「私の家族も助けて下さい!」
大峡谷の乾いた風を切り裂いて、ウサミミを生やした少女の悲痛な叫びが木霊する。
迷宮の最深部から地上へと帰還したうみとユエ。
二人が上空から発見し、打算込みで魔獣の群れから救い出した兎人族の少女――シアは、地面に両手をついた見事な土下座の姿勢で、初対面の命の恩人に向かってさらなる要求を突きつけていた。
(……なかなかに図太い子だね、この子)
うみは、土下座の勢いのままプルプルと震えているシアを見下ろし、呆れたように息を吐いた。
この大峡谷や世界の現状について情報を引き出すつもりで助けたのだ。話くらいは聞いてやってもいい。
ただ、一つだけ大きな問題があった。
「……とりあえず、その泥だらけの顔と服、どうにかしようか」
「えっ? あ、ひゃうっ!?」
逃げ回っていたせいか、頭のてっぺんから足の先まで泥と土埃にまみれ、おまけに涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔。
先ほど助けた直後にその状態で飛びつかれそうになり、思わず『無下限呪術』で弾いてしまった。
うみは『カゴ』から、『天象儀の枝杖』を取り出した。 先端に浮かぶ蒼い宝玉が淡く輝く。
うみは杖を少女へと向け、一番簡単な魔法の詠唱を紡いだ。
「――『清らかなる水よ』」
杖の宝玉に青い魔法陣が浮かび上がると同時に、シアの足元から清涼な水が溢れ出した。
驚く間もなく、その水は瞬く間に螺旋を描いて立ち昇り、泥だらけのシアの全身をすっぽりと覆い尽くす。
「あばばばばばばばっ!?」
さながら、魔法による全自動の『洗濯機』である。
水流の中でぐるぐると揉みくちゃにされ、泥と涙と鼻水が容赦なく洗い流されていく。
ある程度くるくると回して汚れを落としきったところで、うみは水魔法を解除した。
ビタンッ、と濡れ鼠になったウサミミ少女が地面に落ちるが、うみの手は止まらない。間髪入れずに次の詠唱を紡ぐ。
「――『吹き抜ける風よ』」
すかさず緑色の魔法陣を展開し、今度は強めの温風を彼女の全身へと吹き付ける。
「ふぎゃあああああっ!?」
強風にウサミミがピンと逆立ち、彼女の長い白髪がぐしゃぐしゃに舞い上がる。
まさに、魔法を使った全自動の『洗浄&乾燥』プロセス。
一番簡易な初級魔法の連続行使ではあるが、泥と鼻水にまみれていた顔や服は、一瞬にして見違えるように綺麗になった。
もっとも、やられた本人は目を回し、ふらふらとしているが。
「うん、綺麗になった。これなら話を聞いてあげても……」
うみが杖を肩に担ぎ直し、満足げに頷いた、その時だった。
綺麗になったシアは、目を回していた状態からハッと我に返ると、パァァッと顔を輝かせた。
(ああ……なんてお優しくて、美しい子……!)
シアの目に映ったのは、銀青の髪を風に揺らし、神秘的な蒼い瞳を持つ見目麗しい
自分を泥だらけの惨状から救い、綺麗にしてくれた(少々手荒だったが)圧倒的な恩人。
彼女は感動の面持ちで、一切の躊躇なくその胸元へとダイブしてきたのだ。
「ちょっ、待っ――」
ドガッ!!!
うみが回避行動をとるよりも早く。
横からスッと入り込んだユエの容赦ない回し蹴りが、シアのわき腹にクリーンヒットした。
「あべぇっ!?」
カエルが潰れたような奇声を上げ、シアの体が峡谷の赤茶けた地面をズザァァッと転がっていく。
「……ウザウサギ。うみに気安く触るな」
「いっっったぁぁい!? な、なんで蹴るんですかぁっ!? っていうかまた泥だらけになっちゃったじゃないですか!」
涙目で抗議するシアを、ユエは氷点下のジト目で見下ろしている。
一方のうみは、せっかく全自動洗浄で綺麗にしてやったウサギが、
ユエの蹴りのせいで再び土埃まみれになったのを見て、深々とため息を吐いた。
「……せっかく綺麗にしたのに」
「……ん。ごめん。でも、あのウサギが悪い」
「うぅ〜! 酷すぎます! 断固抗議しますよ! お詫びに私の家族を助けて下さい!」
地面に転がったまま、ぷんすかと怒りながらも、さらりと要求を乗せてくるシア。
その図太さは、ある意味で才能かもしれない。
「――『吹き抜ける風よ』」
短い詠唱とともに放たれた極弱の風魔法で、シアの服についた土埃をパパッと払い落としてやった。
「……で? シアだっけ。聞くだけ聞いてあげる。手を貸すかは内容次第だけど……」
とりあえず落ち着きを取り戻したシアを見下ろし、うみはあくまで冷徹に、打算の天秤を揺らしながら問いかけた。
