棘   作:よく

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礼拝堂地下の戦い

 夜明けを迎えれば、レイス家の領地に兵団が送り込まれるだろう。それまでに、ウォール・ローゼ北方のレイス家の礼拝堂まで北上しなければならない。

 

 時間は一刻も惜しい。

 だが馬の休息をとる必要があり、道すがらの村で飼い葉や水を買い休ませた。その間も情報――切り裂きケニーと、アッカーマン家のこと――を共有する。また、アルミンの発案で、兵団の組織にも立ち寄り、対人立体機動装置の弱点をつくために煙幕や信煙弾を調達。

 

 道のりは順調に進み、夜明け前にはレイス家の所有する礼拝堂に到着した。

 

 

 

 この世界にやってきてすぐに、開拓地へと送られ、訓練兵になった。だから、宗教施設とは縁遠い生活を送ってきた。

 それでも、レイス家の所有する礼拝堂が、貴族の作ったものにしては簡素なつくりであるということは、一目で理解することができた。

 

 石造りの建物も、並べられたベンチも、窓ガラスも、どれも粗末なものではないが、華美でもない。

 

 それは、単に地下の秘密を隠すために目立たないようにしただけか。あるいは、この壁のうちに、束の間のささやかな楽園を作ったカール・フリッツ王の思想を反映した故か。

 

――なぜ、フリッツ王はわずかな間しか保たないとわかっていて楽園を作ったのだろうか。そこで殺されるまで生き長らえる人々の生を、顧みることはなかったのだろうか

 

 ふいに、浮き出てきた疑問。だが、それは、どうでもいいことだった。いまは仕事に備えなければいけない。

 

 それに。いずれにせよ、今日、ここは崩れ落ちる。数年後のそう遠くない未来には、フリッツ王の作った楽園は消え去る。

 

 全部、潰えてしまうのだ。

 

 窓の外に視線を戻すと、濃淡のコントラストの弱い夜闇が広がっていた。

 夜明けが近い。

 すなわち、中央憲兵らとの戦闘も近いのだ。

 

「……」

 

 細く、長く意識を集中させて、私は、ただ、じっと外を見張った。

 

「準備、整いました!」

 

 やがてアルミンの声が、がらんどうの礼拝堂に静かに広がる。その声に釣られ、視線を室内に戻した。

 

 アルミン以外のみんなが見張りをしているうちに、地下空間への行き方を見つけていたのだろう。敷かれた絨毯の下に隠されていた地下への扉。礼拝堂の中心にあるそれを、リヴァイ兵士長とハンジさんがしゃがみ、取り囲んでいた。

 

 アルミンもまた、その近くにいた。

 彼のそばにいくつかある樽には、火薬やらが詰められている。煙幕の準備ができたのだろう。

 

 戦闘は目前に迫っている。いつの間にか銃を強く握りしめていた手のひらには、冷や汗がにじんでいた。

 

「そうか」

 

 リヴァイ兵士長は、私たちのほうを見上げた。兵士長の鋭い瞳に、ランプの暖色の灯火の光が映っている。

 

「それで、お前ら……手を汚す覚悟のほうはどうだ?」

 

 殺人など、いまさらだった。この世界で生きながらえた瞬間から、私の手は汚れている。

 それよりも、ジャンが手を汚せるかのほうが、よほど不安だった。アルミンが原作どおりベルトルトを食べても平静に戻れるかのほうが、心配だった。

 

 ほんとうに、私は愚かだった。

 

 私は窓の外に視線を戻した。

 分厚い窓ガラスはまだ真新しく、ぼんやりと私の顔を反射している。

 

――お前、相変わらずひどい面、してんな。

 

 ふと、ユミルの声を思い出した。ぱっ、と窓ガラスに映る顔から視線を透かし、向こうの景色に焦点を合わせる。

 

 夜明け直前の黒々とした闇の濃淡が広がっている。もう、ここ数日で見飽きるほど見た光景だ。なにもじっと見る必要はない。だというのに、それを見た。それだけが、見ていても心がざわつかないものだった。

 

