オルクス大迷宮の最深部、反逆者の住処。
地上からは隔絶された、狂気と死が渦巻く奈落の底にありながら、そこはあまりにも穏やかで、そして忙しない空間となっていた。
ヒュドラを討伐し、この場所を拠点としてから、およそ二ヶ月の時が経過していた。
「――よし、これで魔力特性の定着は完了、と」
広々とした工房の中央に鎮座する立派な錬金釜。
その前に陣取ったうみは、額に薄っすらと汗を滲ませながら、釜の中をゆっくりとかき混ぜていた。
ぐるり、ぐるりと、魔力を流し込みながら杖で液体をかき混ぜる。
すると不意に、うみの手元に微かな違和感が走った。
「ん……?」
黒ずんで朽ちかけていた『神樹の枝杖』の表面。その枯れた木肌のひび割れから、脈を打つように淡い翠色の光が漏れ出していたのだ。
最初は見間違いかと思ったが、うみが魔力を流し込むたびに、その翠色の光は呼吸するように明滅を繰り返している。
そして――パァンッ!と、淡い光が工房を包み込んだ。
光が収まると、うみの手に握られていたボロボロの木杖は、見違えるような姿へと変貌を遂げていた。
黒ずんでいた木肌は白磁のように滑らかになり、先端には透き通るような翠色の巨大な宝玉が浮かび、それを金の装飾が神秘的に包み込んでいる。
「……ああ、あれか。力を取り戻したってやつ? ……いくらなんでも変わりすぎじゃない?」
あまりの見た目の大幅な変容に目を丸くし、困惑しつつも、うみは即座に『鑑定』をかけた。
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名称:『星樹の導杖』
ランク:A カテゴリ:(杖)
品質:75
属性:木8 / 光5
特性:『調合補助』『魔力備蓄』
超特性:なし
解説:神樹の枝杖が魔力を帯び、かつての姿を一部取り戻したもの。
透き通る翠の宝玉が調合時の素材の反発を抑え、成功率を飛躍的に高める。
魔力を貯めておけるタンク機能を持つ。
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この二ヶ月間、うみは暇さえあれば迷宮を下から上へと少し逆走して素材を集め、この錬金釜で調合を繰り返してきた。
膨大な魔力を通し続けた結果、大古の神樹の枝が、ようやく息を吹き返し始めたらしい。
「素材の反発を抑える調和機能か。これで組み合わせの幅が広がるね」
杖の変化にご満悦なうみは、ふと思い出したように『カゴ』から銀色のステータスプレートを取り出し、魔力を通した。
ここ最近は色々と忙しくて確認していなかったのだ。
この二ヶ月、深層の魔物を厳選して食し、『生成魔法』と錬金術で魔力枯渇と回復のループを繰り返した結果、どうなっているか。
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月影うみ 17歳 男 レベル:85
天職:錬金術師
筋力:6850
体力:7210
耐性:6500
敏捷:8130
魔力:7650
魔耐:6970
技能:錬金術[+略式調合][+アイテムリビルド]・鑑定・言語理解・
カゴ・纏雷・胃酸強化・夜目・気配感知・石化耐性・気配遮断・
吸魔・念動・無詠唱・真偽判定・磁力操作・毒耐性・麻痺耐性・
威圧・念話・生成魔法
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レベルは85に達し、各ステータスはトータスの常識はおろか、
光輝たち勇者パーティーの限界値すらも遥かに置き去りにするバケモノじみた数値へと跳ね上がっていた。
だが、うみの目を引いたのはそこではない。
「およ? 錬金術の技能が拡張されてる」
うみは新たに追加された派生技能の詳細を確認する。
『略式調合』は、錬金釜がなくても手元や『カゴ』の空間内で簡易的な調合を可能にする技能。
ただし、作成可能なのは爆弾や回復薬といった「戦術アイテム・消耗品」に限られ、武器や防具、複雑なアーティファクトにはこれまで通り錬金釜が必要になるらしい。
