棘 作:よく
意味のないことだった。
どれほど実験をしようが――恐らくは――鎧の巨人の継承者の脊髄液を摂取しない限り、硬質化の能力を使えるようにはならない。
事実として実験は成果を上げることなく、エレンの体力が尽きたことによって終了する。
周囲の見張りを任されていた私たちには、目撃した者がいないか確認したあとで、森深いところから撤退する命令が下された。
◇
巨人化能力の実験は早朝から始まったが、実験に思いのほか時間がかかり、さらに移動や雑事に追われ、あっという間に夕暮れどきになった。
いままでもここで誰かが過ごしていたのだろう。拠点の、細かな傷のついた、石壁や濃い飴色の床に、ほのかに青みを帯びた西日が照込んでいた。
今日の運動量はさほどではなかった。それでも夕方になると気怠くなるのはなぜだろうか。
私は一度大きく伸びをしてから調理場へと向かう。薄暗くなり始めたそこには、サシャとアルミンとジャンがいた。
私は調理台の前に立ち、包丁を手に取る。その木製の柄も、刃渡りも、使い古されてすり減っていた。
私たちは、料理当番だった。
残る四人も、それぞれの役割を果たしていた。
ミカサは、巨人化能力を酷使して寝込んだエレンの看病をしていて、コニーは見張りを任されている。ヒストリアは自室で待機しているのだろう。
調理は、嫌いではない。
人並みにできることだし、案外、ストレス発散になる。それに、無心で作業をしているとなにも考えなくてすむ。
私は黙々と野菜の皮を剥いた。
その隣ではサシャも同じように芋を剥いている。
ジャンが「芋女は芋でも剥いとけ」と言ってサシャに押し付けたのもある。
だが、サシャは前科が多すぎるので、生食できないものの下処理だけを任されていた。これは今回だけの措置ではなく、訓練兵時代からの通例だった。
「実験は駄目だったか」
しゅるしゅるという皮を剥く音や、煮炊きの準備をする音が響くなか、ふいに、ジャンがぽつりと呟いた。
「そうなるだろうと思ってたぜ」
ジャンは、「これからどうするんだろうな、俺たち」と、落ちた声で続ける。
「さあ、どうなるんでしょうね」
サシャはつかの間、芋を剥く手を止めた。
「でも、次は、きっと成功しますよ」
サシャのことさらに明るい声を、アルミンが拾った。
「成功するといいんだけど、どうだろう……。
エレンの巨人化能力の練度は少なくとも最初に巨人になったときよりは上がっている。それに今回の実験は一回目だから、今後、実験を重ねていくことで硬質化ができるようになる……。というのはちょっと希望的観測がすぎるかな」
アルミンは調理の手を止めて、考え込んでいた。
彼がこうなるのを、私たちは訓練兵だったころから見ているので、いまさら驚くことではない。
事実、ジャンは呆れるように肩をすくめるだけに留め、サシャは明らかに聞いていなかった。
「考えたくないことだけど……もしかしたら、なにか別の条件があるのかもしれない」
一瞬、皮を剥く手が止まった。反射的に上げそうになった顔を抑え、悟られないように野菜の下処理をすぐに再開した。
やはり、アルミンは聡い。だが、このタイミングで気づいたとしても、どうしようもない。ここには脊髄液がないのだから。
「もう実験はしないかもね」
アルミンがぼそりと言うと、固い雰囲気の沈黙が落ちた。
そのとき、階段を下りてくる規則正しい足音が聞こえてきた。手元の根菜から顔を上げ、居間の方を見ると、ミカサがいた。
彼女の表情は、実験が終わった直後よりも、断然、不安の色が薄くなっている。
「ミカサ、エレンは大丈夫そう?」
「ついさっき、起きた」
アルミンの問いに答えるミカサの声色は柔らかい。
「そっか。よかった……」
アルミンの声にも、はっきりと安堵が滲んでいた。
「アイツ、長く寝すぎじゃねぇか。もう夕方だぞ?」
