【仮題】ドリジャ男性観破壊RTA 作:花火師
「はぁ……全く、あなたというヒトは。本当に、本当に――私を困らせるのが好きらしい」
呆れとも、諦めともつかない息を吐く。
空っぽのトレーナー室。机の上に残されていたのは、たった一枚の付箋。
『少々長居が過ぎた。気が向いたから旅に出ます。色々と頼んだよ』
そして、その隣に置かれた――彼の署名だけが記された、2枚の契約解除の書類。
「……全く、ふざけている」
三年間。
共に走り抜けた旅の末に残されたのが、これとは。
指先で紙をなぞる。インクは新しい。部屋には未だ甘いミルクのような彼の匂いが残っている。つい先程まで、ここに居た証。
「――ですが」
小さく、笑みが零れた。
彼は、私が選び、決めた“導き手”。ならば結論は一つだ。
「逃がすつもりはありませんよ、トレーナーさん」
”旅”という単語が好きだった。
長くを生き過ぎる自分の人生において、”旅”とは常に新しい何かとの邂逅や、見知った何かとの離別をもたらす特別なものだった。
要するに自分にとっての”旅”とは、この長い生に退屈しないための、都合の良い娯楽の総称に過ぎなかった。
――あの日までは。
”ウマ娘”という存在が、あまり好きではなかった。
自分とよく似た姿をしていながら、決して同じではないもの。
それでいて彼女たちは、当たり前のようにヒトの社会に溶け込み、誰に憚ることもなく生きている。
その姿が、どうしようもなく眩しくて――そして、少しだけ羨ましかった。
彼女達を理解しようとしたことはある。生き方を、多少なりとも学びもした。
その上で、やはり自分には、あの在り方は出来ないと悟ってしまった。
だからこそ、距離を置いた。
だからこそ、好きではないと思っていた。
――これも、あの日までは。
ある日、なんとなくウマ娘のレースを見た。
気紛れだった。たまたま通りがかったから、という程度の理由だったと思う。
興味なんて、なかったはずだった。
『――しかしその外からは懸命にステイゴールドも上がってくる!!』
そこで。
自分は、”黄金”を目撃した。
――否。
あれは、”黄金”などという言葉で収めていいものではなかった。
泥を跳ね上げ、他の背中を追い、決して届かないかもしれない差に手を伸ばし続けるその姿は、どこまでも不格好で。
それでいて。
どうしようもなく、目を引いた。
勝てないかもしれない。届かないかもしれない。
それでもなお、前へ。
ただひたすらに、前へ。
――ああ。
なんだ、これは。
胸の奥が、ざわつく。
今まで知っていたどんな”娯楽”とも違う。
消費して終わるものではなく、ただ眺めて次に行くためのものでもない。
目が、離せない。
『――ステイゴールド、届くか!? いや、しかし前も粘る!!』
観客の歓声が、遠くなる。
ただ一人、その背中だけが、やけに鮮明に焼き付いていた。
――ああ、なるほど。
これが、”旅”か。
自分が知っているものとは、まるで違う形の。
終わりの見えない、誰かの人生そのものを賭けた、逃げ場のない”旅”。
そしてその中心にいるのが――
自分が、好きではなかったはずの存在だというのだから。
笑える話だ。
あれだけ距離を取っていたというのに。
たった一度、見ただけで。
こんなにも、引きずり込まれてしまうなんて。
……気付けば、口が動いていた。
「……もう一回、見よう」
理由なんて、分からない。
ただ。
あの”黄金”の続きを、見てみたいと思った。
思えばそれが。”俺”の人生における、2度目の始まりだった。
「3年間、ご指導ありがとうございました」
日本ウマ娘トレーニングセンター学園。生徒数2000を超えるマンモス校にして、日本最高峰のウマ娘育成機関。その一角にあるとあるチームのトレーナー室で、スーツの上から赤いちゃんちゃんこを羽織った男が、丁寧に頭を下げていた。
外見だけ見れば40代ほどにも見えるが、髪の色はすでに抜けきっている。年齢を推し量ろうとしても、どうにも定まらない。
――異質な風体だった。
「いえ、こちらこそ……本当に、色々と気付かされることがありました」
対する女性トレーナーは、その姿に既に慣れているのか、穏やかに頭を下げ返す。
「……それで、御旅屋さんも今年から担当を持つおつもりなんですよね」
「ええ、そのつもりです。やよいちゃ――失礼、秋川理事長に就職時からつつかれ続けて早三年。流石にこれ以上は怒られてしまいそうで」
