気づいたら、そこは果てしない真っ白な空間だった。
佐藤悠真、17歳、高校2年生。
チェック柄の寝間着姿のまま、右手に丈夫な木の棒を握らされて立っていた。
目の前にコボルトがいる。
緑色の小さな体、黄色く濁った目、錆びた短剣を右手一本に握っている。
他の武器は一切持たず、ただその短剣だけを手に、無言で悠真を見つめている。
1回目
コボルトが瞬時に接近。短剣が喉を一閃し、悠真は即死した。
……白い光とともに蘇る。
木の棒は手に戻り、コボルトも無傷で待っていた。
2回目
棒を必死に振り回すが、短剣が腹を深く抉った。
3回目
横薙ぎに棒を振るう。
コボルトの腕を打ち、緑の血を飛ばした。しかし牙で首を噛みちぎられ、短剣でとどめを刺された。
4回目
逃げながら棒を突き出す。胸を掠めたが、すぐに短剣で背中を斬り裂かれた。
5回目
全力で棒を振り下ろし、左肩を深く砕く。
しかし素早い踏み込みで喉を切り裂かれ、死。
6回目
棒を回転させて短剣を一度弾くが、連続した斬撃で胸を三度刺された。
7回目
棒を突き刺すように攻撃。脇腹を抉ったが、短剣が心臓を正確に貫いた。
8回目
恐怖で動けなくなり、じっくりと首を掻き切られた。
9回目
嗚咽しながら棒を横に払い、肋骨をへし折る音を立てた。
しかし短剣の連撃で頭を砕かれ、死。
10回目
悠真は白い床に膝をつき、荒い息を吐いていた。
体は震え、寝間着は汗と血の記憶で重い。
死ぬたびにコボルトは傷をすべて消し、短剣一本だけを握った完全な状態で戻ってくる。
どんなに頑張っても、リセットされる。
不死身の自分が、短剣一本の小さな怪物に永遠に殺され続ける絶望。
目の前にコボルトが立っている。
無傷の緑色の体。短剣の刃が白い空間に冷たく光る。
黄色い瞳は淡々と、次の殺戮を待っている。「……くそっ」悠真は血の気の引いた手で木の棒を強く握り直した。
11回目
悠真は棒を中段に構え、足を踏ん張った。
コボルトの突進を紙一重でかわし、棒を横に払う。肩に軽く当たるが、短剣の返しで腕を斬られる。
12回目
今度は一歩後退しながら棒を突き出す。
コボルトの腕を強く打ち、動きを止めた一瞬があった。しかし牙と短剣の同時攻撃で喉を裂かれる。
13回目
「もう……逃げない」
低く構え、棒を回転させて短剣を弾く。
二度、三度と打ち合い、コボルトの頭にクリーンヒット。
しかし反撃で胸を刺される。
14回目
棒の扱いが少しずつ体に染みてきた。
コボルトの短剣を二度弾き、腹に強烈な一撃を入れる。
緑の血が飛び散ったが、短剣の連撃で首を落とされた。
15回目
悠真の目が変わっていた。
恐怖よりも集中。
コボルトの足の動きを読み、棒で足を払う。転んだ隙に頭を叩きつける。
しかし起き上がったコボルトの短剣が心臓を貫いた。
16回目
「来い……!」
棒を両手で握り、真正面から打ち合う。
短剣を四度弾き、コボルトの左腕を完全にへし折る。
しかし牙が肩に深く食い込み、短剣でとどめを刺された。
17回目
悠真は冷静に距離を取り、棒を鞭のように振るった。
コボルトの動きを先読みし、側頭部に重い一撃。
コボルトが初めて大きくよろめく。
しかし短剣の素早い突きで腹を裂かれる。
18回目
今度は悠真が攻め続けた。
棒の連打でコボルトを追い詰め、肋骨を三本へし折る。
コボルトが膝をついた瞬間——短剣が悠真の太ももを深く斬り、転んだ隙に喉を掻き切られた。
19回目
悠真はもう泣いていなかった。
ただ、静かに棒を構え、コボルトの呼吸のリズムを待った。
短剣の軌道をすべて読み、完璧にかわす。
棒が弧を描き、コボルトの右腕を粉砕。
さらに一撃、顎を打ち砕く。
コボルトが倒れかけた瞬間、短剣が最後の抵抗で悠真の脇腹を刺した。死。
20回目
白い光が悠真を包む。
蘇った瞬間、彼はすぐに動いた。
コボルトがまだ完全に構えを取る前に、猛然と距離を詰める。
「——今度こそ!」丈夫な木の棒が風を切る。
コボルトの短剣を高く弾き上げ、即座に下段から足を払う。
小さな緑色の体が宙を舞い、白い床に叩きつけられる。
悠真は一瞬も止めず、棒を高く振り上げ——
全力でコボルトの頭を叩きつけた。グシャッ。
鈍い音が白い空間に響いた。
コボルトの頭蓋が砕け、黄色い瞳が虚ろになる。
短剣が床に落ち、緑の血が大きく広がった。
コボルトは痙攣し……動かなくなった。
悠真は棒を握ったまま、荒い息を吐きながら立ち尽くした。
寝間着の胸が激しく上下する。
20回目の死と蘇りの果てに、ようやく——勝利した。
白い空間に、初めてコボルトの死体だけが残った。
傷は回復しない。
黄色い瞳はもう光を失っている。
悠真はゆっくりと膝をつき、木の棒を床に突いた。
「……終わった……?」
コボルトの体が、淡い光に包まれる。
輪郭がゆっくりと崩れ、粒子のようにほどけていく。
「……?」
光は床に落ちることなく、ふわりと浮かび上がり、
静かに悠真の方へと流れてきた。
思わず一歩引こうとするが、間に合わない。
光はそのまま、悠真の右手——握っていた木の棒へと吸い込まれた。
「っ……!」
手の中で、わずかな変化が起きる。
ドクン、と小さな振動。
それは一瞬で収まったが、確かに“何か”が変わった感覚が残った。
恐る恐る、手元を見る。
木の棒の表面に、細い線のような模様が浮かんでいた。
よく見なければ分からないほど淡いが、確かにさっきまでは無かったものだ。
「……なんだよ、これ」
軽く振ってみる。
ヒュッ、と空気を切る音がわずかに鋭くなる。
ほんの少しだけ。
だが確実に、扱いやすくなっていた。
(さっきより……動きが合う……?)
