棘 作:よく
青空のもと、いくつかの木で組まれた機械がそそり立っている。二本のロープがぶら下がるそれを、私はぼんやりと眺めていた。
「まずは貴様らの適性を見る! 両側の腰にロープを繋いでぶら下がるだけだ!」
シャーディス教官の声が教練場いっぱいに響いた。
立体機動のためのベルトを着脱する簡単な講義の後に、訓練兵は一様に外に駆り出された。適性検査が実施されるのだ。
この検査を突破できなければ、開拓地に戻される。そうすれば、ろくでもない未来が待っている。絶対に合格しなければならなかった。
無意識のうちに強く握っていた拳には、じっとりと手汗が浮かんでいた。
ミカサは臆することなく、適性検査を行う機械の前に向かうと、難なく――体が一切ぶれることなく自然体で――空中にぶら下がった。
コニー、サシャ、ジャンも合格していた。
そして私の番がきた。
両腰にある金具にロープを繋ぐ。軋んだ音を立てて滑車が動くと、足から地面が離れた。
全身のベルトに体重がかかり、食い込む。体幹を意識してバランスをとる。
いつの間にか私は空中に吊るされていた。
数十秒が経過した。途中で何回か大きく体が揺れたものの、なんとか小康状態を保てていた。
「……及第点だな」
シャーディス教官が通りがかりにそう言った。
心底ほっとした。その瞬間大きく体勢が崩れそうになって慌てて体に力をいれた。
滑車が再度動き、私は地面に降ろされる。
地面に足を付けて、ロープを腰の金具から外す。そしてようやく体から力が抜けた。ひどく緊張していたのだろう。
私は訓練兵として最初の関門を抜けることが許された。開拓地に戻ることは、ひとまずなさそうだ。
だが、ここにいたとしても平穏な生活が送れるわけではない。訓練は過酷で、死人もでていたはずだ。
それにこの先、卒業できたとして、良い未来が待っているわけではない。
好き好んで巨人に喰われに行くわけはないし、原作の流れを変えるつもりはない。だから、当然、調査兵団に入るつもりはない。
だが、憲兵団だろうが駐屯兵団だろうと兵になった時点で、やがて、戦争に巻き込まれていくのだ。
どうしたらよかったのだろうか。
ふいに、どよめきで意識が引き戻される。
「何をやってる、エレン・イェーガー! 上体を起こせ!」
その声で顔を上げた。
みんなの視線の先でエレンが逆さまに吊るされている。どこかしこから、くすくすと嫌な笑いがさざ波のように広がる。エレンの顔に冷や汗が伝った。
憐れだった。
金具の破損を教えようか、と一瞬思った。
だけど、すぐに我に返った。
別にそんなことをする必要はない。順当に行けば彼は適性検査に合格する。
その上、万が一にでもシャーディス教官の印象が薄れてしまったら原作通りに事が運ばなくなってしまう。
私は宙づりになって足掻くエレンをただ傍観した。
翌日、エレンは適性検査に合格した。私の知る通りの展開だった。
◇
――訓練兵として入団してから、数週間が経った。
今日は兵站行進の訓練が行われている。私たちは重い荷物を背負って走っていた。
足が痛い。息が上がる。口の中に鉄の味が広がる。それでも歯を食いしばって走り続けた。
走り切らないといけない。絶対に開拓地に戻る訳にはいかない。
遠くにゴールが見えてきた。ほとんどの訓練兵がすでにそこに到着している。私は歯を食いしばって足を進めた。
私の前には数人だけいる。その中には濃い金髪の少年――アルミン・アルレルトもいた。
彼も息を切らしながら、ゴールに向かって半ば歩くように走っている。私はもっと酷い有様だが。
アルミンがゴールラインを突破する。私は遅れてゴールに辿り着いた。順位はいつものように最下位。
息苦しい。
私は感慨にふける間もなく、地面に膝をついて喘ぐように呼吸をした。
「遅い! お前たちは追加で走れ!」
教官が怒鳴るような勢いでそう伝えてくる。今日もいつものように居残りの訓練が科せられた。
「了解、しま……した」
私が息も絶え絶えにそう言うのと同じように、補習常連の数人――当然アルミンも含まれている――も死にかけの声でそう言った。
「ミノリ、お前はまた最下位か」
教官が呆れたように声を掛ける。
「……も、うしわけ……ありま、……せん」
「さっさと走ってこい」
「……は、い」
汗を腕で拭い立ち上がる。
開拓地に戻らないためにも、走らなければならない。
ふいに視線を感じた。思わず顔を上げると、黄土色の瞳と視線が合う。
――ライナー・ブラウンだ。
胃の腑が重くなるような緊張が過る。
彼は一瞬、何か言いたげな表情をしたが、すぐに視線を逸らした。私も視線を落とす。
何の用だったのだろうか。
もしかして怪しまれている?
