棘 作:よく
前の番の者と交代で、銃を片手に小屋の外へ出て、入口脇の見張り位置につく。ひんやりとした空気は夜のにおいがした。
割り当てられた夜番は最後の時間帯だった。ギッと音を立てて馬小屋の扉が閉まると、ただただ濃い闇だけが広がっている。
背後にはみんなが眠る小屋、正面には森が広がっているのだろうが、夜明け前のいまとなっては、月も沈み、それすらもはっきりとは分からない。
じきに太陽が昇り始め、周囲が見えるようになるだろうが、待つとなると長く感じるものだ。
馬小屋の外壁に背を預け、顎を胸に寄せるようにして体を丸めると、かすかな鉄臭さが鼻についた。
ふいに、胸にしなだれかかってきた女の兵士の背中の生温い重みがよみがえる。なんともなしに、銃をぎゅっと握った。硬く冷たい感触が、沁みるように広がる。
銃床は微かに歪んだままだった。
あのあと、うつらうつら眠ることができたようだった。浅く細切れな微睡を経て、こうして目が覚めると、案外、平気だった。
凪いだように、あるいは、なにか一枚隔てたかのように自分の心を俯瞰している。
原作が変わってしまうことへの恐怖も。殺人への嫌悪感も。全部、沈んでいた。
もちろん、拾い上げようとすれば、軋むように痛む。でも、それは、いま、考えるべきことではない。
視線を逸らし、蓋をして、うずめる。そうして、表に出ているのはいつもどおりの私だった。
見張りを続け数十分が経つと、東の空がのっぺりとした黒だけではなくなり、山の稜線が白く、くっきりと浮かび始めた。
エレンとヒストリアが捕らえられた、いま、時間が惜しい。ほどなくして、私たちは出立した。
昨晩、リヴァイ兵士長とアルミンは、憲兵団に潜入しエレンを奪還するという作戦を立てていた。
そのために、憲兵の装備を奪う必要がある。
常ならば街――それも田舎ではない――まで行かなければ、憲兵に遭遇することは難しい。だが、昨日のことがあったから憲兵団は組織を挙げて、調査兵団を捕まえるべく山狩りをしている。
近隣の森に張り込んでいると、ほどなく憲兵が二人、沢へと下りてきた。 アルミンが水を汲みに来たふりをして彼らの注意を引き、その隙に、樹上に隠れていたミカサとリヴァイ兵士長が二人がかりで押さえ込む。憲兵たちはろくに抵抗する暇もなく地面に伏せられた。
私はその間、沢から少し離れた位置で周囲を警戒していた。
いつのまにか太陽が高く昇り、時刻は昼に近づいていた。
沢のあたりは、木々が開けていて、燦々とした陽光が直接降り注いでいる。薄暗い森の中、そこだけ、ぽっかりと浮かび上がっていて、目に痛いほどに鮮やかだった。
そこで、捕らえられた憲兵二人が、兵服と装備を奪取されている。私はその様子をちらりと見るにとどめた。
憲兵はやはり、マルロとヒッチと思しき人だった。
私は、ほう、と息をついてから、沢と森の間に立ち周囲に目を配った。
前方は延々と木々が連なり、緑がかった影が広がっていて薄暗い。一方で、背後からは、がさがさと装備を身に着ける音が沢の水音に紛れて聞こえる。アルミンとミカサが憲兵の兵服に着替えているのだろう。
衣擦れの音が聞こえなくなってからほどなくして、背後から、せせらぎに紛れて、「あなたたちのせいで、ストヘス区の人民が百人以上も死んだのを知っていますか?」と、震えた女の――ヒッチの声が微かに聞こえた。
「あなたたちは……自分が正義の味方でもやってるつもりなのかもしれませんが……あの街の被害者やその家族は、突然、地獄に堕とされたんですよ?」
それは、あまりにもふつうな。ふつうだからこそ、尊い感覚だった。
あたりまえだ。突然、街に巨人が――避けようのない災害が訪れることは、地獄のような光景をもたらす。
そう、なのだ。
「あぁ……知ってる」
リヴァイ兵士長が淡々と肯定すると、ヒッチは微かな沈黙ののちに、「あ、あんたたち……南方訓練兵団出身なんだってね。アニ・レオンハートと同じ……あのことは仲良かったの?」と言った。
「いいや……友達なんかいなかったでしょ? あいつ……暗くて、愛想悪いし。人とかかわるのを怖がってるような子だったし……。あいつのこと、まだ、なにも、知らなかったのに……
あの日以来……みつかってないのは、」
息を吸う程度のわずかな沈黙が落ちた。
