奈落の底に架かる、幅十メートル、全長およそ百メートルにも及ぶ巨大な石橋。その両サイドに、突如として赤黒い光を放つ魔法陣が現れた。
通路側の魔法陣は十メートル近くあり、階段側の魔法陣は一メートルほどの大きさだが、その数がおびただしい。
小さな無数の魔法陣からは、骨格だけの体に剣を携えた魔物――『トラウムソルジャー』が溢れるように出現した。
空洞の眼窩からは魔法陣と同じ赤黒い光が煌々と輝き、目玉の様にギョロギョロと辺りを見回している。
その数は既に百体を優に超えており、尚も増え続けている。
だが、数百体の骸骨戦士よりも、反対の通路側に現れた存在の方が圧倒的に異質だった。
十メートル級の魔法陣から現れたのは、体長十メートルに及ぶ四足歩行の巨体に、
兜のような分厚い甲殻を取り付けた規格外の魔獣。
既存の生物に例えるならトリケラトプスだが、鋭い爪と牙を打ち鳴らし、頭部の角からは灼熱の炎が吹き上がっている。
先ほどメルド団長が絶望と共にその名を口にした神話の化け物――『ベヒモス』が、大きく息を吸い込み、大地を震わせる凄まじい咆哮を上げた。
「グルァァァァァアアアアア!!」
大気を震わせる咆哮で正気に戻ったのか、メルドが矢継ぎ早に指示を飛ばす。
「ッ!? 全軍、前衛は防御陣形! 後衛は魔法の準備! アラン、生徒達を率いてトラウムソルジャーを突破しろ! 光輝、お前達は早く階段へ向かえ!」
「待って下さい、メルドさん! 俺達もやります! あの恐竜みたいなヤツが一番ヤバイでしょう!」
「馬鹿野郎! あれは六十五階層の化け物だ! 今のお前達では無理だ、さっさと行け! 私はお前達を死なせるわけにはいかないんだ!」
メルドの鬼気迫る表情に怯みつつも食い下がる光輝。
その問答をしている間にも、ベヒモスが咆哮を上げて大地を揺らし、突進を開始する。
このままでは撤退中の生徒たちごと轢殺されてしまう。
メルドをはじめとする王国最高戦力の騎士たちが、全力の多重障壁『聖絶』を展開し、なんとかその突進を受け止めた。
ズドォォォォンッ!!
凄まじい衝突の衝撃波が橋全体を揺るがし、ベヒモスの足元の石畳が粉砕される。
「ひぃっ……!」「うわあぁぁ!」 その衝撃と圧倒的な恐怖を前に、生徒たちの張り詰めていた糸は完全に弾け飛んだ。
隊列など完全に無視し、我先にと階段側のトラウムソルジャーの群れへと向かって、がむしゃらに逃げ出そうとする。
完全なパニック状態だ。 武器を滅茶苦茶に振り回し、連携も何もない烏合の衆。このままでは死者が出るのは時間の問題だった。
その混乱の中、逃げ惑う生徒の波に押され、一人の女子生徒が「うっ」と呻き声を上げて石畳に転倒した。
顔を上げた彼女の眼前に、不気味に目を光らせた一体のトラウムソルジャーが剣を振りかぶっている。
「あ」
(死ぬ――)
女子生徒が絶望に目を閉じた、次の瞬間。
ガァンッ!!
鈍い破砕音が響いたが、頭上から降り注ぐはずの死の刃はいつまで経っても届かなかった。
恐る恐る目を開けると、そこには、いつの間にか彼女の前に立ち、杖で骸骨の胴体を文字通り粉砕している少年の背中があった。
「ほら、立てる?」
ガラガラと崩れ落ちる骨の残骸を見下ろした後、うみは腰を抜かしている女子生徒へと振り返り、スッと手を差し伸べた。
彼女が震える手でそれを握り返すと、うみはひょいと軽い力で引き上げ、彼女を立ち上がらせる。
「あんな骨、落ち着いて対処すれば君たちのステータスなら負けないよ。深呼吸して、ね?」
「あ、つ、月影、くん……っ」
ぽんっ、と。柔らかく優しい微笑みと共に、うみの手が女子生徒の頭を優しく撫でた。
死の恐怖から一転、いつも飄々としているクラスメイトの、全く隙のない頼もしい振る舞い。
パニックに陥っていた女子生徒は、ボンッと音が鳴りそうなほど顔を真っ赤にして何度も頷き、
「う、うんっ! ありがとう!」と勢いよく階段の方へと駆け出していった。
それを見送りながら、うみは目隠しの下で氷のように冷ややかな視線を周囲へと巡らせた。
(……こりゃひどいな。騎士団や教会に目をつけられるのは避けたいけど、そんなこと言ってる場合じゃないか)
完全な混乱状態の戦場。うみの脳内で、即座に盤面の分析と最適解の構築が行われる。
(トラウムソルジャーの方は、一体一体は四級から三級に満たないレベル。大したことないけど、数が面倒くさいな。
この状況じゃ、『蒼』やら『解』で一掃しようとすれば間違いなく周りの生徒や騎士たちを巻き込む)
状況を打開しようにも、大技はこの閉鎖空間かつ味方がパニックを起こして入り乱れている状況では完全に封じられている。
(となるとベヒモスの方か)
うみの蒼い瞳が、障壁の向こうで突進を繰り返す巨獣を値踏みする。
(視たところ準二級相当……あの程度ならすぐに片付く)
現状における最適解。それは明白だった。
うみ自身が単独でベヒモスを討伐し、その後、態勢を立て直した騎士団と共にトラウムソルジャーの群れを強行突破する。
これならば、被害を最小限に抑えて全員を生還させられる。
うみがそう判断し、足を踏み出そうとした、その時だった。
「待って、うみくん」
袖を引かれた。振り返ると、そこには血の気を引かせながらも、瞳の奥に確かな光を宿したハジメの姿があった。
「……ハジメ? なに?」
「ベヒモスは、僕が足止めする。だから、うみくんは皆の方をお願い」
「……は?」
うみは本気で呆れたような声を漏らした。
「……ハジメ、君は確かに強くなってる。でもあれはまだ無理だよ? それに、俺が行けばすぐに終わる」
絶対的な実力差。合理性を欠いた提案に、うみは静かな圧をかけて退けようとする。しかし、ハジメは首を横に振った。
「確かにそうだろうけど、それをしたら、今後うみくんが動きづらくなっちゃうでしょ?」
「……」
「もしうみくんが一人でベヒモスを倒したら、騎士団から王国や教会に確実に伝わる。
そんな異常な戦力、絶対に見過ごされるわけがないし、手放すはずがない。
うみくんが言ってた『外側から帰る方法を探す』って計画、完全に頓挫しちゃうよ」
この世界に来てすぐに共有した、自力帰還のための計画。 それを引き合いに出され、うみは僅かに目を細めた。
確かに、ここで「月影うみ」の規格外の力を完全に露呈させれば、王国からの監視は一層厳しくなる。
「……それに、僕にも策はあるから」 ハジメはそう言って、自身の錬成手袋をぎゅっと握りしめた。
「この一ヶ月、うみくんに鍛えてもらったんだから大丈夫だよ!……だから、皆をお願い」
「……」
決然としたハジメの目。それは、ただ守られるだけだった一ヶ月前の少年のものではなかった。
生存への渇望と、仲間を生かすための自己犠牲、そして何より、地獄のような特訓を共に乗り越えてきた親友への信頼がそこにあった。
うみは小さく息を吐き、頭を掻いた。
「……わかった。ハジメに任せる」
「ありがとう、うみく――」
「でも、本当にヤバくなったら、俺が全部ひっくり返してでも動くからね。ハジメは絶対に死なせない」
有無を言わさぬ凄みを帯びた念押しに、ハジメは少しだけ苦笑して「ありがとう」と頷き、ベヒモスの方へと走り出していった。
「さて。じゃあ、俺は俺の仕事をするとしますか」
うみは階段側――トラウムソルジャーの群れへと向き直ると、いつもの「マイペースな不思議君」のトーンへと声を切り替えた。
呪術が使えない以上、手段は一つしかない。
「はーい! どいてどいてー! 通るよー!」
パニックに陥り、右往左往する生徒たちの間を、うみは風のようにすり抜けていく。
「なっ、月影!? お前、前に出るな!」
混乱を収めようとしていた騎士のアランが叫ぶが、うみは全く意に介さない。
「大丈夫大丈夫! 錬金術師の真骨頂、見せたげるから!」
うみは走りながら、技能『カゴ』を起動する。
すると次の瞬間には、うみの両手いっぱいに抱えられるように、ゴツゴツとした棘に覆われ、パンパンに膨れ上がった球体が現れた。
森で大量に採取し、アトリエで調合の手間暇をかけて作り上げた逸品。
「爆弾行くよー!!」
うみは両手に抱え込んだ『ふぐ』を、下から上へと掬い上げるようにして、トラウムソルジャーの密集地帯へと勢いよく放り投げた。
===============================
名称:爆粉ふぐ
ランク:C+
カテゴリ:(爆弾)
属性:風2 / 火1
効果:『ふぐのトゲ・小』『ノックバック・小』
特性:『範囲拡大』
===============================
ドゴォォォォォンッ!!!
