深夜。
森に囲まれた白い建物は、夜霧の中でぼんやり浮かんでいた。
窓は少ない。
看板もない。
一見すれば、地方にあるただの古いオフィスビルだった。
だが近づけば分かる。
異様に静かだ。
虫の声すら遠い。
ろこは喉を鳴らしながら、建物の中を歩いていた。
白い壁。
灰色の床。
無機質な蛍光灯。
どこにでもありそうな内装。
けれど、その所々に飾られた派手な絵画が妙に浮いている。
金色の額縁。
抽象画。
高そうな壺。
まるで“金の匂い”だけを無理やり貼り付けたみたいな空間だった。
(怖い怖い怖い怖い……)
ろこは心の中で連呼しながら歩く。
廊下の先。
半開きの一室へ辿り着く。
ろこはゆっくり中を覗いた。
部屋の中には机とソファ。
だがそれ以外は驚くほど何もない。
広い空間だけが妙に空虚だった。
「……」
ろこは慎重に足を踏み入れる。
周囲を見回す。
机へ近づこうとした、その瞬間。
――ガッ。
「っ!?」
突然、背後から口を塞がれた。
同時に、冷たい金属が首筋へ押し当てられる。
銃。
ろこの全身が凍りつく。
背後の男は無言だった。
黒服。
息だけが荒い。
男は片手でろこを拘束したまま、ポケットや脇、腰回りを素早く探る。
機材。
盗聴器。
カメラ。
だが、何も出てこない。
男は一瞬動きを止めた。
そして、小声で呟く。
「……配信してないのか……」
ろこは恐怖で声も出ない。
男は銃を押し当てたまま、ろこの背を押した。
ろこは震える足で、廊下へ連れ出されていく。
白い蛍光灯の光だけが、長い廊下を静かに照らしていた。
地下へ続く階段は、異様に長く感じた。
ろこは銃を突きつけられたまま、震える足で一段ずつ降りていく。
湿った空気。
古いコンクリートの匂い。
どこか遠くで、水滴の落ちる音。
(やばい……やばいってこれ……)
頭の中で警報が鳴り続ける。
男は一言も喋らない。
ただ無言で背中を押し、地下の奥へ進ませる。
やがて。
重い鉄扉の前で立ち止まった。
男が鍵束を取り出す。
金属音。
ガチャ、という嫌な音と共に扉が開く。
ろこは思わず息を呑んだ。
中は薄暗い。
コンクリートの部屋。
中央には、血のついたパイプ椅子。
壁際には、鉄格子で区切られた区画。
さらに奥には、分厚い鉄扉がもう一枚。
「……っ」
ろこの胃がひっくり返りそうになる。
(なにここ……)
頭が真っ白になる。
(え、待って、待って待って待って……)
身体が震える。
足が動かない。
叫びたかった。
でも声が出ない。
男は何も言わない。
押し込むでもなく、命令するでもなく、ただ後ろに立っている。
ろこはその沈黙が逆に怖かった。
何が起きるのか分からない。
何をされるのかも分からない。
時間感覚がおかしくなる。
心臓だけが暴れるように鳴っていた。
――その時。
ふと、違和感。
ろこは無意識に、恐る恐る振り返る。
そして。
「……え」
男が倒れていた。
首から血を流し、白い床を赤く染めている。
その横。
家長むぎが立っていた。
静かに。
まるで、そこにいるのが当然みたいに。
むぎは周囲を見回しながら、小さく呟く。
「本当にあったわ……」
一拍。
「あの子が欲しがってたのってここのことかぁ……」
ろこの全身から、一気に力が抜けた。
「あ……」
助かった。
そう思った瞬間、逆に身体が壊れたみたいに震え始める。
呼吸がうまくできない。
「っ、は……っ、は……!」
過呼吸。
涙が滲む。
何が怖いのか、自分でも分からなかった。
死ぬと思った恐怖。
助かった安堵。
そして――
