王城の長い廊下を歩くハジメの足取りは、ひどく重かった。
「はぁ……憂鬱だ……」
思わず漏れたため息が、静かな石造りの廊下に溶けていく。
異世界トータスに召喚されてから、およそ二週間。
ハジメとうみは、メルド団長との『交渉』により、普段は地下の工房で本職の鍛錬(という名のうみによる地獄のしごき)に専念することを許されていた。
しかし、それには『数日に一度は騎士団との訓練に参加する』という条件がついている。
そして今日はちょうどその『数日に一度』に当たる。回数にして、今日で四回目となる。
いつもならば、隣には銀青の髪をした親友も一緒に歩いているはずなのだが、今日に限ってハジメは一人だった。
(うみくん、今頃王女様にどうされてるんだろう……)
ことの発端は昨晩。 『いいこと思いついた!』 突然そう叫んだうみは、予定していた作業を放り出し、
新たな調合に没頭し始めた。幾度となく錬金釜から謎の煙を吹き出させ、何度も失敗を繰り返しながらも、
その目は完全に職人のそれであり、周囲の音が一切聞こえなくなっていた。
(こりゃ、もう止まらないな……)
そう悟ったハジメは、徹夜モードに入った親友を置いて自室に戻り、就寝したのである。
そして今朝。ハジメが目を覚ますと、同室者のベッドはもぬけの殻だった。
そこへ、部屋の扉をノックする音が響いた。扉を開けると、静かな圧を纏ったヘリーナが立っていた。
『月影様はいらっしゃいますか?』
その短い問いかけから滲み出る呆れと怒気。それに触れた瞬間、
ハジメは(今度は何やらかしたんだ……!)と頭を抱えた。
『えっと……たぶん、まだ工房にいると思います……』
『絶対にろくでもない』という予感を抱きつつ、ハジメはヘリーナと共に地下の工房へ向かった。
扉を開けると、そこには昨晩と同じく錬金釜へと向かううみの姿があった。
『月影様』
静かな声で呼びかけられ、うみは不思議そうに振り返った。
『……? あ、ヘリーナさん。どうしたの?』
徹夜明けとは思えないほどあっけらかんとした顔で首を傾げるうみに対し、ヘリーナは氷のような微笑みを浮かべて告げた。
『リリアーナ様がお待ちでございます』
その冷ややかな声を聞いた瞬間、うみの動きがピタリと止まった。
『……えっ。あっ……ハ、ハジメ。今って、何時……?』
『もう朝だけど?』
『やっば……っ!!』
サッと血の気を引かせたうみは、ガタガタと震え始めた。
彼の脳裏を過ったのは、地球にいた頃の、自身の妹である恵理との約束をすっぽかした時のこと。
あの時、普段は穏和な彼女から受けた『とんでもないお仕置き(主に精神両面)』の記憶がフラッシュバックしたのだ。
(か、家族であの惨劇なのに……一国の王女様をすっぽかしたら……!?)
顔面蒼白になったうみは、『ご、ごめんハジメ! 先行っといて!』と悲痛な叫びを残し、
死地に赴くような足取りでヘリーナに連行されていったのである。
(普段優秀なのに、ああいうところは致命的に抜けてるんだよなぁ……ほんとポンコツ)
ハジメは呆れ半分、面白さ半分の苦笑いを浮かべた。
気を取り直すように、ハジメは懐から銀色のステータスプレートを取り出し、自身の現在の能力値を表示させた。
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南雲ハジメ 17歳 男 レベル:1
天職:錬成師
筋力:40
体力:45
耐性:25
敏捷:50
魔力:120
魔耐:45
技能:錬成・言語理解
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(……うん。伸びてはいる、けど)
初期値の『オール10』から始まり、急激な成長を遂げた先週。
しかし、この数日はフィジカル面の上がり幅が目に見えて鈍くなってきていた。
いわゆる筋トレなどにおける『成長を実感しづらい時期』に片足を突っ込んだ感覚だ。
しかし、ハジメはそれをネガティブには捉えていなかった。
毎晩、うみの理不尽極まりない『組手』で床のシミにされているおかげで、数値以上に身体の使い方が洗練されてきているのだ。
(まあ伸びてきてるけど、あの数値と比べるとなぁ……)
先日、工房でこっそり見せてもらったうみの真のステータスを思い出す。
筋力などのフィジカル面は、本来の数値を隠してこっそり行う程度の訓練では影響が少ないのか、『+1』や『+2』といった誤差レベルの成長しかしていなかった。
しかし、魔法関連の数値の伸びは凄まじかった。魔力は初期の180から【270】へ、魔耐も200から【230】へと跳ね上がっていたのだ。
理由を聞けば、魔力に関しては『魔法が使える分、ハジメより効率的に魔力を空撃ちできるからね。あとは錬金術の失敗で勝手にすっからかんになるし』とのこと。
魔耐の増加については『魔力ってものに体が適応してきたからじゃない?』と本人は語っていたが、めちゃくちゃ適当だったので、
それが真実なのか、うみの特異体質ゆえなのかは定かではない。
(……ほんと、まだまだ遠いなぁ)
ハジメは小さく息を吐き、再び歩き出した。
「それに……錬成の訓練の方も、随分変わったからな」
ハジメは歩きながら、自分の手のひらを見つめた。
「それに……錬成の訓練の方も、随分変わったからな」
ハジメは歩きながら、錬成の魔法陣が刻まれた手袋に覆われた自分の手のひらを見つめた。
この数日、ハジメの特訓内容は大きく変化していた。
本職の鍛冶師の仕事を見学した後、ハジメはテストに合格し、見事に真剣の製造ラインを一部任せてもらえるようになった。だが、良質な素材には数に限りがあり、一日せいぜい五、六本を打つのが限界だ。
かといって、残りの時間でこれまでのように訓練用の剣を作り続けるのも意味がない。すでに予備を含めても十分すぎる量が完成してしまっていたからだ。
『さすがにこれ以上ナマクラを量産してもゴミになるだけだしね。よし、ハジメ。今日から本格的に、戦闘で錬成を使う訓練にシフトするよ』
『戦闘で!? いやいや、うみくん。錬成って、直接対象に手を触れないと発動しないんだよ? 敵の目の前でしゃがみ込んで地面に手をつくなんて、それこそ自殺行為じゃないか』
ハジメが尤もらしい反論をすると、うみはニヤリと悪魔のような笑みを浮かべてこう言ったのだ。
『大丈夫大丈夫、俺の中にはちゃんと解決策があるから。だからハジメは、
その解決策が実行できるように、とにかく錬成の【有効範囲】をとことん広げることに集中して!