頭を掻きながら苦笑する御旅屋に、女性トレーナーも思わず口元を緩める。
「ふふっ、そうですか。でも、私は理事長の意見に賛成ですよ。正直なところ、貴方は最初から担当を持っても良かったと思っています」
「いえいえ、買い被りですよ。なにより、トレーナーの資格を取ったのだって、もう半世紀近くも前の話ですから。流石に復習もせずに担当を持つのは、少し気が引けましてね」
「……真面目ですね」
そう言われて、御旅屋はわずかに肩をすくめる。
「真面目、というわけでもありませんよ。ただ、少し臆病なだけです」
その言葉に対して、女性トレーナーは何も返さなかった。返せなかった、という方が正しいかもしれない。
目の前の男は、冗談めかして笑っている。だが、その笑みの奥にあるものは、軽く受け流していい種類のものではないと、直感が告げていた。
「さて、そろそろ選抜レースの時間ですね。僕はさっそくスカウトにでも向かうとします」
「あ、はい。頑張ってくださいね」
「ありがとうございます。では、改めて三年間、お世話になりました」
一拍、間を置いて。
「それと――敵同士となった際は、ご容赦を」
「それは無理な相談ですね」
「ははは、ですよね。冗談です」
軽く手を振り、御旅屋は踵を返す。
そして今度こそ、本当に。
彼はトレーナー室を後にした。
走るのが好きだった。ウマ娘としての性質か、それとも己の気質か。そんなことを考える暇もないほどに、ただ走ることが好きだった。
だから当然、先達に憧れを抱いた。
「また、笑顔」
例え負けても、あの人は笑っていた。
常勝とは言えない。名脇役と評されることもある。それでも、その黄金の旅路は、多くの人の胸を打っていた。
――私も、その一人だった。
幾度となく、
きっと皆、同じものを見ていたのだろう。
勝敗ではない何かを。結果ではなく、その過程にある輝きを。
いつからだろうか。あるいは最初からだったのかもしれない。ある時から、アネゴのレースで妙な香りを感じるようになった。
日に焼けた机と、メニューの置かれた古びた喫茶店。誰かに差し出されたホットミルク。そう表現するのが一番しっくりくる、どこか懐かしく、落ち着く香り。
最初は気にも留めていなかった。
だが、いつしか。その香りがする場所にいると、ほんの少しだけ、心がほどけるような感覚に気付いた。
理由は分からないけれど、それはあの人の走りを見ている時の感覚に、どこか似ていた。
だからだろうか、レースの後、その香りを探すことが、いつしか当たり前になっていた。
「はぁ……なんとか間に合いましたね……」
そんなある日のアネゴのレース。
あいにくの空模様。降りしきる雨による交通機関の僅かな乱れ。多少は計算に入れていたはずなのに、その日は妙に歯車が噛み合わなかった。
その結果として、良い席を逃してしまった。
「ふむ、どうしたものか……」
立ち見という選択肢もある。だが悲しいかな、私は小柄だ。この人混みの中では、レースの半分を見逃す羽目になるだろう。
――さて。
どうしたものかと視線を巡らせた、その時。
あの香りが、した。
今までとは比べものにならないほど、はっきりと。すぐ近くから。
まるで、「ここにいる」とでも言うように。
「そこの、素敵なグラスコードのお嬢さん」
――声と香りに導かれるように、顔を上げる。
「良ければだけど、僕と一緒に前の方で見ないかい?」
そこにいたのは、黒いトレンチコートに身を包む、穏やかな笑みを浮かべた男だった。
人を疑うことを知らないが故に絶滅しかけたペンギン。そんなものを、何故か連想してしまうほどに無防備で、優しい顔。
――けれど。
その”何か”を映す楽し気な目だけが、少しだけ長く、遠くを見てきたような色をしていた。
「……いいんですか?」
「もちろん。せっかく来たんだ、ちゃんと見た方がいい」
差し出された言葉は、あまりにも自然で。
あまりにも、抵抗する理由が見つからなかった。
――この時の私は、まだ知らない。
この出会いが、どれほど長く、逃げ場のない“旅”の始まりになるのかを。
ただ。
その香りに導かれるままに、一歩を踏み出した。
それだけだった。
――これが、私と“私の”トレーナーさんの出会い。
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