オルクス大迷宮の第五十階層。
どこまでも続く無機質な岩肌の中間地点に、それは鎮座していた。
周囲の壁と一体化したような、重厚で巨大な両開きの扉。その表面には、幾重にも重なる複雑な幾何学模様――『魔法陣』がびっしりと刻み込まれている。
そして、その扉の両脇を守るようにして、壁から半身を乗り出した二体の単眼の巨人、キュクロプス型の石像が立ち並んでいた。
うみは、ポケットに両手を突っ込んだまま、六眼を通して扉の術式構造をまじまじと観察した。
「……扉に触れると、こいつらが動き出す仕組みなのか」
大層に複雑化されているが、六眼で読み解けば、その本質は拍子抜けするほどシンプルな『接触感知の連動機構』に過ぎない。
「たったそれだけの術式をここまで複雑化させて隠蔽するとか……よっぽど、ここに入らせたくないんだろうね
創設者の執念なのか、はたまた悪趣味なトラップメーカーの嫌がらせか。
うみは呆れたように一つため息を吐くと、扉の脇でピクリとも動かない石像へと視線を移し、鑑定する。
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名称:
所持技能:『擬態』『強固なる石化』
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名称:強固なる石化
解説:自身を強靭な石の塊へと変え、物理・魔法耐性を極限まで高めて受けるダメージを激減させる硬質化防御。
発動中は一切の行動ができない。
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「……アストロン? いや、無敵じゃないからスカラか?」
ゲームなどでよくある、一時的に自身を鋼鉄や石に変えてダメージをやり過ごす、高い防御力を誇るスキルだろう。
本質は周囲の岩肌との同化による擬態と合わさった奇襲用の構えといったところか。
だが、そのステータス画面を読み終えたうみの表情に、焦りや警戒の色は微塵も浮かばなかった。
「……石になったとて」
ポツリと、冷酷なまでの無関心を孕んだ声が漏れる。
うみはポケットから右手をスッと抜き出し、指先を二体の石像へと向けた。
「――『蒼(あお)』」
ギュォォォォンッ!!
空間そのものを軋ませるような異音と共に、二体のキュクロプス像の中心に、マイナスの自然数を孕んだ『引力』の球体が発生する。
メキ、メキキキキィッ!
目覚める間もなく、擬態して石像になりきっていた二体のキュクロプスは、極限まで高められた防御力ごと強烈な引力によって空間ごと内側へと圧縮され、ぐしゃぐしゃにひしゃげていく。
何かを悟って動き出そうとする素振りすら見せる余裕もなく、ただの石の塊として、あるいはただの瓦礫として――
バキィィィンッ!!
乾いた破砕音と共に、二体の守護者は跡形もなく粉砕され、ただの砂利と粉々になった魔石の破片へと成り果てた。
あまりにも、無慈悲で無常な結末であった。
深い迷宮の奥で、いつか来る侵入者を排除する日を夢見て、長い長い眠りについていた守護者たち。
待ちに待った侵入者は規格外過ぎた。
悠久の時を待ち、いざその時が訪れた守護者たちは、役目を果たすどころか、
指一本動かすことができず、ただの石像のオブジェとして、眠りについたのである。
「んー。さすがにやり過ぎたか? 魔石まで壊れちゃった」
守護者の無念など知る由もなく、うみは足元に散らばる残骸を足の先でツンツンと小突きながら、極めて能天気な思考を回していた。
とりあえず、使えそうな欠片だけを『カゴ』に収納し、うみは本命である巨大な扉へと向き直る。
「さて、と。開けゴマ、ってね」
うみは扉の表面にペタリと手を当て、その複雑怪奇に絡み合った魔法陣の構造へと、自身の魔力を微弱に流し込んだ。
六眼の視界の中で、魔力と術式の流れが、まるで立体的なパズルのように可視化されていく。
ここがロックの起点。ここがエネルギーの循環回路。ここが防壁。
「うん、やっぱり複雑にはしてあるけど……」
うみは、手から流し込む魔力の波長を自在に変化させながら、扉の術式の結び目を一つ一つ、強引に、かつ精密に解いていく。
「――宿儺の領域をハックしたときの方が難しかったかな」
うみが最後の術式の結び目を解いた瞬間。
扉の表面にびっしりと刻まれていた魔法陣が、眩い光を放ちながら空中にフワリと浮かび上がった。そして――。
パリーンッ!!
