時間は大きく巻き戻り、 うみとユエが六頭のヒュドラとの闘いを制し、『反逆者の住処』を拠点と定めた頃。
地上では、勇者一行とハジメたちは、オルクス大迷宮の攻略を一時中断し、ハイリヒ王国の王宮へと帰還を果たしていた。
六十五層でのベヒモス撃破という歴史的偉業を成し遂げた彼らだったが、連日の死闘による心身の疲労はピークに達していた。
加えて、ヘルシャー帝国から勇者一行に会うための使者が訪れるという知らせが入り、急遽王都へ戻ることになったのだ。
実力主義を掲げる傭兵国家・ヘルシャー帝国は、召喚当初の光輝たちにはさして興味を示していなかった。
しかし、『六十五層の突破』、さらには『ベヒモスの討伐』という事実が、ついに彼らを動かしたのである。
帰りの馬車でそんな政治的な背景を教えられながら、一行は王宮の石畳へと降り立った。
ハジメが重い息を吐きながら背伸びをしていると、王宮の奥から一人の少年が猛烈な勢いで駆け寄ってくるのが見えた。
「香織! よく帰った! 待ちわびたぞ!」
十歳ほどの金髪碧眼の美少年――ハイリヒ王国王子、ランデル・S・B・ハイリヒである。
彼は、他のクラスメイトや護衛の騎士たちなど全く目に入っていない様子で、一直線に白崎香織の元へと突進してきた。
まるで犬耳と尻尾をブンブンと振っているかのようなその姿に、周囲の空気が少しだけ緩む。
「ランデル殿下。お久しぶりです」
「ああ、本当に久しぶりだな! お前が迷宮に行ってる間は生きた心地がしなかったぞ。怪我はしてないか?
余がもっと強ければお前にこんなことさせないのに……」
パタパタと架空の尻尾を振りながら心配するランデルに、香織は苦笑いしながら挨拶を返した。
召喚翌日から続く、十歳の王子様からの猛烈なアピール。香織にとっては「手のかかる可愛い弟」程度の認識なのだが、当の本人は真剣そのものだ。
「お気づかい下さりありがとうございます。ですが、私なら大丈夫ですよ? 自分で望んでやっていることですから」
「いや、香織に戦いは似合わない。そ、その……ほら、もっとこう安全な仕事もあるだろう?」
「安全な仕事、ですか?」
首を傾げる香織に、ランデルは顔を真っ赤にして身を乗り出した。
「う、うむ。例えば、侍女とかどうだ? その、今なら余の専属にしてやってもいいぞ!」
「侍女ですか? いえ、すみません。私は治癒師ですから……」
「それならば、医療院に入ればいい。迷宮なんて危険な場所、もう行く必要はないだろう!」
「いえ、前線でなければすぐに皆を癒せませんから……お気持ちは嬉しいですが」
要するに「自分の側にいてほしい」という少年の健気な恋心なのだが、すでに心に決めた人がいる香織には全く届いていない。
その様子に、雫が呆れたように小さく息を吐いた。
香織は困り顔で断りつつ、チラリと後方にいるハジメへと視線を送って、小さく口の中で呟いた。
(私は……ハジメくんの隣で……)
その後ろで、その光景を眺めていたハジメの耳元に、スッと顔を寄せた少女がいた。
「……ねえ、南雲くん」
「うわっ、中村さん。びっくりさせないでよ」
「あはは、ごめんごめん。……でもさ、あんまりモタモタしてると、リリィの弟君に香織ちゃん、取られちゃうかもよ?」
恵里が、小悪魔のような笑みを浮かべてヒソヒソと耳打ちしてくる。
ハジメはビクッと肩を揺らし、カッと顔を赤くして視線を泳がせた。
「そ、それは……前にも言ったけど、今はそういうのどころじゃないっていうか……」
「えー? でもベヒモスも倒して皆のトラウマも払拭できたんだし、ちょうどいい時期だと思うんだけどなー?」
(なんでこの子は、いちいち僕の痛いところを突いてくるんだ……っ!
君たち兄妹は、僕を弄らないと死んじゃう病気にでもかかってるの!?)
