棘 作:よく
早朝の玲瓏な光が周囲を照らしている。その淡い光が目の奥に刺さるように眩しくて、目を細めた。
寝起きだというのに、思考は一枚膜を張ったかのように、ぼんやりとしている。
だが、冷えた空気を吸って、段々と頭がはっきりしてきた。私は一度伸びをしてから、井戸に向かった。
井戸の周囲には数人の訓練兵がいた。
今日の水汲み当番や、私のように水を使いに来たもの――。
それらの中には、サシャもいた。
あの日――補習の課題を書いた夕方――から、彼女は妙に馴れ馴れしい。距離を取ろうとしているのに、気づいてくれない。
それは、気づかないふりをしているからなのか。それとも、本当に気づいていないのか。
傍目には判断できなかった。
サシャも私に気づいたのか、視線が合う。彼女の表情がちょっと緩んだ。
サシャとは関わりたくない。必要以上に関わって原作の展開が変わっても困るし、彼女の死で傷つきたくない。顔を洗うのは止めようか。そう思った。
だけど、それは気持ちが悪い。それに、もう一度ここに来る時間もない。
私は重い足取りで井戸へと向かった。
ちょうど同じようなタイミングで、演習場の方からミカサも来た。何か鍛錬でもしていたのだろう。
サシャは水桶に水を張ると、私とミカサを見た。
「ミカサとミノリって似てますよね。親戚なんですか?」
サシャはさらにもう一個の水桶に水を汲みながら言った。
彼女は明らかに一人分以上の水を汲んでいる。また、ユミルに頼まれでもしたのだろうか。
「似てない」
「似てない」
私とミカサはほぼ同時にそう言った。
似ているわけがなかった。
ミカサは強い。やがて、最も愛する人を殺める決断すらできるような人だ。
私とは、何もかもが違う。
私は会話を終わらせるように、顔を洗った。水は沁みるように冷たい。
「似てますって!」
即答されたというのに、反応がないというのに、サシャは堂々とそう言い切った。
私は顔を洗い続ける。ミカサはもう一度「そう」と静かに言う。
数秒の沈黙が訪れた。
「サシャ、大丈夫?」
ふいに鈴を転がすような可憐な声が響く。
顔を上げてそちらの方を見ると、ヒストリア――クリスタが近づいてきていた。
「あ、はい! 大丈夫です。今すぐ持って行きます!」
「そんな……! 急がなくて大丈夫だから。
……ごめんね、ユミルが頼んじゃって」
クリスタは手をぱたぱたとさせながらそう言うと、私とミカサに気づいたのか「何を話していたの?」と柔らかな声音で聞いた。
「ミカサとミノリって似ているなって、話をしていたんです。
――ね、クリスタもそう思いますよね!?」
「え!? うーん、そうだね」
クリスタは私とミカサを比べるように見た。
「似てると思うよ」
「――似てんな。お前ら実は腹違いの姉妹なんじゃないのか?」
唐突にクリスタの背後から現れたユミルは、クリスタの肩に腕を載せながらそう言った。
そんなに、似ているのだろうか。
それから、ふっと思い当たることがあった。
人種だ。
私は日本人であるし、ミカサは壁内唯一の東洋人である。そういうところで似ていると思われているのだろう。
だけど、共通点はそれだけだ。
「似てない。だいたい、ミカサは美人。私とは違う。
それに、黒髪で黒目ならミーナもいる」
だからいい加減解放してくれ。
なんて感情が表情に浮かびそうなほどに強く思いながら私はそう言い放った。
だというのに、クリスタとサシャは顔を見合わせてから、まじまじと私を見た。
「名前、覚えてるんだね」
クリスタは意外そうな表情を隠すことなく、そう言った。
「……当然」
知らないわけがない。ミーナは同期で、訓練兵を卒業したその日に巨人に喰われて死ぬのだから。
それ以外だって、そうだ。みんな苦しんで死に、生きる。
「突いてやんなよクリスタ。こいつはな、私たちに興味がないんじゃなくて、びびってんだよ」
「ッ――」
ユミルが私に向かって一歩踏み出した。
その意志の強そうな顔が朝陽に照らされて揺らめいた。
「なあ、なんでお前、いっつもびくびくしてんだよ」
突拍子もない言葉だった。
「そんなに私たちが怖いのか?」
それと同時にユミルらしい、聡い言葉だった。
事実に否定することは、できない。私は何も言わずにユミルのことを見つめた。
「ちょっと! やめなよ、ユミル!」
ユミルは私から視線を逸らし「なんだ? クリスタ」と揶揄うように言った。
残る二人の――ミカサはいつ間にか姿を消していた、エレンのほうへ行ったのだろうか――視線が私に集まった。
そこはかとなく、気まずかった。
「……ユミル」
「あぁ?」
ユミルはぐりぐりとクリスタの頭を掻き撫でるのを止め、私の方を見た。
