作:よく

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訓練兵団2

 馬術も、馬に慣れない上に体力のない私ではついていくのがやっとだった。

 技巧術もまだこの島の言語を習熟したと言えないので、ハードルの高いものだった。

 とどのつまり、私はお荷物であった。

 

 

 

 

 立体機動装置の講義はやはり人気が高い。

 巨人を倒せる唯一の武器であり、成績に直結している。極々少数の調査兵団志望者も、内地志願者も、それ以外も、この日ばかりは同じような姿勢で講義に向き合っていた。

 

 私は、嫌いだった。

 

 講義内容は死に直結している。落下したら大怪我をするような場所で行動することは、純粋に、怖い。

 立体機動装置は何回やっても、慣れなかった。

 

 

 

 今日は立体機動装置で森の中の決められたコースを進むという講義内容だった。

 装備の最終点検をしてから立体機動を始める。葉擦れの音と立体機動装置の動作音が響いた。

 ほぼ同時にスタートをしたほかの訓練兵たちは、私を追い抜くように進んでいく。

 私はあっという間に最下位になった。

 

 予定されたコースの半分以上を進んでも私の順位は変わらない。それどころかますます先頭集団との差は開いていく。

 ここまで成績が悪いと退団させられるかもしれない。じわりと焦燥感が湧き上がる。

――落ち着け。落ち着け。

 必死にそう念じながらアンカーを射出し、ガスをふかした。

 内臓が冷える様な浮遊感が身を襲う。

 私は吐き気を堪えてアンカーを撃った。

 

 だが――。

 

 射出角がまずかった? タイミングが悪かった? 理由は分からない。それでもアンカーは木から抜け落ち、私は空に投げ出された。

 「あ」と無意味な声を出した。世界がスローモーションになっていく。Gは横向きではなく下に向かってかかる。

 落下する。

 人間、死ぬときは一メートルの高さでも死ぬのだという。この高さでは――運がよくても大怪我だろう。

 

 死ぬのか、こんなところで。

 死にたくないな。

 

 胸中に訪れたのは諦念ではなかった。

 私は、まだ、死にたくはなかった。

 冷や汗で滑る指でアンカーを射出する。

 今度は角度は悪いものの、しっかりとアンカーは目標に突き刺さる。私はガスをふかし、トリガーを引いてケーブルを巻き取った。

 

 木が、凄まじい勢いで迫ってくる。いや、違う。私が、幹にぶつかろうとしているのだ。

 思わずぎゅっと目をつむった。

 次の瞬間、全身を強かに打った。肺の空気を全部吐き出した。

 

 瞼の裏を見ているからか、酸素が足りていないからか、世界はブラックアウトしていた。

 

「ミノリ――。ミノリ・タイレ!」

 

 遠くから聞こえる教官の声で意識が引き戻される。

 瞬く。世界は次第に色を取り戻していく。

 

「従順なだけのグズはどの兵団もお前を必要としないッ! そんなに生産者になりたいのか! さっさとついてこい!」

「――ッ、はい」

 

 私は掠れた声でそう言った。

 

 痛みと息苦しさで眩暈がする。何よりも動悸が治まらなかった。その苦しさで生きていることを実感する。

 

 今の私は空中でぶらぶらと吊るされていた。揺れる度に木の幹に体が当たって痛い。特に強く打ち付けた肩は振動だけでじわじわと痛みを増した。

 私は顔をしかめて、一先ず、今、使っていないほうのワイヤーを巻き取る。それだけの動作ですらやっとのことだった。

 

 鼻の奥から粘度の低い液体が零れ落ちる。それが十メートルほどは下の地面に滴った。未だ呼吸は荒く、全身が焼けるように痛む。

 早く挽回しなければならない。これ以上、成績を落とすわけにはいかない。だというのに体はちっともいうことを聞いてくれなかった。

 どうして、こんなことになってしまったのだろうか。

 私は眉根を寄せて目を閉じた。

 

 ふいに、風切り音が頭上から聞こえてくる。私は鼻をすすって見上げた。

 

 木々の合間に見える小さな人影。逆光で顔は見えない。それは段々と近付いてきて、やがて、全容が把握できた瞬間、身体が強張った。

 

 その人はライナー・ブラウンだった。

 

