「………………」
そんな人気の無い「竜ノ口渓谷」へ向かって、一人の男が歩いていた。
「行かなきゃ……行かなきゃ……約束したんだ……」
ブツブツと呟く彼の顔は虚ろで、どんなに枝草で身体が傷付こうとも、歩みを止める事は無い。とても正気とは思えなかった。
――――――おいで……おいで……おいで……。
谷底から声が聞こえる。この世の物とは思えない、不気味な呼び声が。
「……うん、うん……今、そっちに行くよ……」
声に誘われるがまま、男は歩を進める。一歩、また一歩と。奈落の闇への入り口に。
「ああ……ああぁ……あぁああああああああっ!」
と、最後の一歩を踏み出した瞬間、男は突然正気に戻るも、既に時遅し。深い深い暗黒の淵に消えて行く。こんな夜の山奥では、彼の断末魔は誰にも聞こえない。
『……ぃひひひひひ、う~っひっひっひっひっひっ!』
ナニカの愉しそうな声が響いた。
◆◆◆◆◆◆
宮城郡、「
「また人が消えただか?」
「ああ、昨日は田吾作だ」
「おっかねぇなやぁ……」
そう、川内では最近、神隠しが流行っているのである。流行っているというのも変な話だが、もっと変なのは、
「おっとう……」
村人たちが井戸端会議で盛り上がっている中、田吾作の娘は悲嘆に暮れていた。今まで神隠しに遭って、帰って来た者は居ない。生きている望みは限り無く低いだろう。
さらに、田吾作の娘は、母親も少し前に神隠しに遭っている為、実は悲しんでいる場合では無いのだ。何せ彼女は天涯孤独であると同時に、村にとって“要らない子”になってしまったのだから。追い出されるのならまだ良い方で、最悪口減らしで殺されてしまう。
まぁ、まだ幼い娘にとって、両親を失った悲しみ以外に脳のリソースを割きようが無いし、分かった所でどうしようもないのだが……。
しかし、娘には一つだけ希望があった。彼女はこの時代には珍しく、文字の読み書きが出来るのである。もっと小さい頃に、偶然知り合った行商人の息子から本を貰い、それを参考書として独学で文字を覚えたのだ。
おかげで、田舎の一人娘という身分でありながら、“依頼の木簡”を出す事が出来た。尤もそれは“神隠しに遭った母親を助けて欲しい”という内容なので、ちょっと手遅れなのだけれど。
「(あいつ、どうするだ?)」
「(今晩辺りに始末するべ)」
「(んだな。川に流しちまえばええ)」
どうやら、娘の命は今夜限りのようである。明日の朝には川魚の餌になっているに違いない。
そして訪れる、娘の最後の夜。
「おい、こっちゃ来い!」「騒ぐんでねぇど!」「轡しろ、轡!」
「んー! んーっ!」
押し入った村人三人に、娘はあっさりと縛り上げられた。殺すだけなら簡単なのだろうが、
『……あらあら、勝手に
「がっ!?」「べぶっ!?」「かぺっ!」
「………………!」
刹那、現れたナニカが、村人たちをしめやかに捌いた。それも素手である。
その上、三枚に卸した肉を、バリバリと食べてしまった。どう見ても人間ではない……が、澄んだ空色の髪と陶磁器を思わせる肌を血で濡らし、口元を真っ赤にしながら心臓をしゃぶる“彼女”の姿は、何処か蠱惑的な美しさがあった。
そんな“彼女”の怪しさに娘が呑み込まれていると、“彼女”の方から「お話」を持ち掛ける。
『さぁさぁ、聞かせて頂戴? あなたに一体何があって、どんな想いで依頼を出したのか、ソリテールお姉さんに話してくれないかな~?』
「………………!」
今宵、娘の運命は流転した……。
◆竜ノ口渓谷
青葉山と越路山(現在の八木山)の間にある、深さ七十メートルもある谷。とんでもない断崖絶壁であり、青葉城の背後を守る砦の役目も果たしていた。今でこそ橋が架かっているものの、昔は橋など無いので本当に奈落の淵であり、整備された現在でも身投げが後を絶たない自殺の名所である。