大峡谷の構造や、迷宮の入り口に関する有益な情報を持っているなら、交渉の余地はある。
うみの胡乱な眼差しを受け、シアは居住まいを正すと、真面目な顔を作って語り始めた。
「実は……」
シアの口から語られたのは、兎人族の集落『ハウリア族』の凄惨な逃避行の顛末だった。
本来、兎人族をはじめとする亜人族は魔力を持たない。しかし、シアは一族の中で唯一、魔力と『固有魔法』を持って生まれてしまった突然変異――いわゆる先祖返りだったのだ。
魔力を持つ者は、亜人の国『フェアベルゲン』では魔物と同義と見なされ、処刑の対象となる。
温厚で家族の絆が深いハウリア族は、シアを見捨てるという選択をせず、彼女を十六年間も隠し育ててきた。
しかし、ついにその存在が発覚。一族は捕まる前に、樹海を脱出して北の山脈を目指した。
だが、その道中で運悪くヘルシャー帝国の兵士に遭遇してしまう。
魔法の使えない兎人族と、訓練された帝国兵では戦いにならず、半数以上が捕縛。
残った四十名ほどが、苦肉の策として魔法の使えないこの『ライセン大峡谷』へと逃げ込んだのだという。
「……峡谷なら、魔法が使えない帝国兵も追ってこないと思ったんです。魔物に襲われるのと、帝国兵が諦めて帰るの、どっちが早いかの賭けでした」
シアは、ウサミミを力なく垂らしながら、悲痛な声で言葉を紡ぐ。
「でも、帝国兵は峡谷の入り口を小隊で封鎖して、私たちが魔物に追われて出てくるのを待つ作戦に出たんです。
私たちは峡谷の奥へ奥へと逃げるしかなくて……気がつけば、残っている家族はもう四十人ほど。このままでは全滅です。どうか、どうか助けて下さい!」
涙ながらに懇願するシア。最初のふざけた態度はどこへやら、その顔には家族を案じる悲壮感が満ちていた。
その事情を聞き終えたうみは、目隠しの下で静かに思考を回す。
(なるほど。魔力持ちの亜人……ユエと同じ『イレギュラー』ってわけか)
彼女の境遇には同情の余地がある。家族を見捨てなかった一族の絆も、美しい美談だと言えるだろう。
――だが、それとこれとは話が別だ。
(相手は帝国の兵士。つまり、人間国家の正規軍だ。そのうえ種族的な問題も抱えてる。
今の俺の目的は、この世界の情報を集めて地球に帰る手段を探すこと。
目立ちたくない今の状況で、わざわざ方々に敵対される可能性を拾うメリットはない……)
助けたところで、得られるのは特段情報を持っていなさそうな兎人族からの感謝くらいだ。
帰還の方法を探すという第一目標において、リスクに見合うだけのリターンは全く存在しない。
「――さすがに無理、かな」
申し訳なさそうに、けれど一切の妥協を許さない響きを持った一言。
その言葉に、シアは目を丸くして固まった。
「え……っ?」
「俺たちには、君の家族を助けるために帝国の軍隊と喧嘩をする理由がないんだよね。割に合わなすぎる」
うみの現実的な線引きに、何を言われたのか分からないといった表情でポカンとしていたシアだったが。
ハッと我に返ると、ものすごい勢いで抗議の声を張り上げた。
「ちょ、ちょ、ちょっと! 何故ですか!今の流れはどう考えても、
『なんて可哀想に……任せて!何とかしてあげるから!』って微笑んで、一生モノの友情を築き上げるところですよ!
何いきなり悲劇の美少女との出会いをフイにしてるんですかっ!」
「いや、君との友情を築いたって……。そもそも、君たちを助けても俺に何のメリットもないでしょ?」
「メ、メリット?」
「君の家族、帝国から追われてる上に樹海から追放されてる。仮に助けたとして、その後どうするの?
また帝国に捕まるのがオチでしょ。それを避けるために、今度は『北の山脈まで護衛して』って泣きつくだけじゃん」
「うっ、そ、それは……で、でも!」
「ボランティアでそこまで抱え込む気はないよ」
完全に論破され、涙目になるシア。しかし、彼女は一向に諦めず、ついに意味不明なことを口走り始めた。
「そ、そんな……! でも、守ってくれるって見えましたのに!」
「……さっきから言ってる『見えた』って何?」
「え? あ、はい。実は私、固有魔法で『未来視』ができるんです!」
――ピクリ、と。
うみの眉が微かに動いた。
「未来視?」
「はい! 仮定した選択の先……もしこれを選択したらどうなるか、っていう未来が見えるんです。
危険が迫っている時は自動で見えたりもします!