凄まじい爆発音と共に、石橋の上が閃光と爆炎に包まれた。
アイテムそのものが持つ『ノックバック小』と『ふぐのトゲ』の効果。
それに加えて、素材の完熟ふぐから引き継いだ【範囲拡大】の特性が、狭い橋の上で完璧な威力を発揮する。
「ギギャァァァッ!?」
爆心地にいた数十体のトラウムソルジャーが、トゲを伴う爆風の衝撃で横合いに吹き飛ばされ、手すりのない橋から次々と奈落の底へと落ちていった。
骨の破片と魔石がガラガラと雨のように降り注ぐ中、うみは歩みを止めず、次々とカゴから爆粉ふぐを取り出しては投げまくる。
「そらそらー!どんどん行くよー!」
ドカン! ズガァン! バキィィン!
ふぐを取り出し次々に投げ込んでいく様子はまさに
剣を振るうことしか知らなかったトラウムソルジャーたちは、理不尽な爆撃の嵐に成す術もなく吹き飛ばされ、奈落へと落ちていく。
「な、なんだアレ……!?」
「すごい……というかなんというか……」
パニック状態だった生徒たちも、あまりの光景に呆然と立ち尽くした。
「こらー!いつまで見てるのさ!後ろからでっかいの来てるんだから、こんな骨さっさと片付けるよ!
落ち着いて戦えば勝てない相手じゃないんだから!」
うみの暢気だが的確な喝と、理不尽に吹き飛ばされていく魔物たちの光景が、
生徒たちに纏わりついていた恐怖の呪縛を打ち砕いた。
「そ、そうだ……! あんな爆弾で吹き飛ぶような魔物なんだ! 落ち着けばやれる!」
「前衛組、隊列を組め! 魔法組は支援だ!」
先ほどまで我先にと逃げ惑っていた生徒たちの目に、訓練で培ってきた光が戻る。
彼らのスペックの高さは本物だ。パニックさえ収まり、連携を取り戻せば、トラウムソルジャーの群れなど恐るるに足らない。
うみの爆撃によって開かれた突破口へ向け、生徒たちが怒涛の反撃を開始した。
――しかし、それから数分後。
魔法陣から溢れ出るトラウムソルジャーの増援は、一向に減る気配を見せなかった。
生徒たちのカバーに入っている騎士団員たちは既に満身創痍。生徒たち自身も、極限の恐怖と死闘による精神的疲労から、明らかに動きが鈍り始めていた。
ペース配分など考える余裕もなく、魔力も使わずにただがむしゃらに剣や槍を振り回すだけの状態。圧倒的に非効率な戦闘により、押し返していたはずの戦線が再びジリジリと後退し始める。
(さすがにきつくなってきたか……やっぱり数の力ってのは偉大だね。ふぐの在庫も切れそうだし)
ジリ貧の戦況。誰もが「もうダメかもしれない」と絶望しかけた、その時だった。
「――〝天翔閃〟!」
後方から放たれた純白の斬撃が、トラウムソルジャーの包囲網のド真ん中を切り裂き、魔物たちを次々と奈落へと吹き飛ばした。
「皆! 諦めるな! 道は俺が切り開く!」
振り返ると、そこにはボロボロになりながらも聖剣を構える光輝、
そして雫や龍太郎、メルド団長をはじめとする騎士団の前衛組が、血と埃に塗れながらもこちらへ撤退してくる姿があった。
単純な戦力の上昇以上に、クラスの絶対的リーダーである光輝たちの合流は、
限界を迎えていた生徒たちに劇的な士気の向上をもたらした。
「天之河くん!」
「団長たちも!」
「皆、無事だったのね!」
「ちょっと天之河くん、到着遅いよ! 会社なら即刻懲戒解雇ものだからね!」
ボロボロになりながらも決死の主人公ムーブを見せていた光輝が、うみの容赦ないヤジにガクッと態勢を崩す。
「なっ……! 人がせっかく助けに来たってのに、お前は本当に空気を読まないな!」
「はいはい、文句は後。さっさと前変わってよ、もう当店は在庫切れでーす」
そんな軽口を叩き合いながらも、合流を果たした前衛組と、復活した生徒たちの波状攻撃が加わり、怒涛の勢いでトラウムソルジャーの群れを押し返す。
そしてついに全員が、安全圏である階段の入り口へと到達した。
だが、その歓声を切り裂くように、香織が悲痛な声を上げた。
「皆、待って!南雲くんを助けなきゃ!南雲くんがたった一人であの怪物を抑えてるの!」
「……え?」
その言葉に、全員の視線が階段から橋の方へと引き戻される。
もうもうと立ち込める粉塵。それが迷宮の気流によってゆっくりと晴れていくと――。
「なんだよあれ……」
「あの魔物、地面に埋まってる……?」
生徒たちが息を呑む。
そこには、赤熱化した頭部を地面に突っ込んだまま、もがいているベヒモスの姿があった。
そして、その巨獣の足元に手を突き、必死の形相で『錬成』を発動し続けている一人の少年の姿。
「そうだ! 坊主がたった一人であの化け物を抑えているから、俺たちは撤退できたんだ!」
メルド団長が、血を吐くような声で叫んだ。
「もうすぐ坊主の魔力が尽きる! アイツが離脱したら一斉攻撃で、あの化け物を足止めしろ!」
その言葉に、生徒たちは自らの命を繋いでくれた存在の大きさを知り、武器を握る手に力を込める。
その頃、ハジメはもう直ぐ自分の魔力が尽きるのを感じていた。
既に回復薬はない。チラリと後ろを見ると、どうやら全員が撤退できたようである。隊列を組んで魔法の詠唱準備に入っているのがわかる。
ベヒモスは相変わらずもがいているが、この分なら錬成を止めても数秒は時間を稼げるだろう。その間に少しでも距離を取らなければならない。
額の汗が目に入る。極度の緊張で、心臓がバクバクと今まで聞いたことがないくらい大きな音を立てている。
ハジメはタイミングを見計らった。
そして、数十度目の亀裂が走ると同時に最後の錬成でベヒモスを拘束し、一気に駆け出した。
ハジメが猛然と逃げ出した五秒後。
地面が破裂するように粉砕され、ベヒモスが咆哮と共に起き上がる。
その眼には確かな憤怒の色が宿り、己に無様を晒させた怨敵――ハジメを捉えた。
再度怒りの咆哮を上げ、ハジメを追いかけようと四肢に力を溜め、身体能力の強化まで起動する。
だが、次の瞬間、あらゆる属性の攻撃魔法が殺到した。
夜空を流れる流星の如く、色とりどりの魔法がベヒモスを打ち据える。ダメージは無いようだが、しっかりと足止めになっている。
(行ける!)
確信し、転ばないよう注意しながら頭を下げて全力で走るハジメ。すぐ頭上を致死性の魔法が次々と通っていく感覚は生きた心地がしないが、チート集団がそんなミスをするはずないと信じて駆ける。
ベヒモスとの距離は既に三十メートルは広がった。
思わず、頬が緩む。
しかし、その直後。ハジメの表情は凍りついた。
無数に飛び交う魔法の中で、一つの火球がクイッと軌道を僅かに曲げたのだ。
――ハジメの方に向かって。
明らかにハジメを狙い、誘導されたものだ。
(なんで!?)
