棘 作:よく
今日も補習尽くしだった。
全身に疲れが澱のように沈んでいる。
ふらふらとしながらも兵営に戻れば、気づけばもう夕食の時間だった。渡井はのろのろと私服に着替えてから、休む間もなく食堂へと向かった。
扉越しからも談笑の気配を感じる。古ぼけた木でできた食堂の扉を開くとあたたかな橙色の光が目の奥をさした。
頭の芯は重く、にぶい。食事の匂いを嗅いでもどこか他人事のようだった。
ひどく疲れているのだろう。
そう実感しながらも、食べなければやっていけないことは身に沁みて分かっていた。
私は椀を取ると配給のための列に並んだ。
配膳係は話したことのない――といっても話したことのある同期の方が少ないが――訓練兵だった。
彼が差し出した椀を見ると、スープには具がほとんど入っていない。その上、底が見えている。パンも、端の黒焦げた部分だけ。
溜息をつきそうになって、堪えた。
ここ数日、こういうことが続いている。
訓練兵団入団から大分時間が経った。
最初は自分ならやれるかもと思っていた子らも、現実を知った。成績上位者の顔ぶれは入団時からそう変わりはない。対して、退団させられる人物は多い。
鬱屈としたものがたまってきているのだ。
だからだろう。私のような口数の少ないドベは、過度な揶揄いやちょっとしたいじめの標的になりがちだった。
それは仕方のないことだった。
「どうした? 嫌なら残していいぞ」
彼は笑って言った。周囲からも、乾いた薄笑いが漏れる。
ここで騒ぎを起こして教官が来れば、さらに面倒なことになる。それに子どものやったことだ。
私は腕を黙って受け取って、テーブルに足を進めようとした。
そのときだった。
「……どうしたんだ」
低い声が響いた。
反射的に振り返る。
そこにはライナー・ブラウンがいた。彼は私の後ろに並んでいた。
心臓がどくりと鳴った。なんで、ここにいるのだろうか。いつから見ていたのだろうか。
ライナーは私の椀を見て、それから配膳係を見た。
配膳係や、薄ら笑いを浮かべていた周囲に、ぴりりとした緊張感が走った。
「なあ」
「な、……なんだよライナー」
「それで全部か?」
ライナーの声はいつも通りの穏やかなものだった。
「これ、規定量じゃないだろ」
ライナーは確認するように言った。
「い、いや、これで――」
「鍋の中、見せてくれないか」
配膳係は躊躇ったあとに、渋々、鍋を見せる。
中には、まだ具の入ったスープが残っていた。
「……ああ、悪い。間違えた」
配膳係とライナー。二人分の視線が私に集中する。椀を持つ手に力が入る。
ライナーが「ほら」と促すように言う。
私は顔を背けた。だが、食べ物に罪はない。ついでに多分、ライナーの施しにも罪はない。はずだ。
私は歯がみした。そしてライナーに一度頷いてから、配膳係に椀を渡した。
「……おねがい」
配膳係は目を合わせることなく椀を取ると、まともな量をよそい直した。
「パンもだ」
ライナーが言う。
「……はいよ」
焦げていない、普通のパンが渡された。やや小ぶりだが先に受け取ったものと合わせれば規定の量になるだろう。
ライナーは私を一瞥したあとに、配膳係をじっと見た。
「次からしっかりよそえよ」
「……わかったよ」
配膳係は気まずそうにそう言った。
周囲も、静まり返っている。
さっきまで笑っていた訓練生たちが、黙って視線を逸らした。
ライナーはちらりと私の椀を見た。
「今日のスープ、珍しく具が多いな。食事当番のやつ、腕上げたんじゃねえか」
それから場の雰囲気を変えるような明るい声でそう言った。
「へえ、そうなのか。それは楽しみだ」
「今日のやつ、上手くやったんだな」
周囲からも気まずい空気を払拭するかのようにそんな声が上がった。
うまい立ち回りだな、と思った。こうすれば兄貴分として確固たる立ち位置を得ることができるだろう。