実際、少し前に私の魔法で、あなたが私たちを助けてくれている姿が見えたんです!」
シアの言葉を聞き、うみの脳内で思考が爆発的に加速する。
(……へぇ。自身の行動を起点としたシミュレーション型の未来視か。
どこまでの規模感かはわからないけど、聞く限りじゃ結構先までは見えそう)
『未来を見通せる』という特異な情報収集能力。
それは、帰還の手段を探すうみにとって、できれば欲しい手札だった。
「なるほどね……」
うみの口角が、ほんの少しだけ吊り上がる。
先程までの冷淡な態度はどこへやら、打算の天秤が『買い』の方へと大きく傾いたのだ。
「でもさ、そんな便利な魔法を持ってるのに、なんでフェアベルゲンの連中や帝国兵に見つかって、こんな状況に陥ってるわけ? 危険を察知できるんでしょ?」
うみの尤もな指摘に、シアは「うっ」と唸り、盛大に目を泳がせた。
「そ、それは……自分で任意で使った場合は、魔力の消費が激しすぎてしばらく使えなくて……」
「じゃあ、見つかった時はすでに使った後だったってこと? ちなみに何に使ったの?」
「ちょ〜とですね、友人の恋路が気になりまして……」
「うそでしょ……」
「……」
あまりのポンコツぶりに、うみは心底呆れ果ててため息を吐いた。
(能力は一級品だけど、中身がこれだとなぁ……)と、少しだけ評価を下方修正する。
「うぅ〜、猛省しておりますぅ〜。ですから見捨てないでください! ほら、私役に立ちますよ!
雑用でも案内でもなんでもしますし、こうして一生懸命お側に仕えて癒やしてあげますからぁっ!」
そう言って、シアは再び形振り構わず、うみの腰元へとダイブし、その細い腰にガシィッ!としがみついた。
「ちょっと、また――」
うみが振り払うよりも早く。
「……ッ」
うみの背後で、ユエの纏う空気が完全に氷点下を突破した。
静かに、しかし確かな殺意を込めて、ユエがうみの腰にしがみつくシアの目の前へと歩み出る。
「ひっ……!?」
「……ウザウサギ。馴れ馴れしい。離れろ。――『嵐帝』」
「アッーーーー!!」
ユエの短い詠唱と共に、局地的な巨大竜巻が発生。
シアの体はもみくちゃにされながら空高く打ち上げられ、きっかり十秒後、ズシャッ!と無様な音を立てて地面に墜落した。
足だけを出して地面に埋まるという、見事なギャグ時空の処理である。
「……いい仕事した」
「…ちょっとやりすぎな気がするけど……。まあいっか、ユエはどう思う?」
汗を拭うフリをして戻ってきたユエに、うみは苦笑しながら問いかけた。
「……樹海の案内に、丁度いい」
「あー、そっか。兎人族なら樹海の道に詳しいだろうね」
ユエの提案に、うみはポンと手を打った。
(……元々は響蝠を処理限界までばら撒いて、力技で樹海中をマッピングするつもりだったけど。
正確な広さも分からない場所で脳に負担をかけ続けるより、現地のナビを雇った方が遥かに効率的だ)
強力な情報収集能力である『未来視』の検証と活用。そして、複雑な樹海を安全に抜けるための案内役。
(うん、それなら。帝国兵の一個小隊くらいと喧嘩する価値は十分にあるね)
うみはズボッ!と自力で地面から頭を引っこ抜いた泥だらけのシアを見下ろし、冷徹な、しかし確かな庇護を約束する笑みを浮かべた。
「喜びなよシア。君たちを樹海までの案内役にする。お代は君たちの『安全』でいいね?」
「あ、ありがとうございますぅぅ! うぅ〜、よがっだよぉ〜!」
ぐしぐしと嬉し泣きするシア。しかし、仲間のためにもグズグズしていられないと直ぐに立ち上がる。
「あ、あの、宜しくお願いします! そ、それでお二人のことは何と呼べば……」
「ん? そう言えば名乗ってなかったね……俺は月影うみ。うみでいいよ」
「……ユエ」
「うみちゃんとユエちゃんですね!」
一切の疑いを持たない満面の笑みで、シアは二人の名前を反芻した。
「……ちゃん?」
うみは自身につけられた敬称に、思わず小首を傾げる。
(まあ、綺羅ちゃん先輩も『うみちゃん』って呼ぶし……多分そういう感じの子なのかな)
訂正するのも面倒になったうみは、あっさりとその呼び方を受け入れた。
しかし、うみの隣にいたユエが、不満顔で抗議の声を上げた。
「……さんを付けろ。ウザウサギ」
「ふぇ!?」
見目麗しい幼女からのらしからぬ命令口調に、シアは戸惑う。
だが、その後の短い問答で、ユエが吸血鬼族であり、自分よりも遥かに年上であることを知ったシアは、見事な土下座の姿勢で地面に額を擦りつけた。
どうもユエは、初対面からシアのことが気に食わないらしい。
理由が、シアの胸元で激しく自己主張をしている暴力的なまでの膨らみに対する『理不尽なまでの嫉妬』であることは、うみには知る由もなかった。
「ほら、取り敢えず移動するよ。あんまり余裕ないんでしょ?」