「……良さそうだな」

 

 兵士長の声が静かに響いた。

 

 

 

 マルロとヒッチに見張りを任せ、隠し扉の先の地下へと進むと、レンガ造りの通路が広がっていた。そこを無言で進み、やがて、突き当たりにいかにもな扉が見えると、私たちは足を止め、最終点検を始めた。

 

 ベルトに緩みはない。鞘やボンベに異常は見られない。ブレードやトリガーの接続にもがたつきはない。信煙弾にもしっかりと弾は込められている。

 いつでも、行ける。

 

 深く呼吸をする。

 

 意外なほど恐怖心は薄い。視線を逸らし、蓋をして、うずめれば、表に出ているのはいつもどおりの私だ。

 アルミンの持つ松明が赤々とレンガでできた壁を照らしている。ゆらゆらと頼りない明りをぼんやりと眺めた。

 

「いつでも、いけます」

 

 アルミンも点検を終えたのか、いつもよりも抑揚を抑えた声で言うと、「サシャは平気?」と聞いた。

 

「……え、ええ、はい。大丈夫です」

 

 サシャが手遊びでもするように弓の張りを確かめながら頷くと、沈黙が落ちた。

 

 この扉の先に本当に敵はいるのだろうか。そう思いたくなるほどの静寂だった。

 

 リヴァイ兵士長はタイミングを見計らっているのか、ただ、じっと、扉を見ていた。やがて、脈絡もなく兵士長が「いくぞ」と、言った。それを合図に、サシャはアルミンの松明を使い、矢の先に火をつけた。

 

 前にいるサシャの手元でか細い火が揺らめく。

 

 リヴァイ兵士長はちらりとこちらを見ると、前を見、扉を蹴破る。コニーやジャン、ハンジさんが煙幕の入った樽につけたボンベの栓を抜き、発射する。

 直後、兵士長とミカサが飛び出した。次いで、火矢を構えたサシャが。ハンジさんと、アルミンと、ジャンと、コニーと。そして、私も、握りしめているうちに、いつのまにか体温と同化した、信煙弾の込められた拳銃のトリガーに指をかけ、扉の先へと飛び出した。

 

 薄暗い地下道から、一気に、不思議な結晶でできた空間――巨人の硬化能力で作ったのだろう――の、まばゆい明りに包まれる。

 

 そういえば。

 

 こんな風に自分から攻めるのは初めてだと。奇襲を仕掛ける側になるのは、人を、殺すために動くのは、はじめてだと。

 

 ふいに、そう、思った。

 

 

 

 高い壁も、果てが見えない床も、遠い天井も。天と地を繋ぎとめるように、そびえ立つ幾本もの柱も。すべてが青白く、内側から、ちらちらと光を放っている。

 そんな幻想的な空間では、人の姿は影のようにぽつんと浮かび上がって見えた。

 だからこそ煙幕は効果を発揮していた。

 

 アルミンが発案した作戦はうまくいった。

 煙幕の入った樽をサシャが火矢で射抜き、同時にリヴァイ兵士長とミカサ以外で信煙弾を撃つ。かくして、煙に満ちた空間で立体機動装置を身に着けた者同士での戦闘が――殺し合いが、始まった。

 

 私はサシャやアルミンと同じく、この地下空間への入り口に近い場所から信煙弾を撃つことが任された。それが仕事だった。

 だが、私程度がいたところで、できることは少ない。逆に、知っている以上に悪くなることもない。

 

 ジャンはちゃんと、人を斬れていた。

 

 前衛で戦うメンバーは地下空洞に広がった煙の隙間を縫うように戦っている。

 私は

それを邪魔しないように、されど中央憲兵からは邪魔になりそうな位置に信煙弾を撃つ。

 

 後方支援が一人増えたことから、原作よりは多少、戦いやすくなったのかもしれない。しかしながら、ついに綻びを突かれ、視界の端で、ぱっ、と鮮血が散る。

 

 焦点を合わせる。

 

