ライセン大峡谷からの脱出ルートである長く険しい石段。
その急勾配を、うみを先頭にした一行は順調なペースで登っていた。
帝国兵からの逃亡、そして魔物からの避難を含め、ほとんど飲まず食わずだったはずの兎人族たちだが、その足取りは驚くほど軽い。
亜人族が魔力を持たない代わりに身体能力が高いというのは、どうやら本当らしい。後ろを振り返れば、初老のカムでさえ息一つ切らさずについてきている。
やがて、頭上から差し込む太陽の光が強くなり、心地よい風が吹き込んできた。
遂に階段を上りきり、うみ達はライセン大峡谷からの脱出を果たす。
登りきった崖の上。そこには、自由と安全が待っている――はずだった。
「おいおい、マジかよ。生き残ってやがったのか。
隊長の命令だから仕方なく残ってただけなんだがなぁ~、こりゃあ、いい土産ができそうだ」
階段を上がりきった開けた場所に、下品な笑い声が響いた。
三十人の兵士たちがたむろしていた。周りには大型の幌馬車が数台と、野営の跡が残っている。
全員がくすんだカーキ色の軍服らしき衣服を纏い、剣や槍、盾を携えている。
彼らは崖から這い上がってきたうみ達を見るなり、一瞬だけ驚いた表情を見せた。
だが、それも一瞬のこと。直ぐに獲物を見つけた猟犬のような喜色を浮かべ、品定めでもするように兎人族を見渡した。
「小隊長! 白髪の兎人もいますよ! 隊長が欲しがってましたよね?」
「おお、ますますツイテルな。年寄りは別にいいが、あれは絶対殺すなよ?」
「小隊長ぉ~、女も結構いますし、ちょっとくらい味見してもいいっすよねぇ?
こちとら、何もないとこで三日も待たされたんだ。役得の一つや二つ、大目に見てくださいよぉ~」
「ったく。全部はやめとけ。二、三人なら好きにしろ」
「ひゃっほ~、流石、小隊長! 話がわかる!」
帝国兵たちは、兎人族たちを完全に『物』か『慰み者』としてしか見ていない。
戦闘態勢をとる事もなく、下卑た笑みを浮かべて舐め回すような視線を兎人族の女性達に向けている。
兎人族は、その粘ついた視線とむき出しの悪意にただ怯え、身を寄せ合って震えるばかりだ。
帝国兵達が好き勝手に騒いでいると、兎人族にニヤついた笑みを浮かべていた小隊長と呼ばれた男が、先頭に立つうみの存在にようやく気がついた。
「あぁ? お前誰だ? 兎人族……じゃあねぇよな?」
小隊長の怪訝な声に、他の兵士たちも視線をうみへと向ける。
奈落の底で濡れた目隠しを捨てて以来、うみは素顔のままだ。
銀青の髪に、宝石のように澄み切った蒼い瞳。
この世のものとは思えないほど整ったその容貌に、小隊長を含めた兵士たちが一瞬、息を呑んで見惚れたのがわかった。
「見ての通り、人間だよ」
うみが呆れたようにため息をつきながら答えると、小隊長は鼻を鳴らした。
「なんで人間が兎人族と一緒にいるんだ? しかも峡谷から。あぁ、もしかして奴隷商か?
情報を掴んで追っかけたとか? そいつぁまた商売魂がたくましいねぇ。
まぁ、いいや。そいつら皆、国で引き取るから置いてさっさと消えな」
勝手に推測し、勝手に結論づけた小隊長は、さも自分の言う事を聞いて当たり前、断られることなど有り得ないと信じきった様子で命令してきた。
大国の軍人という権力を笠に着た、傲慢極まりない態度。
(……ダメそう……どう見ても話が通じるタイプじゃない)
うみは内心で冷ややかに分析しながら、一切の躊躇なく言葉を返した。
「却下」
「……あ? 今、何て言った?」
「だから却下だって言ったの。言い方を変えれば断る。
俺はこのウサギたちをこの先に送り届けなきゃいけないの。そこ、通してくれない?」
聞き間違いかと問い返し、返ってきたのは不遜極まりない物言い。小隊長の額にピキリと青筋が浮かぶ。
周囲の兵士達も、一斉に剣呑な雰囲気でうみを睨みつけた。
だが、小隊長はすぐにその怒りをねじ伏せ、まるで這い回るナメクジを見るような、粘着質でゲスな笑みを深めた。
「……なるほど、よぉ〜くわかった。てめぇが権力ってものを知らねぇ、ただの世間知らずのクソガキだってことがな。
その上玉のツラ、啼かせ甲斐がありそうじゃねぇか。
そっちの金髪の別嬪と一緒に、俺たちの慰み者にしてから、裏のオークションにでも売り飛ばしてやるよ」
その下劣極まりない言葉に、うみの背後にいたユエが、無表情でありながらも誰でも分かるほどむき出しの嫌悪感を放った。
「……汚物」と呟き、右手を掲げて魔法を放とうとする。
しかし、それをうみが手で軽く制した。
うみは、小隊長の言葉を聞いて激昂するでもなく、ただ心底嫌そうな、汚い虫でも見るような目を向けていた。
「うわぁ……。マジでドン引きなんだけど。キモすぎでしょ」
「あぁ!?」
「男相手に慰み者にしてやるとか、ほんと勘弁してよ」
そのあまりにも人を食った態度に、小隊長の堪忍袋の緒が完全に切れた。
「殺せ!! 女以外は皆殺しにして構わねぇ!!」
号令と共に、前衛の兵士たちが一斉に剣や槍を構えて飛び出してくる。後衛の兵士たちも魔法の詠唱を開始した。
だが、うみは一歩も動かなかった。『カゴ』から取り出したのは、赤黒い液体が詰まった数本の試験管。
奈落の底でストックしておいた、魔物の『血液』だ。
親指で弾いて栓を飛ばし、中の血液を空中へとぶちまける。
うみが両手を振るう動作と共に、空中に散らばった血液が即座に鋭利な刃としての形態を成し、二つの血の円盤を形成した。
「赤血操術――『苅祓』」
シュガガガガガガッッ!!!
