夜が終わる。東の空がゆっくりと白み始めていた。
伊馬輪組の施設から少し離れた場所で、ろこは壁にもたれかかるように座り込んでいた。
スマホは握ったまま。
写真は撮った。証拠もある。
取材としては大成功なのかもしれない。
だが
「……」
何も考えられない。
落ち着いた途端、目頭だけが熱くなった。頭の中では、あの地下室が何度も再生される。
血に鉄格子。
そして。
血まみれのナイフを持った少女の事。
ろこはぼんやりと朝焼けを見上げた。しばらくして足音が近づいてくる。
ろこが顔を上げると、むぎがいた。
「お疲れ様」
そう言って、むぎはしゃがみ込む。
朝日が差し込む。柔らかな光がむぎの横顔を照らしていた。
その姿は、先程まで人を刺していた少女には見えない。
細い肩に小柄な身体。どちらかと言えば、守られる側に見える。その姿は、戦うにはあまりにも華奢だった。
ろこはその姿を見つめ、何も言えない。
ふと昔のことを思い出した。
学生だった頃、夜更かしをしていた日々。明日が来ることを疑ったことなんてなかった。
今日を終わらせたくなくて。
もっと遊びたくて。
だから夜更かしをしていた。
けれど目の前の少女には、明日が来る保証なんて、どこにもない。
ろこの胸が痛んだ。
引きつったような顔になる。
自分はこれまで小市民を守るために、権力者へ噛み付いてきた。
上級国民。
政治家。
企業。
そういうものを敵だと思っていた。
それは間違いじゃない。今でもそう思う。
だが世の中には、もっと弱い立場で、もっと強く縛られている人達がいる。
そして、その中には目の前の少女のような子供もいる。
ろこはゆっくり目を閉じた。
疲労。
恐怖。
混乱。
それらがまだ胸の中に残っている。
それでも。
(……たまには)
小さく息を吐く。
(こんなことをするのも、悪くないか)
そう思った。むぎはそんなろこの顔を見て、不思議そうに首を傾げる。
「どうしたんです?」
ろこは少しだけ笑った。
「いや……なんでもない」
朝日が昇る。長かった夜が、ようやく終わろうとしていた。
「……眠い」
翌日の昼。
サンゴの家の防音室は、相変わらず機械だらけだった。
外の音はほとんど聞こえない。ろこはソファへ沈み込むように座りながら、眠そうに目を擦っていた。
声に覇気がない。サンゴはそんなろこからスマホを受け取る。
「どれどれ」
画面を開き、写真を確認する。
一枚。また一枚。さらに一枚。
サンゴの表情は徐々に真面目になっていく。
十分ほど経った後、彼女はようやくスマホを机へ置いた。
「ありがとう」
一息。
「十分な働きだったよ」
そう言ってスマホをパソコンへ接続し、写真データが次々と転送されていく。
ろこはぼんやりそれを眺めていた。
転送が終わる。
サンゴは確認を終えると、何事もないように元の写真を削除した。
ろこはソファへ頭を預ける。 その姿は完全に疲れ切っているように見える。
「……それはどうも」
しばらく天井を見つめていたが、不意に呟いた。
「……るりのことなんか信頼するんじゃなかったわ」
サンゴは思わず苦笑する。
「でもそのおかげで、たくさんの子供達が助けられたじゃないか」
パソコン画面を見ながら続け、
「君は知らないかもしれないけど……」
少しだけ優しい声になる。
「君があまりよく思わない場所でも、君に感謝してる人は多いはずだよ」
ろこは黙って聞いていた。
「栞葉さんも、そう思って僕に紹介したんじゃないかい?」
「いや、絶対違う」
そう断言し、ろこは身体の力を抜きながら続ける。
「あいつ……中学の頃から規律とか風紀とか馬鹿真面目なくせに」
「なんだか時々頓珍漢なことするんだよね」
サンゴは興味深そうに聞いている。ろこは遠い目をした。
「何年か前だって……」
「せっかく特ダネだと思ってお偉いさんの頼み聞いたら、結局古くさい廃ビルでるりの記事書かされてるし」
サンゴの手が止まった。
「……え?」
ろこは眠そうな顔のまま続ける。
「なんだったんだろあれ」
「ちょっと待って」
サンゴが身を乗り出す。
「え?」
「君だったの!?」
今度は本気で驚いていた。
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夜が更けた世怜音女学院。
廊下には最低限の照明しか点いておらず、白い蛍光灯の光が冷たく床へ落ちていた。
風の音もない、虫の声もない。
聞こえるのは、自分の足音だけ。
りこは、寮へ向かって廊下を歩いていた。
「疲れた〜……」
小声でぼやく。
「丸二日も動かされたの酷すぎ〜……」
数日前の真面目な態度は完全に消えている。
「私もアイス食べたかった〜……」
この間、むぎとナナが購買でだらけていた光景を思い出しながら、りこはげんなりした顔で歩き続けた。
東校舎の夜は、妙に怖い。
誰も騒がない。誰も笑わない。
ただ長い廊下だけが、どこまでも続いている。
その時だった。
――コツ。
遠くから、別の足音が聞こえた。
りこの足が止まる。
規則的で、静かな音だが妙に重い。
誰かがこちらへ歩いてきている。
廊下の向こう側。暗闇の中から、ゆっくりと人影が現れる。
蛍光灯の白い明かりが、少しずつその姿を照らしていった。
りこの顔色が、一瞬で青ざめる。
「東堂コハク……!」
思わず小声で呟き、反射的に近くの物陰へ身を滑り込ませる。
息を殺しながら、壁越しにそっと様子を窺った。
「なんでこんなところに……!?」
コハクは静かに廊下を歩いている。
足音は小さいのに、不思議と存在感だけが異常――まるで、人ではなく“現象”が歩いているみたいだった。
りこは物陰から、まじまじとその背中を見る。
細い身体。華奢な肩。
なのに、東校舎の誰よりも恐れられ、そして崇められている。
コハクは特に周囲を警戒する様子もなく、そのまま静かに廊下の奥へ歩いていった。
だが、りこはすぐに出ていけなかった。
背中に冷たい汗が流れている。
琥珀色の髪。
深海みたいに冷たい瞳。
感情の読めない顔。
世怜音女学院では、その名前は半ば怪談のように扱われていた。
“鬼”。
そう呼ばれる理由を、彼女は訓練場で何度も見ていた。