ほら、基礎トレ再開!集中切ったらハリセンだからね!』
『具体的なこと何も言ってないよね!? 鬼ぃぃっ!!』
――思い出すだけで胃が痛くなる。
相変わらずのマルチタスク(自重筋トレ+地面への錬成操作)を強いられ、少しでも集中が切れれば、影から伸びたハリセンが容赦なく頭を引っぱたいてくる。
しかし、その理由を隠したスパルタ教育の効果は絶大だった。
最初は手のひらから半径二、三十センチ程度しか操作できなかった有効範囲が、今では半径約三メートルにまで広がっている。
三メートル。それだけあれば、敵の間合いの外から足元の地面を隆起させたり、壁を作って防いだりといった芸当が十分に可能だ。
ハジメは、自分が確実に『戦える』ようになっていることを実感し、小さく拳を握った。
(……とはいえ、やっぱりクラスの連中と顔を合わせるのは気が重いんだけどな)
やがて、大きく開け放たれた訓練施設の入り口が見えてきた。
到着すると、すでに何人もの生徒たちがやって来て、談笑したり自主練したりしていた。どうやら案外早く着いたようである。
ハジメは、端の方で自主練でもして待つかと、支給された西洋風の細身の剣を取り出した。
と、その時。唐突に後ろから背中を小突かれ、ハジメはたたらを踏んだ。
なんとか転倒は免れたものの、背後を振り返ったハジメは予想通りの面子に心底うんざりした表情をした。
そこにいたのは、檜山大介率いる小悪党四人組である。ハジメが訓練を憂鬱に感じる半分の理由であった。
「よぉ、南雲。お前が剣なんて持って何すんの? 才能ゼロの無能なんだしよ~」
「だいたいお前、数日に一回しか訓練出てこないんだから意味ないだろ。おとなしく引きこもってろよ!」
「なぁ大介。こいつさぁ、なんかもう哀れだから、俺らで稽古つけてやんね?」
一体なにがそんなに面白いのか、ニヤニヤと下品な笑いを浮かべる檜山達。
「おお、いいじゃん。俺ら超優しいし。無能のためにわざわざ時間使ってやるとかさ~。南雲~感謝しろよ?」
そんなことを言いながら、檜山が馴れ馴れしく肩を組み、人目につかない施設の死角へと強引に連行していく。
周囲のクラスメイト達は気がついたようだが、関わり合いになりたくないのか、皆一様に見て見ぬふりをした。
「いや、一人でするから大丈夫だって。僕のことは放っておいてくれていいからさ」
一応、やんわりと断ってみるハジメ。
「はぁ? 俺らがわざわざ無能のお前を鍛えてやろうってのに何言ってんの? マジ有り得ないんだけど!」
そう言って、檜山が脇腹を殴りつけてくる。
パシッ、と。
ハジメは瞬時に腕を差し込み、檜山の拳を難なく防いでみせた。
「あ……?」
予想外の抵抗に、檜山が間抜けな声を漏らす。
(地球にいた頃の僕なら、まともに食らってただろうけど……)
ハジメは内心で極めて冷静に分析していた。毎晩、うみの不規則で理不尽極まりない動きを見続け、
見慣れた今となっては、檜山の大ぶりな拳など児戯に等しい。
やがて、訓練施設からは死角になっている人気のない場所に来ると、檜山は苛立ちを露わにしてハジメを突き飛ばした。
「ほら、さっさと立てよ。楽しい訓練の時間だぞ?」
檜山、中野、斎藤、近藤の四人がハジメを取り囲む。
その瞬間。ハジメの背後から、近藤が剣の鞘で殴りかかってきた。
数週間前のハジメであれば、避けられずに背中を強打されていただろう。
だが――。
(……丸見えだ)
ハジメは最小限の動きで半歩横へとずれ、近藤の鞘を避けた。
空を切った近藤の鞘が虚しく空振る。
「え……あ?」
近藤が間抜けな声を漏らし、体勢を崩した。
うみとの理不尽な組手により、強制的に拡張された『視野』による対応。
少しでも気を抜けば一瞬で視界から消えるうみを、
どうにか見失わないようにと必死に視野を広げ続けた結果――見失えば次の瞬間に無慈悲な一撃が飛んでくる恐怖から身についた、
周辺視野の異常な拡大により、背後から迫る近藤の存在を視界に収めていたのである。
「チッ、まぐれで避けやがって……! ここに焼撃を望む――〝火球〟!」
ハジメが躱したことに苛立った中野が一節詠唱を唱え、至近距離から火属性魔法を放つ。
しかし、うみとの組手によって『予測』と『回避』を叩き込まれていたハジメは、
魔法が放たれる直前の中野の視線・体の動きからすでに軌道を完全に読んでいた。
ハジメは姿勢を低くし、ゴロゴロと転がるようにして見事に火球を躱す。
「なっ……なんで無能のくせに避けてんだよ! ここに風撃を望む――〝風球〟!」
起き上がり際を狙い、今度は斎藤が風の塊を放つ。
(くっ……!)
完全に躱しきれないと判断したハジメは、手にした訓練用の剣を盾にするように構え、威力を逃がすように後方へといなした。
風の衝撃で腕が痺れ、後方へと滑るように押し込まれるが、直撃によるダメージは免れる。
「ちょこまかと……! 調子乗んなよ!」
思い通りに当たらないことに苛立ちを爆発させた檜山が、高いステータスに物を言わせて真正面から突っ込んでくる。
タイマンであれば、あるいは一対二程度であれば、今のハジメでも十分に立ち回れたかもしれない。 だが、相手は自分よりも高い戦闘ステータスを持つ四人だ。しかも全員が容赦なく、魔法と打撃を四方から連携させてくる。 絶え間ない攻撃に、ハジメの処理能力は徐々に限界へと近づいていく。
(処理が……追いつかないっ……!)
右からの魔法を剣で弾いた直後、死角からの檜山の蹴りがハジメの腹部に深々と突き刺さった。
「ガッ……!?」
「オエッ」と胃液を吐き出しながら、ハジメは仰向けに吹き飛ばされ、石畳の上へと崩れ落ちた。
そこへ、檜山がニヤニヤと笑いながら蹲るハジメの腹に追撃の蹴りを入れる。
「ったく、弱いんだから最初から大人しくしとけよな~? マジでうざいんだけど」
「ゲホッ……ごほっ……!」
その後もしばらく、稽古という名のリンチが続く。
ハジメは痛みに耐えながら、奥歯を強く噛み締めた。
(やっぱり、まだ……全然足りない……っ!)
確かな成長は感じていた。自分の目は確実によくなっているし、体も動く。
しかし、この理理不尽なステータス差と数の暴力を完全に覆すには、まだまだ届かないという現実を容赦なく突きつけられていた。
そんな絶望と痛みに沈みかけた、その時だった。暴力の空気を切り裂くような、凛とした声が響き渡った。
「何やってるの!?」
その凛とした声に、「やべっ」という顔をする檜山達。
それもそのはずだ。声を上げたのは、彼らが惚れている学年のアイドル、白崎香織だったのだから。
さらにその後ろには、八重樫雫や天之河光輝、坂上龍太郎の姿もある。
「いや、誤解しないで欲しいんだけど、俺達、南雲の特訓に付き合ってただけで……」
「南雲くん!」
檜山の見え透いた弁明を完全に無視して、香織はゲホッゲホッと咳き込み蹲るハジメに駆け寄った。
ハジメの痛ましげな様子を見た瞬間、彼女の頭の中から檜山達の存在は完全に消え去っていた。
「特訓ね。それにしては随分と一方的みたいだけど?」
「いや、それは……」
「言い訳はいい。いくら南雲が戦闘に向かないからって、同じクラスの仲間だ。二度とこういうことはするべきじゃない」
「くっだらねぇことする暇があるなら、自分を鍛えろっての」
雫、光輝、龍太郎の三者三様に言い募られ、檜山達はバツが悪そうに誤魔化し笑いをしながら、そそくさとその場を立ち去っていった。
香織の治癒魔法の淡い光に包まれ、ハジメの痛みが徐々に癒されていく。
「あ、ありがとう。白崎さん。助かったよ」
苦笑いするハジメに、香織は泣きそうな顔でブンブンと首を振る。
「いつもあんなことされてたの? それなら、私が……」
何やら怒りの形相で檜山達が去った方を睨む香織を、ハジメは慌てて止めた。
「いや、そんないつもってわけじゃないから! 大丈夫だから、ホント気にしないで!」
「でも……」
それでも納得できなそうな香織に、再度「大丈夫」と笑顔を見せるハジメ。渋々ながら、ようやく香織も引き下がる。
「南雲君、何かあれば遠慮なく言ってちょうだい。香織もその方が納得するわ」
渋い表情をしている香織を横目に、苦笑いしながら雫が言う。それにも礼を言うハジメだったが――そこで水を差すのが、純度百パーセントの勇者クオリティだった。
「だが、南雲自身ももっと努力すべきだ」
「……え?」
光輝が、さも正論だと言わんばかりの真っ直ぐな目でハジメを見下ろす。
「数日に一度しか訓練に出てこないそうじゃないか。弱さを言い訳にしてサボっていては強くなれないだろう?
