棘 作:よく
馬を走らせていると、向かい風が汗ばんだ体を通り過ぎていく。疲労で熱を持った体には、少し肌寒いくらいの風が心地よかった。
ちらりと視線を上げると、暗い藍色の空に僅かばかり残った星々が仄かに瞬いていた。礼拝堂地下での戦いを終えて少しが経ったが、夜明けはもう少し先か。
視線を前へと落とすと、遠方に広がる闇のなかに、ロッド・レイス巨人の姿が見えた。
幸いにして、馬を使い潰すほどの全速力で駆けさせなくとも、ロッド・レイス巨人との距離は縮まっていった。縮まっていっているのだろうが、それを実感することはできなかった。
近づいては追い越していく木々と比べると、まるでロッド・レイス巨人は大きさが変わらないのだ。
あまりにも彼が大きいので、縮尺の狂った画像を見ているようだった。
それでも、近づけば、ロッド・レイス巨人が自立することのできなさそうな細く長い脚や手を持っていることが、はっきりと見て取ることができるようになった。
アンバランスな手足で、虫のように這いつくばって進むロッド・レイス巨人を追う道中、エレンとヒストリアが情報を共有した。
エレンが主に語り、ヒストリアが細い声で補足する。一通り二人が説明し終えると、沈黙が落ちた。
誰も口を開かない。
馬を駆るみんなを横目で見ると、得た情報の多さに唖然としているようで、なにも言わずにただ前を睨むように見ていた。
ロッド・レイス巨人が四肢で進むたびに足音――というのは奇妙な表現か――や、体全体で地面を削る音が響く。そのズシーン……という音の合間に、馬の蹄が地を削る音や、ハンジさんとエレン、ヒストリアの乗る荷馬車の車輪の音がしていた。
「えぇっと……。……つまり、」
荷馬車で横になっているハンジさんが絞り出すように言った。
「ロッド・レイスが『始祖の巨人』と呼んだ、エレンの中にある巨人の力――。それは、レイス家の血を引く者が持たないと、真価を発揮できない。
しかし、レイス家の人間が始祖の巨人の力を得ても、初代王の思想に支配され、人類は巨人から解放されない……」
ハンジさんは皮肉っぽく、「……へえ。すごく、興味ある」と、呟く。
「初代王いわく、これが真の平和だって? 面白いことを考えてるじゃないか」
松明の炎が向かい風にあおられ、一瞬、エレンの横顔を赤々と照らした。
「つまり……まだ、選択肢は残されています」
エレンの声は感情を押し殺したかのように、淡々としたものだった。
「オレをあの巨人に食わせれば、ロッド・レイスは人間に戻ります。完全な『始祖の巨人』に戻すことは、まだ、可能なんです」
しばらくの間、馬の蹄の音だけが響いていた。その重い沈黙を、ミカサのこぼした「……そんな!」という声が、静かに打ち破った。
「そうみてぇだな」
リヴァイ兵士長の言葉に、ミカサが、はっ、と大きく息を呑んだのが、騎乗していてもはっきりと聞こえた。
「人間に戻ったロッド・レイスを拘束し、初代王の洗脳を解く。これに成功すりゃ、人類が助かる道は見えてくると……。そして、お前はそうなる覚悟はできていると言いたいんだな」
エレンが肺から押し出すように息をはくのが、かすかに聞こえた。
それから彼は「……はい」と肯定した。
前を駆けるサシャとコニー、ジャンは、困惑の滲む暗い顔で、互いに視線を交わしていた。
一拍置いて、ミカサが隠しきれない感情の滲んだ声で、「……エレン、そんなこと――」と、言った、そのときだった。
「――選択肢はもう一つあります」
ヒストリアが、きっぱりと、言った。
「まず……ロッド・レイスを『始祖の巨人』にするやり方にはいくつか問題があります」
ヒストリアの声には、やはり、張りがある。だが、松明の揺れる赤に照らされた彼女の頬には、冷や汗が玉のように浮かんでいた。
「一つは確実にロッド・レイスの洗脳を解けるという確証がないこと。
彼をどう拘束しようと人類の記憶を改ざんされたら終わりです。
――つまり、『始祖の巨人』の力について未知の要素が多すぎると思います」
アルミンが「たしかに……」と、ぼそりと呟いた。
「いまのロッド・レイスがエレンを食べて、まともに元に戻るのかってこと自体、なにひとつ確証がないしね」
ヒストリアが首肯する。彼女の金色の髪が、松明の光を受けて、さらりと流れるように光を帯びた。
「むしろ、あの破滅的な平和思想の持ち主から、『始祖の巨人』を取り上げている、いまの状態こそが、人類にとって千載一遇の好機なんです」
ヒストリアは馬上の兵士長から隣に座るエレンのほうを振り向いた。
「そう、あなたのお父さんは、初代王から私たち人類を救おうとした」
