蘭阜市再開発計画   作:えいどら

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FILE1
FILE1-1:サクヤの記憶


 鏡の前には、制服姿の少女が立っていた。

 

 肩のあたりまで伸びた髪を、器用な指先で一束ずつすくい上げていく。

 その動きは慣れたもので、何も考えずとも指が自然と動く。三つ編みは左肩に寄せるように編まれ、最後は小さなゴムでまとめられた。

 

 鏡の奥で、彼女の眼差しが一瞬だけ揺れる。

 それでも、表情には出さない。

 整った制服の襟元に手を添えて軽く整えると、後ろ姿をくるりと確認するように回る。

 

 小さな溜息を、ひとつ。

 

 そして。

 

「……よし」

 

 呟きは低く、小さく、決意というより確認のようだった。

 

 少女は洗面台を離れ、静かに扉を開ける。

 その動作に迷いはない。

 三つ編みが、肩で揺れながら、その背中に寄り添っていた。

 

 朝の光に包まれる碧星院高校のゲートを、少女は真剣な表情でくぐった。

 

 その髪は左肩に編まれた三つ編み、制服はピシッと整えられ、姿勢もどこか張り詰めている。足取りには迷いがない。

 

 校舎の自動扉が静かに開き、冷たい空気が軽くスカートを揺らす。

 白と紺を基調とした廊下。

 静寂に包まれた中を、彼女は一直線に歩く。

 

 靴音だけが規則正しく響き、やがて廊下の最奥にある扉の前で止まる。

 

「失礼します」

 

 控えめなノック。

 間を置かず、中から返答が返る。

 

 静かにドアを開け、中に入ると、そこには椅子に腰掛けて書類に目を通している叶がいた。

 

 涼しげな目元、整った髪、そしてどこか軽妙な空気感を纏いながらも、座っている姿には権限者らしい重みがある。

 だが少女は怯むことなく、その前に立ち、静かに一枚の書類を差し出した。

 

「……こちらを、提出させていただきます」

 

 叶は手元の書類を置き、それを受け取る。

 

 ぱらり、とページがめくられる音だけが部屋に響く。

 少女は背筋を伸ばしたまま、真面目な顔でじっと待つ。

 

 叶は最初、静かに目を走らせていた。

 だが数ページ読み進めたあたりで、不意にその眉がわずかに動く。

 

 口元が、ぷるり、と震えた。

 

「……くっ」

 

 明らかにツボに入ったようで、肩が微かに震える。

 そしてついに——

 

「……ぷっ……あははっ……! な、なにこれ、ウソでしょ……!?」

 

 堪えきれず、吹き出してしまう。

 

 叶はしばらく笑い転げたのち、喉を整え、咳払いをひとつ。

 

 すっと姿勢を戻し、真顔で言い放つ。

 

「……却下で」

 

「……」

 

 その瞬間、少女は静かに眼鏡を外し、そして——

 

「うぅ……」

「ううぅ……」

 

 演技がかったように、スローモーションで崩れ落ちる。

 両手をつき、床に突っ伏す。

 

「やだあああああああああ!!!」

 

 叶は書類をめくる手を止め、じっとその一枚に目を落とした。

 

「……なんだよ、これ……」

 

 視線の先には、鮮やかなピンクの色彩、丸っこい手足、やたら目がキラキラしている二頭身のキャラクター。

 名前の欄には、太字で——

 

『にぎにぎにじたうん』

 

 叶は無言のまま、目を閉じた。

 そして、もう一度その名を脳内で読み直す。

 

(……にぎにぎにじたうん……!?)

