FILE3-1:ディーラー鏑木
東堂家の屋敷には、再び静かな時間が戻っていた。
レオンが帰ってから、しばらく経った頃。
広い庭には午後の穏やかな陽射しが降り注ぎ、丁寧に刈り揃えられた植木の影が、白い石畳へくっきりと落ちている。
屋敷の中もまた、ひどく静かだった。
長い廊下。
磨き上げられた床。
壁に等間隔で掛けられた絵画。
聞こえるのは、古い柱時計が時を刻む音だけ。
セツカは先ほどと変わらず、自室にいた。
大型のモニターを前に、頬杖をつきながら画面を眺めている。
そんな時だった。
――ピンポーン。
屋敷の静寂を破るように、玄関のチャイムが鳴った。
執事が顔を上げる。
「……?」
来客の予定など、聞いていない。
あの彼が何か忘れ物でもしたのだろうか。
執事は手にしていたものを静かに置くと、玄関ホールへ向かった。
重厚な扉を抜け、そのまま庭へ。
門までは少し距離がある。
石畳の道を歩きながら、執事は門の向こうへ目を凝らした。
人影がある。
細身の身体。長い髪。
門扉越しでは、まだ顔まではよく見えない。
「お待たせいたしました」
執事はいつもの落ち着いた声音でそう告げながら、門へ近づいていく。
「どちら様で――」
言葉が途中で止まった。
門の向こうに立つ少女の顔が、はっきりと見えたからだった。
執事の足が止まる。
「…………」
目を見開く。
普段なら、どのような来客を前にしても決して崩れることのない老執事の表情が、明確に揺らいだ。
見間違えるはずがない。
その顔を。
その姿を。
そして――その名前を。
執事の唇が、かすかに震えた。
「……コハク……様……?」
一瞬。
本当に目の前にいる人物が現実なのか確かめるように、執事は瞬きすら忘れて立ち尽くす。
そして、もう一度。
今度は隠しきれない驚愕を声に滲ませながら――
「コハク様……!?」
門の向こうには、東堂コハクが立っていた。
旧蘭阜市。
その街の一角を、家長むぎは一人で歩いていた。
細い路地の両側には、赤い提灯や色褪せた漢字看板が並んでいる。
古びた集合住宅。
半分シャッターの閉まった雑貨店。
油と香辛料の匂いを漂わせる小さな食堂。
建物の壁には、銃撃戦の名残なのか、小さな弾痕がいくつも残されていた。
それでも、人は見かけるようになっていた。
店先で煙草を吸う老人。
軒下で談笑する住民。
荷台いっぱいに野菜を積んだ三輪車が、狭い道をゆっくりと通り過ぎていく。
少しずつ。
本当に少しずつではあるが、この街にも日常が戻りつつあった。
むぎは、その光景を横目に見ながら歩いていく。
以前なら、こうして何の警戒もなく路地を歩くことなどできなかった。
地雷や不発弾の撤去も、ある程度は進んでいる。
とはいえ――
路地の脇には、未だに黄色と黒のテープで封鎖された区画がある。
『危険区域』
『立入禁止』
『地雷撤去作業中』
簡素な警告板。
その向こうには、崩れかけた住宅地がそのまま残されている。
「……まだ全部ってわけじゃないんだよね」
むぎは小さく呟く。
そのまま歩き続ける。
今日は、特に大きな目的があってここへ来たわけではなかった。
旧蘭阜市の様子を見ておきたかった。
それだけ。けれど、こうして一人で歩いていると――余計なことまで考えてしまう。
「…………」
ふと。
少し前の出来事が頭をよぎった。
あの時、自分の仕事に割り込んできた、新東京ポートの生徒たち。
最初は、完全に邪魔をされたと思っていた。
滞りなく終わったが、実際、仕事の予定は少しだけ狂った。
そして――
「鏑木さんも……」
ぽつりと名前が出る。
あの場で一緒に事件を追った、鏑木ろこ。
彼女とも、あれ以来会っていない。
連絡もない。
新東京ポートの生徒たちについても同じだった。
結局。
あの後、どうなったのだろう。
「……音沙汰ないな」
むぎは歩きながら、少し眉を寄せた。
別に心配している、というほどでもない。
新東京ポートの生徒たちとは元からギスギスした仲だし、鏑木とも長い付き合いがあるわけではない。
けれど――