南雲も、もう少し真面目に訓練に参加した方がいい。檜山達も、たまにしか来ない南雲の不真面目さをどうにかしようとして、
あんなことをしたのかもしれないだろ? だいたい――」
何をどう解釈すればそうなるのか。
ハジメは半ば呆然としながら、(ああ、確かに天之河は基本的に性善説で人の行動を解釈する奴だったな)と内心で深い溜め息を吐いた。
光輝がさらに的外れな説教を続けようとした、その時だった。
「――およ? これ、どういう状況?」
気の抜けた、しかし少しだけ疲労の色を滲ませた声が死角の入り口から響いた。
ハジメと雫がハッとしてそちらを向く。ハジメの痛ましげな様子に気を取られている香織は、全く気づいていないようだった。
そこには、いつもの黒い目隠しをしたまま、訓練前だというのにすでに疲弊している様子の月影うみの姿があった。
「うみくん……」
「あら? 月影くん? 今来たの?」
雫が不思議そうに首を傾げる。うみは「うん」と頷きながら歩み寄り、
周囲の空気と座り込んでいるハジメを見て、状況を察したように小首を傾げた。
「もしかしなくても……アレ?」
うみの視線と声のトーンから、雫も彼が大体の事態を察していることに気がついた。
「ええ、多分月影くんの想像通りだと思うわ」
苦笑しながらも、雫は念のためといった様子で、「実はね」と先ほどの檜山たちの一方的な暴力と、光輝の的外れな説教のあらましを簡潔に説明した。
一通り事情を聞き終えたうみは、心底呆れたように「はぁー」と長いため息を吐き出した。
「ほんっと、あの子ら暇人だよねぇ。もっと他にやること探せばいいのに。……それと、天之河くん?」
うみは、スッと冷めたような視線を光輝へ向けた。
「俺とハジメは、、本職の鍛錬を優先するために全体訓練を不参加にしてるの。
だから、不真面目って説教自体がお門違いってやつだよ」
「なっ……! 月影、お前まで南雲を甘やかすのか! 俺は南雲のためを思って――」
「あーはいはい。そういうのいいから」
光輝が反発して突っかかってくるのを、うみは文字通り「背景のBGM」として完全に無視した。
そして、未だ座り込んでいるハジメと、その傍らで心配そうに寄り添う香織の姿を見て――ピコーン、と。うみの頭の中で何かが閃いた。
(ハッ!! これは……!)
うみは何かを思いついたように顔を輝かせると、音もなくスッと歩を進めた。
「ねえねぇ、八重樫さん」
「ひゃんっ!?」
突然、すぐ耳元で囁かれた声に、雫は変な声を上げて肩をビクッと跳ねさせた。
驚いて横を向くと、いつの間にか――本当に気配すらなく――自分の真横にうみがピタリと寄り添うように立っていたのだ。
耳元に吹きかかった息のこそばゆさと、近すぎる距離感に、雫は僅かに顔を赤らめて身を引く。
「ちょっと月影くん……!? いつの間に……っ」
「しーっ。ねえ、八重樫さん」
うみは雫の動揺を全く気にせず、ヒソヒソと小声で囁き始めた。
「これっ! あの二人、ちょっと二人きりにしたらいい感じじゃないですか!?」
「……え?」
うみの視線の先を追い、雫もハジメと香織の様子を見る。怪我をした少年に、献身的に寄り添う美少女。
確かに、周囲の邪魔がなければとてもいい雰囲気になりそうだ。
「……なるほど。そういうことね」
数秒後。雫の口元に、うみと全く同じ、ニマニマとした含みのある笑みが浮かんだ。
二人は顔を見合わせ、まるで『悪代官と悪徳商人』が密談を交わしているよう。
「じゃあ、八重樫さんは天之河くんをお願いね」
「ふふっ、任せて。月影くんは龍太郎ね」
「オッケー」
役割分担を終えるや否や、うみはパッと振り返り、
まだハジメに説教を続けようとしていた光輝の後ろに立つ龍太郎へ向かって、わざとらしく間延びした声を張り上げた。
「坂上くーん。タイマンしよーぜ」
「あぁ!? 月影、お前いきなり何言って……」
突然の指名に、龍太郎が目を丸くする。それを見たうみは、ニヤニヤと口角を上げ、最高に人を食ったようなクソガキムーブを発動した。
「あれー? もしかして自信ないんだぁ? まあ? 相手がこのうみくんだもんねー。怖くても仕方ないかぁ」
「んだとコラ!? 上等だ、やってやるぜ!!」
脳筋で真っ直ぐな龍太郎は、うみの安い挑発にコンマ一秒で見事に引っかかり、鼻息を荒くして袖をまくり上げた。
一方、雫もまた、流れるような動作で光輝の腕を掴んだ。
「ねえ光輝。ちょっと私の相手をしてくれないかしら? ちょうど実力が近い相手と打ち合いたかったの」
「えっ? あ、ああ、雫がそう言うならいいけど……南雲の話がまだ――」
「いいから行くわよ!」
「うわぁっ! 引っ張るなって、雫!」
有無を言わさぬ雫の圧力に押され、光輝はずるずると訓練場の中央へと連行されていく。
龍太郎も「ぜってぇ敗けねぇからな!!」と意気込みながらその後を追った。
見事な分断工作を完了させたうみと雫は、連行しながらチラリと背後を振り返り、
座り込んだまま呆然としているハジメと香織に向かって、二人揃って見事な『サムズアップ』を決めた。
「「……ッ!?」」
その仕草の意味を察したハジメと香織は、ボフッと音がしそうなほど一瞬で顔を真っ赤に染め上げた。
「なっ……うみくん!?な、 なにを……!?」
「し、雫ちゃんまで……っ!」
遠ざかっていく悪ノリ同盟の二人に抗議の声を上げようとするが、時すでに遅し。
死角のスペースには、顔を赤らめたハジメと香織の二人きりになってしまった。
気まずい沈黙が数秒流れた後。
「あ、あの……南雲くん。体、もう痛いところはない?」
香織が上目遣いで、もじもじとしながら尋ねる。
「う、うん。白崎さんのおかげだよ。本当にありがとう」
ハジメは照れ隠しのように頭を掻きながら、立ち上がって服の埃を払った。
「あのね、南雲くん。……光輝くんがあんなこと言ってたけど、南雲くんが不真面目だなんて、私、思ってないよ」
「え?」
「だって、南雲くん、手……すごくマメができてるし。それに、体つきも召喚された時より、ずっとがっしりしてる。
見えないところで、すごく頑張ってるんでしょ?」
香織の言葉に、ハジメは少しだけ驚いたように目を見張った。
うみとの地獄の特訓。錬成の繰り返し。その努力の痕跡を、彼女はしっかりと見てくれていたのだ。
「あはは……白崎さんには敵わないな。うん、実はね、うみくんにしごかれてるんだ」
ハジメは苦笑しながら、少しだけ自嘲気味に、しかし誇らしげに語り始めた。
「メルド団長にも許可をもらって、普段は地下の工房で特訓してるんだよ。
僕のステータスじゃまともに戦えないから、うみくんがいろいろと考えてくれててさ」
「月影くんが?」
「うん。あの人、普段はちょっと変なんだけど……でも、頭が良くて、色んな知識や人生経験がすごく豊富なんだ。