 血はハンジさんの肩から散っていた。どくりと鼓動が跳ねた。目を凝らすと、ハンジさんの近くにいる憲兵から放たれたアンカーが深々と突き刺さっていることに気づく。

 

 ひゅ、と息を呑む音が、ほど近くから二つ聞こえた。

 

 ハンジさんの肩にささったアンカーを憲兵が巻き取る。ハンジさんは不自然な軌道で壁に叩きつけられた。肩からアンカーが抜ける。血が噴き出す。そして、ハンジさんは受け身をとることすらできずに地に落ちる。

 

――見覚えのある、光景だった。知っていることだった。

 

 原作どおりなら無事なはずだ。

 鼓動はいつの間にか落ち着いている。私は一瞬視線を落とし、足元の木箱から信煙弾の装填されている拳銃を拾い上げた。

 

「――ハンジさん!」

 

 アルミンの叫び声が横から聞こえた。瞬間、立体機動装置の動作音がした。横目で見ると、アルミンは遮蔽物の内側から飛び出していた。

 

 サシャが「アルミン!?」と困惑の混じった声で言うのと同時に、弓を引き絞る音が聞こえた。

 

 アルミンは、地面にぐったりと倒れ伏すハンジさん目掛けて、低い軌道で立体機動していた。

 

 敵はまだ撤退していない。どこから狙われているかわからない。無謀だ。

 

 私は信煙弾の込められた拳銃のトリガーを引く。発砲音と同時に反動が手をぐっと押した。

 緑色の煙は尾を引きながら突き進む。これならアルミンを隠すことができるだろう。

 

 その結果を目視するよりも先に、弾切れした拳銃を投げ捨て、新しいものを拾い上げる。

 

 もう一度、今度は、ハンジさんのいる場所へ信煙弾を撃つ。

 煙はぐんぐんと進み、やがて、もやのように広がった煙がハンジさんを隠した。これで、かろうじて射線を切ることはできた。

 

 それと同じくらいのタイミングで、「総員後退」と、女――憲兵だろう――の声が、反響しながら遠くから聞こえた。瞬時に憲兵たちは統率された動きで、より奥へと撤退していった。

 

「――アルミン! ハンジを任せた!」

 

 兵士長の声が鋭く響く。

 囚われたエレンと、始祖を継がない決意をしたヒストリアのもとへ向かうことになるのだろう。私は手に持っていた拳銃を置き、汗で湿った手のひらを上衣の裾で乱雑にぬぐった。

 

「残りで、敵を追う!」

 

 「了解」と、私とサシャは声をそろえて答え、立体機動装置のアンカーを放った。

 

 

 

 空気が煙臭い。目に染みるほどの煙の濃さではないことは救いだったが、床に近い場所では、いまだに黒煙が滞留している。高度を落としすぎれば、まともに前を見ることもできなくなるだろう。

 私は柱のようにそびえたつ結晶の、やや高い場所にアンカーを撃った。

 

 ガスをふかし、ワイヤーを巻き取るたびに、結晶でできた景色がぐんぐんと後ろに流れていく。

 その白みを帯びた青で構成された視界の中、点在する赤黒い血だまりや、地に落ちた憲兵たちは、浮かび上がるように目に付いた。

 そのどれもが動いていなかった。大勢、死んだのだ。

 

 眼下でなにかが動いた。それは、負傷したハンジさんを介抱するアルミンだった。

 アルミンはハンジさんのぐったりとした身体を両脇から支え、なにか声をかけながら、出口のほうへと移動している。彼らしかった。

 

 この感じだと、原作どおりに進むだろう。視線を断ち切る。前方を見やる。そびえ立つ結晶の合間に兵士長が率いる見慣れたみんなの後ろ姿があった。

 私とサシャはみんなのもとに合流すると、訓練でそうしたように隊列を組み進んだ。

 

 奥へ進めば進むほどに、空気が重く、淀んでいる感じがした。風がほとんど吹いていないからだろうか。不快だが、無風であるおかげで、私たちは順調に進むことができた。

 

 ふいに前を行くミカサの身体がぴくりと小さく跳ねた。前方を向いたのか彼女の黒い髪が揺れる。同時にリヴァイ兵士長が声を張り上げる。

 

