時間を少しだけ遡る。 宿の中庭で八重樫雫との遭遇を終え、恵里を部屋まで送り届けた後。
うみは自身の部屋である客室へと、足音一つ、気配一つ立てずに窓からスルリと帰還していた。
呼吸や衣擦れの音すら完全に遮断する一級呪術師の隠形。平和な日本で育ったただの高校生であるハジメに、その侵入を察知できるはずもない。
とはいえ、当のハジメにうみの気配を探る余裕など微塵も残されていなかったのだが。
「あぁぁ……っ、白崎さん、あんな格好で……無防備すぎるだろ……っ」
暗い部屋の中、ベッドの上で頭を抱え、身悶えしている親友の姿。
香織の深夜の訪問によって限界までかき回されたハジメの心臓は、未だに警鐘を鳴らし続けているのだろう。布団を頭から被り、右へ左へとゴロゴロ転がっている。
その様子を暗闇の中で視認したうみは、(青春してるねぇ)と内心でクスクスと笑いながら、自分のベッドへと潜り込んだ。
――そして、翌朝。
トータスの日差しが窓から差し込む頃、うみはスッキリとした顔で目を覚ました。
横のベッドに視線を向けると、そこには、目の下にうっすらと隈を作り、魂が半分抜けたような顔で天井を見つめるハジメの姿があった。
「おはようハジメ。……よく眠れた?」
うみは、全てを分かっているくせに、これ以上ないほどのニマニマとした邪悪な笑みを浮かべて覗き込んだ。
その声にビクッと肩を跳ねさせたハジメは、ギリィッ……と歯軋りしながらうみを睨みつける。
「……うみくん。絶対、分かってて言ったよね、昨日のアレ」
「アレって? 俺はただ、ハジメがぐっすり『眠れるといいね』って親切心で言ってあげただけなのに。なんてひどい言いがかりだ」
「白々しい! 絶対、白崎さんが来るって分かってて出て行ったでしょ!? おかげで全然眠れなかったよ!」
「えー? それは香織さんの魅力に当てられて一人でもんもんとしてたハジメの自業自得じゃない?」
「ぐふっ……!?」
見事なクリティカルヒット。図星を突かれたハジメは、胸を押さえて沈没した。
「だいたい、今日は初めての迷宮探索なんだよ? コンディションは万全にしておかないと、魔物より先に寝不足で倒れちゃうよ?」
「だから、誰のせいだと……! はぁ……もういい。うみくんに良心を期待した僕が馬鹿だった……」
「まあまあ、そう拗ねないでよ。それにさ」
げっそりと肩を落とすハジメの背中を、うみはポンポンと軽く叩く。
「昨日の夜の、死ぬほど張り詰めた緊張感と心臓のバクバクに比べたら、迷宮の魔物と戦うなんてお散歩みたいなもんでしょ?」
「……まあ、それはそうだけどさぁ……」
否定しきれない事実を突きつけられ、ハジメはガクッとさらに深くうなだれた。
実際、深夜に薄着の白崎香織と二人きりという状況は、非戦闘職の彼にとってどんな死地よりも心臓に悪い極限状態だったのだ。
そんな親友の様子に「あははっ」と楽しげに笑いながら、うみは身支度を整える。
今日も今日とて、ハジメの胃痛は絶好調のようだった。
***
朝食を済ませた一行は、メルド団長と護衛の騎士たちに引率され、迷宮都市ホルアドの奥へと進んでいった。
やがて彼らの目の前に現れたのは、巨大な建造物だった。
「す、すっげぇ……」
「これが、オルクス大迷宮……!」
光輝や龍太郎をはじめとする生徒たちが、感嘆の声を漏らす。
彼らの頭の中にあった『
しかし、実際に目の前にあるのは、まるで地球にある近代的な博物館や、大型テーマパークのエントランスゲートのような、堅牢かつ立派な建造物だ。
整備された石畳の広場。大きな入り口には何列ものゲートが設けられ、制服を着た職員の女性たちが、冒険者たちの出入りを笑顔でテキパキとチェックしている。
「なんでも、ここで『ステータスプレート』を提示して出入りの記録をつけるシステムになってるらしいよ」
最後尾を歩きながら、ハジメが仕入れてきた情報をうみに共有する。
「死亡者数の正確な把握と、行方不明者の捜索の手間を省くためなんだってさ。
戦争を控えてるから、無駄な損耗は避けたいって王国側の意向らしい」
「へぇ。なるほどね」
うみは目隠しの下で、並んでいる冒険者たちとゲートの様子を淡々と観察した。
(IDカードによる入退室管理みたいなもんか。魔物との殺し合いをする場所の割には、随分とシステマチックに管理されてるんだな。……まあ、合理的ではある)
入場者を厳密に管理しておけば、帰ってこなかった者の数=死亡者として機械的に処理できる。いちいち迷宮の奥深くまで死体を探しに行くコストを切り捨てているのだ。
(とはいえ、やってる受付の人たちの心労は凄そうだけど。
手続きするたびに『この中の何人が帰ってこれるんだろう』とか絶対よぎるだろうし、
昨日まで笑顔でやり取りしてた冒険者が翌日には機械的に『死亡』処理されるんだから。
……慣れちゃえば作業なんだろうけどね)
多くの死と隣り合わせに生きてきたうみだからこそ、システマチックな管理の裏にある現場の人間たちのメンタル面へと無意識に思考が及んでいた。
広場を見渡せば、迷宮へ挑む者、帰還した者たちを当て込んだ露店が所狭しと並び、
武器の研磨剤、ポーション、簡易食料などが盛んに売り買いされている。まるでお祭りのような騒ぎだ。
浅い階層の迷宮は、比較的安全に稼げる場所として人気があり、人も金も自然と集まる構造になっているらしい。
ゲートの脇には、冒険者ギルドが運営する立派な『素材買取窓口』まで併設されており、採れたての魔物の素材が次々と金に換わっていく様子が見て取れた。