エレンは「あっ」と、声を上げる。
「姉さんから『始祖の巨人』を奪い、レイス家の幼子ごと殺害したのも……それだけの選択を課せられたから」
違う、と私は知っていた。
グリシャ・イェーガーの選択は、初代王から人類を救おうとしてのものではない。自らが犯してしまった罪にケリをつけるために、積み上げてしまった犠牲に報いるために、進まなければならなかっただけだった。
「そうだよ! あのイェーガー先生が、なんの考えもなく、そんなことするわけがないよ!」
「そう! レイス家の血がなくても……きっと人類を救う手立てはある! だから、エレンに地下室の鍵を託した」
アルミンとミカサの言葉を受けて、エレンは、はっ、と目を見開いた。
彼がなにを考えているかなど、同じ世界に存在している私に読めるわけもない。
しかしながら、その表情から、父グリシャの行いに対する評価が、二転三転しているのだろうということは推測できた。
だって、知らないから、こういった反応ができるのだ。
グリシャの選択は、エレンの後押しによるものだった。母であるカルラが命を落としたことも、エレンは止められなかった。
そんなこと知らないままでいられたら、このままで済む。
だというのに、たった数か月後には、本来ただ生きるだけなら知らなくていいことまで知ってしまい、エレン・イェーガーの道は定められてしまう。
ただただ、憐れだった。
「私もそっちの選択肢に賛成だ。けど……、いいのかい? ヒストリア」
ハンジさんの重い声が、耳朶を鮮明に打った。
「用のない巨人を、この壁の中で自由に散歩させてあげるわけにもいかない。あのサイズじゃあ、拘束もできそうにない……」
ハンジさんは「つまり」と言いながら億劫そうに腕を上げる。その生白すぎる指が、ゆっくりとロッド・レイスを指す。私はそれを追うように、視線を上げた。
超大型巨人よりも大きな無垢の巨人。その不自然に細長い手足が、機械的に巨体を前に進ませている。そこに意志のようなものは感じられなかった。
「君のお父さんを、殺すほかなくなる」
ヒストリアもまた、ハンジさんの指のずっと先を、追って見ていた。彼女の淡い青い瞳に、松明の赤が落ちている。そうして紫がかった一対の瞳が
「……エレン、ごめんなさい」
長い沈黙の末、ヒストリアはゆっくりと口を開く。
「私……あのとき、巨人になってあなたを殺そうと本気で思ってた。
……それも人類のためなんて理由じゃないの、お父さんが間違ってないって……信じたかった」
思い出しながら喋っているのか、どこかぼんやりとした声だった。
「……お父さんに、嫌われたくなかった……」
一度、言葉を切ってから、視線を落として、ひとりごつようにそう呟くと、ヒストリアはきゅっと唇を引き結んだ。
「でも、もう……お別れしないと」
彼女は視線を上げてひるむことなく、言った。
もう、そこに、ただ愛されるだけの、女の子らしいクリスタはいなかった。
◇
私たちはウォール・ローゼ北方のレイス家の領地から、ロッド・レイス巨人を追って南下を続ける。途中、エルヴィン団長と合流し、やがて、まだ、日が完全に昇りきる前に、ウォール・シーナ北端に位置するオルブド区に到着した。
オルブド区到着後にエルヴィン団長が立案した作戦は原作どおりのものだった。
ロッド・レイス巨人の口に、
それは、エルヴィン・スミスの言うとおり、いつもどおりの博打そのものだった。
まず、ロッド・レイス巨人の口が開いているかが不明だった。次に、空中に飛び散った肉片から本体を見つけ出せるかもわからない。
それでも、原作どおりであれば、作戦は上手く行き、エルヴィン・スミスは賭けに勝つ。
そして、ヒストリアは父を殺す。
一般に親殺しというものは看過されない。洋の東西に関わらず忌避されるものであったし、パラディ島内であっても、当然、推奨される行いではない。
倫理的な問題だけではない。
ヒストリア個人の心情としても、なに一つ与えなかった存在であったとて、どうあれ、情けをかけてきた相手の命を奪うことは気持ちのいいことではないだろう。
でも、それは、目的のために必要な犠牲だった。
ヒストリアの地位を確かなものにするためには、オルブド区に生ける人々のためには、ヒストリアは親殺しをしなければならない。
私は、また、そういうことを、選ぶのだ。
◇
夜の帳が少しずつ上がっていく。夏の濃い色の朝日が、地平線を眩く照らし始めた。
黄金色に染まる平原の彼方からは、もくもくと蒸気や煙が立ち昇っている。緩やかにたなびく白煙の下にロッド・レイス巨人がいるのだろうが、オルブド区に着いたいまとなっては、赤い塊が遠くに見えるだけだった。