ハジメは内心で盛大にツッコミを入れながら、兄とそっくりな意地悪な笑みを浮かべる恵里からそそくさと距離を取った。
ハジメはうみのようなポンコツな朴念仁とは違い、香織からの矢印にはしっかり気づいている。
そして何より、彼自身もまた、彼女を強く意識してしまっている自覚があるのだ。
自分の気持ちも相手の気持ちも薄々わかっているからこそ、どうしていいか分からずタジタジになってしまうのである。
そんな後方のやり取りを知る由もなく、前線では空気を読まない善意の塊がしゃしゃり出ていた。
「ランデル殿下。香織は俺の大切な幼馴染です。俺がいる限り、絶対に守り抜きますよ」
完璧な爽やかスマイルと共に言い放ったのは、天之河光輝だ。
純粋な善意からの言葉だったが、恋する少年からすれば、それは『俺の女に手を出してんじゃねぇ』という明確な宣戦布告に他ならない。
「なっ……! 香織を危険な場所に行かせることに何とも思っていないお前が何を言う!]
絶対に負けぬぞ! 香織は余といる方がいいに決まっているのだからな!」
「え~と……?」
敵意を剥き出しにしてガルルと吠えるランデルに、光輝は本気でキョトンとしている。
そこに、凛とした声が響き渡った。
「ランデル。いい加減にしなさい。香織が困っているでしょう? 光輝さんにもご迷惑ですよ」
「あ、姉上!?」
美しいストレートの金髪を揺らしながら現れたのは、リリアーナ王女だった。
彼女は、自身の想い人であるうみの不在に寂しさを覚えつつも、同じように心に決めた人――ハジメを見つめる香織の、その切実な乙女心だけは痛いほど理解できた。
だからこそ、弟の空回りする恋心に同情しつつも、香織のためにスッと助け舟を出したのだ。
「……し、しかし」
「しかしではありません。皆さんお疲れなのに、こんな場所に引き止めて……相手のことを考えていないのは誰ですか?」
「うっ……で、ですが……」
「ランデル?」
「よ、用事を思い出しました!失礼します!」
ランデルはどうしても自分の非を認めたくなかったのか、いきなり踵を返し駆けていってしまった。
その背を見送りながら、王女リリアーナは溜息を吐く。
「香織、光輝さん。弟が失礼しました。代わってお詫び致しますわ」
「ううん、気にしてないよ、リリィ。ランデル殿下は気を使ってくれただけだもの」
香織のフォローにホッと息を吐くと、リリアーナは改めて帰還した一同を見渡し、王女としての洗練された気品と少女らしい可憐さが同居した、完璧な微笑みを浮かべた。
「改めて、お帰りなさいませ、皆様。無事のご帰還、心から嬉しく思いますわ」
その神々しいまでの美しさに、永山や檜山たち男子生徒はもちろん、女子生徒でさえ頬を染めて見惚れてしまう。
そして、我らが勇者・光輝は、その洗練された美貌を前にしても全く臆することなく、爽やかな笑顔を全開にして言い放った。
「ありがとう、リリィ。君の笑顔で疲れも吹っ飛んだよ。俺も、また君に会えて嬉しいよ」
下心の一切ない、純度百パーセントの天然キザゼリフ。 これが、半年ほど前のリリアーナであれば、この言葉に頬を染めてオロオロと照れていただろう。
しかし――今の彼女の心には、『一人の少年』の姿が居座り続けている。
すでに圧倒的な存在に心を奪われているリリアーナにとって、光輝の優等生的なキザゼリフは、心に全く引っかからなかったのだ。
「えっ? あ、ええと……」
リリアーナは、照れるでもなく、塩対応をするでもなく。
ただ純粋に、「どう反応するのが正解なのか……」と、困惑してオロオロと視線を泳がせてしまった。
その明らかな『困惑』の反応に、光輝は(あれ……? 何か変なこと言ったかな?)と首を傾げる。
その光景を見て、事情を知る雫と恵里スッと視線を交わし合った。
(相手が悪すぎるわよ、光輝……。あの月影くんと比べられちゃあね)