 ライナーは私の近くの樹枝に降り立った。なめらかで迷いのない立体機動だった。

 

「おい、大丈夫か?」

 

 低く落ち着いた声。穏やかで、頼りがいのありそうな声。――に、聞こえるように演じているのだろうか。

 

 反射的に、肩が震えた。

 

「ライ、ナー……ブラウン……」

 

 喘ぐような声で私は囁いた。それから思わず「なんで」と口の中で呟いた。

 

「動けそうか?」

 

 なんで、ライナー・ブラウンがここに来たのだろうか。何をしに来たのだろうか。目的は? おじさんとおばさんの絶叫を思い出す。ぶちぶちと潰されていく苦悶の顔が忘れられない。私は平静を装えているだろうか。知らないふりをできていたのだろうか。

 

「……おい、聞こえてるか」

 

 はっと意識が引き戻された。

 

「……だい、じょう、ぶ」

 

 怪しまれるわけにはいかない。慌ててアンカーを撃とうとした。

 しかし、手が震えて上手く狙えない。トリガーを引く指に、力が入らない。

 

 ライナーの心配そうな視線から逃げるように目をつむる。

 

――落ち着け。落ち着かないと。

 

 ゆっくりと深呼吸をして目を開く。

 狙いは向かい側の太い枝。しっかりと狙いを定めて、震える手でなんとかアンカーを撃った。

 ワイヤーは空気を裂いて目標まで突き進む。そして、今度は深く突き刺さった。

 肩の力が抜けた。

 後はもう一方のアンカーを抜いて、ガスをふかせばいい。そうすれば、さしあたり窮地は脱せる。

 だというのに、手が止まった。

 

 また、落ちたら、どうしよう。

 

 柄を持つ手にぐっと力が入った。

 

「――安心しろ」

 

 ライナーが落ち着いた声でそう言った。

 

「……え?」

 

 反射的に声の方を見上げる。

 

「お前が落ちたら、拾ってやる」

 

 なんだ、それは。と、思った。

 それから、私はそのあまりの自信のある様子に、仇敵だとか敵だとか彼の行く末だとかを忘れて、小さく笑ってしまった。

 それから、我に返る。

――駄目だ。心を許すな。

 私は、唇を引き結び、意識して固い声で「そう」と言った。

 

 緊張をほぐすために意図してゆっくりと深呼吸をする。

 

 軌道を予想する。幹を蹴り、ガスを吹かし、ワイヤーを巻き取る。もう一方のアンカーを抜く。ぐう、と重力を感じる。

 そして、樹枝に着地した。

 

 私は長く息を吐いた。

 

 なんとか、ここまでこれた。

 

 幹で体を支えて、崩れ落ちそうになる膝を奮い立たせた。

 木々に目を配ってコース取りを考える。どうすれば安全にかつ素早く移動できるだろうか――。

 

「おいおい――」

 

 立体機動装置の独特な動作音の後に、ライナーは私がいるのと同じ枝に並んだ。

 息が詰まる。

 近い。

 表情が良く見える。ライナーは疑いといった悪感情を浮かべていなかった。だが、顔が強張るのを自覚した。

 あの日、封をした感情が底で静かに暴れていた。

 

「――まだ、やるつもりなのか?」

「やる」

 

 ライナーは溜息を吐くと自らの頭を掻いた。

 それから、黄土色の目が、私の顔と打ち付けた方の肩をじっと見た。

 鼻血はまだ止まっていない。ぽたぽたと滴っている。口の中が鉄臭くて気持ち悪い。

 顔をしかめて腕で鼻血を拭った。そして睨むようにライナーを見上げた。

 

「無理をしないほうがいいんじゃねえか」

 

 純粋に心配するような声音だった。バツが悪くなって、思わずライナーから視線を逸らした。

 

「むりでも……。退団、させられたら、こまる」

 

 互いに口を開かない時間が、少しの間、訪れた。

 

「……あなたは、先、行ってて」

「お前を置いて行けるわけがないだろう」

 

 呆れたような声。思わず唇を尖らせる。

 もうライナーとは関わりたくなかった。

 

「……内地、狙っているんでしょ? 私に合わせたら、成績が落ちる」

「俺は、今までの積み重ねがある」

 

 ライナーは言ってから前方を見た。

 