「巨人にグチャグチャにされて、見分けつかなくなったからでしょ!?」
沢のせせらぎにかき消されることのない声量でだった。
彼女はただ、同室であるだけで、しかもたった一か月程度しか関わりのないアニを慮って、リヴァイ兵士長に盾突いてみせていた。
問い詰められた兵士長は「いいや、潜伏してた巨人の正体がアニ・レオンハートだったからだ」と、怒りを滲ませることすらなく、いつもどおりの声色で答えた。
「ヤツはいま、捕らえられてる。末端の新兵まで知っていいことじゃねぇがな……。
まったく……イヤになるよな。この世界のことをなにも知らねぇのは、俺らもみんな同じだ。この壁の中心にいる奴ら以外はな……。
お前たちは……俺らがここを離れるまで拘束するが、出発と同時に解放する。お前らの足より遅れるようじゃ……どのみち、無理な話だ」
せせらぎや梢の揺れる音だけが聞こえる。その静寂を、男の、マルロの声が破った。
「――リヴァイ兵士長。
あなたたちが間違っているとは思えません……。本当に……調査兵団が、リーブス商会を……民間人を殺したのですか!?」
「会長らを殺したのは中央憲兵だが、なにが事実かを決めるのは、この戦に勝った奴だ」
一拍、力を溜めるかのような沈黙ののちに「俺に協力させてください!」とマルロは声を張り上げた。
「この世界の不正を正すことができるのなら、俺はなんだってやります!
中央憲兵を探る任務なら、俺にやらせてください! 変装なんかより、ずっと、確実なはずです!」
世界の不正を正す――。
マルロは困難であると理解したうえで、心底から、そう思っているのだろう。体制に歯向かうのも厭わないのがその証左だ。
マルロも――やがては――ヒッチも、困難であると知りながらも、立ち続けることができる。それは、尊いものだった。
だが、あるいは、だからこそ、マルロは調査兵団に入団して、死ぬのだ。
「……だめだ。お前に体制を敵に回す覚悟があるかなんて、俺には計れない。
お前の今の気持ちが本当だとしても、寝て起きたら忘れちまうかもしれねぇしな」
リヴァイ兵士長がマルロに告げると、今度は私たちに向けて「――行くぞ」と言った。
私はマルロとヒッチのいるあたりを避けて、馬を停めていたところへと向かう。持ち場であった沢から離れかけたところで、後ろから「兵長!」と、呼ぶジャンの声が響いた。
振り向くと、ジャンは、リヴァイ兵士長やマルロとヒッチに近い川べりにいた。彼の空から直接降る日差しをやわらかく浴びている顔には、強張った表情が浮かんでいる。
「俺にやらせてください!」
ジャンの硬い声が風に乗って聞こえてきた。
リヴァイ兵士長はつかのま、なにも返さなかった。だが、やがて、「任せる」とジャンに視線を合わせながら言うと、先へと歩いて行った。
ジャンはナイフを見せびらかすように片手に持って、マルロとヒッチのいる方へと向かう。
私はそれを確認してから、荷馬車への道を辿った。
鬱蒼としてはいるが、あちらこちらで、ちらちらと木漏れ日が踊っている。裏腹に、胸中には苦いものが積もっていた。
アルミンが殺すはずだった憲兵の女を、私が殺してしまったことで、どのようなことが起きるかわからなかった。マルロとヒッチをジャンが引き込めるか心配だった。
昨晩の会話とさきほどのジャンの行動から、ひとまずは安心できたが、それでも、綱渡りでもしている気分だった。
こんなことになるのなら、憲兵の女を殺さなければ、よかった。
一度やってしまったことは、取り返しがつかない。くだらない後悔だと理解はしているが捨てることはできなかった。
昨晩、兵士長は、なにが本当に正しいかなど分からない、と言っていた。
ジャンはマルロとヒッチを信じることを選んだ。その選択だって正しいかなど判断することはできないが、それでも、安易に暴力に頼ることのない方法は眩しいものだった。
だが、私のやったことは間違っていた。正解を知っているのに別の方法を取るなんて、途方もなく愚かだった。
振り向いても、ジャンたちはもう見えない。ただ、さんざめく陽光を受け、キラキラと魚の鱗のように輝いてる沢が見えるだけだった。
ジャンがマルロとヒッチを連れて私たちのもとへと戻ってきたのは、すぐのことだった。
