ガタゴト、ガタゴトと、車輪が土を蹴る単調な音が響く。
王都を出発し、オルクス大迷宮を擁する迷宮都市ホルアドへと向かう街道。
数十台からなる王国の大型馬車が隊列を組んで進む中、その後方にある一台の幌馬車の中は、
前方から聞こえてくる生徒たちの浮かれた喧騒とは無縁の空間となっていた。
向かい合う長椅子に座っているのは三人。
窓の外を流れる景色を眺めている南雲ハジメ。
黒い目隠しをしたまま、のんびりと背もたれに体重を預けている月影うみ。
そして、膝の上で両手を上品に重ね、優等生らしい穏やかな微笑みを浮かべている中村恵里だ。
「よし、距離も十分」
うみはぽつりと呟くと、指先で小さく印を結び、静かに呪詞を紡いだ。
「――『闇より出でて闇より黒く その穢れを禊ぎ祓え』」
直後、荷台部分だけをすっぽりと覆い尽くすように『帳(とばり)』が降ろされた。視覚的には何の変哲もないが、外部の音が僅かにくぐもったかと思うと、
御者台にいる騎士や周囲を固める護衛たちの気配から完全に隔離された。
「帳を降ろしたから、もう周りは気にしなくてもいいよ」
「ちょっと待って、うみくん。……『帳』って何? なにしたのさ」
「うん、私も気になる。全然わかんなかった」
ハジメと恵里が不思議そうに首を傾げる。
二人からすれば、うみが何かを唱えた直後に外の雑音がフッと消えたことしか分からないのだ。
「ああ、そっか。呪術関係についてはハジメに『縛り』の話をしたくらいだったか」
うみは軽く手を打ち、解説を始めた。
「『帳』っていうのは、俺たち呪術師が一般人から任務を隠すために使う結界のこと。
基本は『外から入れなくする・中を見えなくする』ための真っ黒な外殻を形成して、人払いするんだけど」
「ふむふむ。でも、今ここ真っ黒じゃないよね?
それに僕たち今移動してるけど、ゲームとか漫画のお約束だと、
結界ってその場に固定されて動かせないものじゃないの?」
「まあね。ハジメの言う通り、普通に空間に張ったら馬車だけが素通りして結界が置いてけぼりになっちゃう」
「あー、やっぱり」「だから今回は、俺たちが乗ってる荷台の『壁』そのものを結界の境界として転用したんだ。
馬車という既存の箱そのものを結界にしてしまえば、移動の問題はクリアできるでしょ?」
「なるほど。箱そのものに術をかけたような状態か」
「そゆこと。ついでに『外から見えなくする効果』と『物理的な出入り制限』を完全にオミットして、
その分のリソースを防音に特化させた。だから外からは普通の馬車にしか見えないけど、中の音は一切漏れない」
「結界のルールをいじって特化させたんだね。器用だなぁ」
ハジメが感心したように息を吐く。
「結界術は得意分野だからね。まあなんにせよ、これで俺らが何を話してようと周りには一切伝わらないってわけ。
だから……もう大丈夫だよ、恵里」
「はぁ〜……疲れたぁ」
うみの言葉を合図に、恵里の顔から『完璧な優等生の微笑み』がスッと剥がれ落ちた。
彼女は先ほどまでの上品な姿勢を崩すと、コテン、とうみの肩に自らの頭を乗せ、体重を預けるようにしてすり寄った。
「お疲れ様。相変わらず完璧な仮面だったよ」
「ん……兄さんがそう言ってくれるなら、頑張った甲斐があるかな」
うみが慣れた手つきで恵里の頭を撫でると、彼女は喉を鳴らす猫のように目を細める。
その劇的な豹変ぶりを目の前で見せられたハジメは、頬を引き攣らせて小さく息を吐いた。
「ほんと……兄妹揃ってすごい演技力だよね。感心するよ」
「そう? まぁ、俺たち呪術師は一般社会に紛れなきゃいけないからね。ある程度のカモフラージュは必須スキルだよ」
うみがあっけらかんと答えるが、ハジメは納得いかないというようにジト目を向けた。
「いや、一般人に紛れようとして出てきたのが、あの『不思議君キャラ』なのはどう考えてもイカれてると思うんだけど……。
絶対に目立ってるし、いろんなところでフラグ立ててるし」
「……ふらぐ?」
オタク用語に疎い恵里が、うみの肩に頬を乗せたまま、不思議そうに小首を傾げる。
「ああ、えっと……なんていうか、無自覚に気を持たせたり、人間関係引っ掻き回したりするキッカケを作ってるってこと。
最近だけでも、王女様とか愛子先生とか騎士団の人とか……八重樫さんも怪しいかな?」
ハジメは頭を抱えながら、これまでにうみがやらかしてきた数々のフラグ建築の数々を思い出し、深くため息をつく。
その説明を聞いた瞬間。恵里の空気がスッと冷えた。
彼女はうみの肩から頭を上げると、ジトッと、文字通り氷点下のような冷たい視線をうみへ向けた。
「兄さん?」
「いきなり何言うのさハジメ! 俺はそんなもの立てたことは一度もないし、リリィたちに失礼だよ!」
「…………」
ハジメは、本気で心外だと言わんばかりに抗議してくる親友に対し、
(マジかよこいつ……)とドン引きしたような、信じられないものを見る視線を向けた。