体温がざっと引いた。
優秀な軍人であるライナーたちに疑われたら、おしまいだ。地下街に売られるように、ろくでもない終わり方をするだろう。
いや、まて。
命惜しさに訓練兵団に入団したが、原作の流れを変えないように、かつ怪しまれないように、原作キャラクターとは最低限しか関わらないつもりでいる。実際に私は誰とも喋っていない。
その上、対峙したら平静ではいられないだろう、ライナー――とベルトルトとアニ――には近寄ることさえ避けていた。
だから、襤褸は出していないはずだ。怪しまれたことはありえない。と思いたい。
体に段々と熱が戻ってきた。
どれほど気を負うが、戦士たちがどう思っているかは私には操作できない。心配するだけ無駄なのだ。
無理矢理そう納得させたが、同時にじわりと疑問が生じた。
なんで、ライナーは私を見ていたのだろうか?
私はそれを無視し、震える足で駆けだす。
どうせ――最終的には世界のために戦うが――敵になる。理由を知ったところで何になるというのだ。
なんとか追加分を走り切ることができた。そのころには脇腹も足も喉の奥も、どこもかしこも痛んでいた。
たしか、クールダウンする際は歩いていた方がよかったはずだった。そんなことを日本にいたころに、保健だか体育だかの授業で学んだ。
だが、そんな余裕も存在していない。地面にしゃがみこんで荒い息を整えた。
やがて私の息が整うのと同じようなタイミングで、三々五々に散らばっていた補習常連の訓練兵が、寄宿舎に向かって集まっていく。
私もよろよろと立ち上がる。
夕食の時間に遅れるわけには行けない。こんなに疲れ切っていて食べることができるかは分からないが、食べないとやっていけないだろう。
私はよたよたと地面を見ながら寄宿舎に向かって歩く。
「また、一緒になったね」
ふと声がして顔を上げると、濃い色の金髪が目に入った。
息を呑む。
近くでアルミンが苦笑していた。
ごくりと唾を飲んだ。
関わりたくない。
――無視、しようか。
楽なその選択肢に飛びつきそうになった。だがそうするほうが不自然だろう。
私は少し不自然な沈黙のあとに「……そう」と短く答えた。
「僕はアルミン・アルレルト。よろしくね」
アルミンは微笑みながら言う。
「……。ミノリ。……ミノリ・タイレ」
私は一瞬、言葉につまったあとに、私を住まわせてくれたおじさんとおばさんの名字を名乗った。
これが原作キャラクターとの初接触だった。
◇
原作キャラと関わる気はない。
原作の流れ――即ち、巨人のいない未来という結末を変えるなんてことをしたくない。
そもそもとして私が存在していることで、原作の流れが変わってしまうかもしれない。だが、あまりにも大きな差異が生じれば、エレンが私を消すだろう。始祖の能力はそうすることが可能だ。
巨人のいない未来という結果は変わらない。
だから怪しまれない程度に人間関係を絶っていた。
それに、ミーナもトーマスもマルコも巨人に喰われて死ぬ。ダズとサムエルとサシャは戦争に巻き込まれて死ぬ。
そんな状況で仲良くする必要はあろうか。
不必要で不利益しかない。
どうせ死なれるなら傷は少ないほうがいい。
――だというのに。
ある夕方、私は図書室で補習の課題を書いていた。
正確には書こうとしていたと言うべきか。教本を読んでも言葉が理解できない。というか何を理解できていないのか、よく分からない。
辞書を引き始めた。それからすぐに溜息をついた。調べるために何を調べたらいいのかすら分からない。文字が滑ってよく読めない。
それでも文字を追っていたその時、扉が開いた。
「うわあああ! どうしましょう、コニー!」
「俺に聞くなよ、サシャ!」
サシャとコニーが駆け込んでくる。二人とも顔が青い。
「課題、全然書けてません……」
「俺もだ。このままじゃ追加で罰則だ……」
二人は隣の机に突っ伏した。
「あの、手伝おうか?」
別の声がした。アルミンが本を片手に心配そうな顔をしてサシャとコニーに話しかけていた。
「アルミン! 助けてくれ!」
「お願いします!」
二人が飛びつく。アルミンは困ったような顔をしながらも、頷いた。