「まあまあ、いいじゃないですか。それに、ジャンも、アルミンみたいにもう少し素直になったほうがいいですよ」
「ハア?」
私は野菜と包丁をまな板に置いて、「……ミカサ」と呼んだ。ミカサの黒く艶やかな瞳と視線が合う。
「お湯、沸いてる、よ」
しょうもない罪滅ぼしだった。
私は視線を少し落として言い、湯気の立つ大鍋を指す。ミカサはわずかに目を見開いた。
「……いる……よね?」
ミカサは一度だけ小さく首肯した。
「ミノリ、ありがとう」
ミカサは目元を和らげて言った。
二人を、別離から救おうともしない私が受け取っていい言葉ではなかった。
「……ん」
私は視線を逸らし、そう返して、まな板の前へ戻った。
ミカサは、いつものようにぴんと背筋を伸ばして居間へと歩む。すぐに戻ってきた彼女の手には水桶があった。
ミカサは調理場に入り鍋から湯を汲む。それから調理場の隅に置かれた、水瓶の水を足して手早く適温にした。
私はミカサが居間へと戻るのを横目で見る。ミカサの、エレンから贈られたマフラーが、彼女の動きに合わせてなびいていた。
ほどなくして、また、規則正しく階段を上る音が聞こえると、ぽつとサシャがこぼした。
「エレン、夕飯食べるんでしょうか」
「エレンが食わなくたってお前の取り分は増えねえよ」
ジャンが鋭く返す。
サシャとジャンとアルミンの軽快なやり取りが、トントンと包丁がまな板をうつ音の合間に響く。私は黙して聞く。それが、いつものことだった。
皮を薄く剥かれ、細切れになった根菜。それと、サシャが下拵えした芋。私はその野菜たちをまとめて、鍋にそっと落としいれる。
刻まれた野菜たちが鍋の底でぐらぐらと踊っている。
そうやって食材を見ても、調理の過程を見ても、食欲は鈍かった。それでも、無理にでも食べなければいけない。
頭の芯は重く鈍っていて、思考が散漫になっている。調理に集中しようとしても、堪えきれずにため息がこぼれた。
――じきに、政変が始まる。
私は第五十七回壁外調査で、アニや無垢の巨人に殺される。よしんば生き残ったとしても、その先、どれほどうまく立ち回ろうが、最終的には数カ月後にシガンシナ区で
そう、思い続けていた。
だから、なにも考えていなかった。なに一つ、覚悟をしていなかった。
私は、なにをすれば、どうすれば、いいのだろうか。
人を、殺さなければいけないのだろうか。
◇
いつもどおりの時間に夕食を食べて――大事を取ってエレンは寝室で食事をとっていたのでミカサがいつもよりもさびしそうだった――、見張り番を除いて、つかのまの自由時間が与えられた。
周囲になにもない山奥の小屋なうえに、逃げるようにここに来たので、娯楽に使えるようなものはなにも持ってこれていない。自由時間といえども、やることはとくにない。やることをすませば寝室で過ごすのがここ数日の通例だった。
眠るにはまだ早い時間のことだった。ふいに、ミカサが顔を上げた。私も繕いものの手を止めて、ミカサのことを見ると、前触れもなく扉がノックされる音が寝室に響いた。力のこもった鋭い音だった。
「兵長が呼んでる」
エレンの声だった。彼は今日、実験で消耗していたので、夜番を任せられていない。なのに、彼がここにきている。明らかに異常な事態だった。
ミカサも同じような疑問を抱いたのだろう。「エレン……?」と、呟く。
「わかった」
だが、すぐに淡々とミカサが答えた。
――王政編が始まるのだ。
私は繕いものの手を止め、立ち上がる。机上に置いたランプの光が揺れた。
「なんでしょうか?」
「わからない、でも……」
サシャの問いに、ミカサが素早い動きで扉を開きながら答えた。サシャはなにか言いかけて、口をつぐむ。
二人は無言で足早に進む。私は彼女らに次いで寝室を出た。
後ろから、一人分の足音がついてくる。軽いそれは、ヒストリアのものだった。彼女はずっと口を閉ざしている。この緊迫した異常ともいえる状況に、なにかを言うことは、なかった。