うみの両手から放たれたのは、高速回転する血の輪。
それは空中で分裂し、予測不能の軌道を描いて帝国兵たちの陣形へと殺到した。
「なっ!? ぐぁぁぁっ!!」
「うぎゃあっ!?」
最前列で突っ込んできた兵士たちの首や胴体が、血の刃によって豆腐のようにあっけなく切断され、赤い飛沫を上げて崩れ落ちる。
何が起きたのか理解する間もなく、後衛で詠唱していた兵士たちも次々と血の刃に切り裂かれていった。
「ひぃっ!? 盾だ! 盾を構えろぉっ!」
「た、助け――」
数人の兵士が咄嗟に鉄の盾を構え、血の刃を弾き返した。
直接の切断を免れ、刃が掠っただけの傷で済んだ者もいた。彼らは安堵の息を吐こうとした――が。
「ガ、アアアァァァァッッ!!?」
「あ、熱い!? 体の中が、焼けるように……ッ!!」
生き残ったはずの兵士たちが、突如として武器を取り落とし、喉を掻き毟りながら地面を転げ回り始めたのだ。
彼らの血管がドクドクと異常なほどに膨れ上がり、目、鼻、口から赤黒い血を噴き出して絶命していく。
のたうち回り、絶命していく兵士たちを見下ろしながら、うみは少し引いたような、顔を顰めた反応を見せた。
「うわぁ……。普通の人間が魔物の血とか肉を取り込んだら、本来はこうなるのか……」
奈落の底で、スキル目当てとはいえ自ら魔物を喰らっていた己の狂気を棚に上げ、うみはポツリとこぼす。
「……ハジメたちと合流したら、赤血操術の範囲攻撃は自重しよう。一滴でも巻き込んだら大惨事だし」
戦闘開始から、わずか十数秒。
三十人いた帝国兵の小隊は、うみがただの一歩も動くことなく、文字通り全滅していた。
血の海と化した野営地の中、一人だけ――うみの意図的な手加減により、傷一つ負うことなく命を取り留めている男がいた。小隊長だ。
魔物の血を使った以上、かすり傷でも命取りになるため、あえて完全に無傷で残しておいたのだ。
「ヒィッ……! ヒィィィィッ……!」
小隊長は腰を抜かし、恐怖で顔をぐしゃぐしゃに歪めながら、這いずるようにして後ずさっていく。
先程までの傲慢な態度はどこへやら、その目には死神を見るような絶望が張り付いていた。
うみはゆっくりと歩み寄り、小隊長を見下ろした。
「さて。一つだけ聞きたいんだけど。兎人族の残りはどこ? まだこの辺りにいるの?」
「い、移送した! 昨日、すでに帝国に向けて移送済みだ!!」
「……」
(……何にも反応がないってことは、本当……でいいんだよね?)
うみの技能である『真偽判定』は、嘘を吐かれた時にのみ感覚的な違和感を返す仕様なのだが、奈落でこの技能を取得して以来、彼の周りに嘘を吐く者がいなかったため発動機会はゼロのまま。
ゆえに、現状のうみにとって、この技能がちゃんと働いているのかどうか、全く分からない状態となっている。
(誰でもいいから一回くらい嘘ついてほしいんだけどなぁ……)
内心でそんな場違いなボヤきをこぼしつつも、どうやら小隊長の今の言葉に嘘はないとして考えるしかない。
すでに移送された後となれば、これ以上追いかけるのは骨が折れる。
「そっか。ありがとう。じゃあ、用は済んだね」
「ま、待ってくれ! たのむ、殺さないでくれ! なんでも、なんでもするから……ッ!」
命乞いをする小隊長に対し、うみは全く感情の動かない、ただの作業をこなすような声で返した。
「ごめんね。ここで逃がして、帝国に報告されても面倒なことになって困るんだ」
うみが指先をスッと向けた。
シュパンッ。
短い風切り音と共に、小隊長の首が胴体からポロリと滑り落ちた。
血だまりの中に、また一つ屍が転がる。
うみは無言のまま、己の右手をゆっくりと開き、そして静かに握り込んだ。
誰にも気づかれないよう、一瞬だけ瞳に微かな陰りを落とし、すぐに淡々とした冷徹な表情へと戻った。
静寂が降りた崖の上。
あまりにも一方的で、残虐なまでの蹂躙劇を目の当たりにした兎人族たちは、恐怖に身を震わせていた。
うみの規格外の強さは知っていたはずだが、同族である人間を一切の躊躇なく、虫でも潰すかのように処理していくその冷徹さに、底知れぬ恐ろしさを感じたのだ。
シアもまた、ワナワナと震えるウサミミを抑えながら、おずおずと口を開いた。
「あ、あの……うみくん……。さっきの人、最後は命乞いをしていましたし、何も殺さなくても、見逃してあげてもよかったのでは……」
その言葉を聞いた瞬間、うみは「正気か?」と、本気で理解できないというように呆れた視線を向けた。
だが、うみが口を開くよりも早く、背後からスッと前に出たユエが、氷のように冷たい声で言い放った。
「……一度、剣を抜いた者が、結果として相手の方が強かったからと言って見逃してもらおうなんて、都合が良すぎ」
「そ、それは……」
「……それに。自分たちのために、うみの手を汚させておいて、その目は何?」
ユエの紅い瞳が、シアと兎人族たちを射抜く。
「守られているだけのあなた達が、うみにそんな目を向けるのはお門違い」
「…………」
ユエの静かな怒りに触れ、兎人族たちはハッとして視線を落とし、バツが悪そうに俯いた。
当然のことだ。うみは彼らを守るために、自ら手を下してくれたのだから。
「うみ殿、ユエ殿、申し訳ない。決して、お二人を非難しているわけではないのだ。ただ、我らは争いというものに慣れておらず……少々、驚いただけなのだ」
族長のカムが慌てて前に出て、深々と頭を下げた。シアも「ごめんなさい」と小さくなっている。
「別に。自分が異常なのは自覚してるから」
呪術師というものは、イカれていなければ務まらない。
その事実を、よく理解しているからこそ、他者から向けられる怯えや戸惑いにも今更動じることはない。
「それより、このままだと流石に証拠が残りすぎてるね。帝国にすぐバレるのは面倒だし、掃除しちゃおうか」
うみは血の海と累々たる屍が転がる野営地跡を見渡すと、『カゴ』から『天象儀の枝杖』を取り出して掲げた。
「――『母なる海より出でて、大地の穢れを啜り流せ』――『水迅』」
杖の先端に展開された青い魔法陣から、大量の激流が生み出される。
それは野営地を一気に洗い流し、赤い血だまりと帝国兵の死体をまとめて崖の向こう――大峡谷の奈落の底へと一網打尽に押し流した。
「――『天空より降り立ちて、全てを虚空の彼方へ吹き散らさん』――『烈風』」
