所変わって、都内の街の雑多な通り。
古びたビルの隙間を風が抜け、昼間だというのにどこか薄暗い。
ろこは隣を歩くむぎをちらちら見ながら、内心かなり不安になっていた。
(いや……無理でしょ……)
どう見ても普通の女子高生だ。
しかも、どちらかと言えばふわふわしたタイプ。
「家長さん……だっけ」
「んー?」
「旧蘭阜市で会ったよね……?」
むぎは「会ったね〜」と軽く頷く。
ろこは少し言いづらそうに続けた。
「なんか合気道とか……やってるのかな?」
かなり遠回しな確認だった。
むぎは数秒きょとんとして、それから急にろこの腕をぐいっと引っ張る。
「大丈夫です!」
「うわっ」
「きっとお力になりますよ!」
妙に自信満々だった。
ろこは逆に不安になる。
「いやその、“きっと”って何……?」
むぎは「うーん」と考えるように唇へ指を当てた。
「あ、でも……やっぱり何もないとあれかな」
「何が?」
「だから……」
何か提案しようとした、その瞬間。
後ろから、軽く肩を叩かれる。
「……?」
ろこが振り返る。
そこには、新東京ポートの制服を着た少女達が数人立っていた。
どこか緊張した顔。
そのうちの一人が、おそるおそる口を開く。
「あの……」
ろこは目をぱちぱちさせる。
「鏑木さん……ですよね……」
「え、はい」
少女は、ちらりとむぎを見る。
そして、かなり怯えたような声で言った。
「その子と一緒にいたら……ダメです……」
「その子……」
少女の声は、震えていた。
周囲を気にするように何度も視線を泳がせながら、それでも絞り出すように続ける。
「もう何人もそうやって、殺してるんです……」
――その瞬間。
街の喧騒が、一気に遠のいた気がした。
車の音。
通行人の話し声。
遠くの工事音。
全部が急に薄くなる。
ろこの背中を、嫌な汗がつうっと流れた。
「……え?」
声がうまく出ない。
少女はさらに小さな声になる。
「殺し屋なんです……その子……」
ろこはゆっくりと視線を横へ向けた。
隣に立つむぎ。
さっきまで普通に笑っていた少女。
だが今は、逆光で表情が見えない。
制服の輪郭だけが、ぼんやりと浮かんでいる。
ろこの脳裏に、断片的な記憶が蘇る。
旧蘭阜市での不自然な落ち着き。
あの“きっとお力になりますよ”という言葉。
そして――
自分が今、暴力団に狙われているという現実。
ぞわり、と寒気が走った。
むぎは何も言わない。
ただ静かに立っている。
それが余計に恐ろしかった。
ろこは無意識に、握っていたむぎの手をゆっくり離す。
指先が離れる感覚だけが、妙にはっきりしていた。
むぎは、少女たちの言葉を聞きながら、内心で小さく舌打ちした。
(こいつら……)
だが表情には出さない。
むしろ一度、小さく息を吐くと、ろこからすっと距離を取った。
「それなら良いです」
声は妙に落ち着いていた。
ろこはびくりと肩を揺らす。
むぎはゆっくり頷く。
「ええ、そうです」
そのまま、まるで肯定するように続けた。
「任務でこうやって近づいて、安心したところが一番隙だらけになるんでね」
次の瞬間。
むぎはろこの腕をぐいっと抱き寄せた。
「ひっ」
ろこの喉から情けない声が漏れる。
むぎはにこりと笑う。
だがその笑顔は、普段の柔らかいものではなかった。
ぞっとするほど冷たい。
「良い襲い方でしょう?」
少女たちは青ざめる。
そのうちの一人が震える声で言った。
「そうやって……川口さんのことも脅してるの?」
むぎは答えない。
だが、その沈黙が余計に肯定のように見えた。
「っ……!」
少女たちは返答も待たず、一斉に走り去っていく。
制服の足音だけが遠ざかっていった。
静寂。
むぎはその背中を見送りながら、内心でげんなりしていた。
(うわ……そう取るのか……)
一拍。
(それだったら、あいつがいくら説明しても無駄か……)
むぎはろこから離れる。
「殺すなら今のタイミングで殺してますって」
あっけらかんとした声。
だがろこは、まだ警戒したままだった。
目が完全に泳いでいる。
むぎはそれを見ると、小さく肩をすくめる。
「交渉決裂ですかね」
そう言って離れようとした。
「ま、待って」
ろこが反射的に声を出す。
だが、その先が続かない。