まるで精巧なガラス細工が砕け散るかのような甲高い音と共に、魔法陣は光の粒子となって空間に霧散する。
ゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
地鳴りのような重低音を響かせながら、決して開くはずのなかった巨大な扉が、ゆっくりと内側へと開き始めた。
中から、冷たく淀んだ空気が流れ出してくる。
「……さて。鬼が出るか、蛇が出るか」
うみは楽しげに口角を吊り上げ、漆黒の制服のポケットに手を入れたまま、悠然と扉の奥の暗闇へと足を踏み入れた。
***
扉の奥は、一切の光が存在しない完全な暗黒の世界だった。
本来の人間であれば、自分の手すら見えないほどの漆黒。松明でもなければ一歩踏み出すことすら躊躇われるだろう。
しかし、うみの『六眼』と、魔物を喰らって得た『夜目』の技能の前では、その暗闇は全くの無意味だった。
うみの視界は、昼間のようにクリアにこの部屋の全容を捉えていた。
部屋の内装は、大理石のように艶やかな石造りで出来ており、幾本もの太い柱が規則正しく奥へ向かって二列に並んでいた。
聖教教会の大神殿を思わせる、厳かで、どこか冷ややかな空間だ。
そして、その部屋の中心。
「……なんか居るね」
太い柱の列の奥、一段高くなった祭壇のような場所に、巨大な立方体の石が鎮座していた。
その石には、何者かが繋がれ、半身を埋め込まれるようにして拘束されている。
うみはすぐさま、その『何者か』へ向けて『鑑定』をかけた。
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名称:■■■■
種族:■■■■
状態:■■■■
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「文字化け……?」
半透明のウィンドウに表示されたのは、黒塗りの伏字のような意味不明な羅列だった。
うみは足を止め、思考を回す。
(相手が、鑑定を阻害するような厄介な技能持ちか? いや、それならそもそもウィンドウすら出ないか、『鑑定不能』弾かれるはず。
なら、俺の『鑑定』技能の格……スキルレベル的なものが足りないのか。それとも、そもそもこの技能が、無機物や魔物には使えても、人間や魔族に類するものには使えない仕様なのか。
……不覚。ハジメ辺りで試しておくべきだったか)
いくつかの仮説を立てながら、うみが相手の正体を測りかねていると。
「……だれ?」
静寂に包まれた部屋に、掠れた、けれど確かに意志を持った声が響いた。鈴を転がすような、幼い少女の声だった。
「……君、何者?」
うみは警戒しながらも、声の主へ向かってゆっくりと歩みを進める。
六眼が捉える魔力の波長や肉体の構造から、相手が人間ではないこと、そして迷宮を徘徊する魔物でもないことは既に分かっていた。
「見たところ、人間でも魔物でもないみたいだけど……魔族ってやつ?」
警戒を緩めずに近づくにつれ、巨大な立方体に拘束された相手の姿が克明に露わになっていく。
上半身から下と両手を立方体の石の中に埋めたまま顔だけが出ており、透き通るような金糸の髪が、某ホラー映画の女幽霊のようにだらりと垂れ下がっていた。
そして、その髪の隙間から、低高度の月を思わせる紅眼の瞳が、じっとうみを見つめ返している。
年の頃は十二、三歳くらいだろう。長い間幽閉されていたのか随分とやつれており、垂れ下がった髪で顔の輪郭も分かりづらいが、
美しいという部類に入る容姿をしていることは分かる。
しかし、そんなうみの問いかけなど耳に入っていないのか、あるいは答える余裕すらないのか。
紅眼の少女は、絞り出すような悲痛な声で懇願した。
「……お願い! ……助けて……」
血を吐くような願い。
見た目が自分よりも年下の、それこそ、孤児院の弟妹達と同じくらいの少女である。そんな彼女が石に埋め込まれ、助けを求めている姿を無下にするのは、うみとて多少の心苦しさはある。
しかし、ここは得体の知れない大迷宮の深部。
かつ、この少女は厳重な警備の部屋に閉じ込められ、あまつさえこれまためんどくさそうな拘束までされている。
少女のすこし手前まで歩みを進めたうみは歩みを止め、現状を突きつけた。
「……場所が場所だし、こんな仰々しい封印まで施されて拘束されてるってことはさ。これ、解いたところでろくでもないことにしかならなさそうなんだけど?」
普通に考えれば、世界を滅ぼす魔王か、それに類する凶悪な存在である可能性が高い。情に流されて封印を解くのは、あまりにもリスクが高すぎる。
冷たく突き放すようなうみの言葉に、少女はハッとして、必死に首を振ろうとした。
「ちがう! ケホッ……私、悪くない! 私は――」
激しく咳き込みながらも、少女は叫ぶ。
その紅い瞳には、長い年月を孤独の中で耐え抜いてきた絶望と、それでも消えなかった一縷の希望に縋るような、痛々しいまでの必死さが宿っていた。
「――裏切られただけ!」
静寂の神殿に、悲痛な叫びが木霊する。
その言葉を受けた瞬間、うみは自身の内側に意識を向けた。
『真偽判定』。対象の嘘偽りを感覚的に看破する技能。
この技能を手に入れてから、嘘を吐く相手と遭遇したことはなかったが、
もし相手が嘘を吐いているなら、何かしらの反応や違和感が思考や肉体に生じるはずだ。
(……何もない。ということは、少なくとも嘘ではないってことか?
