世怜音女学院・東校舎。準備室は、今日は薄暗かった。
壁際には古いロッカーと機材ケースが並び、部屋の奥では大型スクリーンが青白い光を放っている。
その前に――家長むぎ、司賀りこ、珠乃井ナナの三人が並んで立っていた。
環崎はデスクに腰掛けたまま、片手で額を押さえている。
スクリーンには、例の動画が映し出されていた。
怒鳴り声。
暴れ回る姿。
高速で流れるコメント欄。
映像の中で、男はソファを蹴り飛ばしながら喚いている。
『誰だ!! 誰がやってる!!』
グラスが割れる音。
悲鳴。
そして、視聴者数のカウンターだけが異様な勢いで増え続けていた。
「……正直、こんなことがあったら……うちも下手には動けない」
環崎はうんざりした顔で言った。
動画内で男が店員を怒鳴りつける。環崎はリモコンを軽く振りながら続けた。
「知っての通り、我々Σは秘匿された法執行機関だ」
淡々とした説明口調。
「避難誘導をしたり、必要最低限に執行対象を抑えたりはしている」
黙って聞いている。環崎は椅子にもたれながら続けた。
「だが……身の安全も社会的立場も顧みない輩には、それは通用しない」
その言葉には、珍しく疲労が滲んでいた。
「今は誰でも撮る。誰でも流す。そしてそれは世界に広がる」
スクリーンが完全に暗転する。
「昔みたいに“なかったこと”にはできないんだよ」
環崎が深く息を吐いた、その時。
「現場の秘匿性が一度崩れれば、組織全体に影響が出ます」
りこが答える。背筋をぴんと伸ばしたまま、環崎へ向ける視線にも揺らぎがない。
いつもとは違う、まるで報告書を読み上げるような真面目な口調。
「―まあ、そういうことだ」
「アゾートの一件で我々が恐れていたそれが、再び現実味を帯びてくる」
その横でナナは静かに、むぎは面倒くさそうに様子を見ている。環崎の機嫌を測るように視線だけを動かしていた。
机の上の固定電話が鳴る。
部屋の空気が少しだけ止まる。
環崎は嫌そうに眉をひそめながら受話器を取った。
「……はい」
次の瞬間。
『おはようございますっ、環崎教頭!』
やたら元気な声が準備室に響く。
『あなたの大事な夕陽リリですっ!』
その瞬間、環崎の顔色が目に見えて悪くなった。
むぎが「あっ……」という顔をする。
ナナは吹き出しそうになり、りこは面白そうに目を細めた。
『今日はですね! ちょっと相談したいことが――』
ガチャ。
環崎は無言で電話を切った。
あまりにも無慈悲。迷いのない動作だった。
数秒の沈黙。
そして環崎は、死んだような目でむぎを見る。
「……こいつも何とかしてくれ……」
むぎは視線を逸らす。
「いや……まあ…」
「善処、します……」
ナナが肩を震わせながら笑いを堪えている。
準備室の空気は、依然として重かった。
環崎は机のパソコンへ視線を戻し、何かのデータを確認しながら無言でマウスを動かしている。
その横顔を見ながら、ナナがぽつりと口を開いた。
「で……「お仕事」ですか?」
環崎は即座に首を横に振る。
「さっきも言っただろう。執行は最小限」
淡々とした口調。
「それをしたらヤクザや独裁国家と変わらん」
カチ、とマウスクリック音。
「善良な一般市民に手を挙げるなんて以ての外だろう」
その言葉には、本気の嫌悪感が混じっていた。
むぎは黙って聞いている。
環崎は画面を見ながら説明を続けた。
「名前は鏑木ろこ」
「北東新聞の記者だったが、複数の政治家が新聞社に圧力をかけているため、それを穏便に済ませるためかは知らんが懲戒解雇している」
むぎが「あー……」という顔をした。
「鏑木さんクビになったんだぁ……」
どこか苦笑い混じりの声だった。