(ふふっ。リリィもすっかり、誰かさんのせいで目が肥えちゃってるね)
女子会メンバーたちが心の中で光輝に合掌する中、リリアーナはどうにか精神を立て直し、咳払いをして光輝たちを促した。
「え、えっと、とにかくお疲れ様でした。お食事の準備も、清めの準備もできておりますから、ゆっくりお寛ぎくださいませ。
帝国からの使者様が来られるには未だ数日は掛かりますから、お気になさらず」
一行は、迷宮での極度の疲労を癒すため、それぞれの部屋へと向かっていった。
***
そして、その日の夜。
王城の地下深くにある、うみとハジメの『アトリエ』にて。
ハジメは、作業台の上で完成したばかりの手甲型錬成装甲のメンテナンスを行いながら、大きく息を吐き出していた。
「ふぅ……。なんとか、生きて帰ってこれたな」
六十五層での死闘。ベヒモスを自らの手で、この『セレーネ』で撃ち抜いた感触が、まだ手に残っている。
かつての『無能』の烙印は、もう彼には刻まれていない。
コンコン。
静かなアトリエに、控えめなノックの音が響いた。
「えっ? こんな時間に誰だろ……中村さんかな?」
ハジメが首を傾げながら扉を開けると、そこには、湯上がりでほんのりと頬を紅潮させた白崎香織が立っていた。
「し、白崎さん!?」
「ご、ごめんね、夜遅くに。ハジメくん、起きてるかなって思って……」
少しだけ上目遣いでモジモジとする香織。
そのあまりにも無防備で可愛らしい姿に、ハジメの心臓がドクンと大きく跳ねる。
(なっ……毎度毎度なんて格好で部屋に来るのさ!? いや、ここはアトリエだけど!)
以前の香織であっても思い切った行動には出ただろうが、
ベヒモス戦を経て、ハジメの力と覚悟に触れた彼女の心境には、さらに強固な意志が起きていた。
「い、いや、起きてはいたけど……どうしたの? 疲れてるだろうに」
「うん。でも、どうしてもハジメくんにお礼が言いたくて」
香織は一歩、ハジメの方へと足を踏み入れた。
「あの時、ハジメくんがいなかったら、私たち……絶対にダメだった。
ハジメくんが、私たちを守ってくれたんだよね。本当に、ありがとう」
「そ、そんな大げさな……! 僕一人じゃ絶対無理だったし、みんなの力があったからだよ!」
慌てて否定するハジメだったが、香織はフルフルと首を横に振った。
「ううん。私は、あんなに強いハジメくんを傍で見られて、本当に嬉しかった。……私も、もっともっと頑張るから。ハジメくんの隣に立てるように」
「白崎、さん……」
真っ直ぐに見つめてくる香織の瞳には、一切の迷いがない。
その熱量に当てられ、ハジメの顔は限界まで赤く染まっていく。
――『ハージーメーくーん♪ ここが勝負どころじゃないかなぁ? 漢を見せる時でしょ!』――
――『南雲くーん? ほらほら、もう押し倒しちゃいなよ♪』――
ハジメの脳内に、親友のニヤニヤ顔と、恵里の悪魔的な囁きが幻聴となってありありと響き渡る。
香織の真っ直ぐな想いと、脳内の外野たちの声がフラッシュバックし、ハジメは完全にキャパオーバーを起こした。
「あ、あははは! ぼ、僕ももっと頑張るよ! うん! じゃあ、明日も早いし、おやすみ白崎さん!」
「あっ、ハジメくん……!」
ハジメは逃げるように扉を閉め、真っ赤になった顔を手で覆ってその場に崩れ落ちた。
(……心臓が、もたない)
***
一方、その翌日の昼下がり。
リリアーナ王女の私室では、香織、雫、鈴、恵里の四人が集まり、和やかにお茶会が開かれていた。
「もーっ! 香織ちゃんったら、せっかくアトリエまで行ったのに、結局ハジメくんに逃げられちゃったの!?」
「うぅ……うん。ハジメくん、急に顔真っ赤にして『おやすみ!』って……」
鈴の容赦ないツッコミに、香織が涙目でテーブルに突っ伏している。
昨夜の「ハジメへの突撃」の顛末を報告させられ、女子会メンバーからの手厚いイジりを受けている最中だった。