 

「……流石に可愛すぎだろ……」

「しかも……これ、耳……ウサギ? いや、これ耳なのか……?」

 

 内心で半ば呆れつつも、どこか笑いをこらえながら、再び書類に目を通す。

 

 そのとき——

 

「い……いや!」

 

 サンゴが眼鏡を拾い上げ、パチンと正しい位置に戻しながら声を上げた。

 表情はいつもの調子に戻り、語気も勢いを取り戻している。

 

「や、やっぱり……七次元審査会の一件もありますし!!世間的に!!親しみを持ってもらうためには! まず!こういうところからかなと!」

 

「……こういう“ところ”?」

 

 叶が書類とサンゴを交互に見ながら眉を上げると、サンゴはまるで既成事実を押し通すかのように頷いた。

 

「ほら!刑務所だってそういうのある時代ですよ!?」

「キャラクターでマスコット化して! イメージアップを図って! 世間に安心感を与えるっていう!」

 

「……あー……旭川刑務所のことかな?」

 

 叶は微妙な顔で応じつつ、再び書類に目を落とす。

 手を振る謎の生き物。

 

「……にしてもだよ」

「これのどこをどう見たらΣのキャラクターに見えるんだ……」

 

「……こっちが泣きたいわ」

 ぼそりと呟いた叶の一言が、妙に教室に響いた。

 

 サンゴは「うぐぐ……」と唇を噛みながら書類を回収するも、名残惜しそうに「にじたうん」のイラストを指でなぞっていた。

 

 叶は、静かに一呼吸置いた。

 

「しかし……二十面相の天才中学生、周央サンゴももう高校生とはね」

 

 椅子の背にもたれかかり、遠くを見るような目をして微笑む。

 その顔はどこか懐かしさと、ほんの少しの寂しさを含んでいた。

 

「時間の流れは早いもんだ……」

 

 窓の外では、朝の光が静かに校舎の屋根を照らしていた。

 雲の切れ間から差し込む光が、徐々に廊下に伸びていく。

 

「ここ何年かは、3年前ほど忙しいことはないが……」

 

 ぼそりとつぶやくその口調は、どこか警戒の緩んだ穏やかさを含んでいる。

 だが、すぐにその表情がまた引き締まる。

 

「けどやっぱり……一番は、夕陽ルルと森中花咲、あとは新東京ポートの一件が一番か……」

 

 静かな口調でそう告げると、資料をしまいかけていたサンゴが眉を寄せた。

 

「……新東京ポート?」

 

 叶は彼女に視線を向けることなく、窓の外の空に目をやりながら言った。

 

「新東京ポートの“天使”は知ってるか?」

 

 サンゴは書類を不服そうにまとめながら、少しふてくされたような声で答える。

 

「らめ先輩なら、今日は奈良公園で餌付けしてますよ。鹿に……」

 

 叶は思わずふっと笑い、首を横に振った。

 

「いや……もう一人いたんだよ」

 

 そう言って、ようやく彼女の方をまっすぐに見据える。

 

「空星きらめが“殺戮の天使”なら……もう一人は“慈愛の天使”だ」

 

「戦場で“不殺”を貫いた兵士のことだよ」

 

 その言葉に、サンゴの動きが一瞬止まる。

 

 けれど、次の瞬間には冗談めいた笑顔を浮かべながら、ファイルに書類をいそいそと収めていく。

 

「本当にそんな人間がいるなら……」

 

 ファイルの留め具をパチンと閉じる音が、静かに響く。

 

「会ってみたいもんですけどね、僕も」

 

 その声には、本気と冗談が半々に混じっていた。

 

 叶は黙ったまま、ただその言葉の余韻を噛みしめるように、また椅子に深く体を預けた。

 

 外では風が吹き、木々の葉がゆっくりと揺れていた。

 その音だけが、しばらく部屋を満たしていた。

 

 

 

 

 夕暮れの校舎は、すっかり静まり返っていた。

 

 授業もすべて終わり、生徒たちはもうほとんどが帰路につき、時折どこか遠くの部屋から聞こえてくる椅子を引く音や、風に揺れる木の葉の音だけが、空っぽの廊下に残されている。

 

 そんな中、ひとりの少女が、パタパタと静かな足音を立てて歩いていた。

 

 ピンクのボーダーのパジャマ姿。

 

 ——制服じゃない。

 だが、違和感はどこか自然に見える。

 無造作に髪をまとめ、書類を片手に持ちながら、家長むぎは廊下を歩いていた。

 

「早く帰って宿題したい……」

 