『アイテムリビルド』は、一度完成したアイテムに対し、後から追加で素材や魔力を投入し、性能を強化したり新たな特性を付与したりできる技能だ。
「……杖の変化と同時ってことは、もしかして杖の覚醒と連動してる?」
実際は、杖が力を取り戻すほどにうみが錬金術を行使し続けた――すなわち、純粋な『練度上昇』による派生技能の獲得なのだが、
うみにそんなことがわかるはずもなく……。
「まあなんでもいっか。略式調合があれば、ポーションとかの在庫が切れてもその場で補充できるし。
リビルドがあれば、試作品の魔改造もやり放題だ」
うみがご満悦で一人頷いていると、工房の扉が開き、トテトテと軽い足音が近づいてきた。
「……うみ、終わった?」
「お、ユエ。ちょうど一区切りついたところだよ。……うん、やっぱりサイズぴったりだね」
振り返ると、そこには以前までのうみのコートではなく、
彼女の体躯にぴったりと合った、シックで気品のある新しい服を身に纏ったユエの姿があった。
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名称:夜笠の礼装
ランク:A-
カテゴリ:(防具)
品質:80
属性:闇6 / 風4
特性:『魔力硬化』『気配遮断』『自動サイズ調整』
超特性:なし
解説:シュタル鉱石の糸やタールザメの皮、その他もろもろの素材を錬金術で編み上げたドレスコート。
魔力を通すことで強固な鎧となり、着用者の気配を極限まで薄める。
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錬金術が扱える以上、当然防具の作成も可能だ。うみはユエの安全を確保するため、迷宮で得た素材をふんだんに使い、彼女専用の強力な防具を仕立てていたのである。
「……んっ。軽くて、動きやすい。ありがとう、うみ」
「どういたしまして。今まで俺のコートでブカブカだったしね。……で、その俺のコートは?」
「……大事に取っておく」
ユエはそう言って、大事そうに折り畳んだうみのコートをぎゅっと抱きしめた。
(だって……うみの匂いがして、安心するから)
深い理由は語られなかったが、彼女にとっては手放せない特別なものなのだろう。
「いやまあ、別に返さなくていいけど……もう着る機会なくない?」
「……私が、使う」
ジト目を向けて一歩も引かない吸血姫に、うみは苦笑して「好きにしなよ」と肩をすくめた。
「ちょうどいいや。ここ数日で作ったアーティファクトのテストに行こうと思ってたんだ。ユエも来る?」
「……行く。うみと一緒なら」
***
二人がやってきたのは、拠点から少し上の階層――九十層付近の広大な岩場エリアだった。
『気配感知』で周囲に強敵が数体うろついていることを確認すると、うみは『カゴ』の中から一振りの刀を取り出した。
ベースに『魔力硬化』の特性を持つシュタル鉱石、
刃の強度と熱耐性を上げるために『生成魔法』で生み出した鉱石を『錬金術』で融合させた刀――『
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名称:水鏡刀
ランク:A-
カテゴリ:(武器)
品質:85
属性:無
特性:『魔力硬化』『魔力反射』
超特性:なし
解説:シュタル鉱石などをベースに錬成された魔力刀。
持ち主の魔力を鏡のように反射し、刀身を魂の色に染め上げる。
注がれた魔力に比例して硬度と鋭さが増す性質を持つ。
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「よし、まずはこれの試し斬りだね。……っと、ちょうどいいのが来た」
岩陰から現れたのは、全身が鋼鉄のように硬い岩で覆われた巨大な四つ足の魔獣だった。
うみは刀を正眼に構え、魔力を刀身へと流し込む。
この刀には、流し込まれた魔力――使い手の魂の色を鏡のように反射し、刀身をその色に染め上げる性質がある。
うみの魔力に反応した刀身は、透き通るような美しい『蒼』に染まり、極限まで硬度と鋭さを増していく。