「うみくん、その自覚のなさは本気でいつか刺されるよ……」
頭を抱えるハジメをよそに、うみは全くピンときていない様子で小首を傾げる。
だが、その横では、恵里から放たれる冷気がジワジワと室内の温度を下げていた。
「……まあ、兄さんが無自覚なのは今に始まったことじゃないし。でも、あんまり他の女の子ばっかり構ってたら、怒るからね」
「えぇ……なんなのさ二人して」
地球にいた頃から変わらない、妹からの静かな圧力。自分がなぜ怒られているのか、
あるいは呆れられているのか全く理解できていない不服そうな顔をしながらも、うみはとりあえず頷くことしかできなかった。
その様子を見て、ハジメは(やっぱりこの兄妹、力関係おかしいよな……)と内心で呆れつつも、少しだけ安堵の息を吐いた。
異世界という理不尽な状況下にありながら、この馬車の中だけは、地球にいた頃と何一つ変わらない『日常』の空気が流れていたからだ。
「……まあ、ハジメの言いがかりに関しては後で目一杯抗議するとして」
うみはコホンと一つ咳払いをし、強引に話題を切り替えた。
「はい、これ」
そう言って、うみは足元の影へとスッと手を沈め、一冊の真新しいノートを引き抜いて恵理へと差し出した。
「ノート……?」
恵里が不思議そうにそれを受け取る。
「この一ヶ月、ハジメの特訓の裏で俺なりに恵里の『降霊術』について少し研究してみたんだ。その成果だよ」
「私の、降霊術……」
恵里がノートを開くと、そこには美しい文字で、幾つかの『詩』のような文章と、それに対応するような武具の挿絵が記されていた。
「これ、詩……? それに、なんか見覚えのある甲冑とか剣なんだけど」
「ゲームとか漫画でよくあるじゃん? 英霊とかを呼び出す時に、ゆかりのある遺物を使うって設定。
でも、この世界には地球の英霊の遺物なんてないでしょ?」
「あ、確かに」と、ハジメが相槌を打つ。
「だから、遺物の代わりになる『縁』を用意したんだ。
俺の記憶の中にある、地球の歴史上の人物……その人生や功績を要約した『詩』だよ。
言葉そのものを、対象を呼び寄せるための『鍵』として使うんだ」
「言葉を、鍵に……。なるほど、これなら遺物がなくても降霊できるね」
恵里はノートのページを丁寧にめくりながら、感心したように息を吐く。
「ただ、前にも言った通り、今の恵里の器じゃ、強力すぎる霊を降ろすと乗っ取られる危険がある。
だから、そこに載せてるのは……ゲーム的に言うなら、レアリティの低い、自我が薄くて制御しやすい霊だけだね」
「レアリティが低い霊?」
「うん。例えば、最初のページに書いてあるのは『円卓の騎士』の一人……といっても、
アーサー王とかランスロットみたいな誰もが知ってるって人じゃない。騎士王の養父だった『エクター卿』の詩だよ」
「エクター卿……たしか、アーサー王の育ての親だっけ?」
ハジメがオタク知識で補足すると、うみは頷いた。
「そうそう。彼自身の歴史上の立ち位置が『サポート役』だから、英霊としての『格』や自我の圧が控えめで、
今の恵里でも乗っ取られる危険が少ないはず。性格も温厚で話が通じやすいしね。
でも、これを降ろせば一時的に熟練の騎士の剣術が使えるようになる」
「なるほど……!」
「他にも、弓の腕前だけなら超一流の『ウィリアム・テル』とかね。
誰もが知ってるような存在じゃなくて、単一の能力に特化してて精神的な負荷が少ない……
ソシャゲで言うなら星1とか星2の霊を厳選しておいたんだ」
「すごい……! ありがとう、兄さん! これなら、今よりもちゃんと戦えるよ!」
恵里は目を輝かせ、ノートを胸にぎゅっと抱きしめた。
「でも、無茶はだめだよ? 長時間の使用は体への負担が大きいだろうし……こういうのは代償が大きいのがお約束だからね。
恵里がいなくなっちゃうのは嫌だよ?」
うみは少しだけ真面目なトーンで注意を促す。
「もちろん。私だって兄さんと会えなくなるのは絶対に嫌だもん」
恵里がノートを抱きしめたまま、上目遣いでうみを見つめ、ギュッとその腕にしがみつく。
極度のシスコン・ブラコン気質を隠そうともしないその発言と近すぎる距離感に、
ハジメは(やっぱりこの兄妹、距離感おかしいよな……)と内心でツッコミを入れた。
「今日ホルアドに着いて自由時間があったら、一度試してみようか」
「うんっ! 任せて、兄さん!」
満面の笑みで頷く恵里を見て、ハジメはどこか居心地が悪そうに頬を掻いた。
「あのさ、二人の世界に入ってるとこ悪いんだけど……あんまりイチャイチャされると、目の前にいる僕としてはさすがに気まずいんだけど?」
「「……え?」」
ハジメの控えめな抗議に、うみと恵里は揃ってキョトンと首を傾げた。
「イチャイチャなんてしてないよ。ねぇ、恵里?」
「うん。私たちにとってはこれが普通だもん」