そう言う技能があるって言われたらそれまでだけど……まあ嘘だったらその時対処すればいいか)
相手の言葉が真実であると仮定したうみは、小さく息を吐き、少しだけ声のトーンを和らげた。
「……悪いけど、その言葉だけじゃ、判断できないかな」
「……っ」
「言ってる事が本当なら、最初から全部話してくれない? 君が誰で、なんでこんなところにいるのか」
うみの静かな、けれど確かな促しに、少女はコクリと頷き、ぽつりぽつりと枯れた喉で語り始めた。
「私、先祖返りの吸血鬼……すごい力持ってる……。だから、国の皆のために頑張ったの。
でも……ある日……家臣の皆が、お前はもう必要ないって……おじ様……これからは自分が王だって……」
「……」
「私……それでもよかった……でも、私、すごい力あるから危険だって……殺せないから……封印するって……それで、ここに……」
途切れ途切れに語られる、波乱万丈で凄惨な境遇。
(魔力の直接操作に無詠唱での魔法行使か……まあ普通だね。
前者は俺もできるし、後者は魔物が持ってた……不死身だけは厄介だけど)
吸血鬼という種族特有の能力か、あるいは彼女個人の才能か。
だが、うみが本当に反応したのは、彼女の能力の高さではなかった。
(国の為に頑張ったのに、身内に裏切られて……危険だからって理由でこんな暗闇に封印された、ね。
……どこにでもいるんだな、こういう自分の保身しか考えない『腐ったミカン』は)
うみの頭に過るは旧呪術総監部の狸共。
そして、自身の大切な妹分――中村恵里の姿。
かつては、実母からの虐待、義父からの暴行未遂。
周囲に裏切られ、絶望の淵で「ここから消えたい」とすら願うまでに追い詰められていた姿。
ただ純粋に国の為に力を尽くした結果、化け物だと恐れられ、
最も信頼すべき身内に裏切られた目の前の吸血鬼の少女が、あの夜の恵里と重なって見えた。
全てを語り終えた少女は、最後の力を振り絞るように、再びその紅い瞳でうみを真っ直ぐに見つめた。
そして、弱々しく、だが縋るような声で零す。
「……たすけて……」
その血を吐くような悲痛な響きを聞きながら、うみは静かに目を伏せた。
『真偽判定』は反応していない。表情・声色からも、
重い沈黙が、冷たい石造りの部屋に落ちる。
それが数秒のことだったのか、あるいは数分に及んだのか。
永遠にも似た静寂の後、うみは伏せていた目をゆっくりと上げ、口角を微かに吊り上げた。
「……いいよ。解いたげる」
「あ……」
少女の瞳に、信じられないものを見るような光が灯る。
うみは少女を拘束している巨大な立方体の石へとペタリと触れると、石に施された術式の解析を始めた。
(入り口の扉よりもさらに複雑……その上、内側からの魔力を完全に封じる機能まで付いてるのか。
これ、普通に解こうとするとめちゃくちゃ面倒くさいし、魔力もごっそり持っていかれそうだな)
神代の魔法使いが残したであろう、最高峰の封印術式。
しかし、うみの思考は極めて呪術師らしく、合理的でドライなものだった。
(わざわざパズルを解いてあげる義理もないか)
「ちょっと動かないでね」
うみは少女に短く告げると、石に触れた掌に呪力を集中させた。
術式対象を『拘束している石』のみに精密に絞り込み、内包された少女の肉体には一切干渉しないようイメージを固定する。
「――『捌』」
バシュッ!!
目に見えない無数の斬撃が、巨大な立方体の石だけを正確に捉え、切り刻む。
「えっ……?」
少女が驚く間もなく、彼女の半身を強固に縛り付けていた絶対の封印は、まるで砂細工のようにあっけなく崩れ去り、細かい瓦礫となって周囲に散らばった。
「っ……」
支えを失った少女の体が、重力に従って前へと倒れ込む。
長い年月を封印されてきた肉体には、立ち上がる力すら残っていないのだろう。石の台座の上にペタリと座り込む形になった。
瓦礫の山の中から解放されたその姿は、一糸纏わぬ全裸であった。
ひどく痩せ細ってはいるものの、透き通るような白い肌と整った造作は、
彼女が元王女であるという言葉を裏付けるような神秘的な美しさを保っていた。
(とりあえず服が必要か。このままはさすがに可哀そうだし……なんかあったかなぁ)
うみが『カゴ』から予備の服を取り出そうと視線を外しかけた、その時だった。
「……っ」
不意に、うみの右手を小さな手がぎゅっと握りしめた。
ひどく冷たくて、弱々しく、力のない手。
驚いて視線を戻すと、座り込んだ少女が、震える手でうみの手を両手で包み込むようにして握っていた。
顔は無表情だが、薄汚れた金髪の隙間から覗く紅い瞳には、溢れんばかりの感情が揺らめいている。
そして、枯れきった声で、小さく、しかしはっきりと彼女は告げた。
「……ありがとう」
少女の真っ直ぐな言葉に、うみはなんでもなさそうに肩を竦めた。
「ん。どういたしまして」
あっさりと返すと、うみは掴まれていない方の左手で『カゴ』を探り、使えそうな服や布がないか確認を進める。
そんなうみを見上げながら、少女は囁くような声で尋ねた。
「……なまえ、なに?」
「俺? 月影うみ」
「うみ……」
少女は「うみ、うみ」と、その響きを忘れないように、さも大事なものを内に刻み込むように繰り返し呟いた。
そして、うみも視線を服の捜索に向けたまま聞き返す。
「君は?」
その問いに、少女は一瞬口を開きかけたが、何かを思い直したように静かに首を横に振った。
「……名前、つけて」
「……えぇ」
予想外のお願いに、うみは思わずカゴを探る手を止めた。
「付けるって……名前を? なんでさ、いくら長いことここにいたとしても、忘れたってことはないでしょ?」
「もう、前の名前はいらない。……うみがつけた名前がいい」
少女の紅い瞳が、すがるように、そして確かな意志を持ってうみを見つめてくる。