「……完全にダンジョンRPGの拠点だね、ここ。入り口にセーブポイントとショップが完備されてるタイプ」
「あはは、確かに。これだけ整備されてると、なんだか悲壮感がないっていうか、本当にゲームのイベントみたいに錯覚しちゃいそうだよね」
ハジメが苦笑しながら前方を顎でしゃくった。
そこには、メルド団長の後ろを、まるでカルガモのヒナのようについていく光輝たちクラスメイトの姿があった。
完全に「お上りさん」丸出しでキョロキョロと周囲を見渡し、露店の珍しいアイテムに目を輝かせている。
これから向かう場所が、一歩間違えれば命を落とす『死地』であるという緊張感は、彼らからは微塵も感じられなかった。
「平和ボケもあそこまで行くと才能だね。まあ、痛い目見ないと分からないだろうし、放っておこう」
「うみくんって、時々本当にドライだよね……」
「そう? まあ俺は基本身内優先だしね。さ、俺たちも行こうか」
うみは呆れたように息を吐くと、ポケットに両手を突っ込んだまま、遠足気分のクラスメイトたちに続くようにゲートへと足を踏み入れた。
***
しかし、一歩迷宮の中へと足を踏み入れれば、そこは外の喧騒や祭りのような空気とは完全に無縁の空間だった。
縦横五メートル以上はある広々とした通路。松明などの光源はないにも関わらず、
壁や天井に埋まった『緑光石』と呼ばれる鉱物が淡い緑色の光を放ち、薄ぼんやりとだが周囲を照らしている。
冷たく乾いた空気と、どこからともなく漂ってくる土と獣の臭い。
明確な『非日常』の気配に、先ほどまではしゃいでいた生徒たちも自然と口数を減らし、緊張した面持ちで武器を握りしめていた。
「へぇ、これが緑光石かぁ。天然の照明設備になってるなんて便利だね。これでランタンとか作ろうかなぁ」
「うん、なんだか幻想的だよね。でも、やっぱりちょっと怖いかな……」
隊列の後方、うみと並んで歩きながらハジメが周囲を見渡す。
ハジメが緊張からか少し早口になっている横で、うみは目隠しの下で壁の緑光石や空間の魔力残滓を『六眼』でつぶさに観察していた。
(なるほど。この迷宮自体が巨大な魔力の溜まり場になってるんだな。この緑光石も、大気中の魔力を吸って発光してるってわけか)
そんな分析をしながらしばらく進んでいると、通路を抜けてドーム状の大きな広間へと出た。
天井の高さは七、八メートルはありそうだ。
一行が物珍しそうに広間を見渡していた、その時だった。
『――キチ、キチチチッ!』
広間の壁の隙間という隙間から、何やら灰色の毛玉のようなものが大量に湧き出してきた。
その不気味な気配と鳴き声に、生徒たちがビクッと肩を揺らす。
「よし、光輝達が前に出ろ! 他は下がれ! 交代で前に出てもらうからな、準備しておけ!」
メルド団長が鋭い声で指示を飛ばす。
「あれは『ラットマン』という魔物だ。すばしっこいが、たいした敵じゃない。冷静に行け!」
その言葉通り、ラットマンと呼ばれた魔物たちが、素早い動きでこちらへと飛びかかってきた。
灰色の体毛に、赤黒く濁った凶暴な瞳。ラットマンという名に相応しく、その頭部は確かに巨大なネズミのそれだ。
――だが、問題はその首から下のフォルムだった。
「うわっ……!?」
「き、気持ち悪い……っ」
前衛に立った光輝や、特に雫の顔が引き攣っている。
無理もない。そのラットマンたちは、ネズミの頭を持ちながら『二足歩行』をしており、さらに上半身はなぜかボディビルダーのようにムキムキに発達していたのだ。
見事なエイトパックに割れた腹筋と、異様に膨れ上がった大胸筋。なぜかその筋肉の部分だけ体毛が生えておらず、まるで見せびらかすかのようにテカテカと光っている。
「……え、なにアレ。二足歩行……ネズミ……ミッkk――むぐぅっ!?」
うみが、地球を代表する世界的な『あの』ネズミのキャラクターの名を口にしかけた瞬間。
「それ以上はいけない!」と、ハジメが必死の形相でうみの口を背後から両手で塞いだ。
「むー! むぐぐっ!」
「ダメだよ! あんなキモい筋肉魔物と『あの方』を一緒にしたら、異世界にいようが問答無用で消されちゃうかもしれないから!!」
ハジメの涙ぐましい配慮と恐怖により、世界的キャラクターの尊厳(と二人の命)は未然に守られた。
そんな後方での阿呆なやり取りをよそに、前衛の戦闘は開始された。
「いくぞ、雫、龍太郎!」
「ええ!」
「おうっ!」
光輝の掛け声と共に、三人がラットマンの群れへと突っ込む。
光輝の振るうバスタードソード――王国から貸与されたアーティファクトである『聖剣』が、
純白の軌跡を描いて数体のラットマンを一閃の元に両断する。
龍太郎は『拳士』の天職とアーティファクトの籠手を活かし、衝撃波を伴う豪快な正拳突きや回し蹴りで、
重戦士のように敵を吹き飛ばしていく。
そして雫は、『剣士』の天職の恩恵である洗練された身のこなしで、愛用の刀を抜刀術の要領で閃かせ、
的確に魔物の急所を切り裂いていった。
「「「暗き炎渦巻いて、敵の尽く焼き払わん、灰となりて大地へ帰れ――〝螺炎〟」」」
さらにその後方から、魔法支援組である香織、恵里、鈴の三人が息を合わせた詠唱を完了させる。
三人同時に発動した螺旋状の炎が広間を舐めるように駆け抜け、生き残っていたラットマンたちを巻き込み、チリ一つ残さず燃やし尽くした。
「キィイイッ!?」という断末魔の悲鳴と共に、広間にいた数十体のラットマンは瞬く間に全滅した。