「えっ? あ、はい! さっきみたいに空を飛んでいくんですね!」
シアが空を見上げ、目を輝かせる。
しかし、うみはやれやれと首を横に振った。
「いや、あの子の背中は三人乗るにはちょっとスペースが狭くてね。
ユエくらい小柄な子ならもう一人いけそうだけど、シアの背丈だとスペースが足りない」
「うぅ……確かにちょっと手狭そうでしたけど……」
「……胸も邪魔だし」
「なっ!? 胸は関係ないじゃないですか!」
うみの話す事実と、ユエの胸元へのジト目に、シアは「うぅ……」と涙目で抗議した。
そんなやり取りをよそに、うみは『カゴ』から新たな『移動手段』を取り出した。
ズンッ、と峡谷の地面に現れたのは、漆黒の流線型をした、全長四メートルほどの小舟――あるいは、馬車のような乗り物だった。
表面はシュタル鉱石などで滑らかに加工され、内部には五、六人は優に座れるふかふかのソファシートが備え付けられている。
「な、なんですかこれ……? 車輪がないですけど……」
「俺のお手製、『
恐る恐る乗り込むシア。そのシートの柔らかさに驚いている間にも、うみはゆったりと座席に腰を下ろし、ユエが当たり前のようにその隣へと収まる。
うみは背もたれに深く体重を預けたまま、『磁力操作』の技能を起動させた。
『磁力操作』により発生した強力な磁場が、大地に含まれる微量な磁力と激しく反発し合い、
数トンの質量を持つ漆黒の艇が、フワリと地上数十センチの高さへと浮き上がった。
リニアモーターカーの原理を、技能で強引にファンタジー世界に再現した代物だ。
いずれハジメたちと合流した時のために、大人数で乗れる移動手段としてアトリエに引きこもっていた間に錬金術で組み上げておいたのである。
「えっ!? う、浮きまし――きゃぁあああああっ!?」
シアが驚きの声を上げるよりも早く、うみは浮遊艇を爆発的に加速させた。
ハンドルも操縦桿もなく、うみの『磁力操作』だけで完全自律駆動する仕様になっているのだ。
これなら移動中にお茶を飲んだり本を読んだりすることもできる。
車輪の摩擦抵抗が一切ないため、加速は恐ろしいほどに滑らかで、かつ暴力的に速い。
峡谷の赤茶けた岩肌が、景色として流れるように後方へとすっ飛んでいく。
「ひぃぃぃぃっ! 早い! 早すぎますぅぅっ!!」
谷底ではあり得ない速度に目を瞑り、シートにしがみつくシア。
しかし、しばらくしてその揺れの少なさと風の爽快感に慣れてきたのか、次第にウサミミをピンと立てて興奮し始めた。
「すごいです! 凄いですうみちゃん! 岩を避ける時も全然揺れない!」
「まあ、磁力で空中に浮いてるからね。……そういえばシア、どっちの方向から来たの?」
「あ、えっと、あっちの崖の向こう側です!」
シアの案内を受けながら、うみは浮遊艇を巧みに操り、峡谷の奥へと爆走していく。
そんな中、シアは向かいのシートに座る二人の姿を見て、ふと疑問を口にした。
「あ、あの。助けてもらうのに必死で、つい流してしまったのですが……さっきうみちゃんとユエさんは、魔法を使ってましたよね。
ここは大峡谷で魔法が使えないはずなのに……」
「あー。それは――」
うみは道中、この『リニア・フロート』の仕組み、そして魔法が霧散する環境下でも、
霧散する以上の魔力を力技で注ぎ込めば強引に発動できることを簡潔に説明した。
消費魔力は通常の十倍近くに跳ね上がるという理不尽な仕様であることも付け加える。
さらに、自分たちがシアと同じく魔力を直接操れる『イレギュラー』であるという事実をさらりと告げると、シアは目を見開いて絶句した。
しばらく呆然としていたシアだったが、突然、何かを堪えるようにうつむき、ポロポロと涙をこぼし始めた。
「……いきなりどうしたの? 騒いだり落ち込んだり泣きべそかいたり……忙しい子だね」
「うぅ……ち、違いますぅ。……ただ、一人じゃなかったんだなっと思ったら……なんだか嬉しくなってしまって……」
どうやら、魔物と同じ性質や能力を有するという事、この世界で自分があまりに特異な存在である事に孤独を感じていたようだ。
家族だと言って十六年もの間危険を背負ってくれた一族への愛情は確かなはずだ。
それでも、いや、だからこそ、“他とは異なる自分”に余計孤独を感じていたのだろう。
シアの言葉に、ユエは思うところがあるのか、考え込むように押し黙ってしまった。
うみには、今ユエが何を感じているのかが痛いほど分かった。
ユエもシアも、魔力の直接操作や固有魔法という異質な力を持ち、その時代において『同胞』と呼べる存在はいなかった。
だが、二人には決定的な違いがある。ユエには愛してくれる家族がいなかったのに対し、シアには見捨てない家族がいる。
それがユエに、複雑な感情を抱かせているのだろう。