(……これはあれか。決別ってやつか)
その心情は理解できる。過去の自分を縛り付けていた鎖――この理不尽な封印と、裏切られた凄惨な記憶を切り捨てたいのだろう。
だが。
(困った……。俺、ペットすら飼ったことないのに、いきなり吸血鬼に名付けなんてハードル高すぎる……)
うみは頭を掻きながら、必死に思考を回した。
ぱっと思いついたのは、自身のモデルとしての活動名である『Luna』。
(いやいや、さすがになしでしょ。自分と同じ名前つけるのはちょっと……)
すぐにその案を却下し、うみは『Luna』という言葉のルーツから連想ゲームを始めた。
(Lunaって確か、ラテン語とかイタリア語で『月』って意味だったよね。……致し方なし。『月』でローラーしよう)
うみの脳内を、様々な言語の『月』が猛スピードで駆け巡る。
(英語なら
ギリシャ神話から引っ張って
ノルウェー語で
……ええと、じゃあ中国語だと? 月、月……たしか
「ユエ……」
うみはぽつりとその言葉を口に出した。
響きも悪くないし、女の子の名前としても違和感がない。
「『ユエ』なんてどう? まあ、俺は絶望的にネーミングセンスがないから、気に入らないなら別のを考えるけど……」
「ユエ? ……ユエ……ユエ……」
少女は自身の新しい名前を確かめるように、何度も舌の上で転がした。
「俺には
(単純に他にいい名前が思いつかなかっただけなんだけどさ)
うみは内心でそんな身も蓋もないことを思いながらも、口には出さない。
少女はパチパチと瞬きをした。
そして、相変わらず無表情ではあるが、その紅い瞳の奥にどことなく嬉しそうな光を灯した。
「……おそろい?」
「ん? ……まあ、一応そうなるね。いや?」
「ううん」
少女――ユエは、小さく首を横に振ると、氷のように冷たかった手を少しだけ強く握りしめてきた。
「……んっ。今日から、私、ユエ。ありがとう……うみ」
「うん。じゃあ、とりあえずこれ着といて。さすがにそのままはアレだし」
「?」
うみが差し出したのは、この奈落に落ちてきて高専の制服に着替える前まで着ていた、『錬金術師』用の装備一式だった。
深紅のロングコートに、茶色のベストとスラックス。装飾が施されたファンタジー色の強い服だ。
「……」
ユエは差し出された服を受け取りながら、反射的に自分の体を見下ろした。
当然ながら、一糸纏わぬ――俗にいう『生まれたままの』――姿である。
透き通るような白い肌が露わになっており、隠すべきところも丸見えだった。
「あっ……」
ユエの顔が一瞬にして真っ赤に染まった。
慌てて受け取った深紅のコートを胸元にギュッと抱き寄せ、体を隠すように縮こまる。
そして、前髪の隙間から上目遣いでうみをジトッと睨みつけ、ポツリと呟いた。
「……うみのエッチ」
「いくら何でも理不尽じゃない?」
拘束されているときからその姿だったというのに、いったいどうしろと言うのか。
あまりの物言いに、うみはつい反射的にツッコミを返してしまった。
だが、(……まあ、年頃の女の子だしね。仕方ないことか) と内心でそう結論付け、
ここでさらに何か言い返せば面倒なことになると悟り、それ以上の追及はしないことにした。
ユエは少しだけ頬を膨らませながらも、いそいそと服に袖を通し始める。
うみの身長は百六十七センチ。対するユエは、見たところ百四十センチあるかないかだ。二十センチ以上の身長差があるため、当然ながら服はぶかぶかだった。
深紅のコートは完全に引きずりそうになっており、袖から手も出ていない。スラックスに至っては裾を何度も折り返さなければ歩けない有様だ。
「……よしっ」
一生懸命に袖や裾を折り曲げ、なんとか着れる状態に整えたユエが、ふうっと小さく息を吐いた。
コートに着られているようなその姿は、本人の整った容姿も相まって、小動物のように微笑ましい。
「着れた? 体の方は大丈夫そう? ちゃんと動ける?」
うみがそう声をかけた、まさにその時だった。
「うみっ、上!」
ユエが目を見開き、鋭い声を上げた。
頭上の暗闇――ドーム状の天井から、巨大な影が音もなく落下してきていたのだ。
それは、硬質な外殻に覆われ、巨大な鋏と毒々しい尾針を持つサソリの魔物だった。
うみの頭をその巨大な質量と硬度で押しつぶそうと、音もなく急降下してくる。
しかし。
「――奇襲にしてはお粗末じゃない?」
うみは微動だにせず、ただ見上げただけだった。
落下してきたサソリの巨体が、うみの頭上、わずか数センチのところで――ピタッッッ!と、完全に見えない壁に阻まれるかのように静止したのだ。
空中に固定され、ピクリとも動けなくなったサソリ。
「え……?」
ユエが驚きに声を漏らす。
彼女は吸血鬼であり、魔法の天才だ。だからこそ分かる。
今のうみからは、魔法を発動するための詠唱はおろか、魔力の練り上げや魔法陣の展開といった、魔法のプロセスが一切感じられなかった。
「――『蒼』」
その言葉とともに腕をスッと壁の方へ払う。
直後、壁の近くの空間が軋みを上げ、強烈な引力が発生し、空中に固定されていたサソリの巨体を引き寄せる。
「ギギィッ!?」
サソリは強大な引力に逆らうことができずに宙を舞い、猛烈な速度で壁へと吸い寄せられた。
ドゴォォォォンッ!!
鈍い激突音が響き、サソリの巨体が壁に激突する。
だが、その硬い外殻のおかげか、ダメージはほとんどないように見える。
そのまま壁からずり落ちたサソリは、
仰向けにひっくり返った状態で地面に落ち、太い足をジタバタとさせて身を起こそうとあがいている。
うみは、そのサソリへ向けて静かに手を翳し、追撃をかける。
「――『解』」
シュ!という空気を裂く音と共に、不可視の斬撃がサソリの胴体へと飛ぶ。
しかし。
ガァンッ!!