続いて緑の魔法陣が展開される。
直後、発生した猛烈な突風が、激流によって濡れた地面を撫で、乾燥した峡谷には不自然すぎる水気の痕跡を一瞬にして消し去った。
数秒後には、野営地には不自然なほど綺麗な、土埃すらない乾いた岩肌だけが残されていた。
「うん、これでよし」
証拠隠滅を終え、うみは小さく息を吐いて肩をすくめると、帝国兵たちが使っていた大型の幌馬車の方へと歩き出した。
「せっかくだし、この馬車はもらっていこう。樹海まではまだ距離があるみたいだしね」
うみは『カゴ』から浮遊艇を取り出すと、連結器を取り出し、幌馬車と接続した。
これなら、兎人族たちも馬車に乗せて牽引することができる。
「さ、終わったことは気にしないで、さっさと樹海へ向かおうか。乗って乗って」
うみの呑気な掛け声に、兎人族たちは慌てて馬車の荷台へと乗り込んでいく。
峡谷の風が吹き抜ける中、証拠一つ残っていない野営地を後にし、一行は次なる目的地である『ハルツィナ樹海』へと進路をとった。
***
ライセン大峡谷を抜け、前方にハルツィナ樹海の鬱蒼とした森を見据えながら、赤茶けた平原を浮遊艇が滑るように進んでいた。
その後方には、連結器によって兎人族たちを乗せた大型の幌馬車が牽引されている。
浮遊艇の内部には、向かい合わせのゆったりとしたソファシートがある。
進行方向を向いた席にはうみが深く腰掛け、その隣には当然のようにユエがぴったりと身を寄せている。
そして向かいの席には、ウサミミをピコピコと動かしながら、少し緊張した面持ちのシアが座っていた。
「……うみ、どうして一人で戦ったの?」
静かな浮遊艇の中で、ユエがふと顔を上げてうみに問いかけた。
崖の上での帝国兵との戦いのことだ。あの時、ユエが魔法を放とうとしたのを、うみは手で制して自分一人で処理した。
もちろん、ユエが手を出そうが出すまいが結果は変わらなかっただろうが、少し気になったのだ。
向かいに座るシアも、ウサミミをピンと立てて興味深そうに身を乗り出している。
「んー? ……まあ、理由は二つかな」
うみは窓外の景色を眺めたまま、淡々と答える。
「一つ目は、あんな連中で、ユエの手を汚させたくなかったから」
「……うみ」
「二つ目は……ちょっと自分の中の『ネジ』を締め直しておこうと思ってね」
うみはそこで視線を戻し、自身の右手を軽く握りしめた。
「こっちの世界に来る前の半年間……そして召喚されてから奈落に落ちるまでの一ヶ月。
俺は、『平穏』に浸かりすぎてた。そのせいで、呪術師としての思考が鈍ってた……」
ハジメが奈落へ落されそうになったあの一瞬の出来事が、うみの脳裏をよぎる。
「奈落に落ちてから思考は切り替えたつもりだったけど、あそこで相手にしてたのは魔物ばっかりだったからさ。
これから先、人間を相手にするかもしれないって考えたら……まだちょっと足りてない気がして。
だから、俺はもう一度、ちゃんと切り替える必要があった」
覚悟など、とうの昔にしている。 だからこそ、彼は自分の精神状態が
「とまあ、そんなとこ。ただの自己確認だよ」
うみがあっけらかんと語り終えると、向かいの席のシアが、少しだけ潤んだ瞳でうみたちを見つめていた。
彼女は先ほどから、この二人の『異常さ』と、それにそぐわない『達観した影』に強い興味を惹かれていた。
「あの、あの! うみくんとユエさんのこと、教えてくれませんか?」
「? 別に隠すようなことでもないけど……聞いてどうするの?」
「どうするというわけではなく、ただ知りたいだけです。……お二人自身のことが知りたいんです」
シアはそこまで言うと、少しだけウサミミを垂れ下げて俯いた。
「私、この体質のせいで家族には沢山迷惑をかけました。
……皆はそんな事ないって言ってくれましたし、今は自分を嫌ってはいませんが……
それでも、やっぱり、この世界のはみだし者のような気がして……」
固有魔法という、亜人族にとっては異端の力。
そのせいで一族を危険に晒し続けているという負い目が、彼女の言葉の端々に滲み出ている。
「だから、私、嬉しかったんです。お二人に出会って、私みたいなイレギュラーな存在は他にもいるのだと知って。
一人じゃない、はみだし者なんかじゃないって思えて……勝手ながら、そ、その、仲間みたいに思えて……
だから、もっとお二人のことを知りたいんです」
シアは恥ずかしくなってきたのか、最後の方は小声になって身を縮こまらせた。
出会った当初の図太い態度とは裏腹な、彼女の切実な孤独感。
同じように魔力を直接操作するイレギュラーとして、彼女が親近感を抱くのは無理もないことだった。
(……なんか勝手にはみ出し者枠に入れられたんだけど。……いや、呪術師なんて、社会全体から見れば十分はみ出し者か?)
うみは内心で一人ツッコミを入れつつ納得しながら、あっさりと答えた。
「……別にいいよ。まあ、俺の方は特筆した事情があるわけじゃないけど」
うみは、トータスに召喚されてから奈落に落ちるまでの簡単な経緯だけをあっさりと語った。
そして、ユエもまた、先祖返りとして国のために尽くしながらも裏切られ、三百年間暗闇に封印されていたという凄惨な過去をぽつりぽつりと口にした。
結果……。
「うぇぇぇぇん、ぐすっ……ひどい、ひどすぎますぅ~! ゆ、ユエさん、かわいそうですぅ~っ!」
車内に、シアの号泣が響き渡った。
滂沱の涙を流しながら「私なんて甘ちゃんですぅ」とか「もう弱音は吐かないですぅ」とブツブツ呟きながら、ちゃっかりとうみの袖で涙と鼻水を拭こうと擦り寄ってくる。
だが、当然のように展開された『無下限呪術』の壁に阻まれ、シアの顔はうみの袖の数センチ手前でピタッと止められた。
「ちょっと、毎回毎回俺の服で拭こうとしないでよ。制服、これしかないんだから」
「……汚い。ウザウサギ」
うみが呆れ顔で『カゴ』からタオルを取り出し、シアの顔面にバサッと押し当てる。
ユエが冷ややかな視線を送る中、シアはタオル越しにしばらくメソメソと泣き続けていた。
しかし、突如として決然とした表情でガバッと顔を上げると、拳を握り元気よく宣言した。
「うみくん! ユエさん! 私、決めました! お二人の旅に着いていきます!
これからは、このシア・ハウリアが陰に日向にお二人を助けて差し上げます!