私たちのいるウォール・シーナ上では、駐屯兵たちが慌ただしく走り回っていた。固定砲の向きを確かめ、弾薬を運び、壊れた箇所を確認している。
その動きは、こなれていなかった。
それは、そうだ。ここは内地で、ここにいる兵の多くは巨人を見たことがない。
だが、まだ誰も、ここを離れようとはしてはいない。彼らは自らの郷を守るために抗うことを、まだ、諦めていなかった。
調査兵団――というよりもリヴァイ班には、いまはなんの任務も課されていなかった。
つい数時間ほど前まで中央憲兵との戦闘をし、数十分後にはロッド・レイス巨人との戦闘が控えているからだろう。事実上、つかの間の休息が与えられていた。
みんなは壁上の街側に集まって休んでいるようで、後ろのほうから風に乗って聞きなれた声が微かに聞こえてくる。
私はというと、みんなとも離れた、かといってオルブド区の駐屯兵たちのそばでもない場所にいた。
本来であればみんなと同じ場所にいることが望ましいのだろうが、休息だし、不測の事態が起こらないと知っている。だから、ちょっとだけ席を外していた。
サシャが私を引き留めることはなかったし、駐屯兵たちは自らの仕事にかかり切りで、ここは静かだった。
訓練兵団にいたころから一人になれる場所が、好きだった。
原作キャラが、いずれウォール・マリア最終奪還作戦で死ぬであろう人が、イェーガー派になるだろう人が――なにも知らない人たちがいないときだけは、異常に気づかれないように、態度や発言に気を付ける必要がない。人通りの少ない場所で、ぼんやりとしているとき、多少は気が紛れていた。
壁上というものは、大概、風が強い。夜の名残のある冷たい風が髪をかき乱していった。
風が止み、乱れた髪を手櫛で整えると、何度も指が引っ掛かった。触り心地もごわごわとしている。
そういえば、この髪をなんとかしたいと思うことはあっただろうか。
ちょっと考えてみても、思い出せなかった。たぶん、そんな些細な日常みたいなものは埋没していて、久しい。
ずっと、生きることだけに必死だった。
この五年と少しの間、心が休まることなんてほとんどなかった。
往昔をよき思い出とともに振り返ることなんて、ない。同時に、いまもそうだ。未来もそうだった。思い出のそこかしこに、途方もない無力感が横たわっているのだ。
とどのつまり、できることなどなかった。私が存在していて、やれたことなどなかった。
むしろ、私がやったことは、悪しきことでしかない。見捨てて、見殺しにして、アルミンが手を汚す機会を奪った。
当たり前だが、私がいればいるほど、物事はうまく進まなくなる。
調査兵団に入団したのも、見て見ぬふりをしたくないからにすぎない。所詮、やりたかっただけの、自己満足だ。
そろそろ、進退を考える必要があるのかもしれない。
私は、いないほうがいい人間で――。いや、これは。言い訳で。見て見ぬふりから逃げて、楽になりたいだけなのかもしれない。だって。目を逸らすことは、許されないのだから。
だけど私は邪魔な存在で――。
だめだ。思考が、ループしている。
私はため息をついた。
頭が重い。腕を組んで、眉間を揉む。
どうすればいいのだろうか。なにが、正解なのだろうか。
「……」
わからない。
思考が上滑りをしている。深く、考えられない。
この感じだと、結論を考えることも、この気持ちの正しさを判じることも、いますぐは無理だろう。
だが、ひと段落すれば――ウォール・マリア最終奪還作戦さえ乗り切れば少しは余裕が生じるはずだ。
それから、考えなければいけない。
私が、なにを選ぶかを。
胸の底の重いものを誤魔化すように息をはいて、なんともなしに地平線を見た。
相も変わらずロッド・レイス巨人が、白煙と蒸気をくゆらせ木々をなぎ倒しながら突き進んでいる。
そんな平穏だとかいつも通りだとかとは程遠い丘陵を眺めていると、足音が近づいてくることに気づいた。
「――……」
唇を引き結ぶ。余計なことを言ってしまわないように、気を引き締める。
「ミノリ、いいか」
ジャンの声だった。なにか伝達事項でもあるのだろうかと推測する。いつの間にか握りしめていた拳から力を抜いて、「……ジャン?」と呼びながら振り向く。
夜の名残のある薄紫色の空を背にジャンは立っていた。
オルブド区内は暴動は起きていないようで、点々と雲の浮かぶ空は静かなものだった。裏腹に見上げた彼の表情は固い。なにか悪い報せでもあるのだろうか。
爆薬の量が足りないとか?
