明け方だった。
夢の底から、ゆっくりと浮上するように、家長むぎは意識を取り戻した。
まぶたの裏に、まだ名残のようにぼんやりとした暗さが張り付いている。頭が重く、思考がうまく噛み合わない。夢を見ていた気がするが、内容はすでに霧の向こうに溶けていた。
むぎは小さく身じろぎし、片手で目をこすった。指先に触れる睫毛が湿っていて、眠りの深さを物語っている。パジャマの袖口が少しよれているのが視界の端に映り、ここが学園の寮であることを遅れて思い出した。
——静かすぎる。
いつもなら、廊下のどこかで誰かが歩く気配や、遠くで鳴る機械音、換気の低い唸りがあるはずだった。だが今は、耳鳴りがするほどの無音が、部屋全体を押し潰すように広がっている。
むぎは眉をひそめ、ゆっくりと上体を起こした。まだ薄暗く、窓の外は夜と朝の境目で、光というよりも色の変わり目だけが漂っている。机や椅子の輪郭は、影としてぼやけ、どこか歪んで見えた。
喉の奥でつぶやいた声は、やけに乾いていた。
むぎは周囲を確かめるように視線を巡らせる。壁、黒板、開け放されたままのロッカー。見慣れたはずの教室が、まるで別の場所のように感じられた。空気が冷たく、肌の上を這うようにまとわりつく。
そのときだった。
視線を戻した先、教室の中央付近——ぼんやりとした暗がりの中に、不自然な「縦の影」があるのが目に入った。
最初は、何かが吊るされているのだと、理解できなかった。
天井から床へ向かって伸びる影。その途中で、影が膨らみ、輪郭を持っている。制服の色。人の形。
——あれ?
思考が追いつく前に、心臓が嫌な音を立てた。
むぎの視界が、急に鮮明になる。明け方の弱い光が、わずかに差し込み、その「影」を輪郭あるものとして浮かび上がらせた。
首だった。
天井から垂れ下がる何かに、同級生の首が引き伸ばされるように固定されている。顎が不自然な角度で持ち上がり、口は半開きのまま固まっている。瞳は虚ろに開かれ、焦点の合わないまま、どこか遠くを見ていた。
足先は、床に届いていない。
微かに、揺れている。
空気の流れもないはずなのに、ゆっくりと揺れ、そのたびに布が擦れるかすかな音がした気がした。顔色は、生きている人間のものではなく、朝の光に照らされて、異様に青白い。
むぎの喉が、ひくりと鳴った。
「……あ、ぁ……」
声にならない息が漏れ、次の瞬間、肺いっぱいに空気を吸い込んでしまう。
「いやあああああああああああっ!!」
悲鳴が、部屋を切り裂いた。
自分の声だと認識するより先に、耳が痛くなるほど反響し、壁にぶつかって跳ね返ってくる。足が震え、腰が抜けそうになる。視線を逸らしたいのに、目が離れない。
同級生の身体が、悲鳴に反応したかのように、わずかに大きく揺れた。
ギィ……と、天井のどこかで、軋むような音がした。
むぎの頭の中が真っ白になる。夢だ、これは夢だ、と何度も思おうとするのに、鼻を刺す微かな匂いや、肌にまとわりつく冷気が、現実であることを否定してくれない。
むぎの全身から、力が抜ける。
床に崩れ落ちる直前、明け方の光がさらに強まり、影を薄くしていく。
闇の中で、むぎははっと息を吸い込んだ。
天井がある。低く、見慣れた寮の天井だ。薄暗い非常灯の光が、壁の角をぼんやりと照らしている。心臓がまだ速く脈打っていて、耳の奥でドクドクと音がする。
——夢。
そう理解するまでに、少し時間がかかった。
むぎは仰向けのまま、乱れた呼吸を整えようと胸に手を当てた。パジャマの布越しに伝わる心拍が、やけに生々しい。背中にはうっすらと汗がにじみ、シーツが冷たく感じられた。
「……あぁ……」
喉から、擦れた声が漏れる。
記憶が、嫌な順序で蘇ってくる。
新東京ポート中学校。
まだ今ほど背も伸びていなかった頃。
二人部屋の寮。
そして——あの夢の中で首を吊っていた、ルームメイト。
「……目覚め最悪……」
小さく呟き、むぎは額を押さえた。夢の中の光景が、妙に現実感を伴って張り付いている。天井から垂れた影、揺れる制服、合った気がした視線。
「あんな場所で……死ぬんじゃねえよ……」