時間にしてわずか数分。他の生徒たちが出番を待つまでもなく、圧倒的な蹂躙劇だった。
「おおーっ! すげぇ!」
「光輝くんたち、かっこいい!」
待機していた生徒たちから歓声が上がる。
初めての魔物討伐を無傷で、しかも一方的に終えられたことで、光輝たちの顔にもホッとしたような、そして誇らしげな緩みが生まれていた。
「ああ~、うん、よくやったぞ! 次はお前等にもやってもらうからな、気を緩めるなよ!」
メルド団長が、生徒たちの優秀さに苦笑しながらも、気を引き締めるように声をかける。
そして、少しだけ呆れたような口調で付け加えた。
「それとな……今回は訓練だからいいが、魔石の回収も念頭に置いておけよ。明らかにオーバーキルだからな?」
メルドの指摘に、香織たち魔法組が「あ……」と声を漏らし、やりすぎを自覚して恥ずかしそうに頬を赤らめた。
『魔石』。それは魔物の体内に生成される魔力の結晶体であり、この世界において武具の強化や魔道具の動力源として高値で取引される重要な資源だ。
それを、強力な魔法で魔物の肉体ごと灰にしてしまっては、回収のしようがない。
「さて」
後方で口を塞がれていたうみは、ハジメの手をペシッと叩いて退けさせると、呆れたように小さく息を吐いた。
「ハジメ。今の天之河くんたちの戦い、どう見えた?」
うみは視線を前方の光輝たちから外さず、隣のハジメに問いかけた。
これもまた、彼がハジメに課している訓練の一環だ。
他者の戦闘を観察し、自分ならどうするか、何が良くて何が悪いのかを言語化してアウトプットする。
「えっ? ええと……」
突然振られたハジメは、少し考え込みながら答えた。
「すごかったと思うよ。前衛の三人がしっかりヘイトを集めて、
その間に後衛が魔法を準備する……セオリー通りの綺麗な陣形だったと思う。魔法の威力も凄まじかったし」
「うん、そうだね。陣形と役割分担は文句なし。魔法の威力も申し分ない。……で? ダメなところは?」
「ダメなところ……あっ、さっきメルド団長が言ってた『オーバーキルで魔石が回収できない』ってこと?」
「それもあるけど、俺が言いたいのはもっと根本的な、戦闘における『情報の管理』と『隙』の話だよ」
うみは目隠しの下で、灰になったラットマンの残骸を見つめた。
「オーバーキルの何がいけないか、わかる?」
「えっと……魔力のリソースを無駄に消費するから?」
「それもあるけど、一番の理由は『周辺の情報が取りづらくなること』と『感知できてない敵がいた時に致命的な隙を晒すこと』だよ」
うみはハジメの方へ向き直り、指を一本立てた。
「あんな風に、三人で息を合わせて強力な魔法を撃つ……いわゆる『大技』ってやつは、
準備から発動後にかけてどうしても大きな隙ができるし、派手なエフェクトのせいで一瞬周りが見えなくなる。
今は周りに護衛の騎士たちや他のクラスメイトがたくさんいるからいいけどさ。
もしあれが少人数のパーティーで、まだ気づいてない敵が死角に潜んでたらどうなると思う?」
「……あっ。魔法を撃った直後の隙を突かれて、全滅するかも」
「正解。だから、後衛が三人いたなら、せめて一人は魔法の準備に参加せず、周辺警戒に回るべきだったんだよね。
……常に最悪の事態を想定して、全方位に意識を向ける。それが生存の最低条件だよ」
うみの静かだが確かな凄みを帯びた言葉に、ハジメはゴクリと息を呑んだ。
地球の平和な常識に浸っていた彼にとって、それはあまりにも重く、同時に最も必要な忠告だった。
「……うん、分かった。僕も気をつけるよ」
「よろしい。まあ、正直経験積むしかないんだけどね」
その後、一行はメルド団長の指示に従い、交代で前衛を務めながら順調に階層を下っていった。
光輝たちのようなチート級の能力を持たない生徒たちも、複数のパーティーを組んで連携し、危なげなく魔物を討伐していく。
魔法や剣技が飛び交い、魔物が次々と灰や魔石に変わっていく光景は、もはや完全に『ゲームのレベリング作業』のようだった。
そして、迷宮の中を潜り続けること数時間。
一行はついに、『一流の冒険者か否かを分ける』と言われている二十階層へと辿り着いた。
現在の迷宮の最高到達階層は六十五階層だというが、それは百年以上前の伝説的な冒険者が成し遂げた偉業であり、
現代において二十階層を越えられれば、十分に一流の冒険者として扱われるらしい。
ハジメたち生徒が、実戦経験が浅いにも関わらずこれほどあっさりと降りてこられたのは、
ひとえに彼らの『
「よし、お前達。ここから先は一種類の魔物だけでなく、複数種類の魔物が混在したり連携を組んで襲ってくる。
今までが楽勝だったからと言って、くれぐれも油断するなよ! 今日はこの二十階層で訓練して終了だ! 気合入れろ!」
ドーム状に開けた巨大な広間で、メルド団長のよく響く声が号令をかける。
その言葉に呼応するように、広間の奥の暗がりから、複数の赤い瞳が不気味に浮かび上がった。
現れたのは、先ほどのラットマンの群れに加え、体長二メートルを超える巨大な双頭の狼――『ツインヘッドウルフ』の姿だった。
「ひぃっ……!」
「で、でかい……っ」
これまでの階層とは明らかに違う『強者』の威圧感に、待機組の生徒たちから短い悲鳴が上がる。
「さあ、出番がまだの組は前に出ろ! 連携を崩すな!」
メルドの指示に合わせ、まだ戦闘を経験していなかった生徒たちが、震える足で前衛へと進み出る。
……そして、ついにその時が来た。
