してみたかったんだよね」

「私と、ですか?」

 

うみは素早く目隠しを元の位置に戻しつつ、先程の迷いを胸の奥にしまい込み、『呪術師』としての月影うみへと頭を切り替えた。

柔らかく、人を安心させるような笑みを浮かべる。相手が王女であろうと、彼のフラットな態度は変わらない。それが逆に、窮屈な王宮暮らしをしているリリアーナにとっては新鮮に映った。

 

「うん。リリィは、この世界の『神話』や『童話』、それに古い『伝承』なんかに詳しかったりする?」

「神話や、童話……ですか?」

 

予想外の質問に、リリアーナは目を丸くする。

「ええ、まあ……王族の嗜みとして一通りは学んでおりますし、個人的にも古い文献を読むのは好きですが……」

「それはよかった。実を言うと、俺もそういう昔話や伝承を調べるのが好きでさ」

 

うみがそういう話を持ち出したのには、明確な理由がある。

 

呪術界においてもそうだが、古くから伝わる神話や童話、伝承というものは、単なる作り話ではなく、

その世界の根幹を成す『真理』や『魔法(術式)のルーツ』、

あるいは隠された歴史の事実が暗号のように組み込まれていることが非常に多いのだ。

図書室にあるような表向きの歴史書よりも、よほど有益な『情報』の宝庫になり得る。

 

「そこで、リリィに一つ取引を持ちかけたいんだけど」

「と、取引、ですか?」

「うん。リリィが知っているこの世界トータスの神話や童話を、一日に一つ、俺に教えてくれない? その代わり――」

 

うみはスッと顔を近づけ、声を少しだけ潜めて囁いた。

 

「俺からは、俺たちのいた場所――『地球』の神話や童話を、一日に一つ、お話しするよ。……見たこともない別の世界の物語、興味ない?」

 

「……っ!」

リリアーナの碧い瞳が、パァッと輝いた。

娯楽が少なく、毎日が規律と勉学に縛られた王宮の少女にとって、それは宝石箱を開けるような、あまりにも魅力的な提案だった。

それに加え、目の前の美しい少年から内緒話のように持ちかけられたことで、彼女の心臓は少しだけ早く跳ねていた。

 

「き、聞きたいです……! ぜひ、私でよければお話しさせてください!」

「交渉成立だね。それじゃあ、明日からよろしくね。時間は……明日にならないといつが空くかわかんないや」

「でしたら、ヘリーナ……私の専属の侍女をそっと向かわせますわ。彼女を通して、お互いの都合の良い時間を合わせましょう」

「お、それ助かる。さすがリリィ、話が早いね」

「ふふっ。はいっ! よろしくお願いします、うみ……くん!」

 

無自覚なタラシスキルを遺憾なく発揮し、王国の姫君という最高の『情報源』をあっさりと確保したうみは、満足げに微笑んだ。

 

***

 

リリアーナと別れ、広間を適当に歩いていたうみは、柱の陰で小さくなっている人物を見つけた。

 

「愛子先生? 何やってるんですか? こんなとこで……」

「あ、月影くん……」

 

うみが声をかけると、愛子はシュンと肩を落とした。

 

「私、先生なのに……みんなが戦争に行くって言うのを、止められませんでした。

大人の私がしっかりしなきゃいけないのに……」

 

今にも泣き出しそうな愛子を見て、うみは少しだけ目を細めた。

先ほどの広間での狂騒。正義感・使命感という言葉に踊らされ、戦争という現実から目を背けていた生徒たち。

その中で、現実を正しく理解しているうみを除けば、

ただ一人まともな危機感を持ち、大人の責任として彼らを危険から遠ざけようと必死に声を上げていたのは、

この教師だけだった。

 

「……先生はよくやってますよ」

 

うみは、周囲の視線を気にしつつも、ポン、と極めて自然な動作で、愛子の頭に手を置いた。

 

「えっ……?」

「人間っていう生き物は基本的に空気に流されるものなのに、

先生は、あの空気の中で大人の責任として真っ当に俺たちを守ろうとしてくれた」

 

ポン、ポン、と。

年上の教師の頭を、まるでよくできた妹を褒めるかのように優しく撫でる。

 