さすがに、北方の、しかも内地の兵団支部の場所など覚えていない。調達を頼まれたら、地図を用立てるか、現地の兵に聞き取る必要がある。
めんどうだな、と思いつつ「大丈夫、だよ」と答え、次の言葉を待つ。
「言っておきたいことがある」
ジャンは深く呼吸をしてから、口を開いた。
「誤解してた」
想定していなかった切り出し方だった。
「…………?」
私は何度か瞬きしてから、「……誤解?」と、オウム返しをした。
「ああ。お前は、訓練兵団に入団したときからずっと一人でいて、変な顔してて、なに考えてんだか分かんねぇ奴で……、」
ジャンは言葉を切り、視線をさまよわせる。直後、射貫くように見下ろした。
「トロスト区のとき余計に死んだのは仕方がないって言ったよな。第五十七回壁外調査でもそうだ。……ストヘス区の憲兵のときも、……俺よりも早く決断して、手を下した。
俺から見りゃあお前は……簡単に、命を使えて、奪える奴だった」
「――ッ」
胸の底に冷えたものが広がって、反射的にジャンから視線を逸らした。
ぐっと歯を食いしばる。
事実を、言われただけだ。逃げてはいけない。
私はこぶしを強く握り締め、ジャンを見上げて「……うん」と、首肯した。
視線がかち合うとジャンは顔を歪め、大きく息を吸う。
「俺にはお前が、ひとでなしに見えていた」
言葉の意味をかみ砕いて、理解して、納得が落ちる。
「……」
トロスト区奪還作戦で犠牲を仕方ないと肯定した。第五十七回壁外調査で班員が死んだというのに涙一つ見せなかった。ストヘス区で憲兵の女を簡単に殺めた。
ジャンから見た私が、これだ。
「ああ……そっか……」
なるほど。ならばたしかに、私は、ひとでなしだ。
「悪い」
ジャンは目を逸らさずに、まっすぐと言った。
彼の言は的を射ている。私は苦笑を浮かべて首を振るった。
だって、ジャンに見せた部分だけでこれほど酷薄な行いをしているのだ。裡にはもっと醜いものがひしめいている。
「あなたの、言うとおりだから、別に……――」
「――違えよ。だから、誤解だって言ってんだろ。最後まで聞けよ」
ジャンはわずかに砕けた口調で、突っ込んだ。
「……でも」
「いいから、聞け」
いい、と。そう言って会話を終わらせようとした。それよりも先に、ジャンが「昨日の夜、サシャに起こされてただろ」と、言った。
「……ごめん、うるさかった、よね」
「あー……、まあ、な」
「ごめん」
私がもう一度謝るとジャンは「気にすんな」と軽く言った。
「仕方ねえだろ。あんなことがあったんだ。うなされて、まあ、クソみたいな夢、見たんだろ。そりゃあ、そうだよな。人を殺して、あんだけ震えてたんだからな」
眉根を寄せたジャンに私は首をふるった。
「ジャン。私は……後悔していない」
「後悔してねえのかもしれないが、それと、お前が苦しんでたってのは、別の問題だろ」
「苦しんでなんか、……」
ない、とは言えずに、唇を引き結ぶしかなかった。
「さっき中央憲兵と戦ったあとも、お前、イヤそうな顔してて……。
それに、一昨日の夜……ストヘス区で憲兵と戦ったあとの夜に、お前言ってただろ。トロスト区で見捨てたときのことを、ずっと、手を汚したとか思ってたんだな。悪い。知らなかった」
「そ、れは……」
違う。
私の手が汚れているのは、トロスト区で大勢見捨てる以前から、この世界に投げ出されて地鳴らしが必要であると結論づけた瞬間からだ。
だが、そんなこと言えるわけもない。
「……」
黙していると、ジャンは、ぐしゃりと自らの髪をかいて、「あー、なんだ、つまり……」と言葉を濁した。
「……お前も、俺と同じだ。やりたくて、やってるわけじゃない。――普通の奴だ」
とん、っと矢でも打たれたかのように、その言葉は衝撃を伴って、胸に吸い込まれた。
瞬間、頭が真っ白になった。
私は一歩下がって、頭を何度もふるった。
「ち、ちがう」
「……あ? なにが違ぇんだよ」
「……誤解じゃ、ない! 私は……なんであれ、簡単に……見捨てることが、できる。」
「だったら、なんでうなされて、イヤそうな顔してたんだよ」
「――」
反駁したくとも、内容が思い浮かばない。その間を、図星がつかれたことを、誤魔化すように「それは、」と口にしていた。
「言い返せないだろ」
「いや……」
言い返せない。
嫌に決まっている。
人なんて、殺したくない。誰がそんなことをやりたいか!
だが、必要なのだ。
同時にそういう価値判断もしている。
だんだんと頭が冷えてきた。私はいつの間にか伏せていた顔を上げ、もう一度、ジャンの瞳を見上げる。
「……そう。私は、私が望んだことを、している」
必要だと言って、思って、人を見捨てて、殺してきた。
それはやりたくてやったと言って相違はない。はずだ。だというのにジャンは苦々しく顔を歪める。
私は彼が口を開くよりも先に、矢継ぎ早に言葉を重ねた。
「それに……。私は、ジャン・キルシュタインのことを……ジャンのことを、ずっと……とても……とても、尊敬している。ジャンは、とても強い人」
「お、おう」