私達はたった三人の仲間。共に苦難を乗り越え、望みを果たしましょう!」
勝手に盛り上がり、謎の友情を押し付けてくるシア。
しかし、うみとユエの反応は極めて冷ややかだった。
「……さり気なく『仲間みたい』から『仲間』に格上げしてる。厚顔ウサギ」
「ここらの魔物に苦戦してるレベルの子を連れ歩くのは、流石にしんどいかなぁ」
「な、何て冷たい目で見るんですか……心にヒビが入りそうですぅ」
意気込みに反して冷たい反応を返され、動揺するシア。
だが、うみはそんな彼女の目を見据え、核心を突く言葉を投げかけた。
「……シア。君、一族の安全が一先ず確保できたら、あのおじさんたちから離れる気なんでしょ?」
「!?」
うみの言葉に、シアの体がビクッと跳ねた。
「自分がいる限り、一族は常に危険に晒される。だから、自分だけ抜けようとしてた。
そこにうまい具合に俺らが現れたから、護衛の恩返しとか適当な理由をつけて同行すれば、家族も納得して離れられると考えた……そんなとこでしょ?」
「……あの、それは、それだけでは……私は本当にお二人を……」
図星を突かれ、しどろもどろになるシア。
事実、彼女は一族をこれ以上危険な目に遭わせないため、一人で旅立つ決意を固めていたのだ。
うみたちへの同行の申し出は、家族を説得するための方便でもあり、同時に『同類』である彼らへの純粋な憧れでもあった。
だが、うみは小さく息を吐き、少しだけ声のトーンを落として言った。
「別に責めてるわけじゃないよ。……たださ、家族がいるんだったらできるだけ一緒に居たほうがいいよ。
家族側にとんでもない問題がなければ、ね。……いつ、会えなくなるか分かったもんじゃないんだから」
それは、冷徹な呪術師としての彼ではなく、大切な弟妹や仲間たちを地球に残してきた一人の少年としての、素直な言葉だった。
その言葉の奥にある微かな寂しさを感じ取ったのか、シアはハッとして言葉を失い、静かに俯いた。
「……はい」
「親の顔も知らない『おにーさん』からのアドバイスだよ。あんなに君のことを心配してくれてる家族がいるんだから。一緒にいなよ」
「はい……って、『おにーさん』って何ですか!? 私が『お姉ちゃん』なんですけどー!!」
図星と真摯な言葉にしおらしくなっていたはずが、最後にちゃっかりと姉アピールをして抗議してくるシア。
だが、うみはその抗議をあっさりとスルーし、呆れたように息を吐いた。
「それに、俺たちの目的は七大迷宮の攻略だ。奈落と同じで奥は化物揃い。今のシアじゃまともに戦えもしないよ。だから、同行は却下」
うみがそう締めくくると、シアはそれ以降、何かを深く考え込むように難しい表情をしたまま黙り込んでしまった。
浮遊艇は、ただ静かに平原を滑り続けていく。
***
それから数時間して、浮遊艇は遂に【ハルツィナ樹海】と平原の境界に到着した。
樹海の外から見る限り、ただの鬱蒼とした巨大な森にしか見えないのだが、一度中に入ると直ぐさま深い霧に覆われるらしい。
うみは浮遊艇を『カゴ』に収納し、一行は徒歩で樹海の入り口へと集まった。
「それでは、うみくん、ユエ殿。中に入ったら決して我らから離れないで下さい。
お二人を中心にして進みますが、万一はぐれると厄介ですからな。それと、行き先は森の深部、大樹の下で宜しいのですな?」
「うん。聞いた限りじゃ、そこが本当の迷宮と関係してそうだからね」
カムが、うみに対して樹海での注意と行き先の確認をする。
カムが言った『大樹』とは、ハルツィナ樹海の最深部にある巨大な一本の樹木で、
亜人達には『大樹ウーア・アルト』と呼ばれており、神聖な場所として滅多に近づくものはいないらしい。
大峡谷脱出時にカムから聞いていた話だ。
当初、うみもハルツィナ樹海そのものが大迷宮かと思っていたのだが、よく考えれば、それなら奈落の底の魔物と同レベルの魔物が彷徨いている魔境ということになり、とても亜人達が住める場所ではなくなってしまう。
なので、オルクス大迷宮のようなどこかに『真の迷宮の入口』が隠されているのだろうと推測した。そして、カムから聞いたその『大樹』が一番怪しいと踏んだのである。
カムはうみの言葉に頷くと、周囲の兎人族に合図をして、うみたちの周りを固めるように陣形を組んだ。
「お二人とも、できる限り気配は消してもらえますかな。
大樹は神聖な場所とされておりますから、あまり近づくものはおりませんが、特別禁止されているわけでもないので、
フェアベルゲンや、他の集落の者達と遭遇してしまうかもしれません。我々は今や国からの追放者なので、見つかると厄介です」
「了解。ユエもいける?」
「……んっ」
カムの頼みに頷き、うみは奈落の底で得た技能『気配遮断』を起動した。
ユエもまた、奈落で培った方法で自身の気配をスッと薄れさせる。
――その直後だった。
「ッ!? これは、また……」
カムが目を丸くし、驚愕の声を漏らした。
視覚的には目の前にいるにも関わらず、兎人族の誇る鋭敏な聴覚や嗅覚、本能的な感知能力のすべてが、うみの存在を一切認識できなくなってしまったのだ。
「う、うみくん、もう少し気配を出してもらえますかな? これでは少しでも視界から外れた瞬間、我々でも完全に見失ってしまいます」
パニックになりかけるカムの言葉に、うみは内心で感心していた。
(へぇ……この『技能』って、ほんとに完璧に気配が消えるんだ。とっても便利だね)
ゲーム的なシステムがもたらす『気配遮断』の異常なほどの性能を確認し、うみは小さく頷いた。
「そうなんだ。じゃあ、技能の方は切って、自前のに切り替えるよ。これならどう?」
うみは『気配遮断』の技能をオフにし、代わりに、地球で培ってきた気配の隠蔽へと切り替えた。
呼吸音を消し、足運びから一切の摩擦と振動を奪い、体内を巡る魔力(と呪力)を極限まで抑え込む。
「……ははは。これでもギリギリですな」
切り替えたうみの気配を探り、カムは額に冷や汗を浮かべながら苦笑した。
