作:よく

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抜けない棘
プロローグ


 私は、死ぬのだ。

 

 

 

 

 分厚い窓ガラス越しに、波打つように朝日が入ってくる。ぼんやりと漂ってくる未だ馴染みのない料理の匂いで、だんだんと意識がはっきりとしてきた。

 身だしなみを整えて部屋を出ると、おじさんとおばさんがいつものように笑顔で迎えてくれた。私の片言の挨拶に、二人は温かく応えてくれる。

 日本にいた頃を思えば質素だが、温かい朝食を食べ、食後におばさんと一緒に片付けをする。

 

「ミノリ」

「なに?」

 

 おじさんが背負子を片手に何か言っている。私は集中して聞き取る。

 「薪」、「拾う」、「夕方」、「帰ってこい」――。

 私は頷き、「マキ、ヒロウ、行く。『……えっと』……早く、帰る」と返す。

 おじさんが笑顔で頷き私の頭を撫でる。こうされるとまるで幼子になったかのようで――実際に幼子なのだが――恥ずかしい。だが悪い気はしなかった。

 

 おじさんが仕事に行くのを見送った後、おばさんの手伝いをする。

 ある程度手伝うと「もういいよ」と優しくおばさんが言う。私は背負子を背負って玄関に向かう。おばさんが見送りに来てくれた。

 

「いってらっしゃい」

「いってきます」

 

 フードを深く被る。外に出る。遠くを見やっても山や木々は見えない。かわりに地平線をすっぽりと覆うような大きな壁が見える。

 毎朝この瞬間に実感する。

――ここは、『進撃の巨人』の世界なのだと。

 

 

 

 パラディ島。三重の壁で守られた――或いは囚われた狭い世界。その最南端にあるシガンシナ区。

 私はそこに十に満たない幼子の姿になってトリップした。

 

 『進撃の巨人』の世界は地獄である。

 巨人、人、諸外国――。数多の脅威と思惑がパラディ島に手を伸ばしている。

 その上、トリップした場所はシガンシナ区。超大型巨人が現れる地である。

 私は絶望した。

 

――それでも、絶望だけではなかった。

 

 人々は皆、善き人々だった。壁に囲まれた世界で彼、彼女らはたくましく生きていた。

 

 シガンシナ区を出たかった。

 でも、それは現実的ではなかった。

 この狭苦しい島の、何処に行けばいいのだろうか。どこに行けるのだ。どこで生活ができるのだ。

 何よりも手を差し伸べてくれた人を見捨てることはしたくなかった。

 

 だから、私は、死ぬのだ。

 

 

 

 近所のパン屋のおじさんに挨拶をする。小さなパンを渡される。断っても押し付けられる。

 困った。

 だけど絶対におじさんはパンを渡すだろう。そういう人だった。「ありがと」と言ってパンを受け取る。パン屋のおじさんが、にっこりと笑った。

 

 パンを片手に歩いていると、五つか六つの男の子に話しかけられる。顔見知りの子だ。

 その子の舌足らずで早口の言葉は聞き取りづらい。それでも表情や声音から悪いことは言っていないのだろうなと思える。

 私はうんうんと頷きながら話を聞いた。

 言葉の洪水が収まったので、パンをちぎって大きいほうを差し出した。

 

「アゲル」

「いいの!?」

「うん」

「ありがとう!」

 

 少年は道端に座るとパンを食べる。私も隣に座ってパンを齧る。おいしい。

 

 頃合いを見計らい立ち上がる。

 

「じゃあ、ね」

「うん。またね! おねえちゃん!」

 

 ほどなくして辿り着いた人の手が入った林で薪を拾い、背負子がいっぱいになると、帰途につく。

 帰ったら二人に「ただいま」と言って、おばさんと一緒に夜ご飯を作る。食後に二人から文字を教えてもらう。そうして、また、明日が来る。

 終わりが来るその日まで。

 

 林を出る頃には陽が落ちてきた。中世風の街並みが夕暮れに染まっている。私は眩しさに目を細め、近所の人に挨拶を返す。

 

――瞬間、雷光が迸った。

 

 揺れる地面にたたらを踏み、打ち付けた尻をさすった私は、まだ生きていた。

 見上げる。壁の外から超大型巨人が姿を覗かせている。思わず唾を飲む。今日が、終わりの日だ。

 幸か不幸か初動で潰されることはなかった。だが、遅かれ早かれ死ぬだろう。恐怖が腹の底からじわりと染み出る。後ずさってから拳を強く握る。震える体で、滲む視界で決意を固めた。

 

 助けてくれた人々を、見捨てられなかった。

 誰か一人でも救えるかもしれない。

 

 私は人々の流れに逆らい家へと向かって駆けた。

 

 駆けて、駆けて、駆けて。地獄のような光景の中を進み続けて、やがて、家が見えてきた。

 

 そして、足が。

 