廊下に出ると、コニーとアルミン、ジャンが、居間へ向かっていた。彼らも同じように呼び出されたのだろう。
なにが起きたのか知らないのだろう。みんな口を閉ざし、ただ、暗がりの中で互いに視線を交わしながら階下へと向かう。
居間は、暗かった。中央にある長机の上に置かれた一本の蝋燭だけが灯されている。そこにリヴァイ兵士長はいた。
心もとない明りに、ゆらりと照らされている兵士長の手には、一枚の紙があった。
「読め」
兵士長は、先に居間についていたエレンに書面を手渡しながら、言った。
「は、はい」
エレンが受け取り、書面を開く。みんながその周りに集まった。
私はみんなの隙間から書面を覗き込んだ。
エルヴィン団長が記したのだろう。流麗な字で、憲兵が敵になるため、クーデターを起こす、と、端的に書かれていた。
動揺するみんなを尻目にリヴァイ兵士長は「全員読んだか?」と淡々と問う。
「は……はい」
アルミンが動揺しながら答え、問いかける。
「リヴァイ兵長……これは?」
「エルヴィンの指示だ。お前らはヤツを信じるか? 信じるバカは来い……出発だ」
どうやらリヴァイ班のメンバーは全員信じるバカだったらしい。だが、今後の展開を知っている私にとっては、信じない方がバカな行いになるのだろう。
私たちは手早く荷物をまとめて山小屋を発つと、敵に見つからないように松明も持てずに、か細い月明かりを頼りに合流地点まで移動した。
幸いにして敵に遭うこともなく合流地点に辿り着くと、今後の方針を伝えられる。
エレンとヒストリアは安全な場所に身を隠す。残るリヴァイ班のメンバーは、怪しい商会があり未だ混乱が続くトロスト区で、エレンとヒストリアの影武者を囮に敵対勢力に探りを入れる。
つまり原作どおりの作戦であった。
エレンの変装をする人物は満場一致でジャンに決まった。
ジャンもエレンも不服そうではあるが、体形が似ている上に、女型の巨人戦での実績があり、おまけにリヴァイ兵士長発案の作戦なので、表立って異を唱えることはしなかった。
問題は、ヒストリアの変装をする人物だった。
事前にカツラが用意されている――エルヴィン団長が準備していたのだろうか――ので、候補は複数いた。
だが、ミカサはリヴァイ兵士長に次ぐ戦力で、サシャとコニーは変装や潜入に向いていないと判断され、早々に候補から脱落。
残るは私かアルミンだった。
みんなの視線が私とアルミンに集中しているが、誰も口を開くことはなかった。
「さっさと決めろ」
沈黙が落ちてすぐに、リヴァイ兵士長が淡々と言った。
私が影武者になろうが、アルミンが影武者になろうが、流れは大きく変わらないだろう。アルミンがあのような辱めを受ける必要もない。それに、なにより、男性にヒストリアの変装を任せるのは不自然だろう。
「女の私がやるほうが、無難、じゃない?」
「そうッ……」
アルミンはなにかを言いかけたあとに、苦しげな顔で口を噤んだ。
「ッ……! いや……。僕が、やる」
アルミンが断言すると、なぜかみんなが、「おお……!」と、声を上げた。
「僕の……! 僕のほうが……、ヒストリアに似ていると思う。それに……僕より君のほうが立体機動の成績はよかっただろ」
たしかに、私は東洋人風の顔立ちをしているから、カツラを被っただけでは目立つ。
一方でアルミンは、パラディ島では一般的な雰囲気の顔立ちをしている上に、目がくりくりとしているので、初見では違和感を持たれづらい。
「そっか」
そこまでこだわりのないことなので――というか切羽詰まった状況なので――私は首肯した。
「じゃあ、アルミン」
「なに、かな」
「ちゃんと喉仏、襟で隠してね」
「……なんで?」
数秒の沈黙ののちに、アルミンは不思議そうな声で問いかける。
「女装のコツだって、聞いたことが、あるから」
答えるとすぐさま、アルミンは苦い表情を浮かべた。
「そうなんだ。……ありがとう」