「だから、……私とあなたは、同じではない。……私は、そんなことを、言われていいような……――」
「――お前ッ、めんっどくせーな!?」
「……」
ジャンは顔を顰め「薄々気づいていたけどよ」とこぼした。
「……」
「素直に受け取っとけ」
ジャンは砕けた口調で言ったあと、「それに」と硬い声で続ける。
「俺も、もう、お前と同じ人殺しの、ひとでなしだ」
「そんなこと、ない……!」
「あるんだよ」
ジャンの声は重かった。
「……」
ジャンが私なんかと同じわけがない。
「……だとしても、殺した、総数は……」
事実を口にするとジャンの顔が一瞬、強張った。
「俺が、どれだけ……地下で憲兵を殺したのか、お前、見てただろ」
ジャンは礼拝堂の地下で前衛としての仕事を全うしていた。
私は、それを後ろから見ていた。
「……」
「それに、仮に……お前が前衛だったとしても、どう考えても成績上位者の俺のほうが殺してたに決まってんだろ、ドベ」
私がなにも言えずにいると、ジャンは作ったかのように明るい声で言った。
――知らないから、そんなことを言えるのだ。
ジャンは、誰の物とも知らない燃えカスを捨てない。セントラルの一等地で平和に暮らすことよりも、故郷を敵に回してでも地鳴らしを止めることを選べる。
私なんかとは、違う。
私はマルコを見殺しにした。やがては、自らのために人類の八割を見捨てる。
それを知ったら、こんなことは言えない。こんなふうに真っすぐもこちらを見ながら接することなど、ない。悪感情のこもった目で、じっと、私を見ているはずだ。
だが、ジャンはいまはなにも知らない。知っているのは私だけ。
なれば、これ以上言葉を交わしても堂々巡りになるだけだろう。ひょっとすれば、ジャンもそう思っているのかもしれない。
ぷつんと言葉が途切れた。
沈黙が妙に気まずくて、私は視線を落とした。
私用の靴はここ数日履き潰したからボロボロになっていた。意味もなく靴についた傷を数える。風に乗って、人々の声と大砲の位置を調整する重い金属音が聞こえていた。
「そろそろ、戻るか」
やがて、ジャンが言う。私はゆっくりと顔を上げる。彼はいつも通りの表情をしていた。
「……ん。そうだね」
私は浅く頷いた。
ジャンと並んで壁上を歩き、みんなが休んでいる場所へ戻る。そこから見るオルブド区は早朝だというのに、ほぼすべての住人が外に出ていて、騒然としていた。
駐屯兵の指示に従っているのだろう。彼らは街区ごとに集まっていた。だが、ひとたびロッド・レイス巨人が姿を表せば、蜂の巣をつついたような騒ぎになるだろう。
みんなは壁の縁の近くで、私と同じように街を見下ろしている。私は彼らを一歩引いたところから見ていた。
エレンはいつの間にか黒い上衣を身に着けていた。このあとやってくるヒストリアも、聖職者風の衣装から動きやすい服装に着替えていることだろう。
私もいい加減着替えたかった。だが、戦闘が間近に迫っている。立体機動装置を脱ぐわけにはいかない。
上衣についた返り血がバリバリに乾いていて気持ち悪い。だが、深く息を吸っても、慣れたのか鉄臭さも血生臭さはもう感じなかい。
慣れるのだ。きっと、なにもかも。
気づかぬうちに強く握りしめていた拳をほどいてから、なにをするでもなく、みんなの背をぼんやりと眺めた。
みんなはなにかを喋っている。それは音として聞こえているが、背景に落ち、意味のある言葉としては耳に入らない。
代わりに頭の中ではジャンの言葉がぐるぐると回っていた。戦闘直前のいまに考え込むことではないというのに、打ち消そうとしても、どこか、薄い膜のように貼りついて離れない。
ただ時が過ぎるのを待っていると、やがて、後ろから足音が近づく音で意識が現実に引き上げられた。と思うや否や「それ、私のせいなの」と、ヒストリアの声がした。
振り向くと、数歩先にヒストリアがいた。
彼女は先ほどまで着ていた聖職者風の衣装から、脚衣と
やはり、ヒストリアは戦うつもりなのだ。
後ろからジャンが「ヒストリア……お前……その恰好」と呆気にとられたように言い、息を鋭く吸うのが聞こえた。
「……ってダメだろ、ここに来ちゃ!」
ジャンの言葉にヒストリアが返事をするよりも先に、ヒストリアを追って来たリヴァイ兵士長が、「オイ、ヒストリア」と、呼んだ。
「お前は戦闘に参加できない。安全な場所で待機だと命令されたはずだ。そりゃ、なんのつもりだ?」
ヒストリアは、緊張によるものか、あるいは、恐怖によるものか、わずかに顔を歪めていた。それでも、どこか挑むように兵士長を見上げている。いい、
「自分の運命に決着をつけに来ました」
兵士長が低く「……あ?」と、声を上げたが、毅然と彼女は続けた。
「逃げるか戦うか……選べと言ったのは、リヴァイ兵士長、あなたです」
リヴァイ兵士長はなにも言わず眉間に皺をよせていた。
ヒストリアは、そのいつもに増して険しい顔を不安げに見上げている。だが、朝日に照らされた彼女の横顔は、芯から毅さがにじみ出ているようで、はっとするほど、うつくしかった。
それが、どうしようもなく、まぶしくて。