 鎧に包まれたかのような巨大な足が。全てを踏みにじり皆殺しにした。

 ぶちぶちとみんなが殺される。おじさんが潰される。おばさんが悲鳴を上げる。パン屋のおじさんが巨人に喰われる。幼い声の絶叫が聞こえる。誰も彼もが内臓を腹から溢し、苦悶を浮かべ、死んでいく。

 

 だけど、私は生きていた。

 

 疲労感も徒労感も憎悪も忘れて、見上げた。彼の。仇敵の瞳を。

 その双眸は壁を見ている。王家を見ている。始祖の巨人を、任務を、故郷を見ていた。

 

 鎧の巨人は地表を這う蛆虫のような私を一瞥たりともせずに、壁を破壊した。

 

 降りしきる瓦礫の中で蹲る。

 常識も言葉も文字も何も知らない面倒でしかない存在を、拾って育ててくれたおじさん、おばさん。可愛がってくれた近所の人。慕ってくれた子。

 

 みんな、彼に、ライナー・ブラウンに殺された。

 

 私は憤怒の声というには弱々しく、嗚咽というには枯れた声で呻いた。

 

 私だけが、生かされた。

 

 

 

 

 その後のことは、断片的にしか覚えていない。

 運よく駐屯兵団に保護され、気づいたら開拓地に送られていていた。

 

――そして、二年があっという間に経った。

 

 

 

 

 目が覚める。

 やることは昨日と何一つ変わらない。鍬を手に土を耕し続ける。

 それだけが私のやるべきことだった。

 

 エレン、ミカサ、アルミン。或いはライナー、ベルトルト、アニ――。

 シガンシナ区に住んでいた私は彼、彼女らと同じように開拓地で暮らしていた。

 

 今日も昨日も一昨日も。この二年間毎日、開拓をして過ごした。

 世論は訓練兵を一人でも多く求めていたが、私には関係のない話だ。今年は――八百四十七年だけは、104期訓練兵になることは絶対に嫌だ。

 なにせ、マーレの戦士たちがいて、エレンの同期になり、解散式の次の日に超大型巨人が襲撃するのだ。

 知っていて地獄に足を踏み入れる必要が果たしてあるのだろうか。

 

 その上、原作の流れが変わってしまったら、巨人のいない未来も――最低でも――百年の平和も訪れなくなってしまう。

 だからずっと、昨日や今日のような生活が続くだろう。死ぬまで。

 

 ふいに風が吹き荒んだ。からからに乾いた土が巻き上がる。顔を見られるわけにはいかない。私は顔をしかめてフードを深く被った。

 

 シガンシナ区にいた頃はまだよかった。日本人――東洋人風の顔立ちの私でも、おじさんやおばさん、近所の人たちが守ってくれていた。

 だが、この開拓地では誰もが皆、自分のことで精いっぱいだった。親戚も縁者もいない私を、庇護してくれる大人は誰もいなかった。

 だから絶対に顔を見られるわけにはいかない。

 

――そう思っていたのに。

 

「おい」

 

 背後から声がした。振り返ると、開拓地のまとめ役をしている男が立っていた。

 

「いい加減、顔を見せろ」

 

 心臓が跳ねた。

 

「どう、して?」

 

 私は片言で返す。男が一歩近づいてくる。

 

「あ? そんなのどうでもいいだろ。いいから見せろ」

「で、も」

 

 フードを手でつかみ深くかぶる。だが、男の手が伸びてきた。

 私は身を縮こまらせて抵抗したが、やむなくフードが無理矢理、剥ぎ取られた。

 

「やめ――!」

 

 視界が一気に明るくなる。風が黒い色の髪を揺らした。

 心臓が早鐘を打っている。

 冷や汗で濡れた手でフードを被り直した。だが、もう遅いのだ。

 

「――東洋人だ」

 

 男の目の色が変わった。

 

「おい! こいつを地下街の連中に売れば、一生遊んで暮らせる宝の山だぞ!」

 

 ミカサの両親が殺された映像が、脳裏を過る。

 端から見ればミノリ・タイレは東洋人だった。

 この世界における東洋人の価値を、私は知っている。捕まったら、悲惨な目に遭う。

 それに、ここを切り抜けたとしても、身寄りのない私はこの島のどこかで消費されることになるだろう。

 

 そんなの、いやだ。

 

 まだ、死にたくない。

 

 胸の裡のなにかに火が点いた。

 私はまとめ役の男の腕を振り払い駆けだした。

 

「待て!」

 

 背後から男の声が聞こえる。足音が追ってくる。

 

 駆ける。

 

 息が切れる。喉の奥が鉄臭い。足が痛い。何度も転びかけて、それでも走り続けた。

 

 もう、ここにはいられなかった。でも、どこに行けばいいんだ。どこにいれば虐げられない。どうすればいい?