これから先、アルミンには苦難が待ち受けている。
「それと、がんばって」
思わずそう付け足すと、アルミンは、「……うん」と、ちょっとばかり苦々しげに首肯した。
◇
翌朝、エレンとヒストリアを除くリヴァイ班は、作戦どおりトロスト区に移動した。
私たちはある種の餌であるから、敵を釣り上げるために、無防備にも一塊になって大通りを歩んだ。
トロスト区は、ひどく閑散としていた。
壊れたままの屋台や建物が多く、一方で、行きかう人の数は少ない。そこはかとなく覇気に欠けていた。だだっ広く感じるのは、瓦礫や遺体が片付けられているからなのかもしれない。
トロスト区に訪れるのは、死体の回収をしていたあのとき以来、一か月ぶりだった。
たった、一か月なのか。もう一か月なのか――。分からない。だが、いずれにせよ、トロスト区の復興は全く進んでいなかった。
いまだ残された瓦礫の合間に、血の気のない四肢の断片が挟まっているのが見えた、ような気がして、一瞬、足が止まった。
そんなわけがない。遺体は全部、集めて焼いた。
だというのに、血の生臭い臭いと、腐敗臭、糞便臭が、ふっとよみがえってきた。連鎖的に、あの日のことが、手触りを伴って蘇る。
思わず嘔吐きそうになって、歯を食いしばって耐えた。
あの惨状は、私が望んだ。こんなところで被害者面する資格などない。
硬く目をつむると、誰のものとも知れない死体の群れの虚ろな瞳が、目蓋の裏の暗闇から私を、じっと、見ていた。
目をゆっくりと開く。目の奥が沁みるかのようにまぶしい。
白飛びしたかのような視界に映るみんなの後ろ姿は、少し先にある。遅れるわけにはいかない。私は一歩、踏み出した。
そのとき、なんともなしに、横目で通りを追った。建物の隙間。ちょうど、死角になっている細道があった。
後ろへと流れるそれを、つかのま、辿るように見てしまう。私は断ち切るように視線を前へ向けた。
「オイ……あんた、リヴァイじゃねぇか!?」
ほどなくして、うらぶれた屋台の店番をしている男が私たちに声をかけた。
リヴァイ兵士長はそれに「あ?」と声を上げる。その低く、どこか威圧的な声に臆することなく、人が集まってくる。
私たちは、たちまち民衆に囲まれた。
彼らはどこか卑屈で、探るような、図るような、――ありていに言ってしまえば悪意すらあるような、表情をしている。
私は思わず、被っていたフードをより深く被り直し、うつむいた。
「オイオイ小せぇな……」
「馬に乗ってるところしか見たことなかったが……こりゃあ」
民衆は好き勝手に喋っていた。
「……邪魔だが」
数秒の沈黙ののちにリヴァイ兵士長が言った。
だが年嵩の男が「まぁ聞いてください、兵士長! みじめな俺たちの話を」と、どこか嘲るような声音で押し切った。
「お前ら兵士が大げさに騒いだ避難作戦のせいで、職にあぶれちまったんだよ」
「俺らだけじゃねぇ。ここ壁際の街には、度重なる不信感で人が寄り付かねぇ」
別の男も言った。
「どっか行っちまった駐屯兵の代わりにコソ泥がわんさか入って来やがった。……なのに税は高ぇままで、俺たちにどうしろって言うんでしょうか?」
彼らは、なにも知らない。
知らないまま、ただ、そうあれかしとされてきたものへ、怒りをぶつけているだけだ。
「どうしてこうなった? なぜ巨人に何回も攻め込まれてんです? 俺には分かる
――あんたら調査兵団の働きが足りねぇからだよ」
だというのに、違う、と、そんな思いが鮮烈に突きあがった。
調査兵団は知識も、資金も、政治的な影響力も、なにもかもが足りていないが、その上で精いっぱい足掻いてる。
彼らは、これ以上どう努力すればいいのか?
私はそれを知識としても、体感としても、知っていた。
「俺のやってた商売はこうだ。稼げねぇのは自分が悪い。労働に対価が見合わねぇなんていつものこと。
だがあんたらは違うでしょ?