ナナは肩をすくめる。りこは背筋を伸ばしたまま、静かに頷く。
環崎はしばらく黙ったあと、小さく息を吐く。
「佐渡のそれじゃないが……」
そこで一瞬、言葉を切った。
「なんとかしてくれ」
曖昧極まりない命令だった。
むぎは即座に理解したように手をひらひら振る。
「はいはい……」
「以上だ」
環崎がそう言うと、三人は揃って踵を返した。
準備室の扉へ向かって歩き出す。
だが――
「家長」
不意に、環崎の低い声が飛ぶ。
むぎだけが振り返らずに足を止めた。
環崎は額に冷や汗を浮かべながら、むぎを指差す。
「その服では来るな」
「森中の心臓が3つあっても持たん」
数秒の沈黙。
むぎはようやく、自分がパジャマ姿のままだったことを思い出した。
「あっ」
むぎは頭を掻きながら、そのまま振り返らずに手だけ振った。
「ごめんなさーい!」
そしてナナの腕を引っ張るようにして、そのまま部屋を出ていく。
ナナも笑いながら後を追った。扉が閉まりかける。
その横を、りこも空気を読んで自然に抜けようとしていた。
だが――
「司賀」
ぴたり、とりこの動きが止まる。
環崎は書類から目も上げずに言った。
「お前は書類整理だ」
りこの眉が、一瞬だけぴくりと動く。ほんの僅かな反応。
だがすぐに姿勢を正し、
「……承知しました」
と静かに答えた。
世怜音女学院・西校舎地下。
昼休みも終わった時間帯の購買は、人の気配がまるでなかった。
蛍光灯だけが静かに唸り、古い自販機のモーター音が低く響いている。
売れ残ったパンと飲み物が、整然と棚へ並べられていた。
むぎは購買横の丸テーブルへ腰掛けながら、袋を破いてチョコミントアイスを取り出す。
「何が『現場の秘匿性が一度崩れれば、組織全体に影響が出ます』だよ」
一拍。
むぎは吹き出した。
「そんなキャラじゃないでしょ」
ナナは隣で紙パックジュースを弄びながら、「ああ……まあ……」と曖昧に頷く。
「世怜女は上官に逆らったり舐めた口聞いたりしたら厳罰だから……」
むぎはアイスを齧りながら「うわっ……」と嫌悪の籠った声を出す。
チョコミントの冷たさに少しだけ目を細めながら、話を聞いていた。
ナナは椅子へだらっと身体を預ける。
「まあ新東京も昔はそうだったらしいけど……」
ストローを咥えたまま続ける。
「緩くなったもんよ」
その言葉には、少しだけ羨ましさも混じっていた。
そして不意に、ナナがむぎを見る。
「てか、家長さ〜ん」
「んー?」
「碧星院、緩すぎませんか〜?」
完全に気の抜けた顔だった。
「あの叶代表にタメ口ってマジですか〜?」
むぎはアイスを咥えたまま少し考える。
「まあ……」
それから、ぽつりと答えた。
「訓練も思考矯正もしてるから……それ以上は求めないんじゃないかな」
ナナは嫌そうな顔をする。
「あー……マジ、ナナ達海外の刑務所なんだけど〜」
不貞寝するようにしながら愚痴を零した。
「強い生徒にだけ肩入れするのだるすぎ」
むぎはその言葉に、少しだけ昔を思い出すような顔をする。
「でも、そのおかげで勝ち取れた自由もあるから……」
アイスの棒をくるくる回しながら続けた。
「あれだけ私物持てるの、新東京だけだよ?」
ナナは「まぁ……そうみたいだね~…」と顔をしかめた。
地下購買の静かな空気の中。
むぎがアイスの棒を咥えたままぼんやりしていると、不意に西校舎側の階段から足音が響いてきた。
軽い足取り。
桃色の髪を揺らした生徒が、階段を降りてくる。
桃色の髪。
伊達眼鏡。
どこか無邪気そうな雰囲気を纏った生徒。
眼鏡をかけたその少女は、購買へ入るなり真っ直ぐアイスのショーケースへ向かった。