ろこの視線が、むぎの手元へ落ちる。
血がべったり付着したナイフ。
「……っ」
ぞわり、と背筋が粟立った。
むぎは、過呼吸気味のろこを静かに見下ろした。
血のついたナイフを片手に持ったまま。
「……始めるよ」
ろこは肩を震わせながら顔を上げる。
むぎは無表情のまま答える。
「……お仕事」
一拍。
「お互いのね」
そう言って、むぎはろこのスマホを差し出した。
ろこは「あっ……ああ……」と、今になってようやく自分の役割を思い出したような顔になる。
震える手でスマホを受け取る。
その瞬間。
気づけば、むぎの姿はもうなかった。
「……え?」
ろこは反射的に周囲を見回す。
だが、地下室には静寂しか残っていない。
血。
鉄格子。
重い扉。
そして、倒れた男。
「っ……」
吐き気が込み上げる。
ろこは唇を噛み、震える手でスマホを構えた。
カシャ。
フラッシュが白い壁を照らす。
また一枚。
また一枚。
見るだけで頭がおかしくなりそうな光景。
床に染み付いた血痕。
壁の傷。
拘束具。
ろこは必死にシャッターを切る。
鉄格子へ近づく。
だが錠は閉まっていた。
「……さすがにここは無理か……」
小さく呟く。
だが振り返るだけで、室内の悍ましい様子が視界へ飛び込んでくる。
「っ……」
胃が軋む。
それでも、ろこはスマホを下ろさなかった。
辛そうに顔を歪めながら、震える声で言う。
「こんなの……」
喉が詰まる。
「ここで何人もの人を傷つけてたんなら……」
スマホを握る手に力が入る。
「許せない……!」
ろこは吐き気を堪えながら、なおも写真を撮り続けた。
まだ空も白み始めていない時間帯。
藤岡組本部は、不気味なほど静まり返っていた。
広間の奥。
藤岡梶谷はソファへ深く腰掛け、スマホ画面を睨みつけている。
「あのジジイ……」
低い舌打ち。
「何も音沙汰ねえじゃねえか……」
皺だらけの指でスマホを叩く。
「やっぱりボケちまったか……」
吐き捨てるように言うと、藤岡は重そうに立ち上がる。
羽織を掴み、そのまま外へ向かおうとした。
――その時。
スマホが震える。
藤岡は足を止めた。
画面を見る。
そして、わずかに眉をひそめる。
「……なんだお前か……」
期待していた相手ではない。
だが、普段から信頼している子分からの着信だった。
藤岡は通話へ出る。
「どうした」
しかし。
『親父……』
受話器の向こうの声が、妙だった。
震えている。
『こりゃあ……』
一拍。
『地獄ですぜ……』
藤岡の表情が変わる。
「……何?」
受話器の向こうでは、ざわつく音。
誰かの呻き声。
遠くで怒鳴る声。
そして、息を呑むような沈黙。
「どうした!」
藤岡が怒鳴る。
「何があった!」
だが返事がない。
代わりに、荒い呼吸音だけが聞こえる。
藤岡は舌打ちすると、そのまま玄関へ向かおうとした。
だが。
『親父……』
再び、子分の声。
今度は、ひどく弱々しい。
『今は来ないでください……』
震えていた。
事務所裏口。
湿った夜風の中、青焼は短くなった煙草を地面へ落とし、靴底で踏み潰した。
苛立ちを落ち着かせるための一本だった。
吐き捨てながら、裏口の扉を開ける。
そして。
青焼の足が止まった。
「――……は?」
床一面に広がる血。
倒れた黒服達。
壁へ飛び散った赤黒い染み。
事務所だった場所は、もはや惨劇の跡地だった。
静かすぎる。
誰も喋らない。
誰も動かない。
青焼は言葉を失ったまま、一歩後ずさる。
その先。
廊下の奥に、むぎが立っていた。