「私は、……それを、否定できない」
「へえ、そうかい」
ユミルは肩をすくめた。
「お前、うまいな」
なにが、だろうか。思わず眉をしかめた。
「まあいいさ。ただな」
彼女はクリスタの方を一瞥してから、また私を見た。
「そんなにびくびくしてたら、いざって時に動けないぞ」
何も、言い返せない。
「……そう」
そう言うしかなかった。
◇
ある、格闘訓練の日のことだった。
どさりと音がしたのでそちらのほうを見るとエレンが地面に転がっていた。それからライナーも吹っ飛ばされた。
その夜、夕食時にジャンとエレンの喧嘩が勃発した。
それだけならいつものことに過ぎない。しかしながらエレンはジャンを軽々と転がしたのだ。
そういえば、こんな話もあった。
そう思いながら私はミカサがサシャに罪を擦り付けるのを聞いていた。
運悪く、サシャの後ろの席しか空いていなかったので、サシャが「ミカサ!? なんでそんなことを言ったんですか!?」と言うのがよく聞こえた。
私には関係のないことだ。いつものように食事を進めた。
だが、唐突にサシャはぐりんと私の方に振り向き、私の肩を掴んだ。
「ひ、ひどいと思いませんか!?」
なぜ、私に話を振るのだろうか。
「ミノリはひどいと思わなかったんですか!」
二度もそう言われたので、さすがに私は匙を置き、サシャの方を振り向いた。彼女の目には薄っすらと涙が滲んでいた。
「……。ひどい、かもしれないけど、……仕方なかった、と、思う」
こうなったのもサシャが、その、憚らず放屁をするやつだと思われている所為だからだろう。
具体的には場を弁えずに芋を食したり、馬鹿なことをしたり、大口開けて寝てたりしている所為なのではないだろうか。
「それに……サシャの、いつもの行いのせい、じゃない?」
思わずそう言うとサシャは明らかにショックを受けた表情を浮かべた。涙の粒が大きくなる。
「……うッ」
私は思わず変な声を出した。
「ミノリまで……そんなこと言うんですかあ!?」
「……ごめん」
謝るしかなかった。サシャはなんとか、渋々、納得したような表情浮かべる。それからミカサの方を向いた。
「……。ミカサも謝ってください!」
「ごめん」
ミカサはそう言うとサシャの口にパンを放り込んだ。
「もご……。これ、くらいで……! 私が……! もぐ……」
「サシャ」
冷静になって考えてみれば、うら若き乙女がこのような辱めを受けるのは酷い話である。私はパンくずを口に付けて振り向いたサシャの口に、パンを放り込んだ。
「元気、だして。……ね?」
サシャはパンを受け取ると、頬張る。やがて彼女の顔に笑みが浮かんだ。
◇
入団して、そろそろ三年が経つ。
ある日、アニは朝から酷く疲れた顔をしていた。彼女とすれ違うと薄っすらと異臭がしていた。
その朝、エレンとジャンの喧嘩をライナーが仲裁していた。
ならば、今宵、ライナーはウォール・ローゼを破壊する作戦を立てるのだろう。
◇
そして、訓練兵団の解散式は何事もなく――も変わることなく――終わった。
当然ながら上位十名の顔ぶれは変わらない。
私はというと、意外にもアルミンよりかは卒業模擬戦闘試験の成績は良かった。だがそれ以外の成績も下から数えた方が早い。入団時から変わらず私はドベだった。
その夜、送別会が行われた。いつもより少し品数の多い食事が提供されたので、サシャは大喜びで食事をしていた。
周囲の雰囲気は和やかで、辺りから談笑の声が聞こえてくる。ほとんどの子は、厳しい訓練を乗り越えた喜びを顔に浮かべている。中には感極まって涙を浮かべている訓練兵もいた。
いわば卒業式の日といった雰囲気であった。
私は話す相手もいないので、一人で黙々と食事をしていた。
そうしているうちに、やがて、いつものようにエレンとジャンの言い争いが始まった。それはあっという間に殴り合いに発展した。いつものことだった。
エレンが殴り勝つと思われたそのとき、ミカサがエレンを担ぎ上げたことで、喧嘩は呆気なく終了した。そのさまに訓練兵の大半が楽しそうに笑い声をあげた。
ミカサはエレンを軽々と担いだまま、ふらりともせずに外に出る。アルミンもそれについていった。
ジャンは去り行く三人に苛立たしげに「よかったなエレン! またそうやってミカサにおんぶに抱っこだ!」と言い捨てると、席に座った。
私は一連の流れを見ながら、ぼんやりと考えていた。
ここまで、どうにか乗り越えることができた。
明日は、超大型巨人が襲来する。
巨人のいない未来のために必要な要素が多すぎる。絶対に原作通りに進まないといけない部分だ。
止める必要はない。トロスト区攻防戦は発生しなければならない。