疑問や困惑、驚愕が一瞬で脳内を駆け巡り、ハジメは愕然とする。
咄嗟に踏ん張り、止まろうと地を滑るハジメの眼前に、その火球は突き刺さった。
ドゴォォンッ!
着弾の衝撃波をモロに浴び、来た道を引き返すように吹き飛ぶハジメ。直撃は避けたものの、三半規管をやられ平衡感覚が狂ってしまった。
フラフラしながら少しでも前に進もうと立ち上がるが……ベヒモスもいつまでもやられっぱなしではなかった。
ハジメが立ち上がった直後、背後で咆哮が鳴り響き、三度目の赤熱化をしたベヒモスがハジメに向かって突進してきたのだ。
フラつく頭、霞む視界、迫り来るベヒモス、遠くで焦りの表情を浮かべ悲鳴を上げるクラスメイト達。
ハジメはなけなしの力を振り絞り、必死にその場を飛び退いた。
直後、怒りの全てを集束したような激烈な衝撃が橋全体を襲った。
ベヒモスの突進が石橋の床に直撃し、着弾点を中心に凄まじい勢いで亀裂が走る。
メキメキと橋が悲鳴を上げ――遂に、限界を超えた石橋が崩壊を始めた。
「グウァアアア!?」
悲鳴を上げながら崩壊し傾く石畳を爪で引っ掻くベヒモスだったが、抵抗も虚しく奈落へと消えていく。
「うわあっ……!」
ハジメもなんとか脱出しようと這いずるが、しがみつく場所も次々と崩壊し、足元の石畳が完全に消え去った。
(ああ、ダメだ……)
そう思いながら、仰向けのまま奈落へと落ちていくハジメ。
その時だった。
「――っ」
階段側からその光景を捉えていたうみは、魔法の出所――混乱に乗じてハジメを狙い撃ちし、
口元に昏い愉悦を浮かべている檜山大介――へと、氷のように冷たく鋭い視線を突き刺した。
(……ほんっとにコイツは!)
コンマ一秒の思考。
次の瞬間、うみは一切の躊躇なく、生徒たちの集団から飛び出した。
「えっ……月影くん!?」
隣にいた雫が驚きの声を上げるよりも早く。
崩れゆく橋の先端から、奈落へと身を躍らせた。
「ハジメ!!」
重力に従って落下していくハジメ。
その上空から、物理法則を無視したかのような超絶的な速度で落下してきたうみが、空中でハジメの腕をガシッと掴んだ。
「うみ、くん……!?」
絶望の中にあったハジメが、突如として真横に現れた親友の顔を見て目を丸くする。
(よし。あとは術式使って、上に戻るだけ……)
うみの脳内で、即座に帰還のための術式構築が行われる。 だが――その思考の最中、うみの頭にある一つの『閃き』がよぎった。
(あれ? ちょっと待って。今って、自然に離脱するのに最適なタイミングじゃない?)
うみの頭の回転は常軌を逸している。
この一ヶ月、錬金術の便利さを見せつけてしまった以上、多少動きづらくはなるだろうとは思っていた。
いずれ自力帰還の方法を探すために離脱するつもりだったが、その理由付けや逃走劇が面倒だったのだ。
だが、ここで『落下』して行方不明、あるいは死亡扱いになれば。
今後、誰の監視も気にすることなく、自由の身として暗躍できる。
(……うん、完璧だ)
「うみくん!? なに笑ってるの! 早く何か……っ!」
「ハジメ! ここからは計画通りに行く!」
「……え?」
空中で風を切る轟音の中、うみは心底楽しそうな、とびきり自由で満面の笑みを浮かべて叫んだ。
「内側はよろしく! 恵里にも言っといて!!」
直後、うみは掴んでいたハジメの身体を、呪力で限界まで強化した腕力で、
強引に真上――まだ崩落していない階段側の石橋の安全圏へと向かって、力任せにぶん投げた。
「え、ちょっと、うわぁぁぁぁぁっ!?」
悲鳴にも似た驚愕の叫び声を上げながら、ハジメの身体が猛烈な勢いで放物線を描き、橋の上へと吹き飛んでいく。
それを見届けたうみは、反作用でさらに落下速度を増しながら、一人で奈落へと落ちていく。
「南雲くん!!」「月影くん!!」
「南雲!」「月影!!」
上空から、香織や雫、光輝たちの悲痛な叫び声が微かに聞こえた。
二人が共に奈落へ吸い込まれていくと錯覚したのだ。
だが、うみはそれに応えることなく、底の見えない漆黒の闇を見下ろした。
風が銀青の髪を激しく揺らす中、彼の表情には、一切の恐怖など宿っていない。
「さあ、冒険に出発だね♪」
誰に聞かせるでもなく、少年は楽しげにそう呟き、奈落の闇へと完全に姿を消した。
***
響き渡り、消えゆくベヒモスの断末魔。ガラガラと騒音を立てながら崩れ落ちてゆく石橋。
そして……瓦礫と共に奈落へと吸い込まれるように消えていった二人の姿。
「南雲、くん……?」
その光景を、まるでスローモーションのように緩やかになった時間の中で、ただ見ていることしかできなかった香織は、理解が追いつかず呆然と呟いた。
昨夜の記憶。
「うわぁぁぁぁっ!?」
奈落の闇の中から、突然ハジメの体が弾き飛ばされるようにして空を舞い、崩落を免れた地面へと激しく叩きつけられた。
「いっ、つぅ……!」
「な、南雲くん!?」
だが、全身を強く打ち付けたハジメは、走る痛みに顔を歪めながらも、駆け寄った香織に向けて必死に顔を上げた。
「うみくん……! うみくんは……!?」
「え……?」
香織が言葉に詰まる中、ハジメは痛む体を無理やり動かし、這いつくばるようにして奈落の縁へと身を乗り出した。
「うみくん!!」
ハジメの悲痛な絶叫が、暗闇の底へ吸い込まれていく。
その叫びを聞いて、呆然としていた生徒たちや騎士団の面々も、ようやく事態を正確に把握した。
月影うみがハジメを助けるために飛び込み、彼だけをこちらへ投げ飛ばし……自らは一人、奈落へと落ちていったのだという事実を。
「……うそ。兄さんが……?」
その時。
クラスの誰よりも冷静で、いつも穏やかな笑みを絶やさなかった優等生、中村恵里の顔から、完全に表情が抜け落ちた。
「うそだ……うそだうそだうそだ!! 兄さん!!」
恵里は仮面をかなぐり捨て、悲鳴のような絶叫を上げて奈落の縁へと駆け出そうとした。
しかし、その細い腕を、背後から雫が必死の形相で羽交い締めにする。
「離して! 兄さんのところに行かないと! 兄さんがいないと……私ッ!!」
「ダメよ、中村さん! あなたまで落ちる気!?」
普段の恵里からは考えられないほどの尋常ではない力。
雫は、彼女たちがただのクラスメイトではなく、血の繋がらない『兄妹』であることを知っている。
だからこそ、かける言葉が見つからず、ただ必死にその体を押さえつけるしかなかった。
「嫌ぁぁぁぁっ! 離してぇっ!!」
恵里の悲痛な叫び声が、迷宮の空洞に木霊する。
その姿を見て、ハジメは先程まで取り乱していた思考が冴えた。
そして、先程空中で叫ばれたうみの言葉をようやく咀嚼しきれた。
――『ここからは計画通りに行く!』――
うみは死ぬつもりなど毛頭なく、ただ計画のために自ら落ちていったのだという事実を。
それと同時にハジメは悟った。
(……うみくんのバカ。これ、僕があとであの状態の中村さんにこのこと話さなきゃいけないじゃないか……。
一体どんなことになっちゃうんだよ……っ!)
