わたしが計画した「ご近所さん安心作戦」は最初、このようなものでした。
その一、まずご近所のナントカさんと仲良くなって、わたしが一人でなんでもできることを知ってもらう。
その二、そのナントカさんの口から他のご近所さんに「あの子はしっかりしている」と広めてもらう。
その三、ご近所さんは「あの子はしっかりしてるし、ご近所のナントカさんもいるから安心ね」と思う。
この「ナントカさん」というのは、決まっている誰かというわけではありません。ある程度人付き合いが好きそうな人であれば誰でもよくて、わたしはお隣に住んでいる、おしゃべり好きな会社員のお姉さんはどうかな、と思っていました。そのため、こうしておかずを持って彼女の部屋のインターフォンを押したのです。うまくいけば、仲良くなるきっかけになり、「花々見一色は料理ができる」と知ってもらえる、一石二鳥のアイデアでした。
けれど、百夜さんのいうことには、彼女はお仕事の事情で一月ほどお家に帰ってこないというのです。
「そうだったんですか……じゃあ、仕方ないですね」
わたしは俯いて、お盆に乗った二つのお皿――きゅうりの和え物と、枝豆のサラダを見ました。
(食べきれない分はとりあえず、冷凍してしまうとして……)
それより、問題はお隣のお姉さんがあと一月は帰ってこないということです。流石にそんなには待っていられないので、他の「ナントカさん」を探さなくてはなりません。
どうしようかな、とわたしは唇を尖らせました。
「これ、一色ちゃんが作ったのか?」
「え? あ、はい。そうです」
わたしがうなずくと、百夜さんは感心したようです。そして、「もし、一色ちゃんが良いってんなら、だけど……」とちらちらお盆を見ながら頭をかきます。
「それ、俺んとこで貰っていいか?」
え、とわたしは目を丸くしました。聞くと、百夜さんはあまり自分でご飯を作るのが得意でないようで、今日も、ちょうど今からお店にお惣菜を買いに行くところだったそうです。
――百夜さんは人付き合いが好きそうですし、「ナントカさん」には適任です。
けれど。
わたしは『Dr.STONE』という漫画が好きでした。「石神千空」を始めとして、キャラクターたちが作っていく物語が好きでした。つまり、ファンです。石神さん親子がお隣さんだと知ってから、はっきり言って、「できることならお近づきになりたい」……そういうやましい心でいっぱいです。
……けれど、もしわたしが関わったことでストーリーが良くない方向へ向かってしまったら?
そんなことになったら、目も当てられません。
わたしのような何でもない人間と関わったくらいで、彼らの人生に影響なんてないかも、とも思いました。けれど、精密機器は小さなチリ一つが入り込んだだけで壊れてしまいます。ちょうちょの羽ばたきが遠くの地で竜巻を起こすことだってあるかもしれません。
絶対にありえないと言い切れない以上、辛いけれど、ファンとしてここは自分を律するべき――「ええ、いいですよ! ぜひ貰ってください」
――だというのに、そんな決意と反対に、わたしの口は勝手に動いていました。
「いーのか?!」
百夜さんの顔がぱっと明るくなります。
「――………………あっ!」
わたしは慌てて口を抑えかけましたが、両手はふさがっていました。
――言い訳をさせてください。たとえ大人の記憶を持っていようと、今のわたしは小さな子どもで、そして子どもというのは、自分の心に正直なものなのです。
要するに、わたしは自分を律することができるほど精神が育っていないのです。
「え、ええ。あ、美味しくなかったら返してもらって構いませんので。それじゃあ、わたしはこれで帰――」
百夜さんにお盆を押し付けようとしましたが、彼はわたしの話を聞いているのかいないのか、じっと和え物を見つめていたかと思うと、かけていたラップを取って、きゅうりをひょいと摘まんで口に入れました。
「えっ」
ぽりぽり。百夜さんは真剣な顔つきできゅうりを食べています。料理には慣れていますが、慣れているのと、美味しく作れるのとはまた別の問題です。特に最近は自分で作って食べるばかりで、人に作って食べてもらうことがありませんでした。口に合うだろうか、わたしはハラハラドキドキしながら、じっと見守ります。
百夜さんは良く噛んだあと、ごくんと呑み込んで、次の瞬間、カッ! と目を見開きました。そしてこぶしを握り、
「うううううぅまあぁあああいいいいいぞおおおおおぉおおおおお!!」
と、口から怪光線を吐き出しそうな感じの叫び声を上げました。わたしは危うくお盆を取り落としそうになりながら、引きつった笑顔を浮かべました。
「あ、味皇様とはまた懐かしいネタを……」
百夜さんの歳を考えると、ちょうど子供の頃にアニメを観ていたのでしょうか? 大人のわたしが生きていた二〇二〇年代では「懐かしい」どころか知らない人の方が多いかもしれません。
さて当の百夜さんは、わたしの呟きが聴こえていなかったようで、「冗談抜きでめちゃめちゃうまいぜ、コレ」と、嬉しそうにもう一つきゅうりを食べています。
「それはよかったです。ではでは、わたしはこれで――」
急に、ガチャリと百夜さんの背後のドアが開きました。
「うるせえ馬鹿百夜! メシ買いに行くんじゃなかったのかよ!」
ドアの向こう、片耳に小指を突っ込んだ白菜頭の男の子が現れました。男の子は百夜さんを睨んで「叫ぶな! 近所迷惑だろ、非常識かテメーは」とものすごく真っ当なお説教をしたあと、わたしを見ます。「誰だ?」
「あ、と、隣の花々見一色です」
まっすぐな目に見つめられて、わたしはドキドキしながらお辞儀をしました。
「いたか? ンな苗字のやつ……」
「えっと、最近引っ越してきたので」
「あ゛ー、なるほどな。俺は石神千空、そこにいる馬鹿の息子だ」
千空くんは「馬鹿」と言いながら百夜さんを見ました。わたしが言うのもどうかと思うけれど、この子は本当に子どもなのでしょうか。大人の知識があるわたしより、ずっと大人に見えます。
「で、ウチの前で何してんだ?」
その質問には百夜さんが答えました。
「作りすぎたってんで、おかずを分けてくれたんだ。千空も食ってみろ、ビビるくらいうめーぜ」
「ほ、褒めすぎです」
顔の辺りがぽっ、と暖かくなりました。こんな風に大げさなくらいに褒められたのは大人の記憶を含めても初めてです。
千空くんは「ホントかよ」と呟きながら、きゅうりを食べました。
もぐもぐ、ごくん。
呑み込んだあと千空くんは普通の顔をして「普通」と言い、もう一つきゅうりを食べます。
(ふ、普通かあ)
少しショックでした。でもよく考えてみれば、百夜さんが大げさだっただけで、千空くんの反応が当たり前です。わたしは料理のプロでもなんでもないのですから。
ともかく、長居は不要でした。
「あの、わたしそろそろ帰――「普通ゥ~? 何言ってんだ千空!」
わたしの言葉を遮って百夜さんはそう言うと、きゅうりを一つ食べました。
「めちゃくちゃうめーじゃねえか!」
「あ゛あ゛? 何でもかんでも大げさなんだよ、百夜は」
千空くんは百夜さんを睨みながら、きゅうりを一つ食べました。「100憶%、普通の味じゃねーか」
その瞬間、二人の間で何かの戦いが始まったようでした。彼らは「美味い」「普通」と言い合いながらひょいぱく、ひょいぱく、きゅうりを食べ続け、お皿はあっと言う間に空になりました。
「……おかわり、いります?」
わたしはちょっとドキドキしながら言いました。
二人は黙ってうなずきました。