ライナーは私の方を向いた。
ライナーと面と向かって接するのは、少し前の立体起動装置の授業で怪我をしたとき以来だった。
顔が強張る。
――なんで。
なんで、助けた。
私はライナーを拒絶した。だというのに――。
よく、分からない。
それでも助けられたことは事実だった。
私が黙りこくっていると、ライナーが「席、取っておいてくれるか」と何でもないように言った。
「な、なん、で……。う゛ぅ……」
嫌だった。そんなこと、したくなかった。
だが、恩がある。
「……わかっ、た」
そう言うしかなかった。
私は食事を手に適当な席を選んだ。
目立ちたくないので壁際の席を選んだが、ライナー――いわばスクールカースト一位――がいる時点で目立たないということは難しいだろう。
ライナーから頼まれたことは『席をとる』だけで、別に、先に食べていてもいい。しかしなんとなく忍ばれて、私はぼんやりと食事を見て、彼を待っていた。
今日もいつもと同じような食事だった。黒く硬いパンと具材の少ないスープ。それでもサシャは喜ぶのだろうけど。
ふいに彼女の喜びようがふっと思い起こされてから、自分を律した。
サシャは死ぬのだ。心を許しては駄目だった。
そうしているうちに、やがて足音が近づいてきた。――ライナーだ。
一度、彼を見上げてから視線を机に戻した。
ライナーは向かい側の椅子を引きながら「待たせたな」と言った。
別のところで食べたら。
そう言いたかった。だがそれは露骨すぎるだろう。私は顔を背けて「べつに……」と言った。
そして、口を噤んだ。
また、ライナーに助けられた。
だが、我ながら大人げないと思っていても、兵士ごっこのお節介に感謝を伝えるのは、腹立たしかった。
同時に、だんまりというのもおさまりが悪いのも事実だった。
「……ライナー。さっきは……ありがとう」
私は視線を合わせてから言った。固い声だった。
「気にするな。俺もちょうど受け取るところだったからな」
ライナーは匙を手に取りながら、いつものような声音で言った。
「……そう」
私は顔を歪めて、また、ライナーから顔を背けた。
奇妙な感じがした。
目の前には私からこの世界で唯一の居場所を奪った男が座っている。その男と食事を囲むのだ。
「早くしないと冷めるぞ」
ライナーの声で意識が引き戻される。
目の前では変わらず今日の食事が湯気を立てていた。
ライナーの言う通り、冷めて、対しておいしくもない食事がこれ以上食べづらくなるのも、いやだった。
私はいつものように「いただきます」と言ってから、スープを掬った。
向かいの席からも匙と食器がぶつかる音が小さくなった。
どこからか人の話す声や食器のかちゃかちゃという音が聞こえる。反して、私たちのあいだに会話はなかった。
胃の重くなるような気まずさのなか、ただ食事を進めた。
ふと、ライナーは匙を持つ手を止めた。私はそれに気づかないふりをしてパンをちぎった。
「……この前は……何も考えないで言っちまったよな。
すまなかった」
本当に悪いと思っているのだろう。ライナーは視線を落とし、落ちた声で言った。
ただ、なんというか驚いて、食事の手を止めてまじまじとライナーを見上げた。その僅かに顔を歪めた表情からは、やはり気まずさが伝わってくる。
もう、過ぎたことで、一度、彼は謝罪している。やるべきことを、やった後なのだ。謝罪を重ねる必要はない。
そう思うと、「……気にしないで」と、自然とそんな言葉が口をついて出た。
その後で、嫌な感情も首をもたげていた。
仇敵だというのに。こいつが元凶だというのに。
ただ、私はそれをいつものように封をした。
そうして冷静になって考えてみれば、この前は私もライナーを傷つけていたのだ、ということに思い至る。
『ドベ』がライナーの心の柔いところにある(だろう)と知って、口に出すのは、悪意があったことを否定できない。