ハジメは知っている。中村恵里が、超が付くほどのブラコンであるということを。
そして、そんな人間がこのことを知ったとき……どうなってしまうか全く予想がつかないことを。
そんな、一人冷や汗を流すハジメをよそに、他のクラスメイトたちはただ呆然と立ち尽くしていた。
普段は誰に対しても穏やかで、取り乱すことなど決してなかった優等生の恵里。
その彼女が狂乱する姿を初めて見る生徒たちは、雫を除いて困惑のあまり声をかけることすらできず、その場に縫い付けられたように動けない。
だが、その悲痛な叫び声が響き続けるほどに、彼らの心に冷たい感情がじわじわと募っていく。
それは『目の前でクラスメイトが一人犠牲になった』という、絶望的な現実だった。
「……すまん」
張り詰めた空気の中、ツカツカと重い足取りで歩み寄ってきたメルド団長が、問答無用で恵里の首筋に手刀を落とした。
ビクッと痙攣し、そのまま雫の腕の中で意識を手放す恵里。
あまりにも乱暴な処置だが、無理もない。これ以上彼女を錯乱させれば、他の生徒たちの精神まで完全におかしくなってしまうと判断した上での、指揮官としての苦渋の決断だった。
「すいません、ありがとうございます……」
「礼など止めてくれ。もう一人も死なせるわけにはいかない。全力で迷宮を離脱する」
メルドはぐったりとした恵里を抱きとめた雫に頷き、そして立ち尽くしている光輝へと声を張り上げた。
「光輝! お前が道を切り開くんだ! 全員が脱出するまで。……犠牲になった月影も、それを望んでいるはずだ!」
その言葉に、光輝はハッとして顔を上げ、強く頷いた。
「皆! 今は、生き残ることだけ考えるんだ! 撤退するぞ!」
クラスメイト達はノロノロと動き出す。
トラウムソルジャーの魔法陣は未だ健在だ。今の精神状態で戦うことは無謀であるし、戦う必要もない。
光輝は必死に声を張り上げ、メルド団長や騎士団員達も生徒達を鼓舞しながら、階段への脱出を果たした。
上階への階段は長く、薄暗かった。
疲労と絶望の中、感覚的には三十階以上を上りきったところで、魔法陣が描かれた大きな隠し扉が現れた。
メルドがそれを解除すると、そこは元の二十階層の部屋だった。
「帰ってきたの?」
「帰れた……帰れたよぉ……」
生徒達が次々と安堵の吐息を漏らし、泣き崩れる。
しかし、メルドは心を鬼にして彼らを立たせ、魔物との戦闘を最小限に避けながら一気に地上へ向けて突き進んだ。
そして遂に、一階の正面門と、受付の光が見えた。
今度こそ本当に安堵の表情で外に出て行く生徒達。
だが、一部の生徒――未だ目を覚まさない恵里を背負った雫や光輝、
その様子を見る龍太郎、香織、鈴、そしてハジメなどは、ひどく暗い表情のままだった。
……ハジメだけは他の面々とは違う意味でだが。
そんな彼らを横目に、メルド団長は重い足取りで受付へと向かう。
二十階層のトラップの報告。
そして――。
錬金術師・月影うみの、奈落への転落による『死亡』の報告をするために。
***
ホルアドの町に戻った一行は、誰一人としてまともに言葉を交わす気力さえ残っていなかった。
冒険者ギルドへの報告と最低限の治療を終え、逃げるように宿屋へと戻る。
幾人かの生徒は身を寄せ合って泣いていたようだが、大半は真っ直ぐに自室のベッドへと倒れ込み、泥のような眠りへと落ちていった。
ハジメもまた、重い足取りで自室に戻り、扉に鍵をかけるなりベッドへとダイブした。
「はぁ…………疲れた……」
心身ともに限界だった。死線を超えた疲労と、何より「月影うみの不在」という事実が、重石のようにのしかかっている。
(うみくん……本当にやっちゃうんだもんなぁ。これからを考えると気が重い)
ハジメは寝返りを打つ。その時だった。
――カサッ。
ズボンのポケットから、微かな摩擦音が鳴った。
「ん……?」
ハジメは身を起こし、ポケットの中に手を入れる。回復薬はとっくに使い切ったし、何かを入れた覚えはない。
探り当てたそれを取り出してみると、小さく折り畳まれた一枚の羊皮紙だった。
「なにこれ……」
訝しげに広げてみると、そこには見覚えのある字で何か書かれていた。
『アトリエ 寅 ヴァルター』
「……なんだこれ」
ハジメは訝しげに眉をひそめた。
メッセージというにはあまりにも短い、暗号のような単語の羅列。
おそらく、空中でハジメの腕を掴み、投げ飛ばすあの一瞬の間で器用にねじ込んだのだろう。
(うみくん……もうちょっと分かりやすくならない? アトリエに何かあるの?)
ハジメが、その短い言葉の羅列に首を傾げていた、その時。
コンコン。
控えめなノックの音が部屋に響いた。
「っ!? 誰!?」
ハジメは弾かれたように跳ね起き、慌ててメモをズボンのポケットの奥底へとねじ込んだ。
「……南雲くん。私、香織だけど。……今、いい?」
扉の向こうから聞こえたのは、沈み込んだ香織の声だった。
ハジメは深呼吸を一つして表情を取り繕うと、ゆっくりと扉を開けた。
「白崎さん……どうしたの。疲れてるだろうに」
「ごめんなさい、休んでるところ。……でも、どうしても南雲くんの顔が見たくて」
そう言ってハジメを見つめる香織の瞳は、痛ましいものを見るように揺れていた。
無理もない。傍から見れば、ハジメは『一番の親友を喪った、最も傷ついている人間』なのだから。
「私……約束、守れなかった。南雲くんを守るって言ったのに……結局、月影くんに……」
「あ、いや、それは……」
「南雲くんが一番辛いはずなのに……ごめんなさい、私……っ」
ポロポロと涙をこぼし始める香織の姿に、ハジメは胸がギュッと締め付けられるような感覚を覚えた。
(白崎さんは……本当にやさしい人だね)
親友を失った(と思われている)自分を心底案じ、涙まで流してくれる彼女の底抜けの優しさ。
それに深く心打たれると同時に、ハジメの中にはチクリとした痛みが走った。
(ごめん、白崎さん。うみくんは生きてるんだ。]
……それどころか、僕は今、中村さんに殺されるかも知れない恐怖の方で頭がいっぱいなんだよ……っ)
だが、そんな真実は口が裂けても言えない。
うみの計画を台無しにするわけにはいかないし、何よりこの状況で「実は生きてます」などと説明できるはずもない。
「……大丈夫だよ、白崎さん。うみくんは、あんなことで簡単に死ぬような奴じゃないさ。
……絶対に生きてるって、僕は信じてるから」
それは真実を知っているからこその本心であり、同時に優しすぎる彼女へのせめてものごまかしだったが、
香織の目には『親友の死を受け入れられない健気な姿』に映ってしまったらしい。
「南雲くん……。うん。そうだよね、月影くんだもんね……」
香織は悲しげに微笑むと、ハジメの胸中など知る由もなく、ギュッと彼を優しく抱きしめた。
「……大丈夫だよ。私がいるから。私が、ずっと南雲くんの傍にいるから……っ」
「bふぁvshgヴぇkhlふぃほあ!!???」
とんでもない美少女からの突然の慈愛に満ちた抱擁に、ハジメの思考は一瞬にしてショートした。
本来なら天にも昇るような青春の一幕だが、完全にキャパシティを超えたハジメの脳裏に、不意にとある幻視がよぎる。
――もしこの場に『アイツ』がいたら。
間違いなく、とびきりいい笑顔で「ひゅーひゅー♪ ハジメくん、やるぅー!」などと盛大に弄り倒してくるうみの姿が、
ありありと脳内に浮かび上がったのだ。
(この場に居ずとも……!!)