魔獣が岩石の巨体を揺らし、一直線に突進してきた。
「シン・陰流――」
うみは半歩身を沈め、柄に手をかけた。
本来、シン・陰流とは術式を持たない弱者が呪霊と戦うために考案された技術である。
その中でも、展開した簡易領域内に侵入したものを全自動で迎撃する技がある。
刀身を呪力で覆い、鞘の中で加速させることにより威力を倍増させる、シン・陰流最速の一撃。
「――『抜刀』」
シュンッ――。
一切の無駄がない、音すらも置き去りにするような神速の一閃。
魔獣の鋼鉄の岩肌は、まるで豆腐のように何の抵抗もなく両断され、魔獣は悲鳴を上げる間もなく真っ二つになって崩れ落ちた。
「……うみ、すごい。全然見えなかった」
「あー……やっちゃった」
後ろで拍手をするユエとは対照的に、うみは盛大に頭を抱えていた。
「これじゃあ、刀の切れ味で斬ったのか、斬撃の威力で断ち切ったのか、全然分かんないじゃん……」
圧倒的な呪力の前では、武器本来の切れ味の恩恵など誤差の範囲でしかなかったのだ。
「まあ、俺の呪力負荷に耐えて折れなかったんだから、硬度だけは評価できるか。……とりあえず、合流したときに誰かにあげよう」
うみはあっさりと見切りをつけ、刀を『カゴ』に放り込んだ。
「じゃあ次。これは一番の自信作」
そう言うと、うみは自身の左耳に付けた黒曜石のイヤーカフに指を触れた。
拠点で見つけたオスカーの『宝物庫』の指輪。
そこに刻まれた空間収納の術式を『六眼』で解析し、『生成魔法』と『錬金術』を組み合わせて作り出した、収納アーティファクトである。
この空間収納術式の解析と再現には、拠点での二ヶ月間の大半を要した。
魔力を通すと、イヤーカフから真っ黒な金属片が無数に射出され、うみの周囲をふわりと旋回し始めた。
これもシュタル鉱石をベースにしているが、重要なのはそこに『磁力操作』の技能を応用した特殊な魔力付与を行っている点だ。
「『群蝶』……」
先ほどの騒ぎを聞きつけ、岩陰から三体の魔獣が飛び出してきた。
うみが視線を向けると、宙を舞う無数の金属片が一斉に弾けた。
だが、金属片は魔獣を直接切り裂くことはしなかった。
ガガガガンッ!と、鋭い金属片は魔獣の身体、そしてその足元の地面に深く突き刺さる。
パチンッ!
うみが指を鳴らした瞬間、突き刺さった金属片同士に強力な磁場が発生した。
魔獣の身体に刺さった金属片が、地面に刺さった金属片へと強烈に引き寄せられる。
「ギァァァッ!?」
強力な磁力によって、魔獣たちはまるで透明な巨大な釘で地面に縫い付けられたかのように、その場に平伏し身動きが取れなくなった。
拘束は完了。うみは空中に残っていた金属片を、自らの頭上に集結させる。
無数の金属片が円環状に連結し、ギュイィィィンッ!という空気を裂く音と共に、まるで巨大な電動丸鋸のように高速回転を始めた。
「終わり」
射出された漆黒の丸鋸は、地面に縫い付けられて動けない魔獣たちを、何の抵抗も許さずにまとめて真っ二つに両断した。
その直後、死角から別の魔獣が炎の魔法弾を吐き出してくる。
しかし、うみの周囲に散らばっていた金属片が瞬時に集結。強固な黒い盾を形成し、炎弾をいとも容易く弾き返した。
「うん、完璧。再現率100%」
手放しで絶対的な防御と全方位の拘束・攻撃を行えるこの兵器の完成度に、うみはご満悦の笑みを浮かべた。
これなら、ユエを庇いながらの戦闘でも隙が生まれにくい。
「……うみ、なんか楽しそう」
「あはは、こういうロマン武器はテンション上がるからね。……はぁ、でも」
うみはふうっと息を吐き出し、少しだけ疲れたように首を回した。
「これ、演算の負荷がバカみたいに高いんだよね」
「……ん?」
「無下限呪術ほどじゃないにしても、数百の金属片の個別軌道と、
それぞれの磁力の引力・斥力を同時に計算し続けるのは脳への負荷が凄まじい。
今の俺の処理能力じゃ、これを展開しながら他の術式や魔法を併用するのは無理かも」
無下限呪術の行使で演算処理に慣れているうみですら音を上げるほどの処理能力の要求。
それが、この攻防一体の無敵の盾の唯一の弱点であった。