だから、あとは、明日を――超大型巨人の襲来を乗り越えるだけで、いい。駐屯兵団に加入してしまえば原作に関わることもほとんどないだろう。
そうすれば私は――戦争には巻き込まれるかもしれないが――死なないで済む。
明日のことを思うと、体が嫌な感じでざわめきたつようだった。胃は重く、食欲は薄い。
明日が来なければいい、と思う。だが時計は止まらない。
仕方のないことなのだ。
ふと、顔を上げると賑やかな食堂が目に入った。みんな、笑っている。明日のことなんて知らないで――。
「――なあ」
ふいに、聞き覚えのある――聞き覚えのあるようになってしまった声がした。
コニーだ。
「……え?」
「ミノリはどうすんだよ」
私は声の聞こえた方を見た。
「あ、私も気になります!」
サシャが芋を片手に身を乗り出す。サシャは最後まで馴れ馴れしかった。
「……」
「そんな顔しないでくださいよ! 私たちは何度も苦境を共に乗り越えた仲間じゃないですか!」
私が課題を書いているときに横槍を入れてくるのは果たして仲間なのだろうか。
そう思いながらも私は「なにを、どうするの?」と聞いた。
今更、無視をするのも感じが悪い。そう思ってしまう程度には、在団中にサシャやコニーと関わってしまっていた。
「所属兵科だよ。それ以外ないだろ」
「ああ……」
私は何ともなしにコップを揺らしてから、飲んだ。
「……駐屯兵団」
「だろうな」
「ですよね」
コニーとサシャは意外そうな表情を浮かべることなく即答した。
思わず溜息をつく。
「……。じゃあ、聞かないで」
戯れのように会話をしていても、明日のことが付き纏う。
納得は、している。
だというのに、ここにいる何人が生き残れるのだろうか、と思ってしまう。
私はぼんやりとパンを見た。配給されたはいいが、手つかずのまま残っている。
私はそれをサシャに渡した。
「サシャ、これ、あげる」
「え!? いいんですか!」
「うん」
サシャはパンを受け取ると、私を拝んだ。
「ミノリ……! いつも、いつも……! ありがとうございます!」
「やめて」
そうしていると背後からぬっと影が差した。
「お前……またサシャに飯をやってんのか」
「……ライナー」
ライナーだ。
彼はいつものように笑っている。明日、大勢を殺すというのに。
何を考えているのだろうか。
ライナーのやることは、仕方がない。マーレの戦士たちからすれば、それ以外に道はない状況なのだから。
そう納得してはいるが、胸の奥でどろりと重い感情が渦巻くのを止められなかった。
私はそれらに封をして平静を装う。だが顔は強張っているのだろう。ライナーが不思議そうに「どうしたんだ?」と聞いてくる。
何と答えたらいいのかわからなかった。恨み言を言ってしまいそうで怖かった。表情を隠すようにライナーから顔を背けた。
「……。べつに……」
私がそう言うと、サシャとコニーは呆れたように私を見た。
「相変わらず、不愛想ですねぇ」
「お前、もうちょっと素直になった方がいいんじゃないか?」
正論だった。
私は黙ってスープを飲んだ。冷めかけたそれは、やはり、おいしくない。
「もう、寝る」
そう言いながら立ち上がる。
「……おやすみ、なさい」
三人はそれにばらばらに返事をした。
その自然体な様子からは親しみを感じ取ることができた。
こんな私に三人はよくしてくれていた。
望まぬとも与えられたものだとはいえ、果たして無碍にしていいのだろうか。
サシャとコニーは調査兵団になる。ライナーは言わずもがな、マーレの戦士である。もう、この三人と顔を合わすことはないのかもしれない。
それに、私は明日、死ぬかもしれない。
これが、最期の機会かもしれない。
そう思うと悔いを残すことは、したくなかった。
私は深く呼吸をしたあとに、「あと」と言いながら振り向いた。
三人は不思議そうに私を見ている。コニーが「どうしたんだよ?」と聞いた。私はそれに答えることなく、言葉を重ねた。
「サシャ、コニー……ライナー。その……。……話しかけてくれて、ありがとう」
驚きで静まり返る気配を感じながら、私は逃げるように食堂を後にした。
夜風が熱くなった頬に気持ち良い。
私は早足で寄宿舎に向けて足を進める。掻き毟りたくなるような羞恥心が落ち着くと、腹の底から恐怖がにじみ出てきた。
歩調は段々と遅くなり、やがて、自然と足が止まった。
明日、大勢が死ぬ。
その流れを変えるつもりはない。止めることはしない。
巨人のいない未来。百年の平和のために、全てが必要な犠牲だった。
――だから、やがてサシャも死ぬ。
私はずるずるとしゃがみ込み、膝に額を付けて丸まった。
それでも、まだ、死にたくなかった。
死ぬのは、怖かった。