あれだけ派手な事件に関わった人間たちが、揃って自分の視界から消えてしまうと、どうにも気になる。
「……まあ、生きてるとは思うけど」
むぎは独り言のように呟いた。
「あの子の後ろだけもあるだろうし……」
そう簡単に大人しくしているとも思えない。
どこかでまた首を突っ込んでいるんじゃないか。
そんなことを心配しながら、路地の角を曲がる。
その瞬間
「……ん?」
むぎの足が止まった。目の前に広がっているのは、これまでと同じ旧蘭阜市の街並み。
古びた漢字看板。
赤い提灯。
雑然と張り巡らされた電線。
その中に――明らかに異質な光があった。
青。
紫。
ピンク。
けばけばしいネオンが、昼間だというのに眩しいほどの光を放っている。
「…………何あれ」
小さな建物、二階建て。
周囲の古い中華風建築に挟まれるように建っているのだが、そこだけ雰囲気が完全に違う。
入口には電飾。
窓は黒く覆われ、中の様子は見えない。その上には、安っぽい金色の装飾。
どう見ても――
「……カジノ?」
むぎは呟いた。
入口脇では、スロットを模したネオンが忙しなく明滅している。
ジャラジャラジャラ――
扉の向こうから、微かに機械音まで聞こえてくる。
むぎはしばらく、その建物を見上げた。
「…………」
そして。
「ここって、うちらの管轄じゃないの……」
旧蘭阜市。
現在はΣが半分は管理している土地だ。怪しい商売など、残っているわけがない。
「違法営業でも、もう少し隠すだろうに……」
それに、あまりにも堂々としている。
これでは、見つけてくださいと言わんばかりだった。
むぎは建物の正面へ回る。
扉の上には、やたら派手な電飾。
「…………」
「こんな場所、鏑木さんがいたら許さないだろうなぁ……」
その姿を想像する。
たぶんカメラ片手に突撃する。
絶対にする。
止めても聞かない。
「……いや、あの人なら普通に入るか」
むぎは小さく息を吐いた。
そのまま通り過ぎようとして――
数歩、歩く。
「…………」
止まった。
少しだけ考える。
振り返る。
相変わらず、けばけばしいネオンが明滅していた。
「……まあ」
気になる。
「見るだけ……」
そう呟いて、入口へ向かう。妙に軽い扉へ手をかける。
ガチャ。
そして何となく。
本当に、ただ何となく。
家長むぎは、その小さなカジノのような施設へ足を踏み入れた。
チリン――
頭上に取り付けられた小さなベルが、妙に可愛らしい音を立てた。
「…………」
むぎは入口で足を止める。
外から見た時には、いかにも怪しげな賭場にしか見えなかった。
派手なネオン。
黒く塞がれた窓。
安っぽい金色の装飾。
だから中も、煙草の煙と人の声でごった返しているものだと思っていたのだが――
「……あれ?」
静かだった。
あまりにも静かだった。
室内には、一応それらしい設備が揃っている。
中央には緑色のクロスが張られたカードテーブル。
壁際には何台ものスロットマシン。
奥にはルーレット台まで置かれている。
天井から吊り下げられた照明は赤や紫の光を落とし、壁には妙にけばけばしい装飾が並んでいた。
間違いなく、見た目だけならカジノだ。
だが。
「……人いないじゃん」
客がいない。
一人も。
ディーラーらしき人間すら見当たらない。
スロットマシンだけが無人のままデモ画面を繰り返し、電子音を鳴らしている。
ピロリン。
ジャラジャラ――
軽快な音だけが、がらんとした店内に虚しく響いた。
「…………」
むぎは不思議そうに辺りを見回す。
右。
左。
もう一度、右。
「営業してんの……?」
入口には営業中らしき表示が出ていた。
鍵だって開いていた。
それなのに、この有様。
むぎは少しだけ奥へ進んだ。
テーブルを覗き込む。
カードは綺麗に揃えられている。
椅子も並んでいる。
別に長期間放置されていたわけでもなさそうだった。
「何これ……」
ますます分からない。
違法営業らしき店を見つけたと思って入ってみれば、誰もいない。
もしかすると、まだ営業時間前なのだろうか。
それとも――
「……店員すらいないって何?」
きょろきょろ。