「……私も……言い過ぎた。
それに……多分、あなたを……傷つけた。ごめんなさい」
「そうか」
ライナーは私の言葉を否定しなかった。意外だった。
そうして私がライナーを見ているうちに、彼の視線が私のそれと交わった。それが気まずくて、私はすぐに視線を落とした。
互いに黙って食事を続けた。
やがて沈黙に耐えかねたのか、或いは、それ以外の意図があるのか。ライナーが口を開いた。
「明日は調整日だろ、何かするのか?」
「……。ああ……」
言われて、明日が休みであったことを思い出した。道理で今日はどの授業もノルマがきついはずである。
ライナーはにやりと笑みを浮かべた。
「忘れてたのか?」
私は思わず唇をへの字に曲げた。
「べつに」
ライナーはくつくつと笑ってから、「そうか」と言った。
「それで、どうすんのか?」
「――……資料室、で本を読む。そのあとは部屋で、ゆっくりする」
私は少し考えてからそう言った。
自然と、目の前の男と会話をしていた。
「……そうなのか」
ライナーは意外そうに眉を上げた。
「町には出ないのか」
「行かない」
「せっかくの調整日だろ。楽しんだ方がいいんじゃないのか」
私は言葉に詰まった。
「……お金ない、し。……。この顔、だから」
「顔……?」
ライナーは訝しげな表情で聞き返す。
「……この顔立ちは、目立つ。……それに」
それに、と続けようとして、口を閉ざした。この続きは言う必要がないだろう。
湿っぽい話も同情を誘うようなことも、したくなかった。
「……それに?」
だというのに、ライナーは聞いてくる。
何と誤魔化したらいいか、分からない。
「……。……金になる、から」
私は口ごもった末に、真実を口にした。
言葉にした瞬間、胸にさくりと、やりきれない感情が突き刺さった。それが息苦しくて何回か口を開いて呼吸をした。
数秒が経ち、私は少し冷静さを取り戻した。しかしライナーからの返事はない。
ちらりと見ると、ライナーの顔からは表情が消えていた。それは彼が私の視線に気づき、取り繕うまでのわずかな時間のことだった。今はもう、いつものような余裕のある表情を浮かべている。
それからライナーは何か言いかけて、口を閉じた。ただ匙を置いて、少しの間だけ、どこでもない場所を見ていた。
「ああ……そうか……。だから……」
呼吸数回分の沈黙の末に、ライナーは納得したようにそう独り言つ。また、それきり、何も言わなかった。腕を組んで、視線を落としていた
暫くして彼は顎をさすると、「……待て」と言った。
「それならミカサもいるだろう? あいつは結構エレンたちと一緒に町に出てないか?」
「ミカサは、強い。とっても」
そこで、一度言葉を切った。
「だけど……。私は……何も、ない。強さも……後ろ盾も……」
よせばいいのに、堰を切ったように言葉が続いた。
後悔を隠し、ライナーの顔色を窺うと、彼は気まずさも驚きも浮かべてはいなかった。
「――だから、なのか」
問いかけるというよりも、納得の色が強い声だった。
「……え?」
「強さと、後ろ盾を得るために、入団したのか?」
「まあ……、そう」
私は曖昧に答えた。
「そう、なのか」
ライナーはまた独り言のようにそう言った。
胸の裡に後悔が重く座していた。また、余計なことを言ってしまった。
私は口を閉ざして、食事を進めた。
「ごちそうさま」
私はそう言うと席を立つ。
ライナーは何かを考えるかのように目を伏せていたが、視線を上げると「ああ」と言った。
これきり、もう、関わることはないだろうと思っていた。
実際に私から話しかけることはなかった。
だというのに、ライナーは私が困っていると助けてくれることがあった。不愛想な奴だろうに、声をかけてくれることがあった。
そういうときにぽつぽつと言葉を交わす。
私たちはそれだけの関係だった。