何を言えばいいのか、自分でも分かっていなかった。
恐怖。
困惑。
哀れみ。
いろんな感情がぐちゃぐちゃに混ざった顔だった。
むぎはその表情を見て、逆に少し意外そうな顔をする。
「もしかして、ろこさん……」
一拍。
「こういうことしてる子……初めて?」
ろこは答えられない。
ただ視線を逸らす。
むぎはそれを見て、少しだけ苦笑した。
「日本はともかく……」
風が吹く。
むぎの髪が揺れた。
「治安悪い国行けば、普通にいるけど……」
人通りの多い通りを、むぎは黙って歩いていた。
その数歩後ろを、ろこがついてくる。
微妙な距離感。
むぎは前を向いたまま、ぼんやり考えていた。
(あいつら、街中で言いふらすとか良い神経してるわ……)
通り過ぎる人影。
信号待ちの学生達。
誰もこちらを気にしていない。
(知らない顔ばっかだったな……)
一拍。
(なんか若そうだし、下の世代にもああいう奴らいるのか……)
少しだけ面倒そうに息を吐く。
そして、後ろをちらりと見る。
ろこはまだついてきていた。
どこか気まずそうに。
(てか、怖いならついてこなけりゃ良いのに……)
むぎは内心そう思いながらも、特に何も言わない。
しばらく無言が続く。
やがてむぎが、何気ない調子で口を開いた。
「大スクープじゃん」
ろこが顔を上げる。
「え?」
「カメラ回せば?」
むぎは振り返らないまま言った。
「“女子高生殺し屋の真実!”とか」
「そんなこと……」
ろこは反射的に否定しかける。
だが、その先の言葉が続かない。
喉に何か引っかかったみたいに、声が止まる。
むぎは黙ったまま歩き続ける。
ろこは視線を落とした。
「……あの子達が……そう言ってただけ……」
小さい声。
「家長さんが……悪ノリしただけ……」
言葉を押し出すように続ける。
「中高生のごっこ遊びに……乗るほど……」
少し間。
「私……子供じゃ……ない……」
むぎはその言葉を聞きながら、前を向いたまま小さく思った。
(まあ……そりゃそう)
風が、二人の間を静かに吹き抜けていく。
人通りの少ない駅前の休憩所で、ろこは紙コップのコーヒーを持ったまま、テーブルへ突っ伏していた。
頭の中では、さっきのむぎの言葉が何度も反響している。
『私と一緒に来るなら、夕方4時に来てください』
『来ないなら後はご自由に』
「……はぁ……」
何も整理できない。
暴力団。
警察から信頼される探偵。
女子高生の殺し屋。
全部、現実感が薄い。
ろこは顔を伏せたまま、ぼんやりとコーヒーを見つめる。
その時。
肩を、とんと叩かれた。
「……っ」
ろこが顔を上げる。
そこに立っていたのは、さっきの新東京ポートの制服姿の少女達だった。
ろこは思わず身構える。
少女達は周囲を確認するように視線を巡らせ、他に誰もいないことを確かめる。
そして、そのうちの一人が小さく頭を下げた。
「私……吾妻って言います」
緊張した声。
ろこは戸惑いながら頷く。
「え、あ……はい」
吾妻はさらに一歩前へ出た。
「私たち、鏑木さんの力になりたくて来たんです!」
ろこが目を瞬かせる。
吾妻の目は真剣だった。
「私たちも本当は……あの、家長むぎと同じで……」
そこで一瞬、言葉が詰まる。
だが彼女は、唇を噛みながら続けた。
「でも、もうこんな生活嫌なんです!」
別の少女も、勢い込むように口を開く。
「鏑木さんは、私たちのヒーローなんです!」
「は……?」
ろこは完全に困惑していた。
だが少女達は止まらない。
「私たちも、鏑木さんみたいに人を殺さなくても、悪人から人を守れる人になりたい……!」
「だから、お願いします……!」
口々に語るその声は、どこか必死だった。
ろこはコーヒーを握ったまま、何も言えない。
彼女達の目は、本気だった。
「いや……ごめん、ちょっとまだ……飲み込めてなくて……」
視線が泳ぐ。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
「じゃあ、なんで……そんな殺し屋なんてやめれば……」
そこまで言いかけて、ろこはふと口を閉じる。
――“もうこんな生活嫌なんです”。
さっきの少女の声が、頭の中で蘇った。
(この子達……)
ろこの喉が詰まる。
(無理やり戦わされてるの……?)