「……あー、弾かれたか」
放たれた不可視の斬撃は、サソリの強固な外殻に浅い傷をつけただけで、あっさりと弾かれてしまった。
(やっぱり、俺の出力じゃこんなもんか。宿儺なら今ので真っ二つどころか、八枚おろしにしてるところだろうに……)
この迷宮に来てから幾度目かの出力不足を内心で痛感し、うみはやれやれと首を振った。
そして、壁際でもがくサソリをまじまじと観察し、ポツリと独り言を漏らす。
「あの外殻、いい素材になりそうなんだよなぁ。……できれば、綺麗な状態で倒したい」
うみは『カゴ』から青白く発光する液体の入った小瓶を取り出し、後ろにいるユエへと軽く放り投げた。
「それ飲んでちょっと待っててね。大抵の怪我や疲労はすぐ治るから」
ユエが小さな両手でしっかりと小瓶を受け取るのを確認すると、うみは再びサソリへと向き直り、地を蹴った。
仰向けからなんとか体勢を立て直したサソリが、向かってくるうみを迎撃しようと、四本あるうちの一本の巨大な鋏を力任せに振り下ろす。
ギチィッ!という嫌な音を立てて迫る鋼の鋏。
だが、うみは歩みを止めることなく、ほんの半歩体をずらし、すれ違いざまにそれを躱した。
そして、振り抜かれた鋏の根本――関節の僅かな隙間へと視線を向ける。
(あの外殻は硬いけど、関節なら……)
うみは自身の体内に循環する魔力を右手に集束させ、瞬時に硬質化させる。
ギュンッ!と、淡い光を放つ魔力の刃が手のひらから伸びた。
さらに、鋏から胴体までを間にある関節部が丁度七対三の位置になるような線分として定義する。
「――シッ!」
鋭い呼気と共に振り抜かれた魔力の刃が、弱点となった関節部を捉え、あっさりと両断した。
「ギィィィヤァァァッ!?」
鋏を断たれ、サソリが苦痛と怒りの入り混じった金切り声を上げる。
一方、その光景を後ろから見ていたユエは、小瓶を握りしめたまま、再び驚愕に目を見開いていた。
(……魔法陣もない。詠唱も、ない)
先ほど見せた正体不明の力とは違う。
今、うみが右手に生み出した光の刃は、紛れもなく純粋な『魔力』の塊だった。
それはつまり、うみが自分と同じように、外付けのシステムに頼らず「魔力を直接操作する術」を持っているという事実を意味していた。
(私と、同じ……?)
圧倒的な力を持つ少年の、自分に似た魔法の在り方。
ユエの胸の中に、驚きと共に、どこか安堵のような、なんともいえない不思議な感覚が広がっていく。
しかし、感傷に浸っている暇はなかった。
「キィィィィィイイ!!」
鋏を失い、完全に激昂したサソリが、残る鋏を激しく鳴らしながら、尻尾を高く振り上げた。
そして、その毒々しい尾針の先端から、うみへ向けて無数の針の散弾を乱射したのだ。
「おっと」
うみは散弾を刃で叩き落すか、ステップで軽々と回避する。
だが、サソリの狙いはうみではなかった。
牽制の散弾を撃ち終わるや否や、サソリはターゲットを切り替え、後方に座り込んでいる『無防備な少女』――ユエの方へと一直線に突進を開始したのだ。
「えっ……」
恐ろしい巨体が迫りくる。封印から解かれたばかりで動けないユエは、ただそれを見上げることしかできない。
しかし、サソリの巨体が彼女を押し潰すよりも早く。
「――っと」
ユエの視界が、ぐらりと反転した。
「きゃっ!?」
気付けば、ユエはうみの腕の中にすっぽりと抱きかかえられていた。
サソリが突進してきた瞬間、うみは『蒼』の引力を自身に作用させた超高速移動で一気に間合いを詰め、彼女を抱え上げて後方へと退避したのだ。
ズガァァンッ!と、ユエが先ほどまで座っていた場所が、サソリの突進によって無残に粉砕される。
「……あの状況で俺を無視してそっち狙うとか。職務に忠実すぎでしょ」
うみは、腕の中で小さく縮こまるユエを抱えたまま、サソリの律儀なガーディアンっぷりに呆れたように文句を垂れた。
(ユエを抱えたまま、あの装甲の隙間をちまちま狙うのは……リスクがあるな。
万が一、この子に攻撃が当たったら元も子もないし)
うみの頭から「綺麗な素材として残す」という錬金術師としての欲求がスッと消え去る。
(仕方ない。外殻に傷がつくのは妥協しよう)
ため息を一つ吐くと、うみは腕の中のユエに視線を落とした。
「ちょっと揺れるよ」
「ギシャァァァッ!!」
突進を躱されたサソリがすぐさま反転し、再びユエを狙って襲いかかってくる。
だが、うみは逃げなかった。
逆に、迫りくるサソリの頭部へと向かって、思い切り地を蹴り飛躍する。
そして、サソリの巨大な顔面へと向かって、右足を振り上げた。
その脚には、対象の硬度や強度を一切無視し、空間そのものを捉えて砕く『理』が込められていた。
「――『宇守羅彈』」
パキキキィィィンッ!!
空間が甲高く割れる音と共に、うみの蹴りがサソリの頭部に直撃する。
防御不可能の空間破砕打撃。
「ギャッ!?」
強固なはずのサソリの外殻が、まるで薄いガラスのように耐えきれずにド派手に砕け散り、内部の脆い生身が完全に露出した。
うみは空中で体勢を崩すことなく、その露出した柔らかな肉に足先を触れさせた。
「――『捌』」
ズババババババッッ!!