嘘への罪悪感も恵里への恐怖も一瞬吹き飛び、ハジメはボンッと音が鳴りそうなほど顔を真っ赤にして、ただ硬直することしかできなかった。
――同じ頃、別室にて。
「……エリリン」
谷口鈴は、ベッドで静かな寝息を立てる恵里の顔を、複雑な表情で見下ろしていた。
メルド団長の手刀で気絶させられた恵里は、宿に運ばれてからも一度も目を覚ましていない。
極度の疲労と精神的ショックによるものだろうとのことだ。
鈴にとって、中村恵里は親友だった。
誰にでも優しく、気配りができて、いつも完璧な優等生。
けれど、あの奈落の縁で仮面をかなぐり捨てた彼女の姿は、鈴の知らないものであった。
奈落へと向けて『兄さん!!』と叫ぶあの姿が今の脳裏を離れない。
「鈴、あんなエリリン初めて見たよ……それに、月影君のこと……兄さんって呼んでたよね?」
鈴はポツリと呟く。 月影うみと恵里。クラスではほとんど接点がないように見えた二人が、実は兄妹だった。
「鈴……エリリンのこと、本当は何にも知らなかったんだね……。
ねえ起きたら教えて?エリリンのこと。鈴は、エリリンとちゃんとお友達になりたいから」
***
「はぁ…………」
八重樫雫は、自室のベッドに腰掛け、深く重い溜息を吐き出した。
香織がハジメの様子を見に行っている間、ようやく一人になれたことで、張り詰めていた糸がプツリと切れたのだ。
脳裏に蘇るのは、前夜の一幕。
――『明日の迷宮探索、あんまり一人で抱え込まないようにね。……何かあったら、俺がなんとかするからさ』――
いつもの飄々とした態度とは違う、確かな頼もしさを孕んだその言葉。
誰にも言えなかった秘密をあっさりと見抜き、『か弱い女の子』扱いをして肩の荷を下ろしてくれた少年の背中。
彼はその言葉通り、絶体絶命の危機からハジメを救い――自らは奈落へと落ちていった。
本当に、バカなんだから……」雫はポツリとこぼし、そして両手で顔を覆った。
結局、自分は何もできなかった。恵里のあの狂乱する姿を見ても、ただ抱きとめることしかできなかった己の無力さが悔しい。
だが、悲しみと無力感に浸っている余裕はない。それ以上に彼女の胃を痛めつけているのは、王都に帰還した後のことだった。
「……あの子に、なんて言えばいいのよ」
王都で彼らの帰りを待つ友――リリアーナの顔が浮かぶ。
彼女が、月影うみにどれほど特別な感情を抱いていたか。
雫はそれを嫌というほど知っている。
「……私が、言わなきゃいけないのよね」
その残酷な役割の重さに、雫はただ一人、薄暗い部屋で頭を抱え続けるしかなかった。
***
ホルアドの町の一角。人気のない裏路地で、檜山大介は膝を抱えて座り込んでいた。
顔を膝に埋め、微動だにしない。
もし、クラスメイトが彼のこの姿を見れば、激しく落ち込んでいるように見えただろう。
だが、実際は……。
「ヒ、ヒヒヒ。オ、オレは悪くない……。南雲を、ちょっと分からせてやろうとしただけだ……。
月影が、アイツが余計なことするから……! そうだ、アイツが悪いんだ。
アイツがいなきゃ南雲が落ちて……そしたら白崎は……オレは間違ってない……ヒ、ヒヒ」
暗い笑みと濁った瞳で、ひたすらに自己弁護を繰り返しているだけだった。
そう、あの時、軌道を逸れてまるで誘導されるようにハジメを襲った火球は、この檜山が放ったものだった。
階段への脱出とハジメの救出。それらを天秤にかけた時、ハジメを見つめる香織が視界に入った瞬間、檜山の中の悪魔が囁いたのだ。
今なら殺っても気づかれないぞ? と。
誰にも気づかれないよう、絶妙なタイミングで誘導性を持たせた火球をハジメに着弾させた。
流星の如く魔法が乱れ飛ぶあの状況では、誰が放った魔法か特定は難しい。まして檜山の適性属性は風だ。証拠など残るはずがない。
そう自分に言い聞かせながら、檜山がほの暗い笑みを深めていた、その時だった。
「――ククッ。やはりお前はいい」
「ひっ!?」
突如として背後から降ってきた声に、檜山は情けない悲鳴を上げて飛び退いた。
見上げると、路地裏の影が不自然に揺らぎ、そこから『人ではない何か』が滲み出るように姿を現した。
人間の輪郭をしているが、その肌は青白く、瞳は血のように赤い。
何より、その全身から発せられる不気味な魔力が、檜山を本能的に竦み上がらせた。
「ま、魔族……!?」
「静かにしろ。私はただの観測者だ。……迷宮での一部始終、特等席で見せてもらったぞ。見事な火球だった」
「ッ!?」
檜山の心臓が跳ね上がった。
魔族の男は、人間の負の感情を嗅ぎ取るようにしてニヤリと唇を歪める。
「あの一撃がなければ、あの少年が奈落へ落ちることもなかった。……どうだ、初めての殺しの味は? 甘美なものだろう?」
「ち、違う! オレはアイツを殺す気なんて……!」
「声が大きいぞ。……誰かに聞かれてもいいのか? お前が『人殺し』だと」
その言葉に、檜山はワナワナと震えながら口を閉ざした。
クラスメイトを殺したとバレれば、間違いなく居場所を失う。光輝や騎士団の制裁は免れない。
恐怖で完全に追い詰められた檜山を、魔族は見下ろすように嘲笑った。
「お前の咎を黙っていてやる……だがその代わりに我の手足となって従え」
「ふ、ふざけるな! オレが魔族なんかに寝返るわけないだろ! そ、それに、魔族の言うことなんて誰が信じるってんだよ! 」
虚勢を張って怒鳴る檜山。しかし、魔族は全く動じることなく、愉快そうに喉を鳴らした。
「ククッ……なるほど。確かに、魔族の言葉など誰も信じまい。ならば――こうすればどうだ?」
「なっ……!?」
影がうねり、魔族の姿が輪郭からぼやけたかと思うと、次の瞬間には、ごくありふれた人間の冒険者のような姿へと変貌していた。
「人間に、化けた……?」
「これならどうだ? 迷宮で偶然目撃した冒険者からの告発。
……無論、完全な部外者の言葉だけで、お前がすぐに断罪されるとは限らん。だがな……」
人間の顔をした悪魔が、檜山の耳元へ顔を寄せ、ねっとりと囁く。
「お前は、迷宮のどさくさに紛れて仲間殺しを画策するような卑劣な人間だ。
普段の行いや周囲からの信頼度も、たかが知れているだろう?
勇者たちの中に『疑惑』というわずかな火種を植え付けるだけで、
お前を孤立させ、破滅へと向かわせるには十分すぎるほどの起爆剤になると思わないか?」
「ッ……!!」
痛いところを正確に突かれ、檜山の顔からさらに血の気が引く。
完全に部外者からの告発であっても、「檜山ならやりかねない」と周囲に思われてしまえば、弁明は難しい。
孤立と制裁。その未来を想像し、檜山は完全に言葉を失い、ガタガタと震えることしかできなくなった。
その様子を満足げに見下ろし、魔族は致命的な一撃となる『甘い毒』を垂らす。
「そう怯えるな。何もただ働きをしろというわけではない。……治癒師の女、欲しくないか?」
「ッ!? な、何を言って……」
暗い思考を一瞬で吹き飛ばされ、驚愕に目を見開いて魔族を凝視する檜山。
そんな檜山の様子をニヤニヤと見下ろし、悪魔の誘惑を続ける。
「我に従うなら……あの女をお前のものにしてやろう。我々の力があれば、そう難しくない。
……どうだ? 全てを失って処刑台に上るか、英雄の陰で密かに望むものを手に入れるか」
「……」
悪魔の取引。
正常な判断力などとうに失っていた檜山大介は、葛藤の末に、諦めと欲に塗れた表情で頷いた。
「……分かった」
「ハハハハハ、契約成立だ! まぁ、仲良くやろうではないか? アハハハハ」
楽しそうに笑いながら闇に溶けていく魔族を見送った後、檜山は再び膝に顔を埋めた。
もう、一線を越えてしまったのだ。自分の居場所を確保するために、そして香織を手に入れるために。