私は作業に戻ろうとした。
「お前も補習の課題あんのか?」
びくり、と肩が跳ねた。
話しかけられた。
顔を上げるとコニーがこちらを見ている。私は書類を隠そうとした。だが、諦めた。もう遅い。
「……ある」
私は書類の上に中途半端に覆いかぶせた腕を、どけながら言った。
「へえ。じゃあ、お前も赤点とったのか」
「私たちと同じですね」
「そう」
私は視線を書類と辞書に戻した。だというのに、サシャの明るい声が、屈託のない表情が頭から離れない。
――数年後、彼女は凶弾に倒れる。
いや、考えるな。いい加減に遅れを取り戻さなければならない。
「俺はコニーだ」
「私はサシャです」
まだ続くのか。
私は渋々二人に目を合わせる。サシャもコニーも後ろ暗い所のない純粋な瞳をしていた。それを真正面から見る勇気がなくて、少し目を逸らした。
私の選択がどのような影響を及ぼすのか考えると、腹の底が冷えるような恐怖を感じる。そもそも私は漫画のキャラクターと関わっていいような人間じゃない。
二人を無視したかった。関わりたくなかった。
だがここで無視する方が、かえって印象に残ってしまうだろう。
私は唇を軽く湿らせてから口を開いた。
「……。私は――」
「――ミノリだろ」
なんで知っているのだろうか。
「お前有名だもんな」
「そうそう有名ですよ、ドベだって」
そう言ってからサシャは「――あ」と言ってコニーと顔を見合わせた。
「すっ、すみません!」
「……いい、事実だから」
私は辞書を手に取り、わけのわからない文字列に向き合った。これでもうこの三人と関わる必要もない。それに、今度こそ集中しなければ。
書類は空白のまま。辞書を引いても分からない言葉が出てくる。もう一度その言葉を調べる。また分からない言葉が出てくる。
これの繰り返し。ただ時間ばかりが過ぎていく。
静かだった図書室には、アルミンの説明する声と二人の唸り声がBGMのように響いていた。
「ねえ」
ふいにアルミンが話しかけてきた。
「ミノリもなにか分からないこと、ない?」
「いい」
私は書類から視線を上げずに、即座に断る。
関わるつもりはなかった。
「でも……」
アルミンは言いづらそうに言葉を切った。
「……その、ミノリって実技の成績もよくない、よね?」
「……。うん」
「座学でも赤点を取ると……退団させられるかもしれないんじゃない?」
痛い所をつかれた。
事実だった。
「……アルミンって、結構いじわる、だね」
思わず顔を上げてそう言った。
「えっ!? そんなわけじゃ――」
アルミンが慌てて手を振る。
「違うよ! ただ、心配で……」
そのあまりの慌てぶりに小さく笑った。アルミンは驚きと安堵が入り混じったような表情を浮かべた。
確かに、アルミンの言う通りだった。成績という基準で考えれば、今、最も開拓地に戻される可能性が高いのは私だ。
退団させられるわけにはいかない。
まだ、死にたくない。
ここでアルミンの善意を突っぱねるのも不自然だろう。
それに、アルミンは絶対に死なない。エレンがそんな未来を許せない。
――だから、彼と交流しても心は痛まない。
「……じゃあ、アルミン、教えて、くれる?」
アルミンの表情が明るくなった。
「もちろんだよ」
「これは、どういう意味」
「ここは――。退路を囲まれた状況で如何にして補給を――」
「――ごめん。そうでは、なくて。……ん、この、これ――」
私は読めない文字列を指差した。
「――はどんな意味の言葉?」
「それは……『橋頭堡』。意味は……前進拠点かな」
アルミンが丁寧に説明してくれる。私は頷きながら、紙の切れ端にメモを取った。
「では、これはなんと読む、の?」
「『輜重』だよ」
またメモを取る。
「あと、この文章の意味が……」
アルミンが一つ一つ説明してくれる。私は必死にメモを取り続けた。
「分かった。ありがとう、アルミン」
私は教本を閉じて、提出する書面に向き合い、ペンにインクを付ける。
――『本レポートでは巨人に囲まれた状態で――』。
「え!? これだけでいいの?」
「うん」