「その『普通』の基準がおかしいって言ってるんだけど……」
本気で意味が分からないという風に顔を見合わせる兄妹に、ハジメは深々とため息をつく。
地球にいた頃から変わらない、血の繋がっていない家族としての異様に近い距離感。二人にとっては、このスキンシップはただの日常でしかないのだ。
「まぁ、ハジメが気まずいって言うなら少し考えるけどさ。……さてはハジメ、白崎さんとイチャイチャできないからって僻んでる?」
「なっ!? ば、ばっ……! なんでそうなるのさ!?」
うみのニヤニヤとしたからかいに、ハジメの顔が一瞬で林檎のように真っ赤に染まる。
「えー? だって、昨日の夜もさ。リリィの部屋から戻ってきた後、工房で少し作業しようと思ったのに……
ハジメと白崎さんが二人きりでいい雰囲気になってるから、流石の俺でも空気読んで入れなかったんだよねー」
「ふーん? あんなに見つめ合ってたのにー?」
「うわぁぁぁ! 忘れて! 見てたなら今すぐその記憶消して!!」
ワタワタと手を振って慌てふためくハジメの反応をBGMに、うみと恵里は顔を見合わせてクスクスと笑い合う。
戦場へと向かう馬車の中だというのに、この結界で守られた空間だけは、地球の放課後と何一つ変わらない穏やかで馬鹿馬鹿しい空気に包まれていた。
「あははっ! ほんとにハジメは面白いなー」
うみはそう言って、窓の外へと視線を向けた。 遠くには、王都の城壁が少しずつ小さくなっている。
この馬車の向かう先には、多くの冒険者や商人で賑わう迷宮都市ホルアドが待っている。
そして、その街の喧騒の中心に――目的の場所である『オルクス大迷宮』があるはずだ。
***
馬車に揺られること数日。
一行はついに、目的の場所である迷宮都市『ホルアド』へと到着した。
石造りの巨大な防壁に囲まれたその都市は、王都に勝るとも劣らないほどの熱気と活気に満ち溢れていた。
街道沿いには無数の商店や露店が立ち並び、様々な種族の商人たちが声を張り上げている。行き交う人々の多くは、
武器や防具を身につけた冒険者たちだ。彼らの顔には、一攫千金を夢見る野心と、死線を潜り抜けてきた者特有の鋭さが同居していた。
「すっげぇ……! まんまゲームの街じゃん!」
「見て見て、あそこの店、剣がいっぱい並んでる!」
「おい、あまり勝手に動き回るなよ!」
初めて目にする本格的な『ファンタジーの街』の光景に、生徒たちは修学旅行気分のまま目を輝かせてはしゃいでいる。
引率のメルドや騎士たちも、彼らの浮かれた空気を咎めることはなく、ある程度は大目に見ているようだった。
「さて、皆の者。まずは滞在の間の拠点となる宿へ向かうぞ」
メルドの号令に従い、一行は街の少し奥まった場所にある、王国御用達の巨大な高級宿へと案内された。
豪華なロビーでそれぞれの部屋割りが発表された後、メルドから今後の予定が通達される。
「今日は長旅の疲れもあるだろう。夕食までの時間は自由行動とする。
ただし、迷宮周辺や治安の悪い路地裏には絶対に近づかないこと。
出歩く際は必ず数人で行動し、何かあればすぐに近くの騎士に報告するように。以上だ」
『自由時間』という言葉を聞いた瞬間、生徒たちから歓声が上がった。
彼らは早々に荷物を部屋に放り込むと、幾つかのグループに分かれて、ワクワクとした様子でホルアドの街へと繰り出していった。
恵里も例外ではなく、ルームメイトである鈴から「恵里ちゃん! 一緒に街見て回ろうよ!」と元気いっぱいに誘われていた。
うみと目を合わせると、うみは小さく頷いてみせた。「夜、時間作るから」という視線での合図だ。
それを確認した恵里は、いつもの『優等生の微笑み』を浮かべて鈴の誘いに乗り、女子グループに混ざって宿を出て行った。
***
夜。
夕食を終え、生徒たちの多くが明日の迷宮探索に備えて早々に眠りにつく中。
うみとハジメの相部屋では、二人の少年がベッドに腰掛けていた。
「ハジメ、ちょっと出かけてくる」
「えっ? こんな時間に? どこ行くのさ」
何かを察知したように、うみはスッと立ち上がると、窓枠に足をかけた。
「ちょっと恵里と『実験』してくる。すぐ戻るよ」
「実験って……あぁ、馬車で話してた降霊術の? でも、見つかったら怒られるんじゃ……」
「大丈夫、結界張ってコソコソやるから。あ、そうだハジメ」
窓から夜の街へ飛び出す直前、うみは振り返り、ニヤリと笑った。
「今日は眠れるといいね」
「えっ? どういう……」
何が? と戸惑うハジメを置き去りにして、うみは音もなく夜の闇へと溶けていった。
「……ほんと、あの不思議君は何考えてんだか」
一人残された部屋で、ハジメはベッドに倒れ込みながら深々とため息をついた。
しかし、ハジメがウトウトとまどろみ始めたその時。
ハジメの睡眠を邪魔するように、コンコン、と控えめに扉をノックする音が響いた。
(こんな時間に誰だ……?)
