白い空間は、いつもと同じだった。
音も、匂いも、温度すらないはずなのに、そこにいるだけで呼吸が浅くなる。
は右手の木の棒を握った。
表面には、細い線のような模様が刻まれている。
コボルトを倒したときに現れたものだ。
それは増えない。変質もしない。
ただそこに“ある”。
それなのに、握るたびに少しだけ頼れるような感覚があった。
(これがなかったら、もう無理だったかもしれない)
視線の先には、スライム。
半透明の体が、ゆっくりと揺れている。
それだけの存在。
だが、悠真にとっては違う。
二十回。
あの揺れを見て死んだ回数だ。
*
一回目は理解できなかった。
押し潰される感覚だけが残った。
二回目で、逃げようとして無駄だと知った。
三回目で、避けられると錯覚した。
四回目で、その錯覚ごと潰された。
そこから先は、少しずつ質が変わった。
死ぬこと自体よりも、「次にどう死ぬか」を待つ時間が怖くなった。
スライムを見るだけで、体が勝手に硬直する。
五回目。
足が動かなかった。
六回目。
呼吸が乱れたまま突っ込んで潰された。
七回目。
避けたつもりで、吸い込まれた。
八回目。
何もできずに終わった。
九回目。
少しだけ攻撃が見えたのに、間に合わなかった。
十回目。
「勝てない」という確信が生まれた。
それが一番重かった。
十一回目からは、戦いではなかった。
確認作業だった。
どう死ぬかを変えるだけの時間。
十二回目。
十三回目。
十四回目。
繰り返すたびに、スライムの存在が“現象”に近づいていく。
敵ではなく、逃れられない流れ。
十五回目。
一歩踏み出すのに、心臓が痛くなった。
十六回目。
視界の端で揺れるだけで、体が反応してしまう。
十七回目。
「やめたい」という思考すら途中で途切れる。
十八回目。
考える前に潰された。
十九回目。
もう恐怖すら輪郭がぼやけていた。
ただ“来る”という予感だけがある。
二十回目。
何も変えられなかった。
何も届かなかった。
ただ、終わる。
*
二十一回目。
白い空間。
スライム。
悠真は、すぐには動かなかった。
動けないのではない。
動いた先の結果を、脳が拒否している。
木の棒を握る手が冷たい。
だが離さない。
(ここで終わるのか)
違う、ともう一人の自分が言う。
何度も死んだはずなのに、そのたびに戻ってきた。
終わらせる条件は一つだけだと、もう理解している。
倒すこと。
それ以外はない。
スライムが揺れる。
その瞬間だった。
視界の奥で、“一瞬だけ未来がずれる”。
横に膨らむ。
その次に来る圧。
(今)
踏み込む。
怖い。
全身が拒否する。
それでも足を出す。
木の棒を振る。
直撃はしない。
だが、触れた。
その瞬間、スライムの動きが一瞬だけ鈍る。
今までなかった反応。
「……効いてる」
小さな確信。
二撃目。
今度は迷わない。
動きが“見える”のではなく、“読める”。
横、上、中心。
選ぶのは中心。
踏み込みながら突く。
木の棒がスライムの内部へ沈む。
冷たい抵抗。
だが止めない。
(ここだ)
コボルトを倒したときに刻まれた感覚が、手の中で繋がる。
武器の扱い。
間。
力の乗せ方。
一瞬の読み。
全部を一点に重ねる。
「――ッ!」
押し込む。
スライムの内部が崩れる感触。
抵抗が消える。
そして――
弾けた。
透明な体が光の粒子へと変わった。
それは空間に散ることなく、逆流するように木の棒へ吸い込まれていく。
刻まれていた模様が淡く発光し、流れが書き換わる。
質感が変わる。
ただの木ではない。
わずかに硬質化し、手に馴染む“戦うための形”へと変質する。
(……吸収してる)
悠真は息を呑んだ。
そして確信する。
この武器は、倒した相手を記録し、強くなっている。
静寂。
何も残らない。
ただ、そこに“勝利した空白”だけが残る。
悠真はしばらく動けなかった。
呼吸が乱れている。