まだ書類に空白は多い。だが、少なくとも何を書けばいいかは分かった。あとは時間をかければ何とかなるだろう。
「ちょ、ちょっと。待ってください!」
サシャが叫んだ。
「……なに?」
「も、もう……書けるのですか?」
「書ける。明日の朝、提出、してくる」
「――裏切り者ぉ!?」
サシャが愕然としながら叫んだ。
「俺たちを見捨てるのかよ!?」
「裏切った、わけでも、見捨てた、わけでもない。あなたたちが、仲間だと、勝手に思っているだけ」
「くそォッ!」
「酷いですよ!」
サシャもコニーも頭を抱えて机に突っ伏す。それを見るアルミンは困ったような顔をしているが、どこか楽しそうだ。
アルミンは二人を励ましながら、今日の兵法の講義で学んだことの復習を始める。二人は聞いているが理解はしていないのだろう。そんな顔をしていた。
思わず頬が緩む。みんならしかった。
それから慌てて唇を引き結ぶ。心を許しては駄目だった。
特にサシャには――。
ぽたりとインクが用紙に滴った。私は溜息をつく。気を抜きすぎだ。
これぐらいの書き損じなら許されるだろうか。
私はぼんやりと書類を見つめた。
◇
原作にあった通り、対人格闘術の講義はある意味で人気が高い。
なにせ、点数にならない。故に原作でアニが説明していた通り、憲兵団志願者――上位十名狙い――からすれば、数少ない手の抜ける講義だった。
とはいえ少ないと言えども成績はつく。落第生たる私はこういった講義でも真面目にやらなければ、いつ退団させられるか分からない。
しかし困ったことに組む相手がいなかった。友人のいない私には所謂
その上、私は非常に弱いが真面目に訓練を行っている。となると内地志願者からも、真面目に格闘術を学んでいる人からも人気がない。
仕方ないので訓練場をぶらぶらと、さまよった。
――暫く経ったころだった。
「お前も、やるやつがいないのか」
唐突に背後から声がした。
振り向く。意志の強そうな瞳が目についた。
息を呑む。
「――エレン……イェーガー……」
茫然とその人の名前を呼んだ。
エレンだった。
この物語の主人公。始祖ユミルの二千年の旅路の終着点を目指すひと。
彼の所業と末路が脳裏に浮かぶと、自然と呼吸が浅くなった。
そんな私の動揺など露知らず、エレンは気まずそうに頬を掻くと、「えっと……」と言った。
「悪い、お前の名前、なんだっけ」
「……ミノリ・タイレ」
「ありがと、ミノリか。――で、どうなんだよ」
「……え?」
「やるやつ、いないんだろ。なら、俺とやらないか」
「あ……うん……。……やるひと、いない」
挙動不審になりながらも咄嗟にそう答えた。
言ってから、しくじった、と思った。なにせエレンだ。主人公だ。原作を変えないためにも関わらないほうがいい。
だが、同時に、わずかでも成績を稼ぐためには真面目に講義をこなさなければならなかった。
「……やる」
私は考えた末に頷いて、そう言った。
「よろしく、ミノリ」
エレンが手を差し出してくる。その手を取ろうとして、止まった。
私は、彼を、見殺しにする。
一人の男の子の生きたいという、好きな女の子と一緒にいたい、なんて、些細な願いすら見捨てるのだ。巨人のいない未来、私が生きる未来のために。
胸がじくじくと痛んだ。
目をつむり、息を吐く。
暗闇の中、ふいに、柔らかなものが手を包んだ。
はっと目を見開く。
エレンが私の手を握っていた。
当然だが、その手は温かく、生きた人間の手触りをしていた。
こんなにも、生きているというのに。彼は、死ぬのだ。
罪悪感が腹の底から滲み出る。それを飲み込みきれなくて、私は意味もなく「ごめんなさい」と呟いた。
「……え?」
エレンが怪訝そうな顔をしていた。はっと我に返る。
「……なんでも、ない」
私は首を振った。エレンは不思議そうな顔をしていたが、それ以上は追及しなかった。
「よろしく。……エレン」
私たちは教官の出していた指示通りに、距離を取って対峙する。それから駆けだした。
胴にエレンの手が触れた。
次の瞬間、視界が回転していた。
背中から地面に叩きつけられる。肺から空気が押し出された。