◇
ミカサとアルミンが着ていた憲兵の兵服を、マルロとヒッチに返し、先日、戦闘をしたウォール・シーナ東端のストヘス区へと、とんぼ返りした。
いまだ憲兵の多いそこで、マルロとヒッチ両名は中央憲兵の情報を探り、根城の場所を突き止める。
マルロとヒッチには万が一のために、ハンジさんたちと事前に取り決めていた合言葉を伝え、ストヘス区に残ってもらう。私たちは中央憲兵の根城へと向かった。
◇
マルロやヒッチ、ジャンの力により、中央憲兵の根城は当初の予定よりも随分と早く探し出すことができた。それでも距離があったので到着したころには、もう、夜になっていた。
中央憲兵の根城は、草原の中、忽然と姿を現した。
月にぬらりと照らされた屋敷は、よくいえば質実剛健な調査兵団の施設と違って、飾り気のある、いってしまえば、おしゃれなものだった。
コニーがぽつりと「すっげぇな」とこぼしていたが、その気持ちがよく分かる。軍の建物だとは思えないほどに綺麗に整備されているのだ。
荷馬車は中央憲兵の根城から死角になる位置に停まった。私は銃を手に降りようとした。そのときだった。
「ミノリ、お前が見張りだ」
先に降りていたリヴァイ兵士長の鋭い瞳が私を見上げている。
「……は、」
一瞬、なにを言われたのか分からなかった。
聡く、不測の事態に強いアルミンが見張りを任されることが多い。そも、この場面はアルミンが見張りではなかっただろうか。
横目でアルミンを見ると、彼も困惑したように何度か瞬きをしている。
なぜ、いつもとは違う命令が下りたのか、よく分からない。だが、上官の命令であるし、この程度、些末な違いだ。そう、信じるしかない。
「了解、しました」
リヴァイ兵士長とミカサ以外のみんなの表情は硬い。私が「気をつけて、ね」と言っても言葉は返ってこず、ただ、浅く頷くだけだった。
みんなが深い草むらをかき分けながら、憲兵の根城の方へと進んでいく。その背中が見えなくなるまで見送ってから、馬車の荷台で銃を構えて見張った。
月明かりが一面を煌々と照らしている。夜闇と同じ色をした草原は、風が吹くたびに銀とも灰ともつかない波をたててうねった。その果てに、憲兵の根城が見える。
静かなものだった。
風が草を擦る音だけが聞こえている。
おそらく、いまごろ、もうすでに、憲兵の根城では戦闘が行われているのだろうが、傍目には異常に気づけない。
それは、潜入し親玉を捕らえるという任務の性質上、好ましいものだった。
本来であれば、この時点でアルミンはもうすでに殺人を経験している。だが、私が静観していられなかったせいで、アルミンの手はまだ汚れていない。
今後のことを考えれば、この段階で人を手にかける経験をしている方が望ましいだろう。
アルミンはベルトルトを食い殺し、民間人諸共、港を爆破する。だから、いまのうちに誰でもいいから殺しておいたほうが――。
――。
瞬く。
その、前後ともに視界に歪みはなかった。すべて、いつもどおりだった。
だけど、私は、いま、なんと。なにを、胸算していたのだろうか。人の命を、目的のために切り捨てようと、アルミンを意のままに動かそうと、していなかったか。
胸の底が急速に冷え固まって、は、と息が漏れた。
アルミンを手段になんて、したくない。だが、多分、地鳴らしを起こし百年の平和を得るためには、些末な問題に過ぎない。と、考えているのはくだらない言い訳か。
仕事をしなければいけない。
見張りに集中しようとする。だけど、どうしても胸の底から広がる冷たいものを、忘れることはできなかった。
日が落ち、じっとしていると、夏と言えども体が冷えていった。
冷えた体をごまかすように時折みじろぎしながら見張っていると、やがて、がさがさと草をかき分ける音が耳を打った。
銃を構える。
銃口を下げたまま、揺れる草むらを睨めつけていると、ほどなくして、憲兵の男を連れたリヴァイ兵士長を先頭に、みんなの姿が見えた。
「全員無事だ」
リヴァイ兵士長のその声を聞いて、肩から力が抜けた。そのことで、緊張していたことにはたと気づく。
私は意識して呼吸をしてから、銃を下ろす。
兵士長の腰の辺りで、兵士長に首根っこをつかまれた憲兵の男がもがいている。動きにつられて男を見ると、その目が恐怖や怒りやらで絶えず揺れ動いていた。