吐き捨てるように言って、むぎは勢いよく上体を起こした。ベッドがきしり、スプリングが小さく鳴る。その音に、自分でも少しだけ肩をすくめた。
二人部屋の寮室は、深夜特有の静けさに包まれている。窓の外は完全な夜で、カーテンの隙間から街灯の光が細く床に伸びていた。
視線を上げると、ロフト式の上段ベッドがある。
そこでは、リリが眠っていた。
掛け布団から覗く髪は乱れもなく、寝息は小さく規則正しい。顔は横を向き、光を避けるようにまぶたを閉じている。起こしてしまうほどの音は立てていないはずなのに、むぎは一瞬、息を殺した。
「……起きてねえ、よな」
確認するように小声で呟き、むぎはそっとベッドから足を下ろした。床は冷たく、裸足の裏にひやりとした感触が走る。それが逆に、現実に引き戻す楔のようだった。
喉が、からからだった。
夢の中で叫んだ気がする。
叫んでいなくても、叫び続けていたような感覚が残っている。
むぎはパジャマ姿のまま、そっと部屋を出る。ドアノブを回す音すら大きく感じられ、慎重に、慎重に。
廊下に出ると、寮特有の匂い——洗剤と、少し古い建物の湿り気——が鼻をついた。自販機の灯りが、暗闇の中で不自然なほど明るい。
「……なんか飲も……」
独り言のように呟きながら歩き出すと、さっきまで夢の中で感じていた首元の圧迫感が、ふいに蘇った。
思わず、自分の喉に触れる。
そこには何もない。
当然だ。
それでも、指先が確かめるように、何度か撫でてしまう。
背後の廊下は、静まり返っていた。
むぎはそれ以上振り返らず、自販機の前に立ち、明かりに照らされた自分の影を、ほんの一瞬だけ、足元に見つめていた。
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朝焼けがまだ淡く空を染めている時間。
学園の外回りの道を、むぎはパジャマ姿のまま走っていた。
冷えた空気を切るように、吐く息が白く伸びる。袖口と裾を風が叩くたびに、布がはためき、足元で落ち葉が音を立てた。
パジャマのまま走る生徒など当然他におらず、朝の校舎はまだ眠っているように静かだった。そんな空間の中、むぎの足音と息づかいだけが、一定のリズムで風景を切り裂いていく。
昔のことを思い出していた。
中学に上がるか上がらないかの頃。
夜の公園、団地の階段裏、河川敷、潰れたスーパーの裏口。
行く宛もなく、眠る場所もなく、ひたすら野良みたいに夜を過ごしていた。
手元に残るのは、誰かが飲みかけで捨てたペットボトル。くしゃくしゃになったレシート。買うつもりもないライター。
肩で風を受けながら歩いていた日々。
何が欲しかったのかも、何が怖かったのかも、今はもうあやふやだ。
ただ、あの頃の自分は、何かを壊さなければ保てないと思っていた。
そこに現れたのが――Σだった。
警察でもなく、福祉でもなく。
でも、あれは保護じゃなかった。更生だった。
いや、教育と呼ばれていた。
新東京ポート中学校。
「再生」の名の下に、兵士としての生き方を叩き込まれる場所。
優しさではなく、規律。未来ではなく、任務。
失ったものを埋めるのではなく、代わりの使命で蓋をする教育だった。
でも……それが、むぎにとって唯一の“まともな”道だった。
――あんな場所でも、生きられたんだ。
両親のことを、ふと考える。
あの頃、母にも、父にも、別々に大切な人がいた。
口には出さなかったけど、それはむぎにもわかっていた。
だから、距離を取った。
ふたりの邪魔にはなりたくなかった。
汚れた自分がそばにいたら、気を遣わせる。
無理して優しくされるのが一番しんどかった。
でも……
(……本当は、普通に……)
両親の目には、自分がどう映っていたんだろう。
放っておいたわけじゃない。
手放したわけでも、突き放したわけでもない。
ただ、どう接していいか、わからなかったのかもしれない。
それでも、あの人たちはきっと——
「普通の子に育ってほしかったんだろうな……」
ぽつりと漏れた言葉は、走る足音にかき消された。
むぎは速度を少しだけ上げた。
鼓動が速くなり、肺が熱くなる。
冷たい風が頬を切っていく。
走りながら、むぎはふと、別のことを考え始めていた。
学校の勉強のことだ。