白い服へ血飛沫が点々と付着している。
その手には銃。
冷酷なほど無表情だった。
青焼は反射的に腰へ手を伸ばしかける。
だが、間に合わない。
むぎは何も言わない。
ただ静かに、銃口を向ける。
――パン。
乾いた銃声。
青焼の頭が揺れ、そのまま崩れ落ちた。
即死だった。血がゆっくり床へ広がっていく。
再び静寂。
裏口近くの物陰から、スーツ姿の大男が見ていた。
「…………」
スマホを握ったまま、完全に言葉を失っている。
むぎはゆっくり視線を向けた。
大男の肩がぴくりと震える。
「……おじさんも遊ぶ?」
無邪気みたいな声だった。
だが、大男の額には冷や汗が浮かんでいる。
「いや……結構……」
苦笑い。
本気で断っていた。
むぎは「ふぅん……」とだけ返す。
特に残念そうでもない。
そのまま銃を下ろし、何事もなかったみたいに外へ歩いていった。
夜明け前。
東の空がわずかに白み始めた頃。
藤岡梶谷は人気のない路地裏で、一人スマホを握っていた。
額には脂汗。
呼吸も浅い。
組との連絡は途絶えたまま、現場へ向かった人間も戻らない。
その時。
スマホが震えた。
藤岡は反射的に画面を見る。
そして即座に通話へ出た。
「ジジイ! どうなってやがる……!」
焦りを隠せない声だった。
だが。
受話器の向こうから聞こえてきたのは、低く加工された声。
『言っておくが』
感情の薄い声音。
『僕はまともに反社会勢力とは取引しない』
藤岡の表情が強張る。
『僕を出し抜こうとするのは勝手だが』
一拍。
『それ相応のケジメはつけてもらう』
沈黙。
藤岡はしばらく何も言わなかった。
ただ、夜明け前の空をぼんやり見上げている。
やがて。
深く、長いため息。
「……わかったよ」
力の抜けた声だった。
「ご苦労だったな」
そのまま通話を切る。
スマホが手から滑り落ちそうになる。
藤岡は壁へ背中を預けるようにして、その場へ崩れ落ちた。
遠くで鳥が鳴き始める。
夜が終わろうとしていた。
窓の外では風が木々を揺らしていた。
北小路ヒスイの部屋だけが、まだ明かりを灯している。
サンゴは椅子へ腰掛けたまま、静かにスマホを下ろした。
先ほどの通話は終わっている。
「……」
眼鏡の奥の瞳は冷たい。
普段の飄々とした空気はどこにもない。
スマホ画面を見つめる横顔には、妙な静けさがあった。
「君のしようとしてることなんて……」
ぽつり。
「手に取るように分かる」
その声音は低い。
ヒスイはベッドの上で胡坐をかきながら、その姿を見ていた。
藤岡は、表向きは天下無双に地下の探索を頼みつつも、部下に鏑木ろこや天下無双の護衛をさせて、その情報を二人よりも早く得るつもりだった。
早く情報を得れば、その情報を天下無双から買い取る必要もない。
地下の秘密さえ解れば、それで伊馬輪組の暴走を食い止め、さらに組そのものを十分に揺さぶることができる。
古いやり方だが、間違ってはいない。ヒスイは改めてサンゴを見る。
冷酷な顔、感情の見えない瞳。
(でも実際には……)
喉が鳴る。
(こいつ自身がわざと監視されやすい環境下で仕事をして、藤岡組を巻き込みつつ、伊馬輪組を間接的に滅ぼした……)
それは偶然じゃない。少なくとも、ヒスイにはそう見えなかった。
(サンゴ……)
ヒスイの表情が引きつる。
(こいつ……)
(こんなんだったか……!?)
本気で驚いていた。
サンゴはそんな視線に気づいていないのか、気づいていて無視しているのか。
静かにスマホを机へ置く。
そして。
「……どうしたの?」
いつもの調子で首を傾げた。