作:よく

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トロスト区攻防戦2

 膝を抱き、目をつむり、自らが作った闇に逃げて、どれくらい時間が経ったのだろうか。

 やがて、どこからか銃声が聞こえてきた。

 銃で巨人に致命傷を負わせることはできない。原作でもある通り、自殺だろう。

 

 それから少し経ってから、窓ガラスが割れる音が微かに、しかし何度も聞こえてきた。その音で私は顔を上げた。

 ジャンたちが、来たのだ。

 

 私はなにもしなくても、いい。原作通りになれば助かる。だというのになにかに突き動かされるように立ち上がり、その音が聞こえた方へと足を進めた。

 

 廊下には絶望しきった様相の訓練兵たちがぽつぽつといた。私はそれを一瞥して進んだ。この光景は最早、見慣れたもので、心を動かされることはなかった。

 

 ガラスの割れる音が聞こえた部屋に入ると、机の下で力なくうずくまる大勢の訓練兵と、息の上がった数人の訓練兵がいた。

 それから、ジャンが窓ガラスを突き破って、この建物に入ってきた。

 

「ジャン」

 

 思わずジャンに駆け寄りながら言った。

 ジャンはしゃがみ込み茫然としていたが、私が呼ぶとはっと顔を上げた。

 

「お前は……」

「二十七班所属、ミノリ・タイレ」

 

 反射的にいつものように所属と名前を告げた。

 

「二十七……。補給の班、だよな」

 

 ジャンがぼんやりと言った。

 私は浅くうなずいた。

 なにを言うべきか、分からなくて、ごくりと唾を飲んだ。

 

「……地下の、補給室に……巨人が来た。ここは、もう、使えない」

 

 それから言葉を選びながら状況を伝えた。それは単なる報告であり、この三年間の教育の結果だった。

 言い終えるとジャンの瞳に強い意志が宿る。

 ジャンは勢いよく立ち上がると、強い語気で「それをなんとかするのがお前たちの役割だろ! なにしてたんだよ!」と言い、私の襟首を両手で強く掴んだ。

 振り払うことはできたが、私はしなかった。

 

 事実だった。それが補給支援担当者の仕事だった。

 私はそれを放棄し生き延びた。あまつさえそのために命を犠牲にした。

 なにも言えない。

 ジャンの怒りで揺れる瞳から視線を逸らしたくして、でも、そんなこと許されない。私はじっと彼を見つめた。

 

「クソッ!」

 

 ジャンは悪態をつくと、よりいっそう強い力で襟首を掴む。

 

「オレたちを見捨てやがって!」

「ご――」

 

 咄嗟に、謝罪を言いそうになって、唇を引き結んだ。

 見捨てたのは、私の自らの意志によるものだった。謝罪してなにになるというのだ。

 

「――……なにか、言えよ!」

 

 ジャンは顔を歪めて声を張り上げた。

 

「ジャン」

 

 マルコがジャンの肩を引きながら名前を呼んだ。ジャンの手が襟首から離れる。私は何度か咽ながら呼吸した。

 解放されたというのに、肺の底に板でもあるかのように息苦しくて、浅くしか呼吸はできなかった。

 ジャンはマルコの方を一度見た後に、私を鋭い瞳で睨んだ。

 

「ここに来るまでに……余計に人が死んでんだぞ!」

 

 胸の奥が焼けるように痛んだ。だが、それは当然のことだった。

 

「ッ……! ……そう。でも、……仕方、ないんだよ、ね……」

 

 我ながら酷く平坦な声だった。

 

「……ミノリ!?」

 

 マルコが驚いたように私の名前を呼んだ。

 話したことなんて一度もないのに名前を知っているんだ。場違いにもそう思う。

 

「……んだと……ッ!?」

 

 ジャンの顔が、怒りと驚愕で引き攣る。

 

「仕方ない、じゃねえだろ!」

 

 ジャンの腕が胸に伸びた。掴まれた胸倉がギリギリと鳴る。ジャンの拳が震えながら、私の頬のすぐ横まで振り上げられた。

 

 殴られたら。

 

 楽になるのだろうか。この罪悪感は雪げるのだろうか。

 

「よせ!  ジャン!」

 

 マルコがそう言ってジャンを制止しようとした、瞬間、「――伏せろ!」と、ライナーが叫んだ。同時に、ドオンと腹の底まで響く凄まじい音とともに、建物全体が揺れる。胸倉を掴む手から力が抜けた。私はたたらを踏んだ。

 