「それに……いまさらだ」

 

 先頭集団はもう見えないところまで進んでいた。

 

 いくらライナー――数年後の次席――であってもここから上位を狙うことは不可能だろう。それに、兄貴分を気取っているライナーは私を見捨てられない。

 理論的にも感情的にも彼が私を置いていく理由はなかった。

 

「……そう。……わかった」

 

 納得したわけではない。渋々そう言った。

 

 それから私は合図もなくアンカーを射出した。

 

 

 

 きつかった。

 

 なんとか今日のカリキュラムをこなすことができた。

 私はゴール地点の開けた場所に辿り着くなり、地面にへたり込んだ。

 ライナーは私に少し遅れて、余裕げにゴールラインを突破した。

 

 立体機動の最中、ライナーは見守るかのように、ずっと私の後方に位置取っていた。腹立たしいことに、それを撒くだけの実力は私にはなかった。

 

 ライナーはゴールするなりシャーディス教官の方に行くと、二、三言葉を交わした。それから私の方へと向かってきた。

 

「――ミノリ」

 

 ライナーを見上げる。そんな些細な動作でもぶつけた箇所が痛んだ。

 

「医務室に行くぞ」

「……講評、聞かなきゃ」

 

 私の声はひどく息の上がったものだった。

 

「んなことできるような体調には見えないがな」

「これ、ぐらい、……平気」

 

 ライナーは肩を竦めた。

 

「そんなわけないだろ」

「いい」

「……そうか」

 

 ライナーはそう言うと口を閉ざした。

 これでなにかの間違いのような、かかわりも終わりだ。

 私は安堵し、目を閉じた。

 

 世界がぐるぐる回っている。疲労感と全身の痛みが辛かった。でも、多分、しばらくしたら動けるようになる。

 私はじっと耐えた。

 

 うつむいていても、陽光が目蓋を赤く透かしている。ほの赤い暗闇の中、私は一人だった。

 

 やにわに、足音が近づいてきた。

 反射的に目を開いた。

 世界がひどく眩しい。何度も瞬きをして、ようやく世界が鮮明になった。

 

 体格のよい人影が近くに立っている。

 心臓がどくりと鳴る。

 ライナーだ。

 

「――え?」

 

 後ずさろうとして、痛みで顔をしかめた。

 ライナーは一度だけ空を仰ぎ、諦めたように息を吐いた。

 

「運ぶぞ」

 

 そう言ってからライナーの腕が私に伸びる。

 思わず「ひ」と声が漏れる。目をぎゅっと閉じた。

 腕が私を抱き上げた。ゆっくりと目を開く。視界が高くなっていた。私は「うわ!?」と、叫んだ。

 

「な、……なに!?」

 

 浅く速い呼吸を数回。

 そうしてようやくライナーが私を横抱きにしているということに気づいた。

 

 周囲の訓練生たちの視線が突き刺さる。囃し立てるような声も聞こえる。頬が熱くなった。

 それから、吐き気がした。

 どの面を下げてこのような行為をしているのだろうか。

 腹の底からじりじりと、むしゃくしゃが湧き上がる。私は歯をぐっと食いしばった。

 

「離して」

「駄目だ」

 

 ライナーはそう言うと医務室に向かって歩き始めた。体が揺すられる。思わず彼の服をぎゅっと掴んでから、慌てて手を離した。

 

「……なんで」

 

 抑えきれない苛立ちの混じった声で私は言った。

 

「医務室に行く気はないんだろう?」

 

 ライナーに心配を掛けられる筋合いはない。私は「……うん」と言い、頷いた。

 それに、講評を聞かねばならないし、この程度の怪我は少し我慢すればよくなる。少なくとも開拓地ではそうしていた。

 

「だから、俺が運ぶ」

「……はあ!? い、意味、わかんない」

「そのままの意味だ。

 お前は案外、頑固なようだからな。こうしたほうが早いだろ」

 

 私は「うぐ」と喉の奥で唸った。

 ライナーの言う通りだった。

 確かに私は医務室に行くつもりはない。その時間で少しでも予習や復習をしないとついていけない。

 だが、そう言うライナーも頑固だろう。無理やりにでも私を運ぼうとしているのだから。

 

「……わかった。医務室、行くから!」

 