「まあ、南雲くんらしいといえばらしいわね。免疫がなさすぎるのよ」
雫が呆れたように紅茶をすすり、恵里が香織には聞こえないように小声でヒソヒソと囁く。
「だねー。いつまでもヘタレてないで、さっさと観念しちゃえばいいのにね?」
「……本当にね」
すると、リリアーナが少しだけ羨ましそうに息を吐いた。
「でも、好きな人に真っ直ぐ想いを伝えられる香織が、少し羨ましいですわ……」
「あー、リリィ。……ほんっと、早く戻ってきなさいって感じよね、あの人は」
雫のからかうような指摘に、鈴も頷く。
「だねー。本人がいないんじゃ、気持ちを伝えるとかの話じゃないしね~」
「……ええ。そうですわね」
リリアーナが控えめに同意して俯いた、その時だった。
「ふむふむ。それはつまり、兄さんが帰ってきたら攻めて攻めて攻めまくると? なんなら一気に押し倒して既成事実まで――」
「な、ななな何を言っているのですか恵里!? そんなことできるはずありませんわ!」
恵里の強烈なパスに、リリアーナの顔が耳まで真っ赤に染まる。
「そ、それに、まずはもう少しお話をして、お互いのことを知ってから……手編みのお守りを渡したり、一緒にお庭を散歩したり……っ」
少女漫画から抜け出してきたような、いじらしくも奥ゆかしいアプローチの数々を挙げるリリアーナ。
その姿を見て、恵里はニコニコと微笑みながらも、内心で深い深いダメ出しを行っていた。
(……うーん。弱い。奥手すぎる。そんな小動物みたいなアプローチで、あの難攻不落の兄さんが落ちるわけないじゃない。
その程度で落ちるなら、もう私が結婚までしてるよ)
恵里の思考は、常に『月影うみを攻略する』ための戦力調整へ向いている。
(難攻不落の兄さんを落とすには、私一人じゃ足りない。
リリィにはもっと積極的に動いてもらわないと困るんだけど……。どうしようかなー。ふふっ♡)
「ちょっと恵里! またなんか危ないこと考えてない!?」
「えっ? ううん、何も考えてないよ? 兄さんが早く帰ってこないかなーって考えてただけ」
雫の鋭いツッコミを、完璧なスマイルで躱す恵里。
迷宮の死闘を乗り越え、彼女たちの絆は確かに深まっていた。
しかし、その水面下では、それぞれの想いと執着が複雑に絡み合いながら、使者到着の日を待っていたのだった。
***
――それから三日後。王都に、ついにヘルシャー帝国からの使者が訪れた。
謁見の間。真紅のレッドカーペットが敷かれた豪奢な空間には、エリヒド王をはじめとする王国の重鎮たち、
イシュタル教皇率いる教会の司祭たち、そして光輝たち迷宮攻略のメンバーが勢揃いしていた。
その中央で、王と向かい合うようにして立っているのが、帝国の使者と四人の護衛たちである。
「使者殿、よく参られた。勇者方の至上の武勇、存分に確かめられるがよかろう」
「陛下、この度は急な訪問の願い、聞き入れて下さり誠に感謝いたします。して、どなたが勇者様なのでしょう?」
「うむ、まずは紹介させて頂こうか。光輝殿、前へ出てくれるか?」
「はい」
エリヒド王に促され、光輝が一歩前へと進み出る。
召喚されたばかりの頃のどこか浮ついた空気は消え、
六十五層の死闘を乗り越えたその顔つきは、二ヶ月前とは見違えるほど精悍なものになっていた。
(もしここに王宮の侍女や天之河くんのファンがいれば、黄色い歓声を上げていただろうなぁ)と、ハジメは内心でどうでもいい感想を抱く。
光輝を筆頭に、次々と迷宮攻略のメンバーが紹介されていく。
ハジメや恵里も当然その列に並んでいたが、あくまで「後方支援」と「非戦闘職」の枠として、目立たないように立ち振る舞っていた。
「ほぅ、貴方が勇者様ですか。随分とお若いですな。
失礼ですが、本当に六十五層を突破したので? 確か、あそこにはベヒモスという化物が出ると記憶しておりますが……」