「だから、そんなに落ち込まないでください。先生には、先生にしかできないことがあるはずだから。ね?」

「あ、ぅ……っ」

 

黒い目隠し越しでも分かる、優しく穏やかな微笑み。そして、頭を撫でる温かい手。

生徒相手に甘やかされているという状況に、愛子のキャパシティは一瞬で限界を突破した。

 

「~~~~~っ!! ど、努力しますぅっ!!」

 

ボッ! と顔を真っ赤にして湯気を噴き出した愛子は、両手で顔を覆ってしゃがみ込んでしまった。

うみは(やっぱりこの先生は面白いなぁ)と内心でクスクスと笑いながら、満足してその場を離れたのだった。

 

***

 

晩餐会がお開きになり、生徒たちはそれぞれ割り当てられた王宮の客室へと案内された。

部屋は基本的に同性での二人一部屋となっており、うみは当然のようにハジメと同室になった。

 

「ふぅー……疲れたぁ……」

 

豪華な天蓋付きのベッドにダイブし、ハジメが深い深いため息を吐き出す。

 

「お疲れ様、ハジメ。今日は本当に色々ありすぎたね」

「本当だよ……。ねえ、うみくん。僕たち、これからどうなるのかな。本当に戦争なんかして、生きて帰れると思う……?」

 

ハジメが不安げな視線を向けてくる。しかし、うみは自分のベッドに腰掛けると、軽く手で制した。

 

「ハジメ。その相談は、明日にしよう。明日、『もう一人』を交えてからね」

「もう一人?」

「うん。秘密の共有や今後の方針は、関係者全員が揃ってからの方がいいでしょ?」

 

うみが言っている『もう一人』が誰なのか、ハジメには見当もつかなかったが、うみがそこまで言うなら従うしかないと頷いた。

 

「それよりハジメ。俺、ちょっと『実験』するから、もし俺が倒れても慌てて騒がないでね」

「えっ? 実験? 倒れるって……どういうこと!?」

 

ハジメが慌てて身を起こす中、うみはゆっくりと、黒い目隠しに手をかけた。

召喚されてからここまで、ずっと目隠し越しの制限された視界で過ごしてきた。

しかし、これから先、戦うことがあるというのなら、このままでいるわけにはいかない。

 

「すぅぅ……っ」

 

小さく深呼吸をし、うみは一気に目隠しを外した。

――その瞬間。

 

『■■■■■■■■■■――ッッ!!!』

 

言語化不可能な『情報』の激流が、うみの脳髄を直接殴りつけた。

大気中に満ちる濃密な力の奔流。建物を構成する未知の鉱物の複雑な分子配列。重力のわずかな差異。空間に漂う微細な素粒子の動き。

地球にはない物理法則とエネルギー体系の『すべて』が、視界から脳へと流れ込んでくる。

 

「っ……! あ……ッ!!」

「うみくん!? どうしたの!?」

 

脳の処理限界に達し、視界が白く焼け焦げるような感覚に陥ったうみは、

意識が飛ぶギリギリのところで、手で両目を覆い隠し、強引に目隠しを元の位置へと引きずり下ろした。

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……っ!」

「う、うみくん! 大丈夫!? 人呼んでこようか!?」

 

ベッドの上で肩で息をしながら冷や汗を流すうみに、ハジメがパニックになって駆け寄る。

うみは片手を軽く上げながら、かすれた声で答えた。

 

「だ、だいじょうぶ。ほんと。ちょっと脳みそが限界迎えただけで……。

ははっ……やっば。……あの時ほどじゃないけど、普通にしんどい……」

「脳みそが限界って……目隠し外しただけでなんでそんなことになるのさ!?」

 

ハジメに問い詰められるも、脳がガンガンと鐘を鳴らすように痛むうみは、もう説明する気力すら残っていなかった。

 

「……だから、詳しい話は明日ね。今日はもう、寝る。おやすみー……」

 

うみはそのままベッドにバタリと倒れ込み、強制的に意識をシャットダウンして眠りについた。

残されたハジメは、爆睡し始めた親友を見下ろし、「……ほんっと、自由すぎでしょ、うみくん……」と、

異世界に来て初めて、心の底からの呆れたツッコミを入れるのだった。

 

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