 ぼやく声は小さく、溜息混じり。

 眠気を引きずるような気だるさを纏いながらも、その足取りは迷いがない。

 

 表情はぼんやりとしていながらも、歩き方には無駄がなく、どこか機械的な正確さすら感じさせる。

 感情を抑え込んでいるわけではない。ただ、波が小さい。

 

 冷静沈着。

 けれど、どこか“熱”の欠けた様子。

 

 そして、教官準備室の前に立ち、ノックをする。

 

「失礼します」

 

 部屋の中は柔らかな灯りに包まれており、デスクの奥には、穏やかな雰囲気の教師が座っていた。

 眼鏡をかけ、肩の力の抜けた微笑みを浮かべている。

 教官というより“理科室の優しい先生”という空気の人だった。

 

「ああ、家長さん。補習のレポートですね」

 

「はい。化学実験のまとめです。こちらに……」

 

 むぎは書類を差し出しながら、淡々と説明を始めた。

 

「実験手順と考察は指導内容に沿って整理しました。

 最後のページに、自分なりの疑問点と、次回の課題を記しています」

 

 教師はにこにこと頷きながら、それを受け取り、ページを軽くめくって目を通す。

 

「うん……丁寧ですね、さすが。家長さんには、ちょっと物足りない実験でしたかね」

 

 そう言って笑いかけると、むぎもふっと顔を上げ、少しだけ口元を緩めた。

 

「いえ。とても勉強になりました。ありがとうございました」

 

 その返答は、明るく、しかし端正に整った声だった。

 

 笑顔も作られてはいない。

 けれど、嘘のない“きちんとした感謝”がそこにあった。

 

 レポートを受け取った教師は、最後のページまでざっと目を通すと、柔らかく笑って顔を上げた。

 

「本当に、丁寧にまとめてくれてありがとう。家長さんらしいですね」

 

 むぎは軽く会釈を返す。表情に大きな変化はないが、静かな満足の気配がそこにはあった。

 

 教師は書類を机の上に置き、しばし沈黙。

 何か言いたげに、むぎの姿をもう一度見つめた。

 

 ピンクのボーダーのパジャマ。

 整った寝癖。

 冷静で、大人びた立ち居振る舞い。

 

「家長さん、あと……」

 

 ふいに口を開いたが、すぐに言葉に詰まる。

 困ったように、唇の端を引きつらせ、目線を少しだけそらした。

 

「いや……なんでもないです」

 

 苦笑いを浮かべながら、椅子から立ち上がると、準備室の扉を開けてくれる。

 

「応援してますからね」

 

 その言葉とともに、扉がそっと閉まる。

 

 むぎは、なんとなくひっかかりを感じながらも、そのまま廊下を歩き出そうとする。

 

 ——が。

 

「……あ、そうそう」

 

 声に呼び止められて、むぎは扉の前で立ち止まる。

 

 振り返ると、教師が引き出しから何かを取り出していた。

 一通の封筒。やや古びた、手書きの宛名がある白い封筒。

 

「新東京ポート高校の……家長さんの、前の担任の先生から。

 この手紙を、渡すように頼まれてまして」

 

 そう言って差し出される手紙を、むぎは静かに受け取る。

 

 一瞥するだけで、封筒に見覚えのある名前が目に入った。

 

「……佐渡先生から……?」

 

 目を細めながら、ぽつりと呟く。

 

 教師は、むぎの反応を見て少し心配そうに首を傾げる。

 

「ごめんなさい……嫌ですよね、前の学校の話なんて……」

 

 だが、むぎはすぐに首を横に振った。

 

「いや……全然」

 

 そして、手紙を胸元にそっと持ち直すと、目だけで軽く礼をして、再び廊下へ出た。

 

 放課後の校舎。

 夕陽が差し込む廊下にはもう人影もなく、時間だけがゆっくりと流れていた。

 

 むぎは準備室を出ると、廊下の壁際に並んだ椅子のひとつに腰を下ろした。

 手には先ほど受け取った封筒。古びた白い紙の重みが、じわじわと指先に残っている。

 

(……佐渡先生か)

 