働きが足りねぇし結果が出てねぇのに食えてる……」
――知った口を叩く。
「なあ? こんな街中をぶらぶら歩いてお買い物か?」
爪が肉に食い込んで痛い。無意識のうちに拳を強く握っていたようだ。
誤魔化すように息をはく。
「女連れて歩いて……いいご身分だよな」
男が言いながら、サシャに一歩近づいた。サシャは「ひっ」と引き攣った声を立てる。
咄嗟に、男とサシャの間に身をねじ込んだ。
フードでできた影から男を見上げる。ねばっこい視線が突き刺さった。
気持ちが悪い。
腹の底から、じわり、と、怖気にも似た嫌悪感が湧きでた。同時に、歯噛みしたくなるような、苛立ちも。
「あぁ? なんだ、その目は?」
目を逸らすわけには、いかない。
私が男と睨み合っていると、すぐに、サシャが私の腕を引きながら、「ミノリ」と呼んだ。
「もう、大丈夫ですから。それに……」
サシャが耳元に顔を寄せて「目立つわけにはいかないんですよ」と囁いた。
それを聞いて、激情の波が引いた。
「……ん」
私は浅く頷いてから一歩、身を引いた。
なに、やってるんだろ。
トロスト区の惨状は、私が望んだ。
彼が窮しているのは、私が望んだから。
どう考えても、八つ当たりで、そんなことは許されない。端的に言えば、大人げなかった。
どこか据わりが悪いものを感じていると、ふいに、リヴァイ兵士長の纏う空気が、より険しいものになった。
「オイ! 気をつけろ!」
一気に、緊迫した雰囲気が漂った。
だが、事情を知らない市民は、「なにに気をつけるって? 人類最強の兵士がよォ!」と憤りをあらわに言い、兵士長の襟元を掴んだ。
兵士長はそれをものともせず、私のそばに立つ、サシャに言い寄った男を足で押しのけた。
「馬車が突っ込んでくる!」
その声を合図に私はその場を飛びのいた。同時に、馬車が音を立てて、私たちリヴァイ班のいた場所を猛スピードで駆け抜けた。
「あっ! アル――、じゃなくて。
クリスタとエレンが! また攫われてしまったあぁ!」
サシャがわざとらしい声で言うのが、大通りに響いた。
攫われた
二人を攫った奴等はまったくの素人というわけでもないのだろうが、手練れではない。いずれ対峙することになるケニー・アッカーマンなど比較にならないだろう。調査兵として対巨人の技術ばかりを磨いてきた私であっても、簡単にアルミンとジャンが囚われた倉庫まで尾行することができた。
適当なタイミングで見張りを排し――アッカーマン二人がいればこの程度敵にもならない――、リヴァイ兵士長とミカサとサシャは倉庫内で待ち伏せ。私とコニーは見張りをした。
この程度の相手であれば、手加減ができるのだろう。まだ、人と直接殺し合うことは、なかった。
青空が果てなく続いている。遮るものはなにひとつなく、夏の日差しは肌を焦がすかのように降り注ぐ。それでも、乾いた風が汗を乾かすように吹いているから、不快感は少なかった。
トロスト区、前門。
この作戦に多大な貢献をしたアルミンとジャンは、立体機動装置を身に着けていないので、この場には来ていない。残る私やサシャ、コニー、ミカサは、壁上の
「なぜ、わざわざこんなところまで連れて来た?」
眼下、優に五十メートル下の地上では、トロスト区の駐屯兵が作業している。覗き込めば目が眩むほどの高さだろう。私も、訓練兵になったばかりのころは恐ろしくて仕方なかった。
だというのに、会長であるだけあって胆力があるのか、それとも、これがこの島で生くる人々のデフォルトなのか――、一般人であるはずのディモ・リーブスは、臆することなく、リヴァイ兵士長に問いかけた。
「ここがどこだかわかるか、会長?」
「ここは俺の街だぞ? トロスト区前門――いや、元、前門か。もしくは人類極南の最前線……あの世とこの世の境目……。
おっかねえが稼げる……いい街だった」
ディモ・リーブスは、苦笑交じりに答え、紫煙をくゆらせる。
「俺たちはこう呼んでいる。
人類が初めて巨人に勝利した場所。そして……人類の無力さを証明する場所」
風に乗ってかすかにヤニの臭いが漂ってくる。
本来であれば煙草を厭うであろう兵士長だが、なにを言うでもなくディモ・リーブスから視線を上げ、前方――トロスト区を見ながら淡々と言った。