「お前ら、柱にしがみつけ!」

 

 考えるよりも先に、体が指示に従った。

 

 移動のためにアンカーを刺した柱へと跳び、アンカーを固定した。次の瞬間、前触れもなく稲妻に似た閃光が迸った。

 

 ロッド・レイスが脊髄液を摂取したのだろう。ヒストリアは、選んだのだ。

 

 目の奥を刺すようなまばゆい光が、黄色から暗い橙色へと変わった。同時に吹き始めた風は、熱を帯びていた。

 その風圧か、それとも、ロッド・レイスが巨人になった余波で地下空洞が揺れているのか、アンカーを固定し壁に足を付けているというのに、体は縦に横にと揺さぶられた。

 

「まさか……巨人……」

 

 ジャンがぽつとこぼす。

 

「エレン……」

 

 ミカサが不安の混じった声で呼んだ。

 

 びしっ、と、なにかにヒビが入るような音がした。同時にひときわ大きな揺れが体を襲った。

 

 サシャが上を見た。

 

「こっ、これ崩れるんじゃ……」

「やばいんじゃないか!?」

「兵士長!」

 

 ミカサが兵士長のほうを見ながら声を張り上げる。

 

 兵士長は睨むように前方――閃光と熱風の発せられた場所、エレンとヒストリアがいると目される場所――を見ながら、口を開いた。

 

「まだ憲兵どももいやがる、いつここが崩れたっておかしくねえ。だが、撤退したって状況は悪くなるばかりだ。

 行くしかねぇな」

 

 兵士長は私たちの方へ顔を向けた。

 

「この風だ。あいつらの銃は使いモンにならないだろう。こっちにも猶予がねえ。俺とミカサ以外は相手をするな」

 

 兵士長は私たちをひととおり見回した。誰も異を唱えない。

 

「――行くぞ」

 

 

 

 熱風が吹きすさんでいる。強いがアンカーが撃てないほどの強風ではないことは救いだった。

 

 前を行く兵士長やミカサはうまく風を受け流しているのか、安定感のある軌道で移動していた。ジャンとコニーも、隣を行くサシャも、時折、強い風で大きく体が揺られているが、それでも真っすぐに進む。

 私は、ついていくだけで必死だった。かろうじて引き離されていないのは、曲がりなりにも調査兵として訓練と実戦を積んだ成果か。

 

 風にあおられるたびに肝が冷える。なによりも、アンカーが風に煽られてどこにも刺さらなかったときのことを考えると恐ろしかった。

 だが、落ちたときのことを想像しても、しようもない。緊張をほぐすために意図してゆっくりと深呼吸をして、進んだ。

 

「儀式の間には行かせるな!」

 

 遠くにどこかいままでとは雰囲気の異なる空洞が見えてきたころ、前方から女の声がした。

 熱風で目を細めながら、じっと目を凝らすと、柱の側面に幾人かの人影がぶら下がっているのが見えた。

 

 彼らは対人立体機動装置を構えている。だがその銃口は風に煽られて定まっていない。兵士長の読みどおりだった。これではろくに狙うこともできないだろう。

 

 私たちは指示どおり前だけを見て進み続ける。

 

 散発的に放たれる銃弾は見当違いの方向へと着弾した。しびれを切らしてこちらへと距離を詰めてくる憲兵は、兵士長とミカサの手によって殺される。

 私たちはさほど時間をかけることなく、憲兵の包囲網を抜けだした。

 

 延々と続いた柱と壁だけの光景の果てに、この地下空洞の入り口と似た、人工物めいた構造のものが見えてくる。

 それがはっきりと見えてくるようになったころ、「あそこか……!?」とジャンが言った。

 

 青白い岩肌に沿って階段があり、その先のひときわ高い場所には張り出した岩棚のような足場があった。そこに、ぽつんと少年の人影が見える。

 

「エレン!」

 

 ミカサが放たれる矢のように飛び出す。私たちは彼女に続く形で進んだ。

 