「ヒヒ、だ、大丈夫だ。上手くいく。オレは間違ってない……」
薄暗い路地裏の底で、少年はただブツブツと狂気を呟き続けていた。
***
翌日の昼頃。 オルクス大迷宮からの早すぎる帰還の報を受け王城の正面玄関には、エリハイド王をはじめとする王族、そしてイシュタル教皇らが出迎えに集まっていた。
しかし、門を潜る勇者たちの歩みは重く、その表情は一様に暗く沈み込んでいる。
「無事の帰還、何よりだ。皆、よく生きて戻って……」
労いの言葉をかけようとしたエリハイド王も、異様な空気を察して言葉を濁す。
そんな中、出迎えの列の先頭に立っていたリリアーナ王女が、親友たちの姿を見つけてパァッと表情を輝かせた。
「香織、雫! お帰りなさい! 無事で本当によかった……!」
駆け寄ってきたリリアーナに、香織と雫は痛々しい表情を浮かべたまま、ただ小さく頷くことしかできない。
「……? 二人とも、どうしたの? なんだかひどく疲れているみたいだけど……」
不思議そうに首を傾げたリリアーナは、勇者たちの列の奥、そして騎士団員たちの間へと視線を巡らせた。
「あれ……? うみくんは?」
その無邪気な問いかけが、場に重くのしかかる。
メルド団長が沈痛な面持ちで王と教皇へと歩み寄ろうとする中、雫は香織と視線を交わし、リリアーナの肩にそっと手を置いた。
「……リリィ。ここでは話しにくいから、後であなたの部屋に行ってもいい? 大切な、話があるの」
「え? う、うん、わかったわ。待ってるわね」
雫のただならぬ雰囲気に、リリアーナは頭に疑問符を浮かべながらもコクリと頷いた。
数時間後。
戦死者の報告と事後処理で城内が騒然とする中、雫と香織はリリアーナの私室を訪れた。
「いらっしゃい、二人とも。……それで、大切な話って?」
ソファに腰掛け、不安そうに身を乗り出すリリアーナ。
雫は深く息を吸い込み、震えそうになる声帯を必死に押さえつけて口を開いた。
「リリィ……落ち着いて聞いてほしいんだけど。実は――」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「……え?」
カラン、と。
リリアーナの手から滑り落ちたティーカップが、絨毯の上で鈍い音を立てて転がった。
「な、にを言ってるの……? 雫。香織。……冗談、よね?」
完全に血の気が引いた顔で、リリアーナの唇が震える。
信じられない、信じたくない現実を前に、必死に親友たちの顔を覗き込む。
だが、香織は大粒の涙をボロボロとこぼしながら、ただひたすらに首を横に振っていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、リリィ……っ。私たちが不甲斐ないばかりに……月影くんが……っ」
「嘘……だって、うみくんは……大丈夫だって……っ。
帰ってきたら、いっぱいお話聞かせてくれるって……約束、したん…だよ……?」
リリアーナの大きな瞳から、ぽろぽろと涙が溢れ出す。
『未だ踏破報告のない階層への転落』。それは実質的な『死』を意味する。
自分を不安から救い上げてくれた無敵の微笑みと、絶対的な安心感。
そして、明日も明後日も彼が飄々とした態度で会いに来てくれると信じて疑わなかった日常が、唐突に永遠に失われたのだという事実。
「嫌ぁぁぁぁっ……うみくぅんっ……!!」
リリアーナは両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣き崩れた。その細い肩を、香織と雫が両側から強く抱きしめる。
「ごめんね、リリィ……ごめんなさい……っ。私が弱かったから、月影くんが……っ」
(南雲くんを守るって約束したのに……結局、全部月影くんに押し付けちゃって……)
香織もまた、止めどなく溢れる涙を拭おうともせず、親友の背中にすがりついて泣きじゃくった。
「リリィ……ごめんね。私が、ちゃんと見ていられなかったから……」
(……バカ。……本当にバカよ、月影くん……)
あの夜、自分の弱音を優しく包み込んでくれた頼もしい少年の背中。
『何かあったら俺がなんとかする』というその言葉の通り、絶体絶命の危機からハジメを救い、自らは落ちていった彼。
その約束に甘え、ただ見ていることしかできなかった自分への激しい後悔と無力感に苛まれながら。
雫は、泣き崩れる二人の親友をただ強く抱きしめ、自身もまた静かに涙を流し続けることしかできなかった。
***
同日の夜。
ハジメは一人、王城の一角にある部屋――うみがあてがわれていた専用の『アトリエ』の前に立っていた。
「……」 ガチャリと鍵を開け、誰もいない薄暗い部屋の中へと足を踏み入れる。
室内は相変わらず、無数の薬瓶や錬金釜、そして見慣れない素材が無造作かつ機能的に配置されていた。
主の帰還を待っているかのようなその光景に、ハジメは胸の奥が少しだけ痛むのを感じながら、あの羊皮紙のメモを取り出した。
『アトリエ 寅 ヴァルター』
ホルアドの宿では疲労と混乱で全く頭が回っていなかったが、
王城へ戻る馬車の中で冷静に思考を整理したことで、ようやく一つの答えに行き着いた。
「寅……北東、より少し東か」
ハジメは部屋の中心からおおよその方角を割り出し、その方角――東北東の壁際に設置された大きな本棚へと歩み寄った。
「で、次は『ヴァルター』……」
本棚には、王国から提供された分厚い魔導書や、トータスの歴史書、植物図鑑などがぎっしりと並んでいる。
ハジメは背表紙に目を走らせ、著者名の中にその単語を探した。
「……あった」
視線の先。ずらりと並ぶ本の中で、ひときわ地味な装丁の一冊。
タイトルは『大陸西部における土壌と農業史』。錬金術にも戦闘にも全く関係のない、ひどく退屈そうな学術書だ。
だが、その背表紙の下部、著者名の欄には確かに『ヴァルター・フォン・アノニマス』と記されていた。
「この棚にあるヴァルターの著書は、これ一冊だけのはず……」
ハジメは迷うことなく、その本に手をかけ、手前へと引き抜いた。
ゴゴゴゴゴゴ……ッ。
重々しい地鳴りのような音と共に、床の石畳が僅かにスライドし、目の前の巨大な本棚がゆっくりと横へ動き始めた。
「うわっ……王道ギミックじゃん」
本棚の奥から現れたのは、奥へと続く短い通路だった。
ハジメはランプの灯りを頼りにその通路を進む。数メートルほど歩いた先に頑丈そうな木の扉があり、
それを押し開けると、そこには外のアトリエに引けを取らないほどの広さを持った隠し部屋が広がっていた。
部屋の壁際には、木箱にぎっしりと詰められた見慣れない鉱石や素材の山。
そして部屋の中央には一つの作業台が置かれており、その上には一枚の羊皮紙のメモと、
分厚い革張りのノートがポツンと置かれていた。
ハジメは作業台に近づき、まずはその羊皮紙のメモを手に取った。
そこには、間違いなく親友の、あの見慣れた字が並んでいた。
==============================================================
やあやあハジメくんや。君がこのメモを読んでるというのなら、俺がこの場所を教える前に離脱しているということだろう!
ということで簡単な説明をするよ?
このメモの隣にあるノートには、俺が覚えている限りの現代兵器の設計図を書き込んである。
この部屋にある素材は、それの製作に使えそうなものをあちこちからかき集めておいたから、設計図をもとに色々と試してみるといいよ。
あ、作り方は自分でなんとかしてね? ハジメの方が錬成には詳しいんだからさ。
まあそんなわけで、王国側はよろしく!