先ほどの『完全な虚無』よりはマシだが、それでも彼ら亜人族の自慢の耳と鼻をもってしても、意識を集中させなければ容易く見失ってしまいそうなほどに気配が薄い。
「我々の得意分野である隠密行動において、『技能』に頼らず純粋な技術のみでこの領域とは……本当に恐れ入る」
「……んっ。私のうみ、すごい」
人間でありながら亜人の長所を軽々と凌駕してみせたうみに対し、カムが舌を巻く隣で。
なぜかユエが、「当然でしょ」と言わんばかりに自慢げにふんすっと胸を張っていた。
一方のシアは、うみとのあまりの生物としての格の違いを改めて見せつけられ、どこか複雑そうな顔をしている。
「それでは、行きましょうか」
カムの号令と共に準備を整えた一行は、カムとシアを先頭にして、鬱蒼としたハルツィナ樹海へと足を踏み入れた。
***
しばらく、道ならぬ道を突き進む。直ぐに濃い霧が発生し視界を塞いできた。
しかし、先頭を歩くカムの足取りに迷いはない。現在位置も方角も完全に把握しているようだ。
理由は分かっていないが、亜人族は、亜人族であるというだけで、樹海の中でも正確に現在地も方角も把握できるらしい。
(……本能の成せる技ってやつなのかな)
うみは内心でその亜人ならではの能力に感心しながら、歩みを進めた。
順調に進んでいると、突然カム達が立ち止まり、周囲を警戒し始めた。
魔物の気配だ。
当然、うみとユエも感知しているが、どうやら複数匹の魔物に囲まれているようだ。
樹海に入るに当たって、うみが貸し与えた武器類を構える兎人族達。
彼等は本来なら、その優秀な隠密能力で逃走を図るのだそうだが、今回はそういうわけには行かない。
皆、一様に緊張の表情を浮かべている。
うみが面倒くさそうに排除しようとした、その時だった。 スッと、ユエが一歩前に出て、うみを庇うように立ち塞がった。
「……うみは、さっきいっぱい働いた。今度は私の番」
そう言って、やる気満々で前に出るユエ。 峡谷では魔法を使うのが困難だったため、うみの背中に守られてばかりだったからか、ようやく自分の出番が来たと少し嬉しそうでもある。
直後、霧をかき分けて、腕を四本生やした体長六十センチ程の猿が数匹、奇声を上げながら躍りかかってきた。
ユエが手をかざし、一言囁くように呟く。
「――『風刃』」
シュッ! という微かな音と共に、無数の不可視の風の刃が高速で飛び出した。
それは空中を舞う猿たちを何の抵抗も許さずに分断し、悲鳴を上げる間すら与えずに次々と地に落としていく。
だが、数が多いせいで、二匹の猿がユエの風の刃をすり抜け、後衛へと殺到した。
一匹は近くの子供に、もう一匹はシアに向かって、鋭い爪の生えた四本の腕を振り下ろそうとする。
シアも子供も、突然のことに思わず硬直し身動きが取れない。咄嗟に、近くの大人が庇おうとするが――間に合わない。
シュパンッ!
小気味良い風切り音と共に、シアと子供へと迫っていた猿の首が、見えない『何か』によって綺麗に切断され、地面に転がった。
うみの放った『解』である。
「あ、ありがとうございます、うみくん」
「お兄ちゃん、ありがと!」
シアと男の子が窮地を救われ礼を言う。
うみは「いいよ」と柔らかく笑いかけ、男の子の頭をポポンと優しく撫でてやった。
男の子は嬉しそうにキラキラとした目をうみに向けている。
一方、シアは突然の危機に硬直するしかなかった自分にガックリと肩を落としていた。
「……んっ」
ふと、うみの袖がツンツンと引かれた。
見下ろすと、そこには猿の群れをあらかた片付け終えたユエが、無表情ながらもどこか期待に満ちた上目遣いでうみを見つめていた。
そのあからさまな『撫でられ待ち』の態度に、うみは思わず苦笑し、男の子から手を離してユエの頭を優しく撫でた。
「ユエもありがとう。助かったよ」
「……んっ!」
うみに撫でられ、ユエはふんすっと自慢げに胸を張り、満足そうに目を細めた。
その様子に、カムは苦笑いする。うみから促されて、先導を再開した。
その後も、ちょくちょく魔物に襲われたが、その度にユエが嬉々として魔法で仕留め、
うみの元へトコトコと戻ってきては頭を撫でられるという、なんとも微笑ましい光景が繰り返された。
樹海の魔物は、一般的には相当厄介なものとして認識されているのだが、彼らにとっては何の脅威でもなかったのだ。
しかし、樹海に入って数時間が過ぎた頃。
ピタリと、うみとユエが同時に足を止めた。それにつられてカム達も立ち止まり、忙しなくウサミミを動かし索敵を始める。
(多いな……。魔物にしては統率が取れすぎてるし、気配を殺して隠れてるやつまでいる……)
うみの六眼が、霧の奥に潜む『それら』の正体を正確に捉えていた。魔物ではない。
明確な意思と統率を持った集団――亜人の軍隊だ。
何かを掴んだのか、カムが苦虫を噛み潰したような表情を見せた。シアに至っては、その顔を青ざめさせている。
そして、霧の奥から、その相手が姿を現した。
「お前達……何故人間といる! 種族と族名を名乗れ!」
虎模様の耳と尻尾を付けた、筋骨隆々の亜人が、鋭い眼光でカム達を睨みつけていた。
当然だろう。ここは樹海、亜人たちにとっては縄張りと言っていい。
そこに、人間族とともに歩く亜人族――。
どう見ても、人間族を樹海へと招き入れた裏切り者である。
虎の亜人達の手には、両刃の剣が抜身の状態で握られており、
周囲の濃霧の中にも、数十人の亜人が殺意を滾らせながら包囲網を敷いているのが気配でわかる。
「あ、あの私達は……」
カムが何とか誤魔化そうと額に冷汗を流しながら弁明を試みるが、
その前に虎の亜人の視線がシアを捉え、その眼が大きく見開かれた。
「白い髪の兎人族…だと? ……貴様ら……報告のあったハウリア族か……亜人族の面汚し共め!
長年、同胞を騙し続け、忌み子を匿うだけでなく、今度は人間族を招き入れるとは!
反逆罪だ! もはや弁明など聞く必要もない! 全員この場で処刑する! 総員、かかッ――!?」
虎の亜人が問答無用で攻撃命令を下そうとした、その瞬間だった。
ズズンッ!! ズズズズズズズンッッ!!!