「まあ、無下限と同じくこれ単品でも十分過ぎるほど戦えるのは、いいところなんだけどね。
……とりあえずテストはこんなもんかな。拠点に戻ろ」
***
試運転を終え、反逆者の住処へと戻ってきた二人。
迷宮を歩き回り、戦闘もこなしたことでかいた汗を流すため、うみは拠点に備え付けられていた豪華な浴室へと向かった。
湯船に浸かり、ほうっと息を吐いていると、脱衣所の扉が開く音がした。
そして当然のように、バスタオル一枚を巻いただけのユエが浴室に入ってくる。
「お邪魔します」
「うん、いらっしゃい。……いや、毎度毎度なんで当然のように入ってくるのさ」
「……? 『最初は一人でゆっくり』って言った。だから二回目からは一緒」
拠点での生活が二日目に入った日から、ユエはずっとこの理論を掲げて、うみが風呂に入ると後からついてくるようになっていた。
うみからすれば全く意味の分からない理屈だが、追い返すほどの拒絶感もなく、特段何の実害もないため、結局いつもそのままにしているのだ。
「はいはい、こっちおいで。頭洗ってあげるから」 「……ん」
もはや毎度のこととなったやり取り。
ユエは嬉しそうに目を細め、大人しくうみの前に座って頭を差し出す。
うみもまた、ごく自然な手つきで彼女の髪を洗い始めた。
狂気と死の迷宮の底とは思えない、あまりにも穏やかな日常の風景だった。
***
そして、出立の朝。
準備を整え、エントランスのソファでくつろいでいたユエに、うみは『カゴ』から小さな箱を取り出して差し出した。
「はい、これ。これからの長旅に向けてのプレゼント」
「……私に?」
ユエが箱を開けると、そこには透き通るような青白い光を放つ宝石が嵌め込まれた、銀色の美しいチョーカーと指輪のセットが入っていた。
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名称:蒼輝の首輪 / 蒼輝の指輪
ランク:S-
カテゴリ:(装飾品) (神秘の力)
品質:90
属性:全
特性:『魔力備蓄』『全属性強化』
超特性:なし
解説:高純度の『蒼輝石』をベースに、ヒュドラの素材などを組み合わせて作り出された装飾品。
膨大な魔力をストックできるだけでなく、着用者の全ての属性魔法の威力を底上げする。
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「杖の『魔力備蓄』を付与した『蒼輝石』って鉱石をベースにしてるんだ。
ユエは魔法の威力は凄いけど魔力消費が激しいから、普段からこれに魔力をストックしておけば、
いざって時に倒れる心配もなくなるでしょ。あと、装着してる間は魔法の出力が上がるようになってる」
ユエの弱点を補い、長所を伸ばすための、うみ流の気遣いだった。
しかし、アクセサリーを見つめていたユエは、ふっと顔を上げ、紅い瞳でうみをじっと見つめた。
「……プロポーズ?」
「
全く動じることなくあっさりとツッコミを返すうみ。
ユエはジト目を向けつつも、内心の喜びを隠しきれないように口元を緩ませた。
「……うみ、照れ屋」
「人の話聞いてる?」
「……んっ。つけて」
ユエはうみに背を向け、髪をかき上げて白い首筋を差し出した。
うみは呆れながらも、その細い首に丁寧にチョーカーを着けてやる。
「よし、似合ってるよ。……これで、準備は全部終わったね」
「……ん」
うみの声のトーンが、少しだけ真面目なものに変わった。
二人は立ち上がり、三階の奥の部屋――地上へと繋がる転移陣の前へと向かった。
「ユエ。地上に出る前に、一つだけ言っておくよ」
「……?」
「これからの俺たちの旅は、かつて神に弓引いた『反逆者』の足跡を辿る旅になる。
世界中の聖教教会や王国から見れば、その行い自体が目をつけられる理由になるかもしれない」
うみは、王国で見た教皇や国王の顔を脳裏に浮かべながら、淡々と告げた。
「それに加えて、ユエの魔法や俺の呪術みたいな異端な力を見れば、連中が大人しく放っておくとは思えない。
面倒な要求をされるか、最悪、俺たちはこの世界そのものを敵に回すことになるかもね」