少し早いと言っても、トータスにおいては十分深夜にあたる時間。
怪しげな深夜の訪問者に、(まさか檜山達が闇討ちに……!?)と、ハジメは緊張を表情に浮かべて扉に近づく。
しかし、その心配は続く声によって見事に打ち砕かれることとなった。
「南雲くん、起きてる? 白崎です。ちょっと、いいかな?」
「……なんでやねん」
一瞬硬直したハジメは、思わず関西弁でツッコミを入れてしまう。
慌てて鍵を外して扉を開けると、そこには純白のネグリジェにカーディガンを羽織っただけの香織が立っていた。
いくらリアルに興味が薄いとはいえ、ハジメも立派な思春期男子。今の香織の格好は少々刺激が強すぎる。
「あ〜いや、なんでもないよ。えっと、どうしたのかな? 何か連絡事項でも?」
「ううん。その、少し南雲くんと話したくて……やっぱり迷惑だったかな?」
ハジメの問いをあっさり否定し、香織は上目遣いという名の弾丸を撃ち込んでくる。
その破壊力は絶大だった。気がつけば、ハジメは扉を開け、彼女を部屋の中に招き入れてしまっていたのだ。
「うん!」
なんの警戒心もなく嬉しそうに部屋に入る香織を見ながら、ハジメは先ほどの親友の言葉を思い出す。
(『今日は眠れるといいね』って……これのことかぁぁぁ!!)
うみが察知していたものの正体に気づき、ハジメは内心で盛大に頭を抱えたのだった。
***
ホルアドの街外れ。迷宮とは反対側に位置する、人気のない静かな森の入り口。
うみは気配を消しながらその場所に降り立つと、すでにそこで待っていた人物に声をかけた。
「お待たせ、恵里。……誰かに見られなかった?」
「うん、大丈夫。宿を出る時からずっと気配は消してたし、尾行もないよ」
木陰から姿を現したのは、宿着姿の上に薄手の外套を羽織った恵里だった。
周囲に人気がないことを改めて確認すると、うみはすぐに『帳』を降ろし、この空間を外界から完全に隔離した。
「よし、これで誰にも見られないし、音も漏れない。……それじゃあ、早速試してみようか。恵里、準備はいい?」
「うん。……エクター卿だよね」
恵里はこくりと頷き、うみから渡されたノートを取り出した。
その表情は、いつもの優等生としての仮面を脱ぎ捨てた、真剣なものへと変わっていた。
「何かあっても俺が対処するから。気負わずやっちゃおう」
「分かった」
恵里は深く深呼吸をすると、ノートの最初のページに視線を落とす。
月明かりすらない『帳』の中、うみが指先で作った小さな青白い炎だけが頼りだった。
彼女は自身の魔力を練り上げ、ゆっくりと、しかしはっきりとした声で言葉を紡ぎ始めた。
「――『古きブリテンの森、静かなる領主よ』」
その言葉をトリガーとして、恵里の周囲の空気が僅かに震えた。
魔力が形を持ち、彼女の足元に淡い光の波紋が広がる。
「――『預かりし希望を育て、義を以て騎士を導きし者よ』」
詠唱が進むにつれ、その光は徐々に形を成し始めた。
半透明の、古い時代の甲冑を身に纏った初老の騎士の姿が、恵里の背後に浮かび上がる。
うみの狙い通り、それは周囲を圧倒するような覇気はなく、ただ静かに、主を支えるような温厚な気配を纏っていた。
「――『汝の剣技、汝の忠節、今ここにて我に預けよ』」
最後の言葉と共に、騎士の霊体はスッと恵里の体の中へと溶け込んでいった。
直後、恵里の雰囲気がガラリと変わる。
元々は文化系の女子高生である彼女から、まるで歴戦の騎士のような、隙のない静かな威圧感が放たれたのだ。
「視たところ問題なさそうだけど……どんな感じ?」
「うん……不思議な感覚。頭の中に、剣の振り方とか、足の運び方とか……全然知らないはずの技術が、