突如として、虎の亜人の背後にある大木が斜めに両断され、轟音を立てて倒れ込んだ。
それだけではない。霧に包まれた周囲の森から、まるで連鎖するように、複数の大樹が同時に倒壊する凄まじい地響きが鳴り響いた。
「なっ……!?」
理解不能な事態に凍りつく虎の亜人の頬から、ツツーッと一筋の血が流れる。
もし、彼がほんの数ミリ横に動いていれば、あるいは人間の様に耳が横に付いていれば、間違いなく頭部を両断されていただろう。
「ヒッ……!?」
「な、なんだ!? 木が突然……ッ!」
霧の奥から、潜んでいた亜人たちの動揺する声が漏れ聞こえてくる。
無理もない。彼らが身を潜めていた場所の『すぐ真横』の木が、刃物で切断されたかのように唐突に切り倒されたのだ。
それは全て、うみが放った不可視の斬撃――『解』によるものだった。
予備動作はおろか、視線すら動かすことなく、瞬きする間に放たれた全方位への精密な同時攻撃。
誰もが硬直する中、気負った様子も、一切の動作も見せないうみの口から、静かで、ひどく冷たい声が響いた。
「今のは警告、次は斬る。霧の中に隠れてる子たちの配置も、全部見えてるしね。……君ら全員、俺の射程内だよ」
「な、なっ……詠唱もなく、それに、動きすら……ッ」
詠唱もなく、なんの動作もなく、不可視の斬撃を周囲の伏兵にまで正確に放ってみせた。
虎の亜人は、あまりの理深さに思わず吃る。
そこへ、うみから途轍もない圧力が放たれた。
文字通り死線を潜り抜けてきた者だけが放つことができる、濃密で純粋な『殺気』。
あまりに濃厚な死の気配を真正面から叩きつけられ、虎の亜人は大量の冷や汗を流しながら、
ヘタをすれば恐慌に陥って意味もなく喚いてしまいそうな自分を必死に押さえ込んだ。
(冗談だろ! こんな、こんなものが人間だというのか! まるっきり化物じゃないか!)
恐怖心に負けないように内心で盛大に喚く虎の亜人など知ったことかというように、うみは淡々と告げた。
「殺るって言うなら容赦はなし。俺はこの子たちを守らなきゃいけないから。
……まあ、その時は楽に死ねるとは思わないでね?」
虎の亜人は確信した。攻撃命令を下した瞬間、先程の不可視の刃が一瞬で自分達の首を刎ね飛ばすことを。
その場合、万に一つも生き残れる可能性はないということを。
「だけど、この場を引くっていうなら話は別。敵じゃないなら殺す理由もないからね。
さあ、選んで。ここで全員死ぬか、大人しく家に帰るか」
絶対的な強者による、有無を言わさぬ選択。
静寂に包まれた樹海の中で、虎の亜人はギリッと奥歯を噛み締める。
彼は、フェアベルゲンの第二警備隊隊長だった。
魔物や侵入者から同胞を守るという誇りと覚悟を持っているからこそ、
たとえ部下共々全滅を確信していても、安易に引くことなど出来ない。
「……その前に、一つ聞きたい」
虎の亜人は、恐怖で掠れそうになる声に必死で力を込めてうみに尋ねた。
「……何が目的だ?」
端的な質問。
しかし、フェアベルゲンや同胞を傷つけるつもりなら、自分達が引くことは有り得ないと、
不退転の意志を瞳に込めて気丈に睨みつけてくる。
「樹海の深部。あの大樹の下へ行きたい」
「大樹の下へ……だと? 何のために?」
てっきり亜人を奴隷にする等の害をなす目的かと思っていたら、
神聖視はされているものの大して重要視はされていない『大樹』が目的と言われ、虎の亜人は若干困惑した。
彼らにとって大樹は、ただの名所のような場所に過ぎないからだ。
「そこに、本当の大迷宮への入口があるかもしれないから。
俺達は七大迷宮の攻略を目指してるんだ。……ハウリアたちは、ただの案内役として雇っただけ」
「本当の迷宮? 何を言っている? 七大迷宮とは、この樹海そのものだ。
一度踏み込んだが最後、亜人以外には決して進むことも帰る事も叶わない天然の迷宮だぞ」
「いや、それはおかしいでしょ」
「なんだと?」
妙に自信のあるうみの断言に、虎の亜人は訝しそうに問い返した。
「大迷宮っていうには、ここの魔物は弱すぎる。アンタら程度で処理できる魔物が、迷宮の魔物なわけがない」
「なっ……」
「大迷宮の魔物は、どれもこれもここの魔物より幾段か上だよ。何より――」
うみはそこでチラリと、背後にいるカムたちを一瞥した。
「追放されるまで、このハウリアたちが樹海で生きていられたのが何よりの証拠。
迷宮レベルの魔物を前にして、このウサギたちが絶滅してないのはどう考えてもおかしい」
「…………」
ぐっさり。
あまりにも辛辣で、一切のオブラートに包まないうみの評価に、カムたち兎人族は見えない矢に胸を射抜かれたように顔を引き攣らせた。
だが、一切の反論ができない完全な事実であるため、バツが悪そうに苦笑いを浮かべて視線を逸らすことしかできない。
「う、うみくん! 事実ですけど、言い方が容赦なさすぎますぅ!」
シアだけがウサミミをバタバタと振って抗議の声を上げたが、うみは完全にスルーした。
一方、虎の亜人は困惑を隠せなかった。
樹海の魔物を弱いと断じることも、迷宮の魔物が別格だという確信も、彼には到底理解できない。
普段なら『戯言』と切り捨てていただろう。
だがしかし、今、この場において、うみが適当な嘘を吐く意味がないのだ。
この場において圧倒的優位に立っているのはうみであり、言い訳など必要ないのだから。
(……本当に大樹が目的で、我々に含むところがないのなら、部下の命を無意味に散らすより、さっさと目的を果たさせて立ち去ってもらうほうがいい……)
虎の亜人は瞬時にそう判断したが、うみ程の脅威を自分の一存で野放しにするわけにはいかない。
「……お前が、国や同胞に危害を加えないというなら、大樹の下へ行くくらいは構わないと、俺は判断する。
部下の命を無意味に散らすわけには行かないからな」
その言葉に、周囲の亜人達が動揺する気配が広がった。樹海の中で、侵入して来た人間族を見逃すということが異例だからだ。
「だが、一警備隊長の私ごときが独断で下していい判断ではない。
本国に指示を仰ぐ。お前が本当に含むところがないというのなら、伝令を見逃し、私達とこの場で待機しろ」
冷や汗を流しながら、それでも強い意志を瞳に宿して睨み付けてくる虎の亜人の言葉に、うみは少し考え込む。
今、この場で彼等を殲滅して突き進むのは簡単だ。
だが、そうすればフェアベルゲン全体を完全に敵に回すことになり、これからの探索中、ずっと面倒なちょっかいをかけられることになるだろう。