 進むほどに吹きすさぶ風は熱くなる。その熱源、儀式の間と呼ばれていたこの場所の中央。そこからなるべく遠い外周を進んでいるが、それでも、息をするのも苦しいぐらいだった。

 

 歴代の王家の巨人を継承するための、ある種の処刑台が、はっきりと見えるようになった。

 そこにエレンは拘束されているのは、もはや一目瞭然で、突き動かされるように進むミカサの後ろ姿は、どんどんと遠くなる。

 

 エレンの両腕を磔刑に処するかのように左右へピンと引き、繋いでいる鎖が、熱風でわずかに揺れている。膝をつくように拘束されたエレンの足元では、金髪がはためいていた。ヒストリアがエレンの拘束を解こうとしているのだろう。

 

 ふいに、ブワッ、と、風が吹いた。

 熱い。

 咄嗟にアンカーを撃っていないほうの腕で顔を覆う。

 

 エレンが「ヒストリア!」と呼ぶ声が、風に紛れて聞こえた。目を細めて見ると、エレンの足元にいたはずのヒストリアが、風で飛ばされていた。

 壁に、ぶつかる。寸前、鋭利な軌道で人影――ミカサがヒストリアのもとへと舞い降りた。

 

 ミカサはヒストリアを受け止める。

 それとほぼ同時に、リヴァイ兵士長を先頭に進む私たちもエレンのいる岩棚へと到着する。

 

 私はみんなから一拍遅れて、地面に転げるように降り立った。

 

「兵長! みんな!」

 

 エレンが言った。

 

「鍵をよこせ」

 

 ミカサはヒストリアから受け取った鍵を兵士長に手早く渡した。

 

 兵士長と、エレンの近くに降り立ったジャンとコニーは、エレンに駆け寄ると拘束を解き始めた。

 

 サシャはヒストリアのもとへと駆ける。

 

 エレンの拘束を解くには私の助力は不要だろう。

――いや、そもそもとして私がここにいること自体に意味がない。

 

 それでも、見て見ぬふりは、できなかった。そう、思ってしまったことがあった。そんなくだらない自己満足を捨てられなかった。いまも、そうだ。

 

 肘をついてよろめきながら立ち上がって、階段を上る。

 風は強く、熱い。

 かき乱される髪が目に入らないように手で押さえて、私は、ヒストリアやエレンたちのいる岩棚から、二、三段下の階段で足を止めた。

 

 ヒストリアは熱風に押し付けられるかのように、壁際にいる。

 彼女は顔を歪めていたが、それでも、真っすぐと前を見ていた。

 

「ヒストリア! 怪我はありませんか!」

 

 ヒストリアから少し離れたところにいるサシャが声を張り上げると、ヒストリアはサシャのほうを向き首肯した。

 

「う、うん。大丈夫。でも……!」

 

 言いながらヒストリアは上を見た。

 

 私もつられて上を見る。ロッド・レイス巨人の上、地下の天井の中央。そこはもう、巨人の背骨に押し上げられ、亀裂が入り、肉に押され折られた幾本もの柱がぶら下がっているだけだった。

 

 いま、この瞬間に崩落してもおかしくない。

 

 知っていたことだった。それでも眉根が寄ったのを自覚する。

 

「そんな……!」

 

 サシャがあっけにとられたかのように呟くと、ミカサが息を呑んだ。

 

「危ない!」

 

 ミカサが言うのと同時に兵士長が「下がれ」と声を荒らげる。

 

 より近くで、より大きな、なにかが壊れるかのような音がした。

 

 天井の崩落が始まるのとエレンの拘束が解けたのは、ほぼ同時か。エレンは、兵士長とジャン、コニーに引きずられて、私たちのいる外周のほうへと下がる。

 原作どおりといえばそうだが、ぎりぎりだった。数秒前、エレンがいた岩棚は、もう、落ちてきた瓦礫で崩れ落ちていた。

 

 熱を帯びた突風で、背中がごつごつとした壁に押しやられる。顔を覆う腕の隙間から風の発する儀式の間の中央を見る。そこにいるのは、いまや肉と骨の塊ではなく、手足を持つ巨人だった。