その目から視線を断ち切り、兵士長を見る。兵士長はいつもどおりの雰囲気を纏っていたが、兵士長の後ろで周囲を警戒しているみんなは――ミカサでさえも――緊張で強張った表情をしていた。
「ご無事で……なにより、です」
「だが、やはり二人はいなかった。移動するぞ」
「はい」
私は頷いた。
憲兵の根城から距離を取るように、速く馬を走らせる。街道から外れ、人気のない場所に着くと、リヴァイ兵士長は「ここでいい」と端的に告げた。
荷馬車を止めた途端、兵士長は憲兵の男の襟首を掴むと、いとも簡単に荷馬車から引きずり下ろした。
私たちは慌てて武器を取り、兵士長を中心に散開した。
武器を構える私たちの中央にはリヴァイ兵士長と憲兵の男がいる。だが背を向けているので私からは、夜闇のなか、ぽつぽつと月光を受けて浮かびあがっている木々しか見えなかった。
憲兵の男を蹴り飛ばしたのだろうか。背後から、硬いものにぶつかる音が響いたあと、男の呻き声がした。それから兵士長は「いいヒゲだな、あんた」と言い、鋭く詰問した。
「エレンとクリスタはどこだ?」
憲兵の男は息を荒らげて「部下は殺したか?」と、逆に問いかける。
「……残念だが、あんたの部下は助けに来ない」
兵士長は苛立ちだとかを欠片も見せない声で返した。
「あんまり殺すのも困りものだからな、しばらくまともに歩けないようにはしておいた。これで中央憲兵は、しばらく使い物になんねェよ」
憲兵の男は乾いた笑いを零すと、「勇ましいことで」と、皮肉っぽく言った。
「丸腰の憲兵を片っ端から斬っちまえば、誰でも英雄を気取れる……。
言っとくが、あの屋敷には……なにも知らない使用人も含まれていた。お前らが見境なく斬った中にも、確実にな」
ちらりと横目で少し離れたところに立つアルミンを見ると、彼の顔からは血の気が引いていた。わずかに眉をひそめた顔からは後悔や嫌悪といった感情が、まざまざとうかがえた。
おそらく、ジャンやサシャもコニーも、同じように呵責に苛まれている。
だが、それが望ましい。
こうなれば、二人やみんなが、手心を加えて殺されるようなことはないだろう。
「あぁ、そうか……。それは気の毒なことをしたな」
ゴッ、っと乾いた音のあとに、男の、湿って、くぐもった短い悲鳴が鳴った。
どくりと鼓動が跳ねた。私は、弾かれるように、そちらを、見てしまう。
憲兵の男は兵士長に蹴られたのか、口に靴がねじ込まれていた。
「俺だって、かわいそうだと思っているんだ。特にあんたの口は気の毒でしょうがない。また、まともに喋れるうちに口を使った方が、いいぞ」
憲兵の男がリヴァイ兵士長の足を引きはがすかのように、必死に両手でつかむ。
だが、兵士長が男を解放するわけもない。むしろ、ぐりぐりと足に力を込めていた。その度に男の体が苦し気に震えた。
「エレンとクリスタはどこだ?」
リヴァイ兵士長は淡々と問うと、無造作に男の口から靴を抜く。男の口から唾液と血液が入り混じったものが滴った。
「……無駄だ」
男は何度も咽せてから、震えた声で答える。
「無駄なんだよ……。
お前らが……なにをやったって、調査兵……お前らにできることは……。この壁の中を逃げ回って! せいぜいドロクソにまみれてセコセコ生き延びることだけだ――!」
男は段々と語気を強めていた。
男が咽るたびに、声を出すたびに、口から赤い血がどろりとこぼれていた。
血は顎まで伝っている。これほど出血しているのなら、ただ口を切っただけではない。歯も、何本か折れているのだろう。
心臓が早鐘を打っている。
同じような怪我を訓練兵だったころ見たことがあった。訓練中の事故で何回か歯が折れたのだ。だが、それとは全く違って見えた。
ぞわぞわとした嫌な感じが、腹の底から喉元までつきあがってきた。それを飲み込むように、ぐっと息を吸う。
この暴力は、必要なのだ。どうしようもないことだ。ときには、人を虐げなければ、いけないこともある。
そうに決まっている。
見張りを、しなければならない。きっぱりと視線を前に戻した。
「それも、仲間を見捨ててな! お前らが出頭しなければ、囚われた調査兵は処刑される――! お前らがやったことを考えれば世間も納得する当然の報いだ!