「さてと。俺たちの番だね、ハジメ」
「……うん」
最後尾で待機していたうみとハジメのペアも、前衛へと促された。
二人の前に立ちはだかるのは、三体のラットマンと、一体のツインヘッドウルフ。
周囲の生徒たちが、ゴクリと生唾を飲んで彼らを見る。
「おいおい、南雲に月影だぞ? 大丈夫なのかよ」
「月影はあの坂上に勝ってるからまだしも、南雲は完全に足手まといだろ……」
「団長! 俺たちが代わりに出ましょうか!?」
光輝や龍太郎たちが心配そうに声を上げる。
特に、二人がほとんど訓練に出ていないことを知っている者たちからは、明らかな侮蔑と不安の視線が向けられていた。
「ハジメ。どうする? どっちにする?」
周囲の喧騒など全く意に介さず、うみは飄々とした声で隣の親友に尋ねた。
「……ううん、どっちも一人でやるよ」
「お。言うねぇ」
「うみくんの地獄の特訓の成果、試したいからね」
「そ。じゃあ、アドバイスを一つ」
うみは指を一本立て、ニッと口角を上げた。
「錬成は自由度の高い技能。だからこそ、ハジメの『発想力』が何よりもモノを言う。常識に囚われないで、自由に描きなよ」
ハジメはそう言うと、手にした訓練用の短剣を構え、一人で魔物の群れへと歩み出た。
「な、南雲!? お前、一人で……!?」
「待て南雲! 無茶だ!」
光輝たちが止めようとするが、それより早く魔物たちが動いた。
「グルゥゥルルルッ!」
ツインヘッドウルフが低い咆哮を上げ、三体のラットマンがハジメを囲むように左右から飛びかかってくる。
「キチチチッ!」
鋭い爪が、ハジメの首元を狙って振り下ろされる。
ステータスの差を考えれば、避けられるはずもない一撃。誰もが目を背けかけた、その瞬間だった。
「……遅い」
ハジメは、迫り来る爪を最小限の動きで――ほんの半歩、体をずらすだけで完全に躱した。
(うみくんのあの理不尽な動きに比べたら……止まって見える!)
毎晩、暗闇の中で行われた理不尽極まりない組手。視線、予備動作、殺気。
それらを強制的に読まされ続けたハジメの目には、ラットマンの単調な攻撃軌道など、完全に「見え透いたもの」だった。
「なっ……!?」
周囲の生徒たちが驚愕に目を見開く中、ハジメは躱した勢いそのままに、踏み込み――
「――『錬成』ッ!!」
『手の接地の条件を消す代わりに、錬成の効果範囲を最大範囲の半分にする』
うみと考案した『縛り』による、ノーモーションでの錬成発動。
ズゴゴゴゴォォォッ!!
ハジメの足元から半径五メートルの範囲で、石畳が波打つように隆起した。
ただの壁ではない。ハジメは足元の石を、鋭い『石筍(せきじゅん)』のように変形させ、四方八方へと突き出させたのだ。
「キギィィッ!?」
突如として足元から現れた石の槍に、三体のラットマンが悲鳴を上げて串刺しにされる。
戦闘職の魔法にも劣らない、地形そのものを操る凶悪な一撃。
「グルルォォォッ!!」
仲間がやられたことに激昂したツインヘッドウルフが、石筍を強引に砕きながらハジメへと飛びかかってくる。
巨体が宙を舞い、二つの顎がハジメの体を噛み砕こうと迫る。
「……っ!」
ハジメは慌てず、迫る巨体の真正面で、今度は自身の胸の前に短剣を構えた。
そして、体内で循環し続けている魔力を、短剣の刀身へと一気に注ぎ込む。
「……っ!」
ハジメは慌てず、迫る巨体の真正面で、ついに『それ』を解放した。
体内で循環し続けていた魔力を、一気に全身の筋肉へと行き渡らせ、身体能力を強制的に底上げする――魔力操作による身体強化。
ドンッ!! と、ハジメの脚力が石畳を砕き、その体が弾丸のように前方へと飛び出した。
「『錬成』!!」
ハジメは空中に飛び上がっているウルフの下を潜り抜けざまに、再び地面に足を強く打ち付けた。
今度は石筍ではない。隆起した石畳が、まるで巨大な手のように変形し、空中にいて回避行動が取れないウルフの四肢と胴体を絡め取ったのだ。
「ギャンッ!?」
石の枷に拘束され、地面に縫い付けられるツインヘッドウルフ。
その『致命的な隙』を、ハジメが見逃すはずがない。
「はぁぁぁぁっ!!」
魔力操作による身体強化――本来のステータスの約1.5倍の出力で床を蹴り、拘束されて身動きが取れないウルフの懐へと一気に潜り込む。
そして、無防備な腹部へ向けて、下から突き上げるように短剣を深々と突き立てた。
「ギャンッ……グルゥ……」
急所を貫かれたツインヘッドウルフは、痙攣しながら石の枷の中で崩れ落ち、やがて動かなくなった。
時間にして、わずか数十秒の出来事。
非戦闘職であり、ステータスオール10の最弱と思われていた少年が、二十階層の魔物の群れを、完全に一人で無傷のまま討伐してしまったのだ。
「…………え?」
「うそ、だろ……」
「今の、魔法……? いや、でもあいつは『錬成師』で……」
広間は、水を打ったような静寂に包まれていた。
光輝も、龍太郎も、檜山たちも、信じられないものを見るような目でハジメを見つめている。
メルド団長でさえ、驚愕に目を見開き、言葉を失っていた。
「お見事」
その静寂を破ったのは、のんびりとした拍手の音だった。
うみが、いつものように飄々とした態度でハジメに歩み寄る。
「うんうん。動きに無駄がなかったね。錬成の使い方も様になってたよ。
俺が試作した『身体強化の腕輪』も、ちゃんと機能してたみたいだね。
これなら、エドワード・エルリックって名乗っても恥ずかしくないんじゃない?」