使者は、光輝を観察するように見やると、イシュタルの手前あからさまに不遜な態度は取らないものの、その眼差しには明らかな『疑い』が混じっていた。
その後ろに立つ護衛の一人も、値踏みするように光輝を上から下までジロジロと舐め回すように眺めている。
その視線に居心地悪そうに身じろぎしながら、光輝が答えた。
「えっと、ではお話しましょうか? どのように倒したかとか、あっ、六十六層のマップを見せるとかどうでしょう?」
光輝は信じてもらおうと真面目に提案するが、使者はあっさりと首を振り、ニヤッと不敵な笑みを浮かべた。
「いえ、お話は結構。それよりも手っ取り早い方法があります。私の護衛一人と模擬戦でもしてもらえませんか? それで、勇者殿の実力も一目瞭然でしょう」
「えっと、俺は構いませんが……」
光輝は若干戸惑ったようにエリヒド王を振り返る。王は光輝の視線を受けてイシュタルに確認を取った。
イシュタルは静かに頷く。神威をもって帝国に光輝を認めさせることは簡単だが、完全実力主義の帝国を早々に本心から納得させるには、実際に戦って力を見せつけるのが手っ取り早いと判断したのだ。
「構わんよ。光輝殿、その実力、存分に示されよ」
「決まりですな。では、場所の用意をお願いします」
こうして急遽、勇者・光輝と、帝国使者の護衛による模擬戦の開催が決定した。
模擬戦のために場所を移して王城の訓練場。
周囲をぐるりとギャラリーに囲まれる中、中央の石畳の上で、二人の男が向かい合っていた。
光輝の対戦相手として進み出た護衛は、なんとも平凡な容姿の男だった。
高すぎず低すぎない身長。これといった特徴がなく、人ごみに紛れたら一瞬で見失ってしまいそうな没個性的な顔立ち。
一見すると、歴戦の傭兵どころか、そこら辺の村人のようにすら見える。
男は、刃引きされた大型の剣を受け取ると、それをだらんと無造作に右手にぶら下げた。
構えらしい構えもとらず、ただそこに「立っているだけ」である。
「……」
「……」
その姿を見た瞬間。
ギャラリーの後方にいたハジメと恵里の空気が、スッと静まり返った。
「……ねえ、中村さん。あの人」
「うん。……隙だらけに見えるけど、全然違う。めちゃくちゃ強いよ、あの人」
ハジメは、毎晩のようにうみから受けた理不尽極まりない地獄の組手を思い返していた。
圧倒的な強者というのは、往々にして『構えない』のだ。
力みの一切ない自然体。
それはつまり、どの方向からのどんな攻撃にも、ゼロコンマ一秒の遅れもなく対応し、反撃に転じることができるという『完成された脱力』である。
恵里もまた、降霊術で歴戦の騎士・エクター卿の戦闘経験をその身に降ろしているからこそ、
あの無造作な立ち姿に潜む異常なほどの『洗練』を肌で感じ取っていた。
(あの構え……うみくんがたまにやってたやつだ。
一見やる気なさそうに見えるけど……あれ、予備動作が全くないから、気づいた時にはもう殴られてるんだよなぁ……っ!)
ハジメが、かつての地獄を思い出し、額に嫌な汗を浮かべながらゴクリと息を呑む。
だが、その強者の理屈は、温室育ちの勇者には到底理解できるものではなかった。
「……」
光輝は、目の前の平凡な男の「だらん」とした姿勢を見て、自分が明確に舐められているのだと受け取った。
(最初の一撃で度肝を抜いてやれば、真面目にやるだろう)
少しの怒りと共にそう判断した光輝は、最初の一撃を、手加減なしの『本気』で打ち込むことに決めた。
「いきます!」
光輝が風となる。
天職の恩恵である技能『縮地』。常人には視認することすら困難な超高速の踏み込みで一気に間合いを詰め、豪風を伴った唐竹割りを男の脳天へと振り下ろした。
もちろん、光輝としては寸止めするつもりだった。だが、その心配は全くの無用であった。むしろ、舐めていたのは光輝の方だと、残酷なまでに証明されてしまう結果となった。
――バキィッ!!
