どうしてこんなことになったんだろう。とわたしは思っていました。
どうして、本当にどうしてこんなことになったんだろう。
隣には千空くん、向かいには百夜さんが座っています。
わたしたちは一つの食卓を囲んで、夕ご飯を食べていました。食べると言っても、わたしはほとんどロボットのように噛んで呑み込むという動作を繰り返しているといった感じで、何を食べても全く味がしません。箸を持つ手が震えています。
「一色ちゃんも一緒に食っていかねーか?」
そう言われたとき、わたしは断ろうと思いました。確かに断ろうと思ったのです。
ですが、実際に口を突いて出たのは「ごめんなさい」でも「遠慮しておきます」でもなく、「いいんですか?」でした。
(とりあえず、さっさと食べて帰りましょう)
わたしは本当に、自分が情けない。いくら幼児とはいえ、まったく、自制心というものが欠片もないのです。これでは動物と変わりありません。いえ、犬でさえ「待て」ができるのですから、動物以下です。
「――、なあ、一色ちゃん、」
「えッ、あ、はい、わたしはミジンコです!」
「はっ? ミジンコ?」
百夜さんは目をぱちぱちさせました。千空くんは「なんだ、ミジンコって」と首を傾げています。
「……わ、忘れてください」
わたしは両手で頬を包みました。今鏡を見たら、きっとそこには顔を真っ赤にしたわたしが映っていることでしょう。
「ミジ……ぶ、ふッ…………一色ちゃん、きょ、今日は、パパの帰りは、ヒヒ、遅いのか?」
必死に笑いを堪えながら(実際のところ、頑張ってはいるようですが、堪えられていません)、百夜さんは尋ねます。
「今日は……そうですね、遅いと思います」
というより、最近はずっとそうなんです。と、児童相談所の人にしたのと同じように、「最近お父さんは仕事が忙しくて、朝は早くて夜は遅い」という話をしました。
「それは……寂しくねーのか?」
「平気ですよ。わたし、ご飯作ったりお洗濯したり、自分のことは自分でできるので」
「そーいうことじゃなくてだな……」
百夜さんは頭をかきました。ちょっとだけ千空くんの方を見て、それから、うーん、と唸っています。
千空くんがわたしの肩をぽんぽんと叩きました。
「なあミジンコってなんだ??」
「……えーと、できれば忘れてほしかったんですけどね、そのくだり」
わたしよりもさらに小さい子ですし、そんな気遣いはできない――というより、原作の彼の様子からして、元々気になったことはそのままにしておけない性格なのでしょう。
「ミジンコはですね、浅い池や水田にいる、プランクトンという水中に浮かんで生活している小さな生き物の仲間です」
こんなの、とわたしは箸とお茶碗を置いて、両腕を前に突き出し手首から先の力を抜いてだらんとさせます。
「そこから、喩えとして『大したことないヤツ』みたいな意味で使われることもあります」
「あ゛? ガキだっつーのにこんだけメシ作れんだから、大したことねえことねえだろ」
千空くんは呆れたように言って、枝豆サラダを一口食べました。
「自分より年上の子をガキ扱いって……千空お前、どういう保育園児だ……?」
何かを考えこんでいた百夜さんが思わずといった感じでツッコミを入れます。
「でもま、確かに一色ちゃんはスゲー。大人でも料理できねえ奴は少なくねえし……俺もその辺からきしだかんなー。作りたてのメシ食うのも久しぶり…………――あ!」
ハッと顔を上げて、百夜さんはまっすぐわたしを見ました。「な、なんですか?」今日はやたらと褒められる日です。身体が熱くて、心臓がドキドキして、五〇年くらい寿命が縮んだに違いありません。
「一色ちゃん!」
「は、はい!」
「俺らは……――いつでも作りたての美味いメシが食いてえ!」
「は、はい!」
なんというか、かなり切実な感じです。
「つーことで、情けねえ話だが俺と千空に料理、教えてくんねーか!」
「ええ、いいですよ!」
即答。
「…………あ!」
慌てて口を抑えましたが、そんなことをしたって、何の意味もありません。
「あ゛あ゛? なんで俺まで……」
「できて損はねえだろ?」
「そりゃそうかも知んねえけどよ」
(い、言わないと。『すみません、やっぱりなかったことに』、『すみません、やっぱりなかったことに』……)
頭の中で何度も台詞を繰り返しますが、声にはなりません。「どうして」なんて、考える前から分かっています。わたしは今この状況を、本当のところでは嬉しく思っているのです。
「よし、なら土曜……明後日の昼とかどうだ?」
「ええ、いいですよ!」
即答。
(……やっぱり、わたしはミジンコです!)
いいえ、ミジンコ以下です。このまま百夜さんと千空くん、二人と仲良くなれたなら……ついついそんな風に思って自分を大事にしてしまう、汚れた存在なのです。
(ちゃんと、言わないと)
でないと、ファン失格です。わたしはお腹に力を込めました。
「……あ、あのやっぱり、なかったこ――「いやー、土曜日が楽しみだなあ、千空!」
わたしは枝豆を一粒、奥歯で噛み潰しました。何の味もしませんでした。
結局断ることができないまま、あっという間に時間は過ぎ、……集合時間の一〇時半、わたしは買い物袋とトートバックを持って、お隣のインターフォンを押しました。
(とりあえず今日だけはきちんとやって、……で、『やっぱり無理です』って断りましょう)
待っているとすぐにぱたぱたと足音がして、ドアが開きました。出迎えてくれたのは千空くんで、わたしの顔を見ると「あ゛ー」と気まずそうに明後日の方向を見ました。そうして深く息を吐くような声で一言、
「百夜は、出てった……」
と呟いて、目を伏せます。「えっ」わたしは持っていた買い物袋とトートバッグを取り落としました。
「――い、家出ですか?」
「ちげーよ! 三〇近え男がするか、家出!!」
はわ、と後ろに一歩下がったわたしに、千空くんの尖ったツッコミが突き刺さりました。
話を聞くと、なんでも今日の朝に急な用事ができて、勤めている大学に向かったっきり、帰ってこないのだそうです。
(このままなあなあで『なかったこと』にできませんかね~)
と、算段をつけ、「じゃあ、また後日にでも」とわたしが言いかけたところで、千空くんは「約束の時間には戻るつってたが……電話もしてこねえってことは相当忙しいんだろ」とちょっと寂し気に、目を自分のつま先に向けました。
「……!」
そのとき初めて、わたしは『Dr.STONE』の主人公「石神千空」ではなく、目の前にいる小さな男の子・千空くんを見ました。
ミ゛ーンミ゛ンミン。近くの木に留まっているのでしょうか、急に騒がしくミンミンゼミが鳴き始めます。
(そう、ですよね……大人びて見えますけど、まだ四歳とか、そのくらいですもんね)
この子は生きて、息をして、血が通っている生身の人間です。お父さんが恋しい年頃の、普通の男の子です。
物語という予定調和の中にいる、空想の住人ではないのです。わたしはどうして、そんなことも分からなかったんでしょう。
「っつーわけで、今日は無理だ――「……いえ、それならわたしたち二人でやりましょう!」……は?」
よし! とわたしは袖を捲りました。わたしのどうでもいいファン心とか起こるかもわからないバタフライ何とかだかエビフライ何たらとか、そんなことよりも目の前の男の子を笑わせて、美味しいものを食べさせてあげる方がよっぽど大事です。
「ではでは、『一色先生の楽しいお料理教室』、開講といきましょうか!」