 脳みそはぐちゃぐちゃだった。

 だが、やがて、光明のように考えが浮かんだ。

 

――後ろ盾が必要だ。 

 

 財も身寄りもない私の後ろ盾となってくれるもの。考えつくのは一つだけだった。

 

 兵団は、強固な後ろ盾となるだろう。

 

 私は震える拳を握り締めて、転びかけながらそれでも駆ける。

 

 せめて、今年だけは――八百四十七年だけは、104期訓練兵になることは嫌だった。

 でも、もう。そんなことを言っている余裕はない。

 訓練兵になって生きるか、このまま殺されるかだった。

 

 私は開拓地から逃げ出し、その日のうちに訓練兵団への入団届を提出した。

 

 私は選んだのだ。

 

 

 

 

「貴様の名前は何だ!?」

 

 キース・シャーディスの声が訓練場に響き渡った。

 私の隣に立つ新兵は必死に声を張り上げてそれに答えた。

 数回のやり取りの後、キース・シャーディスの視線が私を向く。私は正した姿勢のままそれを見つめ返す。数秒後、視線が逸らされた。

 そして次の人物に向かってキース・シャーディスは声をかけた。

 

 どうやら私はすでに洗礼を済ませていたようだった。

 

 洗礼の目的は一度人を真っ新な状態にすることだったか。

 どうだろうか。

 私はあのとき、みんなが目の前でぐちゃぐちゃに踏みつぶされた時に、何もかもがなくなった漂白された()になれていたのだろうか。

 今でも簡単にあのときの匂いを――血生臭く埃っぽい空気を思い出すことができる。

 それは、あのときの私が何もかもを奪われた後だから、真っ新な心に刻み込まれているのだろうか。それとも。根付いた憎悪が身を巣食っているのか。

 なにも、わからなかった。

 今はただ、緊張も拍子抜けもなく、胸の奥に鈍い疲労だけが残った。

 

 そうしているうちに、アルミン、ジャン、マルコ、コニー、サシャの通過儀礼も終わった。

 初日の講義――というか説明会――も終え、日が暮れたころ、私は兵舎から走るサシャを見下ろしていた。

 

 サシャは本当にあの緊張した状況でも芋を食していた。結果として私の知る通り彼女は初日にして罰則を受ける羽目になった。この世界の食糧事情を思えば、当然だろう。

 やがてふらふらになった彼女を、ヒストリア――いや、今はまだクリスタか――は女神のごとく救うだろう。そしてユミルがやってくる。

 

 そんな、すでに知っている事象を、わざわざ野次馬のように最後まで鑑賞する必要はない。

 私は窓から視線を逸らし、食堂へと足を進めた。

 

 

 

 固いパン。具材の少ないスープ。日本で生活していた頃を思えば、なんと貧しい食事だろうか。

 それでも落ち着いたところで温かく量のある食事を食べられることは、それだけでありがたいことだった。

 私は黙々と食事を進めた。

 

 一方で食堂は騒がしい。エレン・イェーガーを中心に話が盛り上がっていた。耳を傾けるまでもなく会話は聞こえてくる。

 

「――ウォールマリアを破った『鎧の巨人』は!?」

「それも見た。そう呼ばれているけど、オレの目には普通の巨人に見えたな」

 

 鎧の巨人――。その言葉を聞いた瞬間、匙を持つ手が止まった。

 踏みにじられる家屋、命、尊厳。

 五年前の地獄が、フラッシュバックする。

 

 思わず顔を上げそうになって、堪える。嘔吐きそうだった。必死に平静を装う。それでも堪え切れずにちらりと男を見て、しまった。

 一際がっしりとした金髪の男。ライナー・ブラウン。

 私の仇敵。

 

 彼は平然とした顔をしている。

 

 意識せずとも匙を持つ手に力が籠った。

 大脳皮質にはみんなの惨い死に方がこびりついている。

 あのときの酷い脂の焦げるような臭いも土埃の混じった空気も徒労感と憎悪も覚えている。忘れることができなかった。

 腹の底がぐらぐらと煮え立っている。

 

 だというのに、頭は冷静だった。

 憎しみが荒れ狂う一方で、もう一人の私が囁く。

 

――彼もまた、地獄で生きているのだ、と。

 

 彼らは洗脳教育を受けてきた。家族の安全のために戦士となった人もいた。

 悪意だけがあったわけではない。

 全てが仕方のないことだった。

 だから、封をする必要があった。

 

 それに、まだ十代の若者が敵地で潜入任務をしているのだ。その心中は穏やかなものとはいえないだろう。

 彼は。彼らと彼女は悪魔の巣窟で何を考えているのだろうか。

 

 私はぼんやりと皿を見た。

 先程までは有難みを感じていたスープも今や冷え、食欲も失せていた。

 それでも食べなければならなかった。明日の為にも生きなければならなかった。

 

 暗い思索を中断させるように、或いはエレンとジャンの諍いを中断させるように、就寝時間を告げる鐘が鳴り響く。

 私は味の薄いスープを強引に飲み込んで、今日からの宿に歩みを進めた。

 

 

 

 

 

 

 私は、死ぬのだ。

 そう思い続けていた。だが現実として生き延びてしまった。

 明日も、明後日も。きっと、この地獄で生きるのだ。

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