「あはは……ありがとう、うみくん。うん、この『腕輪』のおかげで何とかね。でも、さすがにちょっと疲れたよ。
……次が出たら、うみくんの番だね」
息を切らしながらも、ハジメはうみの口裏合わせに乗り、確かな自信とやり遂げたという達成感をその顔に浮かべていた。
「もち。まだ作ったもの、自分で試せてないもん」
うみはそう言って、ハジメとすれ違いざまにパチンッと小気味良いハイタッチを交わした。
***
広間での戦闘を終え、一行は再び隊列を組んで奥へと進み始めた。
しかし、ここからはせり出した壁や鍾乳石のせいで横に広がることができず、一列、あるいは二列での縦長の隊列を余儀なくされる。
若干の弛緩した空気が漂い始めた、その時だった。
先頭を進んでいた光輝たちとメルド団長が、ピタリと足を止めた。
「擬態しているぞ! 周りをよ〜く注意しておけ!」
メルド団長の鋭い警告が飛んだ直後。
前方でせり出していた左右の壁の一部が、突如として変色しながらゴクリと起き上がった。
岩肌と同化していたそれは、褐色に染まった二本足で立ち上がり、巨大な拳で自らの胸をドンドコと叩き始める。
カメレオンのような擬態能力を持つゴリラの魔物――『ロックマウント』が二体、行く手を塞ぐように現れたのだ。
「ロックマウントだ! 豪腕に注意しろ! 前衛、前に出――」
メルドが指示を飛ばそうとした、その時だった。
「やーっと出てきたー。待ちくたびれたよ」
列の後方から、ひどく気の抜けた声が響いたかと思うと、黒い目隠しをした少年がするすると隊列をすり抜け、最前列へと躍り出た。
「おい、月影! 勝手に前に出るな! 下がっていろ!」
メルドが慌てて制止の声を飛ばし、光輝たちも驚いて止めようとする。
しかし、うみは悪びれもせずに振り返った。
「えー? だって、今日まだ戦ってないの、後俺だけだよ? 俺だけ見学なんて不公平じゃん」
「公平不公平の問題じゃない! お前は非戦闘職だろうが!」
「そんなこと言ったらハジメだってそうじゃん。なんで俺だけやっちゃダメなのさ」
うみのあまりにも真っ当な(?)反論に、メルドはぐっと言葉を詰まらせた。
確かに、先ほど非戦闘職であるハジメが一人で魔物の群れを圧倒したばかりだ。
その事実が、メルドの「非戦闘職は下がるべき」という建前を鈍らせる。
それに、この一ヶ月間、うみの底知れなさを見せつけられてきたメルドにとって、彼が何の勝算もなく前に出るとは思えなかった。
「……はぁ。分かった、好きにしろ。だが、少しでも危ないと思ったらすぐに俺たちが割り込むからな!」
「あはは。まあ、そんなことにはならないと思うけどね」
メルドの渋々とした許可と釘刺しを、うみはのんびりとした笑みで受け流した。
そして、虚空――実際には、自身の魔力上限に依存する亜空間『カゴ』――へと手を突っ込んだ。
波紋一つ立てずに空間へ吸い込まれたその腕が、何かを掴んで引き抜かれる。
(無詠唱かつノーモーションの空間収納……相変わらず出鱈目なほどに便利な技能だ)
後方で見ていたメルドが内心で呆れ半分に感心する中、うみの手に握られていたのは、一本の立派な杖だった。
長さは一メートル強。宝物庫で見つけたあの『神樹の枝杖』をベースにしているようだが、その上部には見事な装飾が施されていた。
先端には、水晶のように透き通った青い球体が浮遊しており、それを囲むように真鍮のような金属のリングが幾重にも交差している。
まるで、星の軌道を示す『天球儀』のようなデザインだった。
うみがこの二週間、アトリエに引きこもって錬金釜と睨み合い創り上げた最高傑作――『天象儀の枝杖《アストロラーベ》』である。
「今回はこれでいいかな?」
うみは杖を片手に軽く回すと、地を蹴ってロックマウントへと突貫した。
その速度は、偽装ステータスの範囲内に意図的に抑えられている。決して目で追えないほどの速さではない。
「グォォォッ!!」
向かってくる小さな獲物に対し、一体のロックマウントが丸太のような剛腕を力任せに振り下ろした。
直撃すれば、巨岩すら粉砕する一撃。
「危な――」
光輝が悲鳴を上げかけた、その瞬間。
うみは歩みを止めることなく、ほんのわずかに上体を捻り、ロックマウントの剛腕を『紙一重』で躱した。
風圧で銀青の髪が揺れる。しかし、うみの体勢は微塵も崩れていない。
うみの人生の大半をかけて培われた体捌き。巨体に任せた大振りな攻撃など、彼にとっては止まって見えるに等しかった。
そのまま剛腕をいなした隙を突き、ロックマウントの懐へと滑り込みながら、静かに詠唱を紡ぐ。
「吹き荒れよ、不可視の刃――」
その詠唱に呼応し、うみの手にある『天象儀の枝杖』が淡い光を放った。
先端の青い球体の周囲に、淡い緑色の光で構成された緻密な『魔法陣』が、まるでホログラムのようにフワリと展開されたのだ。
「――〝風刃〟」
展開された魔法陣から、鋭い真空の刃が数発、連続して射出された。
「グギィッ!?」
風の刃は、ロックマウントの両腕、両脚の『関節部』を正確に切り裂いた。 筋骨隆々の魔物であっても、関節の隙間は脆い。
四肢の腱と靭帯を両断されたロックマウントは、支えを失い、轟音を立てて石畳に崩れ落ちた。
「さて、とどめ」
四肢を奪われ、地面で藻掻くロックマウントを見下ろし、うみは『天象儀の枝杖』を両手で野球のバットのように構えた。
そして、呪力を杖へと一気に流し込み、木製の柄と天球部分を鋼以上の硬度にコーティングする。
「まずは一体目」
パキィンッ!!