 

 見上げるほどに大きな人型が、二本の足で立ち上がらんとする。その背は天井を突き破り、やがては地表へと姿を現す――。

 

 まるで、叙事詩の一場面かのようだった。もはや、進撃の巨人(エレン)の力程度ではどうすることもできない状況だった。

 

「……なんだ、このクソな状況は。超大型の巨人ってのよりデケェようだが……」

 

 リヴァイ兵士長が独り言つ。

 

 そうしている間にも崩落はどんどんと広がっていく。音を立てて天井から降ってくる瓦礫は、私たちの目前へと迫ってくる。

 

「まずい! 逃げ道がねぇぞ!」

 

 ジャンの言葉に、なにか解決策を示す声はない。

 

 やがてエレンが啜り上げるように息を吸った。

 

「ごめん、みんな……」

 

 ひどく震えた声だった。

 

 私は崩れ落ちる天井から視線を数段上の岩棚へと向けた。

 

 エレンのぱっくりと割れた額からは、顎まで血が伝っている。彼の目からあふれた涙が、それを濯ぐかのように、滴っていた。

 

「オレは役立たずだったんだ……そもそも、ずっと……最初から、人類の希望なんかじゃなかった」

「なんだ? 悲劇の英雄気分か?」

 

 ジャンが震えた声で、それでも、皮肉っぽくエレンに返した。

 

「てめぇ一回だって自分の力一つで、なんとかできたことあったかよ?」

「弱気だな……初めってわけじゃねぇだろ、こんなの」

「別に慣れたかぁねぇんですけどね!」

 

 ジャンに続けてコニーとサシャが言った。

 

「エレンとヒストリアを抱えて飛ばなくたって、脱出は厳しい……」

「あの巨人の熱……これ以上近付くと焼け死にそう」

 

 ミカサの言葉に「それでも、イチかバチかで飛びぬけるしか……」と、サシャが返す。

 

 まだ、誰一人としてあきらめていなかった。

 そうだ。彼らはひどくあきらめが悪い。ずっと、ずっと、この先も――。

 それは、調査兵団らしさであり、きっと、美徳だ。

 

 まぶしくて、うつくしくて。そして、その輪の外に、私はいる。私は、傍から見ることしかできない。

 やはり、私には自由の翼は重すぎる。

 

「ダメだ……もう逃げ場はない」

 

 エレンは暗い声でこぼす。

 だが、きっと、彼もまだ、心底からはあきらめきっていない。蜘蛛の糸が垂れて参れば、そのわずかな光明を手繰り、どこまでも、あがき続けるだろう。

 

「……」

 

 知っていた。それでも、言いたいことがあった。

 

「――エレン」

 

 私は彼の名前を呼んだ。

 

 エレンは視線だけを動かして私を見た。その目にいつもの強い光はない。

 

――まだ、早い。と、そう思った。

 

 まだ、こんな暗い顔はしてほしくなかった。

 数か月後、彼もまた、未来を知ってしまうのだから、せめて、いまだけでも、前を真っすぐと見る強さを、愚かさを、許してあげてほしかった。

 

「私は……自分から、ここにいることを、選んだ。

 だから、あなたが、なにをしても……しなくても……後悔はないから……ね?」

 

 私が好き勝手言ってもエレンはなにも言わない。それから、ヒストリアが続けた。

 

「エレン、このまま、なにもせずにみんなで仲良くつぶれるか、焼け死ぬのを待つの?