足先を基点として、対象の内部へと無数の斬撃が流し込まれる。
硬い外殻に守られていた内側を直接切り刻まれ、サソリは断末魔すら上げる暇もなく、その巨体をぐしゃりと地面に沈めた。
ピクピクと数回痙攣した後、完全に活動を停止する。
「ふぅ……。少しでも綺麗なパーツが残ってればいいんだけど……」
うみはユエを抱えたままふわりと着地すると、頭部が砕け散ったサソリの死骸を見下ろし、心底残念そうにぼやいた。
***
「……よし。使える部分はこれくらいかな」
うみは腕の中のユエをそっと地面に降ろすと、サソリの死骸へと近づき、早速解体作業に取り掛かった。
残念ながら、大半がぐちゃぐちゃになってしまった都合上、
『捌』の対象を絞りづらかったため、魔力で生成した小太刀で的確に関節や外殻の隙間を捌いていく。
その際、自身の蹴りで砕け散った外殻の破片を手に取り、『鑑定』をかけた。
======================================
名称:シュタル鉱石
ランク:A
カテゴリ:(鉱石) (魔物素材)
品質:80
属性:土5 / 闇3
特性:『魔力硬化』
超特性:なし
解説:魔力との親和性が極めて高く、魔力を通した分だけ硬度を増す特殊な鉱石。
======================================
「なるほど、通りで硬いわけだ。……これはいい素材になる」
満足げに頷きながら、うみは使えそうな外殻の破片と、体内にあった魔力を帯びた巨大な魔石を『カゴ』のインベントリへと放り込んだ。
一通りの作業を終えたうみは、軽く伸びをしてから、ぽつんと座り込んでいるユエの方へと振り返った。
彼女は神水を飲んだおかげで顔色は幾分か良くなっていたが、それでも長年の封印と先ほどの戦闘の余波で、どこか疲れ切っているように見えた。
「とりあえず、別の場所に移動して少し休もうか。ずっとここにいたんじゃ落ち着かないでしょ」
うみはそう言うと、再びユエをヒョイと抱き上げ、部屋を出て、魔物の気配のない安全そうな横穴へと移動した。
***
「さて、と。ここでなら少しは落ち着けるかな」
うみは持参していた敷物を広げ、ユエをそっと座らせた。
ユエは小さく頷くと、だぶだぶのコートの裾を握りしめながら、じっとうみの顔を見上げてきた。
そして、少しだけ逡巡するように紅い瞳を瞬かせた後、ぽつりとこぼす。
「……うみ。お腹、すいた」
「えっ? ああ、そういえば三百年間何も食べてないんだっけ。さすがに神水でも空腹まではごまかせないか。
ええと、食べられそうなもの……」
(困った……魔物しか持ってない。さすがにこんなもの食べさせるわけにもいかないし……)
うみが『カゴ』の中を漁って頭を悩ませていた、その時だった。
「……血、吸っていい?」
「……へ?」
予想外の要求に、うみは思わず動きを止めた。
「ああそっか。吸血鬼だもんね。別にいいけど……多分美味しくないよ? 魔物の混ぜ物状態だろうし」
「……うみの血が、いい」
ユエは首を横に振り、真っ直ぐにうみを見つめてくる。
その瞳には、空腹からくる飢えと、それ以上の純粋な『渇望』が入り混じっていた。
「……んー、まあいいか。でも、あんまり飲み過ぎないでね? 俺でも血がなくなったら普通に死んじゃうから」
うみはあっさりと承諾すると、ユエの隣に腰を下ろし、自身の制服の襟元を少しだけ広げて首筋を差し出した。
「……ありがとう」
ユエは嬉しそうに目を細めると、そっとうみの首元へと身を寄せた。
チクリ、と小さな牙が肌に食い込む感覚。直後、自身の内側から血液が吸い上げられていくのを感じる。
(……なんか、献血みたいな感じ)
しばらくの間、うみはされるがままに身を任せていた。
時折、首筋から「んっ……」や「ふぁ……っ」といった、
ユエのよくわからない反応が漏れ聞こえてくるが、深く気にしないことにする。
しかし、数分が経過しても終わる気配がない。
さすがのうみも、視界が僅かにチカチカし始め、軽い眩暈を覚え始めた。
「……ユエ? そろそろしんどいんだけど……」
うみが声をかけると、ユエはビクッと肩を揺らし、名残惜しそうに「……んっ、ぷはっ」と口を離した。
その紅い瞳は、どこか熱に浮かされたようにとろんとしている。
「結構長いこと吸ってたけど……そんなにお腹減ってたの? まあ、三百年間何も食べてなかったなら仕方ないか」
うみの問いかけに、ユエは少しだけ頬を染めながら、ふるふると首を横に振った。
「……空腹も、あったけど。一番は……味」
「味?」
うみは首を傾げ、先ほどまでユエが噛みついていた自分の首筋に指を這わせた。
そこに残っていた自身の血を指先で掬い取り、そのままペロッと舐めてみる。
(……鉄の味しかしないんだけど)
自身の血の味を確かめたうみは、ただ一言、心底不思議そうにこぼした。
「……全然わからん」
うみは首を傾げたまま、横に座るユエへと視線を向けた。
「ちなみに、どんな味だったの?」
「……っ!」
ユエはビクッと体を震わせた。
彼女の紅い瞳は、うみの顔ではなく、先ほどまで彼自身の血を掬い取り、そして今口元から離れたばかりの『指先』をじっと見つめていた。
(……間接、キス)
ユエがこの大迷宮に封印されたのは二十歳の頃。
最長で二百年程を生きる吸血鬼の視点で見ればまだ子供と言える年齢ではあるものの、元王族である。
そのために、それなりの知識や教養は持ち合わせている。
自分の唾液や唇が直接触れた場所を、目の前であっさりと舐め取られたのだ。
その行為が持つ生々しい親密さと破廉恥さに、ユエの顔は一瞬でリンゴのように真っ赤に染め上がった。
「……ん? どうかした? やっぱり飲み過ぎた?」
しかし、当のうみはそんなユエの内心など露知らず、キョトンとした顔で首を傾げている。
