棘 作:よく
段々と日が翳ってきた。朝は快晴だったというのに、今となってはいつ雨が降ってもおかしくないような空模様だった。
ウトガルド城での窮地を乗り越えた私たちは、ひとまず、ウォール・ローゼまで移動することとなった。
馬房はやはり、潰されていた。
大きな岩――
馬は一頭も生き残っていない。
それが、ジーク・イェーガーの作戦だった。
私たちは本隊が連れてきた馬を借りて、ウォール・ローゼへと移動することになった。
名前も知らない馬に跨るとき、ふいに寂寥が胸をついた。
ぐっとなにかがせり上がってきて、体がくずおれそうになる。だが腹の底に力を入れて姿勢を正した。
ここで、うずくまっていて、いいわけがない。
昨晩とは異なり、日が昇った今となってはウトガルド城からウォール・ローゼまで、かなりの早さで到着することができた。
巨人が確認されていないとはいえ、壁が破壊されたとの報告が入ってきている。地上で待機するわけにはいかない。一刻も早く壁上に移動する必要があった。
そこで、立体機動装置を身に着けていない私たちのことは、調査兵がウォール・ローゼの上から引き上げてくれることとなった。
巨人化能力を持ち大怪我を負っているユミル。ウォール教の秘密を握る鍵であり、ユミルの友人でもあるクリスタ――ヒストリア。怪我をしているライナー。
まずはこの順番でウォール・ローゼの上まで移動することとなった。
「先に悪いな」
ユミルとヒストリアがウォール・ローゼ上に引き上げられるのを尻目に、ライナーは言った。
「気にすんなよ、ライナー」
コニーはそう言うと自嘲するように笑みを浮かべた。
「俺を庇って怪我しちまったんだから」
ライナーは仕方がないとでもいうように穏やかな笑みを浮かべると、コニーの肩を軽く叩いた。
コニーは驚いたあとに、表情を明るいものにした。それから冗談交じりに悪態をついた。ライナーはそれに応える。
感心するほどに、頼りになる兄貴分らしい行動だった。
そうしているうちに、上で待つ調査兵の準備が整ったのか、立体機動装置を利用した簡易リフトが降下してきた。ライナーはそれに向かう。
――あと、数分もすればライナーとベルトルトはその正体を明かす。これが、最期になるのだ。
どうか、私が死んだ暁には、そのことが棘のように突き刺さっていてほしい。それが簡単に、抜けないでいてくれれば、いい。
復讐だった。
同時に、誰かの記憶の中に私が残っていてほしかった。そういう人が、せめて一人だけでも存在していてほしかった。
悔いはない。思い残すことはない。それに、どうせ死ぬのだから、仕方がない。
私は、そう、言い聞かせて――。
本当に?
「――」
本当に、これでいいの?
「――……ライ、ナー」
口の中で転がすように独り言つ。その声は、まるで、喉が掴まれたかのように、掠れ、尻すぼみになった。
気づかれるはずがなかった。
気づかれなければよかった。
なのに、ライナーは振り向いた。
「ミノリ? どうしたんだ」
あなたは、ひょいっと片眉を上げて、腹立たしいほどに、いつもどおりの声で言った。
「……。……ん、……なんでもない、よ」
私もまた、いつものように、言う。
それに、あなたは僅かな沈黙ののちに「そうか」と言葉を返した。
「先に行ってるぞ」
「そっか。私も、あとから、行く……ね」
私は、利き手を振った。
あなたは一度、片手を上げて応じてから、リフトへと向かう。その後姿を、ただ見ていた。
私はコニーのあとに続いて、簡易リフトを使用した。
棒きれだけで作られたリフトは、以前までの、日本にいたころの私ならば、ぞっとするものだった。だが、今となっては流石に慣れた。
私は躊躇わず、リフトに乗った。
あっという間に壁上までたどり着くと、そこではミカサが待っていた。私が一人でウォール・ローゼ上によじ登ろうとすると、彼女は「ミノリ」と呼びながら手を差し伸べてくれる。
私はミカサの手を借りて、壁上に登った。
「……ありがとう、ミカサ」
ミカサの表情がちょっとだけ和らぐ。
「コニー、ミノリ。怪我はない?」
「俺は大丈夫だ」
「私も、平気」
「そう」
ミカサが相槌を打ったあとにコニーが「けど」と沈んだ声で言った。
「ライナーが腕、噛まれて、ユミルは見てのとおりだけどな」
コニーの視線の先には手足を失い気を失っているユミルと、彼女に付き添うヒストリアがいる。
コニーとミカサはなにも言わずに、ユミルとヒストリアの方を見ていた。
「――みんな、いるかい?」
やがて、ハンジさんの声が響いた。