 小さく息を吐きながら、封を切る。

 便箋を取り出し、無造作に広げて、目を落とす。

 

 最初の行は、こうだった。

 

「申し訳なかった」

 

 むぎは眉ひとつ動かさず、そのまま読み進める。

 

「碧星院高校で人を撃ち殺す君の話を聞いた。

 冷静沈着で、躊躇いもない。

 それでこそΣの誉であり、新東京ポートにいた頃とは見違えるようだ」

 

「ふーん……」

 

 口元だけでそう呟き、むぎは視線を少しだけ逸らす。

 だが、目はすぐに文字に戻った。

 

「こうしてみると、やはり君という人間にとって、暁星サクヤは邪魔な存在だったのだと改めて思う。

 今の君なら分かると思うが、彼女のそれが許されるのなら、そもそもΣという組織は必要ない。

 はっきり言って、現場の警察や軍隊で十分だ」

 

 その言葉に、むぎはふと瞬きをする。

 

 暁星サクヤ。

 

 頭の片隅に、一瞬だけ記憶の断片がよぎる。

 温かくて、強くて、でもどこか儚げだった、あの目。

 

 読み続ける指が、わずかに止まる。

 

「しかし、そうは思わない者もいる。

 彼女はあまりにも強すぎた。

 いくら邪魔者であっても、存在が大きければ、それは宗教として世界に爪痕を残すのだ」

 

 一呼吸、間を置く。

 

 むぎは便箋を膝の上に置き、天井を見上げる。

 夕陽の光が、白い蛍光灯のラインに交差している。

 

 誰もいない廊下の、その静けさの中で、再び目を落とした。

 

「彼女を神のように崇める者がいる。

 あろうことか、彼女のそれを、腕の良し悪しに限らず“継ごう”としている連中がある。

 ——連中を黙らせてほしい」

 

 むぎは、そこまで読んで、紙から目を離した。

 

 静かだった。

 

 窓の外で風が木を揺らす音だけが、遠くに聞こえる。

 

 何も言わず、何も反応せず、むぎは手紙をそのまま折りたたんだ。

 

 無表情のまま、パジャマの袖で便箋の角を丁寧に揃える。

 

 椅子に座ったまま、膝の上に手を重ねて、目を閉じた。

 

 夕暮れの光が、むぎの足元に長い影を落としていた。

 

 彼女は、静かに便箋を折りたたみながら、読み始めの言葉を思い返す。

 

「申し訳なかった」

 

 その言葉が、ただサクヤが死んだあと、自分がまともに戦えなかったことだけに向けられたものではないのは、なんとなく分かる。

 

 ——きっと、教官は思っていた。

 

 暁星サクヤが戦場であれほど自分勝手に動いていたのは、ルームメイトである自分——家長むぎ——の存在が、どこかで影響していたのではないか。

 

 直接書かれているわけではない。

 けれど、そう感じさせるものが、手紙の行間に確かに滲んでいた。

 

「……」

 

 むぎは立ち上がった。

 便箋を封筒に戻し、手元できちんと揃える。

 

 何も言わず、何も表情を変えず、廊下の奥へ歩き出す。

 

 サクヤが、あれほどまでに「人を殺さない」という姿勢に固執していたのは、

 自分を守ろうとしたからだと。

 

 再教育を受けた後も、戦闘には不慣れで、臆病で、

 どこかで「人を傷つけたくない」と考えていた自分。

 

 その隣で、サクヤはきっとそれを感じ取っていた。

 感じ取った上で、自分の姿勢を、むぎの分まで貫こうとした。

 

 ——それが、彼女をますます戦場で“逸脱”させたのではないか。

 そう、教官は見ていたのだろう。

 

(……ふーん)

 

 声にもならないその思考の途中で、むぎはふっと目を細める。

 

(まあ、なら……)

 

(昔からあたしに冷たかったのも、納得か)

 

 ひとりごとのような、心の中だけの皮肉が、淡く浮かぶ。

 どこか他人事のような距離感で。

 

 廊下の突き当たり、開け放たれた窓から風が吹き込み、

 むぎのパジャマの裾をふわりと揺らした。

 

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