P.S. 多分、恵里に何も伝えずの離脱になっていることだろうから、
合流したときに俺が怒られないように今のうちに上手いこと宥めといてね! ……恵里は怒ると怖いんだ
==============================================================
「…………」
メモを読み終えたハジメは、しばし無言で立ち尽くした。
隣にあるノートを開いてみれば、そこには地球の現代兵器――リボルバー式の拳銃や散弾銃、ライフルといった銃火器の緻密な構造図が、びっしりと書き込まれていた。
部屋を埋め尽くすほどの見慣れない鉱石も、全てはこのノートの設計図を形にするために、彼がこの一ヶ月間で密かにかき集めていたものなのだ。
(うみくん……いつの間にこんなものを……)
相棒の底知れない気遣いと、確かな信頼。胸の奥が熱くなるのを感じながら、ハジメはメモの『追伸』の部分にもう一度目を落とした。
「……勝手な奴」
ハジメは震える手でメモを握りしめ、ポツリと呟いた。
そして、いつも飄々と自分を弄り倒してくる親友の顔を思い浮かべながら、黒い笑みを浮かべる。
(よし。中村さんが目を覚まして、計画のことを話すとき……このメモは絶対にそのまま見せてやろう。
僕だけに修羅場を押し付けたバツだ。これで少しは、怒りの矛先があいつに向かってくれるはず……)
親友が残してくれたこの莫大な『遺産』と、ささやかな意趣返しの決意を胸に抱き。
ハジメは、これから直面するであろうブラコン妹の修羅場への覚悟を新たに、
薄暗い隠し部屋の中で一人、静かに闘志を燃やしていた。
***
あの日、迷宮で死闘と喪失を味わった日から既に五日が過ぎている。
ハイリヒ王国王宮内、召喚者達に与えられた部屋の一室で、鈴は、暗く沈んだ表情で未だに眠る親友を見つめていた。
(エリリン……)
王国に帰還してからの数日間、鈴たちが味わったのは、死線を超えた安堵などではなく、ひどく冷たくて理不尽な現実だった。
月影うみの『死』が報告された時、王国の重鎮や教会の反応は、どこか事務的で冷淡なものだった。
勇者である光輝や、チート級の能力を持つ戦闘職の生徒たちではなく、あくまで生産職である『錬金術師』の喪失。
「便利な道具がなくなってしまって残念だ」。表向きは悼む素振りをしつつも、彼らの本音はそんなところだろう。
一方で、彼と接点のあった城のメイドや騎士団の一部からは、確かな悲しみの声が上がっていた。
いつも飄々としてマイペースで、どこか掴みどころのない不思議な少年だったが、その裏表のない愛嬌のある振る舞いは、現場の人間たちからは密かに愛されていたのだ。
だが、そんな現場の悼む声を掻き消すように、上層部からは非情な決定が下された。
あの日、ハジメを襲い、結果としてうみを奈落へと追いやった『謎の魔法』についての詮索を、王国と教会が禁じたのだ。
メルド団長は、あれが過失であれ故意であれ、白黒はっきりさせるべきだと猛抗議したらしいが、国王と教皇の命令で強引に調査は打ち切られた。
クラスメイトたちもまた、もし自分の魔法だったらという恐怖から現実逃避し、誰もその話題に触れようとしない。
「……ちょっと悔しいよね。月影くんが死んじゃったのに、大人の人たちは……」
鈴はポツリと呟き、俯いた。
その時、コンコン、と控えめなノックの音が響き、部屋の扉が開いた。
「鈴。中村さんの様子は、どう?」
「あ、雫ちゃん、香織ちゃん、それにリリアーナ王女まで……。
うん……まだ、目を覚まさないよ」
入ってきたのは、八重樫雫と白崎香織、そしてリリアーナ王女の三人だった。
彼女たちもまた、うみの死による深い喪失感を抱え、憔悴しきっている。
「……中村さん」
雫が恵里のベッドへと歩み寄り、祈るように目を閉じる。
(どうか、これ以上……この優しい子たちを傷つけないで)
その祈りが通じたのか。
不意に、眠っていた恵里の指先がピクッと動いた。
「っ!? 中村さん!?」
雫の叫びに、香織たちも弾かれたように顔を上げる。
恵里の閉じられていたまぶたがふるふると震え、やがて、ゆっくりと開かれた。
「エリリン……っ!」
鈴が涙声で呼びかける。
恵里はしばらく焦点の合わない瞳で天井を見つめていたが、やがてゆっくりと周囲の四人へと視線を巡らせた。
「……鈴、……? 八重樫さんに、白崎さん……王女殿下も……?」
「良かった、目を覚ましたのね。無理しないで、五日も眠っていたのよ」
雫が安堵の息を吐きながら、恵里の体を支えて起こしてやる。
「五日……」
恵里は小さく呟き、そしてハッとしたように目を見開いた。
迷宮での記憶が、急激に彼女の脳内にフラッシュバックする。
あの崩れゆく石橋。ハジメを助けるために飛び込み、そして――
「……兄、さん……」
恵里の口から、消え入りそうな声でその言葉が紡がれる。
その言葉に、部屋の空気が一瞬にして重く沈み込んだ。
香織は唇を噛み締めて俯き、リリアーナは再び泣き出しそうになるのを必死に堪えている。
事情を知らない鈴は、恵里のその言葉に戸惑うように問いかけた。
うみと恵里の事情を知る雫は、痛ましそうに問いかけた。
「中村さん……あのね、月影くんのことは……」
雫が恐る恐る事実を告げようとするが、恵里はそれを遮るように、静かに、けれど確かな意志を込めて首を横に振った。
「ううん。大丈夫だよ、八重樫さん」
「えっ……?」
恵里は俯いていた顔を上げ、四人を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、五日前の奈落の縁で見せたような狂乱の気配は微塵もない。
あるのはただ、底知れないほどの暗く、深い『信頼』の色だった。
「兄さんは、生きてるから」
その断言に、四人は息を呑んだ。
「……中村さん」
雫が再び悲痛な顔で諭そうとするが、恵里は微かに笑みを浮かべて首を振る。
「現実逃避じゃないよ、八重樫さん。あの時は取り乱しちゃったけど、今は、兄さんが死んだなんて少しも思ってないの。
……だって、兄さんは『最強』だもん。あんなところで、私を置いて死ぬような人じゃない」
それは、ただの願望ではない。
彼女を地獄の底から救い出し、光を与えてくれた、彼女にとっての絶対的な『神』への信仰告白だった。
その迷いのない瞳に、香織はハッとして顔を上げ、リリアーナはハラハラと涙をこぼした。
雫は、恵里の言葉の根底にあるものを理解し、ただ苦笑するしかなかった。
恵里が確かな立ち直りを見せたことに、部屋を満たしていた重苦しい空気がほんの少しだけ和らぐ。
その様子を見て少し安堵した鈴が、ずっと抱えていた疑問を恐る恐る口にした。
「……その、迷宮の時から気になってたんだけど……。エリリン、月影くんのこと、兄さんって呼んでたよね? 本当の、お兄ちゃんなの?」
事情を知らない香織やリリアーナも、不思議そうに恵里へと視線を向ける。
恵里は「ごめんね、黙ってて」と小さく微笑むと、首を横に振った。
「ううん。血は繋がってないんだけどね。……色々と事情があって。うん、話さないとだよね」
恵里はそう言うと、どこか遠く、大切な思い出を愛おしむような目をした。
「私と兄さんが初めて会ったのはね――」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
そこから語られたのは、恵里にとっての全てであり、うみという人間の本質の一端だった。
血の繋がりはないこと。家庭の事情で絶望のどん底にいた自分を、彼が救い出してくれたこと。
そして、彼がいかに凄くて、優しくて、カッコよくて、最高のお兄ちゃんであるかということ。 *1
最初は真面目に過去の事情を語っていたはずなのだが。
「――それでね! あの時の兄さんったら、夜風に銀青の髪を揺らしながら、すっごく優しい声で『大丈夫』って言ってくれたの!
もうね、その時の瞳がすっごく綺麗で! その後も私のために色々と動いてくれて、本当に頼りがいがあって、
ちょっとマイペースだけどそこがまた可愛くて……あ、でも怒ると怖いんだけど、それもまたカッコよくて……!」
五日間の眠りから覚めたばかりだというのに、恵里は目をキラキラと輝かせながら、凄まじい熱量と早口で兄への愛(というより執着)を語り始めた。
あまりの勢いに、鈴も香織もリリアーナも完全に気圧され、ポカンと口を開けてただ聞いていることしかできない。
「……もう、本当に宇宙で一番最高のお兄ちゃんなんだから! だからあんな迷宮ごときで死ぬわけないの!