もう一度、店内を見渡す。
その時だった。
奥にある扉が開いた。
「ん?」
むぎがそちらを見る。
出てきたのは、一人の少女だった。
新東京ポートの制服。
「…………」
見覚えがある。先日の一件。
自分の仕事に割り込んできた、新東京ポートの生徒たち。
その中にいた一人だ。
(……こいつ)
名前までは知らない。直接まともに話した記憶もほとんどない。
だが、顔は覚えている。
むぎが何か言おうとした、その直前。
向こうもこちらを見た。
「…………」
「…………」
一瞬。
目が合った。
少女の表情が固まる。
「あっ……」
小さな声。明らかに、知っている相手を見つけた時の反応だった。
むぎが眉を上げる。
「……?」
何も言わない。
ほんの数秒、むぎの顔を見つめていたかと思えば――そのまま身体を後ろへ引いた。
「……え?」
そして無言で奥の扉へ戻っていく。
パタン。
扉が閉じた。
「…………」
むぎはその場に取り残された。
スロットマシンから、場違いに明るい電子音が鳴る。
ピロリロリン♪
「…………」
むぎは閉ざされた扉を見る。
それから、誰もいない店内を見る。
もう一度、扉を見る。
むぎは、消えていった扉をじっと見つめていた。
「…………」
何だったんだ、今の。
命令でこの店を摘発にでも来たのだろうか。それにしては、あまりにも無警戒すぎる。
追いかけるべきか。
そんなことを考えていると――
扉の向こうから、声が聞こえてきた。
『ちょっ……待って、待ってください……!』
先ほどの少女の声だった。
かなり切羽詰まっている。
『家長むぎです……!』
何やら必死に説明しているらしい。
『だから、早く……! 私じゃ無理ですって……!』
「…………?」
むぎの眉間に皺が寄る。
何をそんなに慌てているのか。確かに怖がらせたりはしたが、同じ飼い主の猟犬なのだから、そこまで引かれると流石に仕事柄やりづらい。
むぎが困惑したまま扉を見つめていると――
『いいから! 鏑木さんが行ってください!』
『えっ、ちょっ、なんで私!?』
聞き覚えのある声。
むぎの目が僅かに見開かれた。
「……ん?」
今の声――――まさか。
扉の向こうで、しばらく小声の押し問答が続く。
『いやいやいや、ちょっと待って! 心の準備ってもんが――』
ガチャ。
突然、扉が開いた。
「…………」
そこから、一人の女性が出てくる。
むぎは瞬きをした。
見間違えるはずもない。
ついさっきまで、どうしているのかと思い出していた人物。
先日の事件で一緒に動いた――鏑木ろこ。
そして本人も店内に立っているむぎの顔を見た瞬間。
「あっ……」
固まった。
「…………」
「…………」
二人の間に、奇妙な沈黙が落ちる。
むぎはただ鏑木を見る。
鏑木もむぎを見る。
背後では無人のスロットマシンが、陽気な電子音を鳴らしている。
ピロリロリン♪
「…………」
「…………」
何故か気まずそうなのは、鏑木の方だった。
むぎには、その理由が全く分からない。
そもそも、どうして鏑木がこんなところにいるのか。
先ほどの新東京ポートの生徒は何なのか。
この店は何なのか。
聞きたいことが一気に増えた。
「鏑木さ――」
むぎが口を開きかける。
その瞬間。
鏑木が動いた。
「……!」
ごそごそと懐へ手を入れる。
取り出したのは――サングラス。
「…………?」
むぎの目の前で、鏑木はそれを装着した。
すっ。
そして。
ほんの少しだけ顎を上げる。
「や……」
一瞬、声が裏返りそうになる。
咳払い。
「……やぁキティ」
「…………」
「カジノロコモーションへようこそ……」
妙に低い声だった。
明らかに無理をしている。
先ほどまで固まっていた人間とは思えないほど、精一杯の余裕を作っている。
むぎは無言。
鏑木はサングラス越しに視線を逸らさない。
「…………」
「…………」
数秒。
耐えきれなくなったのか、鏑木が続ける。
「このディーラー鏑木に、なんでも相談……」
「……え?」
むぎの口から、素の声が漏れた。
完全に意味が分からない。何を言っているんだ、この人。