だから、僕を見捨てずに、僕が生き残るための方法を本気で叩き込んでくれてる。だから、僕もそれに応えたいんだ」
ハジメの瞳に宿る、確かな意志の光。それを見つめる香織の頬が、ポッとさらに赤く染まる。
「そっか……。うん、南雲くん、すごくかっこいいよ。私も、負けないように頑張らなくちゃ」
二人の間に、どこか甘酸っぱく、穏やかな空気が流れる。
クラスメイトの悪意も、理不尽な世界への不安も、今この瞬間だけは遠のいていた。
――ざわざわっ、ざわっ……。
突如として、訓練場の中央の方から、生徒や騎士たちの大きなどよめきが起こった。
「……え?」
「な、なんだろう?」
二人の間の甘い空気を遮るように広がっていく喧騒に、ハジメと香織は顔を見合わせた。
「ちょっと行ってみよう」
二人は慌てて死角から抜け出し、人だかりができている訓練場の中央へと様子を見に向かった。
人だかりの隙間から覗き込むと、そこには信じられないといった表情で石畳の上に膝をつき、両手をついて伏せている龍太郎の姿があった。
そしてその傍らには、杖を片手で肩に担ぎ、空いている方の手でバッチリとピースサインを決めているうみの姿があった。
「うぃな~!!」
緊張感の欠片もないうみの勝利宣言が、ざわめく訓練場に呑気に響き渡る。
「ええっ!? つ、月影くん、坂上くんに勝っちゃったの!?」
目を丸くして驚愕する香織。無理もない、非戦闘職のうみが、戦闘職でもトップクラスの龍太郎に勝つなど普通ならあり得ないからだ。
だが、ハジメは一人、冷静に倒れている龍太郎の様子を観察していた。
(……あの様子を見るに、どうやらちゃんと『偽装ステータスの範疇』で勝ったっぽいな)
ハジメは脳内で、先日うみがステータスプレートを更新した際に見せてきた数値を思い浮かべる。
初期の偽装から『日々の鍛錬で順当に成長した』という設定で、大体一.五倍ほどに書き換えられていたはずだ。
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月影うみ 17歳 男 レベル:1
天職:錬金術師
筋力:52
体力:63
耐性:42
敏捷:75
魔力:66
魔耐:50
技能:錬金術・鑑定・言語理解・カゴ
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(でも……どうやってあのステータスで勝ったんだろう? 坂上くん、偽装ステータスの倍くらいはありそうだけど……)
***
「……いったい、どうやって勝ったの?」
呆然とした沈黙を破ったのは、雫だった。
驚きで目を丸くしたままの彼女と、同じく信じられないものを見るような目をしている光輝が、うみへと詰め寄る。
「え? 相手が坂上くんだからだよ」
詰め寄る二人に対し、うみはあっけらかんとした様子で答えた。
「相手が龍太郎だからって……お前とあいつじゃ、ステータスが倍以上違うじゃないか!」
納得がいかない様子の光輝が声を荒げるが、うみはやれやれと肩を竦めた。
「だからだよ。坂上くんの天職は『拳士』でしょ? つまり、遠距離攻撃の手段を持たないゴリゴリのインファイター。
対して、俺はちょっと心もとないけどこれを持ってる」
うみは肩に担いでいた魔法使い用の短い杖を、トントンと軽く叩いた。
「リーチの差がある状態なら、間合いの管理さえ間違えなければ武器を持ってる俺の方が有利になる。それに……」
うみはそこで言葉を切り、未だに息を切らして座り込んでいる龍太郎を見下ろした。
「坂上くん、間合いの詰め方が『真正面から真っ直ぐ突っ込む』しかなかったからね。
動きが単調すぎて、カウンターを合わせるのも、攻撃をいなして体勢を崩すのも簡単だったんだ。
ステータスに任せて力任せに突っ込んでくるだけなら、闘牛士みたいにヒラリと躱して急所を小突くだけで勝てるよ。
だから坂上くんさ、そういう単調さを補うために、ナイフとかの『暗器』を持った方がいいと思うよ。
遠距離攻撃がないなら、詰める前に投擲武器で牽制するとか工夫しないと」
その的確なアドバイスに、龍太郎はハッとしたように目を丸くした。
彼のような裏表のない武闘派は、実力で打ち負かされた相手からの筋の通った言葉には素直に耳を傾けるのだ。
「……なるほど。確かに俺、真っ直ぐ突っ込むことしか考えてなかったわ。暗器か……やってみるぜ。サンキュー、月影! 勉強になった!」
憑き物が落ちたようなスッキリとした笑顔で礼を言う龍太郎に、うみは「どーいたしまして」と軽く手を振った。
「ていうか、みんなステータス気にしすぎ!ある程度のステータス差なら技術で簡単にひっくりかえせるんだから」
うみの言葉に周囲が押し黙る中、息を整えながら顔を上げた龍太郎が純粋な疑問をぶつけてきた。
「……いや、でも月影。お前、近接戦もめっちゃ強かったじゃん! なんかやってたのか?」
「んー? まぁ、CQCを少々」
「「「しーきゅーしー?」」」
普通の高校生であった光輝や龍太郎たちが、そんな専門用語を知るはずもない。
全員が一斉に頭の上にハテナを浮かべたところで、うみはニコッと笑って言い放った。
「軍隊用格闘技だけど?」
「物騒なことをお琴みたいに言ってるんじゃないわよ!」
すかさず、雫から鋭いツッコミが飛ぶ。「~を少々」という言い回しが、まるで「お茶やお琴を少々」と習い事を嗜んでいるかのような響きだったからだ。
しかし、ツッコミを受けた当のうみは、全く気にした様子もなくパァッと表情を明るくした。
「おー、八重樫さんって『琴』にちゃんと『お』をつけるタイプなんだー。なんかカワイイー!」
「か、かわっ……!?」
突然、会話のベクトルが二百四十度くらい明後日の方向へとへし折られ、
しかも唐突に「カワイイ」などと言われた雫は、顔を真っ赤にしてフリーズしてしまう。
(またやってるよ、あの子は……)
その様子を遠巻きに見ていたハジメは、親友の無自覚なタラシっぷりと、見事なまでに場をかき回す手腕に深々と呆れたため息を吐くのだった。
***
全体訓練が終わった日の夕方。
ハジメとうみは、いつも通り王城の地下にあるアトリエへと戻ってきていた。
「で、どうだった? 初の多対一戦は」
作業台の前で道具を手入れしながら、うみが背中越しに問いかける。
その声にはいつものふざけた調子はなく、真面目な『コーチ』としての響きがあった。
「……ボロ負けだったよ。処理が全然追いつかなかった」
ハジメは悔しそうに拳を握りながら答えた。
「でも……見えてはいたんだ。魔法の軌道も、背後からの攻撃も。
ただ、それに対応するための選択肢が少なすぎた。攻撃を弾いて回避するのが精一杯で、反撃の手立てが何もなかった」