「……やっぱり、うみはえっち」
ユエは恥ずかしさを誤魔化すようにジト目でうみを睨みつけると、ぽつりと呟き、うみの質問に答えた。
「とっても甘い。でも、甘ったるくない。……ちょっと、ふわふわする」
「えっ……お酒じゃん。なんかやなんだけど……」
…そう? まあ、しばらくはユエの食事になるわけだし、不味いって言われるよりはマシか」
少しだけ熱っぽく微笑むユエに対し、うみは表情一つ変えずにあっさりと返した。
(お酒みたいってのは、やっぱりなんか嫌なんだけど)と内心で僅かに引きずりつつも、
食事を提供する側として結論を出して、自分を納得させる。
そんなうみの様子をじっと見つめながら、ユエは不思議そうに首を傾げる。
「……うみは、人間、だよね。血の味でわかる。でも、どうして人間が、こんなところに居るの?」
その疑問はもっともだった。ここは奈落の底。魔物でさえ強大で凶悪なものしか存在しない、真の死地である。
そんな場所に、人間の少年が単身でいること自体が異常だった。
うみは自身の出自――異世界から召喚されたことや、ここに至るまでの経緯をかいつまんで説明した。
「――――――ってわけで、親友と
「……自分から、ここに?」
ユエは目を丸くした。
彼女は、この迷宮がいかに恐ろしい場所であるかを知っている。誰かに突き落とされたり、罠に嵌められたりしたのならまだ理解できる。
だが、目の前の少年は『自由に動くために』『自ら進んで』この地獄へ降りてきたというのだ。
その常軌を逸した選択に驚きつつも、平然とそれをやってのける目の前の規格外な少年を見れば、妙に納得できてしまった。
だが、ユエにはまだ一つ、どうしても腑に落ちない疑問があった。
「……うみが強い理由は、わかった。でも……」
ユエは、真っ直ぐにうみの瞳――吸い込まれるような美しい蒼い瞳を見つめ返した。
「さっきのサソリと戦った時の力。……あれは、魔法じゃない。あの力は、何?」
そのストレートな問いに、うみは少しだけ懐かしむように目を細めた。
「……ふむ。それについて話すなら、俺がこっちに来る前――地球に居たころのことを話す必要があるね」
「ちきゅう……?」
「さっき話した異世界のこと。ただちょっと長くなるよ? 俺のすべてみたいなものだからね」
うみは、その人生の大半を『呪術師』として生きてきた。彼の根幹を成す力であり、まさに彼のすべてと言っていい。
「あれは『呪力』。人間の負の感情――ストレスとか怒り、恐怖、後悔なんかから生成されるエネルギーだね」
「……ふの、かんじょう」
「そう。そして、その呪力を操る技術を『呪術』って呼ぶ。
俺のいた世界じゃ、そういった感情から生まれる呪い……『呪霊』を祓うために、俺たちみたいな『呪術師』が暗躍してたんだ。
……まあ、呪力を持っていたり、それを扱えたりする人間自体が極端に少ないから、万年人手不足の超マイナーな裏家業なんだけどね」
ユエは静かに頷き、うみの顔をじっと見つめる。
「その呪力があるから、うみはそんなに強いの?」
「一要素ではあるけど、そういうわけじゃないよ」
うみは軽く首を横に振った。
「呪力自体は、感情を持つ生き物なら大なり小なり誰でも持ってるものなんだ。
重要なのは、それをちゃんとコントロールして『扱えるかどうか』。
……こっちの世界の魔力と一緒だね。いくら魔力をたくさん持ってても、魔法として使えなきゃ意味がないでしょ?」
「……うん」
「俺が強い理由は、才能があったから……呪力の総量が多かったり、
魔物でいうところの固有魔法みたいな『術式』を持って生まれたってのもあるけど。一番は、努力と、それ以上に『経験』かな」
そこから語られたのは、うみという少年の歩んできた、あまりにも数奇で過酷な術師としての半生だった。
五歳から始まった、特異な眼を制御するための厳しい訓練。
九歳での正式に術師になり、それに伴う任務の連続。
そして、彼がつい最近経験した、怒涛の異常事態。
かつての特級呪詛師が起こした『百鬼夜行』。
史上最強の呪いの王との、文字通り世界と命を懸けた『決戦』。
うみが語った「経験」――それは、普通の人間が一生かかっても経験しないような、濃密で凄惨な死線の連続だった。
「特に『呪いの王』はヤバかった……。誇張抜きで、ほんっとうに死ぬかと思ったからね」
「うみが、死ぬかと、思った……?」
ユエは信じられないものを見るように、紅い瞳を瞬かせた。
先ほど、この階層の守護者である強大な魔物を、うみは全く意に介さず、息をするように容易く倒してみせたのだ。
その規格外の強さを持つ彼が、本気で死を覚悟した相手。想像もつかない次元の話だった。
「……そんなに、強いの?」
「うん。一対一じゃ絶対無理。
相手の力が半分くらい削れてる状態で、なおかつこっちのこと舐めてる間に色々状況整えてようやくトントンだった。
ほんとやってらんないよねぇ」
うみは当時の絶望的な戦力差を思い出し、やれやれと肩をすくめる。
「……と、まあこんなとこかな。俺の方はもう大体話したし」
うみはそう言って言葉を区切り、小さく息を吐いた。
「さて。俺のことはこれくらいにして……次はユエの番ね」
「……」
「さっきちょっとだけ聞いたけど。先祖返りで、身内に裏切られたんだっけ」
うみの静かな促しに、ユエは膝を抱え込み、ぽつりぽつりとその凄惨な過去の全容を語り始めた。
ユエは吸血鬼の歴史の中でも類を見ない『先祖返り』であり、魔力の直接操作や、魔力が続く限り死なない『自動再生』といった強大な固有魔法に目覚めていた。
その圧倒的な力により、わずか数年で当時最強の一角に数えられるようになり……十七歳の時、吸血鬼族の王位に就いたのだという。
(……十七歳?)