私は視線を落とした。
ロッド・レイス巨人がウォール・シーナからでも細部が見えるほどの距離に、近づいてきていた。大砲の射程距離は訓練兵団のころに教わったきりだったが、肌感覚としてなんとなく彼が射程内に入ってきたことは分かった。
号令が上がったのはそれからすぐのことだった。
地上や壁上で持ち場についていたオルブド区の駐屯兵たちが、一斉にロッド・レイス巨人へ向けて大砲を放つ。しかしながら、原作通り、足止めにすらならなかった。
結局のところ今回も、壁内人類はエルヴィン・スミスの賭けにのることになった。
私はリヴァイ兵士長や、ジャン、サシャ、コニーらと同じく、エレンたちとロッド・レイス巨人を挟んで反対側へと移動した。
そこでも、駐屯兵たちが壁上固定砲を撃っている。だが、ロッド・レイス巨人からしたら砲弾も榴弾も、豆鉄砲のようなものだろう。
彼が地響きを立てながら一歩一歩近づいていくごとに、壁上固定砲の仰俯角がどんどんと増していった。
間違いなく駐屯兵たちも効果は薄いと骨身に沁みて分かっている。それでも駐屯兵たちが必死に抗ってい続け、やがて砲身が最大俯角まで下がったころ、やにわに風向きが変わった。
あたり一面がロッド・レイス巨人が発する蒸気で真っ白になり、熱風が体を包んだ。息を吸うだけで鼻の穴が痛む。
顔を腕で覆い、浅く呼吸をしていると、砲音とも違うドンという音が鳴った。それと同時に、地面が揺れ、影が落ちる。壁際で壁上固定砲を撃っていた駐屯兵が、「退避」と声を上げながら撤退していくのが腕の隙間から見えた。
顔を覆う腕を外し空を見上げると、そこに、超大型巨人よりも大きい巨人がいた。
その巨人は原作どおり、地面に擦れ、胴側の肉がずる剥けになっていた。内臓のない空洞のような胴体や、目鼻や口が仕切りのように残った顔を晒している。それはまるでコロナル断面画像のようで、いつもの無垢の巨人とは異なる気味悪さがあった。
戦闘が近い。
私は一度かぶりを振ってから、事前に用意されていた樽に入った水を頭から浴びた。一気に体が冷える感覚は心地よいが、濡れそぼった衣服が肌に張り付くのが不快だった。だがこうしなければ、ロッド・レイス巨人が発する熱で大火傷を負う。私は全身がしとどになるまで水を浴びた。
サシャも、コニーも、ジャンも、兵士長も、同じように水を頭から被り、濡れ鼠になっていた。
視界の端で雷に似た閃光が迸る。エレンが巨人になったのだ。反対側も同じように準備が完了したのだろう。
目に入ってくる水滴を腕で拭いロッド・レイス巨人をちらりと見上げてから、反対側、エレンやエルヴィン団長がいる方へと視線を向ける。攻撃開始を告げる信煙弾が蒸気の向こう側から打ちあがったのは、わずかに風が落ち着いたころだった。
サシャと反対側で――煙ではっきりとは見えないが――アルミンが、ウォール・シーナに置かれたロッド・レイス巨人の手を目掛けて、火薬の詰まった樽に付けた立体機動装置のアンカーを放つ。
サシャがトリガーを引いたのか、アンカーへと目掛けて樽がまっすぐに進み、ロッド・レイス巨人の手にぶつかると、彼の放つ熱で自動的に起爆する。
炎が破裂し爆発音が響くと、黒煙を巻き上げながらロッド・レイス巨人の上半身が壁上に崩れ落ちた。
壁上にもたれかかったロッド・レイス巨人の向こうに、煙に紛れて進撃の巨人《エレン》が見える。駆けながら近づくエレンが背負った火薬を投げ入れたのだろう。
ロッド・レイス巨人が内側から赤々とした光を放つ。爆発音が体の芯へと響く。肉片が飛び散った。
「総員、立体機動でとどめを刺せ!」
不思議なものでエルヴィン団長の声はこんな状況でも、すっと耳を打つ。私はアンカーを放ち空に身を投げた。
ワイヤーが絡まないこと。空中で接触しないこと。アンカーを打つときは同じ目標を狙わないこと。
訓練兵だったころも、調査兵になってからも、口酸っぱく言われたことを意識して、位置取りをする。
それでも、空中に飛散した大小さまざまな肉片の中から、縦一メートル幅十センチメートル以上のサイズの肉片を見つけて斬るというのは、難易度が高い。接触事故を起こしていないのは、偏に兵士長や、ジャン、サシャ、コニーが私をカバーするような位置取りをしてくれているからだろう。
ひたすらに立体機動をしていると、ふいに、戸惑いまじりの歓声が上がった。
ちらりと遠くなったウォール・シーナの上を見ると、ロッド・レイス巨人はエレンに火薬を投げ込まれたときから変わらず、肩から上が内側から爆破されたままの姿でいた。再生の兆しは見えない。もう、ヒストリアが本体を斬ったのかもしれない。
だが、まだ作戦終了の指示は出されていない。
市街地の上空で肉片を探しては斬っていると、すぐに――知っていたとおり――作戦終了を告げる信煙弾が放たれた。
私は近くの建物の壁にアンカーを刺して、着地する。
見上げるとウォール・シーナの上では、ロッド・レイス巨人からもうもうと吹きあがっていた白煙が、たなびくような細い蒸気に変わっていた。
ロッド・レイスは死んだ。