それは、吸血鬼として世界から迫害された過去を持つユエに対する、最後の確認だった。
「……今更」
だが、ユエの言葉に迷いは一切なかった。
彼女は真っ直ぐにうみを見つめ、その手をギュッと握りしめた。
「私の居場所は、うみの隣だけ。……世界が敵でも、うみと一緒なら」
その揺るぎない覚悟と親愛を受け取り、うみはふわりと優しく微笑んだ。
「そ。二人なら無敵だね。頼りにしてるよ。……まあ、大抵のことはお兄ちゃんが一人でどうにかしちゃうけどね」
「……うみ、バカ。たまには私にもカッコつけさせて」
頬を膨らませるユエの頭をポンと撫で、うみは転移陣へとオスカーの指輪をかざした。
眩い光が、二人を包み込んでいく。
「じゃあ、行こっか。立ち塞がるもの全部祓って世界を越える……新しい冒険の始まりだね」
「……ん!」
***
魔法陣の眩い光が収まると、二人の視界に広がったのは、代わり映えのしない薄暗い岩肌――洞窟の中だった。
「……まあ、そりゃ地上に直通の転移陣をポン置きしてるわけないか。反逆者のアジトのセキュリティがガバガバになっちゃうし」
うみは呆れたように周囲を見回しつつも、メタ的な視点で一人納得して頷いた。
もしここが外から丸見えの場所なら、それこそ聖教教会や神の徒にすぐ見つかってしまう。
ユエも「……隠すのが普通」と、うみの推測を肯定するようにコクコクと頷いた。
真っ暗な洞窟ではあるが、うみには『六眼』と『夜目』があり、ユエも吸血鬼であるため暗闇は全く問題にならない。
道中、いくつか封印やトラップらしきものがあったが、うみが身につけているオスカーの指輪が反応し、すべて自動で解除されていった。
拍子抜けするほど何事もなく進み――やがて、前方に光が見えた。
外の光だ。
うみにとっては数ヶ月ぶり、そしてユエに至っては、実に三百年もの間求めてやまなかった光。
二人は顔を見合わせ、自然と笑みを浮かべると、同時に光に向かって駆け出した。
近づくにつれ、徐々に大きくなる光。外から風も吹き込んでくる。
奈落のような澱んだ空気ではない。大地の匂いが混じった、清涼で新鮮な風だ。
そして、二人は光に飛び込み――遂に、待望の地上へと出た。
そこは、赤茶けた岩肌が剥き出しになった荒涼たる大地だった。
見上げれば、切り立った絶壁が空を裂くようにそびえ立ち、その隙間から真っ青な空と眩しい太陽の光が降り注いでいる。
谷底とはいえ、確かにそこは地上だった。
「……外」
ユエが、ぽつりと呟いた。
彼女は目を大きく見開き、眩しそうに細めながらも、食い入るように頭上の空を見上げている。
「……本当にお外。空がある。風が吹いてる」
三百年間、光の届かない封印の部屋で孤独に耐え続けてきた彼女にとって、それはどれほど待ち望んだ光景だっただろうか。
ユエは感極まったように声を震わせると、横に立つうみの胸に思い切り飛び込んできた。
「うみ……! わたし、本当に……!」
「うん。出られたね、ユエ」
全身で喜びを表現し、うみをギュッと抱きしめるユエ。
その心底嬉しそうな様子を見て、うみもまた自然と表情をほころばせ、飛びついてきた彼女の小さな背中を優しく抱きしめ返した。
――グォォォオオオオオオオオオッ!!!
だが、その感動の余韻をぶち壊すように、空気を読まない獣の咆哮が荒野に響き渡った。
見れば、岩陰から巨大な角を生やしたティラノサウルスのような魔獣が、二人の存在に気づいて凄まじい勢いで突進してくるところだった。
「…………」
「…………」
せっかくの、三百年ぶりの外の世界への感動。
その記念すべき瞬間を、無骨な足音とヨダレを撒き散らす不快な咆哮で塗り潰されたうみは、表情をスッと無に帰した。
「――うちの可愛い妹が、三百年ぶりの外を満喫してるんだからさ」
魔獣がその巨大な顎を開き、二人に襲いかかろうとした、その瞬間。
「水差さないでよ、全く。」
何の前触れもなく、不可視の斬撃が全方位から巨大な魔獣を襲った。
悲鳴を上げる暇すら与えられない。瞬きをする間に、魔獣の体は文字通り千切りにされ、血煙と共に崩れ落ちた。