最初は調査兵団最高責任者であるエルヴィン・スミスからだろう」
憲兵の男が脅しつけるように言っても、リヴァイ兵士長はなんら反応を返さなかった。
「ただし……お前らが独断でやったことだと、その首を差し出すのなら……ほかの団員の命だけは、なんとか助かるだろうがな」
懐柔するように男が言うと、沈黙が訪れた。
「わかったか、リヴァイ……もう、あんたがやれることは……それしかないんだよ。
お前の命を使って、仲間の命を救う……それだけだ。
俺が口を利いてやろう。そうすりゃ、うまくいく。」
いままでもこうやって、中央憲兵の上位者になるまで上り詰めたのだろうか。男はペラペラと喋った。
だがリヴァイ兵士長は間髪入れずに「イヤ、遠慮しておこう。お前はエレンとクリスタの居場所を言え」と返した。
「へぇ……」
男のその声は平静を取り繕っているようだが、どこか、動揺のような震えが滲んでいた。
「仲間を見殺しにして無駄に生き延びるか。そりゃ……また、絆の深ぇことで……」
「まぁな。調査兵団の命には優先順位ってもんがある。それを承知の馬鹿どもの集まりが俺らだ」
兵士長の声の合間に、ドンと、なにかがぶつかる音がした。
「そもそも王政が調査兵団を根絶やしにする絶好の機会を、俺らの首程度で逃がすとは思えねぇな……。それと、さっきの質問に答えなかった分がこれだ」
バキっと骨の軋む嫌な音がしたあとに、憲兵の男は絶叫した。
私は銃をぐっと握りしめた。
「うるせぇよ」
リヴァイ兵士長は淡々と言った。
「エレンとクリスタの居場所を言え」
「しっ、知らない!」
憲兵の男の声は、これまで取り繕っていた余裕の消え失せたものだった。
「本当に、ほとんどのことは教えられてないんだ! ケニー・アッカーマンは、とても用心深い!」
「アッカーマン……? それがケニー……、ヤツの姓か?」
「そうだが……?」
憲兵の男が不思議そうにぽつりと言うと、リヴァイ兵士長は「まぁ確かに……ヤツは教えねェよな。大事なことは特に……」と納得したかのようにこぼした。
「しかし、心当たりくらい、あるだろ? 思い出すまで頑張ろうか」
「ひっ……――」
憲兵の男は引きつった悲鳴をあげた。
「――よせ!」
男が大声を上げるが、リヴァイ兵士長は「まだ、骨は何本もあることだしな」と取り合わなかった。
「あんたは……まともじゃない」
「……かもな」
憲兵の男の震えた涙声に兵士長は淡々と同意した。
男は叫んだり、なにかを言ったりすることもなく、口を閉ざした。
驚くほどに静かになった。風に揺れた葉が擦れ合い、かすかなざわめきを立てている。その静けさのなかに、憲兵の男の荒い息遣いだけがあった。
憲兵の男は、痛くて、苦しいのだろう。
銃を握る手に、いつのまにか汗が滲んでいた。私は、なにも言わなかった。言う資格なんて、ない。
ただ、銃を握ったまま、じっと前を見ていた。
やにわに、視界の端でサシャが弓をつがえるのが見えた。
「あっちから誰か来ます!」
サシャが矢じりを向ける先には、まだ、なにも見えない。だが、彼女がそうするということは、なにかいるのだ。
私がそう思うのと同じように、みんなもそう判断したのだろう。どこかしこから、身を伏せたり銃を構えたりする気配や物音を肌で感じた。私も腰を落とし、銃口をサシャが矢を向ける方向へと向ける。
草をかきわけて地面につけた片膝がひんやりと冷える。下衣はいつの間にか、夜露で湿り肌に張り付いていた。
空気が張り詰めている。
暗闇と草むらの向こうから、草を押しのけたのか、がさりという音が鳴ると、「――私だ」と声がした。
聞き覚えのある声だ。
敵ではない。原作どおり、ハンジさんだ。
体から、力が抜けた。
ため息をつきそうになって、こらえた。普通なら、まだ、安堵しない場面だ。
私はしっかりと銃を持ちなおした。