美しいスイングから放たれた杖の先端が、ロックマウントの顔面を情け容赦なくカチ上げた。
呪力で強化された物理打撃により、ロックマウントの頭部はスイカのように弾け飛び、完全に息の根を止めた。
「よし、次!」
うみが杖を肩に担ぎ直した、その時だった。
「グォォォォォッ!!」
仲間がやられたことに激昂したもう一体のロックマウントが、驚きの行動に出た。
足元に転がっていた巨大な『岩』を拾い上げ、見事な砲丸投げのフォームで、うみを飛び越え、後方にいる香織たち魔法支援組へと投げつけたのだ。
「えっ!?」香織たちが杖を構えようとしたが、飛んできた『岩』の姿を見て、全員が悲鳴を上げて硬直してしまった。
「ヒィッ!?」
「き、気持ち悪い……っ!」
なんと、投げられた岩は、岩に擬態していた三体目のロックマウントだったのだ。
空中で器用に一回転を決めた三体目は、両腕をいっぱいに広げ、
血走った目と荒い鼻息で、香織や恵里、鈴たち女子グループへとルパンダイブをかましてきたのである。
「香織!!」
光輝たちが慌てて迎撃に向かおうとするが、距離が遠すぎる。
「あーあ。女の子にあんなダイブかますなんて、うみくん的にポイント低いよ?」
うみは呆れたように息を吐くと、杖の先端を空中の三体目へと向け、流れるような早口で詠唱を紡いだ。
「――『忍び寄る影を白く染め上げよ。刻至るまで地に潜め』」
それは、本来ならば四節で構成される氷属性魔法の前半二節。
その詠唱に呼応し、杖の天球に青白い魔法陣が一つ浮かび上がる。
だが、うみはその魔法を発動させないまま、空中に魔法陣を留め置き、全く別の詠唱を間に挟み込んだ。
「――『大気を凍てつかせ、虚空の檻にて縛れ』」
間に挟み込まれたのは、二節で構成される別の氷属性魔法の全詠唱。
杖の天球に、さらにもう一つの青白い魔法陣が展開され、二つの陣が重なり合うようにして回る。
「……え? なにそれ……?」
後方で見ていた恵里が、あり得ない現象に目を丸くする。
魔法の詠唱を途中で分断し、そこに別の魔法の詠唱を丸ごと挟み込む。
トータスの常識において、『一つの魔法には一つの詠唱』が絶対のルールである。
詠唱の途中で別の魔法の言葉を挟み込むなどという発想自体が存在せず、そんな真似をすれば一体どうなってしまうのか、誰一人として知るはずもなかった。
しかし、うみの杖の上では、二つの異なる魔法陣が互いに干渉することなく、完全に独立したまま重なり合って回っていた。
(詠唱を、分断した……? 二つの魔法を同時に構築して制御しているっていうの……!?)
それが常人のキャパシティを遥かに超える異常な思考の『並列処理』によって強引に成立させられた神業であることなど知る由もない生徒たちは、
自分たちの学ぶ魔法の常識が全く通用しないその光景に、ただ戦慄するしかなかった。
「――『白亜の帳を下ろし、世界を静寂で包まん』――〝氷牢〟」
バキキキィッ!!
詠唱を終えたうみの足元から、絶対零度の冷気を纏った数本の『氷の鎖』が勢いよく伸びた。
それらは空中にいる三体目のロックマウントへと殺到し、ルパンダイブの姿勢のまま雁字搦めに縛り付けると、一瞬にして魔物の巨体を丸ごと氷の塊へと変えてしまった。
「キャアッ!?」
ドスゥンッ! と、香織たちの目の前に、完全に凍りついたゴリラの氷像が落下する。
「――赤き熱よ、集いて穿て――〝炎槍〟」
うみが間髪入れずに次の詠唱を唱えると、杖の天球に三つ目の魔法陣――赤い『火属性』の陣が浮かび上がる。
射出された炎の槍がが、氷漬けの三体目に直撃。
急激な温度変化(熱膨張)による熱衝撃で、氷の檻ごと三体目のロックマウントは粉々に砕け散った。
「す、すごい……! 一つの杖で、風、氷、炎の魔法を……!?」
常識を覆す『天象儀の枝杖』の異常な仕様に、メルドたち騎士団も言葉を失っている。
だが、驚いている暇はなかった。
「月影! 後ろだ!!」
光輝が血相を変えて叫ぶ。
三体目の処理に気を取られていたうみの背後に、いつの間にか二体目のロックマウントが接近し、その両腕を高く振り上げていたのだ。
「月影くん!!」
雫や香織が悲鳴を上げる。
振り下ろされる豪腕。うみの細い体が潰される――誰もがそう思った、次の瞬間。
「――〝氷華〟」
うみが、背中越しにポツリと、
直後、うみの周囲を中心にして、広間の空気が急激に冷え込み、肌を刺すような絶対零度の冷気が白く立ち込める。
そして、うみの背後に迫っていた二体目のロックマウントの足元。
そこに、いつの間にか純白の光を放つ『円』が描かれていた。
さらには、次の瞬間――
ピキッ……バキキキキィィィッ!!!