「……うみ、容赦ない」
「当たり前でしょ。ユエの邪魔したんだから。綺麗に死ねただけありがたく思ってほしい」
一切の慈悲もなく魔物を解体したうみは、ふんっとつまらなそうに鼻を鳴らした。
「それにしても……弱かったね。
迷宮の魔物はもう少し出力上げないと切れなかったのに……」
呆気なく死んだ魔獣の残骸を見下ろし、心底不思議そうに首を傾げるうみ。
そんな規格外すぎる少年に、ユエはジト目を向けて静かにツッコミを入れた。
「……うみがおかしいだけ。普通の人なら、ここは十分『地獄』」
「えー、そう? 地獄って言われてる割にはぬるすぎない? ……あ、そういえばここは魔法が使えない場所だったっけ?」
「……ん。大気中の魔力が、すぐに霧散して分解される。……でも、力ずくで押し通せば使える」
「力ずくって……効率悪そう」
「……十倍くらい消費する」
ユエの補足に、うみは苦笑した。
初級魔法を一つ撃つのに上級魔法レベルの魔力を持っていかれるということだ。
普通の魔法使いにとっては間違いなく地獄だろう。
「なら、もう少しの間はお兄ちゃんが頑張らないとだね」
「……むぅ。たまには私にもカッコつけさせて」
「あはは。超久しぶりの外なんだから、ユエは景色を楽しみながらゆっくりしなよ」
頬を膨らませて拗ねるユエの頭をポンポンと撫でて宥めつつ、うみは周囲の断崖絶壁を見上げた。
「とりあえず、樹海側に向けて探索でもしながら進もうか。
大峡谷のどこかにあるはずの迷宮の入り口を探しつつね。神代魔法は全部手に入れておきたいし」
「……なぜ、樹海側?」
「峡谷抜けていきなり砂漠横断とかしんどいでしょ。樹海側なら町とか人里にも近そうだし」
「……確かに」
「流石にこの広さを歩くのは骨が折れるし……上から探そう」
そう言うと、うみは両手で『鳥』の影絵を結んだ。
「今日もよろしくね――『梟羽(きょうう)』」
うみの足元の影がぐつぐつと沸騰し、中から巨大な質量がせり上がってくる。
現れたのは、翼を広げれば五メートルに達しようかという巨大な梟。 その体躯は、鎧のように硬く分厚い羽毛に覆われている。
攻撃能力こそ持たないものの、その圧倒的な防御力と飛行能力により、安全な移動手段として機能する式神である。
「ホゥ……」
「よしよし、いい子だ。ユエ、おいで」
うみは梟羽の背中に飛び乗ると、ユエに向かって手を差し伸べた。
ユエはうみの手を取って梟羽の背に乗ると、その硬い羽毛をペタペタと触った。
「……相変わらず、カチカチ」
「まあ、これくらいじゃないとすぐに撃ち落されちゃうからね。直座りだと痛いだろうし、ほら」
うみが自分の胡坐をかいた膝の上をポンポンと叩くと、
ユエはパァッと嬉しそうに目を細め、うみの腕の中――膝の上へとちょこんと収まった。
「……んっ。特等席」
「はいはい。それじゃ、行くよ」
ユエがうみの胸にギュッとしがみつくのを確認し、うみは呪力を流し込んだ。
梟羽は力強く翼を羽ばたかせ、強烈な風圧と共に二人の体はフワリと重力から解放され、瞬く間に大峡谷の上空へと舞い上がる。
「わっ……!」
「さて、ミレディ・ライセンの迷宮の入り口はどこにあるかな……」
眼下には、赤茶けた荒野と深い谷底の景色が広がっていく。
峡谷の風を切り裂きながら、梟羽は悠然と空を往く。
***
上空からの視界は極めて広く、谷底の複雑な地形から蠢く魔物の群れまで、うみの視界には一目で収まっていた。
「ん?」
飛行を始めて数分。うみは谷底の突き出した崖の向こう側で、もうもうと土煙が上がっているのを発見した。
視線を向けると、ティラノサウルスに似た魔物――ただし頭が二つある――『双頭ティラノ』が、何かを追いかけて猛烈な勢いで突進しているところだった。
そして、その足元をぴょんぴょんと跳ね回りながら、半泣きで逃げ惑う小さな影。
「あれ、ウサギ……かな?」
「……兎人族?」
うみの腕の中で下を覗き込んだユエが、不思議そうに首を傾げた。
ウサミミを生やした少女が、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら必死に逃げている。