「私だよ、リヴァイ。ハンジだよ!」
その、ハンジさんの声にリヴァイ兵士長は短く息をはいた。
「どうだかな。お前が銃を突きつけられて言ってる可能性だってあるだろ。
後ろにいるヤツらがそうなんじゃねぇか」
声は届くが、人影は見えない。それほどに、ハンジさんたちと私たちの距離は開いていた。だが、リヴァイ兵士長は気配だとかで、マルロとヒッチに気づいているのだろう。
「ええ!? 困ったなあ……」
ハンジさんとリヴァイ兵士長はその後も二、三、軽口を交わした。その軽口のどれかが符丁だったのだろうか。やがて、兵士長は「銃を下ろせ」と命じた。
サシャが、引き絞っていた弦をゆっくりと戻す音が、かすかに聞こえた。みんなも銃を収めている。
私も引き金にかけていた人差し指を伸ばし、銃口を地面へと向けた。そして立ち上がり、膝についた草やらを払った。
どこからともなく、ため息をつく声が聞こえてくる。張り詰めた空気は、じわじわとほどけていった。
ハンジさんとマルロとヒッチが草むらの向こうから姿を現すと、安堵した雰囲気が訪れる。だが、ハンジさんが、「現状を説明するよ」と、言うと空気はすぐさま引き締まった。
ハンジさんはリヴァイ兵士長に書状を渡す。みんなが兵士長の周りに集まった。私はその隙間から書面を覗き込む。
文字を追いはじめたのと同時に、ハンジさんは説明をした。
ハンジ・ゾエがリーブス商会やベルク新聞社の協力を得てしたこと。エルヴィン・スミスの謀略――。
ハンジさんは、私の知っている原作の展開通りに、ことのあらましを一通り言い終えると、表情を緩めた。
「――というわけで、調査兵団の冤罪は晴れ、君たちは正当防衛。王都も行政区もザックレー総統が仮押さえ中だ。今のところ、貴族たちの反乱は起きてない。
我々は、自由の身だ」
歓声が上がった。
私はみんなが喜びあっているのを一歩下がって見ていた。
サシャがミカサに抱き着いて、「やりましたよ!」と、言っている。ミカサはサシャに抱き着かれている――のを通り越して、全体重を預けられているのに、ぴくりともしていない。
ミカサも嫌そうな顔はしていなかった。
「ほんっとうに……ッ! ありがとうございました、ヒッチ!」
満足したのか、サシャはミカサから離れ、ヒッチに抱きついた。
ヒッチは「ちょっ!?」と声を上げた。彼女の体がぐらりと傾ぐ。
「まったく、あんたらみたいに頑丈じゃないんだから、もうちょっとお上品に接してほしいんだけど」
ヒッチがぶちぶちと言いながらサシャを引きはがす。サシャはヒッチから離れながら、「すみません」と笑い交じりの声で言いながら振り向き、私の方へと足取り軽く向かってきた。
「ついに私たち、自由の身ですよ!」
サシャは夜だというのに彼女の周りだけ明るく見えるような気がするほどに、喜色満面な顔をしていた。
彼女の後ろでは、ミカサがアルミンの肩を撫でていたり、コニーとジャンとマルロが喜びあっていたり――。みんながいまだに嬉しそうにしている。
「だから、もっと、こう……ヤッター! って感じで喜んだりしないんですか!?」
サシャは身振り手振りを交えながら言った。だが、知っている出来事をどう喜べというのだろうか。
「安心……してる、よ」
私が愛想笑いを浮かべると、サシャはわざとらしく肩をすくめた。
「安心してるなら、もっと、それっぽい顔をしたらどうなんですか?」
「……してる」
「してません」
サシャは呆れたような表情を消して、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ミノリ!」
「……。ん?」
こういうときの彼女に巻き込まれると、大抵、めんどうなことになる。だが、無碍にすることもできずに首を傾げる。