最初から知ってたみたいに浮かんでくる。それに、なんだかすごく……心が落ち着いてる」
恵里が自身の手のひらを見つめながら答える。声のトーンも、どこか普段より落ち着いているように聞こえた。
「じゃあ、実際に効果のほどを試してみようか」
うみはそう言うと、足元の影にスッと両手を沈め、何の変哲もない二振りの木剣を引きずり出した。
そのうちの一振りを軽く放り投げて恵里に渡す。
「はい、これ。どこからでもどうぞ」
「……いくよ、兄さん」
恵里は木剣を受け取ると、ふぅ、と小さく息を吐いて構えを取った。
それは素人の見よう見まねではない。重心を低く落とし、剣先をブレなく相手へ向ける、洗練された騎士の構えだった。
ダンッ! と、土を蹴る音が響く。
先ほどまでの華奢な少女からは想像もつかない鋭い踏み込みで、恵里が一気に間合いを詰める。
真っ直ぐに放たれた突き。それは空気を裂く音と共に、正確にうみの胸元を捉えようとした。
しかし。
「――うん、良い踏み込みだ」
うみは半歩だけ軸足をずらすと、飛んできた刃の側面を自身の木剣で軽く弾いた。
パィン! という甲高い音が鳴り、恵里の剣筋がいとも簡単に逸らされる。
「くっ……!」
恵里は即座に体勢を立て直し、流れるような動作で連撃を放つ。上段からの振り下ろし、横薙ぎ、そして下段からの切り上げ。
流麗で隙のない、熟練の騎士の剣技。
だが、うみはそのすべてを、まるで散歩でもしているかのような足運びで避け、あるいは木剣の腹で軽く受け流していく。
禪院真希や虎杖悠二といった近接戦闘のスペシャリストと打ち合いができる実力は伊達ではない。
実戦経験の差も相まって、二人の手合わせは完全にうみが恵里をあしらっている状態だった。
「はぁっ、はぁっ……!」
「はい、そこまで」
数分ほど打ち合った後、うみがパンッと小さく手を叩いて終了を告げた。
恵里は肩で息をしながら、木剣を下ろす。
「すごいね、恵里。戦闘どころか、剣道未経験の恵里とここまでまともに打ち合えるとは思わなかった。
エクター卿でこれなら、将来的にアーサー王とか有名な英霊を降ろせるようになるのが楽しみだ」
「ぜぇ、ぜぇ……兄さん、全然、本気じゃなかった、くせに……」
息を切らす恵里の頭を、うみは労うように撫でた。
「そりゃあ経験の差が大きすぎるからね。それに技量はアクター卿でも、体は恵里のだからね。
でも現状であれだけできるなら、切り札としては十分すぎるくらいだよ」
「……うん。でも、やっぱりすごく疲れる……」
「初めてだしね。長時間は禁物だよ。今日はもう終わりにしよう」
うみの言葉に頷き、恵里は深く息を吐いて術を解除する。
フッと彼女から騎士の気配が消え、いつもの文化系女子高生へと戻った。途端に、ガクッと膝から崩れ落ちそうになる。
「おっと。やっぱり反動がくるか。お疲れ様、恵里」
「えへへ……ごめんね、兄さん」
疲労で自力で歩くのも辛そうな恵里を見て、うみは苦笑しながら背中を向けた。
「ほら、乗って。宿まで送るから」
「……うんっ」
嬉しそうに背中に飛び乗ってきた恵里を背負い、うみはパチンと指を鳴らした。
周囲を覆っていた漆黒の『帳』が、煙のように霧散していく。
「んふふ〜……兄さんの匂い、すっごく落ち着く……」
「ちょ、恵里、首元に息吹きかけないでよ。くすぐったい」
「えー? いいじゃん、これくらい。……ねえ、兄さん」
夜のホルアドの街を、二人は静かに歩いていく。
うみの背中に頬を擦り寄せながら、恵里はぽつりと零した。
「……私、本当はちょっと怖いよ」
「明日の迷宮探索?」
「うん。……いくらステータスが高くても、私たちってただの高校生じゃない?