どう見ても絶体絶命のピンチであった。
「なんでこんなとこに? 兎人族って谷底が住処なの?」
「……聞いたことない」
「じゃあ、受刑者とか? 確か処刑に使われたりするはずだし、ここ」
「……悪ウサギ?」
うみとユエは、眼下で今にも食い殺されそうなウサミミ少女を尻目に、のんびりとしたお喋りに興じていた。
二人とも、今すぐ助けに降りようという発想は全くないらしい。
「うーん……罪人だった場合、うかつに手を出して王国や教会の目に留まるのは面倒だし……スルーかなぁ」
自力での帰還を目指すうみにとって、この世界での余計なしがらみは避けるべきリスクだ。
赤の他人の――ましてや犯罪者かもしれない存在を、わざわざリスクを背負ってまで助ける義理はない。
うみがそのままスルーしようと梟羽の高度をさらに上げようとした、その時だった。
「だずげでぐだざ~い! ひっーー、死んじゃう! 死んじゃうよぉ! だずけてぇ~、おねがいじますぅ~!」
逃げ惑っていたウサミミ少女が、はるか上空を飛ぶ巨大な梟と、その背に乗る二人の存在に気がついたらしい。
上空に向けて両手を振り回し、峡谷に木霊するほどの声で必死に叫んできた。
「……よくこの距離と梟羽の陰から俺たちのこと見えたね? 兎人族ってそんなに目がいいの?」
「……どうする?」
ユエが上目遣いでうみに尋ねる。
うみは顎に手を当てて、数秒だけ思考を巡らせた。
(……まあ、あの子がなんにせよ、俺たちよりここのことについては詳しいか。
仮にアレが悪い奴だったとしても、視た感じはそんなに強くないし、いざとなればどうとでも対処できるレベル)
打算とリスク管理の天秤が、わずかに『助ける』の方へと傾いた。
「仕方ない、助けようか」 「……んっ」
うみは梟羽の高度を保ったまま、眼下の魔獣へと視線を向けた。この距離を攻撃する手段は穿血や蒼、解などになる。
しかし、現在うみは『十種影法術』によって梟羽を顕現させている最中である。
十種を展開している間は他の術式――『無下限』や『御厨子』などは使用できない。
かといって、梟羽をしまえば再顕現がめんどくさい。
「これでいっか」
うみは空いている手で『カゴ』の空間を開き、『水鏡刀』を取り出した。
柄から手を離し、刀を空中にふわりと浮遊させる。 術式ではない、魔物を食らって得た技能『念動』による遠隔操作だ。
うみが魔力を刀身へと流し込む。 刀身は透き通るような美しい『蒼』に染まり、極限まで硬度と鋭さを増した。
そして、うみが指先を軽く振った瞬間。
シュンッ!!
乾いた破砕音の代わりに、空気を切り裂く鋭い風切り音が峡谷に響き渡った。
音速を超えて飛翔した蒼い刃は、ウサミミ少女の背後に迫り、
今まさに巨大な顎を開こうとしていた双頭ティラノの首を――二本とも、何の抵抗もなく同時に斬り飛ばした。
「「…………」」
首を失った双頭ティラノの巨体が、慣性の法則に従って地鳴りを立てながらズザァァァッと地面を滑り、そのまま沈黙した。
「……えっ?」
死を覚悟して目を閉じていたウサミミ少女が、恐る恐る背後を振り返る。
そこには、首なしの巨獣の死骸と、その上空で血を振り払いながら持ち主の手元へと戻っていく蒼い刀の軌跡があった。
「こんにちは、ウサギさん」
バサァッ!と、硬い羽毛の音を立てて、梟羽がウサミミ少女の目の前に降り立った。
うみは刀を『カゴ』にしまうと、梟羽の背からヒョイと飛び降りた。
ユエもその後を追ってふわりと着地し、うみの背中に回って裾を掴む。
ウサミミ少女は、腰を抜かしたままポカンと口を開け、目の前に降り立った二人を見上げていた。
死の恐怖から一転、自分を救ってくれた圧倒的で神秘的な存在を前に、彼女は呆然としているようだった。
だが、そんな呆けた時間は長くは続かなかった。
「「「グゥルァアアアア!!」」」
突如として、峡谷の奥から、先ほどと同じダイヘドアの群れの咆哮が響き渡ったのだ。
どうやらウサミミ少女の逃走スピードが存外に速く、先ほど斬り飛ばした一体だけが突出して追いついていただけで、後続の群れがまだ残っていたらしい。