「ユミルの件はひとまずあとだ。
それからコニー。君の村にはあとで調査班を送る手配をするから、今はとにかく壁の修復作戦に集中してくれ」
ハンジさんはコニーの肩に手を置きながら、「いいね?」と言った。
「はい」
コニーは、いつもと変わりないように聞こえる声音で、そう答えた。
「しかし……現場はもっと巨人だらけだと思ってたんだが……」
ハンジさんが言葉を切ったタイミングで、蹄音が下から響く。
駐屯兵団の先遣隊が到着したのだ。
「穴がどこにもない」
ハンネスさんはウォール・ローゼによじ登るとそう言った。
それから、トロスト区からクロルバ区の間――ウォール・ローゼ最南端から最西端まで――に、異常が見つからなかったことを伝えた。
ハンネスさんは、死ぬ。
あまりなにも考えないようにハンネスさんの報告を聞いていた。
だが、エレン、ミカサ、アルミンと親しげな様子は、彼の死があの三人に与える影響の大きさを感じさせるものだった。
「う~ん……。壁に穴がないのなら、仕方がない。
いったんトロスト区で待機しよう」
ハンジさんのその指示に従い、私たちは再度、馬に乗るべく移動を始めた。
そのときだった。
「エレン、ちょっといいか」
ライナーがいつもどおりすぎる声音でエレンを呼ぶのが背後から聞こえた。
「――」
私は。
なんともなしに拳を強く握った。爪が掌に食い込む。無意識のうちに足が止まっていた。
私は一歩踏み出す。そして周囲の人と同じ方向に進んだ。
知っている、ことだ。
感慨を覚える理由もない。
「話があるんだが」
その声は遥か後ろから、かすかに聞こえた。
ぽつぽつと、雨が降ってきた。
断ち切るように。――じわじわと視線を逸らして、空を仰ぐ。
そこに青空はない。鈍色の重たそうな雲がたれこめている。上空では風の流れが速いのか、雲は薄くなったり濃くなったりを繰り返していた。
「おい」
コニーの声で、はっと我に返った。
「なに、ずっと上見てんだよ。転んじまうぞ」
コニーは呆れたように言った。
「……うん」
一際、強く風が吹く。雨が止んだ。
雲には切れ間ができ、そこから眩い光が幾本もの柱のように差し込んでいる。
たしか、薄明光線と言ったか。或いは、天使の梯子とも。いずれにせよ、吉兆を告げる証だ。
皮肉なことに。
私はぼんやりとそう思い、頬を濡らした雨粒を拭った。
視線を落としてから、コニーの方を向く。
いつもどおりのコニー越しに、遠く、ウォール・ローゼの上で、ミカサがライナーとベルトルトと揉み合っているのが見えた。
「――……。……気を、つける」
曖昧に言った、瞬間だった。
雷光が、迸る。刹那の空白ののち、轟音が響き、突風が辺りを舞い上げた。
「なんだ!?」
「きゃあッ!」
息をするのも難しいほどの風の強さだった。私はうつぶせになって
前触れもなく、影が落ちる。反射的に目だけを動かして上を見ると、そこには大きな肉の剥き出しの腕があった。
それは、私たちの上を通り、担架ごとユミルを掴む。
ヒストリアが「ユミル!」と必死に呼ぶのが遠く聞こえた。
私は吹きすさぶ風に抗い顔を上げ、目を細めながら前を見る。
――そこには、
耳の奥でちりちりと、音がする。
家屋の燃える音だ。
それから「逃げろ」、「助けて」、「死にたくない」、「お前だけでも」と、いくつもの断末魔が低く鳴った。
鼻の奥に、脂の焦げるような臭いが蘇る。
どうしようもなく、鎧の巨人が、憎かった。
同時に、あの日、恩人の亡骸の前で感じた生々しい徒労感も、手触りを伴って思い出していた。
私はなにもできなかった。なにも、しなかった。ずっと、そうだった。ずっと。ずっと――。
今も、そう。
ふいに、「おい、ミノリ!」とコニーが呼ぶ声に気づいた。途端に、世界がクリアになる。
熱風が頬を叩く。思わず「……熱い」と呟いた。
「なに、ぼーっとしてんだよ! さっさと下がるぞ!!」
「わかっ、た」
何度か瞬きをしてから立ち上がり、駆けて、超大型巨人から距離を取った。
丁度、同じようなタイミングでヒストリアを小脇に抱えたニファさんが、近くに降り立つ。
彼女はヒストリアを地面に降ろすと「怪我はない? クリスタ」と言った。
「あ、ありません」
ヒストリアとコニーは茫然と超大型巨人を見ていた。それから、ヒストリアが遠慮がちに「あの……」とニファさんに声をかけた。
「私たちは、なにをすればいいのでしょうか?」
ヒストリアの問いが落ちる。次の瞬間、先程までの熱風とは比べものにならない熱さの蒸気が全身を押した。