うみは無言のまま、隣に座るユエの頭を優しくポンポンと撫でた。
三百年の孤独を強いられた彼女の痛みを、完全に理解することはできないかもしれない。
けれど、今彼女が一人ではないこと、そして自分がいることを示すことはできる。
うみのその優しさが伝わったのか、ユエは無意識に入っていた体の力を抜き、コテンとうみの肩に頭を預けた。
そんな二人の穏やかな空気――を、ぶち壊す声が響いた。
「あの〜! 私のこと忘れてませんか!? ここは『大変だったね。もう一人じゃないよ』って優しく慰めてくれるところじゃないんですか!?」
泣きべそをかいていたかと思いきや、いきなり耳元で騒ぎ始めたシアに、うみとユエはバッサリと切り捨てた。
「耳元で騒がないで」「黙れウザウサギ」
「……はい……ぐすっ……」
怒鳴られてシュンとするシア。
しかし、持ち前の図太さというか、打たれ強さを発揮したのか、彼女はすぐにモジモジと落ち着かない様子を見せ始めた。
「あ、あのぉ……」
「……なに?」
「私のこと、『お姉ちゃん』って呼んでくれませんか……?」
――ピタッ。
もじもじと頬を染めながら放たれたシアの爆弾発言に、うみの思考が完全に停止した。
「……ほえ?」
思わず、素っ頓狂な声が漏れる。
(お姉ちゃん? 突然何を言ってるんだこの子は……)
ぽかんとするうみを前に、シアはさらに顔を赤くして言い訳のように早口で続ける。
「いや、その……! 私、ずっと前から一緒に色んなことを話せるような、可愛い妹が欲しかったんですよね〜……。うみちゃん、すっごく可愛いですし!」
どうやらシアの目には、銀青の髪と中性的な容貌を持つ自分が、完全に『可愛い年下の女の子』として映っているらしい。
「いや、呼ばないけど……」
「ええっ!? そんな、減るもんじゃないですし!」
「そういう問題じゃないから。……それに、百歩譲って『お姉ちゃん』って呼んだとしても俺だと『妹』じゃなくて『弟』だし……」
「……おと、う、と……? いやいや、またまたご冗談を! こんなに綺麗で儚げで、可愛らしいお顔立ちで……男の子なわけ……」
疑いの眼差しを向けるシア。しかし、うみの隣に座るユエが、無表情のままコクンと頷き、身も蓋もない事実を告げた。
拠点での二ヶ月間、毎日のようにお風呂を共にしている彼女の言葉には、抗いようのない説得力があった。
「……ん。この見た目だけど、ちゃんと『ついてる』」
「間違ってはないけどさ。言い方どうにかなんない?」
うみは心底呆れたようにジト目を向けてツッコミを入れた。
しかし、そんなやり取りを前にしたシアは、改めてうみの全身をマジマジと見つめる。
確かに、ダボっとした服のせいで分かりにくいが、胸元には自分やユエのような膨らみが一切ない。
骨格も、少女と言うには少しばかり線が違うような気がしてきた。
(ほ、本当に男の子……!?)
そこで数秒の遅れをもって、シアの脳内でユエの放った『ちゃんとついてる』という言葉がフラッシュバックした。
(ちゃんと『ついてる』って……ど、どうしてユエさんはそんなこと知ってるんですか!?
まさかお二人って、す、すでにそういう関係……!?)
シアはカァァッと顔を真っ赤にしてうみとユエを交互に見る。
普通の少女ならここで赤面してフェードアウトするところだろう。しかし、シア・ハウリアの図太さは只の兎のそれとは格が違った。
「……だ、妥協します!」
「……何を?」
「男の子でもいいです! 妹でも弟でも、私より年下なのは変わらないですよね!?
はい、可愛い弟、大歓迎です! ぜひ私をお姉ちゃんって呼んで甘えてください!」
(いや、……年は知らないけど、亜人だから見た目だけで判別はできないとしても、仮に見た目だけ見るなら俺と同じくらいじゃない?)
うみは頭を抱えつつ、内心で冷静にツッコミを入れる。
すると、隣で静かに殺意を溜めていたユエが、シアに向かって冷たく言い放った。
「……ダメ。うみは私のお兄様だから」
「ふぇ? お兄様? ……ということは?」
シアはウサミミをピコピコと動かし、数秒の思考ののち、ポンッと手を打って顔を輝かせた。
「つまり! うみくんを私の弟にしたら……ユエさんは必然的に私の妹になるってことですね!?
わぁい! 可愛い妹と弟が同時にできましたぁ!」
男の子だと認識したからか、呼び方がしれっと『うみくん』にアップデートされている。
強引に姉ポジションに収まろうとする図太さは健在だった。
「……ウザウサギ。やっぱり殺す」
「ひぃっ!? 冗談ですぅ!」
「冗談でも殺す。――『紫電』」
「あばばばばばばばっ!?」
浮遊艇の後部座席で局地的な電撃が発生し、シアが黒焦げになってビクビクと痙攣する。
密閉空間での容赦ない制裁。しかし、その影響はシアだけにとどまらなかった。
ガクンッ!!