 音がした方を見ると、巨人が頭を突っ込んで壁をぶち抜いていた。

 一瞬の沈黙ののちに、群衆が慌ててこの部屋から逃げ出そうとする。足音と悲鳴の入り混じった凄まじい騒ぎだった。

 大きな穴から二体の巨人が姿を見せていた。絶体絶命だろう。だが――。

 

 その巨人を、巨人がぶん殴った。

 

 ドオオ、という殴打音を響かせてから、巨人――進撃の巨人、或いはエレン・イェーガーは咆哮する。

 ジャンは茫然と「ありゃあ……なんだ……?」と呟く。

 私は、ほっとしていた。

 

――原作通りだった。

 エレンは無事に巨人になることができたらしい。同時に身震いした。このままいけば彼は、人類の八割を殺す。

 

 突然、窓ガラスが割れる音が響くとともに、三人の訓練兵が飛び込んだ。

 ミカサとアルミンとコニーだ。

 生きていたようだ。

 エレンがここに来た以上、生存は必然ですらあるが、実際に三人の顔を見ると、強張った体から力が抜けた。私は酷く緊張していたのだろう。

 

 遠くから肉を殴る音が聞こえてくる。この建物のそばでエレンが巨人を相手に戦っている音だ。

 本部は絶体絶命の状態ではなくなった。巨人襲来の衝撃が消えた今、ただ困惑した沈黙が場を満たしていた。

 そんな奇妙な状況のなかでミカサとアルミンとコニーが、奇行種の巨人(エレン)を利用してここまで来たこと、そして、この巨人を利用することを話す。それがひと段落してから、私はアルミンに声を掛けた。

 

「アルミン」

「ミノリ! 無事だったんだね」

 

 アルミンは明るい声でそう言った。それから彼の視線が私の頬に向かう。

 

「その傷は……?」

「これは……」

 

 私はバリケードを作るときに殴られた頬を隠すように撫でた。

 

「どうでも、いい。

 それよりも、現状を、報告する」

 

 そう言ってから、私はアルミンに現状を報告した。

 七体の巨人が補給室に陣取っていること、バリケードを作ったこと――。

 それらを説明し終えるとアルミンは「わかった」と言い頷いた。それから彼は視線を逸らし、自信なさげな表情を浮かべた。

 

「でも、どうして……僕に、伝えたの?」

「……?」

 

 私は首を傾げる。アルミンは微かに顔を歪めた。

 

「ミカサやライナーとかジャンのほうが頼りになるだろ」

「……そう?」

 

 意外だった。私にとってアルミンは頼もしい参謀だが――。今はまだ彼に自信はないのだろう。私は「座学だけなら、主席はアルミン、だから」と言い訳するように言った。

 

「そ……それだけの、理由で?」

「うん」

 

 聡明なアルミンに、なにか勘づかれても面倒だ。

 

「それよりも。私は……支部担当だったから、ここの詳しいことは、知らない。本部担当に、聞いて」

 

 私は矢継ぎ早にそう言葉を重ねた。

 

 

 

 数人の本部担当の訓練兵から情報を聞き出し、やがて、アルミンは作戦を立案した。

 リフトで降下し囮になりつつ銃で視界を奪い、天井に隠れていた七人で巨人を倒す――。原作通りのものだった。

 

 銃をかき集め、リフトの用意をし、作戦の直前となった。

 私は自らのガス管を見た。ガスは僅かに残っている。

 

 ミカサに渡そうか。そうしたら作戦の失敗の可能性が下げられる。

――駄目だ。

 ここでアニがコニーを助けなければ、マルコの死の流れが変わってしまうかもしれない。

 そうすれば如何に大きな影響が出るだろうか。

 私はミカサに伸ばしかけた手を降ろし、ぎゅっとこぶしを握った。

 

 

 

 

 

 

 作戦は原作通りに進み、ついに私たちは本部から脱出することができた。

 

 

 

 

 

 

 撤退するとき、エレン巨人を確認しに、屋根の上に行くミカサをが見えた。遅れてジャン、ライナー、アニ、ベルトルトがそこに向かう。

 ミカサとジャンはともかくとして、マーレの戦士たちは継承者が誰か知りたい一心で確認しに行ったのだろう。

 そこに行く必要性はない。

 私は振り返ることなく、立体機動装置で駐屯兵団本部まで撤退した。

 

 

 

 

 

 

 乾いた風に運ばれて煙の臭いがした。硝煙の臭いだ。同時にそれには血の鉄臭い臭いが混じっているような気がした。風で運ばれてきたのか、鼻の奥にこびりついて離れないのか。私は顔を歪めた。

 