(……殺さなくて済むならその方がいいか)
「……いいよ。さっきの言葉、曲解せずにちゃんと伝えてよね」
「無論だ。ザム! 聞こえていたな! 長老方に余さず伝えろ!」
「了解!」
虎の亜人の号令と共に、気配が一つ遠ざかっていった。
うみはそれを確認すると、周囲に放っていた濃密な『殺気』をスッと霧散させた。
空気が一気に弛緩する。それにホッとすると共に、あっさりと警戒を解いたうみに訝しそうな眼差しを向ける亜人たち。
中には「今なら!」と密かに臨戦態勢に入っている者もいる。
だが、うみは気にした様子もなく、ただ淡々と彼らを見据えていた。
「言っておくけど、変な気を起こさない方がいいよ。そっちは、俺の動き出しなんて見えないでしょ?」
「……分かっている。だが、下手な動きはするなよ」
包囲はそのままだが、とりあえずの戦闘は回避された。カム達にもホッと安堵の吐息が漏れる。
しかし、そんな重苦しい包囲網のど真ん中で。
いち早く空気が弛緩したことを察したユエが、当然のようにうみの隣――ほとんど密着するような距離までトコトコと歩み寄ってきた。
そして、無表情のまま、少しだけ上目遣いでうみの顔を見上げる。
「……んっ」
先ほど、亜人たちの登場により中断されてしまった『なでなで』の再開要求である。
こんな一触即発の敵陣のど真ん中で、まるで自宅のソファにでもいるかのようなマイペースっぷり。
うみは思わず苦笑し、「はいはい」と優しくユエの頭を撫でてやった。 ユエは目を細め、心地よさそうに喉を鳴らす。
すると、その様子を見ていたシアが、「おほんっ」とわざとらしく咳払いをして歩み寄ってきた。
「うみくんも、敵の制圧お疲れ様でした! ここは一つ、お姉ちゃんがいっぱい撫でてあげますよ!」
自称お姉ちゃんとしての威厳を示すチャンスとばかりに、シアがドヤ顔でうみの頭を撫でようと両手を伸ばしてくる。
――当然、今までのように見えない壁に弾かれると誰もが、シア本人でさえ思っていた。しかし――。
ぽすっ。
シアの手は、何の抵抗も受けることなく、うみの銀青の髪に触れた。
「えっ!?」
予想外の感触に、シアが目を丸くする。うみは抵抗する様子もなく、大人しく撫でられるがままになっている。
「あ、撫でれました……! や、やりました! うみくん、実はツンデレだったんですねぇ〜!」
弾かれなかったことに歓喜し、シアはウサミミをぴこぴこと揺らしながら調子に乗ってうみの頭をワシャワシャと撫で回し始めた。
そんな光景を前に、うみの隣にいたユエが無表情のまま、ものすごいジト目をうみに向ける。
「……うみ?」
「……察しておくれよ、
呆れたようにため息をつくうみに、ユエはジト目を崩さない。
うみは肩をすくめて、周囲を取り囲む虎の亜人たちへと視線を流した。
「それに、この猫ちゃん達が余計な事したら、すぐに斬り飛ばさないといけないからね」
その言葉の裏には、呪術師としての明確な理由があった。
『術式』というものは、この世界の『魔法』や『技能』と比べて、行使に要求される脳の処理能力が桁違いに大きい。
そのため、複数の術式を同時に使用しようとすれば脳負荷に耐えきれず脳が焼き切れてしまうのだ。
反転術式による脳の修復が行えないうみにとって、術式の同時使用は実質的に不可能である。
魔法と技能の同時使用、あるいは魔法・技能と単一の術式との併用であれば問題はない。
だが、『無下限呪術』だけは別格だ。常に無限を現実化し続けるその術式は、要求される処理能力が他の比ではなく、発動中は他のいかなる力とも同時使用ができなくなる。
もちろん、周囲を囲む亜人たちの処理など『無下限呪術』なら当然可能であり、術式を無下限に切り替えても問題はない。
だが、常にフルスペックの処理能力を要求される『無下限呪術』に比べれば、『御廚子』を用いる方が脳への負荷が圧倒的に少なくて楽なのだ。
ワーワーと騒ぎ立てるシアを適当にあしらいながら、ユエの頭を撫で続けるうみ。
周囲を包囲している数十人の亜人たちは、そのあまりにも緊張感のない――というか、完全に場違いな空間を目の当たりにし、武器を構えたまま呆然としていた。
(……何なんだ、こいつらは。頭がおかしいのか……?)
亜人たちの生暖かい、ひどく呆れたような視線が突き刺さる中、待機時間は過ぎていった。
***
時間にして一時間と言ったところか。
調子に乗っていたシアが、いつの間にやら、ユエに関節を極められて「ギブッ! ギブッですぅ!」と必死にタップしている。
それを周囲の亜人達が呆れを半分含ませた生暖かな視線で見つめていると、急速に近づいてくる気配を感じた。
場に再び緊張が走る。
霧の奥からは、数人の新たな亜人達が現れた。彼等の中央にいる初老の男が特に目を引く。
流れる美しい金髪に深い知性を備える碧眼、その身は細く、吹けば飛んで行きそうな軽さを感じさせる。
威厳に満ちた容貌は、幾分シワが刻まれているものの、逆にそれがアクセントとなって美しさを引き上げていた。
何より特徴的なのが、その尖った長耳だ。彼は、森人族――いわゆるエルフなのだろう。
うみは、瞬時に、彼が『長老』と呼ばれる存在なのだろうと推測した。その推測は当たりのようだ。
「ふむ、お前さんが問題の人間族かね? 名は何という?」
「月影うみ。そっちは?」
うみの気負いのないフラットな言葉遣いに、周囲の亜人が「長老に何て態度を!」と憤りを見せる。
それを片手で制すると、森人族の男性も名乗り返した。
「私は、アルフレリック・ハイピスト。フェアベルゲンの長老の座を一つ預からせてもらっている。
さて、お前さんの要求は聞いているのだが……その前に聞かせてもらいたい。『解放者』とは何処で知った?」
「んー? オルクス大迷宮の奈落の底。解放者の一人、オスカー・オルクスの隠れ家だよ」
目的などではなく、解放者の単語に興味を示すアルフレリックに少しだけ訝しみながら返答するうみ。
一方、アルフレリックの方も表情には出さないものの内心は驚愕していた。
なぜなら、解放者という単語と、その一人が『オスカー・オルクス』という名であることは、長老達と極僅かな側近しか知らない事だからだ。
「ふむ、奈落の底か……聞いたことがないがな……証明できるか?」
あるいは亜人族の上層に情報を漏らしている者がいる可能性を考えて、うみに尋ねるアルフレリック。
(……さて、どうしたもんか)