ヒストリアは、自らの運命に決着をつけることを、選び、実行したのだ。
父を殺し、王となる。そんな、不安定な未来であっても、彼女はそこに、自らを投げ出したのだ。
◇
第五十七回壁外調査のあとがそうだったように。エレン奪還戦のあとがそうだったように。作戦が終われば、多くの資材と人命を失った現実に追われ、暗く慌ただしく日々が過ぎていく。
だが、今回に限っては、調査兵団は革命の立役者なうえに、女王陛下が所属していたので、どこか浮き足立ったような雰囲気が隠せなかった。権力の一点集中を防ぐためにヒストリアが調査兵団を退団したとしても、それが消えることはなかった。
新女王陛下の戴冠式が執り行われたのは、ヒストリアがが退団してさらに数日後のことだった。
私はリヴァイ班の一員として革命に尽力した――ということになっているので、リヴァイ班として王都ミットラスに招かれていた。
青空は高く広がり、風は柔らかな、よい日だった。
見上げる群衆の視線の先には、きめ細かな毛氈の敷かれた木組みの壇がある。私は、その壇の横、群衆の列からも高官たちの席からも少し離れた場所で、リヴァイ班として並んでいた。
王都だからか、王位の交代が歓迎されているからか、大きな混乱は起こっていない。それでも、そわそわと張り詰めた空気のなか、姿勢を正し、じっと待ち続ける。やがて、木組みの壇に緋色の外套と白い礼装を身に着けたヒストリアが姿を現すと、わっと歓声が上がった。
辺りが静かになると儀式は粛々と進められた。
兵団が偽りの王から奪還した冠を、兵団のトップであるダリス・ザックレーが、真なる王家の末裔であるヒストリア・レイスへと授ける。
王権の象徴たる冠を戴くヒストリアの前で、それぞれの兵団の首長が拝礼した。最敬礼を受けたヒストリアは、市民に向けて右手を左胸に当て、敬礼を捧げる。
公に心臓を捧げたのだ。
再度、割れんばかりの歓声が上がった。
前政権との最も異なる点を強調しているのだろう。儀礼の、その一つ一つが緻密に正当性を主張していた。
正統な血統。正当な権力。公に滅私奉公するという姿勢。なによりも、自ら兵士として巨人を屠ったという事実。
女王ヒストリアは傀儡にすぎないと、少なくない人々が知っているだろう。
それでも、ヒストリアは王になった。それでも、体制は変わったのだ。明るい未来が訪れる予感をひしひしと感じさせる。
百年にわたる閉塞感を、忘れさせるような出来事だった。
でも、この路の果ては、戦争に続いている。やがて、地鳴らしがやってくる。百年経とうが、二千年経とうが、人は変わらない。
私は、知っていた。だが、まだ誰も知らない。
人々は声を上げ、拳を突き上げ、全身で喜びを表現している。前方に広がる人の群れが波打つように蠢いていた。
艶やかに磨き上げられた大理石の床が続いている。王都だから当然ではあるのだろうが、どうにも居心地が悪かい。
硬い床の上では
礼装を身に着けたのは、エレン奪還戦後の合同慰霊以来だった。
あのときはこれが礼服を着る最期の機会になると思っていた。王政編に関わるとも、新リヴァイ班に加入するとも思ってもいなかった。
だが、私はいまもこうして、同じ礼服に袖を通してしまっている。
いつもより丁寧に磨いた
「待てよ、本当にやるのか、ヒストリア?」
どうやらぼんやりとしていたようで、エレンの声で意識が引き戻される。慌てて顔を上げると、みんなの後ろ姿があった。
これから、ヒストリアがリヴァイ兵長にささやかな仕返しをしにいく。と、私は知識としても、ヒストリアが戴冠式を終えるや否やそう言っていたので、体験としても、知っている。
私はリヴァイ班の一員として共に行動しているが、そこにいる必要はない。私にできることなどない。私がいてやれたことなどない。
本来、そうなのだ。
私は、足を止めた。
「なによ……エ、エレンだって、やっちまえって言ってたじゃない」
「ありゃあ、リーブス会長の遺言っていうか最後の冗談だろ? 別に恨んでねぇんならやめとけよ」
「こうでもしないと女王なんて務まらないよ」
震えた声で言ったヒストリアを、ジャンが「いいぞ、ヒストリア。その調子だ」と囃し立てた。
私が足を止めたことに、誰も気づいていない。そう。これでいいんだ。
みんなの後ろ姿が少しずつ遠ざかっていく。私は、ただ、それを見ているだ――。
「――ミノリ!」
数歩先にいるサシャが呼びながら振り向く。彼女の丸い瞳と視線がかちあう。サシャがこちらへと大きく踏み出した。体が強張る。次の瞬間、腕が強く引かれる。咄嗟の出来事に踏ん張ることもできずに、一歩、踏み出して、しまった。
「う、わ」
踏みとどまろうとするが、サシャはぐいぐいと私の腕を前へと引っ張る。二、三歩分ほどサシャの方へと近づかされると、腕を掴むサシャの手の力が抜けた。同時にサシャは青ざめた顔を、私の耳元に寄せた。
「あなただけ知らんぷりは、させませんよ……!」
耳元がこそばゆくて反射的に顔をのけぞらせると、サシャが掴んだ腕の反対側の肩に、腕が乗せられた。
「そうだぜ」
反応する間もなく声がした。顔を見るまでもなく気づく。コニーだ。