「ガフッ!?」
鈍い破砕音と共に、後方へと吹き飛んだのは――勇者である光輝の方だった。
護衛の方は剣を掲げるように振り抜いたまま、無感動な瞳で光輝を睥睨している。
光輝が寸止めのために一瞬力を抜いた刹那、だらんと無造作に下げられていた剣が跳ね上がり、光輝を吹き飛ばしたのだ。
光輝は地滑りしながら何とか体勢を整え、驚愕の面持ちで護衛を見る。
寸止めに集中していたとはいえ、護衛の攻撃がほとんど認識できなかったのだ。
護衛は掲げた剣を下ろし、また力を抜いた自然な体勢で構えている。
そう、先ほどの攻撃も動きがあまりに自然すぎて、危機感が働かず反応できなかったのである。
「はぁ~、おいおい、勇者ってのはこんなもんか? まるでなっちゃいねぇ。やる気あんのか?」
平凡な顔に似合わない乱暴な口調で呆れた視線を送る護衛。その表情には明らかな失望が浮かんでいた。
確かに、光輝は護衛を見た目で判断して無造作に正面から突っ込んでいき、あっさり返り討ちにあったというのが現在の構図だ。
光輝は相手を舐めていたのは自分の方であったと自覚し、怒りを抱いた。今度は自分に向けて。
「すみませんでした。もう一度、お願いします」
今度こそ、本気の目になり、自分の無礼を謝罪する光輝。
護衛は、そんな光輝を見て「戦場じゃあ〝次〟なんてないんだがな」と不機嫌そうに目元を歪めるが、相手はするようだ。
先程と同様に自然体で立つ。
光輝は気合を入れ直すと、再び踏み込んだ。
唐竹、袈裟斬り、切り上げ、突き。
技能『縮地』を使いこなしながら超高速の剣撃を振るう。その速度は既に、光輝の体をブレさせて残像を生み出しているほどだ。
ギャラリーから「速い!」と感嘆の声が上がる中、後方で見ていたハジメは、内心でひっそりとため息をついていた。
(速い。確かに速いけど……まっすぐすぎる。ただ速いだけなら、慣れるまでが大変だけど一回慣れちゃえば脅威になりえない。
フェイントもないあんな素直な剣筋……うみくんに比べたら対処しやすい)
ハジメの動体視力と地獄の特訓で培われた経験からすれば、光輝の剣はあまりにも単調で読みやすかった。
光輝には、護衛のこの動きに覚えがあった。メルド団長だ。
おそらく目の前の護衛も、彼と同じく数多の死地に身を置いたのだろう。
その圧倒的な『戦闘経験の差』が、光輝とのスペック差を埋めている。
「ふん、確かに並の人間じゃ相手にならん程の身体能力だ。しかし、少々素直すぎる。元々、戦いとは無縁か?」
「えっ? えっと、はい、そうです。俺は元々ただの学生ですから」
「……それが今や〝神の使徒〟か」
護衛は、チラッとイシュタルたち聖教教会関係者を見ると、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「おい、勇者。構えろ。今度はこちらから行くぞ。気を抜くなよ? うっかり殺してしまうかもしれんからな」
護衛がそう宣言した瞬間。一気に踏み込んできた護衛の速度は、光輝ほど速くはなかった。
むしろ遅く感じるほどだ。だというのに――。
「ッ!?」
気がつけば目の前に護衛が迫っており、剣が下方より跳ね上がってきていた。
光輝は慌てて飛び退る。しかし、まるで磁石が引き合うかのようにピッタリと間合いを一定に保ちながら、鞭のような不規則な剣撃が光輝を襲う。
『縮地』で一気に距離を取ろうとしても、それを見越したように先手を打たれて発動に至らない。次第に光輝の顔に焦りが生まれてくる。
そして遂に、光輝がダメージ覚悟で強引に剣を振ろうとした瞬間。その隙を逃さず、護衛が魔法のトリガーを引いた。
「穿て――〝風撃〟」
風の礫が光輝の片足を打ち据える。
「うわっ!?」
踏み込もうとした足を払われ、バランスを崩す光輝。
その瞬間、壮絶な殺気が光輝を射貫いた。冷徹な眼光で光輝を睨む護衛の剣が、途轍もない圧力を持って振り下ろされる。
刹那、光輝は悟る。――彼は、自分を殺すつもりだと。
実際、護衛はそうなっても仕方ないと考えていた。
自分の攻撃に対応できないくらいなら、本当の意味で殺し合いを知らない少年に人間族のリーダーを任せる気など毛頭なかった。
例えそれで聖教教会からどのような咎めが来ようとも、戦場で無能な味方を放置する方がずっと耐え難い。
それならいっそと、そう考えたのだ。
しかし、そうはならなかった。
――ガァンッ!!