そこでうみは、内心で眉をひそめた。
吸血鬼の寿命は、普通の人間よりも長く、大体二百年ほどだと聞く。
つまり、吸血鬼にとっての十七歳というのは、人間換算でいえばおよそ八、九歳といったところだろうか。
(……八、九歳の子供に国政やらせてたってこと? 正気じゃないな、その国……)
うみが内心で呆れ果てている間も、ユエの語りは続く。
強すぎる力は、やがて周囲の恐怖を生んだ。
欲に目が眩んだ叔父が、ユエを『化け物』として周囲に浸透させ、大義名分のもと彼女を殺そうとした。
しかし、彼女の『自動再生』の力はあまりに強力で、どうしても殺しきれなかった。
だから、やむを得ずあのような厳重な封印を施し、迷宮の奥深くに閉じ込めたのだという。
「……私、皆のために頑張ったのに……。おじ様たちに、いきなり殺されかけて……」
ユエの声が微かに震える。
当時、突然の裏切りに深くショックを受けた彼女は、まともに反撃することもできず、
混乱と絶望の中で封印術を掛けられ、気がつけばあの果てしない暗闇の中にいたのだ。
「…………」
語り終えたユエは、うつむいたまま唇を噛みしめていた。
三百年間、たった一人で狂いそうなほどの孤独と裏切りの記憶に苛まれ続けてきた少女。
その細い肩が、微かに震えている。
「……」
うみは静かに手を伸ばし、膝を抱えるユエの肩をそっと引き寄せた。
「……っ」
ユエが驚いて顔を上げるより早く、うみは彼女の頭を自身の胸元へ預けさせ、その金糸の髪を優しく撫でた。
「……よく頑張ったね」
それは、先程までのように平坦な声音だったが、確かな慈しみが込められていた。
「……っ、あ……」
ユエの紅い瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出す。
声も出さず、ただうみの服をぎゅっと握りしめて、彼女は静かに、けれど確かに泣き続けた。
うみは何も言わず、彼女の気が済むまで、ただ頭を撫で続けていた。
***
やがて、ユエの涙が落ち着き、小さく鼻をすする音だけが響くようになった頃。
うみはユエの頭から手を離し、思考を現実的な問題へと切り替えた。
「落ち着いた? ……じゃあ、少し現実的な話をしようか」
「……ん」
ユエが目をこすりながらコクリと頷くのを確認し、うみは本題を切り出す。
「話を聞く限りだと……ユエ自身もどうやってこの奈落まで連れてこられたのか、上への帰り道がどこにあるのかは分かんないってことでいい?」
「……うん。ごめんなさい」
申し訳なさそうにうつむくユエに、うみは「謝ることじゃないよ」と軽く手を振る。
「まあ、薄々そうじゃないかとは思ってたしね。自力で探すしかないか」
「……でも、一つだけ」
「ん?」
ユエが、少しだけ顔を上げてうみを見つめる。
「この迷宮……反逆者が作ったって、言われてる」
「反逆者?」
聞き慣れない単語に、うみが小首を傾げる。
「神代に……神に挑んだ、神の眷属のこと。世界を滅ぼそうとしたって、伝わってる」
(反逆者……あぁ、リリィが話してた創世神話のやつか。なら、あの話の裏も取れそうだね)
うみは頭の中で情報を繋ぎ合わせる。
神に反逆し、敗れた者たちが逃げ込んだ世界の果て。それがこの迷宮であり、
最深部にはその反逆者たちの住処があるかもしれない、という伝説。
「なるほどね……。反逆者の住処、か」
うみは顎に手を当てて思考を巡らせた。
「負けて逃げ込んだとしても、そこから何もしてないわけはないなんてのは考えにくい……
……人間の思考ってのはそんな諦めよくできてないし。
となれば、地上へ直通する転移陣とか、ショートカットのルートが用意されててもおかしくないね」
それに――。
「もしかしたら、地球に戻るための手がかりの一つくらい、あるかもしれないしね」
その言葉に、ユエの瞳が微かに見開かれた。
「……うみ、は……元の世界に、帰るの?」
「うん。さっきも言ったけど、呪術師は万年人手不足だからね。先輩たちにも会いたいし」
「……そう」
ユエはうつむき、だぶだぶのコートの裾をぎゅっと握りしめた。
「……私にはもう、帰る場所……ない……」
ぽつりと零れ落ちた、ひどく寂しげな声。
三百年の時を経て、彼女の知る国も人間も全てが過去のものとなっている。
彼女にとって、帰るべき場所などこの世界のどこにも残っていないのだ。
「じゃあさ」
うみは、あっさりと口を開いた。
「ユエも来ればいいじゃん? 俺の故郷に」
「……え?」
ユエは信じられないものを見るように、顔を上げた。
「帰る場所がないなら、俺が家族になってあげる」
「――っ!」
その言葉に、ユエの顔が一瞬でリンゴのように真っ赤に染まった。
『家族になる』。
一般的にそれは、自分を妻として迎えるという、事実上のプロポーズと同義の言葉。
三百年の孤独の果てに、こんなにも突然、あまりにも甘い言葉をかけられ、
ユエの感情は完全にキャパオーバーを起こしそうになる。
「う、み……! そ、それって――」
ユエが震える声でその先を紡こうとした、まさにその時だった。
「『お兄ちゃん』って呼んでもいいよ?」
「…………」
ユエの言葉が、そして高鳴っていた鼓動が、ピタリと止まった。
彼女の思考が、目の前の少年との絶望的なまでの認識のズレを理解する。
「……うみのバカ。鈍感。朴念仁」
ユエは、真っ赤になっていた顔をすっと戻し、見事なまでのジト目をうみに向けた。
「何で!? 理不尽!!」
本気で理由がわからず叫ぶうみに、ユエは小さくため息をつく。
「……何でもない。……でも、うみと一緒なら、行く」 「よし、決まりだね」
うみは立ち上がり、ユエの手を引いて立たせた。
「目指すはこの迷宮の最深部、反逆者の住処だ。
そこから地上へのルートを探して、元の世界に帰る方法を見つける」
異世界から来た規格外の『呪術師』と、封印から目覚めた『吸血姫』。
二人の、奈落からの反逆が、ここから始まろうとしていた。