「なるほどね」
うみは振り返り、真っ直ぐにハジメを見据えた。
「じゃあ、タイマンなら余裕そう?」
その問いに対し、ハジメは自身の身体の感覚と、今日の檜山たちとの実力差を思い返す。
そして、迷いのない瞳で力強く頷いた。
「うん。あいつらくらいの相手なら、勝てる!」
「よし!」
うみはパァッと満面の笑みを浮かべ、パンッと手を叩いた。
「なら、『南雲ハジメ強化月間』は次の段階に進めそうだね!」
「……次の段階?」
ハジメが首を傾げると、うみは真面目な顔に戻って頷いた。
「そう。ハジメは確かに強くなった。でも、フィジカル面のステータスは、まだクラスでも下から数えた方が早いくらいだしね」
「うっ……それは……」
事実だけに言い返せないハジメ。
「だから、その低いステータスをごまかすために、身体能力の強化ができるようになってもらう」
「身体能力の強化? それって、バフ魔法ってこと? でも、僕には魔法適性が……」
この異世界トータスにおいて、人間には魔法の適正というものが存在する。
この適性がないと、基本的に魔法は使い物にならない。
そして、ハジメは魔法への適性が一切ないのだ。
そのため、火や水といった属性魔法はおろか、身体能力を向上させるような支援魔法など使えるはずもない。
しかし、うみはあっけらかんと言い放った。
「大丈夫。魔法じゃないから」
「……え?」
「ハジメにやってもらうのは、『魔力の直接操作による身体能力の強化』だからね」
その言葉を聞いた瞬間、ハジメは目を見開いて硬直した。
「なっ……魔力の直接操作!? 無茶苦茶言わないでよ!」
ハジメが驚愕するのも無理はない。
初日の訓練でメルド団長から教えられたトータスの魔法体系の常識――それは、「魔力は魔法陣や詠唱という『外付けのシステム』を介してのみ事象として発現させられる」というものだ。
魔力そのものを体内で直接練り上げ、操作し、肉体の強化に用いるなどという技術は、この世界の人間族の常識には存在しない。
「初日の訓練で、メルド団長も言ってたじゃん! 魔力の直接操作なんて人間にはできないって!」
必死に訴えるハジメに対し、うみは全く慌てることなく、あっけらかんと言い放った。
「あー、あれ嘘だよ」
「……はい?」
ハジメはポカンと間抜けな声を漏らした。
「あ、いや、嘘ってのは適切じゃないか。団長さんやこの世界の人間は、それを真実だと『信じて疑ってない』だけなんだよ。
俺は初日のあの後、実際に自分で試してみたけど普通にできたし」
「そ、それはうみくんだからなんじゃないの!?」
ハジメがすかさずツッコミを入れる。非日常の住人であり、
規格外の能力を持つ親友が「できた」と言っても、凡人の自分にそのまま適用できるとは到底思えなかったのだ。
しかし、うみはやれやれと首を振った。
「逆に聞くけどさ、ハジメ。なんで自分の中にあるエネルギーを、自分の意志で動かせないのさ? そんなの、欠陥もいいとこでしょ」
「うっ……それは、そう言われると……」
「あの後でリリィに聞いてみたけどさ。どうにもこの世界の魔法体系――『魔力は直接操作できない』っていう常識は、
神様……エヒトからの神託か何かで昔からそう教えられてるらしいんだよね。だから誰も疑わないし、試そうともしない」
うみの理路整然とした説明に、ハジメは押し黙った。
この異世界の常識。神様の教え。それらはハジメにとって、絶対的なルールのように思えていた。
だが、目の前にいる親友は、そんな常識など意に介さず、ただフラットな視点で事象の本質だけを見抜いている。
才能がないと蔑まれる自分を絶対に見捨てず、生き残るための道を真剣に模索してくれているのだ。
(……なら、信じるべきは常識じゃない。うみくんだ)
ハジメは一つ深呼吸をし、迷いを振り切るようにうみを真っ直ぐに見つめ返した。
「……わかった。うみくんがそこまで言うなら、できるんだよね。なら、どうやればいいのか教えてよ」
親友への全面的な信頼を示すその言葉に、うみは満足げにニコッと笑った。
「素直でよろしい。それじゃ、まずは『魔力そのものを認識する』ところからだね」
「魔力を認識? ええと……魔力があるって感覚はなんとなくあるけど、具体的にどうすれば……」
ハジメは自身の胸のあたりを抑えながら戸惑う。
魔法適性がなく、技能という自動化されたシステムの中でしか魔力を消費したことのないハジメにとって、
それを「明確なエネルギーの塊」として知覚するのは至難の業に思えた。
だが、うみはパンッと手を叩き、自信たっぷりに胸を張った。
「そこは安心して! 『内側にある未知の力を自覚させる』っていう指導は、すでに経験済みだから!」
そう言うと、うみはハジメの真正面に立ち、その胸の中央にポンッと右手のひらを当てた。
「まずは目を閉じて、全身の力を抜いて」
言われるがままにハジメが目を閉じ、深く息を吐き出して脱力する。
「よし。じゃあ、まずは俺の魔力をハジメの中に流し込んで、ぐるぐる回すよ。ちょっと酔うかもしれないけど我慢ね」
「えっ!? ちょっ、うみくんの魔力を直接って――」
ハジメが驚いて目を開けようとした瞬間。 ドクンッ、と。
心臓が大きく跳ねたような感覚と共に、ハジメの体内へ、うみの手から『圧倒的に濃密な何か』が流れ込んできた。
「うわっ……!?」
それは、血管の中をもう一つの別の血液が激流となって流れているような、ひどく生々しく暴力的な感覚だった。
うみの魔力はハジメの胸から始まり、腕へ、足へ、そして脳へと、明確な『流れ』を持って全身を巡っていく。
少しひんやりとした、それでいて底知れない静かな圧を持ったエネルギー。言われた通り、急激な奔流に三半規管が揺さぶられ、軽く酔ったような感覚に陥る。
「どう? これが魔力。感覚掴めそう?」
「う、うん……すごいね。体の中を、なにか別のものが流れてるのがはっきりと分かる……っ」
「よし、それならステップ1はクリア。じゃあ次はステップ2」
うみは一度、ハジメの体内から自身の魔力をスッと引き上げた。
「今度は俺の魔力じゃなくて、ハジメ自身の魔力でやるから。ちゃんと覚えてね? 自分の力ってやつを」
「わ、わかった」
再び目を閉じ、意識を集中するハジメ。
直後、うみの手から微弱な干渉が伝わり――ハジメの奥底から、先ほどとは違う『温かい熱』のようなものがじんわりと引き出されるのを感じた。
ハジメ自身の魔力。それがうみの手引きによって、ゆっくりと、しかし確実に全身の血脈に沿って巡り始める。
「……あっ」
「どう? 違い、わかる?」
「うん……さっきのうみくんの魔力より、ずっと温かくて……なんだろう、すごく柔らかくて体に馴染む感じがする。