突如、超高速で爆走していた浮遊艇の姿勢が大きくブレた。
雷撃による強力な電気的なノイズが、うみの展開していた『磁力操作』の磁場に干渉し、反発のバランスが一瞬崩れたのだ。
(やばっ!? この速度でバランスを崩したら、峡谷の壁に激突して大惨事になるんだけど!?)
うみは内心で冷や汗をドバッと流しながら、超速で脳内の演算を切り替えた。
瞬時に出力を微調整して姿勢制御を立て直す。
時間にしてわずかコンマ数秒の出来事であったが、墜落一歩手前であった。
「……ユエ。雷撃は危ないから控えてくれる? 磁場が乱れて墜落しそうになったんだけど」
「……んっ。ごめん、うみ。つい」
うみは微塵も焦りを感じさせない、涼しいポーカーフェイスのままユエを注意した。
シアは口から一筋の煙を吐き出しながら白目を剥いているが、当然誰にも気にかけてもらえない。
そうして走ること二分。
ドリフト気味に最後の大岩を迂回した先――開けた空間に、
今まさに魔物の群れに襲われようとしている数十人の兎人族たちの姿があった。
***
ライセン大峡谷に悲鳴と怒号が木霊する。
ウサミミを生やした人影が岩陰に逃げ込み、必死に体を縮めている。
あちこちの岩陰からウサミミだけがちょこんと見えており、数からすると二十人ちょっと。
見えない部分も合わせれば四十人といったところか。
そんな怯える兎人族を上空から睥睨しているのは、
体長三から五メートル程で、鋭い爪と牙、棘のついた凶悪な尻尾を持つワイバーンに似た飛行型の魔物――『ハイベリア』だ。
全部で六体いるハイベリアは、上空を旋回しながら獲物の品定めをしている。
その中の一体が、遂に行動を起こした。
岩の間に隠れていた兎人族の元へ急降下し、遠心力の乗った尻尾で岩を粉砕した。
兎人族が悲鳴と共に這い出してくる。狙われたのは、小さな子供と、それを庇って覆い被さる父親らしき男性。
ハイベリアが顎門を開き、無力な獲物を喰らおうとした――その時だった。
メチャバキィィィッ!!
突如、峡谷へ響き渡ったのは、硬質な鱗や骨が極限まで圧し潰され、捻じ切れるような凄惨な破砕音だった。
「……え?」
恐る恐る目を開けた男の視界に映ったのは、信じがたい光景だった。
今まさに自分たちを喰らおうとしていたハイベリアの頭部が、まるで目に見えない巨大な何かに空間ごと圧縮されたかのようにねじ切られていたのだ。
ドサリ、と頭部を失った巨大な肉塊が男の目の前に崩れ落ちる。
「……ピギィッ!?」
さらに後方で、上空を旋回していた別のハイベリアが突如として絶叫を上げた。
見上げれば、その片翼が同じく『不可視の暴力』によって根元から捻じり千切られ、
大量の血を雨のように降らせながら地面へと激突していくところだった。
「な、何が……起きて……」
子供を庇っていた男が、呆然と呟く。
突然の仲間の死と欠損に、上空に残ったハイベリアたちが激怒し、一斉に咆哮を上げた。
しかし、それに身を竦ませる兎人族たちの長く優秀な耳は、魔物の咆哮よりも先に、今まで大峡谷で一度も聞いたことのない異音を捉えていた。
――キィィィィン、という、空気を震わせるような甲高い音。
何事かと、兎人族たちが一斉に音の方向へ視線を向ける。
ドリフト気味に最後の大岩を迂回して姿を現したのは、車輪もなく、地面からわずかに浮遊したまま高速で接近してくる漆黒の乗り物だった。
そして、その後部座席。
見覚えのある白髪のウサミミ少女が、大きく身を乗り出して、ブンブンとちぎれんばかりに手を振っていた。
「みんな〜! 助けを呼んできましたよぉ〜!」
その明るく聞き慣れた声音に。
自らの命を顧みず、一族のために奔走していた心優しい少女の姿に。
兎人族たちは、それが現実だと理解した瞬間に、一斉に彼女の名を叫んだ。
「「「「「「「「「「シア!?」」」」」」」」」」
感動の再会に沸き立つ兎人族たち。 だが、仲間を殺され激昂した残りの四体のハイベリアたちが、それを黙って見過ごすはずもなかった。
突如現れた獲物と、隙を見せた兎人族たちへ向けて、一斉に急降下を開始する。
「ああっ! 危ない!」
「シア! 逃げろ!」
兎人族たちが悲鳴を上げる。
しかし、漆黒の乗り物に同乗していた銀青の髪の少年が、指を鳴らすような仕草を見せた直後。
メチャバキィィィッ!!