「巨人に空けられた穴を、巨人の力で塞いだ。いろいろ試したが、結局、人類じゃ到底及ばない話だったわけだ。
まぁ、もちろん巨人の力だけで塞いだわけじゃない。数多くの兵士が命を投げ出した。そのほかにも、幾重にも重なる奇跡の連続で、あんたの街はいま、ここに、かろうじてある」
奇跡なのか、それとも、エレンの思惑なのか――。わからない。それでも、大勢が命を落とし、私がそれを止めようともしなかったことは、揺るぎようのない真実だった。
「その奇跡が、エレンだ。あんたが連れ去ろうとしたもんは、それだ」
ディモ・リーブスは、「ふっ」と、堪えきれずといったように鼻で笑った。
「俺はここに説教されに来たらしい。勘弁してくれねぇか旦那? 老いぼれの体には少し応える」
「……そうだな、やめておこう。老人が怒られてんのは見てて辛い」
兵長は言って、どかりとディモ・リーブスの隣に腰を下ろす。
「中央憲兵との交渉内容と、あんたらの目的が知りたい」
――かくして、リヴァイ兵士長とディモ・リーブスとの交渉が始まった。
中央憲兵は愚かだが、従わなければ、リーブス商会の従業員とその家族は路頭に迷う。そしてディモ・リーブスと部下の数人は
ディモ・リーブスは己の利益だけでなく、商会や街の人々の命まで天秤にかけていた。
ディモ・リーブスは、この詰んでいるような状況でうまくやってきた人物で、有用だ。だが、死ぬ。死ななければならない。
息子がトロスト区の住民を調査兵団の味方につけることは、欠かせない。
そのうえ、後を継ぐ息子も、七年後、地鳴らしの後になっても生き残っていることから、得難い人材なのだろう。
私は、ディモ・リーブスを見捨てることを、選ぶ。
リヴァイ兵士長が発破をかけてもディモ・リーブスは乗らなかった。
やがて、兵士長が「エレンとクリスタをお前らにやる」と、告げるとディモ・リーブスはあっけにとられて声を上げた。
「ただし、条件を三つ受け入れろ」
ミカサが、「リヴァイ兵士長!?」と、がなるのを気にも留めずに、兵士長は言った。
「一つ、リーブス商会は今後、調査兵団の傘下に入り、中央憲兵や王政・法に背くこととする」
「な……!?
戦争始めようって言ってんのか!?」
「二つ、リーブス商会は調査兵団を心の底から信用すること」
「……信用だと?」
ディモ・リーブスは打って変わって、困惑げな声を上げた。
「そりゃ、俺ら商人の世界じゃ、冗談を言うときにしか使われねぇ言葉だぞ」
「――商人?」
兵士長は淡々と問いかけた。
「俺は、いま、あんたと……ディモ・リーブスと話をしている。あんたの生き方を聞いてるんだ。あんたはどんな奴だ?
あんたの部下と街の住民を死なせて敗北するか。人類最高の権力を相手に戦うか――。どうせ正解なんかわかりゃしねぇよ。
あんたの好きな方を選べ」
無意識のうちに息が止まっていたのか、息苦しい。
ディモ・リーブスは口を閉ざしたままだった。空気がぴりぴりと張り詰めている。ただ、風の音だけが聞こえた。私は、目立つのが嫌で、静かに深呼吸をする。
やがてディモ・リーブスは「は……」と、笑い声のような、あるいは、こぼれでたかのように言った。
「素人が。条件をすべて聞かずに契約するバカがいるか」
「おっと失礼した」
リヴァイ兵士長は言って、指を立てた。
「三つ目だ。今後、リーブス商会が入手した珍しい食材・嗜好品等は、優先的に調査兵団に回せ。紅茶とかな」
サシャがうれしそうに声を上げる。コニーがそれを咎める。ミカサは物憂げに視線を落としている。リヴァイ兵長とリーブス商会の会長が、がっしりと手を握る。交渉は、成立した。
私は、それらを傍から見ていた。
アンケートへのご協力ありがとうございます。想定よりも多くの方に答えていただき、非常に参考になりました。
現状だと土曜日の夜に更新になりそうです。
アンケートは早ければ数日以内に、遅くとも次回更新ぐらいのタイミングで終了させていただきます。
更新は何曜日が望ましいですか。
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