うみは内心で首を捻った。証明しろと言われても、すぐ示せるものは自身の実力くらいだ。
だが、それを見せたところで「強い」という証明にはなっても、「奈落にいた」という証明にはならない。
そもそも、相手が奈落の存在すら知らない以上、何を見せれば証明として成立するのかが分からない。
少しだけ面倒くさそうな顔をして考え込むうみに、ユエが小さく服の裾を引いて提案する。
「……うみ、魔石とか、オルクスの遺品」
「ああ、そっか。それなら……」
うみはポンと手を叩き、『カゴ』から地上の魔物では有り得ないほどの質を誇る魔石をいくつか取り出し、アルフレリックに見せた。
「こ、これは……こんな純度の魔石、見たことがないぞ……」
アルフレリックも内心驚いていたが、隣の虎の亜人が驚愕の面持ちで思わず声を上げた。
「あとは、これ。一応、オルクスが付けていた指輪」
そう言って見せたのは、オスカー・オルクスの指輪だ。アルフレリックは、その指輪に刻まれた紋章を見て目を見開いた。
そして、気持ちを落ち着かせるようにゆっくり息を吐く。
「なるほど……確かに、お前さんはオスカー・オルクスの隠れ家にたどり着いたようだ。
他にも色々気になるところはあるが……よかろう。取り敢えずフェアベルゲンに来るがいい。
私の名で滞在を許そう。ああ、もちろんハウリアも一緒にな」
アルフレリックの言葉に、周囲の亜人族達だけでなく、カム達ハウリアも驚愕の表情を浮かべた。
虎の亜人を筆頭に、猛烈に抗議の声があがる。それも当然だろう。
かつて、フェアベルゲンに人間族が招かれたことなど無かったのだから。
「彼等は、客人として扱わねばならん。その資格を持っているのでな。それが、長老の座に就いた者にのみ伝えられる掟の一つなのだ」
アルフレリックが厳しい表情で周囲の亜人達を宥める。
しかし、うみは少し面倒くさそうに首を振った。
「悪いけど、こっちも長居するつもりはないし、フェアベルゲン自体にも興味はないんだ。
問題ないなら、このまま大樹に向かわせてもらうよ」
「いや、お前さん。それは無理だ」
「……『ダメ』じゃなくて『無理』? なんで?」
拒絶ではなく、不可能であるかのように告げられたことに疑問符を浮かべるうみに、むしろアルフレリックの方が困惑したように返した。
「大樹の周囲は特に霧が濃くてな、亜人族でも方角を見失う。
一定周期で霧が弱まるから、大樹の下へ行くにはその時でなければならん。
次に行けるようになるのは十日後だ。……亜人族なら誰でも知っているはずだが……」
アルフレリックは、「今すぐ行ってどうする気だ?」とうみを見たあと、案内役のカムを見た。
うみは、聞かされた事実に呆れたように息を吐いた後、アルフレリックと同じようにカムを見た。
そのカムはと言えば……。
「あっ」
まさに、今思い出したという間抜けな表情をしていた。
うみは思わず頭に手を当て、深く、ひどく深いため息をついた。
「……カム?」
「あっ、いや、その何といいますか……ほら、色々ありましたから、つい忘れていたといいますか……。
私も小さい時に行ったことがあるだけで、周期のことは意識してなかったといいますか……」
しどろもどろになって必死に言い訳するカムだったが、
うみとユエからの冷ややかなジト目に耐えられなくなったのか、突如として逆ギレしだした。
「ええい、シア、それにお前達も! なぜ、途中で教えてくれなかったのだ! お前達も周期のことは知っているだろ!」
「なっ、父様、逆ギレですかっ! 私は、父様が自信たっぷりに請け負うから、てっきりちょうど周期だったのかと思って……つまり、父様が悪いですぅ!」
「そうですよ、僕たちも、あれ? おかしいな? とは思ったけど、族長があまりに自信たっぷりだったから、僕たちの勘違いかなって……」
「族長、何かやたら張り切ってたから……」
逆ギレするカムに、シアが更に逆ギレし、他の兎人族達も目を逸らしながら、さり気なく責任を擦り付ける。
「お、お前達! それでも家族か! これは、あれだ、そう! 連帯責任だ! 連帯責任! うみくん、罰するなら私だけでなく一族皆にお願いします!」
「あっ、汚い! お父様汚いですよぉ! 一人でお仕置きされるのが怖いからって、道連れなんてぇ!」
「族長! 私達まで巻き込まないで下さい!」
「バカモン! 道中の、うみくんたちの容赦のなさを見ていただろう! 一人でバツを受けるなんて絶対に嫌だ!」
「あんた、それでも族長ですか!」
亜人族の中でも情の深さは随一の種族といわれる兎人族。彼等は、ぎゃあぎゃあと騒ぎながら互いに責任を擦り付け合っていた。
情の深さは何処に行ったのか……流石、シアの家族である。総じて、残念なウサギばかりだった。
(……嘘でしょ、この子ら……)
うみは、彼らのあまりのポンコツっぷりに頭痛を覚え、呆れ果てて深く長いため息をついた。
だが、うみが彼らをどう処理するか考えるよりも早く。
うみが疲れたようにため息をついたのを見たユエが、スッと無表情のまま一歩前に出た。
そして、有無を言わさぬ動作で右手を天へ向けて掲げる。
それに気がついたハウリア達の表情が引き攣った。
「まっ、待ってください、ユエさん! やるなら父様だけを!」
「はっはっは、何時までも皆一緒だ!」
「何が一緒だぁ!」
「ユエ殿、族長だけにして下さい!」
「僕は悪くない、僕は悪くない、悪いのは族長なんだ!」
喧々囂々と騒ぐハウリア達。うみが「あ、ちょっとユエ――」と止める間もなかった。
ユエは薄く冷たく笑い、静かに、しかし絶大な魔力と共に呟いた。
「――『嵐帝』」
―――― アッーーーー!!!
天高く舞い上がる、無数のウサミミ達。
巨大な竜巻のごとき暴風に巻き上げられ、樹海の空の彼方へと、ハウリア族の悲鳴が木霊して消えていく。
「…………」
見えなくなったウサギたちを空を仰いで見送った後、うみは小さく肩をすくめた。
「……まあ、こればっかりは仕方ないか」
自業自得。同情の余地なし。うみはそう結論づけると、ポンポンとユエの頭を撫でてやった。
「ありがと、ユエ」
「……んっ」
うみに撫でられ、ユエはふんすっと自慢げに胸を張り、満足そうに喉を鳴らす。
同胞が攻撃(?)を受けたはずなのに、アルフレリックを含む周囲の亜人達の表情に敵意は一切なかった。
むしろ、全員が呆れた表情で天を仰いだまま硬直している。
彼らの生暖かい表情が、何より雄弁にハウリア族の残念さを示していた。