 私たちが人類の敵だから?」

「毎度お前にばかり……すまなく思うが、エレン、好きなほうを選べ」

 

 リヴァイ兵士長が言うと、エレンが大きく息を吸った。彼の目に、わずかばかりだが、光が宿る。

 

 エレンは勢いよく立ち上がると、なにか――脊髄液の入った瓶か――を拾い上げ、声を張り上げて駆けだした。

 

 ミカサがエレンの名前を呼びながら手を伸ばすが、エレンが止まることはなかった。彼は先ほどまで自らが拘束されていた岩棚まで駆けると、身を投げる。

 

 黄色い閃光がほとばしる。吹く風が一層強くなり、堪えきれずに目を閉じる。暗闇の中、どこからともなく「あ」とみんなの声が聞こえた。

 

 次に目を開くと、進撃の巨人がそこにいた。

 

 私たちが誰にも教わらずに呼吸をするのと同じように、本能なのか、あるいは、道(・)を通じて知ったのか、エレンの足元から蜘蛛の巣のように白い結晶が広がる。

――硬質化の能力だ。

 エレンは鎧の巨人の脊髄液を摂取することができたのだ。

 

 エレンの生み出す結晶は床を覆うと、ほどなくして、柱のように上へ上へと網目状に伸びていった。

 

「な、んだ?」

 

 コニーが不思議そうに呟く。誰かが答えるよりも先にリヴァイ兵士長が駆けだした。

 

「全員、エレンの陰に入れ!」

 

 まずミカサが、一瞬遅れて私やみんなが、リヴァイ兵士長の向かうエレンの陰へと走った。

 

 天井が近づいてくる。

 そう錯覚してしまうほどに崩落は進んでいた。地面はひっきりなしに揺れ、とても立っていられない。それでも走るが、下から突き上げるかのような揺れに足を取られ、とうとう足がもつれた。

 

 地面が、近づく。瓦礫の雨は止むことなく降っていて、きっと圧し潰されてしまう。

 

「あ」

 

 意味もなくこぼれた言葉にならない、声。

 小さなそれが聞こえたのか、前を行くサシャが振り向いた。彼女の目が丸く見開かれる。

 

「ミノリ、」

 

 私は思い切り地面を蹴った。格闘術の訓練で学んだように受け身をとり、みっともなく這いつくばってでも進んだ。そうして、どうにかエレンの作る陰へと私もたどり着くことができた。

 

 訓練兵団時代にさんざん、飛ばされたり転んだりしたことが功を奏した。

 

 長袖を着ていなかったら腕をざっくりと切っていただろう。

 私はじんじんと痛む頬をなでながら、座り込んだ。さすがに立ち上がる気力はない。思わず、深く息をはいた。

 

 エレンの陰は、硬質化の能力でできた結晶で守られているが、地下空洞自体の崩落は進む一方でどこかしこから岩の塊が降り注いでいる。それが地に落ちるたびに発生する音と振動が、体の芯を揺らした。

 サシャは「ヒィイ!」と叫びながらも、膝をつき私の肩に手を当てた。

 

「ミノリ、大丈夫ですか!?」

 

 サシャが私の肩をゆすりながら言った。

 

「だい、じょうぶ」

「怪我はありませんか!?」

「な、い」

「ほんと……もう……危なっかしくて……!」

「ごめ、ごめ……ん」

 

 視界が揺れているのは、地下空洞が崩壊しているからか、サシャが肩をゆするからか。

 

「おいサシャ、離してやれ、お前のせいでミノリが死んじまいそうだ」

 

 コニーが呆れたように言うと、サシャの手がようやく止まった。

 

 視界がぐるぐると回っている。頭がぐらぐらする。サシャの表情を見る余裕もなくて、ただ、地面をにらむように見た。

 

「あ!? す、すみませんミノリ……!」

 

 サシャは言いながら私の肩からばっと手を離した。

 そのころになって、ようやく、眩暈が落ち着いたので、膝をつくサシャと、サシャの後ろに立つコニーを見上げることができた。

 

「ありがとう……コニー……」

「おう」

「サシャも……心配かけて……ごめん」

「ほんっとにミノリは……心配ばっかかけて……」

 

 サシャはちょっと顔をしかめて言うと、表情を和らげた。

 

「でも、ミノリが無事ならそれでいいんです」

 

 穏やかな、声だった。

 

「そっか」

 

 虚を突かれることはなかった。その言葉は、すとん、と、飲み込むことができた。

 いつのまにかうつむいていた顔を上げ、私は立ち上がった。




次話は近日中に投稿します。
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