そのとき、頭の奥にかすかな感覚がよぎる。
一瞬だけ、相手の動きを読むような“勘”。
その瞬間、白い空間が揺れた。
果てしない白がゆっくりと渦を巻き、視界が白い光に包まれる。
体が浮かぶような感覚。
木の棒が手から消え、寝間着の感触が戻ってくる。
そして——
「ん……っ」
悠真は自分のベッドの上で目を覚ました。
いつもの部屋。
カーテンの隙間から朝の光が差し込み、枕元に充電中のスマホが置いてある。
チェック柄の寝間着は汗でびっしょり濡れていたが、血の跡はどこにもない。
体中に残っていた激痛も、恐怖の記憶だけを残して消えていた。
「……夢、だったのか……?」
声が震えた。
部屋は静かで、普通の朝の音だけが聞こえる。
でも、悠真の心臓はまだ激しく鳴り続けていた。
閉じた瞼の裏にあの空間が浮かぶ。
何度も死んだ痛み。喉を切られる感触。体を貫かれる恐怖。
勝ったはずなのに、すべてが鮮明に蘇ってくる。
「はあ……はあ……」
悠真はベッドの上で膝を抱え、背中を丸めた。
体が小刻みに震えていた。
普通の朝が戻ってきたのに、心はまだあの白い空間から抜け出せずにいた。
スマホのアラームが鳴った。
朝の7時15分。学校へ行く時間だ。
悠真は立ち上がろうとしたが、足が少し震えた。
勝利の記憶よりも、死に続けた恐怖だけが、
静かに胸の奥に深く残っていた。
その日一日、悠真はいつも通りを装って過ごした。
朝食の味はほとんど覚えていない。
母親が何か話しかけてきた気もするが、うまく返事ができていたかも曖昧だった。
学校では、友人の声がどこか遠くに聞こえた。
笑い声に混じって、あの白い空間の静寂がふと蘇る。
体育の時間。
誰かがふざけて振り回したタオルが視界に入った瞬間、体が反射的に後ろへ跳ねた。
「お、おい大丈夫か?」
クラスメイトの声に、悠真は遅れて頷く。
「……ああ、ちょっとびっくりしただけ」
自分でも分かるほど、声がぎこちなかった。
昼休み、弁当を開いた手がわずかに震えていた。
箸の先がうまく定まらない。
(もう終わったはずだろ……)
心の中で何度も繰り返す。
コボルトは確かに倒した。
あの白い空間も、もう——
放課後、帰り道。
夕焼けがやけに鮮やかに見えた。
現実はこんなにも色があるのに、頭の奥にはまだ、あの果てしない白が残っている。
夜。
ベッドに入り、電気を消す。
部屋は静かで、現実そのものだった。
(今日は……ちゃんと眠れるはずだ)
そう思いながら目を閉じる。
——どれくらい時間が経ったのか。
「……っ」
ふと、違和感で目が覚めた。
体が軽い。
空気が静かすぎる。
ゆっくりと瞼を開く。
そこは——
果てしない、真っ白な空間だった。
「……は?」
喉の奥から、乾いた声が漏れる。
立ち上がろうとして、気づく。
右手に、また“それ”が握らされていることに。
木の棒。
あの時と同じ、武器。
「嘘だろ……」
視線を前へ向ける。
そこにいたのは——コボルトではなかった。
半透明の、青い塊。
床の上で、ぬるりと形を保ちながら揺れている。
目も口もない。
ただそこに“存在している”だけの、不気味な何か。
スライム。
ぽちゃん、と小さな音を立てて、その体がわずかに跳ねた。
悠真の喉が鳴る。
「……また、やるのかよ」
白い空間は何も答えない。
ただ、次の“1回目”が始まろうとしていた。