息ができない。
咄嗟に歯を食いしばって顔を腕で覆った。
ややあってからハンジさん率いる調査兵が、私たちの前まで後退してきたのが、目蓋の隙間から見えた。
あの状態の超大型巨人に立体機動装置でできることは少ない。それこそ、アルミンがやるように囮になるくらいしかできない。
やむを得ず、ここまで下がってきたのだろう。
「……三人は」
ニファさんはちらりと超大型巨人を見た。
「負傷した調査兵を連れて、後退して」
私たちは声を揃えて「了解」と言ってから、起き上がれないような状態の調査兵のもとまで足早に移動した。
コニーが調査兵の一人をおぶった。私はヒストリアと二人がかりで調査兵を持ち上げる。そうして怪我に障らないようにゆっくりと後退していった。
「クリスタ、コニー、ミノリ、もっと下がって!」
ニファさんは声を張り上げた。
私はヒストリアと息を合わせて、さらに数歩下がった。
「では……負傷した二人は任せたよ!」
ニファさんは鎧の巨人の方を向いた。そのとき、ヒストリアが呼び止めるように「あっ……あの!」と言った。
「ユミルはまだきっと……死んでいませんので……」
ヒストリアは一瞬目を伏せる。再度、視線を上げたときには、彼女の目に涙の粒が浮かんでいた。
「どうか……頼みます……!」
「あぁ……」
ニファさんはもう一度鎧の巨人の方に行こうとした。だが、今度はコニーが口を開いた。
「ライナーとベルトルトはどこですか!?」
「あっ……」
「あいつら……立体機動装置着けてないんです! どうか……あの二人を助けてください!」
コニーは必死に、心底心配そうに、言った。
私は、なにも感じていなかった。
ウォール・ローゼの下では
やがて鎧の巨人にエレンが締め技を決め、ミカサが膝裏を断ち切り、パラディ島勢力が勝つかと思われた。
しかしながら、鎧の巨人の合図で超大型巨人が壁上からエレンたち目掛けて落下、同時に肉体を蒸発させる。その爆発的な蒸気でパラディ島勢力は一時、戦闘不能状態に陥る。
かくして、エレンはマーレの戦士たちに連れ去られた。
それから、しばらくが経った。
私やコニー、ヒストリア、アルミンといった負傷していない新兵は、負傷した調査兵の手当をして本隊の到着を待つ。
途中で駐屯兵団が加勢に訪れたものの、その時点で戦闘はすでに終了していた。そのため駐屯兵団はトロスト区へととんぼ返りした。
できることがなくなると、コニーがぽつりと「ライナーとベルトルトは無事かな」と呟いた。
ヒストリアは薄々感づいているのか、或いはユミルのことで頭がいっぱいなのか、その言葉に大きな反応を示すことはなかった。
しかしアルミンは、はっと息を呑んだ。それから、ぎゅっと顔を歪めて、言葉を選びながら、ライナーとベルトルトの正体をコニーに告げた。
「――ライナーが鎧の巨人で、ベルトルトが超大型巨人だった?」
コニーが乾いた笑いを上げた。
「こんなときに冗談言うのやめろよな、アルミン。いくら俺でも、そんなこと、騙されるわけないだろ」
「……」
「なあ」
コニーは一度言葉を切ってから、笑みを浮かべようとして、その途中で表情が固まった。
コニーは「……違うんだろ? そうだよな!?」と、まくしたてるように言った。
アルミンは一瞬、言葉に詰まった。それから言いづらそうに口を開いた。
「コニー、本当に――」
「――私も、見た」
私は言葉をかぶせるように言った。
「……え?」
アルミンが困惑した声をあげながら私を見る。コニーもばっと私の方を向き、一歩踏み出した。
「ミノリまでなに言ってんだよ!」
私はなんともなしに髪をいじった。
「ライナー、と、ベルトルトの、いたところから、……鎧の巨人、と、超大型巨人が現れた」
「……嘘、だよな?」
愕然とした声だった。
「本当、だよ」
「ミノリ……」
アルミンは眉を寄せて私の名前を呼んだあとで、コニーのほうを向いた。
「僕も、ミカサも……ハンジさんたちだって、見た。
ライナーは鎧の巨人で、ベルトルトは超大型巨人だった……。二人は、……裏切り者だったんだよ」
コニーは口をぱくぱくとさせて、なにか言いかけた。だが、口を閉ざしたままだった。
数秒後、いきなりどさりと地面に腰を下ろすと、呻き声をあげて、ぐしゃりと頭を掻いた。
「ああ……クソッ!? 本当なのか!?」
「……うん。本当に、彼らは……巨人だ」
アルミンが言い終えると、コニーはアルミンから私へと視線を動かす。私は、コニーの目を見てから頷いた。
「なんでだよ……!