 訓練兵は駐屯兵団本部で待機の命令をだされていた。

 私は生き残った班員たちとともに、本部で待機していた。会話はなかった。二人とも――そしてきっと私も――沈鬱な表情で黙り込んでいた。

 近くからはコニーが同期たちに経緯を説明する声が聞こえる。私はそれを軒先に座り込んで、ぼんやりと聞いていた。

 

 なにも考えないようにしていた。

 頭を動かすとすぐにでも、断末魔の叫びと虚ろな瞳が思い起こされる。

 その亡霊に気づくと、駄目だった。

 

――バリケードは、正しかったのだろうか。あの扉の向こうから聞こえた声が、まだ耳の奥に残っている。どうして、こんなことになったのだろうか。

 

 口の中に鉄の味がした。いつからだろうか。喉が渇いていた。でも水を飲む気にもなれない。

 私はただぼんやりとしていた。

 

 不意に人の足音が近づき、私の前で止まる。影が差した。でも、今の顔を見られたくなくて、俯いたまま反応を示さなかった。

 

「ミノリ」

 

 いつの間にか聞きなれていた声。ライナーの声だ。

 薄々感づいてはいたが、一瞬、息が止まった。それから、胸の裡からどす黒い感情が湧き上がってくる。

 

 こいつのせいだった。

 

 私はそれを封じ込めるように、深く息をした。

 

「……ライナー」

 

 そして、私は意図的にゆっくりとそう言ってから、時間をかけて立ち上がり、彼を見上げた。

 うまく取り繕えているだろうか。

 わからない。

 それでもライナーの顔には疑いの色はなく、ただ、案ずるかのような表情があった。

 

「大丈夫か」

 

 やはり、心配を滲ませた声。

 どの面下げてエルディアの悪魔にこんなことを言っているのだろうか。私はライナーから顔を背けた。

 

「……これくらいの、傷……たいしたこと、ない」

 

 ライナーは短く息をつく。私は首を傾げた。

 

「……なに」

「傷の話をしてるんじゃない。……お前、さっきから震えが止まってないぞ」

 

 言われて自らの手を見ると、哀れっぽく震えている。

 私はそれを隠すように拳を握った。

 

「そんな、こと、……ない」

「そんなわけないだろ」

 

 ライナーはいつかと同じように呆れを滲ませた声でそう言う。

 私はなにか言い返したくて口をぱくぱくとさせた。それから「違う、から」と言った。その振り絞った声は、震え弱々しいものだった。

 

 しくじった。

 

 咄嗟にライナーを見上げた。彼の真っ直ぐな眼差しに、封をした感情がどろりとせり上がる。

 私は視線をすぐにそらした。嫌な沈黙が落ちる。そのときだった。

 

「もう……巨人と戦えない……」

 

 どこからか、そんな湿った声が聞こえた。思わずそちらの方を見た。

 それは、軒下で座り込んでいる訓練兵の声だった。彼はマルコに慰められているが効果は薄いようで、震えながら言葉を重ねる。

 

「仲間が目の前で食われた……。仲間が食い殺されたのに……俺は悲しみも憎しみも感じなかった……。

 ただ……心底俺じゃなくて良かったって思った……」

 

 頭が一瞬真っ白になった。それから、意味を理解する。

 

「――あ、」

 

 同じだった。

 

 好機だ、と思った瞬間。班員を二人、犠牲にした瞬間。補給室にいる訓練兵を囮にバリケードを作ったとき。

 確かにそうも思っていた。

 

「わた、私……なんて、……こと、を……」

 

 奈落に吸い込まれるかのような、心地だった。

 

「ミノリ、」

 

 視界がぐにゃりと歪んだ。肺が上手く膨らまないみたいな感じがする。いくら吸っても酸素が足りない。浅い呼吸を繰り返した。

 

「ひと、を……」

「――ミノリ!」

 

 ライナーが私の肩に手を置いた。胸を締め付けていた枷が、その衝撃でほどけた。私は何度か瞬きをして、息を吸った。

 

 後悔や苦しみが、澱のように沈んでいく。全身が鉛のように重く、全部が億劫だった。

 

 同時に、腹立たしくもあった。

 たった一人の人間でしかない私になにができたのだろうか。誰も見捨てずに、死ねばよかったのだろうか?