「――!?」
――何をされたのか、全く分からなかった。
私は目を白黒させながら必死に呼吸した。
「わ、悪い!」
エレンが慌てて駆け寄る。
私は呼吸を整えようとして咳き込んだ。
「ミノリ!? 大丈夫!?」
アルミンの驚いた声が投げ掛けられる。
気づけば周囲に人だかりができていた。
「おいおい……やり過ぎなんじゃないのかエレン」
ライナーの呆れた声に、全身が強張った。
それから、もう、エレンとライナーの仲が良くなっていることを思い出した。多分、私ではなく、エレンを見ていたのだろう。
「ほら、立てよ」
エレンが手を差し伸べてくる。私にその手を取る資格はない。
私はゆっくりと、かぶりを振った。
「……へいき」
短く答えて、私は自力で立ち上がった。
まだ、終業の時間は遠い。それに、格闘術が得意なエレンから得られるものは多いだろう。
「もういちど、お願い」
私はそう言った。
訓練が終わり、私は手洗い場で泥まみれになった手を洗っていた。
何度も擦って、ようやく泥が落ちる。そうして綺麗になった掌にある、真新しい傷が目に止まった。転倒した時に擦りむいたのだろう。その傷に気づいた途端、じんじんと痛みだした。
傷口から泥を落とすように何度も洗う。水が沁みた。
あらかた綺麗になって、思わず、溜息を吐いた。
――エレンと、話してしまった。それどころか協働してしまった。
もしも、原作の流れが変わってしまったら、どうしよう。怖い。
考えすぎだ。この程度で大きな流れが変わるはずはない、はずだ。そう思いたいだけなのかもしれない。
流れが変わらなければ彼は死ぬ。生きたいと思いながら。
頭の中でぐるぐると思考の輪が廻っている。胃の腑に重い物があって、息苦しい。
それらから逃げるように、冷たい水を顔に浴びせた。何度も、何度も、そうした。
ふいに背後から足音がした。それは段々と近づいてくる。私は水を掬う手を止めた。
「よう」
聞き覚えのある声だった。体が強張った。
ぎしぎしと振り返る。
後ろにはエレン・イェーガーが立っていた。
私の顔も前髪もしとどに濡れていて、ぽたぽたと水滴が顎を伝って胸を濡らす。乱雑に水気を腕で拭った。
「えっと……さっきは悪かった」
エレンは気まずそうに頭を掻いた。
「怪我、ないか?」
「……ない。……だいじょうぶ」
「そうか」
「……」
「……」
そこで会話が途切れた。
エレンは立ち去るでもなく、何か言いたげにこちらを見ている。
気まずさを感じた。
私は視線を逸らして、また掌を洗い始める。もう、泥はついていない。だが執拗に手をこすった。
「なあ」
エレンが口を開いた。私は迷ったがエレンの方を向いた。
「なんでお前そんなにびびってんだよ」
「――え?」
唐突な一言が胸に刺さった。
事実だった。
それから焦燥感が湧き上がる。
疑われて、いる。
私は無意識のうちに歯を強く食いしばっていた。
「……いや、ぶん投げたオレが悪かったかもしれないけどよ」
「……そんなこと、ない」
私はそう言ってごまかした。
「嘘だろ」
エレンの声が少し強くなった。
「……。そう?」
「さっきだって、オレの手を取るの迷ってただろ。何なんだよ」
「……」
言い返せなかった。
私は無意識に湿った毛先をいじっていた。
どうしようか。
エレンは真っすぐこちらを見ている。
逃げられない。何か言わなければ、もっと疑われてしまう。
――上手い嘘のつき方は、時折真実を混ぜること、だったか。
「……私も」
考えあぐねて口を開く。その声はみっともなく震えていた。
「私も、……シガンシナ区、に、住んで、いた」
「いきなり何言って――」
エレンは息を呑んだ。
「じゃあ、お前も……」
頷く。
続きを言わなくてはならなくて。でも、口がひどく重い。
鎧の巨人に踏みにじられる家屋、命、尊厳が頭にこびりついて離れない。あのときの憎悪と恐怖と、醜い安堵感が生々しく蘇る。
息苦しかった。
「おい、大丈夫か?」
私は浅く頷く。
そして唾を飲んでから、ゆっくりと口を開いた。
「……家族も、……住んでいたところも。……ぜんぶ。踏みつぶされた」
「そう、なのか……」