その円を境界線として――円内の天地すべてを凍てつかせる、巨大な『
「……え?」
振り下ろした腕の姿勢のまま、空へと伸びる完璧な氷柱の中に完全に閉じ込められ、美しい氷像と化した二体目のロックマウント。
その見事な氷のオブジェを背に、うみはゆっくりと振り返った。
「うん。二重詠唱もそこに挟んだ遅延発動……そしてこの杖の性能。全部完璧だね」
うみはニコッと笑うと、再び『天象儀の枝杖』をバットのように構えた。
パキィンッ!!
フルスイングされた杖が、氷像と化した二体目のロックマウントの胴体を綺麗に打ち砕く。
粉々になった氷と魔石の残骸がキラキラと広間に舞い散る中、うみは満足げに杖を肩に担ぎ直した。
「これで三体目……もう終わっちゃった。まだ杖しか試せてないのに」
広間は、ハジメの時以上の、文字通り水を打ったような静寂に包まれていた。
一つの杖から複数の属性魔法を放ち、時間差のトラップまで仕掛け、さらには魔法使いらしからぬ見事なスイングで魔物を粉砕する。
非戦闘職であるはずの『錬金術師』が見せた、あまりにも常識外れで規格外の戦闘スタイルに、
クラスメイトも、騎士団も、完全に魂を抜かれたようにポカンと口を開けていた。
「……お、おい、月影」
その静寂を破り、顔を激しく引き攣らせたメルドが、震える声でうみに歩み寄る。
「何かね、だんちょーどの。ちゃんと一人で倒したよ?」
「倒したとかそういう問題じゃねぇ!! なんだ今のは!? なんで一つの杖から風と氷と炎が出てくんだよ!
それにあの詠唱! なんで途中で別の魔法挟んで暴発しねぇんだ!?」
我慢の限界とばかりに、メルドが食ってかかる。
当然の疑問だ。トータスの常識において、鉱物に刻める魔法陣は一つだけ。そして一つの魔法には一つの詠唱が絶対である。
しかし、うみは悪びれもせず、自慢の『天象儀の枝杖』をポンポンと叩いた。
「よくぞ聞いてくれただんちょー! この杖は俺の駆け出し錬金術師としての最高傑作!!
杖に記憶機構を構築し、魔方陣を登録しておくことによって、詠唱に呼応して魔方陣を投影してくれる優れもの!
魔法の方は研究の成果。『二重詠唱』って呼んでるんだけど、まあ一度の詠唱で二つの魔法を発動するための技術だよ。
ちょっと考えれば思いつきそうなものだけど……まあこの世界の人は発想力が足りないみたいだからね。仕方ないか」
「発想力ってレベルじゃないだろ……!!」
メルドが頭を抱え、騎士たちも「俺たちの常識って一体……」と項垂れている。
トータスに存在する魔法のルールを根底から覆す理論。
それを平然と『錬金術の成果』だと言い切る少年に、彼らはもはやツッコミを入れる気力すら奪われていた。
「あはは。だんちょー、胃薬いる?」
「……頼むから、もうこれ以上俺の胃を痛めつけるような真似はしないでくれ……」
そして、後方から歩み寄ってきたハジメが、完全に口裏を合わせるつもりで呆れたようにうみに声をかける。
「うみくん、やりすぎだよ。また団長の寿命縮めてるじゃん」
「えー? 俺は普通に試作品のテストしただけなのに」
そう言って肩をすくめるうみと、やれやれと首を振るハジメ。
その時だった。ふと、魔法支援組の近くにいた香織が、ロックマウントが激突して崩れた壁の方に視線を向けた。
「……あれ、何かな? キラキラしてる……」
その言葉に、全員が香織の指差す方へ目を向けた。
そこには、青白く発光する鉱物が花咲くように壁から生えていた。まるでインディコライトが内包された水晶のようである。
香織を含め女子達は夢見るように、その美しい姿にうっとりした表情になった。
「ほぉ〜、あれはグランツ鉱石だな。大きさも中々だ。珍しい」
メルドが、ようやく息を整えて解説を入れる。
「特に何か効能があるわけではないが、その涼やかで煌びやかな輝きが貴族のご婦人ご令嬢方に大人気であり、
加工して指輪・イヤリング・ペンダントなどにして贈ると大変喜ばれるらしい。求婚の際に選ばれる宝石としてもトップ三に入るとか」
「素敵……」
――しかし。毎晩のように殺気と視線を読む地獄の特訓を積まされ、
さらに昨夜の一件で無駄に香織を意識させられてしまっているハジメは、その視線に気づいてしまったのだ。
(……っ!? な、なんでこっち見るのさ!?)