 

 胸の裡で感情がせめぎあっている。

 衝動的にそのどす黒い感情を吐き出したくなった。だが、それをライナーにぶつけて、なにになるのだろうか。

 それでもなにかを伝えたくて、何度か言いかけては、口を閉ざした。

 

「落ち着け、」

 

 ライナーは迷いながらも、言葉を重ねようとしていた。

 

 瞬間、砲声が鳴り響いた。

 

 ライナーは瞬時にそちらの方を見る。同時に、肩に置かれた手が強張った。

 

 硝煙の匂いが、風に乗って香る。

 

 ライナーのわずかに目を見開いた横顔を見た瞬間、胸の底でなにかが急速に固まっていくのを感じた。ぐるぐると輻輳していた頭が冷えた。

 私は、なにを言いかけてたのだろうか。それも原因(ライナー)に!

 

「……気になって、いるんでしょ」

 

 乾いた声だった。さきほどまでの、震えはどこにもない。

 

「あ、ああ」

 

 ライナーは弾かれたように私の方を見ると、驚いたような表情を見せてから頷いた。それから言葉を探るかのように一度視線を落とした。

 

 ライナーは九つの巨人が――マーレに帰るための手土産が余程、心配なのだろう。

 だというのに私を心配した善き兵士でいようと必死に言葉を探している。役を降りられないさまは、おかしいほどに憐れだった。

 私は彼の言い訳を聞くよりも先に、「行けば、いい」と言った。

 

「……だが、」

「いいから。……ね?」

 

 私は肩にふれるライナーの手を、肩から外した。ライナーは空をさまよう自らの手をちらりと見たあとに、私に視線を合わせた。

 

「……すまん。すぐ戻る」

 

 ライナーは申し訳なさそうに言うと、すぐさま立体機動装置で屋根の上に飛んだ。次いでアニとジャンも砲声の聞こえた方に移動していた。

 私はそれを見送ってから、もう一度地面にしゃがみこんだ。そして膝を抱えて、目を閉じる。

 

 なにも、考えないように、していた。

 だが目蓋で作った仄暗い闇を見ていると、ぽつぽつと浮かび上がってくるものがあった。それは先程までの激情ではない。今はただ、褪せて冷えたものとなり、広がった。

 

 

 

 誰かが近づいてくる気配で顔を上げると、想像通りライナーがいた。

 立ち上がるのも億劫で私は自らの膝を抱いたままでいた。やがて、ライナーは少し離れた位置に腰を下ろす。膝を抱く手に、わずかに力が入った。

 

「遅くなった」

「うん」

「それで……なにがあったんだ?」

「……べつに。私は、もう、大丈夫だから……。

 ライナーこそ、なにがあったの」

 

 ライナーは「それは」と口ごもった。

 それはそうだ。

 なにも言えるわけがない。

 

「言えないの?」

 

 私はライナーがなにか口にする前に、素知らぬ顔で言った。

 

「……そうだ。上官から守秘命令が出されていてな、詳しいことは話せない。

 だがすぐに噂が広がるだろうな」

「そっか」

 

 それ以上、なにを聞くこともない。私は視線を地面に落としたまま口を噤む。それきり、私たちの間に言葉はなかった。

 

 やがて召集の命令がかけられた。

――トロスト区奪還作戦が始まるのだ。

 私はのろのろと立ち上がる。

 ここを、乗り越えなければ、生きられない。

 

 訓練兵は規律正しく整列していた。しかしながら周囲の様子はとてもではないが規律の行き届いた状況ではない。

 あちこちから嘆く声が聞こえる。今朝聞いた作戦開始前の声よりも重く感情のこもった響きだった。その声は訓練兵のみならず、駐屯兵からすらも漏れ聞こえた。

 

 ぽつぽつと零される声は、やがて騒ぎの一歩手前の状況まで進んだ。

 死にたくないと叫ぶ訓練兵、それを注意する駐屯兵――。

 最早、いつ刃傷沙汰になってもおかしくはなかった。しかしその状況を「注目!」という、ピクシス司令の一喝が中断させた。

 

 この場にいる全員の注目が壁上の司令に集まった。

 ピクシス司令は朗々と演説をする。

 曰く、エレンを利用し破壊された扉を塞ぐ。とどのつまり、原作通りの展開であった。

 司令は演説の最後に、「我々はこれよりの奥の壁で死んではならん! どうかここで――死んでくれ!」と言っていた。

 

 今度は、私が囮になる番だった。

 

 

 

 最初は、壁上でガスや替え刃を駐屯兵に渡すのが私たちの任務であった。

 任務に従事していると、やがて、赤い煙弾が見えた。作戦は失敗。つまりエレンが理性を失ったのである。

 その煙弾を見るや否やアルミンはガス管を固定するベルトを外し、エレンの方へと向かっていった。それからしばらくして、私たち訓練兵にも囮としての仕事が割り振られるようになった。

 