 私は渋々、譲歩した。

 

「だから。歩ける、から、……降ろして」

 

 ライナーは私を見下ろすと息を吐いた。

 

「歩けないだろ」

 

 言い返そうとして、言葉に詰まった。私はふいっと視線を落とした。

 

「……降ろして」

「降ろさん」

 

 ライナーは私の事を意に介さず、ずんずんと進んだ。

 

 情けをかけられるのは、腹立たしかった。

 

 私は拳を強く握った。それから身をよじった。

 

「っ――!」

 

 反動でずきりと体が痛んだ。

 私を抱く手に力が籠った。それから逃げようと、もう一度、身をよじったが、びくともしなかった。

 

「おい――」

「――降ろせ……!」

 

 私はライナーを睨んだ。

 ライナーはなにか言いかけて、口を閉ざした。

 

「……わかった、わかった」

 

 ライナーはしぶしぶといった様子で私を地面に降ろした。

 

 ようやく、解放された。

 

 膝は笑っていた。でも、立たなければならない。

 私は幹に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。

 

「……約束は、守る、から」

 

 さきほどより体調はマシになって来ていた。一歩足を踏み出しても、沈むようなことはない。

 私はのろのろと歩いた。

 ライナーの足音が後ろから聞こえる。ついてきているのだ。

 またなにか言って抱き上げられるよりは、黙ってついてこられる方がマシだ。

 私はライナーの存在について考えないようにして、医務室に向かって進んだ。

 

 演習場から医務室のある兵営までの道は林の合間にある。

 いつもここを通るときは同期の訓練兵が大勢いるときであった。しかし、まだ講義の時間であるから人の気配はない。

 ただ静かに風が木々を揺らす音と二人分の足音だけが聞こえていた。

 

「……なあ」

 

 ふいにライナーが口を開いた。肩がびくりと跳ねた。

 

「なんでお前はそこまでするんだ」

 

 答える義理はないというのに、思わず首を傾げた。

 

「どういう、意味?」

「ああ、いや、すまん。

 お前を見ていて、疑問に思ってな」

 

 私は息を呑んだ。

――見られていた。

 いつから。どれくらい。怪しまれている?

 

「無理してるだろ。体力も、技術も、全然足りてない。なのに諦めていない」

 

 少し肩の力が抜けた。怪しんでいるというよりも、どちらかというと実力のない私を観察していたということに近いのだろう。

 そう思いたい。

 

「今だって、そうだ」

 

 それからライナーは呆れたように「ここまで強情なやつだとは思ってなかったがな」と言った。

 

 それを言うならライナーの方もだろう。私は少し顔を顰めた。

 

「……仕方なかった、から」

 

 それから曖昧に答えた。

 だらだらと自分の来歴を悲劇のように語るのは好きではなかった。

 

「……そうか」

 

 それからまたしばし無言で歩いたところでライナーは口を開いた。

 

「お前、兵士には向いていないんじゃないか」

 

 足が止まった。

 

「……は?」

 

 横に並んだライナーが私の方を向く。彼は案ずるような表情をしていた。

 

「故郷に帰ったほうが――」

「――ッ!」

 

 その言葉に、なにかが切れた。

 

「――帰れない!」

 

 私は声を張り上げた。

 

開拓地(あそこ)には、帰りたく、ない……!」

 

 帰る場所なんてない。

 寄る辺だったおじさんも、おばさんも、家も。

 全部、全部――目の前のこの男に踏みつぶされた。

 私は、保護者も縁者もいないまま開拓地に放り投げられた。何度も飢えと寒さで死にかけて、挙句の果てには地下街に売られそうになった。

 そうでもなければ、訓練兵団に入団なんてするわけがなかった。ライナーと同期になんてならなかった。

 怒りで体が震える。

 

 全部この男の所為だった。

 

 ライナーは驚いたように目を見開いていた。

 それを見て頭に上っていた血が少し引く。私は唇を噛んで、視線を逸らした。

 

 言い過ぎた。

 

 だから、多分、この場を丸く収めるためには、私から言い過ぎた、と謝罪するべきだった。でも、私は嘘を言っていない。

 無性に、形だけであっても謝罪するのは嫌だった。

 私は「忘れて」と言った。できるだけ平静に聞こえるように言ったつもりだったが、苛立ちの隠しきれていない声だった。

 

「……すまん」

 

 やがてライナーが小さく謝った。

 

「悪いこと聞いた」

 

 顔をしかめて何回も深呼吸をする。

 

「……そう」

 

 そうして、怒りを冷えさせて、浮かぶのは疑問だった。

 

 なんで、ライナーは私を助けたのか。

 なんで、こんなに優しくするのか。

 なんで、慮ったのか。

 

 利点はないだろう。

 

 分からない。全く何事も分からない。

 

「……なんで、こうする?」

「……は?」

 

 疑われている? だから監視するために近づいてきた?