膝が笑いそうになる。
それでも、視線は落とさない。
「……終わった」
声が出た瞬間、白い空間が揺らぐ。
視界が暗転する。
*
目を開けると、現実の天井だった。
荒い呼吸。
濡れたシャツ。
右手には何もない。
それでも、木の棒の感覚だけが残っている。
振り方も。
間の取り方も。
そして――あの一瞬の“読み”も。
悠真はゆっくりと息を吐いた。
「……次も、あるんだろ」
答えはない。
だが確信だけがあった。
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朝。
カーテンの隙間から光が差し込む。
スマホのアラームが鳴り、いつもの部屋が現実として立ち上がる。
「悠真ー、起きてるー?」
妹の声がドア越しに響く。
「起きてる」
「ほんとに?また夜更かしでしょ」
ドアが少しだけ開いて、制服姿の妹が顔を出す。
「顔やばいよ。目の下すごい」
「うるさい」
軽口。
いつものやり取り。
妹は呆れたようにため息をついて、すぐに階段へ戻っていく。
「ご飯冷める前に来なよー」
その声が遠ざかる。
普通の朝。
それなのに、昨日までの“死”がまだ身体の奥に残っている。
*
リビング。
母が朝食を並べている。
「最近ほんとに寝不足じゃない?受験前みたいな顔してるよ」
「そんな大げさじゃない」
「ならいいけど」
テレビのニュースが流れている。
交通情報。
天気。
どこまでも普通だ。
普通すぎて、逆に遠い。
*
学校へ向かう道。
校門の前で声がかかる。
「おーい、悠真」
振り返ると、男友達が手を振っていた。
「昨日の課題やった?あれクソだるくない?」
「まぁな」
「だよな。あれ出す意味ある?」
笑いながら歩き出す。
くだらない会話。
どうでもいい話題。
その全部が、現実の重さを保っている。
(こっちが普通だ)
そう思うのに、どこか引っかかる。
*
教室。
ざわつき。
机の音。
黒板のチョーク。
窓際に視線を向けると、そこに彼女がいた。
幼馴染の少女。
は、こちらに気づくと軽く手を振る。
「おはよ、悠真」
「……おう」
「また寝不足?ほんと顔死んでるけど」
その言い方だけが、やけに優しい。
昔から変わらない距離感。
近いのに、踏み込まない距離。
「別に」
「また無理してるんでしょ」
「してねぇって」
嘘だ。
だが言えない。
白い空間のことも。
スライムに潰され続けた記憶も。
彼女のいる世界とは、繋がらない。
*
昼休み。
机を囲む。
男友達がスマホを見せてくる。
「これ新しいゲーム出るらしいぞ。やる?」
「まぁ気が向いたらな」
「絶対やらねぇやつじゃん」
笑い声。
その中で、悠真も笑う。
ちゃんと笑えているのかは分からない。
ただ“合わせている”だけかもしれない。
*
放課後。
校舎の外。
夕日。
幼馴染の少女が隣を歩く。
「ねぇ、ほんとに大丈夫?」
「何が」
「なんか、昨日から変」
足が一瞬だけ止まりかける。
だが、止めない。
「気のせいだろ」
「……そっか」
それ以上は聞いてこない。
昔からそうだ。
踏み込みそうで、踏み込まない。
その優しさが、逆に痛い。
*
家。
妹がソファでスマホを見ている。
「おかえりー。今日も変な顔」
「うるさい」
「学校楽しい?」
「普通」
「ふーん」
興味があるようで、ないような返事。
それでも、家の空気は崩れない。
ここはまだ“日常”だ。
*
夜。
自室。
静かになると、ようやく思い出す。
木の棒の感触。
コボルトとの死闘。
スライムに沈んだ記憶。
ベッドに座る。
天井を見る。
「……こっちの方が、夢みたいだな」
小さく呟く。
だがどちらが現実かは、もう分からない。
電気を消す。
暗闇が落ちる。
そして、その中で思う。
(寝たら、また行く)
白い空間は、何も言わない。
ただ、次の開始を待っている。
普通に考えたらもっと死んでそうですがキリが無いので短めにしております。