横を見ると、やはり、コニーの顔がいつもより近いところにあった。彼もまた青ざめた顔に、不格好な笑みを浮かべていた。
「一人だけ逃げんのはずるいんじゃねぇか」
「サシャとコニーの言うとおりだ。俺たちは、同じ班のメンバー……運命共同体だ」
前方からジャンの声が落ちる。つられて前を見ると、そこにはみんながいた。
そばにいて私を引き留めるサシャとコニー。冷や汗を浮かべながらもニヤニヤと笑みを浮かべるジャン。いつもよりも少し強張った表情のアルミン。あきれた顔のエレン。いつもどおりのミカサ。――冷や汗を浮かべたヒストリアも。
みんな、足を止めて私を待っている。
どくり、と鼓動が跳ねるように鳴った。それに気づいた瞬間から、心臓が早鐘を打ち始めていた。
これは、よくない。私は異物で、なにもできなくて――。
反射的に、一歩下がろうとした。
だが、腕は前に引かれているし、肩には体重が乗せられているので、にっちもさっちも行かない。
私はいかない、と、言えばいいのに。それで済むのに。言えなかった。
ごくりと唾をのみ、目を閉じる。
目蓋の裏には、無数の虚ろな目が見えた。虚ろな瞳は恨めしそうに、じっと、私を見ている。
ゆっくりと目を開くと、一瞬、視界が眩んでなにも見えなかった。
何度か瞬きをすると、白飛びした視界に、だんだんと色が戻ってくる。
昼下がりの眩い陽光が、窓ガラスの高いところから落ちていた。その夏の濃い光が、みんなの顔の輪郭を黄色く縁取っている。
みんなは、私なんかを待っていた。
きっと、いかない、と言えばサシャとコニーがノリが悪いとか、そんなヤジを飛ばすだろう。ジャンはきっと皮肉を言う。案外、アルミンもなにか言ってくるかもしれない。
「――……」
逃げられない。そう悟った。みんなを振りほどくに足る理由を、私は持っていなかった。
ふう、と肺の底から息をはきだす。
不思議なもので、そうするだけで少しばかり、胸の重いものがほどけていく。
「……うん」
首肯する。観念するしかなかった。
「わか……った……」
みんなのもとへ行こうと一歩踏み出す。踏み出そうとしたが、サシャは腕をぐいぐいと引っ張ったままだし、コニーは肩に腕を乗せている。
「わかった、から。……二人とも、手を放して」
サシャとコニーはきょとんとした表情で私を見ている。
「これ……だと、進めない……!」
サシャに掴まれた方の腕をぶんぶんと振ったり、歩いてみたりしようとする、が、できない。
私を拘束する二人は、ややあって、目から鱗が落ちた、とでも言わんばかりに、目を開いて頷くと、私から一歩、離れた。
「ああ……なるほど!」
「たしかに、そうだな」
「……」
ため息をついてから、一歩、二歩と進む。サシャとコニーも同じように進む。やがて、私はみんなの輪のなかに溶け込んだ。
誰も言葉を発していなかった。だが、不思議なもので、その沈黙は少しも重苦しくない。
大きな窓から斜めに差し込む光が、廊下を染め上げている。その光の中を泳ぐように、みんなの後を黙々と進む。
程なくして、細く長い影が伸びているのが、廊下の先に見えた。
その影を辿るように視線を上げると、窓のそばに小柄な見慣れた人影が立っていた。
強い逆光でよく見えないが、リヴァイ兵士長であると、すぐに分かった。
「あっ」
ヒストリアもそうなのだろう。
先頭を歩く彼女は声を上げ、足を止めた。私たちも立ち止まると、兵士長が私たちのほうへと進む。
窓枠から離れると兵士長の表情がよく分かるようになった。
兵士長は一応は慶事のあとだというのに、いつも通りの、険しい顔をしていた。
みんなは無言でヒストリアへ視線を落としていた。私も無言で立ち尽くしている彼女へと視線を向ける。
数歩先でさらさらと金糸が揺れていた。ヒストリアの細い肩が震えているのだ。
つい先ほどまで身に着けていた正礼装を脱ぎ、飾り気のないワンピースを着た彼女は、いつもよりあえかに見えた。
だが、ヒストリアは兵士長の前へと歩み出た。
彼女の体全体が小刻みに震えている。強く握りしめられた拳は血の気を失っていた。
ヒストリアは何度も顔を上げかけては止める、を繰り返す。その逡巡の末に、ひっくり返った声で掛け声を上げると、拳を振りかざし駆けだした。
――ぽかり、と。殴ったというには軽すぎる音が鳴った。
だが、みんなはすぐさま身を乗り出して、歓声を上げた。
ヒストリアは兵士長から一歩、二歩と離れて高らかに笑った。
「どうだ、私は女王さまだぞ! 文句があれば――」
言いながらヒストリアは拳を突き上げる。
陽光を受けて淡い光を帯びた白皙の拳は、私と同じようにタコや傷だらけで、そして、もう、震えていなかった。
人は、運命に逆らうことができず、隷することしかできないのだろう。だというのに、ヒストリアはどうあれ、選んだ。あまつさえ自らの行く末を定めた相手に逆らって見せた。
それは、私には選べない、選ぼうともしないものだった。
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