なのに、魔物と殺し合いをするなんて……」
「……そっか」
震える恵里の声を、うみは静かに受け止めた。
「怖いのは当然だよ。っていうか、むしろ正しい。恐怖を知らない人間は、自分の限界や危機を見誤ってあっけなく死ぬ。
恐怖を正しく認識して、受け入れた上で頭を回すこと……それが生存への絶対条件だからね」
「……うん」
「でも、大丈夫。……大抵のことは俺がなんとかするから」
うみは前を向いたまま、力強く告げる。
「騎士団の前で下手に動けば協会に伝わるだろうから、どうしようもない状況までは動く気はないけど。
でも、本当にやばくなったら、俺が恵里とハジメを絶対に守るよ」
「……うんっ。兄さんがいてくれるなら、私、頑張れる」
やがて、一行が泊まる高級宿へと到着した。
「恵里の部屋ってどこ? 送ってくよ」
「……兄さんは、この後どうするの?」
「んー? 適当にふらふらするよ。部屋には今、白崎さんがいるだろうしね。邪魔しちゃ悪いから」
「……じゃあ、私も兄さんと一緒にいる。まだ部屋に戻りたくない」
「そ? まぁ、俺は構わないけど」
恵里の我儘に苦笑しつつ、うみは宿の中へと足を踏み入れた。
人目を避けるように宿の中庭の近くを通りがかった、その時だった。
「――ふっ、しっ!」
「ん……?」
「どうしたの、兄さん?」
足を止めたうみに、背中の恵里が不思議そうに小首を傾げる。
「いや、中庭の方からなんか聞こえない? 誰かいるみたいだ」
「え……こんな夜中に?」
「ちょっと見てみようか」
うみは足音を殺して中庭へと繋がる通路を進む。
視線を向けると、そこには月明かりの下、木刀を振るう黒髪のポニーテールの少女――八重樫雫の姿があった。
しかし、足音を殺していたはずのうみの気配に、雫はピタリと動きを止めた。
「誰っ!?」 鋭い声と共に、雫がこちらへ木刀の切っ先を向ける。
だが、その切っ先の先にいる人物――背中に恵里を負ぶったまま、いつもの黒い目隠しをつけて飄々と立っているうみの姿を認めた瞬間、彼女はポカンと口を開けてフリーズした。
「月影くん……と、中村さん? なんでこんな夜中に、しかもおんぶ……?」
信じられないものを見るような雫の視線に、背中の恵里は「やばい、どうしよう……」と小声でうみの耳元で囁く。
しかし、うみは全く慌てる様子もなく、むしろ「まぁ、八重樫さんなら口堅いしいいんじゃない?」と、あっけらかんと返した。
「こんばんは、八重樫さん。明日は迷宮探索だっていうのに、精が出るね」
「こ、こんばんは……。って、そうじゃなくて。二人は今までどこに……?
っていうか、なんで月影くんが中村さんをおんぶしてるの?それに、二人とも、なんだか普段と雰囲気も……」
木刀を下ろしながらも、混乱した様子で問い詰めてくる雫。
うみは悪びれる様子もなく、のんびりと答えた。
「あー、ちょっと恵里と夜風に当たりながら話してただけだよ。で、恵里が歩き疲れたっていうから、おんぶして帰ってきたところ」
「夜風に当たりながら……こんな時間に、二人きりで? しかも、今呼び捨てで……」
雫の表情がみるみるうちに強張っていく。
『夜の密会』『おんぶするほどの距離感』。その要素が結びついた結果、雫の脳裏にある明確な『誤解』が生じた。
同時に、昨晩バルコニーで顔を真っ赤にしていた親友――リリアーナの姿がフラッシュバックする。
「つ、月影くん……あなたって人は……!」
「ん?」
「リリィというものがありながら! しかも香織の背中は押したくせに、自分はそんな不誠実な……っ。最低よ、月影くん!」
正義感の強い雫は、リリアーナへの義憤に駆られ、ビシッと木刀の切っ先を再びうみへと向けた。
親友をたぶらかし(本人は無自覚だが)、別の場所では別の女子生徒と親密にしている『最低の女たらし』を見る目だ。
「えぇ……ごめん、ちょっと待って。いきなり何の話?」
うみは身に覚えがなさすぎて、心の底からの困惑を浮かべている。
「月影くんが誤魔化す気なら、私がリリィの代わりにここで成敗――」
「あはは……八重樫さん、誤解だよ。私たち、そういうのじゃないから」
一触即発(雫の一方的な)になりかけたところで、うみの背中にいた恵里が苦笑交じりに口を開いた。
先ほどまで見せていた『完璧な優等生の仮面』の気配は微塵もない、呆れを含んだ素の口調だ。
「え? で、でも……その距離感は、どう見ても……」
「だって、私とこの人……兄妹だもん」
「…………はい?」
予想の斜め上をいくカミングアウトに、雫は再びポカンと口を開けた。
「きょ、兄妹……? でも、苗字違うし、学校でそんな素振り……」
「ああ、苗字が違うのは血が繋がってないからだよ。俺たち、同じ孤児院の出身なんだ。
今は恵里が孤児院暮らしで、俺は一人暮らししてるけど」
うみのあっけらかんとした説明に、雫はさらに目を丸くする。