うみくんのは、なんていうか……すごく鋭くて、ちょっと冷たいっていうか……研ぎ澄まされた刃物みたいで、少し怖かったから……」
ハジメが自身の体感と、魔力から受けた『印象』を素直に口に出すと、うみは少し驚いたように目を瞬かせた後、ニッと口角を上げた。
「へぇ……そこまで分かるんだ。案外、ハジメってこういうののセンスあるんじゃない?」
「えっ、そ、そうかな……?」
「うん。俺の予想だと、魔力の感覚的なものには当人の気質や今までの人生経験が反映されてる
まあ、俺は自分の魔力とハジメの魔力にしか触れてないから、これが正しいかなんて知らないけどね」
うみは満足げに頷くと、再び真剣なトーンに戻った。
「それじゃあステップ3。次は、ハジメが自分でこの『馴染む熱』を巡らせてみて」
「自分で……」
「うん。魔力を動かすときのコツなんだけど……体の中に、血管とは別の『もう一つの管』が通ってるのを想像して。
そこに、心臓の鼓動じゃなくて、ハジメ自身の『意志』をポンプにして、熱を全身の隅々まで押し流すイメージ」
うみはハジメの胸に当てた手に少しだけ力を込める。
「最初は俺がちゃんと手を貸して流れを誘導するから。完全に一人でできるようになるまで、何度でも付き合うよ」
「……うんっ!」
ハジメは奥歯を噛み締め、うみに言われた通りのイメージ――自身の意志をポンプとして、熱を押し出す感覚に全神経を集中させた。
しかし、いざ自力で動かそうとすると、魔力は途端に泥のように重くなり、流れが淀みそうになる。
だが、その度にうみの手から絶妙なタイミングで力が加わり、淀みを解消して再び流れを作り出してくれた。
(すごい……うみくん、僕の体の中の魔力の動きが完全に見えてるみたいだ……)
ハジメはうみの異常なまでの精密なコントロールに舌を巻きながらも、必必死にそのイメージに喰らいついていく。
十周、二十周と回すうちに、徐々に魔力を『押し出す』感覚が掴めてきた。
「そう、その調子。……じゃあ、ゆっくり手を離すよ」
うみの手が、ハジメの胸からふわりと離れる。
一瞬、魔力の流れが滞りそうになるが、ハジメは強く意識を保ち、自らの意志でそれを押し流した。
ズズッ……ズズズッ……と。
先ほどのうみの補助があった時と比べれば、ひどくぎこちなく、不格好な流れではある。
それでも確かに、ハジメの魔力は彼自身の意志によって体内を循環し始めていた。
ハジメがゆっくり目を開けると、目の前でうみが満足そうにパチパチと拍手を手を叩いていた。
「お見事! ぎこちないけど、ちゃんと自分の意志で回せてるよ。これでステップ3もクリアだね」
「ふぅ……ありがとう、うみくん。それで、これをどうやって身体強化に繋げるの?」
ハジメは息を吐き出しながら、当然の疑問を口にする。
だが、うみはパァッと明るい声で言い放った。
「え? とりあえず今日はここまでだよ」
「……えっ?」
予想外の言葉に、ハジメはぽかんと口を開けた。
「だって、身体能力の強化ができるようになってもらうって……」
「うん、最終的な目標はね。でも、今の魔力操作の精度で身体強化はまだ無理。
だから、これからの『一週間』で、魔力の操作を息をするのと同じくらい当たり前のものにしてもらう。
身体強化を習得するのは最後の『一週間』だよ」
「当たり前のものにするって、具体的にどうするのさ……?」
嫌な予感にハジメの顔が引き攣る。そんな親友の様子に、うみはこれ以上ないほどの極上の笑みを浮かべた。
「決まってるじゃん。今までの『自重筋トレ+錬成』のマルチタスクに、『魔力の循環』を加えるんだよ。
トリプルタスクになるから今までよりしんどいだろうけど、頑張ってね?」
「ト、トリプル……!?」
「もちろん……」
うみは足元の影からスッと『ハリセン』を取り出し、パシッ、パシッと手のひらに打ち当てた。
「どれか一つでも集中が切れたり、魔力の流れが滞ったりしたら……容赦なくいくからね?」
「鬼ぃぃぃぃぃぃぃっ!?」
地下のアトリエに、ハジメの悲痛な叫び声が響き渡った。
ひとしきり絶望して項垂れるハジメに対し、うみは思い出したように付け加えた。
「あ、それともう一つ。特訓中だけじゃなくて、これからは寝る時以外、四六時中ずっと魔力を循環させ続けてね」
「……はい? 四六時中!? ずっと!?」
「そう。こっちの日常的な循環のほうは、途切れても別にハリセンで叩いたりはしないけど……」
うみはそこで少しだけ声のトーンを落とし、静かな、しかし確かな圧を伴った瞳でハジメを見据えた。
「本当に強くなって生き残りたいなら……やりなよ?」
「うっ……!」
有無を言わさぬ、けれど自分を信じてくれているからこその親友のプレッシャーに、ハジメはゴクリと息を呑む。
悲鳴を上げたくなるほどの地獄の特訓スケジュール。しかし、ハジメの瞳の奥には確かな闘志が宿っていた。
「……わかった。やってやるよ」
「うん、その意気だよ」
***
――それから、さらに二週間の時が流れた。
異世界に召喚されてから約一ヶ月。ハジメとうみは、いつもなら地下工房に籠もっているはずの時間を割き、珍しく全体訓練に参加していた。
騎士たちが声を張り上げ、クラスメイトたちが魔法や剣技の訓練に汗を流す中、ハジメは訓練用の剣を振り下ろしながら隣のうみにヒソヒソと小声で尋ねた。
「ねえ、うみくん。なんで今日の訓練は『絶対参加』だったんだろう? 絶対参加なんて初日以来だけど……」
ハジメの純粋な疑問に対し、うみは剣を弄びながら、呆れたようにため息を吐いた。
「ハジメ、ステータスプレートをもらった日の夜に俺が言った予想のこと、忘れてるでしょ」
「え? あの日の夜……?」
ハジメは木剣を振る手を止め、記憶を遡る。
この一ヶ月間、うみによる地獄の特訓(と度重なるハリセン)があまりにも濃密すぎたせいで、
ハジメの記憶はかなりおぼろげになっていた。そんなハジメの様子を見て、うみはやれやれと肩を竦める。
「『最初の実戦投入は一ヶ月後くらいで、その時だけは全員強制参加になるだろう』って言ったじゃん。
多分今日の訓練の最後に通達があるんだと思うよ」
「あっ……! そ、そういえばそんなこと言ってたね……」
「もう、しっかりしてよ。まあいろいろと不安はあるだろうけど……」
うみはそこで言葉を区切り、ニッと自信に満ちた笑みを浮かべた。
「ハジメは『最低限死なない』どころか、ちゃんと戦えるレベルの準備をしてきたんだから、焦る必要はないよ」
うみの確信に満ちた予想は、見事に的中していた。
訓練の終盤、全員を集合させたメルド団長が、厳粛な面持ちで高らかに宣言したのだ。
「明日から、実戦訓練の一環として【オルクス大迷宮】へ遠征に行く。
必要なものはこちらで用意してあるが、今までの王都外での魔物との実戦訓練とは一線を画すと思ってくれ!