その瞬間。
むぎの顔が脳裏に浮かぶ。だが今は、それが別の意味に見え始めていた。
(もしかして、家長さんも……)
無理やり。
そうなるよう育てられたのだとしたら。
ろこはゆっくり俯く。
自分は今まで、“弱い立場の人間を救っている”つもりだった。
権力者に潰される人。
声を上げられない人。
社会の裏側で踏みつけられる人。
そういう人達を助けているつもりだった。
けれど。
(私……)
胸の奥が重くなる。
(逆に、一方的に居場所を奪ってたの……?)
もし彼女達が、自分達なりの生き方を必死に続けていたのだとしたら。
もし、“普通”へ戻れない事情があったのだとしたら。
ろこが暴こうとしていたものは、彼女達の最後の居場所だったのではないか。
そんな考えが、頭を離れなくなる。
少女達は不安そうにろこを見ていた。
だが、ろこはすぐに言葉を返せなかった。
夕方。
空は焼けるような赤色に染まり、透明な高層ビル群へ反射していた。
待ち合わせ場所の噴水広場には、人影がまばらに行き交っている。
ろこは、その片隅に一人で立っていた。
スマホ画面を見つめたまま。
『どこまで知ってるんですか』
『家長むぎさんのこと』
サンゴへ送ったメッセージ。
既読はつかない。
画面は静かなままだ。
ろこは小さく息を吐く。
だが、その沈黙は妙に重かった。
まるで、自分自身へ問いかけられているみたいだった。
――お前は、どこまで知っているのか。
――何を見て、何を正義だと思ってきたのか。
答えはまだ出ない。
ろこはスマホを下ろし、ぼんやり顔を上げた。
その時。
ガラスの案内板の向こう側に、人影が立っていることに気づく。
家長むぎ。
夕焼けを背に、静かにこちらへ歩いてくる。
風が吹き、長い髪が揺れた。
だが、その表情は冷たい。
昼間の柔らかい雰囲気とは違う。
ろこは思わず目を見開く。
「家長さん……」
喉が乾く。
「もしかして、無理やり戦わされて……」
むぎは足を止めない。
静かに近づきながら、あっさり答えた。
「そうですよ」
あまりにも自然な肯定だった。
ろこは言葉を失う。
むぎはそのまま続ける。
「私だけじゃないですよ」
赤い空が、ガラス越しに揺れる。
「好きで戦ってる人間なんて、殺人快楽者くらいしかいません」
その声には感情が薄かった。
諦めとも違う。
もっと“当然の事実”を話すような口調。
だが次の瞬間。
むぎはふっと微笑む。
冷たい笑みだった。
「まあ……嫌な気持ちにはなりませんよ」
ろこの背筋がぞくりとする。
「そういう風に改造されているので」
むぎは夕焼けの噴水広場で、静かにろこへ背を向けた。
赤く染まったガラスの高層ビル群が、二人の影を長く引き伸ばしている。
「まあ……良いんじゃないですか」
風が吹く。
むぎの髪がさらりと揺れた。
「あなたはあなたの正義を貫けば」
その声は穏やかだった。
けれど、どこか突き放している。
むぎはそのまま続ける。
「はい。そうですよ。私は殺人快楽者です」
ろこが息を呑む。
「そういう風に頭をいじられてるので、そういうことで良いです」
淡々とした声音。
まるで、自分自身を他人事みたいに説明していた。
「私は……!」
ろこが思わず声を上げる。
その瞬間。
スマホが震えた。
ろこは反射的に画面を見る。
サンゴからの返信。
『僕にあまり頼らない方がいい』
一拍。
『君は君自身の考えで、答えを決めた方がいい』
ろこはその文章を見つめる。
数秒。
だが、すぐにスマホを握り締めた。
もう画面は見ない。
ろこはむぎへ向き直る。
「私は……まだ分からない」
声が震える。
それでも、目だけは逸らさなかった。
「それでも、弱い人達の力になりたい!」
夕焼けの光が、ろこの瞳へ反射する。
「人の自由を阻害する人間を許せない!」
呼吸が荒くなる。
「だから……壊しに行く」
ろこは拳を握った。
「それを邪魔する存在を全て!」
沈黙。
むぎはしばらく、ろこを見つめていた。
それから。
ふっと、明るい顔で笑った。
今度の笑顔は、どこか自然だった。
むぎはゆっくり手を伸ばす。
「ろこさんは昔からずっと、強い人だよ」
ろこが目を見開く。
「昔のことは何も知らないけど、そんな気がする」
夕焼けの風が、二人の間を静かに吹き抜けていった。