「兄さんが転校してきた時、ただでさえ目立ってたのに、『兄妹』なんて情報がバレたら絶対に面倒なことになるって話し合ったの。
私は孤児院にいることも隠してるし」
「なるほど、そういう事情があったのね……。でも、それならどうして二人とも、
あんな風に……その、普段と全然違う雰囲気なの?」
雫は、目の前でうみの背中にぴったりと身を預ける恵里と、それを当たり前のように受け入れているうみを交互に見比べる。
学校での『大人しい優等生』と『マイペースな不思議君』という印象からは、到底結びつかない空気感だった。
「私の方は、単に処世術だよ。学校じゃ『優等生の中村さん』でいるのが一番トラブルを避けられるし、誰も踏み込んでこないから。ただの便利な仮面」
「俺の方は、ちょっとね。俺、向こうじゃそこそこの有名人だからさ。普通にしてるとバレちゃうから、あのキャラ付けと目隠しでカモフラージュしてるってわけ」
「有名人……?」
眉を顰める雫に対して、うみは「あーでも、八重樫さんは知らないかもなぁ」なんて言いながら、あっさりと目隠しを外した。
「こんな顔で活動してるんだけど……」
月明かりの下、顕になったその素顔。
銀青の髪に、透き通るような白磁の肌。そして何より、宝石のように美しい氷青の瞳。
凛とした空気を纏うその非現実的なまでの美貌は、夜の闇にあってなお、発光しているかのように目を引いた。
「っ……!」
その顔を見た瞬間、雫は雷に打たれたように硬直した。
可愛いものや美しいものが人知れず大好きな雫の脳内に、最近よく見ているファッション誌の表紙や、
バレンタインのコラボ配信でアイドルたちと並んでいた『あるモデル』の姿が、目の前の少年と完全に重なったのだ。
「えっ……嘘。銀青の髪に……その目。それに、その声……。まさか、モデルの『Luna』……!?」
「しーっ。それはここだけの秘密ね、八重樫さん」
うみは口元に人差し指を立てて、片目をつむり悪戯っぽく笑いかけた。
その仕草に、雫は顔をボンッと赤くして両手で口を覆う。
「まあそんなわけで、俺と恵里はそういうんじゃないよ」
「ついでに言うと、兄さんにそういうのを求めるのはやめといた方がいいよ。難攻不落どころの話じゃないから。
それにしても、八重樫さんがそこまで言うほど、王女様と仲良くなったのは聞いてないんだけど?」
恵里がうみの背中から、ジトっと冷ややかな視線を向ける。
「いや、俺は別に何ともないんだけど……。恵里までなんなの?」
「……はぁ。八重樫さん、この人こういう人だから」
本気で身に覚えがないというように首を傾げるうみに、恵里は呆れ果てたように深くため息をついた。
その様子を見て、雫も「あ、うん……なんだか、大変ね……」と苦笑いしてしまう。
「それにしても、意外だなぁ。八重樫さんが俺のこと知ってるとは思わなかったよ」
「っ!? あ、ちが、これはその、たまたま香織が読んでた雑誌を少し見ただけで……!」
内心の動揺を誤魔化すように、雫は慌てて両手を振りながら早口で否定する。
彼女にとって「可愛いもの好き」がバレることは、長年守り続けてきた「剣術小町」のイメージを自ら壊すようなもの。
絶対に知られたくない秘密だった。
しかし、そんな彼女の必死の抵抗を、恵里の容赦ないツッコミが打ち砕く。
「……兄さんの嘘つき」
「え?」
「私にはあんまりわかんないけど、兄さんが八重樫さんのことに気づかないわけないでしょ」
「……せっかく本人が触れてほしくなさそうだから、誤魔化すようにパス出したのに。なんてことするのさ」
うみがやれやれと肩をすくめると、雫はビクッと肩を跳ねさせた。
「えっ……気づいて、たの?」
「細かくは分からないよ。ただ、周りからの期待とかイメージの圧で、自分を抑え込んでるタイプなんだろうなって思ってただけ」
うみはどこか同情するような、それでいてあっけらかんとした口調で分析を口にした。
図星を突かれた雫は、ふうっと小さく息を吐き、木刀を握る手を緩めた。
「……なんでもお見通しってわけね。ええ、そうよ。本当は……可愛いものが好きなの。
Lunaくんが表紙の雑誌も……こっそり買ってるわ」
「お買い上げありがとうございます♪」
「からかわないでよ……」
あっけらかんと頭を下げるうみに、雫は自嘲気味な笑みを浮かべた。
「でも、私には似合わないでしょ? みんなが求める『八重樫雫』は、凛としていて、カッコよくて、
頼りになる『剣術小町』だから。私が可愛いものにはしゃぐなんて、みんなの期待を裏切ることになるもの」
「……それ、本気で言ってるの?」
「え?」
うみの氷青の瞳が、少しだけ呆れたように雫を見据える。
「可愛いものが好きだと、頼りにならなくなるの?」
「そ、それは……」
「もしそうなら、男のくせにフリフリで可愛い服を着せられて、
猫耳までつけてる姿を世間に晒しまくってる俺は、絶望的に頼りにならないポンコツってことになるんだけど」
「ぷっ……あははっ、自爆だね、兄さん」