 私たちはガス管を固定するベルトを外し、持ち場へと移動する。

 そのとき、ライナーたちの班がちらりと目に入った。ライナーたちマーレの戦士たちとともに、マルコの姿が見えた。

 

 程なくして、マルコは殺される。

 

 今日が来ると知っていた。

 だから、私は訓練兵時代には彼と一切かかわらないようにしていた。三年間、彼と目すら合わないように生きてきた。

 だが、マルコは私の名前を呼んだ。

 なぜ私の名前を憶えていたのだろうか。偶然か、優しさか――。最早、その理由を知る余地もない。

 

 マルコの後ろ姿が見えなくなるまで、見た。ただ、見つめていることしか、できなかった。

 心臓がうるさいほど脈打つ。私はそれを無視するかのように走り出した。

 

 私たち二十七班――いくつかの班と統合され、人数が増えた――は、壁上を走り、作戦地点まで進んだ。

 そこで壁からぶら下がり囮となるのが、私たちの新たな任務だった。

 ただ、それだけの任務なようでいて、訓練兵を駆り出す必要があるほどに殉職者の多い過酷なものであった。

 二十七班の班員は誰もが固唾をのみ、じっとしていた。沈黙のなか、喧騒が遠く聞こえた。

 

 誰かが動かなければならない状態だった。

 

 私は何度か呼吸して、壁から飛び降りた。

 班員が「ミノリ!?」と呼ぶ。

 私にはそれに返答する余裕すら存在していなかった。

 

 アンカーを壁に打ち込んで、ガスを吹かす。足先に巨人の指が触れた感覚で、ぞわりと怖気が走った。

 でも、まだ生きていた。囮として適当な高さで宙吊りになることができていた。

 ややあってから班員たちも同じように壁にぶら下がる姿勢となった。

 

 ワイヤー一本で壁に吊るされ、足下で口を開ける巨人たちを見下ろす。全身にじっとりと嫌な汗をかいていた。

 餌であることを自覚させられる時間は、一秒が永遠のように長く感じられた。

 補給室で見捨てた人々も、こんな風に、逃げ場のない場所で死を待っていたのだろうか。

 いつか、まともな死に方はできないなと思った。それが今なのかもしれない。ここが、私の死に場所なのかもしれない。そう心底思っているのに、巨人の手がこちらに伸びるたびに、内臓がせり上がるような恐怖が走った。

 

 そのときだ。隣にいた班員の足が、ぐいっと引っ張られた。その人の口から「あ」と意味をなさない音が零れる。次いで、ワイヤーが抜ける軽い音がした。

 落下していく彼と、一瞬、目が合った。

 鮮明な光が宿っていた。

 生きたいと、強く訴えかけていた。

 

 私は壁に刺したアンカーを抜こうと柄に腕を伸ばしかけて、一瞬だけ、硬直した。

 アンカーを刺して助けても、生餌に巨人が群がり引っ張られ、一緒に地面に落ちるだけだろう。

 

 分からなかった。間に合えと思っているのか、間に合わなくていい、囮が増えればいいと思っているのか。

 それでもアンカーをその人に向けて放った。

 ほぼ同時にその人の下半身がぶちり、と、噛み切られる。瞳から光が消えた。虚ろな目が私を見上げた。

 私が放ったアンカーは、彼の体が噛み千切られた、その後の虚空を切り裂いた。

 

 死体は地に落ちることなく、巨人たちに貪られる。

 巨人たちの腕は、もうこちらに向いていなかった。新しい餌に夢中だった。

 

 私たちは態勢を整え直す時間を手に入れることができた。

 だからこそ私たちは、まだ生きていた。

 

 ふいに鉄臭い臭いがした。最初はあんなに気になっていた血の臭いが、今はもう、なにも感じなくなっていた。

 

 

 

 

 やがて、空に黄色い煙が上がる。作戦は終わった。エレンが壁の穴を塞いだのだ。

 体から力が抜けそうになって、慌てて柄を握り直した。 

 

 私たちは上官の指示を得てから、壁上によじ登った。

 班員たちは全員、しゃがみこみ、脱力している。

 これから巨人掃討作戦に駆り出されることになる。少しでも肉体を休める必要がある。だというのに、私は立ち上がりトロスト区を見下ろした。

 

 周囲は酷い有様だった。

 町の家屋には点々と開けられた穴が目立つ。巨人を掃討したとしても、人が住めるようになるまで相当な時間が必要だ。

 壁上からだと分からないが、多くの遺体が転がっていることだろう。きっと、さきほど見捨てた班員もやがてマルコも、そこに含まれる。

 

――それでも。

 

 必要な、犠牲だった。仕方のないことだった。

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