エレンは心配と悲しみを浮かべた。
それから、ややあって、エレンの瞳に喜びと、ぎらついた光が宿った。
「じゃあ、お前も巨人を殺すために……!」
私は首を振った。
「違う」
エレンは呆気にとられた表情を浮かべて「え?」と言った。
「……じゃあ、なんで入団したんだよ」
「……仕方なかったから」
「仕方なかった、って」
エレンの声に困惑が滲む。
「開拓地には、いられなく、て。だから訓練兵、に」
「……」
エレンは黙り込んだ。
「……でも、エレン。あなたには、巨人を殺す、という夢がある。……の、でしょ?」
「あ、ああ」
「だから……なのかもしれない」
「……え?」
私は一度言葉を切る。口の中は緊張で乾ききっていた。
「あなたは……私と同じ、モノを見て、でも、調査兵団に入ろうとしている」
シガンシナ区の惨劇――。あの日、エレンが見たものと、私が見たもの。それらはきっと近似している。
「あなたのことが……理解できない……」
だというのにエレンは萎えることなく、巨人への敵意と自由への渇望を抱き続ける。今も、己の末路を知ったときでさえ。
それは私にはないものだった。
「だから、怖い」
私は事実だけを口にした。
嘘を内包して。
エレンの目に落胆が宿る。それを見て安心した。
私はその程度の存在に過ぎないのだから。
「そう、かよ」
束の間、沈黙が訪れた。
「……なあ、お前、何かやりたいことないのか?」
ふいにエレンが聞いた。
私は「……え?」と素っ頓狂な声を上げる。
「……。わた、し、は……。……生きる、ために。……生き、て」
それだけだ。
ただ生き延びるために、ここにいる。強いて言えば原作の流れを変えないことが目的だ。しかし、それは、やらなくてはいけないことであって、やりたいことではなかった。
「……ない」
愕然とした。
「やりたいこと、……ない」
繰り返すと、その空虚さがより重くなった。
エレンが顔をしかめた。
「そうなのか」
エレンは真っすぐと私に視線を合わせた。
「――オレなら、そんな生き方、ごめんだ」
そしてきっぱりとそう言った。その声は、悪意などなくただ率直なものだった。眩しいくらいに彼らしかった。
「あな、たは。……エレン・イェーガー、は。なにを、したいの」
だから、答えの分かり切った問いを投げかけずにはいられなかった。
「オレは巨人を駆逐し――壁の外の世界を見るんだ」
――嗚呼。
「そう、だよね」
知っていた。
壁の外は楽園なんてない。人のいる、世界が広がっているだけだ。
人間社会で生きている以上、何にも縛られない自由なぞ存在しない。それでもエレン・イェーガーは自由を求めて進み続ける。
――そして、巨人を駆逐するのだ。
「エレン」
私は、エレンを見た。彼の目は夕日をうけて、きらきらと輝いていた。それから目を逸らしたくなるのを堪える。
「私は……あなたのことを、とても応援している。本当に……尊敬している……」
世界よりも愛する仲間を取った人。最期まで突き進めてしまった人。それでも、生きたかった人。
だから、紙面上でずっと追っていた。
やきもきしながらも、真意を知ったときには、涙せずにはいられなかった。
「だから……」
なぜだか鼻の奥がツンとした。
「……頑張って、ね」
私はぎこちなく微笑む。エレンは息を呑んだ。
「――お前、本当にそう思ってんのか?」
「うん」
「……変なやつだな、お前」
エレンは少し驚いたような顔をした。
「そう、かも」
「でもまあ……ありがとな」
エレンがそう言って、手を上げた。
「じゃあな、ミノリ。また明日」
「……うん」
エレンが立ち去っていく。
私はその背中を見送った。
――ごめん。
やがて、エレンの後ろ姿が見えなくなる。私は地面にしゃがみこんで膝を抱えた。
彼は十年もしないで死ぬ。十九歳で死ぬ。
私は裏切り続ける。
未来を知りながら、何も変えない。見殺しにする。
それが、私の選択だった。
――ごめんなさい。
夕日が目に沁みるように眩くて、私は目を閉じた。
暫くそうしてから私は立ち上がる。退団させられないためにも、やるべきことは山積みだった。