再び、幾重にも重なった凄惨な音が響き渡った。
急降下してきていた四体のハイベリアの巨体が、
空中で見えない巨大な球体に激しく吸い寄せられるように衝突し――そのまま空間ごと一点に圧縮されたのだ。
峡谷の脅威であったはずの魔物たちが、文字通り原型を留めない肉塊となって地面にボトボトと降り注ぐ。
瞬きする間の、あまりにも圧倒的な蹂躙劇。
兎人族たちが水を打ったように静まり返る中、滑らかに停止した浮遊艇から、シアが勢いよく飛び出してきた。
「みんな! 無事でしたか!」
唖然としていた兎人族たちの中から、真っ先に声をかけてきたのは、濃紺の短髪にウサミミを生やした初老の男性だった。
「シア! 無事だったのか!」
「父様! みんなも……よかったぁ……っ!」
シアと初老の男は互いの無事を涙ながらに喜ぶ。
一しきり再会を分かち合った後、シアは背後の浮遊艇からゆっくりと降りてきたうみとユエを手で示し、興奮冷めやらぬ様子で事の顛末を手短に説明し始めた。
自分を絶体絶命の窮地から救ってくれたこと。
そして、樹海の案内と引き換えに、彼らが一族の脱出を護衛してくれるという信じがたい幸運を。
シアの説明を聞き終え、驚愕と深い安堵の表情を浮かべた男は、居住まいを正すと、厳かな面持ちでうみたちの方へと向き直った。
「恩人殿でよろしいか? 私はカム。シアの父にしてハウリアの族長をしております。
この度はシアのみならず我が一族の窮地をお助けいただき、何とお礼を言えばいいか……しかも、脱出までご助力くださるとか。
父として、族長として深く感謝いたします」
カムと名乗った族長は、深々と頭を下げた。後ろの兎人族たちもそれに倣う。
「別にいいよ。利害の一致ってやつだし。……それより、随分あっさり信用するんだね。亜人は人間にいい感情を持ってないって聞いたけど?」
うみは率直な疑問をぶつけた。自分は人間であり、彼らは人間に追われている立場だ。 しかしカムは、苦笑いして首を振った。
「シアが信頼する相手です。ならば我らも信頼しなくてどうします。我らは家族なのですから」
あまりに情が深く、警戒心が薄すぎる回答に、うみは感心半分、呆れ半分だった。
「……あのさ。家族を信じるってのはいいと思うけど、限度があるでしょ。
そんな警戒心ゼロだから、今ここまで追い込まれてるんじゃないの?」
正論すぎる指摘に、カムたちハウリアの面々は「うっ……」と図星を突かれたように一斉にウサミミを垂れ下げた。
さらにうみは、隣でえへへと笑っているシアを呆れ顔で指し示す。
「百歩譲って信じるにしても、この残念な子に腹芸ができると思う?
俺には、悪い奴にコロッと騙されて、取り返しのつかない目に遭う未来しか見えないんだけど」
「ざ、残念ってなんですか! ひ、ひどいですぅ!! もっとお姉ちゃんを敬って立ててください!」
「いや、そもそも姉弟なんてこれっぽっちも認めてないんだけど……」
呆れ返るうみが抗議の声を上げたものの、その正論すらも彼らの長く立派な耳は華麗にスルーした。
シアの言葉を聞いたカムは、何かを大いに納得したようにポンッと手を打ったのだ。
「はっはっは、そうかそうか! 恩人殿はシアの弟であったか!
ならば私の息子と同義! いやはや、頼もしい息子ができて父として鼻が高いぞ!」
「なるほど、シアの弟か!」
「新しい家族だな!」
カムの斜め上をいく解釈に、周りの兎人族たちも「うんうん」と深く頷き、警戒心ゼロの親戚のおじさん・おばさんのような生暖かい眼差しでうみを囲み始めた。
誰一人として、うみの抗議を聞いていない。あまりの都合のいい解釈と怒涛のマイペースっぷりに、うみは反論する気力すら削ぎ落とされてしまった。
「……もういいや。好きにして」
これ以上このウサギたちの相手をしていては完全に自分のペースを乱されると悟ったうみは、
完全に投げやりになり、深々とため息を吐いて大峡谷の出口へ向けて歩き出した。
そんな彼の隣にピタリと寄り添い、ユエが同情するようにポンポンと腕を叩く。
「……ん。うみ、大変」
「ユエ……うん、ありがと」
妹からの優しい慰めに、うみは少しだけ救われたような顔をして息を吐くのだった。
***
ウサミミ四十二人をぞろぞろと引き連れて峡谷を行く。
当然、数多の魔物が絶好の獲物だとこぞって襲ってくるのだが、ただの一匹も兎人族に触れることすら叶わなかった。
彼らが接近した時点で、先頭を歩くうみの指先が微かに動く。
その瞬間、乾いた音すら立てず、魔物たちは見えない刃によって空間ごと両断され、原型を留めない肉塊へと変わっていくからだ。
瞬きする間にライセン大峡谷の凶悪な魔物が為すすべなく解体されていく光景に、
兎人族たちは唖然とし、次いで、それを息をするように成し遂げているうみに対して畏敬の念を向けていた。
もっとも、小さな子供たちは総じて、そのつぶらな瞳をキラキラさせて、