「……あ?」
凄まじい金属音が訓練場に響き渡った。
光輝を両断するはずだった護衛の大型剣は、光輝の頭上数センチのところで、ピタリと停止していたのだ。
見れば、いつの間にか光輝と護衛の間に割って入ったハジメが、ガントレットで、護衛の剣を受け止めていた。
「……動かないで」
冷たい声が、護衛の背後から鼓膜を打った。
護衛が視線だけを僅かに後ろへ向けると、そこには彼にピタリと背中合わせに張り付いている恵里の姿があった。
彼女の服装は、いつの間にか闇に溶け込むような黒を基調とした動きやすい『くノ一装束』へと変化しており、その手には護衛の首筋にピタリと添えられた鋭利なクナイが握られていた。
『降霊・望月千代女』
戦国時代、武田氏に仕えた歩き巫女の元締である。
隠密性、暗殺術に特化している、恵里の新たな手札である。
「……えっ?」
死を覚悟した光輝が、情けない声と共に目を開ける。
そこで初めて、ハジメと恵里の二人は『自分たちがやってしまったこと』に気がついた。
研ぎ澄まされた二人の感覚は、護衛が放った『本物の殺意』を感知した瞬間、
思考をすっ飛ばして体が勝手に『脅威の制圧』へと動いてしまっていたのだ。
「あっ……!」
「やばっ……」
ギャラリーが水を打ったように静まり返り、イシュタルやエリヒド王さえもがポカンと口を開けている中。
二人はサァーッと血の気を引かせた。
「ご、ご、ごめんなさい! 邪魔する気はなかったんです! つい、無意識に……!」
「す、すみませんっ! 忘れてください!」
恵里がポンッと煙を吹くように降霊を解除し、元の制服姿に戻る。
二人は護衛からパッと飛び退くと、真っ赤になった顔でペコペコと頭を下げながら、そそくさとギャラリーの最後方へと逃げ帰っていった。
残された光輝は、地面にへたり込んだまま「えっと? どういう……?」と完全に思考が停止している。
沈黙が降りた訓練場。
その中で、護衛の男だけが、自身の首筋と、ハジメに受け止められた剣を交互に見やり――。
「――ッカッカッカッ! アハハハハハハッ!!」
突然、腹を抱えて豪快に笑い出した。
「おいおい、勇者の方は見込み違いのガキかと思ったが……なかなかどうして、マシな奴らが隠れてるじゃねぇか! 痛快だぜ!」
護衛は肩を揺らして笑いながら、剣をスッと鞘に納めた。
光輝が「あ、あの……続きを……」と立ち上がろうとするが、護衛は「いや、もういい」と手で制する。
「まったく、お戯れが過ぎますぞ。一歩間違えれば神の使徒を失うところでした」
イシュタル教皇が、呆れたようにため息をつきながら歩み寄ってくる。
「……チッ。バレていたか。相変わらず食えない爺さんだ」
イシュタルの言葉に、護衛の男は悪態をつく。
書籍の右の耳にしていたイヤリングを外した。
すると、まるで霧がかかったように護衛の周囲の空気が白くボヤけ始め、それが晴れる頃には、全くの別人が現れた。
四十代位の野性味溢れる男だ。
短く切り上げた銀髪に狼を連想させる鋭い碧眼、
スマートでありながらその体は極限まで引き絞られたかのように筋肉がミッシリと詰まっているのが服越しでもわかる。
その姿を見た瞬間、周囲が一斉に喧騒に包まれた。
「ガ、ガハルド殿!?」
「皇帝陛下!?」
そう、この男、何を隠そうヘルシャー帝国現皇帝ガハルド・D・ヘルシャーその人である。
まさかの事態にエリヒド王が眉間を揉みほぐしながら尋ねた。
「どういうおつもりですかな、ガハルド殿」
「これは、これはエリヒド殿。ろくな挨拶もせず済まなかった。
ただな、どうせなら自分で確認した方が早いだろうと一芝居打たせてもらったのよ。
今後の戦争に関わる重要なことだ。無礼は許して頂きたい」
謝罪すると言いながら、全く反省の色がないガハルド皇帝。それに溜息を吐きながら「もう良い」とかぶりを振るエリヒド王。