背中の恵里が吹き出し、うみの首に抱きついたままクスクスと笑い声を上げる。
「でも確かに、可愛い服着てる兄さんでも、最高に頼りになるのは変わらないよ」
「あ……」
「誰かの期待に応えるために仮面を被るのは否定しないよ。俺も恵里もやってることだし。
でも、自分の『好き』まで否定してたら、いつか息苦しくなって壊れちゃうよ」
うみの言葉が、雫の胸の奥にストンと落ちる。
仮面を被ることと、本当の自分を否定することは違う。
その言葉は、同じように仮面を被って生きる彼らだからこそ、奇妙な説得力を持っていた。
「……今日に限って、素振りの剣筋がブレブレになってるのも、その辺が理由?」
「えっ?」
「……どういうこと? 兄さん」
突然話の毛色を変えたうみに、恵里が不思議そうに首を傾げた。
「よく言うでしょ? 剣は心を映す鏡だって。さっき見てた八重樫さんの素振り、
フォームは綺麗だけど、どこか迷いがあるっていうか……無理に振り下ろしてるみたいだったから」
うみの指摘に、雫はハッとして木刀を握り直す。
その手は、小さく震えていた。
「……そんなことまで分かるのね」
雫はポツリと呟き、夜空を見上げた。
「……怖いのよ。明日からの迷宮探索……魔物と殺し合いをするなんて、ただの高校生の私たちには重すぎる。
でも、私は……香織やみんなを守らなきゃいけない。私がしっかりしなきゃいけないのに、こんな……」
押し殺すような声で吐露された、等身大の少女の弱音。
「剣術小町」でも「お姉さん役」でもない、ただの一人の少女としての恐怖。
その言葉に、うみはやれやれと肩をすくめ、少し呆れたような、けれど優しい声を紡いだ。
「ちょっと、気負いすぎなんじゃない?」
「え……?」
「まあ、一番強くて頼りにならないといけないはずの天之河くんが、
あんなに甘ちゃんじゃ仕方ないのかもしれないけどさ。八重樫さんが全部背負って、完璧でいなきゃって思っちゃうのもね」
うみの遠慮のない光輝への評価に、雫は苦笑いする。実際、彼の言う通りだった。
光輝の危うさを誰よりも理解しているからこそ、自分がしっかりしなければという重圧があったのだ。
「よし」
うみは小さく手を叩くと、あっけらかんと言い放った。
「じゃあ、八重樫さんが背負ってるその重たい荷物、半分くらい俺が持ってあげるよ」
「……え?」
「か弱い女の子にこんな重いもの全部持たせたまんまじゃ、硝子さんと歌姫さんに怒られちゃうからね」
『か弱い女の子』。
これまで「頼りになる剣士」「しっかり者のお姉さん」として扱われてきた雫にとって、
その言葉は完全に未知の領域からの不意打ちだった。
「か、か弱い……っ!?」
ボンッ!と、Lunaの正体に気づいた時以上に顔を真っ赤にして硬直する雫。
しかし、その甘酸っぱい空気を、背後からの疑問の声が遮った。
「……兄さん、誰に怒られるの?」
「ん? あぁ、俺が尊敬してる先生」
「ふーん……」
うみが質問に答えている間にも、ようやく思考が追いついた雫は、みるみるうちに耳まで真っ赤に染め上げていた。
そんな彼女の様子と、息をするように新たなフラグを立てた兄の姿に、恵里は氷点下の視線を突き刺す。
馬車の中で注意したばかりだというのに。
「……兄さん?」
「え? なに? 俺、なんか変なこと言った?」
本気で首を傾げるうみに、恵里は深い深いため息をついた。
「……はぁ。八重樫さん、さっきも言ったけど、この人にそういうの期待しちゃダメだからね。無自覚なだけだから」
「そ、そういうのって……べ、別に何も期待なんてっ!」
慌てて顔の前で手を振る雫に、恵里は少しだけ表情を和らげて言葉を続けた。
「それに……強がらなくたって、みんな八重樫さんのこと頼りにしてると思うけど。
少なくとも、香織さんや鈴は、八重樫さんが完璧だから好きなんじゃないと思うよ」
「中村さん……」
恵里の言葉に、雫は少しだけ肩の力を抜いた。
「さて、戻ろうか。恵里も眠そうだし」
うみはポケットから黒い布を取り出すと、再び目元を覆い、いつもの『不思議君』の姿へと戻った。
「ええ……ありがとう、月影くん、中村さん」
雫が少し照れくさそうに、けれどスッキリとした表情でお礼を言う。
「じゃあね、八重樫さん」
そう言って背を向け、歩き出そうとしたうみだったが、ふと立ち止まって振り返った。
「あ、そうだ。明日の迷宮探索、あんまり一人で抱え込まないようにね。……何かあったら、俺がなんとかするからさ」
いつもの飄々とした口調のまま、けれど確かな頼もしさを孕んだその言葉に、雫は小さく目を見開いた。
そして、ふっと柔らかい笑みを浮かべる。
「ええ……頼りにしてるわ。月影くん」
夜のホルアドの街に、ひらひらと手を振りながら去っていく兄妹の背中を見送る。
明日からの死地への遠征を前に、重く張り詰めていた少女の心は、不思議な兄妹のおかげで確かに軽くなっていた。