 いや。疑っているのなら事故に見せかけて殺せばよかった。

 監視のために仲を深めたいのなら、私のような反応をする相手には押すよりも引いたほうがよかっただろう。

 

 ライナーの行動は非合理的だった。

 

「なんで、私に構う?」

 

 私はライナーをじっと見た。彼は少し驚いたような顔をしていた。

 

 ライナーはもう、兄貴分として皆に慕われている。

 それはマルセルの真似をした結果だ。今この場にいるのも、英雄になり故郷で待つ母に会いたいからなのだろう。

 

 結局のところ、ライナー・ブラウンも憐れな子供に過ぎない。

 

「……そりゃあ、お前が心配で――」

 

――でも……。あいつの言う通り俺はドベだし……。

 

 そんな、セリフをふいに思い出した。

 

「――ああ……、なるほど……」

 

 ふっ、と笑みが浮かんだ。

 

「……ドベ、だから?」

 

 腑に落ちた。

 ライナーは私に嘗ての自分を見ているのだ。

 

「――」

 

 ライナーの完璧な表情の仮面に僅かにひびが入った。余裕の消えた瞳がじっと見下ろしている。

 

 いい気味だった。

 緊張感のある沈黙が落ちた。

 私もライナーもなにか言うことはなく、かといって兵営まで足を進めることもなかった。ただ、風が梢を揺らす音だけが響いた。

 

「……自分のことを、そう思うのはよくない、だろ」

 

 長い沈黙の末にライナーは絞り出すように言った。図星をつかれたことを隠すような固い声だった。

 

「そう? 私は、事実として、ドベ」

「……」

 

 ライナーはなにか言いかけて。止めた。

 

 私は前を向いて一歩足を踏み出した。

 何歩か進んでから「だから……」と思わず言った。

 

「あがくしか、ない」

 

 独り言だった。

 それに返答はなかった。

 

 それから私たちは無言でひた歩いた。

 ライナーは変わらず私の少し後ろをついてきた。私は平常時を思えばかなりゆっくりと歩いているが、ライナーが追い抜くことはなかった。

 そして、演習場となっている林を抜けた。

 

 

 

 雲がでているから、林を出ても薄暗いままだった。だが兵営は人の気配の温かみに満ちていた。どこからか人の話し声がぼんやりと聞こえてくる。

 私たちは相変わらず無言で歩き、やがて医務室の前に着いた。

 

「もう。大丈夫」

「そうか」

 

 ライナーの声は、いつもの――頼もしい兄貴分らしい調子に戻っていた。だが、その目は一度視線が合った後に、逸らされた。

 

 これで、悪い夢のような邂逅も終わりだ。

 これから先、関わることは仕方のない状況を除き、ない。義理を通す必要はない。

 だというのに、きまりが悪かった。

 

「……。ライナー……付き添って、くれて……。……ありがと」

 

 私は逡巡し、つっかえながらもそう言った。

 ライナーは僅かに目を見開いた。それから、よく見る、頼りになりそうな完璧な笑みを薄っすらと浮かべた。

 

「いや、いい。気にするな……俺は当然のことをやったまでだ」

「そう」

 

 私は不愛想に言い、医務室の扉を押して逃げるように中に入った。

 バタン、と扉が閉まる。

 

 余計なことを、いっぱい言ってしまった。

 後悔を吐き出すように長く息を吐く。深呼吸もする。消毒液の匂いが鼻を突いた。

 

――放っておけばよかったのに。

 

 ふと、誰に向けたのか分からない言葉が、心の中に浮かんだ。

 

 私は震える指で、血で汚れた鼻の下を乱暴に拭った。

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