ハジメがビクッと肩を揺らし、つい反射的に香織の方を見返してしまう。
バチリと目が合う二人。香織は「あ……」と顔をさらに赤くして、慌てて視線を逸らした。
「……ほほぅ?」
その甘酸っぱい瞬間のやり取りを、うみが逃すはずがなかった。
「ハジメ。今、完全に目ぇ合ってたね。しかも『求婚の宝石』の説明の直後に。……これは脈ありどころか、もうリーチかかってるんじゃない?」
「ば、馬鹿なこと言わないでよ! たまたま目があっただけでしょ!」
「いやいや、あの上目遣いは完全に『プレゼントされたいな(チラッ)』ってやつだったよ。ハジメ、もう付き合っちゃえば?」
「付き合わないよ!! いい加減にして!」
顔を真っ赤にして必死に否定するハジメを、うみはニマニマと邪悪な笑みを浮かべて小突く。
完全に「弄りモード」に入ってしまったうみは、グランツ鉱石の方など一切見ていなかった。
ハジメはそんなうみのからかいから逃れようと、反撃に出る。
「うみくんだって人のこと言えないだろ!さっきから、中村さんだけじゃなくて八重樫さんからもチラチラ視線来てるの気づいてないの!?」
「ん? 八重樫さん?」
ハジメの指摘に、うみは不思議そうに香織の隣にいた雫の方へと視線を向けた。
そして、バチリと目が合う。
「っ!?」
雫は、うみと目が合った瞬間、昨夜の中庭での出来事を思い出し、耳まで真っ赤にしてバッと顔を背けた。
親友であるリリィの想い人でありながら、無意識に彼を目で追ってしまったことへの気恥ずかしさと罪悪感が混ざったような反応だ。
「……ほんとだ。どうしたんだろうね?」
しかし、そこは我らが朴念仁。他者のこととなればどんな些細な反応も拾いあげるというのに、自分のこととなると悉く鈍感なのである。
「とりあえず手でも振っておこうか」
ポンコツ極まりない解釈をしたうみは、あろうことか『ファンサービス』のつもりで、
「〜〜〜っ!?」
その
「あれ?なんか間違えた?」
「うみくん……君って奴は……」
ハジメは、親友のあまりの無自覚さに、心底呆れたように頭を抱える。
彼らがそうやって、馬鹿馬鹿しいやり取りを繰り広げていた、その時だった。
「だったら俺らで回収しようぜ!」
そう言って唐突に動き出したのは、檜山だった。
彼はグランツ鉱石に向けてヒョイヒョイと崩れた壁を登っていく。
それに慌てたのはメルド団長だ。
「こら! 勝手なことをするな! 安全確認もまだなんだぞ!」
しかし、檜山は聞こえないふりをして、鉱石を目指していく。
メルド団長は、止めようと檜山を追いかける。
(……はぁ。どうせ白崎さんにいいとこ見せようって魂胆なんだろうけど)
ハジメをからかうのをやめ、呆れたような思考と共にうみがその先――グランツ鉱石へと視線を向けた瞬間。
視認したその鉱石周辺の魔力の歪みに、うみの背筋が凍りついた。
同時に、同時に、騎士団員の一人がフェアスコープで鉱石の辺りを確認し、一気に青褪めた。
「団長! トラップです!」
「ダメ! 罠だよ!!」
騎士団員の絶叫と、うみの鋭い警告がほぼ同時に響き渡る。
「ッ!?」
しかし、メルド団長も、騎士団員の警告も、うみの察知も、すべてが一歩遅かった。
檜山がグランツ鉱石に触れた瞬間、鉱石を中心に魔法陣が広がる。
グランツ鉱石の輝きに魅せられて不用意に触れた者へのトラップだ。美味しい話には裏がある。世の常である。
魔法陣は瞬く間に部屋全体に広がり、輝きを増していった。まるで、王宮へと召喚されたあの日の再現だ。
「くっ、撤退だ! 早くこの部屋から出ろ!」
メルド団長の言葉に生徒達が急いで部屋の外に向かうが……間に合わなかった。
部屋の中に光が満ち、ハジメたちの視界を白一色に染めると同時に一瞬の浮遊感に包まれる。
「……空間転移か。厄介なことになったね」
光に飲まれる直前、うみが冷静に呟くのが聞こえた。
ハジメ達は空気が変わったのを感じた。次いで、ドスンという音と共に地面に叩きつけられた。
「いっつ……!」
尻の痛みに呻き声を上げながら、ハジメは周囲を見渡す。
クラスメイトのほとんどはハジメと同じように尻餅をついていたが、メルド団長や騎士団員達、
光輝達など一部の前衛職の生徒、そしてうみは既に立ち上がって周囲の警戒をしている。
どうやら、先の魔法陣は転移させるものだったらしい。
現代の魔法使いには不可能な事を平然とやってのけるのだから、神代の魔法は規格外だ。
ハジメ達が転移した場所は、巨大な石造りの橋の上だった。ざっと百メートルはありそうだ。
天井も高く二十メートルはあるだろう。橋の下は川などなく、全く何も見えない深淵の如き闇が広がっていた。
まさに落ちれば奈落の底といった様子だ。
橋の横幅は十メートルくらいありそうだが、手すりどころか縁石すらなく、足を滑らせれば掴むものもなく真っ逆さまだ。
ハジメ達はその巨大な橋の中間にいた。
橋の両サイドにはそれぞれ、奥へと続く通路と上階への階段が見える。
それを確認したメルド団長が、険しい表情をしながら指示を飛ばした。
「お前達、直ぐに立ち上がって、あの階段の場所まで行け。急げ!」
雷の如く轟いた号令に、わたわたと動き出す生徒達。
しかし、迷宮のトラップがこの程度で済むわけもなく、撤退は叶わなかった。
階段側の橋の入口に現れた魔法陣から大量の魔物が出現したからだ。
更に、通路側にも魔法陣は出現し、そちらからは一体の巨大な魔物が……。
「……冗談だろ」
その時、現れた巨大な魔物を呆然と見つめるメルド団長の、呻く様な呟きがやけに明瞭に響いた。
「――まさか……ベヒモス……なのか……」