だったらなんで、俺を、俺たちを……!」
コニーのその声には憤りよりも、疲れや悲しみが滲んでいた。
アルミンは、ただ座り込んでいるコニーを見ていた。
しばらくしてから彼は「……ミノリ」と心配そうな声で私を呼んだ。
「なに?」
「その……」
言いづらそうに、言葉を選びながら、アルミンは言葉を重ねる。
「シガンシナ区に、いたんだろ?」
私はちょっと目を見張った。
アルミンに故郷のことを伝えたことはない。ただ、一拍おいてから、ふっと思い至ることがあった。
「……エレンから、聞いたの?」
「あっ……、うん」
アルミンは頷いてから、顔を歪めた。
「ごめん。知られたくないことだった?」
「ううん。そんなことない、よ」
私がそう言ってもアルミンは申し訳なさそうな顔をしていた。さらに「気にしてないから」と告げて、ようやく彼はすこし表情を緩めた。
「それで、ライナーが……。……君の」
アルミンは言葉を切った。彼の喉がごくりと動く。それから、重く口を開いた。
「君と僕らの、故郷を壊した巨人だった。
その、大丈夫? ……じゃ、ないよね」
「ああ……うん……」
視線を落とす。
数十メートル下のウォール・ローゼ外側の地面には、超大型巨人が落下した跡と、鎧の巨人の足跡が残っている。
私が彼らの残した跡を見ているのに気づいたのか、アルミンも同じ方向を見た。それから、おずおずと私の方を伺った。
思わず、笑みが浮かんだ。
「やさしいね、アルミンは」
「……え?」
アルミンは目を見開いてそう言った。私はそれをちらりと見てから髪をいじった。
アルミンに嘘をつくことはしたくなかった。
――心情的な意味でも、実利的な意味でも。
「なんというか……仕方……ないんだよ、ね」
私は事実と虚飾を混ぜながら、言葉を探った。
「敵、だったんだから……」
想像以上に、震えた声だった。それが気まずくて、うつむいた。
最初から、敵だった。
仇敵だと知っていた。
だからこそ気兼ねなく、私の死がなにかを遺すことを、願うことができていた。
だから、傷つくわけなんて、ない。なにも感じていない。はずだ。
私はそれ以上なにも言えずに、立ち竦んでいた。
アルミンもまた、そうだった。
「……大丈夫だから、」
やがて、ぼんやりとそう言うと、アルミンが私の方に注意を向けたのがなんとなく気配で伝わってきた。
「一人にさせて。……ね」
私は顔を上げて、微笑んだ。
アルミンはやはり心配そうに眉根を寄せている。
「……わかった」
アルミンは薄っすらと笑みを浮かべた。明らかに、無理をして作った、ぎこちないものだった。
「でも……無理はしないでくれよ」
ハンジさんたちが持ってきた物資の中には予備の立体機動装置がいくつかあった。
私とコニーとヒストリアは、私服の上から立体機動装置を着用し、自由の翼が刻まれたマントを羽織った。
私たちは言葉少なに、装備を点検したり、野戦食糧を食べたりして、事態が動くのを待つ。
数時間が経過し、ミカサが目を覚ました。
それからさらに時間が経過し、遠くから馬たちの蹄がウォール・ローゼを蹴る音と、荷馬車の音が聞こえるようになった。
エルヴィン・スミス団長率いる調査兵団本隊がやってきたのだ。
すっかりと晴れた空には、雨雲の欠片も見当たらない。私はなんともなしに髪を手櫛で梳いてから、遠くを見やった。
ウォール・ローゼから見下ろす景色は、ミニチュアの模型のようだった。その遥か先に巨大樹の森は存在している。
夜までに、巨大樹の森に辿り着く――。
ハンジさん立案の作戦は、それだった。
実際に勝機はそれしかない。しかしながら、結果として、ハンネスさんは命を落とし、エルヴィン団長は腕を失い、エレンは始祖の力を発現させる。
私はそれを必要な犠牲だと信じ、多くの命を見捨てる。
ずっと昔からそうだったように。今日、ナナバさんたちを、愛馬を見捨てたように――。
リフトで馬をウォール・ローゼの向こう側に降ろす作業が完了した。
私は未だ名も知らぬ馬に跨り、エルヴィン団長の号令とともに発進する。
よく調教された馬は私の指示をしっかりと聞いて、動く。だが、あの長く乗った馬のように、慣れや愛着を感じることはできない。
それで、よかった。