光輝達は完全に置いてきぼりだ。
なんでも、この皇帝陛下、フットワークが物凄く軽いらしく、このようなサプライズは日常茶飯事なのだとか。
「それよりもだ。おい、そこの二人」
ガハルドは、ギャラリーの奥で小さくなっていたハジメと恵里を手招きした。
ビクビクしながら前に出た二人に、ガハルドは狼のような鋭い笑みを向ける。
「名前は?」
「な、南雲、ハジメです」
「中村、恵里です」
「ナグモにナカムラか。よし。ナグモ、お前、俺の部下になれ。帝国軍の特務部隊を任せてやる。それとナカムラ、お前は俺の愛人にならんか? 腕の立つ女は嫌いじゃない」
「「ええっ!?」」
皇帝からの直々の、しかもあまりにも直接的すぎるダブルスカウトに、二人の声が重なった。
王城のど真ん中で、他国の(しかも神の使徒である)人員を公然と引き抜こうとする暴挙。
当然、エリヒド王やメルド団長が顔色を変えて止めに入る。
「ガ、ガハルド殿! いくらなんでもそれは……!」
「かまわんだろ? 実力主義の帝国としちゃあ、あの勇者より余程価値がある。で、どうだ?」
ガハルドはエリヒド王の制止を意に介さず、面白そうに二人に迫る。
しかし、ハジメと恵里の答えは早かった。
「お、お断りします! 僕には……その、まだここでやることがあるので!」
「私もお断りします。私には……心に決めた人がおりますので」
迷いのない二人の拒絶。
それを聞いたガハルドは、少し面白そうに目を細めて恵里を見た。
「ほぅ。そいつは強いのか?」
「はいっ! 最強です!」
恵里は満面の笑みで、一点の曇りもなく即答した。
そのあまりにも迷いのない返答に、ガハルドは「ハッ、こりゃあ入り込む隙はなさそうだ」と少しも悪びれる様子なく肩をすくめた。
「まあいい。……だが、覚えとけ。帝国はいつでも実力者を歓迎するぞ」
不敵に笑いながら引き下がるガハルド。
なし崩しで模擬戦も終わり、その後に予定されていた晩餐で帝国からも勇者を認めるとの言質をとることができ、
一応、今回の訪問の目的は達成されたようだ。
しかし、その晩。
王城の一室で部下に本音を聞かれた皇帝は、ニヤリと狼のような笑みを深めて答えた。
「勇者はダメだな。ただの子供だ。理想とか正義とかそういう類のものを何の疑いもなく信じている口だ。
なまじ実力とカリスマがあるからタチが悪い。自分の理想で周りを殺すタイプだな。
取り敢えず合わせて上手くやるしかねぇだろう」
「それで、あわよくば試合で殺すつもりだったのですか?」
「あぁ? 違ぇよ。少しは腑抜けた精神を叩き治せるかと思っただけだ。だが……」
ガハルドは窓の外を見下ろしながら、面白そうに目を細めた。
「思わぬ収穫があった。あの乱入してきたナグモとナカムラだ。
あいつら、俺が放った本気の殺気に当てられて、考えるより先に体が動きやがった。
実戦の何たるかをわかってる。あの勇者より余程役に立ちそうだぜ」
「なっ……勇者様を差し置いてですか!?」
「ああ。それと、教皇には気をつけろ。魔人共との戦争が本格化したら、面白くなりそうだ」
そんな評価を下されているとは露にも思わず。
翌朝、光輝たちは早々に帰国するという皇帝陛下一行を見送ることになった。
出発の直前。 早朝訓練をしていた雫に目をつけたガハルドが、「どうだ、俺の愛人にならんか?」と恵里の時と同じように誘いかけてくるハプニングがあった。
「光栄なお言葉ですが、お断りいたします。私にはすでにお仕えする国と……傍で支えたい大切な親友がおりますので」
迷いのない、凛とした女の顔。
それを見たガハルドは、「ハッ、この国はフラれることばっかりだぜ。まあ、焦らんさ」と不敵に笑いながら引き下がった。
だが、そのやり取りの最中、ガハルドが光輝を見て「鼻で笑った」ことで、光輝はこの男とは絶対に馬が合わないと感じ、しばらく不機嫌なままだった。