期限が決められていて、やるべき課題があって、それを自分で段取りを組んで片付けていく。わからないところを調べ、理解して、次に進む。そうして積み重ねたものが、テストや評価という形で、はっきり数字になって返ってくる。
それが、むぎはわりと好きだった。
苦痛だと思ったことは、ほとんどない。
Σに来る前も、来てからも、学校という場所自体は嫌いじゃなかった。
寮で起きて、授業を受けて、課題をこなして、夜に眠る。
一日中「生徒」として生きること。
そんな日常を受け入れ始めた時に――
不意に、脳裏に割り込んできたのは——
あの、首を吊った生徒の顔。
青白く、焦点の合わない目。
揺れる影。
夢の中で見たはずなのに、やけに鮮明な輪郭。
あの子は、優しすぎた。
誰かが困っていれば手を差し伸べて、自分のことは後回しにして。
怒ることも、拒むことも、ほとんどしなかった。
もし、それが原因で——
抱え込んで、押し潰されて、あんな最期を迎えたのだとしたら。
新東京ポート中学校にいた頃の自分を、思い出す。
ほとんど任務に出ていなかった。出撃回数は少なく、実戦経験も乏しい。
勉強はしていた。
けれどそれは、楽しいからではなかった。
机に向かいながら、常にあったのは罪悪感だった。
自分だけが安全な場所にいて、誰かが前線に出ているという意識。
それを忘れないための勉強。
敵を前にした時も、同じだった。
照準の向こうにいるのは、ただの「標的」だと教え込まれていたのに、指が震えた。
引き金にかけた力が、どうしても強まらない。
―――撃てない。
無線が、耳元で割れる。
『何をやっている! 命令を聞け!』
『撃て! 今すぐだ!』
怒鳴り声に追い立てられ、頭が真っ白になる。
震える指で、半ば押し出されるように引き金を引く。
銃声。
反動。
その後のことは、あまり覚えていない。
ただ、終わった後もしばらく、手の震えだけが止まらなかった。
校舎の外周を一周し、走り終えたむぎは、ゆっくりと歩きながら碧星院高校のゲートをくぐった。
まだ朝の光は弱く、グラウンドの影が長く伸びている。
校舎の窓は薄曇りの空を映して、ぼんやりと白く光っていた。
むぎは立ち止まり、自分の両手を見下ろした。
パジャマの袖口から出た手は、少し赤くなっている。冷たい空気に晒されたせいだ。だが、むぎの視線はもっと深いものを見つめていた。
この手で——
碧星院に来てから、何人もの命を奪った。
命令だった。
任務だった。
正当な執行だった。
それでも、それが「あの子」の意志を裏切るように思えた。
あの、優しすぎた同級生。
怒ることも、憎むこともできなかった子。
むぎが知っていた中で、いちばん穏やかだったあの子。
「……あたしは、もう違う」
静かに、そう呟いた。
Σの再教育がそうしたのか、時間がそうしたのか、それともただ、自分がそうなっただけなのか——もう分からない。
けれど、確かに言えるのは、
今の自分はあの頃の自分じゃないし、
あの子のような“雛”では、もういられないということ。
「任務に私情を挟むのは、違う」
そうでなければ、それはただの私刑だ。
怒りや哀しみを理由に人を撃つなら、それは「命令」じゃない。
ただの殺戮者だ。
エージェントとしての責務は、あくまで「正確に遂行すること」。
感情を添えてはならない。
もしそれを忘れたら、たとえ正しい標的であっても、ただの殺し屋と変わらない。
ふと視線を上げると、校舎の向こうに朝日が差し始めていた。
光が道を照らす中、むぎはゲートを越えて校外へと出る。
朝の登校にはまだ早く、あたりは静かで、誰もいない。
一歩、また一歩と歩を進めながら、思う。
——結局、あの子はどれだけ腕が良くても、ただの子供だった。
任務で誰かを救える力があっても、心が育ちきる前に、死んでしまった。
殻を破れなかったまま、雛の姿で。
「……あたしは、育ったよ」
その言葉には、自嘲も、誇りも、後悔もすべて混じっていた。
朝の冷たい空気の中、パジャマのまま、むぎは人気のない道をひとり歩いていった。
吐く息が白く伸びては、静かに消えていく。
何も言わず、何も振り返らず、ただ足音だけを残して。