前触れもなくサシャは私に向かって駆けだした。思わず、一歩後ずさった。が、遅かった。次の瞬間、他人の、自分のものではない温かさに体が包まれた。
「――」
鼻の先で、サシャの高い位置で結われた髪の毛先が揺れている。何度瞬きしたって、それは変わらない。
私は、サシャに抱きしめられていた。
――だめだ。そんな資格はない。私は彼女を見捨てるのだ。
一歩、下がると、背中に回された手がわずかに緩まる。
そうだ、これでいい。
だって、サシャは、死ななければならない。サシャの死はファルコが顎の巨人を継ぐのに必要不可欠な要素だ。
心を、許しては――。
「いや、でしたか……?」
耳元で聞こえたサシャの声は、打って変わって沈んだものだった。
つきり、と、胸に細いものが突き刺さった。
いやなわけが、ない。
だけど、サシャに心を許しては駄目だった。私は重い脚を無理やり動かして、もう、一歩下がる。
背に回された手が、落ちた。
「あ。……ごめんなさい、ミノリ」
サシャのか細く震えた声が、胸を打った。サシャのさびしそうな、傷ついたような顔が、脳裏に浮かんだ。
「ッ……」
だめ、だった。
少し踏み出すと、離れようとするサシャの動きが止まった。顔を見るのが怖くて少しうつむいたまま、サシャの背に手を伸ばそうとして――本当にいいのか?――、止まった。
私は、彼女を、見捨てなければいけない。いけない、のに。
「……ごめ、ん……なさい」
なにに、だれに対しての謝罪なのかもわからない。それでも抑えきれなかった自己満足極まりない呟きに、サシャは「え? ……なにか言いましたか?」と不思議そうに聞き返す。
それに答えることなく、ゆっくりと、何度も手を止めて逡巡しながらも、サシャの背に腕を回す。回して、しまった。
シャツ越しにサシャの背中の輪郭と体温が伝わってくる。それから、サシャの体が小さく震えると、彼女は笑い声を漏らし、ぎゅっと抱き返してきた。
彼女の体温は不快ではなかった。
しばらく経ってからサシャの背からぎこちなく腕を外すと、ゆっくりとサシャが離れていった。
頬が熱い。
サシャやみんなの顔を見るのが、なんとも気恥ずかしくて地面を見ていると、ハンジさんが言った。
「エレンとヒストリアの居場所だが……心当たりがある」
顔を上げると、ハンジさんは懐から取り出した封筒をひらりと翳していた。
「確証を持つまでには至らないが、どうやらこれにかけるしかなさそうだね。この戦いは、そこで終わりにしよう」
兵士長が「どこだ?」と問うとハンジさんはレイス家の領地だと端的に答える。
「それから……。単刀直入に言おう、――エレンが食われるかもしれない」
ハンジさんの言葉にみんなが息をのんだ。
「エレンが食われるだと?」
「ライナーたちの会話や行動からの推察にすぎないが、それが、エレンから巨人の力を得る手段なのかもしれないんだ。続きは道中で話そう」
急速に冷え固まった空気の中、憲兵の男をしっかりと拘束してから、私たちは荷馬車に乗り出発した。
道中、ハンジさんは、得た情報を私たちに語った。
五年前、ウォール・マリアが破壊された日の夜にレイス家の人々がロッド・レイスを除き殺された。
その際にわざわざ石造りの礼拝堂が壊される。この事件は盗賊の襲撃によるものとされているが、このようなことを盗賊がやるには利がなさすぎる。
その上、生き残ったロッド・レイスは礼拝堂を再建した――。
事実――エレンの父であるグリシャが虐殺を実行した――を知っている私であっても、その行動は怪しいと言わざるを得ない。
聡いハンジ・ゾエであれば、なおさらのことだ。
ハンジさんはこの出来事の裏には巨人の存在があるはずだと、睨む。
かくして、エレンとヒストリアを見つけるため、私たちはレイス家の礼拝堂へ向かうことになった。
次回更新分は文字数と展開の都合により二話に分けて、連日または隔日で更新します。