まぁ、要するに気合入れろってことだ!今日はゆっくり休めよ!では、解散!」
その言葉に、生徒たちの間から期待と不安の入り混じったどよめきが広がった。
***
全体訓練と遠征の通達を終え、地下のアトリエへと戻ってきた二人。
「いよいよ明日から実戦かぁ……」
ハジメは自分の手のひらをグーパーと開閉しながら、小さく呟いた。
今のハジメの体内では、自らの意志によって魔力が滞りなく全身を循環し、筋肉や血管を薄くコーティングするように熱を帯びている。
うみが宣言した通りの地獄のスケジュール――最初の一週間でトリプルタスクと常時循環による『操作の無意識化』を徹底し、
最後の一週間でそれを肉体に纏わせる訓練をこなした結果、ハジメは『魔力操作による身体強化』をある程度形にすることに成功していた。
天職である拳士などが持つ技能『限界突破(ステータス三倍化)』などのチート級の強化には遠く及ばない。
だが、魔力で肉体を補強することで、本来のステータスの約1.3〜1.5倍程度の出力を安定して発揮できるようになっていたのだ。
「うんうん。魔力操作も板についてきたし、身体強化の精度も上々。戦闘技術も組手で伸びてはいるし、『三級呪霊』くらいなら余裕そうだね」
うみが呪霊を例えに今のハジメのレベルを言及するが、呪霊を見たことがないハジメは頭の上にハテナを浮かべた。
「じゅ、呪霊? ごめんうみくん、それ基準にされても全然ピンとこないんだけど……」
「んー? ああ、そうか。ハジメに分かりやすく言うと……そうだね。
『ハンドガンを持った警官が束になってかかっても勝てないレベルの化け物』くらい」
「……え?」
「それくらいなら、今のハジメでも勝てるよ」
「……僕、いつの間にそんなバケモノになってたの?」
現代日本出身のハジメにとって、ハンドガンを持った警官の群れというのは十分に「手を出してはいけない絶対的な脅威」だ。
自分がそれを超える存在になっているという自覚が全くなかったハジメは、己の手のひらを見つめながら少しドン引きしたように呟いた。
「うみくんのおかげだよ。でも……」
ハジメはそこで表情を少し曇らせた。
「魔力操作でステータスをごまかせるようになったし、技術もうみくんとのあれこれで磨かれたけどさ……
やっぱり、本職の連中の洗練された動きには到底及ばない。おまけに僕は魔法も使えないし、
他の攻撃手段もないから、結局は真正面から殴り合うしか手立てがないんだよね……」
「だから、そのための『錬成』でしょ?」
うみが呆れたようにツッコミを入れると、ハジメは口を尖らせた。
「でも錬成は、対象に触れないと発動しないんだよ?
戦闘中にしゃがみ込んで地面に手をつくなんて、それこそ自殺行為……あっ。そういえば、解決策があるって言ってたっけ」
ハジメが思い出したように顔を上げると、うみは待ってましたとばかりにニヤリと笑った。
「そう。でもその解決策を提示する前に確認。今のハジメの錬成の有効範囲は、最大でどれくらいまで広がった?」
「えっと……大体半径十メートルくらいかな。ここ数日の特訓でかなり伸びたよ」
「十メートル。うん、ひとまずは大丈夫そうだね。これがもし五メートルとかだったら、目も当てられなかったけど」
「え? どういうこと?」
「ハジメには、これから『縛り』を課してもらう」
「縛り? 縛るって……何を?」
ハジメが首を傾げると、うみはかつてステータスプレートをもらった夜に、彼に自身の出自を明かした時のことを持ち出した。
「俺がした『呪術』の話、覚えてる?」
「あっ、うん。確か、負の感情から生まれるエネルギーを使って戦う……みたいな」
「そう。で、その呪術の体系の中に『縛り』っていう概念がある。
簡単に言うと『何かしらの不利を受け入れることで相応の利益を得る契約』だね。
俺がよくやるものだと、手の内を晒す『術式の開示』によって自分の手札の性能を引き上げるってのがある」
うみはそこで一度言葉を切り、ハジメへ真っ直ぐに目を向けた。
「ハジメには、この『縛り』によって錬成の難点を解決してもらう」
「……つまり、僕が何かリスクを背負えば、しゃがみ込むっていう隙を消せるってこと?」
「正解。飲み込みが早くて助かるよ。で、俺が提案する縛りの内容は――」
うみは指を一本立てて、明確に宣言した。
「『手の接地の条件を消す代わりに、錬成の効果範囲を最大範囲の半分にする』――どう?」
その文言を聞いた瞬間、ハジメの脳内で思考が高速回転を始めた。
現在のハジメの錬成の最大有効範囲は十メートル。その半分となれば、五メートルだ。
十メートルから五メートルへの減少。数字だけ見れば大きな弱体化に思える。だが――。
(……いや、違う!)
ハジメはハッと目を見開いた。
(五メートル先の地面を『しゃがまずに、立ったまま即座に』操作できるなら射程五メートルでも十分。しかも……)
「気がついた?」
ハジメの表情の変化を見て、うみが意地悪く笑う。
「……うん。この縛り、『五メートルになる』じゃなくて、『最大範囲の半分になる』なんだね。つまり……」
「そう。ハジメが今後特訓を続けて、最大範囲が二十メートルに広がれば、縛り適応時の範囲も十メートルにスケールアップする。
将来的な成長を阻害しない、今のハジメにとって一番美味しい条件設定だよ」
「すごい……! そんなルールの上書きみたいなことができるなら、錬成を戦闘に組み込める!」
ハジメは興奮気味に声を上げた。
「でしょ? さあ、やってみなよ。自分自身……いや、世界の『理』に対して、明確な条件を宣言するんだ」
うみに促され、ハジメは目を閉じた。
全身を巡る温かい魔力の流れを感じ取りながら、己の魂と、自身を取り巻く世界そのものへ向かって強く、明確に宣言する。
数秒後。ハジメは目を開けると、数メートル先の石床へと鋭い視線を向けた。
ハジメが明確な意志と共に、技能『錬成』を起動させた瞬間。
ゴゴゴッ……!
ハジメから約四メートル離れた工房の石床が、まるで意思を持ったかのように隆起し、分厚い石の壁を作り出した。
「できた……! 本当に、触れずに錬成できた!」
「お見事。これでエドに近づいたね」
「うんっ! ありがとう、うみくん!」
自身の生存能力が飛躍的に向上したこと、そして何より、かつて憧れた漫画の主人公のような戦闘スタイルを再現できるようになった感動に、
ハジメは嬉しそうに何度も石の壁を撫で回している。
その様子を満足げに見届けると、うみは背伸びをしながらクルリと踵を返した。
「さてと、それじゃあ俺はちょっと出かけてくるよ」
「えっ? もう夜遅いよ? どこに行くのさ」
「んー? リリィのところ。明日からしばらく王都を離れることになるし、ちょっと顔見せとこうと思ってさ」
「……うみくん、本当にお姫様と仲いいよね。まあ、気をつけてね」
呆れたように手を振るハジメに見送られ、うみは地下工房を後にした。
***
夜の王城。
静まり返った石造りの廊下を抜け、うみは王族の居住区画に近い、見晴らしの良いバルコニーへと足を運んでいた。
最初はリリアーナの自室へ向かったのだが、あいにくと彼女は不在だった。
どうしたものかと歩いていたところ、偶然すれ違ったヘリーナから「今はバルコニーでご友人たちとお話しされています」と聞いて、こちらへやってきたのだ。
月の光が差し込む広々としたバルコニー。
そこに、探していた金髪の王女の姿を見つけた。――が、ヘリーナの言葉通り、彼女は一人ではなかった。
「……やっぱり、明日からの遠征、不安だよね。香織」
「うん……。でも、私たちには光輝くんもいるし、何より、みんなを守れるように頑張らなきゃ」
「そうね。それに、南雲くんも最近すごく頑張ってるみたいだし。私たちも負けていられないわ」