圧倒的な力を振るううみをヒーローでも見るかのように見つめている。
「ふふふ、うみくん。チビッコ達が見つめていますよ〜? 手でも振ってあげたらどうですか?」
子供に純粋な眼差しを向けられて若干居心地が悪そうにしているうみに、
シアが実にウザい表情で「うりうり〜」と肩をつつこうとちょっかいを掛けてきた。
ピタッ。
「……あれぇ? うみくんに触れません! またあの見えない壁ですか!? ズルいです! 解いてくださいよぉ〜!」
うみが静かに『無下限呪術』を展開すると、シアの指先はうみの数センチ手前で見事に固定され、ジタバタと騒ぎ始めた。
道中何度も見られた光景に、ユエは氷点下のジト目を向け、シアの父であるカムは朗らかに笑っている。
「はっはっは、シアは随分とうみくんを気に入ったのだな。どうだねうみくん、私のこともお父さんと呼んでくれても――」
「呼ばない。そもそもシアのことを姉呼びしたこともない」
すぐ傍で娘が見えない壁に防がれて騒いでいるのに、気にした様子もなく目尻に涙を溜め、朗らかに笑う父親のカム。
しかしうみの冷たい即答にも、彼らは一切めげる様子はない。
周りの兎人族たちも、「解いてくださーい!」と騒ぐシアと無表情なうみに、生暖かい眼差しを向けている。
「……ユエ。このウサギたち、頭の中お花畑なの?」
「……ん。ズレてる。天然」
ユエの言う通り、どうやら兎人族はとことん平和主義というか、常識のネジがどこか外れている天然種族らしい。
そうこうしている内に、一行は遂にライセン大峡谷から脱出できる場所にたどり着いた。
うみが捉えた視界の先には、岸壁に沿って削られた立派な階段があり、その階段を登り切った先には薄らと樹海の影が見える。
うみが無言で階段の先を見据えていると、シアが不安そうに話しかけてきた。
「……うみくん。帝国兵は、まだいるでしょうか?」
「ん? いるよ。階段を登りきった崖の上に、小隊規模の三十人くらいで野営してるね」
「そ、その……もし階段を登って、帝国兵がいたら……うみくん、どうするのですか?」
「? どうするって何が?」
質問の意図がわからず首を傾げるうみに、意を決したようにシアが尋ねる。
周囲の兎人族も、ピンとウサミミを立てて二人の会話に聞き耳を立てていた。
「今まで倒した魔物と違って、相手は帝国兵……人間族です。うみくんと同じ同族です。……敵対できますか?」
シアの言葉に、周りの兎人族たちも神妙な顔つきでうみを見ている。
小さな子供たちはよく分からないといった顔をしながらも、不穏な空気を察して大人たちとうみを交互に忙しなく見ていた。
しかし、うみはそんなシリアスな雰囲気などまるで気にした様子もなく、あっさりと言ってのけた。
「……それは相手の出方次第かな」
「えっ?」
疑問顔を浮かべるシアに、うみは歩みを止めることなく、世間話でもするように言葉を紡ぐ。
「話が通じる相手なら、別に争うつもりはないよ。大人しく道を開けてくれるならそれでいい。
……けど、もし通じないなら、致し方ない。死んでもらうしかないね」
「そ、それは……だって、同族じゃないですか……」
「……そもそも何で同族と敵対することがそんなに問題なの?」
「え?」
「君たちだって、同族である亜人の国から追放されてるじゃん」
「それは、まぁ、そうなんですが……」
「それに、俺がいた場所じゃあ、同族同士が殺し合うことなんて珍しくもなんともなかったしね」
「えっ……」
うみの脳裏をよぎるのは二年前、死滅回游での殺し合い。
「大体、根本的な前提が間違ってるんだよね」
「根本?」
さらに首を捻るシア。周りの兎人族も疑問顔だ。
「いい? 俺は、君たちと『契約』を結んだんだ。
……俺たち呪術師にとって、『契約』っていうのは、絶対に軽んじちゃいけないものなんだよ。
都合が悪いからって、自分の気分で勝手に反故にしていいようなものじゃない」
「うっ、はい……」
「君たちの安全の保障は、樹海の案内への対価だ。
なら、俺はどんなことがあろうと契約に則り、君らの障害を排除しなきゃいけない。……相手が人間だろうと魔物だろうとね」
「な、なるほど……」
『同族への情』よりも『自身が結んだ契約』を絶対視する。
何とも打算的で、しかしブレのない考えに、苦笑いしながら納得するシア。
未来というものは絶対ではないからこそ、万一うみが帝国側についてしまえば、今度こそ死より辛い奴隷生活が待っている。
表には出さないが“自分のせいで”という負い目があるシアは、どうしても確認せずにはいられなかったのだ。
「はっはっは、分かりやすくていいですな。樹海の案内はお任せくだされ!」
カムが快活に笑う。
下手にフワッとした正義感や同情を持ち出されるよりも、一切の情を挟まない『ギブ&テイクの契約』という論理の方が、今の彼らにとってはよほど信用に値したのだろう。
その表情に含むところは全くなかった。