「ひっ……!?」
その恐ろしい咆哮を聞き、ウサミミ少女は自分が未だ絶体絶命の窮地にあることを思い出した。
「だ、だずげでえぇぇぇっ!!」
彼女はパニックを起こし、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、目の前の命の恩人であるうみに向かって勢いよく飛びついてきた。
「さすがに泥まみれはちょっと……」
うみは咄嗟に、泥にまみれた他人の突然のスキンシップを嫌い、反射的に『無下限呪術』を展開してしまった。
直後――。
勢いよく飛びかかってきたウサミミ少女の体は、うみの数センチ手前で不自然にピタッと空中で急停止し、]
推進力を完全に失って、そのまま重力に従ってボテッと地面に崩れ落ちた。
「あ……やっちゃった」
うみは、背後に控えていた式神の気配がすでに完全に消え去っていることに気づき、盛大に顔をしかめた。
「これ、出し直しじゃん……」
「い、痛いですぅ……急に空中で止まって落ちるなんて……っ」
「……ウザウサギ」
涙目で鼻を押さえるウサミミ少女を、うみの背後からユエが冷酷な視線で見下ろし、さらりと酷いあだ名を命名した。
「う、ウザッ!? 初対面でなんて酷いことを!」
ウサミミ少女が抗議の声を上げようとした、その時だった。
ズシンッ、ズシンッ!
先ほどの双頭ティラノの死の匂い、あるいは彼女の騒がしい声に引かれたのか。
周囲の岩陰から、双頭ティラノと同じダイヘドアの群れが、三体同時に姿を現したのだ。
「ヒィィィッ!? ま、まだいたんですかぁっ!!」
ウサミミ少女が情けない悲鳴を上げて、慌ててうみの背中(無下限の壁があるため数センチの隙間があるが)に隠れるようにしがみついた。
「お願いですぅ! 助けてくださいっ!」
うみはため息をつき、しがみついてくる彼女のウサミミを手で軽く払い除けた。
ユエも不機嫌そうにウサミミ少女の足をゲシゲシと蹴っている。
迫り来る三体のダイヘドア。
だが、うみは全く慌てることなく別の術式に切り替える。
「――『解』」
シュパンッ!! シュパンッ!! シュパンッ!!
一切の予備動作も詠唱もない、不可視の斬撃。
飛びかかろうとしていた三体のダイヘドアは、悲鳴を上げる暇すら与えられず、瞬きをする間に真っ二つになって地に伏した。
「ひゃっ……!?」
あまりにも呆気ない蹂躙劇に、ウサミミ少女は腰を抜かしたまま目を丸くした。
「な、なんですか今の……!? ダ、ダイヘドアが一撃なんて……!」
あまりにも呆気ない蹂躙劇に、ウサミミ少女は腰を抜かしたまま目を丸くしている。
うみは呆れるのを通り越して感心しつつ、無下限を解き、しゃがみ込んで彼女と視線を合わせた。
(あんまりやりたくはないけど、ここは少し強気に行こう。多分それが一番早いし……)
損得を測る仮面を貼り付けて、うみが口を開きかけた、その時だった。
「ハッ!? そ、先程は助けて頂きありがとうございました!
私は兎人族ハウリアの一人、シアといいますです! 取り敢えず私の仲間も助けてください!」
「…………」
(何この子……めちゃくちゃ図太い)
命の恩人が言葉を発する前に、土下座の勢いで自己紹介を済ませ、
あろうことかさらなる要求を突きつけてきたウサミミ少女――シアに、
うみは思わず仮面を剥がれ、目をぱちくりとさせてしまう。
「……調子乗りすぎ。この駄ウサギ」
「いっ!? いだだだっ!? なんで蹴るんですかぁっ!?」
うみの背後から、ユエがジト目を向けてシアの足をゲシゲシと蹴り始めた。
助けられた直後にも関わらず厚かましい要求をしてくるシアに、ユエの不機嫌ゲージが上がったらしい。
(これは……めんどくさい展開かもしれないなぁ……)
打算で拾ったはずのうさぎが、想像以上に図太く騒がしい存在であることを悟り、うみは盛大にため息をついた。
もしかすると、助けたのは早まった判断だったかもしれない。
そんな後悔を抱くうみの思いなど露知らず、大峡谷にシアの騒がしい悲鳴が響き渡り続けていた。