「あ……これこれ」
ケースの中を覗き込み、どこか満足そうに頷く。
「やっぱり、これだけ余ってるんだなぁ」
ショーケースの片隅には、売れ残ったチョコミントアイスが大量に積まれていた。
少女は迷いなく顔を上げる。
「アカネ店長! これ全部!」
その声に、購買奥のカーテン向こうから少女が顔を出した。
「はいはい……」
慣れた様子だった。
店主――アカネは大きめの袋を取り出し、チョコミントアイスを次々放り込んでいく。
がさがさと袋の中で音が鳴る。
「持ってきな」
ずしりと重そうな袋を少女へ渡した。
少女は満足そうに受け取る。
その横で、むぎが思わずツッコミを入れた。
「やめなー!」
購買に声が響く。
「糖尿病になっちゃうよー!」
だが少女は、眼鏡をクイっと指で押し上げながら冷静に訂正した。
「いや」
一拍。
「僕が全部食べるわけじゃないから」
アスカは購買カウンターの内側で、気だるげに腕を組んだ。
エプロン姿のまま、サンゴを親指で雑に指し示す。
「こいつ、周央サンゴ」
サンゴは大きなアイス袋を抱えたまま、少しだけ眉を下げた。
「紹介雑すぎない?」
だがアスカは気にしない。
「半分東校舎の人間で、割と顔効くから困り事あったら丸投げして良いぞ」
サンゴは小さく息を吐く。
「自分も東でシューターしてたくせに……」
アスカは「昔の話だろ」と適当に返した。
サンゴは軽く眼鏡を直し、それからむぎとナナへ向き直る。
「細かいことは企業秘密だけど、ちょっと野暮用で東の皆とは付き合いがあるんだ」
口調は穏やかだった。
「君たち、新東京ポートの生徒だよね」
ナナが「まあ、一応」と曖昧に頷く。
サンゴはその反応を見て、少しだけ柔らかく笑った。
「ちょっとしたことなら……怒られないくらいになら、手伝うよ」
かなり気軽な調子だった。
むぎはその顔をじっと見る。
「私はもう新東京じゃないけど……」
頭を掻きながら、少し警戒するように目を細めた。
「なんかお人好しじゃない?」
そしてそのまま続ける。
「世怜女の生徒なら、世怜女の子の仕事手伝ってあげなよ」
サンゴは「あー……」と微妙そうな顔をした。
その横で、アスカがくすっと笑う。
「まあそりゃ……」
彼女はカウンターへ頬杖をついた。
「こいつ、世怜女の仕事からは出禁になってるからな……」
アスカはけろっとしている。
「昔からそうなんだよ」
そう言って、むぎとナナへ視線を向けた。
サンゴは袋を抱えたまま、小さくため息をついていた。
アスカはカウンターに肘をついたまま、半笑いでサンゴを見る。
「こいつ、環崎教頭のお気に入りだから」
サンゴの眉がぴくりと動いた。
「誘拐でもされて兵士に改造されないように、なんとか恩売りたいんだよ」
「そんなことないっ」
サンゴは即座に否定する。
だがアスカはにやにやしたままだ。
「じゃあやっぱり、あの“にぎにぎ”――」
「違うから」
サンゴは食い気味に遮った。
一瞬だけ咳払いしてから、妙に自信ありげな顔で続ける。
「まだこれからだから」
沈黙。
むぎが目をぱちぱちさせ、少し考えるように視線を泳がせる。
「それって、改造されないようにするため……になるのかな?」
「むしろ余計評価されることになりそうだけど……」
かなり真面目に分析していた。
サンゴは「いや、そこは色々あるんだよ」と曖昧に誤魔化す。
アスカはとうとう吹き出した。
「お前ほんと面白ぇな」
サンゴは露骨に嫌そうな顔をする。
その空気の中で、むぎはふと何かを思い出したように口を開いた。
「じゃあ、ちょっと見て欲しい人がいるんですけど……」
そう言って、サンゴを見る。