バルコニーの手すりに寄りかかり、夜風に吹かれながら語り合っていたのは、リリアーナと、香織、雫の三人だった。
召喚されてから約一ヶ月。立場は違えど、同年代の少女として彼女たちはすぐに打ち解け、今では夜にこうして語り合うほどの親友同士になっていた。
明日からオルクス大迷宮へと発つ雫と香織が、王都に残るリリアーナへしばしの別れの挨拶に来ていたのだ。
初めての本格的な死地への遠征。
表面上は気丈に振る舞っていても、年相応の少女たちの心境は不安でいっぱいだった。
残されるリリアーナもまた、友を戦場へ送り出すことへの歯痒さを抱えており、
三人の間にどこか重く、しんみりとした空気が漂う。
――そんな乙女たちの繊細な空気を、
「ありゃ? なんか空気重くない?」
気配もなく背後から現れた少年の、気の抜けた声が見事にぶち壊した。
「「「ひゃんっ!?」」」
突然の闖入者に、三人はビクッと肩を揺らして変な声を上げた。
振り返ると、そこにはいつものように黒い目隠しをしたまま、ひらひらと手を振るうみが立っていた。
「もー、月影くん! 心臓が止まるかと思ったわよ……気配くらい出しなさいな」
「ほ、本当にびっくりしたぁ……」
雫がジト目を向け、香織が胸を撫で下ろす中、リリアーナだけは顔をパァッと輝かせた。
「う、うみくん!? ど、どうしてこちらに……っ」
「んー? いや、明日からしばらく王都を離れるし、リリィにちょっと顔を見せとこうと思ってさ。
ヘリーナさんに聞いたら、ここにいるって言うから」
「私に、会いに……っ」
『リリィに顔を見せにきた』というストレートな言葉に、リリアーナの顔がボンッと音を立てんばかりに真っ赤に染まる。
その反応を見た瞬間。
雫と香織の二人は顔を見合わせ、ピーンと察した。
この一ヶ月、事あるごとに「うみくんが~」「うみくんのお話が~」と、
恋する乙女全開で惚気(本人は無自覚)を聞かされ続けてきた親友たちである。
うみがここに来た理由を知った瞬間の行動は早かった。
雫はニマニマと意地悪な笑みを浮かべ、香織の腕を引いた。
「……なるほど? そういうことなら、私たちはお邪魔みたいね。行こ、香織」
「ふふっ。そうだね、雫ちゃん」
「えっ!? し、雫!? か、香織まで」
顔から火が出そうなほど慌てふためくリリアーナを置いて、二人はそそくさとその場を離れようとする。
「え、別に俺はいても構わないけど? ちょっと話すだけだし」
空気を全く読んでいないうみが不思議そうに首を傾げるが、雫はピシャリとそれを制した。
「いいのいいの。こういう時に居座るのは野暮ってものよ。じゃあね、月影くん。リリィをよろしくね」
「? うん、わかった」
一人納得したように頷いたうみは、去りゆく二人の背中に向かって思い出したように声をかけた。
「あ、そうだ白崎さん」
「え? なぁに、月影くん」
足を止めて振り返る香織に対し、うみはこれ以上ないほど悪戯っぽい笑みを浮かべて放り込んだ。
「今なら、アトリエにハジメが一人でいるよ。明日の遠征前で、少し不安そうにしてたかな」
「っ!?」
その一言の破壊力は絶大だった。
「なっ……!? わ、わわ、わかった! 雫ちゃん、早く行こ!!」
今度は香織が顔を真っ赤にして雫の腕を引っ張り、猛烈な勢いでバルコニーから駆け去っていった。
「ちょっ、香織引っ張らないで……!」
嵐のように去っていった二人を見送り、うみはやれやれと肩をすくめる。
そして、二人きりになったバルコニーで、未だに顔を赤くしてモジモジしているリリアーナへと視線を向けた。
「嵐みたいだったね。……で? リリィも、明日からの遠征のことで不安になってたの?」
「あ……はい。……雫や香織、それに他の皆さんが怪我をしないか心配で。……それに」
リリアーナは少し躊躇うように視線を泳がせ、ぎゅっと両手を胸の前で握りしめた。
「……うみくんは、怖くないんですか? その、明日からの大迷宮……」
「怖い、か」
うみはバルコニーの手すりに寄りかかり、夜空に浮かぶ月を見上げた。
呪術師として生きてきた経験上、戦闘において『恐怖』という感情は絶対に欠かしてはならないものだ。
恐怖を知らない術師は、己の限界や危機的状況を見誤り、あっけなく死ぬ。恐怖を正しく認識し、受け入れた上で思考を回すことこそが生存への絶対条件なのだ。
だから、うみも『恐怖』という感情自体はしっかりと持ち合わせている。
ただ――これまで相手にしてきた特級呪霊や呪詛師たちに比べれば、トータスの魔物に対するそれは、ひどく薄いものでしかなかったが。
そんな内心はおくびにも出さず、うみはニッと口角を上げた。
「んー……怖いっていうよりは、楽しみの方が勝ってるかな」
「た、楽しみ……ですか? 命がけの実戦なんですよ!?」
信じられないといった顔をするリリアーナに、うみは悪戯っぽく笑う。
「だって、この一ヶ月間、アトリエに引きこもっていろいろ作ってきたからね。
さすがに人相手には試せないから燻らせてきたものを、ようやく試せるんだ。ワクワクしないわけがないでしょ」
職人というか、完全に戦闘狂のそれである。
呆れ半分、驚き半分といった様子で目を瞬かせるリリアーナだったが、すぐにまたその眉尻を下げ、不安げな表情に戻ってしまった。
「……でも。香織や雫は、ステータスも高くて戦いにも向いていますけど……うみくんのステータスは、その……」
言い淀むリリアーナ。無理もない。彼女が把握している(偽装された)うみのステータスは、クラスメイトの中でも平均か、それ以下の非戦闘職のものである。
「もし、迷宮でうみくんに何かあったら……私……っ」
リリアーナの震える声。王女としての建前ではなく、ただのひとりの少女としての切実な心配がそこにあった。
その純粋な思いやりに触れ、うみは小さく息を吐いた。
明日からの遠征を前に、自分がここで果たすべき最後の役目は明白だった。
この目の前で震える少女から、不安という呪いを取り除き、絶対の安心を与えることだ。
うみはゆっくりと、顔の半分を覆っていた黒い目隠しへと手を伸ばした。
スッ、と。
目隠しが外され、夜の闇に宝石のような蒼い瞳――『六眼』が顕わになる。
(……うん。もう、脳への負担もほとんどない)
召喚された当初は、異世界の未知なる情報量に脳が焼かれそうになっていたが、
一ヶ月の時間を経て、うみの規格外の脳と六眼は完全にトータスの環境へと適応を果たしていたのだ。
月光を反射して煌めく蒼い瞳が、リリアーナを真っ直ぐに射抜く。
息を呑むほどに美しく、底知れない深淵を覗き込むようなその瞳に見つめられ、リリアーナは言葉を失った。
そして、うみは流れるように、彼自身が最も信頼し、目標としてきた『最強』の男の口癖を、悪戯っぽく笑いながら口にした。
「大丈夫。俺、最強だから」
――ステータスという絶対的な数値が支配するこの世界において、
平均以下の非戦闘職の少年が発するにはあまりにも滑稽で、傲慢な言葉。
だが。
(……あ)
その言葉を聞いた瞬間、リリアーナの胸の奥で渦巻いていた不安の靄が、嘘のように一瞬で晴れ渡っていった。
頭では「うみくんのステータスは高くない」と分かっているはずなのに。
彼の放った『最強』という言葉と、顕になったその蒼い瞳には、そんな常識や数値を軽々と粉砕してしまうほどの、
圧倒的な【説得力】と【質量】が宿っていたのだ。
底知れない安心感に包まれ、リリアーナは抑えきれないほどの甘い高鳴りを感じていた。
「ま、そういうわけだから。心配しないで待っててよ。お土産話、たくさん持って帰ってくるからさ」
うみはスッと目隠しを付け直すと、軽く手をひらひらと振り、夜の闇に溶けるようにバルコニーを後にした。
一人残されたリリアーナは、自らの胸元をきゅっと握りしめ、火照る頬を夜風に冷ましながら、満面の笑みでその背中を見送るのだった。