絶対にひょっこり帰ってきて、また私の頭を撫でてくれるんだから……っ!!」
「ストップ、ストップ!!」
息継ぎも忘れてブラコン語りを続ける恵里を、ついに見かねた雫が慌てて制止した。
「な、中村さんが月影くんのことだぁーい好きなのは、よぉーくわかったから! ね!?」
「え? あ、ご、ごめんなさい……つい、熱くなっちゃって」
雫に止められ、恵里はコホンと咳払いをして、ようやく落ち着きを取り戻した。
「……まあ、そういうわけだから。私は兄さんの生存を信じてる。
だから、皆もそんなに暗い顔しないで?」
恵里が優しく微笑みかけると、香織たちは少しだけ救われたような顔で頷いた。
恵里の狂気的なまでの信頼が、逆に彼女たちの心に「もしかしたら」という一縷の希望を灯したのだ。
「うん……そうだね。月影くんなら、きっと生きてるよね」
「ええ。あの飄々とした顔で、ひょっこり帰ってきそうね」
「うみくんですもの。……絶対に、大丈夫ですわ」
香織、雫、リリアーナが次々と同意の言葉を口にする。
その言葉に一番安堵したのは、他の誰でもない恵里自身だった。
兄を信じているのは本当だが、この絶望的な状況で自分に同調してくれる存在がいるという事実は、彼女の心を確かに支えていた。
「……ありがとう、皆」
恵里は柔らかく微笑むと、ふと何かを思いついたように、香織、雫、リリアーナの三人へと視線を向けた。
「あのさ。……もう私の
いつまでも苗字で呼ばれるのも、なんだか水臭いし」
その提案に、香織と雫が顔を見合わせてふわりと微笑んだ
「ふふっ。じゃあ、私のことも『香織』で」
「私も『雫』でいいわよ」
リリアーナもそれに続く。
「それならば、私のことも『リリィ』でお願いします。鈴さんも」
「それなら、鈴のことも『鈴』でいいよ!」
この絶望と喪失の中で、少女たちは確かな絆を結び直した。
全員がファーストネーム*2で呼び合うことになり、部屋の空気は先程までの重苦しさが嘘のように、和やかで温かいものへと変わっていた。
――だが。
その和やかな空気を、恵里自身が投下した特大の爆弾が一瞬にして吹き飛ばした。
「そういえば……」
恵里は、ベッドの上に座ったまま、ジトっとした冷ややかな視線をリリアーナへと向けた。
「結構前から気になってたんだけど」
「えっ? は、はい。なんでしょうか、恵里さん……」
恵里のただならぬ気配に、リリアーナがビクッと肩を揺らす。
「リリィって……」
恵里は、まるで獲物を査定するような目でリリアーナを見据え、言い放った。
「――うちの兄さんのこと、好きなの?」
「ええっ!?」
全く事情を知らない鈴が素っ頓狂な声を上げる中。
リリアーナの顔は、ポンッと音が鳴りそうなほど一瞬にして真っ赤に染め上がった。
「ななな、な、何を突然……っ!? そ、そんな、好きだなんてっ!
た、確かにうみくんは、不思議で、マイペースで、でも優しくて、面白くて、安心できて、綺麗でかっこよくて――」
両手で真っ赤になった顔を覆いながらも、口からは怒涛の勢いでうみの好きなところがとめどなく溢れ出していく王女様。
全く隠せていないどころか、自ら盛大に惚気てしまっていることに本人は全く気付いていない。
「リリィ、何にも隠せてないどころか全部白状してるわよ」
「ふふっ……顔、真っ赤だよ」
以前より、リリアーナの内心を知っていた雫と香織が、ニマニマと意地悪な笑みを浮かべてからかう。
「ええーっ!? マジで!? 王女様と月影くんが!? すっごい! 少女漫画みたい!!」
完全に蚊帳の外だった鈴も、年頃の女子高生らしく目をキラキラと輝かせながら食いついた。
「わ、笑わないでくださいっ! 雫! 香織ぃっ! 鈴さんもっ!」
涙目で抗議するリリアーナだが、そんな彼女に同情する者は誰一人おらず、病室は年相応の少女たちの明るい笑い声に包まれた。
その微笑ましい(?)光景を眺めながら、恵里だけはニコニコと微笑みつつ、内心で全く別のことを考えていた。
(……なるほどね。兄さんを私一人で攻略するのはかなり骨が折れると思ってたけど……いっそのこと、リリィと二人がかりで……ふふっ)
喪失と絶望の淵にあった少女たちは、一人の少年の存在によって再び立ち上がり、前を向いた。
***
翌日。 お見舞いラッシュがようやく落ち着き、恵里の部屋に静けさが戻った頃。 コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「どうぞー」 恵里が声をかけると、扉が開き、申し訳なさそうな顔をしたハジメが姿を現した。
「……中村さん、具合はどう?」
「うん。もうすっかり平気。心配かけてごめんね、南雲くん」
ハジメがベッドの傍の丸椅子に腰掛ける。
恵里は、彼が自分たちのクラスの中で最も親友である兄と仲が良かったことを知っている。
だからこそ、何か大切な話があるのだろうと察し、居住まいを正した。
「思ってたより元気そうでよかったよ。……あのさ、実は、うみくんについてなんだけど」
ハジメが言い淀みながら切り出すと、恵里の表情がスッと真剣なものに変わった。
「兄さんが、何か?」
「うん。あの日、うみくんが奈落に落ちる直前、僕に伝言を遺したんだ。
『計画通りに行くから内側はよろしく!恵里にも言っといて』って」
「……計画通り?」
恵里が怪訝な顔で首を傾げる。記憶の糸をたぐり寄せるが、すぐにはピンと来ない様子だ。
無理もない。それはあまりにも唐突で、非日常的な出来事の中での発言だった。
ハジメは、恵里の顔色をビクビクと窺いながら、ゆっくりとヒントを出すように続けた。
「……あのさ、中村さん。この世界に来た翌日のこと、覚えてる?」
「翌日……?」
「僕たちの部屋に集まって、三人で話したじゃないか。
……うみくんが『外側から帰る方法を探す』って言ってたこと」
その言葉を聞いた瞬間、恵里の目が大きく見開かれた。
『俺がある程度準備が整ったら、ここを離れる。王国の外に出て、自力で元の世界に帰る手段を探すつもり』
『俺が外側から世界を回って情報を集める。二人は内側に留まって、王国や教会の動向を探ってほしい』
あの日、親友が語った「自力帰還のための計画」。
それはつまり――。
「……まさか」
「うん。僕もすぐには何のことかって感じだったんだけど……。うみくんは、その『計画』を実行するために、あの混乱に乗じてわざと落ちたんだと思う。
本当は上に戻る手段もあったはずなのに……ちょうどいいから、って感じで」
ハジメは身を縮め、消え入りそうな声で言葉を紡いだ。
恵里はしばらく沈黙し、自身の記憶とハジメの言葉をすり合わせていたが……やがて、深く、長いため息を吐き出した。
「……はぁぁ。なるほどね。いかにも兄さんが考えそうなことだよ。
あの人、本当にそういうところあるから……。周りの心配とか、全然考えない……違うね。
自分の価値を低く見積もりすぎなんだよ。周りが自分をどう思ってるとかをさ」
呆れと、そして確信。
兄が死んでいないという事実に安堵する一方で、自分に何の相談もなく、あんな心臓に悪い方法で姿を消したことへの苛立ちが入り混じる。
そんな恵里の様子を見ながら、ハジメはさらに身を小さくし、震える手でポケットから一枚の羊皮紙を取り出した。
「あ、あのさ……。これ、僕宛のメモなんだけど……一応、中村さんにも見せておいた方がいいかなって……」
「メモ?」
恵里が訝しげにそれを受け取る。
そこには、うみの見慣れた字で、地球の現代兵器の設計図を遺したこと、そして――。
『P.S. 多分、恵里に何も伝えずの離脱になっていることだろうから、
合流したときに俺が怒られないように今のうちに上手いこと宥めといてね! ……恵里は怒ると怖いんだ』
「…………」
メモを読み終えた恵里の動きが、ピタリと止まった。
病室の温度が、一気に数度下がったような錯覚。
「な、中村、さん……?」
ハジメが震え声で呼びかけると、恵里はゆっくりと顔を上げた。
その顔には、先ほどまでの優等生の仮面も、兄を案じる妹の顔もない。
あるのはただ、底知れない、漆黒の笑みだった。
「……ふふふ。そう」
恵里の口から漏れた、地を這うような笑い声に、ハジメの全身の毛穴が全開になる。
(終わった……! これ、僕も巻き添え食らうやつだ……っ!!)
「ありがとう、南雲くん。……教えてくれて」
恵里はメモを丁寧に折りたたみ、自身の懐へとしまった。
その所作は優雅ですらあったが、瞳の奥にはベヒモスすらも逃げ出すであろう暗い炎が渦巻いている。
「そう、兄さんが……ふふっ。そういうことしちゃうんだ……」
「あ、あの……中村さん……?」
「大丈夫だよ、南雲くん。心配しないで?」
恵里は、この世の全ての恐怖を煮詰めたような笑顔をハジメに向けた。
「戻ってきたら、兄さんとたーっぷり、お話ししないとね……ふふっ。
……絶対に、逃がさないんだから」
ハジメは見事、自身の生存と引き換えに、親友への特大のヘイトをなすりつけることに成功した。
しかし、その身代わりとなった親友が、無事に合流を果たした暁に生きていられるかどうかは……神のみぞ知る。